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役役小角大行者

昨今、私たちが電気機械製品の発明発見によって享受している便利さは、電気電波という科学的エネルギーの有効利用開発の成果によるのでしょうか。 とても便利な今の時代に至ってみれば、かって不便さを不便とも思わず、誰もがそれを普通であると受け入れて一生懸命生きた、そんな時代がいかに長かったかを、知ることができます。
そして、様々に変化してきた長い歴史を、随意にピックアップする事が出来る今の時代は、過去の暮らしに生きた人々の、貴重な体験の宝庫を検索し、心の様子までも比較検証できるという、学びの材料に恵まれた状況にあります。
そんな過去の歴史の中に、役の小角という希有な人物の誕生もありました。 伝説では7世紀ごろの生涯となっています。 その頃の人々の暮らしぶりや生活レベルという時代背景がどのようだったのか、私は知りませんが、時の都から離れた所では、集団的秩序などは、まだまだ未開発であったと考えることができます。
今日も、役小角は、修験道の世界で開祖として 特別の尊敬をもって崇拝されていますが、山岳修験道の広がりは、小角の没後、かなりの時を経てからであったようです。 その後に続く人たちが、厳しい苦行の世界に身を投じ、危険を冒してまでも追い求めたのは、悟りの境地だったのでしょうか、それとも特別な霊的能力の会得だったのでしょうか。 でもそれらの魅力がいかに大きくても、未知なる領域の先にあるというハードルは、どこまでも高かったに違いありません。
その超特殊能力は下記のように六種に分かれていて、全体では六神通といわれているそうです。
天眼通(てんげんつう) - 本来の目では見えないもの、見えない世界を見通す事が出来る
天耳通(てんにつう) - 耳の機能だけでは聞こえない、(異次元世界を含む)音や声などを聞く事が出来る。
他心通(たしんつう) - 本来伝わらないはずの他人の心の動きや想いがわかる
宿命通(しゅくみょうつう) - 自分や他の人間の前世や今生での運命を知る事が出来る
神足通(じんそくつう) - 会得した神通力を駆使し、自在に山や海をもわたる事が出来る
漏尽通(ろじんつう) - 神仏そのものの心境、広大無辺、光明遍満世界と能力
相対的狭い次元の中で展開する想念と欲望の巡りという自縛を解脱し
光明(慈愛)一元の自由自在心になる
自由自在心について (←白光真宏会公式ホームページ記載文)
上記のような能力の会得は、ほとんどが遠く叶わない事であり、反対に、途中の段階で異次元の干渉に惑わされ、自己の本心を見失うという 危険も大きかった事が考えられます。それは、例え厳しい修業を続けても、心境の奥底までも見透かされる、そんな未知なる階層を通過しなければならず、その過程で、自分では気づかず知らず、多様に惑わされ、巧みに魔境に誘い込まれることがあるといわれているからです。
それは人間の本質がどうあるのか という事に関係することでもあります。 私たちは人間観を、肉体生命という単一的事実の中だけで理解し、現実問題の考察をその中に限定し結論を観てきました。確かに肉体の生命は一人ひとりの中で始まり終わります。でも肉体は、肉体の個性(個人)そのままの記憶体である幽体という波動体と一体であるといわれています。その幽体をもって、更に微妙な波動の奥につながり、そこに霊体、神体があるというのが、人間の本当のすがたであり、単次元に限定される生命ではないことが説かれています。
そして人間を語る根本である 「いのち」 は、ずっと奥に(上に)たどれば大生命に至るのであり、大きな一つの世界に組み込まれてある神界、霊界、幽界、肉体界の中では、肉体界だけが、波動の違いや動きを感じることなく生活できる世界のようです。
幽界では自分の想いの波動が瞬時に自分に反映されるといわれています。 つまり怒れば、怒りが渦巻く場に自分が居り、人を叩けば、人に叩かれ、嫉妬すれば、その波動が痛みとなって自分に帰り、悲哀に籠れば、暗い深い淵に落ち、助ければ助けられる、すべてが瞬時にストレートに展開する世界のようです。 そんな幽界は、波動の違いという法則によって、さらに幾段階にも分かれているそうです。
かって禅の世界の指導者は、瞑想中、たとえ眼前に、仏、菩薩の姿が顕れる現象が起こっても、すべて魔境と断じ心を動かしてはいけない!と厳しく指導したといいます。 求道の道程の途中には、危険且つ見えない落し穴があることを見抜いての厳しい指導だったとすれば、生半可な修業は、何もしないよりも危険といわれる由縁もそこにはありそうです。
それよりずっと古い時代に、超がいくつ付くの?と思えるほどの超人伝説を残すのが、役小角という人物になります。 伝説はどこまでも伝説であり、真偽を問われません。 その分、軽く受け流してもいい訳ですが、役行者ほどの人物の伝説には、高い信憑性があると考えることが出来ます。 そして、その時代の人々の生活レベルや心理状態、あるいは天象や動物界までも含める自然環境、衣食住など、生活環境条件すべてが今日とは全く違っていたことを考えると、超人の出現の時代背景がどうあったかは興味深いものがあります。
