3月

『今宵、フィッツジェラルド劇場で』
 ミネソタ州で長年続いていたラジオショウ「プレイリー・ホーム・コンパニオン」が最終回を迎えようとしていた。大企業が番組を放送しているラジオ局を買い取ったのだ。出演者たちはベテランだが今一つぱっとしない人ばかり。今夜、彼らの最後のショウが始まる。 ロバート・アルトマン監督の遺作となる本作。老齢の監督を、ポール・トーマス・アンダーソンが監督代行として支えた。群像劇を得意とするPTAならではか。
 閉鎖されるホール、去り行く時代遅れの芸人達の群像劇である為、これがアルトマンの遺作というのには、ちょっとほろ苦さを感じた。過ぎ去ったものに対する郷愁が感じられた。また、死の影が随所に見え隠れする(というかばっちり死人が出ている)のはなんとも不穏だ。自分の死を予感して、というわけでもないのだろうが、何か悟りの境地に至ってしまったのではないかと思わなくも無い。死の扱いがあくまでドライで、シニカルなユーモアをまぶしているあたりはアルトマンらしい。湿っぽくなりそうな話が全然湿っぽくない所がいい。
 現代が舞台ではあるが(携帯電話とか出てくるし)、一昔前を舞台としているような印象を受ける。彼らのショーが、カントリーの演奏を中心としたちょっとレトロなものであること(そもそもラジオの公開生放送というものが、今時珍しいのではないかと思う)、彼らの服装もちょっと時代遅れな感があること、舞台となるホールや、冒頭で出てくるダイナー等が古めかしいということが、一種の懐かしさを生んでいる。それに加えて、ホールの用心棒である探偵ガイ・ノワール(ケヴィン・クライン)の存在がきいている。彼はクラシカルなスーツに中折れ帽という、一昔の(それこそフィリップ・マーロウのような)探偵のようなスタイル。言動もパルプフィクションに出てくる探偵気取りで、どうにも浮世離れしている。ステージに立つ芸人やスタッフは血肉の通った人間という感じがするが、ガイだけは過剰にキャラクターぽく、そこで仕事、生活をしている人という感じがしないのだ。それこそ、劇場の幽霊というか精霊で、この世のものではないんじゃないかと最後まで疑ってしまった。いや、もしかするとこの劇場に出演している人達は皆既に幽霊なんじゃないか・・・とか。
 出演者は名優揃い。姉妹歌手にメリル・ストリープとリリー・トムソン、ストリープの娘役が全米アイドルのリンジー・ローハン、下品な歌が売り物のカーボーイデュオにウディ・ハレルソンとジョン・C・ライリー。皆、持ち歌は吹替えなしだそうで、全て俳優本人のパフォーマンスだ。これが上手い。メリル・ストリープがこんなに歌える人だったとは知りませんでした。こういう人達を「時代遅れ」というポジションで使っちゃうあたりがある意味豪華。カントリーの名曲が多く使われているので、サントラだけでも楽しめそうだ。リンジー・ローハンのソロステージもかわいかった。
 司会者キーラー役であり、原案、脚本を手がけたギャリソン・キーラーは、実在の「プレイリー・ホーム・コンパニオン」の司会者。実際にこんな感じで番組をやっているんだろうなーという雰囲気が出ていた。CMの入れ方なんて熟練の技としか言いようがない。歌も小芝居も達者で、とても楽しい。ちなみに番組はまだ続いているそうです。全然終わってないです。いけしゃあしゃあと、自分が引退する話を書いて自分役で出ているわけだから、なんとも人を食った映画ではある。



『パリ、ジュテーム』
 パリを舞台とした、14編のオムニバス映画。参加した監督は、ジョエル&イーサン・コーエン、諏訪敦彦、オリヴィエ・アサヤス、ガス・ヴァン・サント、グリンダ・チャーダ、フレデリック・オービュルタン&ジェラール・ドパルデュー、シルヴァン・ショメ、ヴィンチェンゾ・ナタリ、リチャード・ラグラヴェネーズ、トム・ティクヴァ、イサベル・コイシュ、クリストファー・ドイル、アレクサンダー・ペイン、ウォルター・サレス&ダニエラ・トマス、アルフォンソ・キュアロン、ブリュノ・ポダリデス、オリヴァー・シュミッツ、ウェス・クレイヴン(順不同)。各編とも、その舞台となる地区の名前がタイトルになっている。
