(Phase KH-1 :: 1013 04 20 13 53)
果遠は音楽準備室の扉を開けた。
その中は暗く、化学塗料の匂いと金属が錆びたような匂いが混じって漂っていた。
「・・・」
室内の匂いを嗅いだ果遠は、慣れているのか特に表情を変えず、淡々と内部へと進んでいった。
ある棚の前で足を止めた果遠は、棚の中に置いてある物に目を向けた。
その棚には、様々な弦楽器が丁寧に保管されていた。
それらの弦楽器は、一様にケース――微妙な色は違えど、例外なく黒系統の色のケースだった――に入れられていた。
果遠は棚の端に中身が空になった乾燥剤を見つけた。
「(無くなってる・・・これから湿気も多くなるから新しいのを買って来ないと)」
果遠は棚の中から一つのケースを取り出した。
更に果遠は取り出したケースを横にあった机に置き、鍵を外してゆっくりと開けた。
その楽器は重厚な茶色に鈍く光ったヴィオラだった。
果遠はヴィオラをケースの中からそっと取り出し、汚れや歪みが無いか、見る角度を何回も変えて確認した。
この一連の点検作業は果遠の日課だった。
通常であれば、果遠は放課後にこの作業を行うはずだった。
しかし、この日は果遠が属する図書委員会の定例会が放課後に予定されていたため、作業を休み時間中に行っていた。
点検作業を終えた果遠は、ヴィオラをケースに収納し、棚の元の場所に丁寧に置いた。
果遠は間を置くように棚を見詰めて軽く息を吐き、部屋を出ようと部屋の入り口の方を向いて歩き出した。
その時、足元でかさっと紙が擦れるような音がした事に果遠が気付いた。
「・・・?」
果遠は足元に目を向け、音の正体を確認した。
それはやはり紙だった。
果遠はその紙を屈んで拾い上げた。
「(楽譜だわ・・・あ、あそこにも)」
果遠は部屋の奥の方に同じく楽譜の紙が落ちているのを確認した。
「(あの子達・・・整理もちゃんと出来ないの?)」
ある複数の人物達に不満を抱きながら、果遠は部屋の奥に向かった。
果遠が落ちている楽譜を拾おうとした時、
『・・・話は聞い・・・だけ・・・せんてん・・・しゃ・・・存在する・・・』
隣の部屋から女の子の声が聞こえた。
果遠は声が聞こえる部屋の方向を向いた。
すると、果遠には音楽室へ繋がる扉が見えた。
怪訝な顔を浮かべた果遠は、とりあえず楽譜を拾って机の上に乗せた後、
「(悪趣味だけど・・・)」
と罪悪感に苛まれながらも息を殺して聞こえてくる声に耳を澄ませた。
『お前・・・分かんねぇ・・・』
今度は男の子の声が聞こえた。
『・・・うん』
そして再び、先刻の女の子の声。
隣の部屋にいるのはこの二人だけのようだった。
「(・・・休み時間にまで逢引きとは、お熱いこと)」
果遠は交際者同士の単なる痴話だと悟った。
一気に興味を殺がれた果遠は、落ちていた楽譜を片付けて声の主から見つからないうちに部屋を出ようと考えた。
『・・・何となく・・気がする・・・ありがとな』
『・・・なんか・・・よねっ! ・・・知ってて・・・だからっ・・・』
『それに・・・アンタに・・・当然・・・』
『・・・気負う・・・って。 ・・・お前は・・・という・・・対等・・・お前は・・・でもねぇ・・・だから・・・じゃねぇよ』
『瞬・・・』
果遠は楽譜を片付けながら、隣の部屋で繰り広げられる会話を片手間に聞いていたが、
「(瞬・・・?)」
最後に聞こえた名前に聞き覚えがあった。
「(瞬に彼女がいたなんて・・・少し驚きね)」
果遠は驚きつつも、瞬に彼女がいる事をまだ信じられなかった。
『何を今更そんな当たり前・・・言ってるのよ! 『お前はアンタの・・・でもない』って? 調子に乗る・・・いい加減にしなさいよ! アンタを一人に・・・不安だから・・・ついてあげてるんでしょ!? 偉そうに! アンタは私に言われた・・・さっさと私に・・・すればいいのよ! 私が居ないと・・・だけのくせに! そんなんじゃ何時まで経っても・・・のような立派な・・・にはなれないんだからっ!』
果遠は女の子の声が急に大きくなった事に、更に少し驚いた。
「(・・・びっくりした。 この声・・・聞いたことがあるわね。 六組の茜かしら?)」
『茜らしいな』
果遠は、この瞬の声で、女の子は茜だということを確信した。
