享和絵図【享和2-3(1802-3)年作成、米沢市上杉博物館所蔵
至宇津峠
享和絵図【享和2-3(1802-3)年作成、米沢市上杉博物館所蔵】
市野々宿は「日本奥地紀行」によるとイザベラ・バードが宿泊し、「感じのいい勤勉な村」と表現した地。
大永元(1521)年伊達稙宗により大里峠が開削され、十三峠の「峠の村」として役割を果たした。
市野々と小国の間には宿継法が定められていて月の半分は宿場業務から解放されたが、戸数の増加に伴い定宿場に指定された。市野々の問屋兼肝煎は伊藤甚九郎であったと思われる。その後、宝暦のころ高井家に代った。
今は、集落は移転し「白い森おぐに湖」というダム湖になっており、夏場には集落跡を見ることができる。
中央上の松の木の辺りが古道であり
「鐙坂」と呼ばれていた
正保の清帳には小白子沢と書かれている。桜は宿場ではなく、白子沢→市野々間1里30町「峠の村」とし休息所とされたものであろう。旅籠屋2軒、茶屋1軒が営まれていた。
白子沢は小国→箱口→白子沢→小坂(飯豊町)への道に発生した村で、そこへ越後街道が開通した。
上杉の初期、宿場設置の頃は、既に戸数32戸の村に成長し宿場の受け入れも容易であったであろう。
また、白子沢は沼沢と同様な小村で人馬は少なく農作業もあり、月の半分は各々宿継を休み農作業に精励するような定めであった。最上屋(遠藤家)が肝煎と問屋を兼ねていた。
黒沢のカヤの木 |
所在地 |
問合せ先 |
村の入り口に立つカヤの木 |
黒沢地内 |
教育委員会 |
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カヤは銘木で碁盤材としては最高級品である。樹高22m、周4.6mあり、樹齢およそ250年。この木には「カヤの木のお伊勢参り」という伝説がある。また、町指定の天然記念物でもある。
【伝説】
ある年、カヤの実は不思議なことに、いっこうに色ずく気配がありませんでした。村の人達は不思議に思っていました。翌年村の人達がお伊勢参りにでかけ宿の人が去年は黒沢から「おかや」という女の人が来たことを知らされびっくりしました。なぜなら、黒沢には「おかや」という女はいないからです。村に帰ってその話をしました。数年後、カヤの木のそばの家が火事になったときも焼けずにすんだのは、お伊勢参りに行って来たおかげだというようになりました。
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赤芝峡 |
所在地 |
問合せ先 |
赤芝峡(スノーガードはR113、川は荒川) |
小渡地内 |
観光協会 |
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「春の新緑」 「秋の燃ゆる紅葉」 「冬の山水画景色」 と変化ある絶景が楽しめる。場所は磐梯朝日国立公園内にあり、史跡・名勝・天燃記念物の審査員であった 故 脇水鉄五郎博士一行が「日本の赤壁」と激賞したところである。 |
大里峠
県境の峠 大里峠へ
玉川宿は大里峠の「峠の村」として、領境警備の村、交通、物資の輸送で重要な地点として重視された。
上杉の時代に「宿場の制」が設けられ、旅行者のための宿泊、休息施設や番所が設けられ旅人の監視、農民の逃散を監視、また禁輸品の防止、役銭の取り立てなどの業務を行った。また、良寛が宿泊した寺といわれている「玉泉寺」や町文化財である「木造観世音菩薩」と「烏天狗像」がある。
足野水は平家の落人といわれる佐藤治右エ門家が身分を隠し隠棲していたものであろう。上杉の初期、慶安のころこの地に土着し、上杉から宿場取り締まりを命ぜられ、地域の開発に努めた。
地名の由来は、竜ケ岳頂上には池の跡があり、池には竜が住み、村に下りて遊ぶうちに、雌馬に恋し連れ去った。何年か過ぎ老人が山へキノコ採りに行き五色に輝く、三本足の馬に出合った。こんなことがあってから、村の名前を「足三つ村」と呼び。今では「足野水」と書かれるようになった。
享和絵図【享和2-3(1802-3)年作成
、米沢市上杉博物館所蔵】(右絵図)
小国という集落はおよそ三つに分けられる。御役屋を中心とした「家中」通常坂町と呼ばれる区域。
次はそれに続く八木沢橋までの家並みが小坂町。上杉の初期、宿場の設置をみるようになると、小国は交通、軍事の重要な地となり小国橋の東方に町が形成され向町又は粡町と呼ばれる地域となった。
