すきなもの

特に脈絡もなく、私の好きなもの、お気に入りを紹介します。
気楽に読んでください。

すきなもの 日付
「センチメンタルな旅・冬の旅」 2001.9.7
「ダビデとゴリアテ」 2001.8.10
映画「JSA」 2001.6.12
レオナルド・ダ・ヴィンチ
「岩窟の聖母」
2001.5.28
映画「薔薇の名前」 2001.5.14
日能研クイズ「解答編」 2001.5.14
カラバッジョ「果物籠」 2001.5.8
日能研のクイズ 2001.3.29
弥次喜多の「粟しるこ」 2001.3.1
ザ・警察官 2001.2.10
喫茶「ソワレ」 2001.2.5
「1999年の夏休み」 2001.2.2
托卵(たくらん) 2001.1.29
インディアンカレー(2) 2001.1.29
インディアンカレー(1) 2001.1.28
ピカソ 「泣く女」 2001.1.27
「瓢亭」の「夕霧そば」 2001.1.27


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「センチメンタルな旅・冬の旅」

「センチメンタルな旅」

「冬の旅」

ともに写真家、荒木経惟(あらきのぶよし)氏の写真集です。

「センチメンタルな旅」は、荒木氏とおつれあいの陽子さんの新婚旅行の風景を写したもの。
そして、「冬の旅」は、陽子さんが病で亡くなられるまでの軌跡を写したもの。
今では、一冊の写真集となっています。

荒木さんは、「アラーキー」の名で有名ですよね。
女性のセクシーな写真を得意とする写真家のイメージがあるのではないでしょうか。

でも。。。。

私は荒木さんの真髄は、その私小説的な表現の中にあると思っています。
荒木さんご本人も次のように語っています。

「写真家としての出発点を愛にし、たまたま私小説からはじまったにすぎないのです。
もっとも私の場合はずっと私小説になると思います。
私小説こそ もっとも写真に近いとおもっているからです。」

「センチメンタルな旅」では、お二人の新婚旅行の風景を、隠すことなく淡々と写しています。
荒木さんの陽子さんへの温かいまなざしと。
無防備とも思える陽子さんの姿の中に、荒木さんへの信頼を強く感じることができます。

そして、何と言っても心を打つのが「冬の旅」です。

愛妻の陽子さんがこの世を去る前後の出来事を。
荒木さんの写真と、文でつづられた写真日記とでもいうべき作品です。

陽子さんの死が避けられないことを知ってから。
荒木さんが、その死を見届ける日々。
季節は。。。冬。。。

短い文と。
モノクロの写真一枚一枚に。
あふれでる想いが、満ち満ちています。

私の拙い文章では、そのあふれでる想いを表現することはできません。
ですから、皆さんには一度ご覧になっていただくほかはないでしょう。

この本を開くたびに、私はいつも涙をこぼしてしまいます。

こんなにもやさしく。
こんなにもあたたかく。
こんなにも強く。
私は人を見送ることができるでしょうか。

世を去る方を見送るのは、私の仕事の中でも最も大切なものの一つです。
自分の実の母親すら、充分に見送ってあげることの出来なかった私に。
本当にこの仕事がつとまるのだろうか。
よく、私は疑問に感じます。
この写真集を見るたびに。
そのことを、自分に問い直すのです。

私にとって、この写真集は。
一番好きな写真集です。

写真は、「真(まこと)」を「写す」と書きます。
「センチメンタルな旅」「冬の旅」は、写真は本当に真実を写し取ることができることを。
痛いほど、悲しいほど、切なく、強く私に教えてくれるのです。

是非一度、ご覧下さい。本当に、お薦めの一冊です。

ひさうちみちお 「ダビデとゴリアテ」

 漫画家ひさうちみちおが描いた短編漫画です。
 実は今、手元にこの漫画が無いので、本当にこの題名であったかは定かではありません。
 でも、とても私の印象に残っている作品でもあるのです。

 元ネタは旧約聖書サムエル記上17章に記されている物語です。有名な話ですから、ご存じの方も多いことでしょう。

 ダビデは紀元前900年前後に活躍したと考えられているイスラエルの王です。
 イスラエルの歴史上、もっとも堅固な王国を築いた人物で、ユダヤ人の理想とする指導者でもあります。
 彼はもともと羊飼いであり、竪琴の演奏に優れた才を持つ少年でした。
 また、美少年であったと聖書には記されています。

 一方ゴリアテは、ペリシテの軍人です。
 ペリシテは、イスラエルがパレスチナに初代王国を築いた頃、一番の強敵だった国です。
 ゴリアテは、聖書によると身の丈は6アンマ半(今でいうと290pらしいのですが、これはちょっと大げさかも)であったとのことです。
 多少の誇張はあるにせよ、大変な巨躯を持つ勇猛果敢な軍人でした。

 ある日、ゴリアテが率いるペリシテの軍隊と、イスラエルの軍隊がにらみ合う事態になります。
 ゴリアテは、自分とイスラエルの代表者の間での一騎打ちを要求します。
 この一騎打ちに負けた方が、勝った方の奴隷になることにしよう、とイスラエル軍を挑発するのです。
 イスラエル軍の兵士はゴリアテの巨大な体躯の前に震え上がります。
 しかし、その時、戦場にいる兄にたまたま荷物を届けにきていた少年ダビデがこの話を耳にします。
 そして、自らこの一騎打ちに名乗り出るのです。

 ダビデは甲冑を着ける訳ではなく、羊飼いの姿のまま、ゴリアテの前に進みでます。
 ゴリアテはその少年ダビデの姿を見て、侮ります。

 羊飼いであるダビデは、羊を獣から守るために、日頃から石投げの術を習得していました。
 ダビデは投石器を用いて石を放ち、油断していたゴリアテの眉間に見事命中させて、ゴリアテを倒すのです。