 オムニバス映画を成功させるのは結構難しいと思う。若手だけだといまひとつ物足りず、かといって巨匠が参加すると他の監督は遠慮してしまったりもするだろう。そもそも面白い長編映画を撮る監督が面白い短編映画を撮るとは限らない。特に本作のように大勢の監督(正に老若男女。しかも国籍もばらばら)が参加していると、作品の完成度に差が出てしまうのは否めない。この手の企画にありがちな、予告編はキュートだけど本編はどうもぱっとしないということになっているんじゃないかと危惧していたが、これが全くの杞憂だった。確かに「これはちょっと・・・」という作品もないわけではないのだが、大ハズレというものはない。それどころか、かなりぐっとくる作品が多かった。
 監督の技を実感したのが、まずアルフォンソ・キュアロン監督「モンソー公園」。若い女性と年配男性が話しながら歩いている。やたらと緊張感のある会話だが・・・。ほぼワンショットで最後に「そういうことね!」と腑に落ちニヤリとさせられる。昨年はこの監督の『トゥモローワールド』に舌を巻いたが、短編でも期待を裏切らなかった。きっちりオチをつける小話風。また、アレクサンダー・ペイン監督「14区」も心に残る。デンヴァーから一人で観光に来た中年女性が、フランス語で観光内容を語る。アカデミー脚本賞を受賞した『サイドウェイ』に共通する、諧謔(海外旅行ってある意味かっこ悪いよね、的な)とほのかな温かみがある。美人でもない、スタイルもよくない、家族も彼氏もいない、そしてフランス語の下手な中年女性が一人で観光をする姿が将来の自分を見るようで身につまされてしまった。しかしイタい、寂しいだけでは終わらせないあたりがいい。全編の最後にこの作品を持ってきたことで、パリという限定された空間から、映画がぐんと広がったように思う。
 出演者も豪華だった。キャストの味わいで魅せてくれたのがフレデリック・オービュルタン&ジェラール・ドパルデュー監督作品の「カルチェラタン」。ジーナ・ローランズとベン・ギャザラが、離婚を控えた夫婦を演じる。カサヴェデスファンには嬉しい限りだ。2人のしゃがれ声を聞いているだけで嬉しくなる。また、リチャード・ラグラヴェネーズ監督「ピカール」は、ファニー・アルダンとボブ・ホスキンスの為に作られたと言ってもいいくらい、2人のキャラクターにより成立した作品になっていると思う。また、ガス・ヴァン・サント監督「マレ地区」は、印刷所で働く青年を客の通訳で来店した青年が電波がかった熱烈なナンパ(笑)をするという、お前どこのBLだそれ!みたいな作品なのだが、ギャスパー・ウリエルが不思議ちゃん系美青年にぴったりで、大変目の保養になる。しかしあんな口説き方されたら普通ひくだろ・・・(そして何故ひかなかったかというオチが笑えるのだが)。
 どの作品も、舞台となる土地柄とストーリーとを上手く絡ませていて、全編見るとちょっとしたパリ観光をしたような気分になれる。実際にパリに住んでいる人や頻繁にパリを訪れる人だったら、もっと楽しめるのではないかと思う。
 しかし、私が一番感銘を受けたのは、ウォルター・サレス&ダニエラ・トマス監督作品「16区から遠くはなれて」だ。観光地の華やかさの陰にあるパリの現実。主演のカタリーナ・サンディノ・モレノは、以前主演した『そして、一粒のひかり』が素晴らしかったのだが、本作でも生活に疲れていっぱいいっぱいの、はりつめた表情が効いていた。赤ん坊に口ずさむ子守唄が反復されるのが、またなんとも言えない。



『叫』
 東京の埋立地で女性の他殺死体が発見された。担当となった刑事・吉岡(役所広司)は、自分のコートのボタンと同じものが現場に落ちていることに気付く。更に事件と自分の身辺とを関連付けるような物証が発見され、同僚の宮地(伊原剛志)からも疑いの目を向けられる。一方、捜査を開始すると同時に、吉岡の前に赤い服の女(葉月里緒奈)が現れる。