黒沢から小国への道。江戸初期、越後街道の本道は、正保2(1645)年の清帳にあるように、種沢入口から横川岸に下り南蛮淵の下手のコエ場を渡り芹出に出て川を渡り木落に出る方法と黒沢から横川を渡り松岡に出る路線であったが、降雨増水のときは「川止め」されるので、その後、種沢から杉沢そして高鼻峠を越え小国に至る道を改修し公的な輸送ルートとした。
村の発生は古く文禄4年(1595)には8戸(32人)、文政10年(1827)には18戸(104人)で2世紀前の戸数は現在とほぼ同じであるが、人口は倍近くと多かったようである。
黒沢は上杉時代小国〜市野々の間宿として利用されていたようである。集落内には山岳信仰の飯豊山碑と湯殿山碑、巡礼信仰の三十三観音碑と六部塚があり村人の厚い信仰心がうかがえる。また、町の天然記念物で知られる「カヤの木」が集落の入口にある。
享和絵図【享和2-3(1802-3)年作成、米沢市上杉博物館所蔵
イザベラ・バードは明治11年7月12日夕暮れに黒沢峠を越え、
市野々の岩船屋(黄色枠内)に泊まったといわれる。翌日桜峠
で、4頭ずつになって荷物を運ぶ何百頭もの牛と出会う。
享和絵図【享和2-3(1802-3)年作成、米沢市上杉博物館所蔵
沼沢宿は寛永期(1624〜1644年)に開発され、少し遅れて駅制化されたものであろう。
沼沢の旧道は間瀬川に沿い見川屋前より村中橋を渡れば宿場の中心問屋場に着く。
正保の絵図によれば一町の間に24軒の家があったと思われる。
また、沼沢、白子沢は小村で人馬は少なく農作業もあり、月の半分は各々宿継を休み農作業に精励するような定めであった。最上屋(佐貝家)が肝煎と問屋を兼ねていた。また、多福寺には文化財の「欄間」や、米沢藩第14代藩主茂憲が宿泊した記録が白沼小中学校にのこされている。
間瀬は古くは22戸あり、「峠の村」として輸送に、休養に大きな役割を果たしたといえよう。この村は木炭の産出が多く、冬は背負って列をなし落合まで運び生活の大きな支えでもあった。やがて、鉄道の開通等で峠の村としての役割は終わった。
小国城祉 |
所在地 |
問合せ先 |
小国城祉の土塁跡 |
小坂町地内 |
教育委員会 |
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国境警備の要地で支城が置かれ、中世の平城で地味な建築であり、簡素で主郭と幅郭に分けられていた。城の四囲は横川の彎流部にあり、北は横川の断崖にのぞみ、南と西は横根山から沖庭山に至る領境山地で自然の障壁をなしていた。、東、南、西の三方には強大の濠と土塁を繞らせていた。 |
山城 |
所在地 |
問合せ先 |
中央の小高い山が山城の跡である |
小坂町地内 |
教育委員会 |
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横根山山麓をせにした、北側は断崖、脚下に横川の清流をふまえ、南は眼下の動静を一望にできる戦略的な地形である。事変が勃発すれば籠城を覚悟しなければならず、それに備えた飲料水の確保など防備がなされている。この山城は平泉時代から羽越街道の要地として配置されていたが、最初は防備性が少ないものであったが、その後多くの戦乱に関与しているため平時から防備の強化に意を用いたものといえる。 |
凶霊供養塔 |
所在地 |
問合せ先 |
凶霊供養塔 |
玉川地内 |
教育委員会 |
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安政二(1855)年六月建立。天明元(1781)年手ノ倉沢の雪崩による9名の死者を出す惨事。事情A嘉永七(1854)年のお同じ場所で母子が雪崩に突き落とされるという痛ましい事故が発生した。この度重なる事故に心を痛めた吉井屋兵左エ門が凶霊をなぐさめるため建立した。 |
三平窟 |
所在地 |
問合せ先 |
三平窟 |
玉川地内 |
教育委員会 |
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洞窟は玉川にのぞみ、流紋岩中の自然の洞窟。入口幅3.57m、奥行き6.5m、高さ1.6m、広さは畳14枚で数人の生活は可能である。
小国郷の伝説・言い伝え集より引用
昔、やり使いの名人三平という者がいて、江戸の旗本に奉公し、天野某との試合で勝ち、その後行方不明になりましたが、この地に住み槍の技術を生かし、鮭や鱒のエラだけを狙って捕まえる名人であったという伝説。
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ソロバン玉石 |
