
2001年5月30日(水) 「ああ、5月」
気がつけば、明日で5月も終わりです。
4月はかなりつらい一月だったので、5月こそはよい月にしようと思ってはいたものの。
かなり、慌しく過ぎた一ヶ月でした。
立ち止まってもの思いにふける余裕もなく。。。
でも、かえってそれが精神的に不安定だった私にはよかったのかもしれません。
世の中、何が幸いになるかわからないものですね。
今日は珍しく、しばらく中断していたヘブル語の勉強をしてみたのですが。
全部、頭の中から抜け落ちていて。
またアルファベット(アーレフベートと言います。)から復習する破目になりました。トホホ。
あさってからは、6月です。
6月は、私にとって大事な決断をしなくてはならない月なのです。
どうやら来月は、悩み多い月になりそうです。
4月、悲しみ。5月、慌しさ。6月、決断。
さて7月はどんなタイトルがつくのでしょうか(笑)
いずれにしても、悔いのない、決断をしたいものです。
2001年5月28日(月) 「ぶひっとした一日」
今日は月曜日。お仕事は休みです。
先週の月曜日は教区総会でつぶれましたので、久方ぶりの休みです。
だいぶ無理をしていたのか、疲れが溜まっていまして、一日ゴロゴロしていました。
食っちゃ寝ーーー。
食っちゃ寝ーーー。
の繰り返し。動物的な一日でした。ははは。
写真家、森村泰昌さんの本を読んだのが、唯一の文化的生活でした。
森村さんの本は、近々「すきなもの」にて紹介する予定です。
いろいろと触発される部分が大きかったので、少しだけ、面白い展開をすることができるかな、って思っています。
皆さん、森村泰昌さんのこと、知っていますか?
面白いセルフポートレイトを撮られる写真家です。
あんまりさぼっていると、皆さんにがっかりされそうなので。
今日は「すきなもの」更新します。
おひまだったら、お読みくだされば嬉しいです。
明日からはまた気合を入れなおして、頑張りますです。ハイ。
2001年5月23日(水) 「課題」
私の所属するキリスト教のグループは日本キリスト教団と言います。
日本キリスト教団は一応全国組織を持つグループなのですが、全国を17の地域に分けて活動しています。この17の地域、ブロックのことを「教区(きょうく)」と呼びます。
現在私は兵庫教区というブロックに属しています。
この間の日曜、月曜と、神戸で兵庫教区の総会がありました。教区の方針を決定する大事な会議です。
私も議員として、その会議に参加しました。
総会では様々な議題が挙げられ、討論されました。
現在の教会をとりまく課題がいかに多く、難しい時代に生きていることを、改めて実感させられました。
また、月曜の朝に、准允(じゅんいん)式が行われました。
現在私は、日本キリスト教団の職制でいうと、補教師・伝道師になります。
補教師・伝道師として、正式に任ぜられる儀式が、准允式なのです。
今年は私の友人も准允を受けるということで、その式を見ていました。
昨年のちょうど今ごろ、私はその場で、同じように准允式を受けていたのです。
あれから、一年が経ちました。
これからの不安、期待。
そして、伝道師になるために苦労してきた、様々なこと。
いろんな人たちに迷惑をかけてまで、踏みきった道のりのこと。
支えてくださった人たちの顔。
本当にたくさんの思いがよぎったのを覚えています。
あのときから一年。
自分なりに精一杯頑張ってきましたが、結果をシビアに問えば、まだまだ不足していることだらけだったと思います。
自分の弱さから、人を苦しめてしまったことも、多々ありました。
周りの人の期待に応えられないところも、ありました。
たった一年だけれど。
それでも、大変な一年でした。
果たして、来年の今ごろは、どんな心境でいるのでしょう。
できれば、もっと充実した気持ちで迎えたいものです。
2001年5月20日(日) 「記憶」
今日はいろいろ忙しかったのですが。
その話は、また今度、書きますね。
今日は昨日紹介した本の紹介の続きです。
その本の中に、落語家、桂枝雀さんの言葉が引用されていました。
「人間は『知』は記憶できるが、『情』は記憶できない。」
はあ。これもすごい言葉だなあって。
すごく関心させられました。
古典落語は、何度同じ噺を聞いても、面白いものなのですが。
どうしてそうなるのか、という問いに対して、枝雀師匠が出した答えがこれです。
知識は記憶することができ、既に知っているものに再び触れても、「ああ、これ知ってる」で終わるのですが。
動物などを見て、「可愛らしい」と思う気持ちは、何度繰り返しても途絶えることがない、というのです。
同じように「笑い」も、記憶することができないために、同様の噺であっても人は笑うことができるのです。
ただここでいう「記憶」は、思い出やトラウマとして残るということではなく。
人間の「情」に属する事柄は、一度経験したから次はもう経験しない、というようなものではなくて。
反復可能なもの、再現可能なものとして常にあらわれてくる、ということでしょう。
悲しいことはいつ経験しても悲しく。
嬉しいことはいつ経験しても嬉しい。
これは人間に与えられた恵みなのでしょうか?それとも試練なのでしょうか?
