自分探しの雑記      



 幸 せ の 定 義  神、常に汝と倶にあり  いつも人生の途中

 幸せの定義



私達は気がつけばずっと幸せを希求しながら生きてきました。そして誰もが本当の幸せとは?と何度も考え、その答えを求めてきたともいえます。それほど生きる事と幸せ願望は直結しています。
誰もが求めてやまない 幸せですが、時には予期しない困難に直面する事も起こります。その時、人は運が悪いとか、自分だけが何故?という不満や不安の想いに心塞ぎがちです。


その一方で、一度しかない人生だから、くよくよしたり我慢するのはばからしい、人生は楽しんでこそ生きる意味がある、といった発想も生まれます。 最近は一日が速く進んでいるように感じることもあるので、なおさら、そうした発想が支持を得るのかも知れません。もちろん人生が明るく、楽しさと嬉しさの中に転回するに越したことはありません。そんな人生であることを日々願うのですが、そうした人生バラ色思考の価値観もバランスを欠けば忍耐という心の行為が、全くの負のイメージにみえてくるのではないでしょうか。精神の奥深くから自分の人生を展望しなければいけないこともあります。そうしたとき心の視野が大きく育っているか自らが試されます。


表面的には恵まれている、幸せそう、と思える人でも、表面から一歩見えない内面にまで踏み込んでみれば、それぞれ何か心に悩みを抱えているものです。一生を通して困難に直面しない人生を歩める人などいないと知ります。時に日のあたる場を歩き、時に縁の下の力持ち的忍耐をもって生きる、そんな支え合いが常に行われてるのが家庭であり、社会です。そうした目に見えない働きが集まって社会を下支えしているはずです。


ところで、はたして自分は支える側なのか、支えられている側なのか・・・、これは個々の中では結構潜在する感情です。そして、もし選択肢の決定権が自分にあれば、誰もが、日のあたる側を歩き、忍耐しなくてもすむ人生を選びたいと一度や二度は想うものです。でもよくよく考えてみればどんな人生であっても、目には見えない大きな支えなしには成り立たないのであり、身近な事では常に誰かに支えられて生きているというのが、どんな人の中にもある真実です。
そういう謙虚な心の視点こそが自分を内面から変えるものであり、感謝という見えない力(光)を深めることにつながるものです。であれば、外面的幸福度や心にかかる問題を超えて、感謝する そうできる事が、何より消え去らないゆるぎない幸せに近づくことなのだという気がします。


誰であっても苦しいさなかにあれば、心も肉体もくちゃくちゃになります。でも人生は長距離マラソンのようなものです。その途中途中で心の足腰が強くなるか弱くなるかは自分次第という事があります。人それぞれの考え方や生き方次第で未来が大きく違ってくる、ということにもなります。ともあれ、自分の未来のことは、誰も知り得ないのですから、少々の困難が人生上にあるのは仕方ない、そうした覚悟が最初からあったほうが、結果的には挫折感も少なく、良い意味の忍耐力も付くというものです。


すべては、永遠(とわ)という領域に行き着くための消えてゆく姿であると知ることは大いなる救いです。そうした人生の奥に潜む不可思議にたどりつくことこそ本当の幸せだと私は想います。そうした最上の幸せを歌にしたとてもきれいな詩があり、 WEB「五井先生に学ぶ」 永遠(とわ)の光〜メロディーVer.で聞くこともできます。     
詩 永遠(とわ)の光



想い描く幸せの姿は人それぞれ様々ですが、どんなに追い求めても、欲望の上限が見えないという心の迷路も存在します。競争社会の願望は多種多様な欲望を生み出し、幸せ模様も多種多様に展開します。個々がその願望目線で作り出す幸せのイメージは、同じものはないほどに複雑かもしれません。そしてどのような幸せの背後にも何らかの不安は同居しているのですから、やはり誰もが認める幸せの定義はありそうでないといえそうです。
目に見える豊さ、豪華さ、美しさに心をひかれ、そこに幸せ感をかさねて観ても、目に見え形に表れることの中だけで、幸せの定義をかたり尽くすことはできません。何故なら、どんなに幸福感を追求しても、その幸せは、自分さえよければ良いという発想とまったく無縁ではないのであり、その集合体が人類だからです。。


つまりは、人は幸せの反対側にあるものを恐れるからこそ、幸せを希求するともいえます。たとえ幸せの側にあっても、その幸せにも限りがあり、相対的な法則は常に表裏一体です。極論になるかもしれませんが、この世の幸せを強く希求し追い求めるほど、満足感の充足から離れるのではないでしょうか。
何事も思い通りにはいかないという事を心の片隅において、ほどほどで満足する心持こそが、自分を幸せに近いものとする、そうしたものではないでしょうか。