 ダビデの勇猛果敢ぶり、そして、その聡明さが描かれた物語です。

 しかし、ひさうちさんの描いた漫画は、大筋は聖書の物語のままなのですが、少し異なった解釈をしているように思えます。

 ゴリアテは、自分の前に進み出てきたダビデを見て。
 侮る、というよりも、どちらかというと戸惑っていたかのように見受けられます。
 台詞が少ないので、ひさうちさんの描くゴリアテの心理を正確に把握することはできません。

 彼の戸惑いのゆえに、一瞬の間があいて。
 その間を見逃さなかったダビデに、ゴリアテは殺されてしまうのです。

 ゴリアテの一瞬の間。
 それは、ゴリアテがダビデに好意を抱いたが故に、生じたように思えます。

 美少年の美しさにひかれたか。
 勇気をもって巨大な敵に挑み懸かる、その純粋な意志と勇気に心打たれたか。

 これから大きな未来がひらけるであろう一人の前途有望な少年に対し。
 好意を抱いてしまったが故の一瞬の迷い。

 それがゴリアテの命取りになります。

 ダビデは、巨大な敵、ダビデの信ずる神への敵対者であるゴリアテに対し、ただまっすぐに、純粋に、挑み懸かり、石を投げつけます。
 すべてのものを白黒はっきりさせようとし。
 目的に対し何の疑いもなく前進する、若者特有の純粋さ。
 それが、強敵ゴリアテを倒すのです。 

 もしも、違った境遇で二人が出会っていたならば、互いに深く理解しあえる師弟として生きていけたかもしれない。
 しかし、出会ったタイミング、そして、二人のおかれた境遇の違い。。
 それが二人を、殺すもの、殺されるものとしての関係にしてしまいます。

 ゴリアテは、恐らくその瞬間。
 敵、味方としての枠組みを越えて。
 一人の人と人として、ダビデと対峙したのではないでしょうか。

 ゴリアテは経験豊かな歴戦の勇者として。
 人の間には、敵、味方以外の関係のあり方があることを知っていたのかもしれません。
 しかし、若いダビデにはそれがわからない。。
 ただひたすらに、そしてひたむきに、信じるもののために戦おうとする。。

 ひさうちさんが描いた、この一瞬の間。
 だんだんと年齢を経てきた私にとって、この間が、わかるような気がするのです。
 戦場という場では、あまりにも甘い油断なのかもしれません。
 でも、その「間」に、「迷い」に、人間に対する何らかの希望が垣間見える気がします。

 本当に、短い一編ですが。
 深い深いものを感じさせてくれた作品です。

 この作品を最初に読んだのは中学生の時です。
 この間が一体何を意味するのか、よくわからなかった部分があります。
 でも、強く印象に残ったこのシーン。
 私が貧弱であるにせよ、いろいろな経験を積むにしたがって、だんだんと理解できるようになってきました。

 どなたか、この短編についてご存じの方がおられたら、情報をお寄せくださいね。まっています。

映画「JSA」

昨日、日記にも書きましたが、映画「JSA」を観てきました。
この映画に関しては、評価が分かれるかもしれません。

制作費は、オープンセットを造ったこともあり、かなりの額に昇るのですが、結構、地味な映画です。
以前、大ヒットした韓国映画の「シュリ」と比べると、エンターテインメント性はかなり低く、謎解きも、中途半端な感じがします。
アクション、サスペンスが好きな方には、物足りないかもしれません。

でも、私は、深く感動し、かつ、考えさせられた映画でした。
感動ついでに、「好きなもの」に入れてしまいます。

JSAとは、JOINT SECURITY AREA (共同警備区域)の略称です。

現在南北朝鮮は、38度線にて分断されています。
38度線は韓国と北朝鮮の国境ではなく、朝鮮戦争後、国連軍と共産軍の間の停戦協定によって定められた、軍事境界線なのです。
38度線は、現在も南北朝鮮が停戦状態、準戦時体制下にあることを示しています。

その38度線上の板門店周辺の地域は、国連軍と共産軍の共同警備区域となり、南北双方の行政管轄圏外にある特殊地域となりました。
南北の会談は、通常、この板門店にて行われます。南北の数少ない接点でもあるのです。
これが、共同警備区域、すなわちJSAなのです。

このJSA内に、軍事捕虜の帰還の為に造られた、軍事境界線部分を渡す橋、通称「帰らざる橋」があります。

この橋の双方の監視小屋に駐留する兵士たちが、この物語の主人公です。

南北両軍の4人の兵士。

この兵士たちの、38度線を越えた友情が、描かれます。

そしてその友情は、最後に悲劇へと、導かれて行くのです。

人と人との温かい触れ合い、そして、信頼、友情。

どこかの街中で出会っていれば、何気ない、ごく自然な触れ合いだっただろうに。

南北分断の状況下、38度線を越えての出会いであったが故に、過酷な運命に翻弄されていくのです。

一人ではどうすることもできないような、政治、軍事体制の巨大な影響の下で、人のごく自然な想い、営みが、踏みにじられてしまいます。

そして、南北分断という社会の持つ枠組が、人間の心の奥深くに不信感、猜疑心という溝をつくり。

突発的な危機的状況のもとで、その溝がパックリと大きな口を空け、4人の兵士を飲み込んでしまいます。

そして危機的状況が過ぎ、冷静に戻ったとき、その溝のあまりの深さに、若い魂が破壊されてしまうのです。

あまりに酷くて、悲しくて、切ない物語です。。。

一人の兵士のたたずまいの中に、ほのかな希望を感じさせながら、それでもなお、悲しい結末が待っています。

何か、とても、感情的になってしまいました。

評価はすごくわかれるかもしれません。
地味な展開の映画ですから。
また、韓国の状況を皮膚感覚として理解していない、私のような人間には、本当の意味で理解できない映画なのかもしれません。
それでも、とっても大切な何かを、与えてもらったような気がします。