枝雀師匠も、すごいことを言っておられたのですね。
ものごとを深く追求された方だったことがわかります。
師匠の魂が安らかであることを、お祈りします。
2001年5月19日(土) 「美術、恋愛」
3日ほど前から、ひどく腹痛を起す風邪をひいて、いまいち体調のよくない私です。
今日は気分的にもだいぶ落ち込んでいて。心身ともに元気がありません。。。
まあ、そんなことはよいとして。
先日、美術に関するある書物を読んでいました。これが結構面白かったので。
また、「すきなもの」で紹介しようと考えています。
私は最初の大学で、美術の歴史、美術理論について学びました。
大して世の中の役にも立たず。お金を稼ぐにも役に立たず。役に立たないことだらけの学問でしたが。
それでも、現在の私のものの見方、考え方、感じ方に深く影響を及ぼしていることを、最近感じさせられます。
その本の中に興味深い一文がありました。
「美術鑑賞は、恋愛に近い」
私としては、至極納得させられた一文です。
美術を見ること。それは、世のため人のために大した役にも立たない事柄です。
でも、それは私にとって、楽しくて、楽しくて、やめられないことでもあります。
何のために、と問われても、ただ好きだから、気持ちがいいから、としか答えようがありません。
そういう点では同じように、誰かの役に立つとか立たないとか、関係なく。
人は人を愛するものです。
特に何か目的があるわけでもなく。
それでも、人は人を好きになってしまうものです。
そして人と人が愛し合うことは、すごく幸せな充実感をも与えてくれます。
それは、ある目的に沿うというものでもなく、合理的なものでもなんでもありません。
でも、それが素晴らしいことだということに、おそらく異論をさしはさむ人はおられないでしょう。
人間って、結構不合理な生き物なのかもしれませんね。
美術を鑑賞することも、恋愛と同じように、特に合理的な目的も見出せず、必然的な説明もつきませんが、私にとっては、素晴らしい充実感を与えてくれるものなのです。
先の一文を見て。
いやあ、この人、わかってはるなあ。。。
と感動致しました。
美術と恋愛が近いものだとすると。。。
美術鑑賞好きな私は、同時に、惚れっぽい、恋多き人間なのでしょうか(自爆)。
そうなのかも、知れませんね。
つれあいには、見せられませんね、この文章(笑)。
明日、明後日と、教区の総会があって、忙しくなりそうです。また、しばらく更新できないと思います。
ご紹介した本については、近々アップしますから、楽しみにしていてくださいね。
2001年5月14日(月) 「言葉。ネット。」
今日は貴重な貴重なお休みの日。子どもは堺まで遠足に行っていて。
私は一人、だらだらと眠っていました。
私はずっと古いパソコンを使っていたので、インターネットを使用するようになってからまだ2年も経っていません。技術的にも未熟で、まだまだネット初心者なのです。
そんな初心者でも、こうしてHPを開いているのですから。あきれたもんですよね。
技術的な未熟さ故。ほとんど文字ばかりのHPになってしまっています。
決して読みやすくないHPに、これでも来てくださる方々がおられること。驚きであり、また感謝ですね。
先日。
私が時々遊びにいっているサイトで、大きなトラブルがありました。
かなり悪質な言葉がとびかったようです。。。
私はその瞬間に立ち会っていなかったのですが。
わずかに残されたその痕跡を見るだけでも。
そこを管理しておられる方々が、深く深く傷つく出来事だったことがわかります。
ネットという媒体は。
文字を主体としたコミュニケーション。
匿名性。
時間的な迅速性。
そうした様々な特徴を持っています。
特に匿名性を背景としているためか。
ネットでは日頃話せないようなことを平気で話してしまうことがあります。
それは時に、人間と人間が、心の深い部分で話せるという利点にもなります。
しかし同時に、それは、人間が思ったこと、感じたことを、無反省に安直に表現することにもなります。
特に悪意は、匿名であることが拍車をかけ、より一層ひどく、むごい言葉を生み出し、相手に投げつけられのです。
