人間とはその生命に於いて、神体、霊体、幽体、肉体の全部を含めての存在といわれています。そしてそれら全体の最も末端にある粗い波動体が肉体なのだといいます。でも私達は肉体で生きている実感しかないので、生命とは100%肉体の事であると信じて疑いません。確かに人生という限られた年月の範囲に限っての生命であれば、難しく考えることもないわけです。でもそういう認識が私たち自身にとって最も有益なものなのか、私はとても疑問に思うのです。


何故なら、生命とは肉体という有限期間の活動であり、それ以上でも以下でもないとすれば、知能、知恵の違いという差異はあっても、人間は動物とあまり大差ない生命ということになりかねないからです。肉体の死とその先にある事の真実を、誰も確信を持って云いきれないからこそ
、人は理由もなく、死する事を怖れるのではないでしょうか。だとすればやはり、生命の本質に対する考察の余地は大いにあるといえそうです。


動物は神の被造物といわれます。一方で、人間は神ご自身のいのちの光を宿す分霊であり、創造の働きを内に持っているといわれています。言葉を変えると、神体、霊体、幽体、肉体のトータルが人間である、という事になります。でも肉体界以外のことを肉体側から観察することは出来ません。ただ聖なる世界の存在を信じるということになります。
そんな生命の働きの中で意識が肉体感覚から離れる時間帯があります。それは睡眠中です。その時、肉体の頭脳も神経系統も自己の内部で起こっている働きを全く関知できません。でも生きている以上は、日々仕事内容による個人差はありますが、肉体の疲労に加えて精神的疲労素も溜まります。そうした身心全般の回復、改善の為、睡眠中こそ、私たちが知り得ない働きがに行われるといわれています。


身心全般のミクロ的乱れの修復修正もそこには含まれており、その想念の汚れが夢という形で消され、時にはその断片が記憶に残るといわれています。
私達が眠っている間も、生命そのものは常に休みなく働きつづけている、それは 神体、霊体、幽体が常に肉体と密接に関わり、生命の働きの中に存在するから可能となっていることのようです。


私自身、神体や霊体のことは分かりませんが、人間は肉体と幽体という二つの異なる次元のボディを持つことを考察する体験をしたことがあります。それは眠っている時の体験でもあります。ぐっすり眠っていたはずが、一瞬目が醒めたような感覚があり、次の瞬間には、不快な眩暈のような睡魔に襲われ、はっ!とするやいなや、意識が睡魔の中に吸い込まれるような感覚に陥るのでした。そのなかに吸い込まれたら最後、次の瞬間には体が下に落ちてゆく感覚があり、その心地の悪さはたとえようもないものでした。さらにはその感覚が止まった後に、表現し難い苦痛に襲われるのでした。


意識がありながら、眠りから醒めることが出来ずにいるような、夢と現実の境のようなところで、ただただ苦しいのです。四肢の感覚は全くなく動かそうという意識さえ持てない感じでした。でも頭は意識できるので、睡魔に抵抗して動かそうとするのですがなかなかに解けないのでした。意識が幽体と肉体との間を動いているとすれば、意識が幽体から肉体に戻ることではっきりと目が醒めることができた事になります。時間にすれば短い気もしますが、苦しい時は長く感じるものです。


それが1分ぐらいだったのか30秒ぐらいなのか、もっと長かったのか、未だにわからないのです。暗く低い世界の重い波動を幽体で体感した感じです。重い圧迫感に体も呼吸も苦しいのですが、その感覚は肉体が受けるものではない分、言葉では表現できない、とても嫌な苦しさがありました。苦界にも限りなく幾階層もあると聞きますが、はてさて私はどのあたりに落ちたのか、それとも、金縛りの部類なのかよくわかりません。


当時(ずいぶん遠い記憶)、そうした体験するようになる誘因と思しき環境変化がありました。それはそれまで住み込みで働いていた男性が使っていた部屋が空き、その部屋を私が使うようになったことがきっかけのようです。
ある日のちょっと印象深い夢を境に異変を受けやすくなった気がしています。でも何故自分がそうした恐怖に襲われるのか理解できずにいました。


今になって考えれば、やはり、睡眠中に襲われた感覚は、肉体で感じたことのようでありながら、実は、肉体ではなく幽体が感じた苦しさだったと考えるのが正しいようです。
何故なら意識は働いているのに悪夢の中にいるように完全に目が醒めなくて、頭部以外の四肢身体の感覚がなく、目を開けたくても開けられないという状態だったからです。確かなことは解りませんが、肉体の四肢と脳神経がつながっていなかったとすれば、肉体が苛まれる感覚は幽体が受けたものであったと考えることができます。