 黒沢清監督の新作となる。前作『LOFT』とのスパンがやけに短いが、映画としては本作の方が面白いと思う。ミステリ的な要素とホラー的な要素が割とはっきりしていて、比較的とっつきやすい。ただ、黒沢清は幽霊のあり方に対して、何か確固とした信念のようなものを持っているようなのだが、その「あり方」が世間一般の幽霊映画とちょっと違うように思う。出現の仕方は幽霊映画のセオリーから外れていない(さあ出るぞ出るぞ〜という所でちゃんと出るしね)。セオリーに従っている所と越脱する所との落差が大きすぎて思わず笑ってしまう、という所があったと思う。幽霊が出現するたびに客が笑っていた。物陰から顔半分だけ出しているのとか、アパートの窓から飛び出して街の上を舞っていくのとか、何かユーモラスなのよね。監督は笑いを狙っているのかどうか気になって仕方ないのだが、多分狙ってはいないんだろうなぁ。黒沢清の天然力をまた垣間見てしまった・・・。
 さてこの幽霊だが、直進してくる動きにインパクトがあった。スーっと滑るように近づいてくるのが怖い(脚はあります、念のため)。幽霊役の葉月里緒奈が、あからさまな演技は殆どしない所もかえって怖い。また、この幽霊の最も薄気味悪い所は、特定の誰かとの因縁があるのではなく、また特定の場所に出現するのでもなく、ある状況下にいた人たちを勝手に恨んで勝手について回ってくるのだ。呪われる側には理由が全然わからないから不条理極まりない。しかし不条理ゆえに怖い。そして、ことが収まったかのように見えたものの、幽霊の呪いは当初の「ある状況下」とは関係のない人にまで及ぶ。私が死んだんだからお前も死ね、例外なく死ね、というわけだ。どんな逆恨みだそれは!終盤、吉岡が歩く街には人気がなくゴミが舞う。生きている人間は全員幽霊に呪い殺されて、街は廃墟になってしまったのかという印象も受けた。
 吉岡は幽霊が何故自分を呪うのか、自分は何を忘れていたのかという謎を解く。この過程はミステリ的だ。そしてその謎が解けた後、もうひとつの真相が姿を現すのだが、この真相が実際どういうことであったのか確定できない(何通りかに解釈できる)というところが、もやっとしたものを残し、ああこれもやはり黒沢清の映画だったなと思わせるのだ。吉岡は「許す」と告げられたが、最後の「許す」は本当に許されたことになるのか。むしろ延々と忘れさせてくれない、彼を束縛することになるのではないか。
 黒沢映画といえば風景(室内も)が殺伐としているのが特徴だが、本作はロケハンにかなり力を入れたようで、開放感があるのに殺伐としているという新しい境地に至っている。殺風景マニア必見だ。また、いつになく鏡を多用しているのが印象に残った。鏡に映った姿を撮影される場合、役者は演じにくくないのだろうか。自分にカメラが向いていない場合もあるわけだし。



『松ケ根乱射事件』
 90年代初頭、北国の田舎町松ケ根で、雪原に横たわっている女(川越美和)が発見された。巡査の光太郎(新井浩文)は検死に立ち会うが、女は息を吹き返す。どうやらひき逃げにあったようだが、女は取り調べをはぐらかすばかり。一方、光太郎の双子の兄・光(山中崇)は女とその愛人のヤクザ(木村祐一)にとっつかまる。実は女をひき逃げしたのは彼だった。
 あらすじ説明するとドラマチックぽいけど、全然ドラマチックではない。あっこれは盛り上がる展開になるかしら?!という所で必ずセオリーを外す寸止め展開だ。しかし寸止めの仕方がこれまた上手いので、全然飽きない。盛り上がるわけではないのに妙に面白いのだ。映画のリズムを心得ているという感じがする。映画の空気管はぐだっとしているのに、映画としてはダレていない。山下敦弘監督の本領発揮といった感がある。
 『リアリズムの宿』を見た時にも思ったのだが、人間のマヌケな部分、みっともない部分のチョイスの仕方が抜群に上手い。よりにもよってそこですかい!と唸ってしまう。人間をよく観察しているなぁと思う。スネた光が光太郎をポコポコ蹴飛ばし、徐々にエスカレートしていくタイミングとか、息子の恋人の両親の前で一方的に喋り捲る父親の白々しさと、その場にいる家族のいたたまれなさとか、いやーよく見ているなと。