また、ネットという媒体は情報をすばやく伝達することができます。
悪意によって生み出された言葉が、手軽に、迅速に、そして時には大量に、その悪意が向けられる相手へと押し寄せることになるのです。
そして、それはとても酷い傷を、相手に与えることになるのです。。。
悲しいことですが、そうした出来事が、ネットの世界では多発しているようですね。。。
ネットの世界は、とても危うい要素を抱えた世界でもあると思います。
私自身、そうした特質への認識が甘く。人を著しく傷つけてしまったことがあります。
ネットでのコミュニケーションは。
自分の表現が相手にどう伝わるかを、現実世界よりもより深く考慮せねばならないものなのですね。
思っていることをそのまま書けばいいというものではなく、軽はずみになりがちな傾向を抑えるストイックさが必要なのでしょう。。。
その点では、より一層成熟した大人としての振舞いが要求される世界でもあります。
そのサイトの管理人の方も。
深く傷ついているはずです。
いつもお世話になっている方なので。
いろいろと励ましてさしあげたいのですが。
今は、どんな言葉でも、おそらくプレッシャーを与え、混乱させてしまうことでしょう。
今はただ、そーーっとしておいてあげるのが一番なのかな、って思っています。
そっと、見守っておこうと思います。
私も時々礼拝説教をしますが。
自分の語った言葉が、おもいもかけない意味を相手に与えていることが多くあります。
言葉は、結局自分の力では支配できないものです。
言葉はそれ自体。自分の予想外の効果を及ぼす、力をもったものです。
特にそれが不特定多数に対し発せられる場合。それは権力に近いものがあります。
言葉の伝達を取り仕切るメディアというものも。現代社会では一つの権力に他なりません。
私自身。よっぽど注意せねばならないことだな、と思っています。
この仮庵で、そのようなことが起こらないことを祈ります。
それだけに、管理人の私が、しっかりしないといけないのですね。
2001年5月11日(金) 「さくらんぼ」
教会の庭に、彼岸桜の木があります。
毎年、たくさんのさくらんぼがなって、園児たちや先生方の口に入るのです。
今年も、みんなみんな楽しみに待っていました。
しかし。
今年はGW中にたくさんの鳥たちがやってきて、どうやら、なりかけていたさくらんぼを、全て食べてしまったようなのです。
休み明け、桜の木を見てみたら、全然ありませんでした。
楽しみにしていた私たち。
みんなそろって、がっくりです。
鳥って、結構学習能力があるようで。
年々さくらんぼをついばむ鳥が増えていたのですが、今年は調子にのって、全部たいらげてしまいました。
少しぐらい、残してよね(怒)。まったく、遠慮がないんだから。。。
恐るべし。鳥たちよ。
でも、さくらんぼの種たちにとっては。
鳥がいろんなところに連れていってくれて。
ありがたがっているのかも。
もしかしたら、人間が勝手なのでしょうか。
まあ、いいか。
まだまだ納得できていない、私なのでした。
2001年5月10日(木) 「神戸聖書展」
教会員の方々と、三宮そごうにて行われている「神戸聖書展」に行ってきました。
なかなかに。
興味深いものでした。
展示の内容は聖書の写本の複製が殆どでしたが、系統立てて陳列してあったので、参考になりました。
有名な死海写本(の中のほんの一部)も特別展示されていました。
研究者にとっては極めて重要な歴史資料である死海写本ですが。
私のような学の浅い者には、内容を読めるわけでもなく。
正直言って、「ふーーーーん」ってな感じでした。
ただ、大変に几帳面に、整然と、綺麗な字で書いてあって、聖書に対する思いが深いことを感じることができました。
死海写本が発見された当時、研究者の予想以上に正確に聖書を筆写していたことが判明し、話題になったことがあります。
なるほどなあ、と納得しました。
また、私の好きなイザヤ書の一部だったこともあり、ちょっぴり感動しました。
でも、やはり一番充実していたのが、日本、そして神戸の関係の資料でした。まあ、当たり前ですかね。
現存する日本語訳聖書の最も古いものである、ギュツラフ訳聖書(これは本物)もあったりして、よかったです。