オ・ギョンピル兵士役の、ソン・ガンホさんの演技が出色です。
彼は「シュリ」で、主人公の同僚役を演じ、いい味を出していましたので、ご記憶の方も多いでしょう。

また、最後に流れるキム・グァンソクさんの歌が泣かせます。
もちろん、字幕で読んだ歌詞ですけれども。

次の一節が、とても印象的でした。

「美しく生きていたいのに、人はどうして生きられない。暗闇の中を流れ流れて」

かつて韓国の教会青年と交流を持ったときに、兵役の話が出て。
その瞬間に、明るい彼の顔に暗い影がよぎったこと、今でも忘れられません。

興味を持たれた方は、是非一度ご覧下さい。ご意見をお聞かせいただければ、嬉しいです。

レオナルド・ダ・ヴィンチ 「岩窟の聖母」

 以前、パリのルーブル美術館に行ったことがあります。
 たくさんの美術品に囲まれて、幸せな一時でした。

 美術品に関しては、画集の写真ではなく実物を目の前に見ると、全然違った印象を受けるものです。
 そして、その違いを一番大きく感じさせられたのが、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品でした。

 レオナルドの作品に「岩窟の聖母」という作品があります。
 1485年ごろに描かれたと考えられる、板絵です。縦190センチ、横110センチの、まあまあ大きめの絵です。

 赤ん坊のイエス、洗礼者ヨハネ、イエスの母マリア、天使の4人(?)の登場人物が描かれています。
 よく描かれる、聖母子像の一種です。

 これが、何故か理由はわからないのですが、岩の洞窟を背景にして描かれているのです。
 女性の子宮を暗示している、などまことしやかな説明をされることはあるのですが、本当の理由ははっきりとはわかってはいません。

 この絵を見たときの衝撃は、今も、忘れることはできません。

 最初に描かれた当時はどうだったかわからないのですが、現在のこの絵は、比較的暗い色調の絵です。
 絵の前に立ったとき、画面が黒一色に見えて、何も描かれていないように見えました。
 見るのを楽しみにしていた絵でもあったので、ビックリしました。

 「何や、これ。何も見えへんやんか。」

 そう思って見ていると、だんだんと目が慣れてきたのでしょうか。
 画面の暗さがだんだんと晴れ渡っていくように、徐々に、徐々に、何が描かれているかがわかってくるのです。

 まるで暗い洞窟の中に突然放り込まれて。

 目が暗闇になれてきて、周りの様子がわかってくるように。

 霧が晴れて、周囲が見渡せるように変わっていくように。

 絵に描かれた聖母子の姿が浮き上がってくるのです。
 時間をかけて、ゆっくりと、です。

 目が慣れてくると、黒一色に思えた絵が、以外と細かく精密に、周囲まで描かれた絵であることがわかってきます。
 登場人物の衣装や指先までが、丁寧に描きこまれた、繊細な絵であることがわかります。
 本当に自分が、その岩窟の中に一緒にいて、同じ空間や暗闇を経験したかのような感じでした。

 何故、この絵が岩窟を舞台に描かれていたのか、少し理解できたような気がしました。
 レオナルドは、この効果を狙っていたのかもしれません。

 「凄いなあ」

 感心のあまり、ボー−−っとしていたのを覚えています。

 最初は見えないものが、晴れ渡るかのように、次第に見えてくる。
 そして、見えるようになった光景は、最初の印象と似ても似つかないものになっている。
 こんな感覚は、他のどの画家の絵の前に立っても、経験したことのないものでした。
 初めての、経験だったのです。
 
 絵を見る、というよりは、絵画空間を体験する、といった表現の方があっているかもしれません。
 まさに、天才の技だ、そう確信させられました。

 こればかりは、日本で、どの画集の写真を見ても感じることができなかった感覚です。
 私の恩師は、「本物を見ることを大切にしなさい」といつも口をすっぱくして言っていました。
 その言葉の意味が理解できた瞬間でもありました。

 私は以前、美術史という学問を勉強していたことがありました。
 通常の歴史研究は、歴史上の出来事を、文献を中心としたさまざまな資料から、類推し、復元していく作業をともないます。

 しかし、美術品は、過去に創られた実物が、今現在に生きる私たちの目の前に、存在しています。
 歴史的な出来事が、私たちの前に実在しているのです。
 時と場所を超え、私たちの前にあるのです。
 美術の歴史研究は、そうした実物をもとに行われます。
 美術史は考古学である、といわれる所以です。

 現代は、科学、産業、マスメディアなどの発展にともない、この場にいながらにして、様々な世界中の出来事を知り、見聞きすることができるようになりました。
 しかし、それは殆どの場合、メディアというフィルターを通した、間接的な経験なのです。
 
 例えば、多くの人が、今の日本の首相のことを、与えられた情報から、あれこれ批判することは可能でしょう。
 しかし、現実に首相にあって、話をし、その人となりをきちんと知っている人など、数少ないのではないでしょうか。
 その意味で現代は、どこまでが現実で、どこまでがそうでないのかの境界が、不明確になってきています。

 そんな中で、美術品と直接に向き合うことは、現実との出会いを与えてくれます。
 時と場所を超え、昔の人の考え、熱意、技が、今の私達に直接語りかけてくれるのです。
 その直接の経験が、新たな発見をもたらしてくれることもあるのです。

 「岩窟の聖母」は私にそのことを教えてくれました。

 レオナルドは、割と変質しやすい画材を使っていたようなので、私が経験した効果は、彼自身が意図したものではなく、時間が経つにつれ画面が暗くなり、後の時代に偶然に定着したものなのかもしれません。
 それでもなお、私が体験した、あの晴れ渡るような感覚は、本物しか与えられないものでしょう。

