2月

『魂萌え!』
 桐野夏生の同名小説を、阪本順治監督が映画化。意外な組み合わせだが、これが悪くない。定年退職して3年の夫(寺尾聡)が、突然心臓発作で死亡した。残された妻・敏子(風吹ジュン)は呆然とするが、悲しむ間もなく子供達は遺産を狙い始め、果ては夫の愛人まで登場する。
 阪本順治と言えば男の映画というイメージがあるが、この人には『顔』という女性主人公映画の傑作がある。そう考えると、むしろ本領発揮と言ってもいいのではないだろうか。自分を主張することも、自分だけの為に何かすることも久しくなかった敏子が、だんだんやりたかったことをやり、やりたいことを見付けていく過程は清々しくもある。何がしかの事件によってヒロインが変容していくという流れは『顔』と同じで、一種の成長物語(にしては年齢の高い主人公だが)とも言えるだろう。しかし、夫が死ぬとか子供が自立するとかいう大転機がないとやりたいことが出来ない(見つからない)って話でもあるので、ちょっと複雑な気持ちにもなる。家庭の主婦って、そんなに家族のことばかり考えているわけでもないと思うが。あ、でもやっぱり考えざるをえないし、それが習慣みたいになっちゃうかしら。
 出てくる中年女性たちは、夫の有無に関わらず生き生きしているし、順風満帆とはいかなくてもそれなりに人生楽しんでいるみたい。敏子と女友達とのやりとりも、学生時代の延長みたいでちょっと羨ましくもある。女の方が結束力が強いのか?そして、見せ場の一つである敏子と夫の愛人(三田佳子)との対決は、鬼気迫るものがある(笑)。具体的な荒事に発展したりしないだけに、抑えられた怨念が漂っていて却って怖いですよ!これに対して男性登場人物らは精彩を欠く。あえてキャラクターを彫り込んでおらず、類型的にしていたように思う。あくまで女性の映画(敏子視点の映画)というつもりで作ったのだろうか。男性がこの映画を見てどう思うのかが気になるのだ。
 敏子の変化は、客観的に見ればそんなに大したものではない。携帯電話や手帳を持ったり、ビールをジョッキで飲んだりというささやかなものだ。ただ、彼女の中では大きな変化なのだろう。若いといわれる年齢ではなくなっても、自分の中にこんな一面があった!と気付けるのかなと思うと、なんとなく安心しますね。そういう意味では勇気付けられる映画だった。
 阪本順治監督作品は、どれも生活感の漂わせ方が実に上手いと思う。本作でも、敏子の自宅内の内装とかキッチンの道具の置き方とか、家の古び方とか、そこで人が長年暮らしてきた匂いみたいなものがありありと感じられた。脚本や撮影はもちろん重要だが、こういう所をしっかり固めるのも映画を作る上で大事なのだなと。脚本は悪くないのにセットがあんまりな映画が時々あるので、本作のように細部がきちんとした映画を見ると、ああ映画見た!という満足感がある。
 主演の風吹ジュンは、ヌードまで披露する熱演。どうということもない主婦役なのだが、どこかかわいさがあるのがこの人の強みだと思う。また、愛人役の三田佳子に対しては、今まであまり上手いという印象を持っていなかったのだが、上手かったんですね(笑)。ぬめっとした言動に鳥肌が立ちました。怖えぇ!



『世界最速のインディアン』
 ニュージーランド南部の町インバカーギルに暮らす老人バート・マンロー(アンソニー・ホプキンス)は、若い頃から自ら改造したバイクで国内のレースに出場し、記録を更新していた。彼の夢はアメリカ・ボンヌヴィルの大会に出場して世界記録を更新すること。周囲からのカンパを受け、彼は愛車「インディアン」と共についにアメリカへ向かう。
 主人公であるバートは実在の人物。1967年、1000cc以下の部門で世界記録を打ち出した伝説的人物である。当時何と68歳。その後もレースに出場し続けていたというからすごいです。監督のロジャー・ドナルドソンは、以前マンローに直接取材したことがあり、映画化企画を暖めてきたそうだ。ロードムービーとしても、バイクムービーとしても、気持ちの良い作品に仕上がっている。
 バートという人のキャラクターがいい。実際にこんな感じの人だったのかしら。朝っぱらから自宅でエンジン音ガンガン響かせている、ちょっと困った人ではある。実際隣家の夫婦は安眠妨害されていい顔をしない。しかし、いざ何か起きると皆彼の心配をしてくれるし、アメリカに向かう時も皆気遣って送り出してくれる。結局愛されているのだ。アメリカへ行ってからのバートの行動もなかなか面白くて、他人に対してすごくオープンだし、基本的に他人を信頼しているんですね。分からないことがあるとすぐに人に聞いちゃうし、あっさり頼っちゃう。でも、相手にオープンで正直だから、相手の方も彼に対してオープンになってくる。特に女性に対しては効果抜群らしく、行く先行く先でモテるんですねこの人(笑)。銀行でストレートにナンパしてあっさり成功しちゃうんだもんなぁ。あと、モーテルの受付をしている女装ゲイに対して、彼女が男とわかっても「それでも君はスイートハートだ」なんて殺し文句を言うのには参りました。憎いねもう!
