3−9 中欧紀行−麗しのプラハ・ブラチスラバ・ブタベスト・ウィーンを訪ねて−
(9) 第9日 9月12日 ウィーン市内観光 晴れ
バスで、市内半日観光。今日のガイドは高崎さんという40歳前後の日本人の男性。細くてスマート、一寸ニヒル
の感じのガイドさんだ。
先ずは、
シェーンブルン宮殿へ。女帝
マリア・テレジアが夏の離宮としてウィーン郊外に建てた(18世紀)もので、
部屋数が1443室もある。9時51分入場の予約。少し待つ。観光客でごった返している。
ウィーンの歴史−エンカルタ百科事典からの転載
ウィーンはウィンドボナとよばれるケルト人の集落を起源とする。前1世紀にローマの前線基地がおかれ、
その後、ドナウ川北部のゲルマン人に対する防衛拠点として、皇帝アウグストゥスによって要塞(ようさい)化された。
5世紀にはいり、ローマ人はこの地域から撤退する。9世紀初頭にオーストリアは、カール大帝のフランク王国
の一部となり、976年にはオットー2世によってバーベンベルク家にあたえられた。12世紀末にウィーンの市域は
今日の旧市街まで広がり、1221年に自治都市となった。
1246年にバーベンベルク家が消滅したのち、ウィーンはわずかの間ボヘミア国王オタカル2世の支配下にはいったが、
78年、彼はハプスブルク家のドイツ国王ルドルフ1世によって追放された。以後、ウィーンはハプスブルク家の領有となる。
ウィーンの創設者とよばれるルドルフ4世は、シュテファン聖堂やウィーン大学を設立し、市の改革に着手してウィーンに
多大な影響をあたえた。
14〜16世紀の間、ウィーンは宗教戦争、1529年と1683年のオスマン帝国の侵攻、伝染病(1679)によって打撃をうけた。
15世紀以降、神聖ローマ皇帝の称号はハプスブルク家が代々継承することとなり、1526年にはその領土にハンガリーと
ボヘミアをくわえ、ウィーンは中央の行政庁と皇帝の居住地となった。17〜18世紀には、ウィーンの町はバロック様式の
教会と宮殿でいろどられた。1804年にオーストリア帝国の首都となり、ナポレオン戦争後にはヨーロッパの王侯・政治家が
ウィーン会議(1814〜15)にあつまった。48年、ウィーン市民がハプスブルク家に対して革命をおこしたが失敗に
おわる(→ 48年革命)。
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の統治下にウィーンは近代的な都市に成長し、1867年、オーストリア・ハンガリー二重帝国の
首都となった。古い市壁はとりのぞかれ、リング大通りにとってかわられた。19世紀末〜20世紀初頭には、フロイトのもとで
精神分析学の中心地となった。1918年に第1次世界大戦が終結し、帝国が崩壊してからは、小国オーストリアの首都
にとどまった。
1938〜45年には、ドイツ第三帝国の州都となり、ナチスによってユダヤ人の多くが死にいたらしめられた。第2次世界
大戦後の10年にわたる連合国軍の占領をへて、55年、ウィーンは中立国オーストリアの首都として再登場した。
広大な敷地と建物に驚く。そして内部の豪華さに再度驚かされる(場内撮影禁止)。大帝国の冨と権力の
すさまじさを思う。
注: 写真の上でクリックすると、その写真が大きくなります。元に戻すときはプラウザーの←印をクリックします。
宮殿 庭園
市内に戻り、市立公園のヨハン・シュトラウス像を写真に収める。
昼食は、グリーヒェンバイズルという、歴史のあるウィーン料理屋で摂った。これが凄い。
建物は、1447年に登記されている。礎石はローマ時代のもの。1500年から料理やとしてやってきた。
出された子牛のヒレカツもとても美味しかったが、それ以上に部屋の壁一面に書かれたサインに驚く。
何と、ベートーベン・モーツアルト・シューベルト・ワーグナー・シュトラウス・ブラームス・マーク・トウエイン等など。
日本人では、西村知美・田村正和・山本陽子などがあった。
午後は自由行動。早速、妻と市内探訪へ。先ず市電でシュテファン寺院へ行く。ほぼ市の中心に位置するゴチック様式の寺院。
夜は、ガイドさんを通じて手に入れたコンサート(一人8千円)へ行く。
場所は、ウィーンでも有名なホールのコンツエルト・ハウスで8時15分開演。出演オーケストラは、ウィーン・モーツアルト・
オーケストラ。
4時過ぎにホテルを出て、市電で行く。会場近くで軽食を摂る。コーヒー(ウィンナ・メレンゲ)とトースト。こらは美味かった。
今度の旅行ではどこでも、チップ(10%くらい)がいる。慣れていないので、全く面倒だ。朝は、枕銭で1ドル。
それは兎も角、会場のコンツエルト・ハウスは90年ぐらい前の建築。外観は余りぱっとしない。
しかし中に入って驚く。素晴らしいの一語。椅子も質素だが大きく座りやすい。
演奏は、モーツアルト時代の服装をした楽団員が40人ほど。そして、全員がカツラの髪の後ろに黒いリボンをつけている。
アメリカで起きた事件への弔意を表しているのかと思う。
曲目はモーツアルトの交響曲40・41番とヴァイオリン協奏曲それにオペラのアリアだったが、とても感激する。
曲によって(Alla Turca)は、指揮者が客席に向かって指揮棒を振る。全員が手拍子で、これに応じて、盛り上がる。
休憩時間には、多くの人々がビールで歓談している。
日本のクラッシックの音楽会は、息が詰まりそうなときもあるが、ここでは全くリラックスして音楽を楽しんでいる。
これが、本当の音楽会の姿なのでは、と、思う。
日本人は、こうあらねばならぬ、と云うような、変な思いこみにはまりこんでいる?
