11月

『水の女』
 この映画のヒロイン(UA)は雨女だ。彼女にとって何か重要な出来事が起きる時、必ず雨が降る。父親が死んだ時、婚約者が死んだ時も雨が降っていた。大切な人たちを失って呆然とする彼女の元に、ある日「火を見ていると落ち着く」という奇妙な男(浅野忠信)が現われ、二人は宿命的な恋に落ちる・・・
 という「水の女と火の男の宿命の恋」の話だそうだが、どうも宿命の恋に見えなかった(笑)。二人が恋に落ちる必然性が、今ひとつ感じられない。自然の四元素に合わせて、「土の女」と「風の女」も出てくるのだが、この必要性も弱い。話の構成力が弱く、全体的に冗長だった。見ながら「ま、まだ続くの?」とか「ここ、いらないし」と思ったくらい(笑)。この作風でこのネタだったら、1時間強くらいがベストだと思うのだが。
 ただ、映像はとても綺麗だった。日本の自然を満喫できる。ヒロインは銭湯をやっているのだが、この銭湯の中のお湯のゆらめきや外光が差し込む様子なども、本当に銭湯に行きたくなるような雰囲気があった。水と火(銭湯は火でお湯を沸かす、正に火と水が融合した場所だ)のイメージが効果的に使われていたと思う。
 監督の杉森秀則は、CMやミュージックビデオの製作をしていた人だそうだ。プロモ出身の映画監督というと、「映像は良いが脚本が弱い」という先入観があるのだが、この映画は残念ながらその先入観を裏切ってくれなかった。ボーっと映像と音楽(管野よう子)を楽しむには良いのだが。
 主演のUAと浅野はさすがの存在感。特にUAは映画初出演だが、力強くもアンバランスな感じがこの役柄にピタリとはまっていた。ちなみに映画の主題歌はUAの『閃光』だが、映画の雰囲気にはちょっとそぐわない感じが。アルバム内のほかの曲にすればよかったのになぁ。

『まぼろし』
 フランスの鬼才監督、フランソワ・オゾンの新作。オゾンはシュールで辛辣な作風で知られるが、今作はがらりと雰囲気が変わっている。いつもは対象を突き放したような撮り方だが、今回はヒロインに寄り添うような撮り方で、いつもの、ある種の意地悪さが薄れていたように思う。ただし、容赦がない所はいつも通りだ。
 主人公・マリー(シャーロット・ランプリング)には長年連れ添った夫・ジャン(ブリュノ・クレメール)がいる。しかし、海水浴に出かけた浜辺で、突然ジャンは姿を消す。海水浴中に溺れたのか、妻を捨てて失踪したのか。遺体は発見されず、生死は不明のままだ。残されたマリーを友人達は気遣うが、彼女は夫が生きているかのように振舞う。
 彼女は夫がいなくなったことを受け入れることが出来ない。彼女にとっては夫はまだ生きており、彼女を共にある。彼女には夫の姿が見えるし、いつも通りに会話し、一緒に食事を取る。はたから見ると彼女は狂っているかのようだが、むしろ人間的な感情を保つ為、正気を保つ為に夫の幻を必要としているのではないか。身近な人の死は、たやすくは受け入れられない。受け入れるまでには「喪の仕事」の期間が必要なのだ。マリーにとっては、それが夫の幻との時間なのだろう。
 似たようなシチュエーションの映画に、『息子の部屋』というものがある。タイトルの通り、この映画では「息子」が突然事故死する。残された家族は悲しみ、取り乱し、家族崩壊直前までいくが、息子のガールフレンドという外部の人間の視点が介入することで、家族間の閉塞感が打破され、悲しみが和らげられる。
 『まぼろし』の場合は、外部からの視点は入らない。マリーは一人で夫の幻と向き合い、世界はどんどん閉鎖されていく。彼女に好意を寄せる男性もいるが、夫の存在感を越えることは出来ない。マリーがボーイフレンドとセックスし、「あなたは軽すぎるのよ」と笑い出すシーンがある。このときの「軽い」とは単純に体重のことなのだが、存在感の軽さをも暗示している。こんなセリフをさらりと言わせてしまうオゾンは恐ろしい。
 主演のシャーロット・ランプリングは、ほとんどすっぴんの様なシーンもあり、顔のシワ等がはっきりと見え、年齢を感じさせる。若い頃の様な美しさではないが、とても魅力的な顔だった。マリーの知的で、ちょっと堅い感じのたたずまいが、彼女によく合っていたと思う。ランプリングはオゾンの次回作にも主演するそうで、そちらも楽しみ。
 愛する人がいなくなった時の喪失感が非常にリアルで、ゾクリとした。朝食を二人分用意してしまう所や、夫の書斎の椅子にジャケットがかかったままになっている所。自分が知らなかった夫の一面が突然知らされた時のショックなど。見ていて痛々しかった。
 マリーは狂っているのではなく、一つの選択肢として、夫の幻を選んだのではないだろうか(彼女は自分が見ている夫が幻であるということは自覚しているように見える)。彼女にとっては、それが生きているということ、喪失の悲しみを受け入れるということなのではないか。ラストシーンは痛く、美しい。ある意味ではハッピーエンドだと思う。
 それにしても、50代の女性の心理をここまで捉えた映画は、今までなかったのではないだろうか。33歳でこの映画を撮ってしまったオゾンは、つくづく恐ろしい。