 とにかく人間の弱さ、だらしなさに満ち満ちた映画だ。分かりやすくだらしないのは、定職にもつかず自分のやったことの後始末もできない光なのだが、しぶとくだらしないのは光太郎と光の父親(三浦友和)だ。愛人がいることを悪びれもせず、いけしゃあしゃあと自宅と別宅を行き来する。絶対責任とか引き受けないんだろうなこの人、という空気がぷんぷんするのだ。これを三浦友和が演じているので、変な脂ぎった感じが出てちょっと凄みがある。映画の中では怖ろしい存在というポジションになっているヤクザも、金塊の換金方法を知らなかったり、そもそも人口の少ない田舎町に逃げてきたら目立って不審度が増すんじゃないかとか、案外マヌケだ。
 一般的に、こういうダメな人ばかり出てくる映画の場合、「人間の弱さに対する優しい視線が」とかいうコメントが付き物だが、本作に優しい視線はないと思う。全て冷静に観察しているような、突き放した視線で描かれている。監督は、どの登場人物に対しても感情移入していないのではないかと思う。否定はしないが肯定もしない、一種の冷徹さ、クールさがあった。誰にでもありがちな弱さや情けなさが、いたって冷静に披露されているので、ちょっといたたまれなくなる。
 何か大事件が起こりそうで起きない。光太郎の中には鬱屈が溜まっているが、はじけそうではじけない。最後はとうとうある行動に出るもののショボくて拍子抜けする。光もある行動には出たものの、まったく格好がつかない。父親は結局、本妻と愛人との間で上手いことやっている。溜まっているものはあるが何も変わらないという、平穏なのか不穏なのか分からない後味の微妙さがあった。
 それにしても、さわやかなガールズムービーだった『リンダリンダリンダ』の後にこれを撮れる山下監督はすごい。『リンダ〜』を見て監督のファンになった人は戸惑うのではないだろうか。



『善き人のためのソナタ』
 1984年の東ベルリン。シュタージ(国家保安庁)は至る所に盗聴器を設置し、国民を監視していた。ベテラン局員のヴィースラー(ウルリッヒ・ミューエ)は、劇作家ドライマンとその恋人である女優クリスタが反乱分子である証拠を掴もうと、ドライマンのアパートの屋根裏に潜み24時間体制の監視に当たる。しかし彼は文学、音楽、そしてドライマンとクリスタとの間の愛に徐々に影響され、彼らに肩入れするようになる。
 80年代というとつい最近のことだが、そのつい最近のドイツでこういうことが行われていたのかと思うと、薄ら寒い気持ちになる。もちろんこの映画はフィクションではあるが、生々しい。密告をさせる為に脅す、恐怖で国民をコントロールするやり方が徹底されている。冒頭、尋問方法を大学で教えているのには少々ショックを受けた。大学で教えるレベルの重要事項なわけだ。そしてドライマンの恋人であるクリスタが、彼を愛しながらも状況に抗えず、保身の為密告せざるをえないように、体制に翻弄される普通の人々の姿がやりきれない。
 一方で、ここまで徹底して情報を収集し国民を管理する必要(というか有効性)があったのかと疑問にも思う。客観的には、冗談のようなことを大真面目にやっているように見える。もう行くところまで行ってしまって変な領域に入っているのだが、誰もそれに突っ込みを入れない、突っ込みを入れれば即処分されるというのが怖ろしい。ドイツでは統合後もシュタージについて触れるのはタブー、最近は東ドイツ回顧ムードが漂っていたというが、そういう風潮に否と言い切った作品だった。
 ヴィースラーはドライマンが愛する文学や音楽に感化されていくのだが、どの時点でドライマンに共感するようになったのかという所は、少々弱かったと思う。ドライマンが「善き人のためのソナタ」を演奏するシーンは重要ではあるが、ここで大きな展開を見せるというわけではない。もちろん、ヴィースラーにしても急に心を変えたのではなく、ドライマンへの共感はじわじわと浸透してきたのだろうが、実際にこういうことがあるのかというと、なさそうだと思う。ヴィースラーにはガチガチのシュタージで、国家の正しさを疑わない。長年社会主義教育を受けてきた人が音楽や小説等でいきなり心変わりするか、ましてや自分の身を危険にさらして監視対象を守るかというと、そういうことはありそうもないと思う。この部分は、物語的なリアリティというよりも、「そうであってくれ」という、人間の可能性に対する監督の願いであるように思う。