アンコールの最後の曲は、シュトラウスの美しき青きドナウ。ついウットリとしてしまう(~o~)。
終わったのは10時半過ぎ。また。市電で帰る。
ここは、全く治安が良いので、夜遅くでも不安はない。
ウィーンの街は公共交通機関がとても発達していて、住民はもちろん観光客にもとても重宝だ。リング通りといって、
直径1qぐらいの環状道路(旧外壁を取り壊して作った)を市電とバスそれに地下鉄が走っていて、リングの外にもそれが
縦横に張り巡らされている。
ユニークなのは一つの切符でこの3つの交通機関を利用できることだ。1回券は、距離ではなく、1時間以内なら何度でも利用可能。
面白いのは、乗客は券を運転手に見せもしないし、運転手も知らん顔をしている。あくまで個人の良識に任せているのだ。
私も妻も、券を買ったときに刻印機で日時を打刻(これがないと罰金600シリング−4800円)してから、一度も見せていない。
みんな自由に乗り降りするだけだ。
24時間券が、60シリング(480円)。何度も利用できて、とても便利だった。市電もバスも数分おきにやってくる。
あの有名なポルシェ博士(ウィーン出身)のデザインしたバスや市電も走っている。
ポルシェ博士設計のバスと市電 市電の内部(古い市電) 24時間チケット
ウィーンの人はとても親切だ。街角で迷って地図を片手にキョロキョロしていると、心配顔で話しかけてくる。
そして、言葉は通じないのだが、身振り手振りで何となく通じてしまう。人の心の温かさを実感した。
(10) 第10日 9月13日 ウィーン自由行動 はれにわか雨
例によって市電で、あちこちに移動。地下鉄にも体験乗車。
素晴らしい市庁舎と国会議事堂をパチリ。そしてお目当ての美術史美術館へ。自然史博物館と同じ建物が公園を挟んで
対になって、建てられている。ハプスブルク家のものを展示する目的で建てられただけあって。内外部とも豪華。
そして、展示されている中世絵画に圧倒される。2時間以上見て回ってもほんの一部。日本のように写真撮影禁止
等ない。係員もちらほらいるだけ。
市庁舎と窓の花 国会議事堂の壁画と彫刻
外部と内部の様子 絵の一例
次いで、旧王宮へ。これも広大な敷地と建物。ハプスブルク家の宝物を観る。王冠や衣装、洗礼用の品々。
目もくらむばかり。途方もない展示物に、ただただ呆れるばかり。
日本やアメリカのように近代になってから、経済力でのし上がってきた国とは次元の違う何か、といったようなものを、
感じてしまう。
王宮と王冠(ピンぼけです)
最後はオペラ座近くのカフェのテラスで
ビール。美味い。そして、歩行者天国を散策しながらホテルへ。
素晴らしい一日。自由行動は能率が悪いが、その街を
肌で感じることが出来、とても楽しい。
ウィイーン子の親子 大道芸をする人 歩行者天国
(11) 第11日 9月14日 帰路 曇り
飛行場への途中、ウィーン中央墓地で、楽聖(モーツアルト・ベートーベン・シュトラウスなど)の墓地を観て
13時50分発成田行きに搭乗。翌朝8時20分到着。12時に無事帰宅。
ベートーヴェン(左)モーツアルト(手前)シューベルト(右)が眠る 中国上空での日の出
【今度の旅行で感じたこと】
1 歴史の蓄積が素晴らしい(プラハ・ブタベスト・ウィーン)。
2 治安はとてもいい(スリに気をつけるようには注意された)。
3 ホテルがとても快適だった(旅の印象を左右する)。
4 食事は個人的な好みがあるが、余り合わなかった(量が多く、脂っこい)。パンはとても美味しかった。
5 時間がゆったり流れている感じが、とても素晴らしい。
6 添乗員同行の旅行は、とても楽(初めて)。現地ガイドがずーと付いたのが良かった。ただ、自由行動日
がもっと欲しい(2日間だった)。
7 パソコンはとても便利(途中で故障してしまったが)。
8 クレジット・カードとドル紙幣(特に少額紙幣)は、とても便利。
9 音楽の都ということで、CDを9枚も買ってしまった。
以上
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