クライミング事始

クライミングとの出会い

  ネパールから帰ってきた頃、ヒマラヤの山々に魅せられた私は、山の写真を撮影したいと思っていた。会社の先輩のJ.Aさんに話してみたところ、 「今度どこかに行きたいね」という話にはなったが、具体的には未定だった。そんなJ.Aさんから、岩登りをやっているから、今度やってみないかと 誘われたのが、1992年2月頃の話である。
  最初からクライミングシューズなんて履かずに普通のスニーカーでのトップロープでのクライミングであった。 (今から考えても、すごいし、馬鹿みたいだなあ) 場所は宮ノ平にあるミニハーフドームという小さな石灰岩で、今思うと大した岩ではないが、最初はこんな岩を登るのかと思ってしまった。
  ルートとしては、5.10程度であったが、まだ二人とも下手でその当時はムーブも分からず、最後まで登れなかったのであった。 この最後まで登れないというのが、悔しくもあり、面白くもありしばらく通っていた。
  最初に買ったクライミングシューズはスポルティバのKENDOであり、4月頃に新品のシューズを持って、奥多摩の氷川屏風岩に行った。
  そこでは、リードしなければならないが、Aさんが途中までリードして、そこまでは登ろうとあがいていたが、新品のシューズはまだ足に 馴染んでいないので、すぐに痛くなってしまった。
  早々に引き上げた帰りに連れて行かれたのが、御岳ボルダーだった。
  これが、”忍者返し”だと教えられ、トップロープをセットされ、いきなり登らされたのであった。感想は、私には絶対登れないと思った。 その時はホールドもムーブも判っていなかったし、未熟すぎたのであった。御岳もあまり来ることはないと、その当時思っていたし、 ボルダーをする人も少なかった様に思える。
  その後しばらくは、下手ながらもクライミングを続けたが、J.Aさんの勤務地が変わったこと等により、クライミングも自然消滅的に 休止してしまった。
  パートナーがいないので、ある日思い付きで御岳ボルダーに行き、ボルダーも面白いかもしれないと思う様になった。ボルダリングを行うといっても、 簡単な課題や、遊歩道のトラバースを行うくらいで、遊び程度であった。(今でも、遊びだけど。)
  たまたま、御岳に行ってボルダリングを行っていた時に出会ったのが、会社近くの医療機器メーカーに勤めていたKさんだった。 Kさんはその頃、クライミングジムT.Wに通っていて、人工壁について聞いていると、一度やってみようかと思ってしまった。

人工壁時代

  最初に行った人工壁は、西国立にあった今は無きD.D.Bであった。地下にある人工壁で、高さがないので横へのトラバースが多かった。 93年7月7日七夕の日の夜のことであった。色々な課題が設定されていたが、慣れなくて難しく思えた。
  93年7月21日、クライミングジムT.Wに行ったが、受付はT社長であり、「うあー、Tさんだ」と感激してしまいました。 だってその当時、雲の上の存在の様に思えていたが、話してみると、普通の人に感じた。(失礼)
  ここは、さすがに高さのあるボルダー用の壁、天井のルーフルート等があり、圧倒されてしまいました。
  しかも、なぜか当時、奥にあった傾斜の強い奥壁に魅力を感じ、以降はそこばかりやっていました。奥の隅は、居心地が良かった。
  その頃は、今の様にクライミング・ジムが乱立する状況でなかったので、錚々たるメンバーが顔を出していた様に思う。 まあ、そういう中に紛れて、ちょこちょこ奥壁を登っていたのでした。
  最初は何でもいいから一番上に到達するのを目標にし、次は表示されていた簡単な課題にチャレンジしていた。 普通、「課題やルートにトライする」と言っても、「チャレンジする」とはあまり言わないらしい。でも、チャレンジャーMICHIであった。
  当時のグレード表示は、フォンテーヌブロー形式であり、6a以下は付け足し課題のようなもので、6a以上の名前の付けられた課題を登るのに、 悪戦苦闘していた。
  最初は、長続きしないと思っていたので、会員ではなく毎回使用料を払っていた。よく計算してみると会員の方が割安かもしれないと思い、 会員になってしまった。会員になってしまうと、気軽に訪れる回数も多くなった。
  グレードの変化について言うと、6a程度がいくつか登れるようになった頃、1から始まる数字のグレードとなり、いつしか級段グレードと 変化していった。今後は変わることはないかも?。定着してしまったような。
 
再びボルダリングへ

  人工壁ばかりだった頃、滅多に御岳には行かなくなっていた。また、御岳に行く様になったのは、M .Yさんが御岳で「蟹」「忍者返し」を やるために、下地の岩に土盛りして見違えるようになったと聞いたからだ。 (M .Yさん、「蟹」を第二登、現在、三重県在住)
  そこは、古墳の様になっているらしいと聞き、実際に行ってみると、そこには、まさしく古墳の様な土盛りがあった。
  まだ、スポットを持っていない時の話であり、この土盛りは有り難かった。これに、感動した私は、早速携帯用スコップを買い、 M .Yさんの工事を勝手に引き継いだ。
  この時、御岳を訪ねた人は、いつも土盛りされた下地を見ただろう。
  この時以降から、ちょくちょく御岳に来る様になった。この時、クライミングジムT.Wの一部の人達にボルダリング・ブームが あり、B-TEAM(ボルダリング・チーム)的なノリがあった。
  これに参加した形で、三峰、小川山、早川、笠間、安達太良等に行った時期がある。(雰囲気は、画像データを見て下さい。)
  B-TEAMと言う概念は、以前からあったようで、人工壁のボルダーばかりやっていると、B-TEAM?と聞かれたことがある。
  今ほど、御岳は混雑していなく、のんびりしたものだった。冬はたき火と焼き芋の為に通ったこともある。夏は我慢出来ずに、川で泳ぐことも。
  まあ、この頃は、人工壁も外でのボルダリングも適度に行なっていた時期といえるでしょう。
  97年くらいまでが、よく頑張っていた時期かもしれない。特に97年は、人工壁、御岳、三峰に良く行っていたし、ウエイトコントロールも重視していた。 この頃の体重変化のグラフや食事リストを見ると、自分自身でも信じられないくらい。いやー、笑ってしまいます。