 彼と出会う人たちが皆善人なのは少々出来すぎと言えば出来すぎなのだが、一種のユートピアものとして見ることも出来るかもしれない。この映画の中に出てくる人たちのオープンさとか、よそ者に対する優しさというのは、かつてアメリカが持っていた(もしくはアメリカという国のイメージが持っている)良さなのだろう。現代を舞台にしていたら流石に、ここまでいい人ばかりな映画は作れなかったのでは。お約束だなぁと思っていても、悪ぶっても気のいいバイク野郎とか、大会に出場する他のレーサーとかが出てくると、んもー君らいい奴!と嬉しくなる。スピード狂は国境を越えるのか。
 ロードムービーとしてもなかなか楽しい。アメリカは景色が開けているので、やはり自動車での旅が絵になる。バートはベトナムから休暇で帰国している若い兵士を車に乗せてあげるのだが、2人で道路脇にあるカミソリの広告を一緒に読み上げていく所がすごく良かった。映画全体として完成度が高いというよりも(いや佳作ですけど)、こういうちょっとした場面にぐっとくる映画だった。
 そして、クライマックスのバイクでの爆走はもちろん素晴らしい。景色がまた、地面が白くてだだっ広くて現実離れしている。バイク乗りならずとも、胸がドキドキするはず。



『ルワンダの涙』
 1994年、アフリカのルワンダ共和国で起こったフツ族によるツチ族の大量虐殺事件を題材にした作品。同じ題材を扱ったものとして『ホテル・ルワンダ』という傑作があるが、本作は現地に赴任していたイギリス人の青年と老神父の目を通して描かれている点が、当事者が主人公だった『ホテル〜』とは大きく異なる。監督はマイケル・ケイトン=ジョーンズ。この人、何故か明らかにバカ映画ぽい『氷の微笑2』とかも撮ってるんですけど(笑)、本作は真摯な佳作だった。
 ルワンダの首都ギガリで、クリスタファー神父(ジョン・ハート)が運営する学校を手伝っているイギリス人青年ジョー(ヒュー・ダンシー)。ある夜、フツ族の大統領旅客機墜落をきっかけに事態は急変。フツ族がツチ族を殺し始めた。国連軍が駐在していた学校はツチ族の避難場所となるが、物資は足りず避難民も増える一方だった。
 サスペンスドラマとしての側面が強かった『ホテル・ルワンダ』と比べると、本作はより生々しく、虐殺が日常の延長上にあったということが強調されていたと思う。殺人そのものや死体の映し方もリアル。昨日まで一緒に働いていた人が、今日は人を殺しているのだ。問題の根っこは以前からあったとは言え、ごく普通の人たちがいきなり徒党を組んで他人を殺し始めるというのは、何のホラー映画だよという感じで、冷静な状態であればありそうもないことのように思える。でもそのありそうもないことが実際に(しかもわずか10数年前に)起きたのだ。怖ろしいと同時に、何ともやりきれない。
 やりきれないといえば、国連軍の役に立たなさもやりきれない。彼らが無能というわけでは(多分)なく、彼らを動かしている組織が抱える問題なのだろうが、いざ何か起きた時に制約が多すぎて何も出来ないというパラドックス。軍人だってやる気がないわけじゃなくて命令だから出来ないんだよ!というイライラ感満載だった。もっとも、国連軍が介入したら事態が収まるかというとそうでもないのだろうが(駐在していれば最低限の抑止力程度にはなるのだろうが)。
 主人公がいわば部外者であることで、観客が共感しやすくなっていたと思う。子供達を見捨てることは出来ない、しかしこのままでは確実に殺される、そもそも現地にいてもこれ以上やれることがない。彼の最後の選択を映画の観客は責めることができないだろう。彼の生徒達も彼を責めない。が、言外に何で去ったんだ助けてくれなかったんだと問い掛けてくる。そしてその問いかけは映画の観客に対するものでもある。
 対して、長年アフリカで布教活動をしていたクリストファー神父が、今までの布教は無駄だったとつぶやくシーンはやりきれない。宗教が彼らに救いをもたらすと信じていたのにものの役にも立たなかったのだから。しかし、神父のその後の行動は、やはり宗教者だから出来たという部分も大きいのではないかとも思う。
 一つうーんと唸ったのが、BBCキャスターがジョーに漏らすユーゴ内乱との差異。あーそうかそうなんだー。日本人から見るとどちらも遠いもので、その辺の差異はわからないんだけど、やたらリアルでがっくりきます。深い溝があるわ・・・。



『リトル・ミス・サンシャイン』