 もしも、レオナルドと話すような機会があったとしたら。
 あれが、彼自身の「企み」であったかどうか、聞いてみたいな、と思うのです。

映画 「薔薇の名前」

 映画、「薔薇の名前」は、1986年の作品。

 私が大学生の時に見て、すごく感激した作品です。
 ロードショーからしばらく経って、名画座で見た記憶があります。

 原作は記号論学者のウンベルト・エーコ。
 彼は中世キリスト教の代表的神学者、トマス・アクィナス研究から出発しているので、キリスト教、中世といったことに精通しており、深い学識に裏付けされた物語を展開しています。

 原作の方が断然に面白いのですが、映画の方も美術的に凝った映像で、また主演のショーン・コネリーの魅力が爆発していて、大変に面白いのです。
 ショーン・コネリーの演技派としての評価を決定付けた作品でもあります。
 実は私はショーン・コネリーが大好きなのです。あんなおっさんになるのが、私の夢です。。。


 映画の舞台は、1320年代の北イタリア。ベネディクト会派の、とある修道院にてドラマは展開します。
 ある重要な教会会議(教会の財産保持に関する会議)に出席するために、その修道院を訪れたフランシスコ会修道士、バスカヴィルのウィリアムと、その従者である見習い修道士のアドソ。
  写本の挿絵師、そしてギリシャ語の翻訳をしていた修道士が相次いで謎の死を遂げ、修道院長の依頼のもと二人は、その調査に乗り出します。
 二人はやがて、その秘密の鍵が、どうやら修道院の文書館と、とある「写本」にあることをつきとめて。。。

 といった内容です。

 時代考証や映画美術も非常に凝っていて、見ていて飽きない作品です。

 基本線は、バスカヴィルのウィリアムという名前からしてわかるように、シャーロック・ホームズの作品を彷彿とさせる推理ものです。「バスカヴィル家の犬」という作品がホームズのシリーズにありましたでしょ。

 1320年代は、教皇庁がアヴィニオンにあった時期でもあり、ルネッサンスの夜明けを迎える寸前の頃です。
 イギリスの経験主義に影響されたウィリアム修道士は、ホームズばりの理性的な推理で真実に迫っていきます。
 キリスト教信仰に強く支配されたヨーロッパ中世の世界に、理性に基づく合理的な思考で推理を展開するというところが、ルネッサンスにおける理性の復活、信仰と理性の衝突というものを暗示しています。

 そして、カタリ派を始めとする異端、フランシスコ会とベネディクト会、異端審問、宗教裁判、清貧と教会の財産保持に関する論争など、キリスト教の様々な要素がここぞとばかりに登場します。

 また、「パリの聖母子」を始めとし、黙示録の写本芸術(ベアトス本と呼ばれるロマネスク美術の傑作)など、同時代の有名美術品の複製が登場したりして、美術的にも大変に凝ったものでした。

 美術好きなキリスト教徒の私としては、好きなものがたくさん登場して、心底楽しめました。

 そして主人公、バスカヴィルのウィリアムは、ホームズだけではなく、ある同時代の神学者をモデルにしています。
 イギリス人のオックスフォード学派の神学者で、オッカムのウィリアムという人物がいました。
 バスカヴィルのウィリアムはどうやらこの、オッカムのウィリアムをモデルにしているようなのです。

 オッカムのウィリアムは、「普遍は名辞にすぎない」という有名な「唯名論」を提唱した神学者です。
 彼の唯名論は、イギリスの伝統的な経験主義に基づいてつくられています。

 普遍的なものが実体的に(独立したものとして)存在していて、その性質が個物に共通して表われる、という考えを彼は否定しました。
 あくまでもこの世界には、個々のもの、個物しか存在せず、人間にとって、その個物に共通して見える性質を、「普遍的なもの」として、言葉で呼んでいるに過ぎない。そう、彼は主張しました。

 乱暴にぶっちゃけて言ってしまうと、つまり普遍的なものとは、人間が勝手に名づける名前に過ぎないのだ、と彼は言ったのです。

 この「唯名論」は、現代の記号論の先駆的発想であり、記号論学者の原作者エーコの心をとらえたのでしょう。

 私自身は、経験主義的で、かつ合理的なものの発想が好きな人間です。

 信仰的な事柄を日常的に考える上で、この発想は私の基本でもあります。

 ヨーロッパの合理的精神は、キリスト教や教会との対決の中で培われて行きました。
 現代を生きる自分にとって大切な課題が、その緊張感が、この映画の中にはあふれていて、とっても好きな作品です。

 是非一度、ご覧ください。
 ショーン・コネリーやクリスチャン・スレ−ター(アドソ役)を見るだけでも、楽しく、必見の映画です。
 

日能研クイズ「解答編」

 えー。前々回のクイズにエントリーしてくださった方がおられたので、解答編を掲載します。

(問題)

 ここに12個の玉があります。見かけはすべて同じに見えます。
 そして、上皿天秤が一つあります。
 12個の玉のうち、1つだけ、重さの違う偽物の玉が入っています。他の11個は全て同じ重さです。
 偽物は確かに重さは他の11個と異なるのですが、重いか軽いかはわかりません。
 この天秤を使用して、重さの異なる偽物の玉を探し出してください。
 ただし、天秤は3回までしか使用できません。
 天秤の皿には、玉は一度に何個でも載せることができるとします。

 さあ、1つの偽物を探し出す手順を考えてください。
 とんちではなく、正攻法の問題です。

(解答)

 0、まず最初に4個ずつ3グループに分けます。
   解答を説明する上で、便宜的に、12個の玉をA〜Lまでのアルファベットによって示します。

 1、(1手目)
   A、B、C、Dのグループと、E、F、G、Hのグループを天秤に乗せて計ります。
   つりあった場合 → 2−1へ
   つりあわなかった場合 → 2−2へ

 2、(2手目)
   2−1、(1手目でつりあった場合)
       1手目でつりあったということは、AからHまでは全て本物ということになります。
       偽物はI〜Lまでの中にある訳です。
       そこで2手目では、IとJを天秤に乗せて図ります。
       つりあった場合 → 3−1へ
       つりあわなかった場合 3−2へ