 映画としてはとてもオーソドックスで、生真面目な印象を受けた。奇をてらった演出はないが、いつ摘発されるのかというサスペンス部分と、ドライマンとクリスタの悲劇というメロドラマ的な部分がアクセントになっていて飽きなかった。終盤、急に「○年後」と場面転換するのには唐突な感が否めなかったし、ドライマンがことの真相に気付く流れは物語上特に必要ではなかった気もするが、最後の書店のシーンをどうしても入れたかったのだと思う。ラストシーンは蛇足といえば蛇足だし大変ベタではあるのだが、うっかり涙ぐんでしまった。
 監督はフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク。まだ33歳だそうだ。若い監督がこういう作品を撮ってくれるのは頼もしい。ちなみに主演のウルリッヒ・ミューエは東ドイツ出身。自らも監視され(前妻が民間シュタージだったとか)、逮捕された経験を持つそうだ。



『孔雀 我が家の風景』
 チェン・カイコー監督『さらば、わが愛/覇王別姫』やチャン・イーモウ監督『赤いコーリャン』で撮影監督を務めたクー・チャンウェイが、初めて自ら映画を監督した。名撮影監督なだけあって、ブルー基調の映像は美しく、印象に残るショットが随所にあった。第55回ベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞しているが、それにも納得だ。
 1977年、文化大革命が終わった中国の片田舎。軽い知的障害を持つ長男ウェイクオ、今の生活に嫌気が差している長女フェイウォン、大人しい次男ウェイチャンの3兄弟と両親という、一つの一家の数年間。最初はフェイウォン視点なのだが、途中で時間が戻ってウェイチャン視点になる。そしてまた時間がもどってウェイクオ視点になるという、反復構造になっている。いきなり時間が戻っているので最初ちょっと戸惑ったが、それほど不自然さは感じない。
 3人兄弟は、それぞれあまりぱっとしない人生を送る。特に長女フェイウォンの、ここから抜け出したい、違う人生を歩みたいという願いは強い。彼女は人民軍の落下傘部隊の演習で出会った兵士に一目ぼれし、自分も入隊志願する。兵士と仲良くなろうとするものの、彼女の言動は微妙に的外れで思うように行かず、入隊もできなかった。彼女は万事こういう感じで、転職も結婚もその時はこれだ!と思ってやるんだけど結局ぱっとしない。やることが極端というか、上昇志向は強いのに不器用というか、どうも見ていてイライラするし痛々しい。母親もそんな彼女に対する苛立ちを隠せないのだ。一方、次男のウェイチャンは大人しく真面目で、姉に対しても従順だ。しかしとある事件がきっかけで溜まりに溜まっていたものが爆発し、家を飛び出してしまう。何とか平穏な人生を歩むのは、周囲からバカにされていた長男ウェイクオだけだった。
 将来に対する夢や可能性がどんどん消えていく、どうやっていまひとつ冴えない人生しか送れないというリアリズムがしょっぱい。終盤、離婚して実家に戻ってきたフェイウォンは初恋の人に再会する。しかし彼は彼女のことをまったく覚えていなかった。この男と言葉を交わした後の彼女の言動が泣けてしょうがない。失われて取り戻せないものに対する後悔とか悔しさとかが、ぶわっと押し寄せてくるのだ。
 しかし、しょっぱい話ではあるのに、後味は悪くない。何か清々しいのだ。登場人物らの人生はぱっとしないが、それなりに生活を続けていて、それはそんなに悪いことでもない、というような達観した視点を感じる。また、映像が大変美しいのだが、美しいものをこんなに美しいんですよと撮るのではなくて、どうということない日常の中で、ふと垣間見える美しい瞬間を映そうとしているという印象を受けた。
