深夜、病棟に響き渡る女性の悲鳴!
今、ここには生死の狭間にいる重篤な患者はいない筈である。
頚椎を含む脊椎疾患者か、若しくは股関節等の関節疾患者がその大半を占めている
のである。なのに、どうしたことか。果たして、急変なのだろうか?
「助けてぇー。看護婦さーん。死ぬーっ!!」
腹の底から搾り出すような大声に呼応するようにナースコールが鳴り渡り、ナースが深
夜の病棟の廊下をぱたぱたと走り去って行く。しかし、そこには愁訴の割りに、悲壮感
が不思議に漂ってはいないのである。
緊急に呼び出される医師の姿がないわけであるし......。
ただ、これが毎夜の如く繰り返されている様子なのである。
同室者達には堪ったものではないであろう。
仮に、本当に重篤であったとすれば、当該病室の雰囲気は暗いものになるであろうし、
その入院患者は一般病室ではなく、個室に入れられるべきものであろうというものだ。
そして、ひとしきり騒然とした後の病棟は、深と静まり返った静寂が戻ってくる。
この茶飯事となった深夜のイベントに、私の同室者は興味を持ったようであった。
が、彼もなかなかの紳士であった為に、ジロジロと彼女の様子を窺いに行くことは流石
に躊躇われるみたいで、独り悶々とこのイベントに耳を欹てているらしいのであった。
しかし、そこは狭い病棟である。
やがて、それが明るみになることとなるには時間の問題であったかもしれない。
深夜の彷徨える患者集団に飲み込まれて以来、毎夜ベッドに戻るのは午前1時頃。
こうした騒ぎのこともすっかりと忘れていた頃、起床後トイレに行こうとギプス室の前を
通りかかり、たまたま開いていたドアの中を覗いた時に、それが一体何であったのか
が漸く判明したのである。
大きく開け放たれたドアから見えたものは、ベッドに寝ている50歳代に見える女性患者
であった。高齢者の場合には、長期入院生活を送るとボケてしまうこともあるらしいが、
正しく彼女はそれに近いのではあるまいか?
つまり、毎夜の如く彼女が騒ぎ始めると、周囲の安静を維持する為に、ナースがベッド
ごと彼女をこの部屋に隔離してしまうということなのであろう。病棟全体のQOLを考慮す
れば、いたし方のないことであると思われる。
しかし、仮にボケが出たとしても、余りに若いではないか。
ご家族の心境はいかがなものだろうかと慮りながら私は独りトイレに向かったが、高齢
な両親を持つ私としても、何だか身につまされる想いであった。
寝起きで頭がはっきりしないながらも、早朝のトイレで用を足しながら、老いについてつ
い深く考える私がそこにいたのであった。
退院するまで忘れていればよかったと窓の外を見ながら思った......。
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