 フーヴァー一家の9歳の娘オリーヴ(アビゲイル・ブレスリン)が、美少女コンテストに出場することになった。旅費節約の為、ミニバスでアリゾナ州からカリフォルニアに向かう一家だったが。
 ドタバタコメディでありロードムービーであり家族映画である。バラバラだった家族が旅の中で徐々に再生していく、という全く目新しさはないし地味だしオチもまあ分かる(というか、予告編から想像するストーリーでまず間違いないと思われる)のだが、これは実にいい映画ですね。映画を映画らしくするのは設定の斬新さやストーリーの派手さだけではない、使い古されたネタも骨格がしっかりしていて小技が効いていればOKという好例だったのでは。
 人間の情けなさとおかしさを優しく掬い上げている作品だったと思う。成功メソッドを提唱する父親(グレッグ・キニア)は負け組を全否定しているが実際は自分も負け組、母親(トニ・コレット)は何とか家族をまとめようとするが徒労に終わりそう、長男(ポール・ダノ)は家族にうんざりして「沈黙の誓い」を立てているし、祖父(アラン・アーキン)はコカイン中毒で老人ホームを追い出された。更にライバル学者に恋人を奪われ自殺未遂をおこしたゲイの伯父(スティーヴ・カレル)が加わる。全員どうにもうだつが上がらないし、家庭内はバラバラ。彼らをかろうじて繋ぎとめているのがオリーヴの存在なのだ。子はかすがいとはよく言ったものですね。もうでっかい長男ではかすがいにならんところが切ないですが・・・。ともあれ、そんなバラバラだった人達が、オリーヴの為に一家総出で踊り狂うクライマックスには笑いが止まらなかった。不協和音を奏でる家族が、彼らが乗るポンコツミニバスにダブる。エンジンがスムーズにかからず、皆で押して何とか走り出したら飛び乗らなくてはならないのだが、段々飛び乗るタイミングが合ってくるのがおかしい。車の発進具合が、家族の歯車のかみ合い具合を象徴しているのだ。
 キャラクターの配置の仕方が上手かったように思う。普通、家族映画というと、親と子供(時に祖父母)という形が多いが、本作ではそこに伯父さん(母親の兄)が混じっている。ちょっと血縁の薄い、第三者的な人(そしてプルースト学者でゲイという少数派な人)が入ってくることで、ちょっとズレた角度から光が当たるのだ。特に息子と伯父のやりとりがいい。家族に対して一歩退いている感じが似通っている。息子にとっては両親も祖父も近すぎてうっとおしい。伯父さんくらいの遠さがある人だと、むしろ自然に振舞えるということは往々にしてあるのでは。また、勝ち組を絶対しする父親に対して、勝ち負けは地位やお金だけじゃないと言う祖父が対峙する。オリーヴに対する2人の言葉がそれぞれの立居地を象徴していたように思う。父親は不安そうなオリーヴに「(ミスコンに)勝てると信じろ」と言い、祖父は「お前は体も心もきれいな子だよ」と言う。
 フーヴァー家の人たちは世間的には負け組で、オリーヴも美少女なのかどうか微妙な所なのだが、それって本当に負けなの?という本作のスタンスを象徴しているのが、美少女ミスコンだ。出場している少女達は確かに美少女で家も裕福そうなのだが、少なくとも日本人の感覚からするとなんだか気持ち悪い。大人の女性をミニマムにしたみたいで、不自然なのだ。その気持ち悪さをオリーヴのとんでもないダンスで突破させることで、これおかしくない?その価値観絶対なの?と問いかけていく。その問いかけ自体はよくあるものだが、常に笑いと共にあることで、清々しい作品になったと思う。実は一家が抱える問題は、この映画の中ではちっとも解決していないのだが、まあ大丈夫なんじゃないのという前向きな気持ちになってくる。そもそも実際の勝ち組なんてほんの一握り、その下にわんさか負け組がいるのだ。まずは身近な幸せを見詰めなおしては?という監督の視点を感じた。
 ちなみに美少女ミスコン主催者のオバサンが鼻持ちならない人なのだが、審査員として参加しているミス・カリフォルニア(アジア系のヘルシー美女)はオリーヴのダンスを見てニコニコしているあたり、目配りがきいているなという印象を受けた。




『キムチを売る女』
 中国に暮らす朝鮮民族を「朝鮮族」というそうだ。その朝鮮族の女性スンヒ(リュ・ヒョンキ)はキムチの露天商をして生活している。夫は人を殺して服役中。幼い息子と2人暮らしだ。結構美人なスンヒに声を掛ける男もいる。そのうちの1人でやはり朝鮮族であるキムと付き合うようになるが、彼には妻がいた。