   2−2、(1手目でつりあわなかった場合)
       1手目でつりあわなかった場合、偽物はAからHまでのどれか一つということになります。
       同じに、IからLまでは本物であることがわかります。
       そこで、今度は、1手目で計った一方の皿のグループ(4つ)から3つ(F、G、H)を取り除きます。
       1手目で計ったもう一方の皿から、3つ(B、C、D)を、F、G、Hを取り除いた皿に移動させます。
       1手目で計らなかった本物の4つのうち、3つ(I、J、K)を、B、C、Dを取り除いた皿に乗せます。

       つまり、2手目では。
       A、I、J、K  と  E、B、C、D を天秤で計ります。

       つりあった場合 → 3−3へ
       つりあわなかった、そして1手目と傾きが同じであった場合 3−4へ
       つりあわなかった、そして1手目と傾きが逆になった場合 3−5へ

 3、(3手目)
   3−1、(2手目2−1でつりあった場合)
       IとJがつりあったということは、KとLのうち一つが偽物ということになります。
       そこで最後に、Kと、本物であることが判明しているAからJのうち一つ(仮にAとする)をはかります。
       つりあった場合は、最後の残りであるLが偽物になります。
       つりあわなかった場合は、Aは本物であることがわかっていますので、Kが偽物になります。

   3−2、(2手目2−1でつりあわなかった場合)
       つりあわなかったということは、IかJかどちらか一つが偽物ということになります。
       そこで二つのうちの一つであるIと、本物であることが分かっているAを計ります。
       つりあった場合は、計らなかったJが偽物です。
       つりあわなかった場合は、Iが偽物になります。

   3−3、(2手目2−2にてつりあった場合)
       つりあったのですからA、I、J、K、E、B、C、Dは本物です。
       あと、1手目で計らなかったLも本物です。
       偽物は1手目に計って、それから除いたF、G、Hのうちどれか一つです。
       F、G、Hは1手目でつりあいませんでしたから、偽物は本物よりも重いか軽いかも判明します。
       (1手目でE、F、G、Hの皿が下がったら偽物は重い。上がったら偽物は軽い)
       仮に偽物は重いとしましょう。
       そこで、FとGをとって、今度は計ります。
       つりあったら、Kが偽物です。
       つりあわなかったら、F、Gのうち、重かった方が偽物です。

   3−4、(2手目2−2にてつりあわなかった、1手目と傾きが同じであった場合)
       I、J、Kが本物であることはわかっています。取り除いたF、G、Hも本物です。
       また、傾きが1手目と変わらなかったので、移動させなかったものの中に偽物があります。
       つまり、AとEのうち片方が偽物です。
       そこで本物であることがわかっているもの(仮にIを選びましょう)とAとを計ります。
       つりあった場合は、残りのEが偽物です。
       つりあわなかった場合は、Aが偽物です。

   3−5、(2手目2−2にてつりあわなかった、1手目と傾きが逆になった場合)
       傾きが1手目と逆になったということは、2手目の時に移動させたB、C、Dの一つが偽物です。
       そして、1手目、2手目の傾きから、偽物が重いか軽いかが判明します。
       2手目でB、C、Dの皿が上にあがったら偽物は軽い。下がったら偽者は重いのです。
       そこでBとCを3手目で計ります。仮に偽物が重かったとしましょう。
       つりあった場合、Dが偽物です。
       つりあわなかった場合、B、Cのうち重い方が偽物です。(もちろん偽物が軽い場合は軽い方)

以上です。なかなか見事でしょう。
私には、わかりませんでした。
2手目の玉の移動が、ポイントです。
これを見たときに、電車の中で歓声を上げてしまった、私です。
チャレンジしてくださったみなさん、ありがとうございました。

カラヴァッジョ 「果物籠」

 久しぶりに、絵のお話です。

 カラヴァッジョ(本名、ミケランジェロ・メリージ)は、16世紀末から17世紀初頭にかけて生きたイタリアの画家です。イタリアでは10万リラ紙幣に彼の肖像画が描かれているほど人気のある画家なのですが、日本では残念ながら殆ど知られてはおりません。

 そのカラヴァッジョの作品の中に「果物籠」という絵があります。
 テーブルの上の、りんご、ぶどう、いちぢくなどの果物が盛られた籠が、ただそれだけが描かれた作品です。

 彼は写実の才能を豊かにもった画家でした。「果物籠」は、まるで本物と見まごうばかりの真実味、そして美しく映えた色彩が、特に印象的な絵です。
 あまり絵画に詳しくない人が見てもわかりやすく、素直に綺麗だなあと感じることでしょう。

 この「果物籠」のように、食べ物、食器などの日常的な道具、ものだけが描かれた絵を静物画といいます。
 現代に生きる私たちにとっては特に珍しくはないのですが、当時のイタリア社会では、静物画が描かれることは、かなり画期的な出来事でした。

 ヨーロッパの絵画の歴史では、見た目通りに絵を描くということは、決して当たり前のことではありません。

 どちらかといえば、宗教画のように、何か普遍的な(と考えられていた)ものを描くことの方が、遥かに価値の高いことと考えられていました。
 絵は、何か高尚な、それは殆どの場合神学的・哲学的なものを意味したのですが、意味が盛り込まれていなければならないものでした。
 私たちの日常的な道具、もの、食物が描かれても、それは神の物語の一部であるからこそ、意味を持っていました。

 教会が支配的であった中世ヨーロッパでは、特にその傾向が強かったのです。

 中世の絵画では、人物、事物は、私達の見た目の姿とは程遠く、あくまでも、何かを意味する記号としてしか描かれませんでした。
 見た目の正確さなど、中世の人々にとってはどうでもいいことだったのです。
 人間の五感、それどころか人間そのものも、神の前ではどうでもいい、価値のないものとしか考えられませんでした。