また、小磯良平の聖画集の原画や、遠藤周作の直筆原稿、手塚治虫の直筆絵コンテなどが特に感動的でした。
日本のプロテスタントのキリスト教は主としてアメリカから伝えられました。
日本の文化、土壌の中で、キリスト教を伝えようとした先人たちの苦労がしのばれ、興味深いものでした。
また、足元の地の歴史を大切にすることの必要性を改めて感じました。
平日だとういうのに、会場は大賑わいでした。
14日まで開催していますので、お近くの方、興味のおありの方は、是非どおぞ。
2001年5月8日(火) 「子ども、ニ題噺」
その1.「太」
某月某日。某幼稚園の園児と、某教会伝道師の、給食中の会話より。
某園児:「O先生は、どうしてそんなに太ってるの?」
某伝道師:「・・・・・・・・」
某園児:「先生、食べ過ぎだよ!!食べ過ぎちゃ、駄目だよ!!」
某伝道師:「・・・・・・・・」
某園児:「太っちょ!!!」
(一体、私が何をしたというのだろう。。。)
その2.「顔」
某月某日。某教会伝道師と、3才の娘との会話より。
娘:「パパの顔、ぶつぶつで嫌!! 嫌い!!」
某伝道師:「・・・・・・・・」
娘:「パパの顔、変なの〜」
某伝道師:「・・・・・・・・」
娘:「パパもう顔見せないで!!」
(一体、私が何をしたというのだろう。。。)
トホホ。。。
そんなこんなで、日々を過ごしております。
HPの顔写真も、娘に嫌われた顔ですから、削除させていただきました。
もう、顔は載せませんからね!!
そう。今日は久しぶりに「すきなもの」更新しました。
少し難しいかもしれませんが、絵のお話です。
もしよかったら、お読みください。
そういえば。
「すきなもの」で募集したクイズ。挑戦者は皆無でした。。。
トホホ。。。
もしも挑戦者が一人でもおられたら。
解答編を、アップしますからね!!
2001年5月5日(土) 「懐かしや、ひらかたパーク」
昨日、5月4日、父と、兄の家族と、うちんとこと一緒に「ひらかたパーク」に遊びに行ってきました。
私が長く住んでいた八幡市は、京阪沿線にあります。京阪沿線には枚方市(ひらかたし)という町があり、そこに「ひらかたパーク」があります。
生まれ育ちともに京阪沿線だった私は、よくこのひらかたパークに遊びに行ったものです。
特に秋に開催される「ひらかた大菊人形」が有名で、全国でも大きな規模の菊人形だそうです。
その「ひらかたパーク」に、実に十数年ぶりに行ってきました。
数年前に改装されてからは初めてのことで、その変わり様に、ただただビックリ。
割とやぼったい感じの遊園地だったのですが、かなり現代風なテーマパークになっていました。
晴天のもと。
昼の11時に到着して、夜の7時ごろまで遊んでいました。
楽しかったのは楽しかったのですが、いやあ、疲れました。。。
連休中ということもあり、かなりの人ごみで、アトラクションに乗るにも、長い待ち時間があります。
私はほとんど乗り物にのることもなく、父と二人で荷物番をしていました。
甥っ子、姪っ子と娘は、好きな乗り物に目の色変えて遊びまくっていました。
私の乗ったアトラクションは、「メテオ」というフリーフォール型のアトラクションだけでした。
高いところに座ったまま吊り上げられ、垂直降下。
絶叫マシンに弱い私は、「ひぃぃぃぃぃーーー」っと悲鳴をあげながら落下していきました。
その時間の長かったこと。傍から見ているとほんの数秒しかないのですが、実際に体験するとえらく長く感じるものですね。
降りた後も、足がふらついていて、側にいた子どもたちに笑われてしまいました。トホホ。
すっかり様変わりして、前よりもずっと楽しそうなアトラクションぞろいになったひらかたパーク。
実は以前。モンキータワーという、猿ばかりがいる小動物園がありました。
園の中の小高い丘に経った螺旋状のタワーで、いろんな種類のお猿さんがいて、結構私、好きだったのです。
今、そのモンキータワーは無くなってしまいました。。。
「ゆく川の流れは絶えずして、とどまることなし」
ちょっぴり感慨にふけった瞬間でした。
あそこにいたお猿さんたち、今はどこでどうしてるのかなあ。。。
そんなこんなで私の短かった連休も終わり。