 韓国映画というと感情の起伏が激しくてドラマティックでというイメージがあるが、これはその対極にあるような、ともするとぶっきらぼうなくらいに抑制のきいた作品。キム・ギドクや(国は違うが)ジャ・ジャンクー等の若手監督に連なる雰囲気がある。ちょっと硬さのある映像がシンプルで美しい。特にカメラの構図に対しては、頑迷と言って良いくらいのこだわりを持っているという印象を受けた。一つ一つのショットが絵画的。また色彩の配置も印象的で、特に青色がアクセントになっている。監督のチャン・リュルは小説家としても活躍している人物だそうだ。本作はカンヌ国際映画祭批評家週間ACID賞を受賞している。
 スンヒは露天商許可証を持っておらず、警察の取り締まりを恐れてビクビクしている。また、若い女だということで周囲から舐められたり、挙句の果てに娼婦扱いされたりする。彼女は多分、不安だったり怒ったりしているのだろうが、そういった感情は表面には出てこない。彼女以外の登場人物も、具体的に感情を表すことが殆どない。会話もセックスもあくまで淡々としており、そっけないのだ。しかし終盤まで抑えまくったからこそ、スンヒに襲い掛かる悲劇と、彼女がとる行動の痛ましさと狂気が際立つのだ。溜め込んでいたものが一気に噴出したような、最後の彼女の歩き方には開放感すら感じる。
 普通に作ったらただただ陰惨で貧乏臭くなりそうな話なのだが、シンプルに徹している所と、ユーモアがある所で救われていると思う。特に、スンヒの息子と隣に住む娼婦達のあっけらかんとした存在が効いていた。スンヒのかわりにネズミの死体の始末を「やれやれ」といった感じでやる息子の動きや、テレビのチャンネルを争う息子と娼婦達とのやりとりが映画のアクセントとなっていた。また、スンヒがキムの服を脱がせるシーン、あまりに脱がせっぷりがいいのとキムがあまりに何もしないのとで、妙なおかしさが生じていた。人の裸って何でおかしいんだろう・・・。
 生真面目な面持ちで、いわゆる見ていて気分の盛り上がる映画ではないのだが、後を引く。




『ワサップ!』
 アメリカのやさぐれ気味キッズの味方、ラリー・クラーク監督久々の新作。今回は前2作と比べると、大分軽めというか、娯楽性のある青春映画になっている。主人公はロサンゼルスのサウス・セントラルで暮らすラティーノの少年たち。全員実際にサウス・セントラルに暮らすティーンエイジャーだそうだ。
 ロサンゼルスのラティーノ人口は420万人で、郡人口の半分近くを占めるそうだ。もっとも、主人公であるジョナサンたちが住むエリアには黒人も多く、音楽はヒップホップ、ファッションはストリート系が主流。ロックとタイトジーンズを好むジョナサン達は、黒人少年達からは「ダサいロック野郎」扱いをされている。ある日ビバリーヒルズまでスケートボードをやりに出かけたジョナサンらは、白人美少女姉妹にナンパされる。
 映画前半ではストリート感漂う、うだうだ・ヒリヒリ青春映画かなと思っていたのだが、主人公達がビバリーヒルズに迷い込むあたりから、不思議の国のラティーノ少年といった趣になってきた。それくらい、彼らの生活とビバリーヒルズの生活には落差がある。ラティーノ少年がビバリーヒルズ住民の少女と友達や家族のことを話すシーンがあるのだが、少女が少年の話を「うそマジでー」みたいなノリで聞いている。そりゃあね、近所のやつがもう2人殺されたとか、別世界のことのようですよね。そんな彼らをかわいいからナンパしてしまう、自宅にあげてしまうのだから、セックスの力というのは大変なものです。民族も身分も関係なし。世界平和をもたらすのはセックスかもしれないと思った(笑)。
 それはさておき、撮影はラリー・クラークの十八番であるドキュメンタリー風手ブレまくりなものなのだが、セレブお嬢様にナンパされたり、ゲイにトイレを覗き見されたり、有閑マダムにお風呂に入れられたりと、ビバリーヒルズでの展開はコミカル。同じくラティーノであるメイド達のネットワークにより警官から助けられるという展開も、マンガっぽい。マンガといっても良くできたマンガではなく、安易にノリで作っちゃったんじゃないかなという雰囲気がある。撮っていて楽しかったんだろうけど、もっと詰める所は詰めてほしかった。
 ラティーノ少年達が愛好するのはスケートボードとパンクロック。出自の全然違う、相容れなさそうなものを取り込んでいるという所が面白かった。