 しかし、ルネッサンスを経て人間への自信や信頼が回復していくにつれ、人間の視覚に対する自信も蘇っていきます。
 ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどのルネッサンスの巨匠たちが、見た目に正確な人物、風景を描いたのは、そうした人間に対する自信の回復の表われでもあったのです。

 「果物籠」には、神はもちろん、人物も風景も直接的には描かれてはいません。
 ただ、果物と、テーブルと、籠があるだけです。

 確かに枯れて行く葉が、生命のはかなさという意味を、示しています。
 しかし、当時としては、「果物籠」は、人間の視覚的な要素が占める割合があまりにも高い絵だったのです。

 高尚な意味というよりも。
 見た目の美しさを、存分に満喫させようとする絵だったのです。

 それは、物質的なもの、人間的なものへの自信の回復の表現であり。

 神に対する、人間の反抗といってもよいほどの出来事でした。

 キリスト教は、神を強調するあまり、時として人間の自信を奪い。
 人間が自立的にものごとを考えることを、妨げます。


 カラバッジョの絵は、そうしたキリスト教のあり方への挑戦として、ある種の激しさを感じさせるのです。
 激しく。静かで。そして、美しくて。

 私は好きなのです。


 今年から来年にかけて、カラバッジョ展が日本でもあるそうです。
 どうやら関西には来ないらしいのですが。
 何とか観に行きたいな、と思っています。

日能研のクイズ

 よく地下鉄や電車の広告で、「日能研」という学習塾(確かそうだったと記憶しています)の広告が出ています。

 その広告、クイズが出ているのです。地下鉄では外の景色が見えませんから、どうしても暇つぶしに広告を見てしまいます。週刊誌の広告など面白くもないのですが、この「日能研」のクイズは結構面白く、格好の暇つぶしになります。

 私はそれを解くのが好きなんです。

 最近は難しいクイズが少なくなってきましたが、以前、とても面白い、難しいクイズが出ていたことがあります。

 あまりの難しさに考えながら、降りる駅を乗り過ごしてしまったほどです。
 結局解くことが出来ず、次の広告に出てくる回答を心待ちにしていました。
 回答を見た瞬間、「オーーーー」と電車の中にも関わらず声をあげてしまいました。
 今でもその問題、覚えているのです。
 中学3年生の時だったと記憶しています。

 試しに皆さん、解いてみませんか?

 (問題)

 ここに12個の玉があります。見かけはすべて同じに見えます。
 そして、上皿天秤が一つあります。
 12個の玉のうち、1つだけ、重さの違う偽物の玉が入っています。他の11個は全て同じ重さです。
 偽物は確かに重さは他の11個と異なるのですが、重いか軽いかはわかりません。
 この天秤を使用して、重さの異なる偽物の玉を探し出してください。
 ただし、天秤は3回までしか使用できません。
 天秤の皿には、玉は一度に何個でも載せることができるとします。

 さあ、1つの偽物を探し出す手順を考えてください。
 とんちではなく、正攻法の問題です。


 まあ、暇つぶしにどうぞ。
 リクエストがあるようなら、正解は別の機会に発表します。
 私にとっては、かなり難しい問題でした。9個のうちから探すのなら、割と簡単なんですけれどね。

 チャレンジャーよ、来れ!!

「弥次喜多」の「粟しるこ」

 久しぶりの「すきなもの」更新なのですが、またしても食べ物の話です。すんまへん。食い意地がはっとって。
 
 京都、四条河原町をちょっと上がった(北に行く)あたり、丸善書店の南のあたりに、「弥次喜多(やじきた)」という甘党のお店があります。
 私、甘いものが好きな方なので、ときどきふらっと「弥次喜多」に行っていました。
 そこに「粟しるこ」という品があります。

 粟を炊いたものの上に、どばっと、こし餡がかけてあります。「しるこ」という言葉から連想される液体状のものではありません。こし餡は水気を多く含ませてあり、とても柔らかい餡になっています。

 すごく美味しいのです。他ではあまり食べられない品であります。

 でも。

 さらっとしているはずなのに、途中でかなり重く感じられるようになります。
 甘党で食いしん坊の私でも、一人で全部を完食したことがありません。
 必ず一緒にいった連れと、二人で一つを食べることになります。
 「弥次喜多」の品物が全て重いという訳では決してありません。
 ぜんざいなど、あっさりとしていて、苦も無く完食することができます。

 しかし。

 この「粟しるこ」だけは、美味しくても、完食することができない品物なのです。不思議なものです。

 京都に行く機会のある方々。一度チャレンジしてみませんか。
 お一人で行かれるのはおすすめできません。
 たぶんこの感じは実際に食べてみなければわからないでしょう。
 必ず二人以上で挑戦してくださいね。

アーケードゲーム 「ザ・警察官」

 先日近くの某スーパーのゲームコーナーで、「ザ・警察官」なるゲームをしました。
 新しいものなのか、そうでないのかはわかりません。スーパーのゲームコーナーって割と古いマシンを置いていたりしますから。

 どういうゲームかというと、警察官が新宿に巣食うギャングと激しい銃撃戦を繰り広げるというものです。
 考えれば酷い設定ですが、まあ、テレビゲームのことですから少し大目に見てください。
 拳銃型のコントローラーを使ってのシューティングゲームです。

 面白いのは、相手の弾丸を、実際に体を動かして避けるというところです。
 しゃがんだり、左右に体を振ったりして、相手の攻撃を避けます。

 体を上下左右に動かすと、どういうセンサーが使われているのかわかりませんが、それを感知して画面が切り替わります。ちゃんと物陰に隠れたところから見た映像になります。
 体を動かして顔を出すと、相手が見えるようになり、顔を引っ込めると、相手が見えなくなります。

 「おおっ。凄い!!!」

 と思いながら遊んでいたのですが、たぶん傍から見たら、しゃがんだり避けたり、何やってんだかって感じだったでしょう。
 でもそんなこと気にしていたら、楽しめません。
 1ゲーム終わるころには、軽く一汗かいていました。いやあ、爽快爽快。