今日からまた、仕事。明日からは本格的に始動です。
さあ、気持ちを切り替えて、がんばらなくっちゃ。
2001年5月2日 「エジソン祭り」
明日から、また4連休ですね。私の休みは実質3、4の二日だけですが。
それでも、ありがたいですね。
一応、月曜日は教会からお休みを頂いているのですが。
教区の活動やら、OB会のあつまりやらで、つぶれることが多いのです。
ちょっと明日はゆっくり、骨休め。
くつろぎますね。
明日(3日)の夕方には、京都は八幡市にある実家へ帰ります。
また1,2日更新、おさぼりしますね。ごめんなさい。
そうそう。八幡といえば。私鉄の京阪電車に八幡市という駅があります。
その駅前広場には大きな竹のモニュメント(ださいのだ、これが)があります。
八幡は竹の産地として長く有名でした。
エジソンが電球を発明したときに。
電球のフィラメントに使用したのは、手元にあった京扇子の骨を、炭化させたものだったそうです。
その京扇子の製造元を調べると。なんと八幡の竹で作ったことがわかったそうです。
世界最初の電球が、八幡の竹で作られたということで、駅前に竹とフィラメントをあしらった、例のださいモニュメントがあるのです。
石清水八幡宮のある男山の山頂には、「エジソン記念碑」というのがあります。
例の有名な言葉。
「天才は、1%のひらめきと、99%の努力からなる」
が刻まれています(英語で)。
そして、エジソン祭りというお祭りまであるそうです(行った事がない、いつあるかも、知らない)
エジソン音頭とかいうのもあるという噂を聞いたのですが、確証はないし、聞いたこともありません。
いやあ、けったいな、町ですな。
まあ、そんなこんなで里帰り。
みなさんも、道中、お怪我などありませんように。
2001年5月1日(火) 「教会と性」
昨日、今日と、私の属している兵庫教区の社会部委員会の合宿で、兵庫県は山崎町というところに一泊してきました。
山崎は山間部の町で、温泉なぞにつかりながらゆっくり話し合いをしてきました。
いろいろな課題に関してどう対応していくかを話し合いました。私も最初に30分ほどの発題をしました。
日頃あまり貢献できていないので、少しは役に立ってなによりです。
発題のテーマは。
「セクシュアル・マイノリティ差別問題への今後の取り組みについて」
でした。なにやら難しそうなテーマでしょ。
セクシュアル・マイノリティ、訳せば性的少数者です。
私たちが思っているよりもはるかに人間の性のあり方は多種多様であって、多数派の有り様とは異なる方々も、たくさんいらっしゃるのです。
教会は、同性愛者をはじめとし、そうした性的少数者の人たちを断罪し、排除し、差別し続けてきました。
そうした体質を批判、克服し、さまざまな性のあり方を認められる教会へと変革していこうと、たいしたことはできていないのですが、それでも私は活動しているのです。
聖書には同性愛禁止と読まれてきた箇所がいくつかあり、それが社会全体の同性愛嫌悪と呼応し、同性愛者や他の性的少数者の人たちを傷つけてきました。
厳密な意味では、聖書は同性愛に関し何も語っていないというのが正確なところなのですが。
教会がその正典である聖書とどう向き合って行くか。生きる人間とどう向き合って行くか。
そういう、根本的な問題を抱えているだけに、性的少数者の方々の権利のために活動することは、かなり難しいのです。
その道のりの遠さに、ときおり愕然、呆然としてしまうのですが。
それでもその道を歩んでいかねばならないと思っています。
このことについては、また、別の機会に詳しく述べていきます。
難しい話もありますが、おつきあいいただければ幸いです。
合宿のあった山崎は、山間の町でしたので、夜は本当にまっくらでした。
天気がよかったせいもあり、そこから見る、夜の星はとっても綺麗でした。
手の届かぬものを、必死でつかもうとしている自分たちの姿と重なって、なにやらとても印象的でした。
そういえば、5月になりました。
1月に仮庵をスタートさせて、もう、5月です。思えば、いろいろなことがありました。
でも、こうして続けていられること、すごく楽しいのです。
これからも、よろしくお願いしますね。