『ボビー』
 大統領選の真っ最中だった1968年のアメリカ。ロバート・F・ケネディ大統領候補が訪問予定のアンバサダーホテルに集まった、22人にスポットを当てた群像劇。“ボビー”が暗殺されるまでの16時間を追う。肝心のボビーは登場しない(一応出てくるが顔は見えない)所がミソ。監督はエミリオ・エステヴェス。俳優マーティン・シーンの長男(弟はチャーリー・シーン)。本作には俳優としても出演している。
 アンバサダーホテルの元ドアマン(アンソニー・ホプキンス)、ホテルの支配人(ウィリアム・M・メイシー)と美容師であるその妻(シャロン・ストーン)、ラティーノであるボーイと黒人コック長(ローレンス・フィッシュバーン)、彼らの上司(クリスチャン・スレーター)、ホテルオーナーの愛人である電話交換嬢(ヘザー・グレアム)、宿泊客である裕福そうな中年夫婦(ヘレン・ハント、マーティン.シーン)、落ち目のベテラン歌手(デミ・ムーア)やその夫、ベトナムへの徴兵回避の為結婚するカップル(イライジャ・ウッド、エリザベス・ウィンステッド)らのエピソードが入り混じり、時に交差する。エピソードの中には、当時の世相を反映していて面白いものもあるが、大分月並みなものもある。当時のアメリカを色々な側面から見せたかったのだろうが、2時間で収めるには情報が膨大すぎて、結局薄味になってしまったという印象を受けた。お金はあるけど満たされない中年夫婦や、夫の浮気に傷つくホテルオーナー夫婦、落ち目でやさぐれ気味の歌手らのエピソードは、少々陳腐だったのではないかと思う。普遍的なネタではあるのだが、もうちょっと彫り込みが欲しかった。LSDでラリってしまう青年2人のエピソードに至っては、不要だったんじゃないかとも思う。
 反対に興味深く見たものは、ベトナムへの徴兵を逃れる為に、かつての同級生と恋愛抜きの言わば契約結婚をする青年と相手の女性。当時のアメリカで、実際にこういうことが行われていたというのは聞いたことがあるのだが、男性の家族が女性に感謝しているのに対して、女性の両親が結婚式への出席を拒否(特に父親は激怒)というあたりに、当時の世相がうかがえる。また、厨房で働くラテン系のボーイと同僚、そしてコック長との、アメリカで働くことについてのやりとり(そして野球の話)も興味深かった。ボーイの仕事に対する姿勢は(当時、彼のような立場の人間には他に選択肢がなかったとは言え)毅然としていてぐっとくる。
 面白いストーリーを作ろうというよりも、当時の空気を再現しようとして作られた映画だったように思う。実際に当時のアメリカを知っている人なら面白いのかもしれないが、当時を知らず、ましてアメリカ人でもない身にはちょっとピンとこない。特に、ケネディ兄弟がアメリカ人にとって持っていた意味というのが、あまり実感できなかった(今のアメリカの若者にはわかるんだろうか。それとも最早実感できないんだろうか)。つまらない映画ではないのだが、もっと面白くできたんじゃないかなぁと思ってしまうのだ。キャストが大変豪華なだけに、勿体無い。
 もっとも、これだけのエピソードをちゃんと2時間に納めているのは良かったと思う。当時のニュース映像が随所に使われているのだが、クライマックスでの編集が上手くて、これ映画として撮影された映像?それとも当時のニュース?と混乱しそうになった。ただ、最後にボビーの演説を延々と使ってしまうのには興ざめ。映画は映画なのだから、いくら事実を元にしているとは言え、それに頼りすぎるのはどうかと思う。



『墨攻』
 趙と燕の国境にある為、燕攻略の前段階として趙に攻撃されようとしていた粱城。10万対4000という兵の人数では敵わないと考えた王は降伏を決意するが、高度な兵法と知略を持つ戦闘のプロ集団「墨家」から、革離(アンディ・ラウ)という男が助けにやってきた。
 予告編を見た限りでは、『トロイ』や『キングダム・オブ・ヘブン』みたいな派手な時代戦争ものかと思っていた。確かに大集団による戦闘シーンは「大きいことはいいことだ!」的に見栄えがするし、少ない人数・資源で持久戦を図る革離の策略は、終盤まで伏線として活きていて面白い。しかし、思ったほど爽快な作品ではなかった。爽快さとは別の面白さがある。