そんな自分の体験はあまり口外するものではないと思います。でも、人間生命に関して、肉体の生死という有限の時間と範疇で、理論も常識もその他、何事も完結するという認識への疑問を禁じ得なくて、肉体以外にも幽体や霊体があることを理解していただく一助になればという気持ちから書いています。凄惨なニュースが多い昨今の世相を見るにつけても、誰もが生命の働き全般の奥深さを顧みなくなっているのではないかという気がしてなりません。
肉体という生命の健康維持に価値を100%置くばかりでは、神仏と切り離せない生命観が個々の中で希薄になるばかりです。生命の中心軸でもあるも大切な心の深部は揺らぐことになります。私たちは生命を得て生きていると同時に、瞬間瞬間の呼吸と共に大生命に生かされている存在でもあります。そして平凡な日常も、様々な人々の働きがあってこそ成り立ちます。


想念という回路は見えないながら、その働きによって内面に個々人特有の世界を創りだすものでもあります。話が飛躍しますが、幽界とは思ったことがすぐに現実化する世界だそうです。たとえ想像であっても、ゲームであっても、
様々な加害行為や想念を脳裏にめぐらすことは、幽体がそれを記憶することでもあり、有害だといわれています。すべての想念は波動という科学的働きがあることが、それら様々な言葉の裏付けになるのです。自らのうちにあるマイナスの迷路は、自らの光の波動で修復しなければならないという法則性があります。それは意識想念の働きが、超次元的な生命波動物理学の範疇にはいることからも明らかです。


私の想い過ごしであることを願うばかりですが、昨今は驚くほど簡単に自死をする人が増えているのではないでしょうか?でも自殺後どうなるかを知ったならば絶対に自殺はできないはずなのでとても心が痛みます。生命の尊さの本質は神仏しか知り得ないほどのものであり、自らを大いなる大生命の仕組みから離してしまうことの過ちの大きさはどれほどのことなのか想像もできません。でも、幽体感覚は肉体感覚以上に鋭敏であると想像できるのであり、自殺をして楽になる人は一人もいないといわれています。


事実、肉体は神の器の上着であり、上着を脱いでも幽体という個性のすべてを記憶する下着がその先に控えているといわれています。肉体の時間以上に幽体として生きなければいけないのです。
平凡なことながら、人はいつの時も、自らの人生を大事に、正直に生きなければいけないという事に尽きるようです。何故なら生命の中に、肉体の他に幽体という見えない記憶体が在るということは、肉体生活を終える事がそのまま、個の生命全体の終焉ではないからです。


私が体験した悪夢のような感覚は、時間的には短かったとしても、絶対に体験したくないものでした。それは今私の中では、幽体というものを否定できない自分を作っています。清浄化され救われなければいけない世界の存在を否定できない事につながっています。個々の心の平和の創造と世界の恒久平和実現は重なっているといわれています。私達の生命の中には、未だ解き明かされていない真実が沢山存在するとすれば、宗教的に解き明かされてきたことがすべて、非日常的で意味を持たない事とばかりはいってはおられないはずです。


肉体界も、幽界も霊界も神界も、すべてがつながっているといわれています。それ以上に自分の中にあるのだといいます。それ故に人間生命の真性と輝きを祈り出すことも可能であることになります。あらゆる階層世界を光明化する働きを持つのが祈りでもあります。それを可能にするのが、
世界平和の祈りの道です。
この世もあの世も、大生命の働きの中でみんなつながっているという真実の中に、大いなる救済もあるといいます。大光明の働きにつながる祈りがある、それは未来永劫にわたる大きな希望ではないでしょうか。
 (上に戻る)
                                
   

はじめに 意識の働きについて 赤ちゃんと生命誕生 本心と良心 般若心経の世界1  2
いのちの真実 美しい言葉の世界 法華経比喩品と火宅の人 煩悩即菩提 阿弥陀仏の世界と
日々の雑感 一切の中に自己があり・・・ 宗教の役割 睡眠の効用  人身得難しの実感
役小角行 真理と現実を隔てるもの よりよく生きるために  真実の人間観  潜在意識と言葉の働き 
独り言メニュー