神、常に汝と倶にあり



最近、西国三十三ヶ所観音霊場や四国の弘法大師ゆかりの八十八ヶ所霊場巡りを紹介する情報に接することがあります。そのどちらの霊場巡りも素晴らしいと思うのですが、四国霊場の巡礼には古くからお遍路さんという言葉があり、そのお遍路(道)の道中には必ず弘法大師が一緒に歩いて下さるという信仰があるようです。『同行二人』という言葉にその意味が込められているのでしょうか、現代にあってもその言葉は信仰のなかで生きているという感じがします。


その『同行二人』とよく似た意味を持つ言葉が西洋からも生まれているようです。それは『神、常に汝とともにあり』という言葉です。この言葉はキリスト教の教えでもあると思うのですが、詳しくは知りません。それらの言葉は、今日では宗教という境界を超えて、私達に目には見えない大きな守護の存在を教えてくれます。“天網恢恢(てんもうかいかい)疎(そ)にして洩らさず”という言葉もありますが、まさに天地を見通す大きな目の中にすべてが把握され常に見守られているのが地上に生きる私たちといえそうです。


そして『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神を愛しなさい』の言葉は、時々静かに自分の内面に重ね合わせて、自分はどうなのか自らに問い直したい、そんな気持にさせてくれる言葉です。宗教が私たちの内面に訴えかける基本精神は洋の東西を問わず根本は一緒である事がわかります。そして神仏に対する敬虔で素直な心持ちと揺れない心があってこそ、神仏の教えが真理となるとは、あらゆる宗教の基本にある精神ではないでしょうか。


遠い昔の人々は仏像や菩薩像の姿に、荘厳な世界とそこに住む如来、菩薩の存在を重ねていたのでしょうか。善いことも悪いこともお見通しの目がある、そんなことを民衆に教えるかのように、不空羂索観音菩薩像はその御身に羂索(網)と、たくさんのみ手を持ち、威風堂々のお姿を現わしておられます。その網はきっと“天網恢恢疎にして洩らさず”の天網でもあることでしょう。そしてその変貌自在な網によって振り分けられる場所が異なることなく、誰にとっても菩薩のみ元であれよと諭す慈愛のお姿ではないでしょうか。私達はそんな菩薩のお姿を心に持ち、真っ直ぐな人生を歩みたいものです。



いつも人生の途中



ある日家族との会話の中に、ちょっと考えさせられる問いかけがあった。 自分の過去を振りかえったとき、楽しかった記憶と、辛かった記憶と、どちらを(多く?)思いだすか?というものでした。 家族いわくには、楽しかったことを思い出す人の方が断然多いというデーターがあるらしい。 それを話す本人も 「もちろん楽しかったことを想いだす」 という事でした。私は、今更のように人それぞれなんだと知りました。


それにしても家族とはよくしたもので、それぞれに考え方も個性も違います。自分のことさえもまだまだ解明途中(?)の私にとっては、家庭の中にいるだけでも、毎日が変化に富んでいます。そしてせめて今日まで生きてきた何十年分だけでも、自分の中で全肯定しつつ生きたいと思うばかりです。個人的には、自分が信じた道を地道に歩む事しか出来ないけれど、今日までの人生も明日からの人生も、人と比較する基準は何もいらないと思っているので気楽です。


でも未来がどうなるのかはやはり気になります。宇宙から地球を観ると、(当たり前ですが)まったく人間が生活しているという様相が見えません。そんなに離れていなくても、大きな視点から比べれば、私達の肉眼の及ぶ世界はとても小さい範囲です。そうした現実の矛盾を考えると、相対世界という私たちの立ち位置は決して盤石ではなく、今ある常識さえも未来永劫不変とはいえません。 明と暗、表と裏と形容されるような相反する物事が同時に混在する世界であるからです。
歴史の中のどんな時代であっても、戦いの先頭に立つリーダーが画く目標は、絶対という栄華を得ることであったはずです。でも歴史の史実は、相対(あいたい)する想念世界と現象の中に、絶対は存在しないことを如実に物語っています。


だからこそ漠然とした不安も存在することになります。そのことを率直に認識することによって、常識にはないことの中に価値を見出す選択肢も存在するのだと思います。
なので、今あるいのちを生きるという事はさまざまな自分を知りつくすことでもあります。その中から自分に出来る範囲でいのちを輝かせなければ生まれてきた意味がありません。平安の在り処を自分の中に聞きながら、明日を信じて自分を信じて生きていきたいというのが私の想いです。


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参考にさせていただいた書物