 面白いなと思ったのは、普通この手の、優れたリーダーが周囲を率いて強大な敵に立ち向かう物語のパターンとしては、最初バラバラだった人たちが段々団結していくのがセオリーだが、この映画では結局民衆も王もバラバラなままだ。王は自分の保身のことしか考えず、民衆はいとも簡単に王に篭絡される。聡明で良心的な一部の兵士は王の不興をかい国にはいられない...という、なんとも皮肉なものだ。そもそも、敵の指揮官の方がタヌキオヤジな粱王よりもよっぽど人間が出来ていそうだ。
 革離が所属する墨家は、戦乱の中で「非攻」を掲げる一方で、弱者を助ける為に高い戦闘能力を持つ。革離も出来ることなら戦い・殺しは避けたいと思っている。自分が指揮した作戦の中で、炎に焼かれて苦しみ死んでいく敵兵を間近で見てしまい動揺を隠せない。殺したくはないが、彼が指揮する作戦は敵を殺すものであるという矛盾に、葛藤する人物として描かれている。しかし民衆は彼を英雄視するが、彼の思想は理解しない。ヒートアップすると裏切り者やスパイをタコ殴りにし殺生しまくり。この民衆に対する冷めた視線が徹底してるので、いわゆる一致団結した戦いという印象が薄れるのだ。
 知略に重きを置いた戦争映画ではあるが、知恵者が理性的であれと説くもののそれがことごとく失敗する話とも取れる。民衆はいつの世も過熱しやすく一方向に流されやすいのか(中国映画だということを念頭に置くと、ちょっと笑えない)。
 主演のアンディ・ラウは、久々にかっこいい役どころだったという印象。他には、粱王役のワン・チーウェンが、のらりくらりと周囲をやりすごす、一癖ある役を怪演していた。このキャラクターは、役者の力でキャラ付けがしっかりしたという側面が強いように思う。敵将役のアン・ソンギは、いまひとつ出番に恵まれなかったか。
 監督は中国のジェイコブ・チャンだが、原作は日本の酒見賢一の小説を森秀樹が漫画化したもの。スタッフにも日本人が多く参加している(音楽が川井憲次なのにはびっくり)。今後のアジア映画のあり方の一つを示唆する作品であったと思う。



『ユメ十夜』
 夏目漱石の小説『夢十夜』を、10人の映画監督が映像化したオムニバス映画。参加監督は実相寺昭雄、市川箟、清水崇、清水厚、豊島圭介、松尾スズキ、天野喜孝、河原真明、山下敦弘、西川美和、山口雄大。
 この手のオムニバス映画は、興行的にはなかなか難しいのではないかと思う。特に本作のようにベテランから若手まで幅広く取り揃えてしまうと、粒ぞろいというわけにもいかないだろう。トータルで面白いか面白くないかといわれると、残念ながら少々微妙だ。
 そんな中で面白いと思ったのは、松尾スズキ監督作品。「雲慶が彫刻するのを見に行く」というだけの話なのだが、映画というよりも大人計画の舞台をそのまま持ち込んだような、キレとノリの良さがあった。何故に英語字幕!?何故に2ch語!?と突っ込む暇なく暴走するのが楽しい。阿部サダヲの役者としての力によるところも大きいだろう。ネタとしては馬鹿馬鹿しいのだが、躍動感がある。下手に芸術性とか原作の味とかを出そうとせず、とにかく面白ければいいやと開き直っている所が吉と出たか。
 また、西川美和監督作品も割と良かった。この人はやっぱり、手堅く上手いですね。お話は女の情念ものになるのだろうが、そつなくまとめたなという印象を受けた。緒川たまきとピエール瀧という、全然接点のなさそうな2人を夫婦役にしてしまった所が、力技と言えば力技だが。しかし瀧は、女はべらせてヘラヘラしているだらしのない男の役があまりに似合いますね。
 トリを山口雄大(『地獄甲子園』とか『魁クロマティ高校』の監督)が務めるのはどうかという声もあるだろうが、私はよかったと思う。単純におかしい。下品だけど。しかし松山ケンイチはともかく、本上まなみがよくこれをやってくれたな・・・。
 全般的に、あまり凝ったことをやろうとしていない、ストレートに笑わせようとか物語性を出そうとした監督の作品の方が成功していたように思う。ついでに、プロローグとエピローグは正直見ていてこっ恥ずかしい。戸田恵梨香のプロモにすらなってない。付けない方がよかったんじゃないの。あとテーマ曲の爽やかさに脱力した。もうちょっと内容に配慮してもいいのでは。



『幸福な食卓』
 中学3年生の佐和子(北乃きい)の家族は、毎朝一緒に朝食を食べるのが週間だ。でも母親(石田ゆり子)は既に家を出て一人暮らしを始め、秀才だった兄(平岡祐太)は大学進学を拒否して農業を始めている。そしてある朝、父さん(羽場裕一)が「父さんをやめる」と宣言した。一方、佐和子のクラスに転校生・大浦(勝地涼)がやってきた。大浦は秀才の妹である佐和子を一方的にライバルに認定し、2人は仲良くなる。