所在地 |
問合せ先 |
ソロバン玉石 |
十四ケ森地内 |
教育委員会 |
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四ケ森地と呼ばれる山地にあり、山は流紋岩地帯で、その厚さは100〜150m、標高300m以上の地域に分布すると推定される。そろばん玉は球顆の中の空洞に、珪酸が浸透したものである。県指定天然記念物。 |
菅原神社の板碑 |
所在地 |
問合せ先 |
板碑 |
越中里地内 |
教育委員会 |
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菅原神社の板碑の高さは、おおよそ60cm石英粗面岩質凝灰岩で完形品一基、頭部のみのもの二個存在する。板碑は一種の供養塔で室町時代に盛んに建立されたようである。置賜地方では江戸初期まで造立されている。 |
六斗沢の杉 |
所在地 |
問合せ先 |
六斗沢の杉 |
小玉川地内 |
教育委員会 |
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小玉川地内、十二山神の社前に生える神木。樹高15m、周4mの直幹高木。また、町の天然記念物の指定も受けている。
六斗沢地区は冬の飯豊おろしをまともに受け、厳しい環境の中で生育した巨木である。 |
小渡の水芭蕉 |
所在地 |
問合せ先 |
春の飯豊山 |
小渡地内 |
教育委員会 |
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サトイモ科に属し、主に湿原に群生し、雪が消えるとすぐ10〜20cmの雪白色の仏焔苞(ぶつえんほう)に包まれた花茎をたて6月ごろまでみられる。また、町の天然記念物の指定も受けている。 |
飛泉寺のイチョウ |
所在地 |
問合せ先 |
堂々と生い茂るイチョウ |
横川ダム湖畔 |
教育委員会 |
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応永34(1427)年傑堂能勝和尚が飛泉寺を建立した時の記念木で、樹高25m、周(目通り)7.1mあり、推定樹齢は500年以上となっている。また、町の天然記念物にも指定されている。
横川ダムの建設により
飛泉寺は東原地区へ移転。イチョウの木も高台へ移植さ れ現在に至っている。
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幼虫
交尾
チョウセンアカシジミ |
所在地 |
問合せ先 |
チョウセンアカシジミ |
増岡・小渡地内 |
教育委員会 |
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シジミチョウ科に属し、体長12ミリメートル前後、翅を広げた幅が35ミリメートル前後で本来はオレンジ色であるが県内のものは黒化が進んでいる。和名が示すとおり朝鮮半島およびアムール地方が原産地。国内の生息地は岩手・山形・新潟と特異な分布をしている。山形県の天然記念物に指定されている。幼虫はトネリコの葉を主食として成長する。5月頃羽化しトネリコの木の近くで雄姿を見ることができる。 |
ヤマグルマ |
所在地 |
問合せ先 |
開花したヤマグルマ |
十四ケ森地内 |
教育委員会 |
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年間を通して葉が生い茂り「トリモチ」が作られ、近年まで使用し売買されていたことにより「モチノキ」ともよばれてる。北限が十四ケ森周辺で5〜6月ごろ淡黄色の花が咲く。山形県の天然記念物として指定を受けている。
(トリモチとは、ゴム状でベトベトし、昆虫などを捕える時に使うペースト状にしたもの) |
朝日連峰 |
所在地 |
問合せ先 |
大朝日岳山頂 |
徳網地内 |
観光協会 |
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日本百名山「主峰大朝日岳」標高1870mから連なる朝日連峰。小国町からは徳網地内からの登山コースが知られている。、山麓にはクマタカ・ツキノワグマが生息、山々には多くの高山植物が自生し目を楽しましてくれる。 また、米沢藩から鶴岡藩に抜ける軍事上の間道があり、その跡が断続的に見出すことができる。(日本百名山 深田久弥著書より) |
横川ダム・白い森おぐに湖 |
所在地 |