 実は私、高校まで、剣道をしていました。一応二段なんです。
 国家主義的な雰囲気がどうしても好きになれなくて、今では全然やっていないのですが、スポーツとしては今でも好きだったりします。
 京都の道場に稽古しに行ったとき、警察の機動隊員が時々来ていました。機動隊員って、体力、並じゃありません。すさまじい馬力です。高校生の私は、道場の床にころがされ、柱にうちつけられ、放り投げられ、遊ばれました。

 「警察官、恐るべし。」

 その感覚、今でも抜けません。

 そんな経験があるためか、私にしてみれば、警察官に扮して闘うというのが、また違った味わいがあったりするのです。

 今度買い物に行ったときもまた遊ぼうっと。

 ちなみにメーカーはコナミ。私が就職試験でおっこちた会社です。。。。。

喫茶 「ソワレ」

 京都は四条木屋町を少し北に上がったところに、喫茶店「ソワレ」があります。

 京都は有名な喫茶店が多いところですが、「ソワレ」はあまり知られていないお店でしょう。

 すぐ近くの「ミューズ」や「フランソワ」、三条の「イノダコーヒー本店」や「六曜社」などの有名喫茶店に比べれば、殆ど知られてないのではないのでしょうか。

 こじんまりとしたお店なんですけれども、好きでよく行きました。
 全体的に「青」を感じさせる雰囲気で、東郷青児の絵(本物かどうかはよく知りませんが)が飾ってあります。
 いわゆる「モダン」という感じといえばいいのでしょうか。
 頑固そうで、かつ親切そうなマスターが、お店の雰囲気ととてもマッチしています。

 だいたい私はウィンナーコーヒーを注文します。ブランデーがついてきてちょっぴり大人の味です。

 木屋町界隈は割かしうるさくて喧騒の中にあるのですが、それが別世界に感じられるぐらい、静かです。
 二階は広くてくつろげるスペースですが、私としては一階の少し狭苦しい感じが大好きです。

 また、行きたくなってきました。

 京都の河原町界隈もだんだんと変化してきています。
 でも、ずっと変わって欲しくない、ずっとそこにありつづけて欲しい。
 私にそう思わせる場所の一つが、「ソワレ」なんです。

映画 「1999年の夏休み」

 「ガメラ」の監督としても有名な、金子修介監督の作品です。何とも不思議な魅力を持った映画です。

 この映画には4人の人物が登場します。どこかの学校の男子生徒という設定なのですが、すべて女の子が演じています。そのうち2人については、男の子が声の吹き替えをしています。

 その4人の少年が複雑な愛憎模様を展開します。

 優(ゆう)という少年がある少年に恋をするのですが、つれなくされ、悲しみから学校の寄宿舎近くの池へ身を投げ、行方不明となります。

 学校が夏休みに入り、身よりがなく寄宿舎に残ることになった3人の前に、行方不明になった優に姿形がそっくりな、薫(かおる)という少年が現われます。

 姿形は優そのものなのですが、薫は優とは全く正反対といってもいいような性格の持ち主でした。薫は優が愛した少年の心をすっかり虜にし。。。。

 といった内容です。

 筋立て自身、荒削りな感じを受けないでもないのですが、何ともいえない不思議な雰囲気を持っています。

 中村由利子さんのピアノ曲。モノトーン風の全体の色調など、印象的です。

 登場人物のユニセックス的な魅力がまた素敵で、私の大好きな作品です。

 この映画をはじめて観たころ。
 恋することの複雑さ、好きであっても互いに傷つけあってしまうこともあるのだということに気づきはじめた時期でした。

 それだけにこの映画の内容が、心に鋭くつきささったのを覚えています。

 主演は中野みゆき、大寶智子、宮島依里、水原里絵(今の深津絵里さん)の4人です。

 私の1999年の夏休みは平穏に過ぎました(笑)。

 私にとって、忘れられない、作品です。

ひさうちみちお 「托 卵 (たくらん)」

 漫画家、ひさうちみちおの作品に「托卵(たくらん)」という作品があります。

 架空の世界の話なのですが、中世ヨーロッパ世界を模していることは明らかです。
 物語は、「カッコー」という架空の被差別民族を中心に展開します。長く差別待遇を受けていたカッコーに市民権を与える唯一の国、ジォット王国が舞台となります。
 ジォット王国内の激しい権力闘争、権力をひたすら追い求める教会の欺瞞、カッコー内部での独立闘争に対する路線の対立など、権謀術数の渦巻く物語です。
 複雑な政治的駆け引きが展開される中で、誠実に生きようとする人々が過酷な運命に翻弄される姿が描かれています。
 登場するアウグスト中央教会は、キリスト教会をモデルにしていますので、キリスト教徒として生きる私にとっても重い問いかけを持つ作品です。
 教会に見捨てられ、命を危うくしながらも、懸命に生きようとする主人公ボスコ修道士の姿に教えられることが多々ありました。
 誠実に生きようとしながら、かといって逃げ回るだけで、何か有効な手立てを打てるわけでもない。
 そんな無力な姿も、現在の自分の無力な姿と重なってきて、心うたれます。