『心配・・・俺は・・・超える・・・みせるぜ』
果遠は、何の会話か全く分からなかったが、
「(まるで千都瀬と由人みたい。 突っ掛からないという部分だと瞬は由人とは全く違うけど)」
会話の雰囲気だけは察することが出来た。
その時、きんこんかんこんと、緊張感のない予鈴が鳴った。
六時限目が開始した。
「(いけない・・・でも、今ここを出るとまずいわね)」
果遠はすぐに音楽準備室を出てしまうと、瞬と茜の二人と鉢合わせになる虞があった。
「(この部屋で二人をやり過ごすしかない・・・か)」
果遠は観念し、入り口の扉の近くに立ち、息を潜めた。
『・・・! もう授業始まちゃったじゃないの!』
『みたいだな』
『『みたいだな』じゃなくて! 私に如何して欲しいか早く命じなさいよ!』
『そうだな・・・』
『放課後に・・・屋上に呼び寄せて・・・場合によっちゃ・・・茜も屋上に来て・・・援護して・・・これでいいか?』
『仰せのままに』
果遠はこの二人の会話が少し異常であると感じ始めた。
「(・・・命じる? この二人にそんな趣味が・・・でも、態度的に正反対だけど・・・どうなっているの?)」
「(屋上に呼び寄せる・・・? 誰を? 何のために?)」
「(・・・ま、どうでもいいか、そんなこと。 私には関係ないし)」
果遠は、興味よりも面倒臭さの方が勝った。
その直後、音楽室の扉が開く音が聞こえた。
次に、果遠は音楽準備室の薄い扉を挟み、二人のやり取りを間近に聞いた。
『あいつを呼び寄せるのは俺に任せとけ。 じゃあ放課後に現地で。 授業終わったらすぐ来いよ!』
『アンタこそね』
そして、果遠は遠ざかる二つの足音を聞いた。
「(・・・行ったみたいね)」
果遠は音楽準備室の扉を開き、辺りを慎重に窺った。
辺りには誰もいなかった。
果遠は自分の教室に向けて徐に歩き出した。
「(そう言えばあいつ今日もバイトか・・・たまには私の予定に合わせてもいいんじゃないの?)」
果遠は歩きながら、瞬と茜に触発されたのか、付き合ってる年上の彼氏のことを考えていた。
「(今度突然バイト先に行ってやろうかしら)」
果遠は廊下の窓から外を見た。
青い空が、果てしなく遠く広がっていた。
- more...
由人と落葉と正次郎の三人は、図書室にいた。
本を読む落葉のもとへ、由人が近寄ってきた。
「くぁー・・・今日も疲れたぜ・・・。 落葉ー、そろそろ帰ろうぜー」
「午後はずっと寝ていただけだろう? 由人」
「ふふふ、甘いな落葉君。 睡眠学習に励んでいたのだよ、俺サマは!」
「・・・意外だ。 由人の口から『睡眠学習』という熟語が出てくるとは」
「ば、馬鹿にするんじゃねぇよ! 俺だってそのくらいは知ってるっての!」
そこへ、鞄を背負った正次郎が加わる。
「ごめん、二人とも。 お待たせー」
「おっ、じろ! 良い所に来た! じろからも言ってやれよ、落葉に!」
「えっ? な、何を?」
「決まってんだろ? 実は俺の頭が良いってことだ!」
「え、えっと・・・」
「どうした、ほら早く言ってやれ!」
「あのね、ぼく、嘘はつきたくないから・・・」
「な、なんだとー!?」
「ひぃ! 由人ごめんよぅ・・・」
「一日に二度は流石に辛いな、この催しは」
由人と落葉と正次郎の三人は、校舎の正面玄関に辿り着いた。
「・・・でさ、じろはアレ買ったんだよな?」
「え? アレって?」
「アレだ、アレ! 新作のあのゲームソフトだ! えっと・・・ファイ何とか」
「ファイナルクエスト7か?」
「あー、それそれ! ・・・それにしても落葉良く知ってんな?」
「同じ世代の人間と交流を図る時に、時事常識には精通しておいた方が交流しやすいからな」
「・・・いかにも落葉らしい理由だな」
「ファイクエ7? 買ったけどクリアしちゃったから陽亮に貸しちゃったよ」
「も、もうクリアしたのか!? 発売されてまだ一週間も経ってねぇよな・・・」
「発売初日にクリアしちゃった・・・えへへ」
「くっ・・・出遅れちまったぜ・・・。 しかも今陽亮に貸してるのか」
「う、うん・・・ごめん・・・」
「何で謝るんだよ、別に謝る必要ねぇだろ。 ・・・あ、それじゃさ、あいつが終わったら次は俺に貸してくれねぇ?」
