(新潟県関川村大内淵と沼を結ぶ)
榎峠        
峠の概要      

沼側から入ると間もなく土砂崩れの跡がある。標高は低いがやや急坂のある峠でる。、かつては峠の頂上に一里塚(杭場)が建ち、榎の大木が枝を広げていたといわれる。

また、大内淵側の入口付近には茶屋があり、旅人の憩いの場となっていたという。しかし、戊辰戦争が始まると、この榎峠も戦乱の渦に巻き込まれることとなった。

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      弘長寺

関川村蛇喰地区にある寺院。榎峠の戦いにおいては米沢藩側が多くの死傷者を出したが、新政府軍側でも新発田藩兵1名が戦死した。この人物の名前は不明であるが、弘長寺の第63世良成和尚に弟子入りしていたことがあり、良成和尚はその死を慎み供養塔を建てたという。

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   B根上がり欅

大内淵から登ると、頂上右側に70cmほど根上がりした欅がある。風雨などで土が削られ、根が露出したと思われる。

A如意輪観音像

頂上東側にある観音像。

大里峠の頂上にある地蔵尊と兄弟であるといわれている。地元の研究者によれば、この場所に一里塚があったというが、塚が築かれていた形跡は見当たらない。この観音像が一里塚的な役割を担っていた可能性もあるという。

      榎の大木
榎は日本の各地に見られる落葉高木。江戸時代には街道の一里塚として植えられた。この峠名との関係は不明。 (榎峠の写真ではありません)

峠のポイントガイド    
 

@無名戦士の墓

戊辰戦争時に榎峠で激戦を繰り広げ戦死した、米沢藩士と新発田藩士の供養塔である。

慶応4(1868)年8月12日、榎峠に陣を張る米沢藩兵を新政府軍が攻撃した。米沢藩兵は力戦むなしく守備を破られ、戦死者12名を出して敗退した。この供養塔は、戦没者の供養のため、明治元(1868)年に蛇喰村弘長寺の第63世順誉良成和尚と集落の人々により建てられた。