 ラストシーンで燃え上がる炎の向こうに、皆さんは何を見るでしょう?人間に対する絶望?それとも。。。。

 全然明るくなどなく、却って残酷な話です。正視に堪えられないようなシーンも出てきます。
 しかし、大変に骨太で、人間を深く追求した作品でもあります。


 漫画家ひさうちみちおの作品に接したのは、中学生の時ですから、ずーーーっと昔の話です。
 「義経の赤い春」(記憶が定かではないのですが、、)という作品が、角川文庫のある雑誌に連載されてました。その雑誌はすぐに廃刊になったので、連載も中断してしまいました。
 人格的にかなり問題のある義経が描かれていて、独特の絵柄でもあり、すごく印象に残りました。漫画にこんな表現力があるのだ、と知った作品でもあります。
 それからひさうちの作品を探して読むようになっていったのですが、大変にシリアスな作品も多いのですが、同時に彼はエロ漫画家でもありました。エロ漫画としても、かなり風変わりな作品が多く、面白い漫画家です。
 彼の作品の多くは、書店の棚のエロ漫画用のコーナーに鎮座しておりました。中学生である私は、周りの視線を気にしつつ購入していたのを覚えています。
 貧乏ゆえに、彼の作品を殆ど売り払ってしまったのが今となっては残念でなりません。

 彼はキリスト教系の小学校を卒業していたこともあり、キリスト教をモチーフとした作品を多く描いています。
 さめた目で人間を捉えている部分があり、私の心を強く捉えます。

 その代表的な作品が「托卵」です。お薦めの作品です。「青林堂」という書店から発売されています。
 

インディアンカレー その2

 今でもこのお店があるかどうか疑問なんですが、かつて、京都三条木屋町を少し下がって西に入ったところに、「インディアンカレー」というお店がありました。「その1」のチェーン店とはどうやら無関係のようで、一風変わったお店でした。
 最後にこのお店に入ったのはかれこれ10年以上も前の話です。かなり年配の夫婦らしき方がやっておられました。

 ここのカレーは、ご飯とカレーのルーが分離しておらず、混ぜ混ぜの状態で出てきます。ハンバーグカレーが好きでよく食べました。ハンバーグカレーを注文すると、いかにも頑固そうな店主のおじさんが、ハンバーグの種をこね始めます。一から作り始めますので、注文した品が出てくるまで時間がかかります。
 でも、手作りの素朴な感じがすごく味わい深くて、少しぐらい待っても食べたいと思わせる一品でした。

 今はどうなってるんでしょうね。昨日インディアンカレーの話を書きながら、このお店のことをふと思い出しました。京都には行く機会も多かったのですが、何故かしらとんとご無沙汰してしまったお店でもあります。

 気がついたら、食べ物の話ばかりですね。このコーナー。
 私が太り気味な訳、わかっていただけましたか?

インディアンカレー その1

 大阪梅田の阪急三番街地下2階に、「インディアンカレー」というカレーのお店があります。
 確か堂島の地下街にも同じ名前の店があったと記憶していますので、どうやらチェーン店らしいです。三番街の店は、学生時代、本当によく通いました。
 小麦粉たっぷりで粘り気がある、日本風のカレーです。口に入れた直後は甘い感じがするのですが、あとから激しい辛さが襲ってきます。「甘辛い」感じで、他の店や市販のカレールーでは味わえない、なんとも素敵な味です。添えられてくる甘酸っぱいキャベツの漬物も、カレーの辛さにぴったりあっています。

 決して安くはないのですが、今でも梅田を通る度に、心惹かれてついつい入ってしまいます。

 梅田を通られる方は、もしよろしかったら一度行ってみてくださいね。お薦めです。

ピカソ 「泣く女」

 私は絵を見るのが好きです。でも今の仕事は月曜日が休日なので、美術館に行くことができず残念です。殆どの美術館は、月曜日が休みなんです。
 そんなジレンマを抱えつつ、私のお気に入りの絵についてのお話、このコーナーで、いろいろアップしていこうと思っています。
 
 西洋においては、ルネッサンス以降、目に見える通りに絵を描く技術は飛躍的に進歩しました。
 でもそうした技術を身につけた西洋の絵画の巨匠たちも、描くのに苦労したものがあります。何だと思いますか?
 それは 「涙」 なんです。

 涙は色も形も、コップについた水滴や、雨のしずくと殆ど違いはありません。でも、人間にとっては、コップの水滴と、涙とでは、全然意味が違うでしょう?コップの水滴を見ても心が動くことはあまりないでしょうが、人が流す涙を見たら、多くの人は動揺したり、心が動かされるものです。
 同じような形のものであっても、人間にとっては意味や価値が全然違うからです。

 目に見えた通りに描くことに固執すれば、コップの水滴も涙も同じ様に描かないといけません。でもそうしてしまうと、私たちのとっての涙の意味が、あまり伝わらないんです。
 そこでピカソは、一度目に見える世界を分解して、私たちが経験する意味や価値に応じて、それらのものを再構成しました。「泣く女」では、目の大きさほどもある、大粒の涙が描かれています。泣いている感じが強調されて伝わってきます。目に見えるままの映像に固執する限り、獲得できなかった表現です。近世以降の西洋絵画の歴史で、説得力のある「涙」が初めて描かれた瞬間です。

 そして、ピカソの表現方法は、現代では漫画や劇画の世界に引き継がれています。漫画の涙って、実物より遥かに大きくってインパクトがあるでしょう?

 私達は、物質的な世界に生きるとともに、意味や価値に溢れた世界に生きています。
 心が動かされ、感動しつつ生きています。

 「泣く女」は、そのことを私に教えてくれるのです。

「瓢亭」のお蕎麦

 大阪梅田のお初天神の南に、「瓢亭」というお蕎麦屋さんがあります。

 そこの「夕霧そば」、私結構好きなんです。お蕎麦に柚子粉が混ぜてあって、なんともいえない良い香りがします。ざるそばみたいにせいろに入っていて、温かいものと冷たいものがあります。私は温かい方が好みです。
 添えられてくるそばつゆに、玉子を入れて食べるのですが、これがまた美味しいんです。
 お初天神通りの玉の光酒造で日本酒飲んで、ここのお蕎麦でしめるのが、いつものコースでした。
 最初に就職して東京に行ってからは、とんとご無沙汰しています。関西に帰ってきてからも、京都に出ることが多くて、殆ど行ってないんです。
 是非時間を作って行こうと、これを書きながら考えています。
 ああ、お腹が空いてきた。。。