 瀬尾まいこの同名小説を原作にしている。映画はほぼ原作に忠実。原作のいい所はそのまま活かしてあったと思う。しかし原作に忠実であるということは、原作の難点もそのまま再現しているということでもある。一番の難点は、佐和子が直面する悲劇がストーリーの為の悲劇であって、他の部分ときちんとかみ合っていないという印象を受けるという点だ(父親が過去に起こした事件に関しては、彼のキャラクターを表していると思うので気にならなかった)。大きな問題に直面した時、自分を支えるものが見えてくるという話なのだが、別にその悲劇じゃなくてもよかったんじゃないかと思う。そりゃあ、悲劇としてすごく分かりやすいし他にどいう展開に出来るかというとちょっと思い浮かばないんだけど。これは、あからさまに悲劇をにおわせるシークエンス(自転車見送る所)も問題だったかもしれない。ああいうのはあんまりやっちゃいけないんだなと思った(笑)。
 もっとも、全体的にはいい映画だったと思う。中盤の流れがちょっと緩慢だったり、ラストの佐和子が歩くシークエンスが長すぎたり(主題歌が流れ始めたら即エンドロールくらいの方がよかったと思う)という、編集の歯切れの悪さは感じたが、好感を持てる作品だった。主演の北乃きいが、生き生きとしていて魅力的だというのも一因。また、大浦役の勝地涼が予想外によかった。中高生役にはちょっと年長すぎないかと思ったが、ちゃんとティーンエイジャーになっている。顔全体でニカっと笑う表情とか、すごくよかったと思う。『亡国のイージス』の時も思ったんだけど、映画に向いた資質があるように思う。スクリーン映えがするというか。
 所で、家族の問題を扱った映画ということで、豊田利晃監督『空中庭園』をちょっと思い出した。『空中庭園』では、実際はほぼ家族が崩壊しているが家族の形だけは留めている(そして形を保ち続けることも一つの回復になるのではと提示されるのだが)。一方本作では、母親は家出しちゃったり父親は仕事辞めちゃったりと客観的には家庭崩壊しているのだが、母親は父親に愛想を尽かしたわけではないし、父親はやっぱり父親をやめられない。一見変だけど、きちんと家族をやっている。むしろ、きちんと家族をやりすぎて(愛情あるが故に)、お互いに近いが故に事態がややこしくなっているとも言える。近すぎると気付かないこともあるのだ。その家族の自家中毒状態に風穴を開けるのが、大浦であり兄の恋人・小林ヨシコ(さくら)である。小林ヨシコはこの物語の中で重要な役割を担うのだが、彼女についてちょっと説明不足だったと思う。もうちょっとキャラクターを掘り下げないと、実は一家の中で一番重症である兄のキャラクターも浮き上がってこないのではないだろうか。原作では割と上手く表現されていたと思うのだが、映画版だと普通に好青年ぽく(いや原作でも好青年ではあるんだけど・・・)なってしまった。

 爽やかな青春映画、家族映画になっている。世の中高校生が皆このくらい清純派だったら、世のご両親も安心なさるのでしょうなぁ。リアルかどうかはともかく(こういうタイプの中高生は、必ず一定数いるはずだとは思う)、なかなか甘酸っぱくていいです。今時なかなか味わえない甘酸っぱさ。ただし、家族というものに対してある程度の信頼感を持っている人でないと、共感出来ないの所があるかもしれない。そもそも家族関係の強固さに懐疑的な人には、甘っちょろい話にしか見えないのではないかと、少々気になる。



  『パフューム ある人殺しの物語』
 18世紀パリ。天才的な嗅覚を持つが自身は体臭を持たない男・グルヌイユ(ベン・ウィショー)は処刑場に引き出される直前だった。彼はなぜ人殺しとなったのか。パトリック・ジュースキンの小説『香水 ある人殺しの物語』がまさかの映像化。監督は『ラン・ローラ・ラン』のトム・ディクヴァだ。
 あの原作を映像化し、きちんと纏めている(それでも147分というボリュームだけど)している所に感心した。この監督、かなり編集が上手いのではないかと思う。小説の映画化としては、かなり成功している部類に入る。中盤以降、若い女性がさくさく殺されるので、あれだけずさんに殺しているのに何故バレないんだ、いくらなんでも誰か気付くだろうとかいう突っ込みが入りそうだが、原作がそういう話なんだからしょうがない(笑)。