 ところで3人兄弟の両親が、ウェイクオだけでなくフェイオン、ウェイチャンをもう少し省みてやれば、2人の人生はもうちょっと違ったものになったのではないかと思う。確かに長男には助けが必要だが、やりすぎな感じがした。ウェイチャンは兄に対する不満が溜まり、思い余って殺鼠剤を長男に飲ませようとするのだが、あわやというところで踏みとどまる。それに気付いた母親は、翌日家族全員の前でガチョウに殺鼠剤を飲ませて見せる。正直言って嫌味だ。そんな事態になるまで我慢させるのも、どうかなぁと。フェイウォンもウェイチャウも兄に対する愛情はあるのだ。ただ、時に兄はやっかいすぎる。
家族に対して時に我慢できなくなる気持ちはわかるだけに、何かいたたまれない。



『サン・ジャックへの道』
 仲の悪い兄姉弟が、母親の遺言により遺産相続の条件として巡礼の旅に出ることに。ベテランガイドが率いるグループに参加したものの、3人の間はぎすぎすしたままで先が思いやられるのだった。
 『女はみんな生きている』が痛快だったコリーヌ・セロー監督の新作。セロー監督の映画は登場人物のキャラクターが強烈という印象があるのだが、本作も皆かなり濃い。もちろん最も濃いキャラなのは不仲の兄妹弟だ。長男のピエールは会社社長として財を成しビジネスは順調だが、神経質で薬が手放せず、癇癪持ち。長女クララは高校教師として失職中の夫と子供達を養っているが、口やかましく頑固。次男クロードは無職(何と今まで働いたことがない!)のアル中でもちろん文無し。キャラクターがそれぞれ別の方向に突出しているので、全くかみ合わないのだ。また、この兄妹弟以外にも、山歩きと勘違いしてうっかり参加してしまった2人組の女の子、その女の子に片思い中で、彼女と過ごしたいが為に参加したアラブ系移民の少年、その少年の従兄弟で、何故か自分たちはメッカに行くのだと思い込んでいる難読症の少年、最も理性的で物静かな女性、更にベテランのガイドと、総勢9人がフランスのル・ピュイからスペインの精緻サンティアゴ・デ・コンポステーラまで1500km.の巡礼に挑む。もちろん順調とは言えず、最初は皆(嫌々参加している人もいるし)予想以上にハードな行程に不平たらたらだ。しかし共に歩くうちに、段々連帯感が生まれていく。打ち解けていくのはもちろんなのだが、彼ら個々が変わっていくという側面も強いと思う。「歩く」という行為はシンプルな故に、考え事をするには向いているのかもしれない。嫌なことが重なってカーッとなった時、とにかく黙々と歩いていると気分が落ち着いてくるのは私だけだろうか。普通に車なり船なりで旅行しているだけだったら、ここまで連帯感は生まれないしそれぞれが変わっていくこともないのではないかと思う。
 特にピエールとクララの変化は大きい。この2人はとにかく性格がキツいのだが、2人とも段々やわらかくなっていくのだ。クララが文字を読めない少年に少しずつ読み方を教えていく過程や、スペインの教会で、アラブ系であるガイドと少年2人が宿泊拒否されたことに猛然と反論する姿には爽快感がある。ピエールは、最初は人種差別的な発言をしていたんですが(笑)。それに対して、最初は人当たりが良くて女にもモテる、3人の中では一番得なキャラクターと思われていたクロードが、結局何も得なかったというのが面白い。「あなたは死に向かっている、私は生きたいの!」と女性にフラれるのだ。ピエールとクララは色々問題のある性格ではあるのだが、何だかんだ言って真面目だし(方向性は置いておいて)一生懸命だ。クロードは人はいいんだけど全てにおいていい加減で、そこを見透かされたのだろう。やっぱり責任をもてない人間は信頼できないということか。