「うん、いいよ!」
「よーっしゃ、やっぱ持つべき物は友だな!」
「・・・現金な奴」
「何か言ったか落葉!?」
「特に何も」
「・・・ふん、まあいいや。 ところでよ、それで思い出したんだけど陽亮達は何処行った?」
「陽亮と蒼碧ちゃんはね、今日掃除当番なんだよ」
「あー、そう言えばそうだったな。 まぁ、どうせあいつら何時も通り二人で帰るだろうからな。 ・・・それで、のんことアホちーは?」
「果遠は図書委員会の定例会だ。 千都瀬は――
頃合いを見計らったように部活上がりの千都瀬が三人に背後から走り寄る。
「よーっす! お疲れー!」
「噂をすれば何とやら、だな」
「なになになに? アタシの噂してたんだ?」
「ああ、何処で迷子になってピーピー泣いてんだろうな、ってな!」
「へぇー。 ・・・じゃ、おっちー、じろ、一緒に帰ろうぜぇ!」
「な、なにっ!? こいつスルーしやがった!」
「え、あ、うん!」
「・・・千都瀬が受け流すことを覚えたとは、大きな進歩だな。 それと『おっちー』はやめてくれ、恥ずかしい」
四人は西日が照らす放課後の校庭を、校門へ向けて歩いていた。
「・・・だけどよ、陽亮の言ってること、まだ信じられねぇよな」
「誰かに襲われたって話? ぼくもびっくりしたよ」
「陽亮が話していない事実がまだ何か隠されている気がするが・・・。 明日もう一度問い詰めるか」
「おっ! 落葉乗り気だな! 何か分かったら俺にも教えろよ」
「何を言っているんだ? 聞くのは由人、君の役目だ」
「は、はぁ!? 何で俺なんだよ!」
「君の下らなさとしつこさを持ってすれば陽亮もうっかり喋る、僕はこの可能性が高いと見ている」
「そ、そうか? いやぁ、参ったな・・・」
「・・・あんた、それ褒められてないから」
「な、何だと、ちー!」
「豚もおだてりゃ木に登るってことだよー!」
「ふざけんな! 何豚だ!?」
「黒豚だよー!」
「・・・何だ、黒豚か。 じゃあ許す」
「ふん、当たり前だねっ」
「・・・お、落葉ぁ、三回目ってどうなの・・・?」
「いちいち僕に聞かないでくれるか、正次郎。 頭痛がしてくるから」
「ご、ごめん・・・」
「ん・・・? あれ?」
「え? どうしたの由人?」
「今な、屋上に陽亮がいたように見えたぜ」
「屋上に?」
「ああ、ちらっと人影が見えた」
「あーあ・・・遂に幻覚まで見えるようになったんだ・・・。 かわいそうに」
「・・・ちー、よっぽどアレを喰らいたいらしいな」
「アレ、って何だよー!」
「もう忘れたのか・・・今日の俺の必殺技を!」
「・・・あぁ、あのアホな技のことか」
「ア、アホとは何だ、アホとは! 俺の編み出した必殺技をコケにしやがって!」
「あうぅ・・・二人とも、もうやめてよぅ・・・。 落葉、何とかし―― あぁっ!? もうあんなに離れて歩いてる!」
「じろ、こんなアホほっとこっ! どうせこいつの気のせいだよ!」
「う、うん・・・」
「なっ! じろ、お前俺を裏切る気か!?」
「えぇっ!? そ、そんな・・・裏切るなんて、違うよぅ・・・。 それより由人、早く落葉に追いついて一緒に帰ろうよぅ・・・」
「じろ、行こ行こっ!」
「ひゃっ!?」
千都瀬に手を引かれ、正次郎が由人のもとを後にした。
「おい、待て、お前ら屋上に行ってみたりとかしないのか!? そんな興味とか湧かないのか!? 俺一人でも行ってやるからな! 一緒に来たかったら、まだ間に合うから戻って来い! なぁ、おいってば!」
三人は校門の外に出て、由人の視界から消えた。
「・・・」
西日が先刻より少し大きくなった。
すぐ傍のグラウンドからはクラブ活動を行っている生徒達の声が間近に聞こえる。
天気は良好、風は東。
校庭にはやわらかい風が吹いていた。
「こ、この俺を置いていくとはお前らいい度胸してんなぁ! ・・・待ーってくれよーう!!」
由人は全速力で三人の元まで疾走した。
そして由人は、追い越し間際に千都瀬の靴紐を解き、直後に顔面を思い切り殴られた。
- It is an INTERMISSION till EPISODE 3 starts.
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