周旋家その一

薩長同盟

先の五卿遷座に伴い太宰府に追従した慎太郎ですが、その後間もなく三条卿の命に

より土方らと共に上洛します。その命とは、表向きは五卿の親類知己にその消息を知

らせる事にありましたが、実は薩摩藩京都屋敷の吉井幸輔を通じで薩長和解を進め

る為でした。この上洛のときには吉井や小松帯刀らと話し合い、その成果を報告する

ため一旦大宰府に戻り、約ニヶ月後に再上洛するのですが2度目は途中下関へ立寄

り、このころ帰国潜伏中の木戸孝允(桂)に会い和解のことを話しその端緒をつかみ

ます。しかし、京都へ行ってみると西郷と行き違いになっていた為、すぐに鹿児島へ向

い、そこで渋る西郷を説き伏せ下関で木戸との会談へと持ちこみます。ところが途中

佐賀関で西郷は第ニ次長州征討の事で京都へ行くことを理由に会談をキャンセルし

てしまった為、失意のうちに単身下関へ上陸しました。この会談に期待を寄せていた

木戸は憤慨し、せっかく苦心をして周旋してきたものがここで崩壊するかと思われまし

たが先に下関に滞在し土方から薩長和解のことを知らされていた龍馬と共に上洛し、

再度薩長和解の重要性を西郷に説き長州藩からの和解策を受け入れるなどして話し

合いを詰めてゆきます。この頃から和解の周旋役は彼から龍馬へ引き継がれ慶応ニ

年一月二十二日京都薩摩藩邸において、薩長盟約が成立しました。(同盟としての成

立はこの後それぞれの藩主間でこの盟約の内容が確認されてからのことと考えられ

ます。よってここでは盟約と記します。)論策「時勢論」をこの時期に執筆しています。

第二次長州征伐

薩長和解の目途が立ち始めた頃、慎太郎は大宰府に呼び戻され五卿応接係を仰せ

つかります。そして、新年を大宰府で迎えますが、盟約のことを常に憂慮していました

そして慶応三年二月中旬再び上洛するのですが、その途中下関で木戸から盟約成立

の事を聞きました。上洛後、先に伏見寺田屋で負傷した龍馬を京都薩摩藩邸へ見舞

い、西郷と共に龍馬とお龍の仲を媒酌し祝っています。其れから間もなく薩摩藩船三

邦丸に乗船、長府藩士三吉慎蔵と共に下関へ入り、長州征討の経過を大宰府へ報

告する為に長州藩にとどまり、この間にも木戸や高杉晋作を往来し、諸隊の間に入っ

て奔走しています。慶応ニ年六月初旬いよいよ幕府による第二次長州征伐が始まり、

彼は一旦開戦の報告の為大宰府へ戻りますが八月には小倉口を占拠した奇兵隊を

訪れその脚で下関へも立ち寄り高杉と面会しました。ここで郷里の父兄へ征長戦を報

告する手紙を送っています。(このとき既に父が亡くなっていることを彼は知らされてい

なかった。)直接戦いには参加していないものの、その内容は読み手がその戦いぶり

を目の前で見ているかのように書かれているといいます。

九月二日、幕府側の諸事情により休戦協定が結ばれ、第二次長州征伐は終結しまし

たが、結果から先に言えばこの戦いは、長州の圧倒的勝利といえるでしょう。それは

彼や龍馬らの手によって成し遂げられた盟約(同盟)の威力を物語るものであり、また

幕府の衰退を印象付けるものでもありました。

訃 報

長州再征の後、慶応ニ年の秋から翌三年春頃にかけて、京都を中心に討幕運動が

いよいよ盛んになって行きます。将軍家茂の死去により一橋慶喜が徳川家を相続し

幕政改革を薦めようとする中、諸藩は変わりゆく時勢に目を向けていました。慎太郎

も慶応ニ年九月に薩摩藩士西郷信吾とともに情勢探索の為に上洛し、この時期、彼

は以前にもましてその政治活動が多忙を極めてゆきます。(土佐の上層部も少なから

ず彼の意見を聞くため訪問しています)彼は諸藩の志士と密に連絡を取り、また時勢

の変遷を的確に掴み在京在郷の知己へむけて時勢論ニ策を執筆しました。

この年の十一月、慎太郎の元へ亡き姉かつの夫である北川武平次が、父小傳次

の訃報をもって訪れます。このとき彼は愁哭消沈の想いを実家にあてて書き送

りました。訃報が遅れたのは家族が彼の活動を妨げまいとしてのことだったと

いわれています。)

慶応ニ年十二月二十五日孝明天皇崩御。明けて正月、彼は大宰府へ向けて出発五

卿へこの事を伝えています。そして暫く服喪ののち二月末に鹿児島へ出立し西郷に高

知訪問(薩摩・越前・土佐・宇和島の四候による時勢対策四候会議を実現させる為

のもの)の様子などを尋ね、西郷の要請により島津久光と会見し大宰府へ戻りました