 問題がなくなったわけではないけど、きちんとハッピーエンドに落とし込んでくれるので後味が良い。人間のしょーもない部分や諸々の欠点が山盛りだが、ユーモアがあって湿っぽくないし、何より人間の良い部分もきちんと描いているのだ。また、コメディタッチではあるが、宗教や社会制度に関する主張は結構過激かもしれない。宗教はどれも大差ない、というのが監督の持論のようですが。映画としては上手いのか下手なのかわからない、妙に稚拙な部分(夢のシーンとか、露骨すぎないか)があるのが気になったが、それもまた味か。



『ONE PEACE エピソードオブアラバスタ 砂漠の王女と海賊たち』
 劇場版としては第8作目。今までオリジナルストーリーだった劇場版だが、本作はTVシリーズでも既に放送済みのアラバスタ編を劇場公開用に新作として(再編集とかではなく)制作されたもの。監督は今村隆寛。ちなみに原作連載10周年記念となります。母国の危機を救う為犯罪組織バロックワークスに潜入していた、アラバスタ王国の王女ビビを、ルフィ海賊団が助ける。
 結果から言うと、これをもう一度映画化するメリットがあったのかどうかは微妙だ。原作でもTVシリーズでも結構な長さのエピソードだっただけに、90分に纏めるのはそもそも無理がある。本編のダイジェスト版で終わってしまった感が。また、何故ビビがルフィらと行動を一緒にしている経緯やバロックワークス関係の諸々、アラバスタがそもそもどんな国かというあたりはさっくり省略されているので、原作、TVシリーズ共に詳しくない人には設定がよくわからないかも。私は原作は読んでいる(TVシリーズも断片的に見ている)のだが、それでも「ここどういう流れだっけ?」と首をひねるところがあった。映画単体を見て楽しむというよりも、映画を見ながら原作もしくはTVシリーズの内容を脳内で参照し「そうそう、そういえばこんな感じ」「そうそうこのシーンのあとに確かあのシーンが・・・」と思い出し、記憶を反芻しつつ鑑賞する、ちょっと奇妙なことになってしまった。
 また、製作期間が短かったからか、作画もあまり充実しておらず、TVシリーズのスペシャル版にでもした方がよかったんじゃないかというレベル。アップはともかく、ロングショットやモブシーンはかなり苦しい。1キャラ1カットくらい、力の入ったシーンがあるにはあるのだが・・・。あまり見るべき所のない作品になってしまった。

 それにしても、このシリーズは毎回客の年齢層が微妙に高い。小学校低学年程度がメインかと思っていたのだが、(私が見に行く時間帯のせいもあるのだが)20代が意外に多いのだ。でも冷静に考えると、連載開始当時に小学生だった子が下手すると成人しているんだもんなー。離れずついてきてくれるファンがいるという点ではすごいと思う(原作が)。



『アルゼンチンババア』
 よしもとばななの同名小説が原作。女子高生みつこ(堀北真希)の母親が病死した日、父親(役所広司)は葬儀も出さずに失踪してしまった。以来、叔母(森下愛子)に助けられながら1人で生活していたみつこ。半年後、町外れの古い屋敷で父親が発見された。その屋敷には、昔はタンゴやスペイン語を教えていたが今はちょっと頭がおかしいと思われている年配女性「アルゼンチンババア」(鈴木京香)が住んでいた。あいこは父親を連れ戻そうと屋敷に向かう。
 まず、ロケ地とセットはとても魅力的だった。特にアルゼンチンババアの屋敷の外観は、セットを組んだのか元々ああいう建物があったのか(ということはないと思うんだけど)、CGでも使ったのか、いい味のある洋館だ。周囲の草原もファンタジックで、国籍不明な魅力がある。みつこが暮らす田舎町の情景は生活感溢れるものなのだが、草原へ移動すると、急に非日常性を増すのだ。  この非日常性が、みつこの父親を助けたのだろう。みつこの父親は、母親が死んだことを受け入れられずに逃げ出し、行き倒れていたところをアルゼンチンババアに助けられ、一緒に暮らしていた。アルゼンチンババアの屋敷で世間と隔絶した暮らしをするうちに、ようやく妻の死を受け入れる準備が出来るのだ。  と書くとなにやら美しい話のようだが(実際美しい話ではあるが)、この父親の弱さはひっかかる。