『ごめん』
魚住直子の秀作小説『非・バランス』を見事映画化した、富樫森監督の2作目。今回はひこ田中の小説の映画化で、どうも児童文学着いている。この監督は、やはり子供を撮るのが上手い。主人公セイ役の子(久野雅弘)は、ぽっちゃりとしていたあんまりハンサムな顔ではないのだが、だんだんかわいく見えてくるから不思議だ。子供の力の及ばなさというか、自分の思うようにできる部分が少ないことのもどかしさというか、そのあたりの感じを良く分かっている、よく覚えている人だと思う。
 小学生のセイは、中学生のナオ(櫻谷由貴花)に一目ぼれしてしまうのだが、いかんせん小学生。子供扱いされたり、無神経な言葉で(悪意はないんだけど)ナオを怒らせたりしてしまう。しかもクラスで一番最初に「お汁が出て」しまい、自分の体のことさえ良く分からない。でも、不器用に頑張る姿がだんだんりりしく見えてくる。
 ナオはナオで、両親は離婚して父親と同居しているのだが、その父親は借金を抱えており、自分の店を手放さざるを得なくなる。ナオは母親のもとへ行くか、父親と田舎に帰るか選ばざるを得なくなる。彼女も子供の立場ではいかんともしがたい問題を抱えている。
 彼、彼女は結局、事態が上手くいくように祈るしかないのだが、映画のラストは爽やかだ。セイとナオは「あの橋までブレーキを踏まずに行けたら、いいことがある」と自転車で坂を駆け下りるのだが、成功したかどうかは映画の中では分からない。でも自転車が走り出す瞬間の二人の顔は、とても楽しそうなのだ。
 主演の二人だけでなく、脇役の子供たちが上手かった。小学校特有の「男子女子」な感じが上手く出ていたと思う。セイの両親も愉快。母親は「セイ、お汁が出たんだって!」と父親にウキウキと報告してしまうし、あまつさえ「お赤飯炊こうか!」と来る。デリカシーがないのだが妙に憎めない。こんな母親だと男の子は苦労するだろうなぁ(笑)
 森監督は、故・相米慎二監督の助監督だったそうだ。この映画を相米監督が見ることが出来なかったのが悔やまれる。