謎の空白時代

  別に全然、空白でも何でもないのですが、98年の春から99年の春くらいまで、ほとんどやっていない時期があるんですね。何故か?
  でも、答えは簡単。仕事が忙しくなったのと、クライミングに対するモチベーションがなくなったから。この時期に別の楽しみを見つけていれば、 クライミングを辞めていたかも。
  この時の手帳を見ると、見事に白い。人工壁も月に1回や、全然行っていない月もある。その代り、映画や休日出勤が多くなっている。 海外旅行も多かったような。
  
HP立ち上げ時(2001年)

  結局、不幸にして代わりに夢中になるものがなく、何となくまた始めたのがクライミング。辞める最大のチャンスを逃す。いや、まだ間に合うぞ。
  変わったのは、継続力がない。やる時期はやるけど、やらない時期もある。その度に苦労しています。また、年のせいか、腰痛の爆弾を抱えている感じ で、気にならない時もある。でも、また何時調子がわるくなるか、判らない。厄介だな。
  もう、ほとんど人工壁はやっていない。昔の様に平日の夜に行くなんて、出来ない。仕事のせいもあるが、やる気がなくなってしまった。
  でも、良い点が一つ。クライミングシューズの寿命が延びました。このくらいかな。
  御岳も変わりました。多分、99年8月のお盆の集中豪雨の増水により、下地が高くなり、今までやってきた土木工事の必要がなくなりました。 少し、淋しい気もする。あれほど、土盛りに情熱を傾けてきたのに。その分、登ることに力を使えということでしょうか?。
  8月17日に御岳に行った時は、目が点になりましたね。とにかく、下地が上がって、露出していた岩が見えなくなっていました。 しかも、今と違って、表面は砂地で抜群の着地点でしたから。(現在、砂は流れて、石ころが若干露出している。)
  集中した時期は、99年暮れから2000年の春まで。今は、ぼちぼちでんな。
  まあ、モチベーション維持のために、HP上にコーナーを作った次第。まだまだ、続くか?

HP更新時(〜2004年)

  この時の活動は、ほぼクライミング日記で掲載されている感じである。
  今から読み直してみると、御岳ボルダーでのムーブに進歩が感じられる。でもその半面、登ったという成果として現われていない点が残念 でもある。
  この期間、「忍者返しの岩」前の下地にも変化が生じたが、一番の大きな変化はホールドの欠けに思われる。
  一番痛かったのは、「虫」でキョンする時に使う岩の突起が2度も欠けてしまった事だろうか?。でも、その状態でもムーブで対応して 「虫」のキョンが出来る様になった。
  結局は、人間の方で対応するしかないのだなぁ!という思いが強くなった。
  元々知り合いから誘われて始めたのだが、正直まだ続いているよ!という驚きもある。でも、何時まで続けられるのだろう?という考えも 確かにあるのであった。気になるよねぇー、年齢と体力が。

御岳、フォンテーヌブロー時代(〜2013年)

  クライミング・ジムは1999年頃まで頑張っていたのだが、その後はもっぱら週末御岳ボルダリングが主となってしまった。
  頑張ってトライしていた「蟹」オリジナル・バージョンや「虫」は登れたので、「蟹虫」をトライする日々が続く。
  御岳だけでなく、フォンテーヌブローも頻繁に出掛ける年が続いていた。
  その辺りは、このHPよりブログ上で紹介している時期でもある。
  クライミング歴の中でも最後の頑張りという感じであった。

再びの空白時代(2013〜2017年)

  2013年3月のフォンテーヌブローでのボルダリングを最後に殆どクライミングを引退した状態になる。
  個人的な環境変化とモチベーションの低下、身体的ながたつきに嫌気がさしてしまった。
  前から腰痛を起こしていたのだが、この頃は断続的になってしまった。
  クライミングを辞めて他に何かやっていたという訳でもなく、週末は殆ど部屋内に居るインドア生活となってしまった。
  どういう感じかと言うと以下の様な感じである。
   2013/14シーズン 御岳ボルダリング5回
   2014/15シーズン 御岳ボルダリング4回
   2015/16シーズン 御岳ボルダリング5回
   2016/17シーズン 御岳ボルダリング0回
   (2016年1月1日から2017年11月10日までは、一切クライミングも運動もしなかった。)

ボルダリング再開(2017〜)

  このままクライミングを離れてしまうのだろうと思っていたのだが、また身体を動かしたくなってしまう。
  そして2017年11月11日から御岳ボルダリングを再開するのだが、完全にゼロからの出発に近いものだった。
  2018年12月24日から25日にかけて、「忍者返しの岩」がチッピングされてしまう。
  自分の力量不足を痛感し、将来外岩が登れなくなる不安もあり、2019年2月5日からクライミング・ジム通いを再開する。



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