何にでも立ち向かえとは言わないが(むしろ逃げられる時はさっさと逃げた方がいいと思うが)、ここで逃げたらまずいというタイミングがあるだろう。この父親が抱えている辛さはわかるのだが、じゃあ娘は辛くなかったのかといったら当然辛いわけだ。その娘に葬式から何から押し付けるのはどう考えても酷だろう。 娘にしてみたら、自分だけ楽になれると思うなよと、恨みの一つも言いたくなるのでは。というより、ここで父親らしく振舞っとかないで何が父親かと。  父親役の役所広司は誠実・真面目な役柄のイメージが強いが、ヘラヘラした役もいい。地は結構いい加減な人なんじゃないかという気がしてならないのだが、どうなのかなー。みつこ役の堀北真希は、最近薄倖な役ばかり演じている気がする。すごく意固地な感じのする所が出ていてよかった。アルゼンチンババアを鈴木京香にしたのは、ミスキャストだったろう。「ババア」というには鈴木京香は若すぎるし美人すぎる。アルゼンチンババアが臭くてみつこが閉口するというシーンがあるのだが、鈴木京香がやると全然臭くなさそうなんだもの。むしろいい匂いがしそうだ(笑)。  映画としてはいまひとつだった。失敗作というのではなく、何か、「惜しい!」という感じ。もうちょっと良くなる余地がありそうなんだけど・・・。



『ナイトミュージアム』
 バツイチで10歳の息子とは別居しているラリー(ベン・スティラー)は現在無職。職が決まるまで息子を家に泊まらせないで!と元妻に言われたラリーは慌て、ニューヨーク自然史博物館の夜間警備の仕事に飛びつく。しかし博物館では毎晩とんでもないことが起きていた。
 博物館の化石や剥製が命を持って動き出したら...という、まあ他愛もない設定ではあるのだが、単純に楽しい。元々子供向けの映画だと思って期待していなかったというのもあるが、予想外に楽しめた。しかし最近のVFXはめちゃめちゃ良く出来ていますね!レクシーの愛らしさにガツンとやられました。
 私は子供向け映画というのはあまり好まないのだが、本作は主人公であるラリーの冴えなさに、妙にしみじみしてしまった。ラリーはヤマっ気のあるタイプで、腰をすえて働くということが出来ない。30歳過ぎて(しかも別居とは言え子供がいるのに)無職というのはかなり凹む状況ではなかろうか。「もうちょっと様子を見よう」となかなか踏ん切りがつかず問題を先送りする所とか、他人事とは思えず、子供向け映画とは言え少々いたたまれなかった。
 このラリーが何とかかんとか事態を打開し、父親としての面子も保たれるわけだが、よく考えると彼は、社会的には別に成功していない。内幕を知らない人から見ればただの警備員のままだ。もちろん元妻との関係が改善されるということはなく(まあお互い未練はなさそうでしたが)、息子とは定期的に会えるが、それだけだ。客観的には特に状況は良くなっていないという所が面白い。夜の博物館で起きていることはもちろん秘密だから、いわばラリーのプライベートの延長のようなもの。「つまらない仕事でも意外な面白さがあるかもよ!」「仕事がダメならプライベートで充実を!」というメッセージを感じ取ってしまったのは私のゆがんだメンタリティのせいでしょうか。しかしそう考えると、ラスト2ショットが効いてくる。ニヤリともさせられるし、一抹の寂しさも感じるのだ。
 ま、それはさておき、ギャグもそれなりに笑えてなかなか楽しかった。監督は『ピンクパンサー』(2006年版)のショーン・レヴィ。ミニチュア・カウボーイのジェドと同じくミニチュア・ローマ兵士のオクタヴィウスに対する監督の愛を感じた。2人が出てくるシーンが必要以上に多い。終盤での活躍はバディものアクション映画のパロディみたいでおかしかった。タイヤの空気を抜くシーンでのショット切り替えとか、好きだなぁ。あと、フン族の皆さんの顔芸に見入った。よくこんな顔の人ばかり集めたな...。ラリーがアッティラを説得?する所は、カウンセリング大国アメリカならではのギャグか。
歴史をちゃんと勉強しなさいよというお話でもありますね。うーん教育的だ。



 

映画日和TOP  HOME