役小角に関して、『日本霊異記』では、「役優婆塞(えんのうばそく)」と表現し、仏教の在家信者という扱いになっています。役優婆塞とは在家にあって仏教の基本的教えを守る人の事だそうです。そして役の小角は奈良の葛城山のふもとに生まれ、年少のころより、修行者としての歩みを始めたといわれています。それでいて有髪であったという姿や生き方は、形式にとらわれないという、独自性の現われのようでもあります。
役小角にとって自身に厳しい修業を課し、どこまでも高みを目指すことは、自分との戦いでもあった事でしょう。 でも誰も知り得ないその働きの中身こそ、筆舌に尽くし難い事の連続だったのではないでしょうか。 伝説によれば、ある時、祈り続けていると、その法力に応えるように、柔和で輝かしい地蔵菩薩が出現したとあります。 その姿は、あたかも小角の守護を約束するかのようだったのではないでしょうか。 でも一見した小角は自分が求めるものではないと拒否をし、更なる祈念を続けると、遂には青黒色をした、憤怒の形相の蔵王権現が出現したというのです。
その蔵王権現の姿形は、左足は大地を踏み、右足を高く上げ、右手に三鈷を握って頭上にかざし、左手は刀印を結んで腰を押さえているとあります。 片足を高く上げているとは、どういう約束事かわかりませんが、今にも飛び上がりそうな躍動感があります。 ちなみに三鈷とは、かの弘法大師のみ手にも握られている密教の法具のようです。 つまり、いかに蔵王権現が髪を逆立て、火炎を背負い、あたかも百鬼と戦うかのように凄い形相をしていても、切ったり突いたりの武器は持っていない。
それでいて、邪鬼、悪鬼、魔物も恐れる蔵王権現の姿こそ小角が求めた幽界の魔物を降伏させる力であり、強烈な不動心が形となった姿だったのはないでしょうか。
蔵王権現の出現の伝説は、役行者の働きの厳しさを物語っています。そしてその姿は前人未到の道を切り拓く先駆者が求める強靭さという内面の投影だったのかもしれません。
小角行者の人物像も伝説も、様々に謎に包まれていますが、異能力の会得は、目的遂行のためには絶対に必要であり、多くの衆生を救うという、大きな利他の精神に於いて不動心であったからの成就であったと考えることができます。
それにしても、富士山を中心にして、日本中の山野を駆け巡った、自在に空中を移動することが出来た等の逸話は伝説とはいえ、常識ではとんでもないと一蹴されそうな事ばかりです。 しかし、なぜか役小角には不可思議能力を否定できないという超人印象が強くあります。 ところで伝記からは五つまでの能力は自由に行使出来たと想像出来ますが、漏尽通の能力についてはどうだったのかという疑問があります。 霊的宇宙の奥はどこまでも無限であるとすれば、たとえ自力行法によって能力を極めた超人であっても、極めたと観た先にさらに奥があったとすれば、漏尽通には到達していなかったと考えるほうが超能力者役小角の信憑性は高まりそうです。
その役小角が、地上での役目を果たし、厳しい生涯を閉る時どのような心境にあったのか、そしてどのような世界に昇り至ったのかを伝える詩があります。 その詩は、役行者が常人を大きく超えた特別な人物であったことを伝えています。 その肉体の消滅によって、生命体の波動が一変、高い世界で神仏との一体化を果たし、超細微で霊妙な(高級、荘厳)波動体となったのでした。 そしてその衆生救済の愛念は守護神の働きとして未だ続いていることがわかります。
今、遠く過ぎ去った時代は数知れずと知る 現代を生きる私たちは、実現可能なほとんどすべての利便性を 生活の中で享受できています。 そんな時代を生きながら、超能力にあこがれる気持が
自分の中にもあるのは何故かと 自問してみました。答えは、機械機器を用いなくても、発揮できる能力が人間の中にあるとすれば、その体験者になってみたいということでしょうか。
でも視点を変えれば、私たちが 「オギャア」 と この世に生まれてきたこと自体が 不思議といえば不思議です。 そして、日々自然法爾のように、眠っている時も起きている時も、同じように生命の営みが成されている事にも、不思議は潜んでいます。
特別な能力に憧れなくても、身体の働きは、特別な機能と能力が自分の中で働いてる証そのものではないでしょうか。 といっても、現実の営みをささえる、奥深くにある真実は見えません。でも本当は、たくさんの不思議なことに生かされて、生活しているのといっても過言ではなさそうです。 でも
ついつい心は 自分や他人の争いごとに引きつけられ、怒りや嘲笑や不安や不満の渦に落ち込みがちです。 でもその間違いに気付くことがあります。 どんな超能力を得るよりも、感謝する心を育てることの方がよほど自分の為になるというのも事実のようです。
そうした私たちの本質を見出すためにも、過去に大きな足跡を遺した先人たちが刻んだ物質と精神両面の進化という開拓の記憶に心の目を向けることは、のちに生まれた私たちが何かを受け継ぐことにもつながると考えます。 今日まで続いてきた生命の伝承の奥に、まだ眠っている記憶があるとすれば、更なる記憶の開花を目指して、人類がともに歩む道は必ずあるはずです。
ただ、歩み出すか歩み出さないか、信じるか信じないか、の違いだけではないでしょうか。
詩 役の小角
七仙人の物語(序文)
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