問合せ先 |
ダムゲートと湖面 |
市野々地内 |
観光協会 |
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横川ダムは昭和42年の羽越水害の経験から治水を目的とする多目的ダムとして建設された。ダムによって作り出された人造湖を「白い森おぐに湖」と呼び、清流横川の美しい水面が映し出される。ダムサイトには「きてくろ館」があり、ダム工事の経緯・湖底に沈んだ集落および小国町に関することが、写真やビデオで放映されている。また、冬はわかさぎ釣りも楽しめる。 |
神明山公園 |
所在地 |
問合せ先 |
公園から小国町中心部を望む |
小坂町地内 |
観光協会 |
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JR米坂線小国駅より徒歩で約15分と手軽に楽しめる眺望地。地元では「県社山」と呼ばれる「神明山公園」 高台に立てば目の前に広がる朝日連峰、眼下には「小国盆地」の狭い所に立ち並ぶ町中心部の家々。山間いに広がる田園風景。また、公園内には「上杉神社」が祀られている。 |
樽口峠 |
所在地 |
問合せ先 |
峠頂上からの眺望(オオヤマザクラと飯豊連峰) |
樽口地内 |
観光協会 |
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峠の眼前に広がる大パノラマ。主峰飯豊山から頼母木岳までの飯豊の連山がつながり、春の残雪、その残雪に映える「オオヤマザクラ」のピンク色。夏は濃い緑に「万年雪」の白色。秋は鮮やかな紅葉のコントラストと「新雪」輝く銀色。自然の雄大さを感じられる景観地です。 |
片洞門 |
所在地 |
問合せ先 |
荒川渓谷とめがね橋 |
箱の口地内 |
観光協会 |
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明治時代の県令「三島通庸」が断崖絶壁の地「桜川渓谷」に開窟した新道で、「片洞門」とアーチ型橋梁「めがね橋」 それに、名勝「赤芝峡」にも劣らぬ桜川渓谷が堪能できる。 |
飯豊山 |
所在地 |
問合せ先 |
石転び沢 |
小玉川地内 |
観光協会 |
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日本百名山である主峰飯豊山は標高2105m、隆起山地である。冬季雪をいただく円やかな山容は、仏器に飯をもった形ににていることが「飯豊山」名の由来と言われている。豊かな動植物の生育は、生活の場となり、感謝の念は、山岳信仰(御秘所)となった。また、大きな残雪と豊かなお花畑、尾根は広々として高原を思わせるように楽しい山々である。 |
享和絵図【享和2-3(1802-3)年作成、米沢市上杉博物館所蔵
笹生代官屋敷 |
所在地 |
問合せ先 |
笹生代官屋敷 |
二本柳地内 |
教育委員会 |
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上杉の初期、笹生広秀は慶長三(1600)年直江兼続に従って米沢に入り、田地の開墾に努めた。その笹生代官の屋敷跡である。 |
樽口の堰堀 |
所在地 |
問合せ先 |
穴堰 |
樽口地内 |
教育委員会 |
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明治22年水不足解消を目的とし着工、日影沢の水を引くため、頼母子講を行い資金を集め明治26年、全長105mの大工事は完了した。町指定文化財。 |
黒沢峠の敷石道 |
所在地 |
問合せ先 |
春の飯豊山 |
黒沢地内 |
教育委員会 |
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黒沢峠は米沢と越後を結ぶ十三峠のほぼ中間に位置し、昭和55(1980)年黒沢集落全戸が会員となり、5年の歳月をかけ復元した。古道の全長が2.6Kmあり、その内1.8Kmに敷石が敷かれ3,600段を数える見事な景観を残す、「いにしえの古道」である。町指定の文化財。 |
宇津峠を下り次の大久保峠へは矢印の方向へ、
今は米坂線と国道に分断され古道は通れない。
至黒沢峠
至高鼻峠
貝淵峠
大滝
子持峠道
種沢
松岡
黒沢
萱野峠
朴ノ木峠
享和絵図【享和2-3(1802-3)年作成、米沢市上杉博物館所蔵
享和絵図【享和2-3(1802-3)年作成、米沢市上杉博物館所蔵】
萱野峠