『マドモアゼル』
 男と女がふいに出会って恋に落ちる・・・というと、ベタなメロドラマのようだ。そういう意味ではこの映画は全くのメロドラマ。女(サンドリーヌ・ボネール)は薬品会社の営業。頭がよく、キャリアがあり、夫と二人の子供がいる。男(ジャック・ガンブラン)は「即興劇団」の役者で、全国を巡業している。この2人が1日を共に過ごす。
 しかし、正にメロドラマな筋書きなのに、不倫ドラマにありがちなドロドロさや隠微さはない。さらりとした手触りだ。女は家庭を捨てるようなことはしないし、男も「崖っぷちに立っているみたいだ」と言いつつもその崖から飛び降りることはしない。2人とも、知的にクールに恋を楽しんでいるという感じだ。一緒にいる時間が限られていたからこそ、甘美な思い出になるということを知っているのだろう。
 監督フィリップ・リオレの前作である『パリ空港の人々』という映画も、期間限定の関係が描かれる映画だった。もろもろの事情からパリ空港内に足止めされた人たちが、擬似家族のような、不思議な連帯感で結ばれていく。しかし、空港を去る時は確実にやってくる。それが分かっているからこそ、よけいにつかの間の関係が幸せなものに思えるのかもしれない。
 映画『マドモアゼル』の魅力は、主演のサンドリーヌ・ボネールによるところも大きいと思う。愛らしいが嫌味がなく、知的な雰囲気の女優だ。ジャック・ガンブランのちょっとミステリアスな雰囲気も良かった。
 タイトルの「マドモアゼル」とは、女が「マドモアゼルなんて呼ばれるのは久しぶりだわ」というセリフからだろう。女性は結婚すると、「〜さんの奥さん」とか「〜ちゃんのお母さん」という呼び方をされがちというのは、フランスも同じみたいだ。「マドマワゼ
ル」と呼ばれると、やはりときめいてしまうのだろうか。

『ウェイキング・ライフ』
 夢の中で「夢を見ているな」と気付くことがある。そして「夢から覚める夢」を見ることがある。この映画では「夢から覚める夢」が延々と続く。どこまでが覚めていてどこまでが眠っているのか、覚めても覚めても夢ならば、それは起きているのと変わりはないのでは?(それとも主人公は、映画冒頭で車に当たった時点で死んでいるのか?)。
 映画は全編アニメーション。夢が深くなるにつれ、人物の顔がデフォルメされているように見える。背景がユラユラと揺れ動き、夢の中で歩くと足元がおぼつかないというあの感覚がよみがえる。実写映像をトレースして絵を載せてアニメーション化したそうだが、不思議な印象の映画だ。
 色々な人物が出てきて、意識、夢などについてベラベラと哲学的なおしゃべりをする。実写だったらあまりにもベタでひいてしまいそうな内容だが、アニメゆえに自然に見ることが出来る。夢と意識というものを描くにこの手法を取った、監督の勝ち。実は私、映画の途中で寝てしまったのだが、途中で寝てもOKな映画だと思う。延々と映画を流し、途中でウトウトしてまた起きて映画を見てウトウトして、という見方が許される映画では。正に「どこからが夢?」という感じで。

『ゴスフォードパーク』
  名匠・ロバート・アルトマン監督の新作。時は1932年11月。ゴスフォード・パークと呼ばれるイギリスのカントリーハウスでパーティーが催され、自称「上流階級」「貴族」な人々が集まってくる。実際は爵位はあっても貧乏だったり、事業に失敗しそうで資金援助を求めていたりするのだが、ともかく貴族。そして彼らに仕える召使達もやってくる。彼らは自分の名前では呼ばれず、自分の仕える主人の名前で呼ばれている。
 このような人々が集まる中で起こる、殺人事件。まるでアガサ・クリスティの小説のような趣だが、この映画の醍醐味はミステリだけでなく、錯綜する人間関係にある。アルトマン監督は群像劇が得意だが、この人間関係をさばく手際は、さすが。ちょっとした会話やしぐさに事件の真相(だけではないが)が見え隠れする。上層(貴族)でも下層(召使)でもドラマが進行し、その二つを行き来する人までいて、ちょっとスピーディーすぎて分かりにくい部分もあるが、演出の巧みさで飽きずに引っ張られた。出演者が派手ではないものの、芸達者揃いで豪華。
 

 

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