 ビジュアル面にはかなり力が入っている。(ちょっと語弊があるかもしれないが)死体の置き方が美しく、いちいちこだわりを感じる。街のセットも豪華で見ごたえあり。ちゃんと臭くて汚いパリになっている。魚市場とかなめし皮工房とか、映画として不快にならないぎりぎりの線まで汚していると思う。また、香水がどのように作られていたのか、具体的に手順や道具を見ることが出来るという面白みもあった。ただ、カメラの動きがかなりあざとくて、ちょとやりすぎな感も。少年時代のグルヌイユが臭いを追う時の、地面を舐めるようなカメラの動きや、パノラマを撮る時の大仰な動き、またフラッシュバック風にショットを繋げている所など、盛り上げようとしすぎていて少々下品だと思った。
 私はかなり堪能したが、この映画が日本でウケるかというと微妙だと思う。宣伝費こんなにかけて大丈夫なのかと心配だった。二枚目俳優も有名女優も出演しておらず(香水屋役でダスティン・ホフマンが出ているけどかなり早い段階でフェイドアウト)、監督も通好みで一般性は薄い。日本で売れる要素が少ないのだ。配給会社も宣伝にはかなり苦心したのではないだろうか。サスペンスとして宣伝しているみたいだったが、いわゆるミステリー的なものではなく、実際はむしろホラ話に近い。苦肉の策なんだろうけど、騙されて見に行った客はどう反応するのだろうか(笑)。
 ヒットはしないだろうと思われる最大の理由は、いわゆる感情移入できるタイプの話ではないからだ。むしろヒューマニズムさっくり否定。人間の愛とやらは生理的な反応で呼び起こされるんですよと言わんばかりだ。このあたりはいっそ清々しかったと思う。
 主演ペン・ウィショーは10万人に一人の才能と言われるだけあって、上手い。特に歩き方が、熱情に突き動かされている人の歩き方ぽくてぞくりとした。存在感があるんだかないんだか微妙な所もいい。顔はアクが薄く、しかし雰囲気は独特なものを持っているように思う。また、ベルリンフィルによるサウンドトラックがこれまた良いので、ぜひ音響設備の良い劇場で見ることをお勧めする。
 この作品最大の不満点は、ある意味爆笑なカタストロフィーをもたらす香りが美しい処女のものだという点。それただのスケベ心じゃないすか・・・しかもノンケの男にしか通用しない。とてもとても、世界を動かせるものとは思えません。



『フリージア』
 犯罪被害者遺族が加害者に復習できる「敵討ち法」が施行されている近未来の日本。敵討ち執行代理人であるヒロシ(玉山鉄二)は卓越したセンスで淡々と仕事をこなしていく。彼に課せられた新しい案件の対象者は、軍在籍時の上官(西島秀俊)だった。当時少年だったヒロシは、上官と共に新型兵器の実験現場に立ち会っていたのだ。その実験では複数の孤児らが被験者として死亡しており、ヒロシも後遺症で痛覚を無くしていた。
 『青春☆金属バット』に続く、熊切一嘉監督の新作映画。原作は松本次郎の同名マンガだ。映画はヒロシとヒグチ(つぐみ)の因縁や軍の実験内容が原作と違っており、原作とは別物として見た方がいいかもしれない。しかし別物としても、設定がちぐはぐになっていたように思う。設定の整合性をつけるのに苦労したんじゃないかという印象を受けた。そもそも、ヒロシが元上官を殺す理由が(最初は仕事としてなのだが)、途中からなくなってしまうのだ。復讐代行を続行して、というふうにも考えられるのだが、そうするとヒロシとヒグチの間の感情がどうなっているのかとか・・・ちょっと釈然としない所が多かったか。
 『青春〜』でも、決して流暢な映画という印象は受けなかったのだが、何か有無を言わせない勢いがあった。しかし本作では、ちょっと考えすぎちゃったかなーという感じが。原作の資質と監督の資質とが上手く合わなかったのではないかと思う。冷たい空気管はいい感じに出ていたのだが、キャラクターの動かし方を迷っていたんじゃないか。
 ただ、主演の玉山鉄二は、何を考えているのか分からない、表情の乏しい主人公を好演していた。何となく個性の薄い俳優というイメージがあったのだが(ごめん玉山)、その分どんな役でもこなせるようになってきたか。原作の主人公のイメージとも合っていたと思う。主人公のキャラクター造形も、痛覚がなく、感情に乏しいことに加え偏食家である(好物はナポリタン。ただしピーマンは除けて食べる)という設定で、子供っぽい部分がアクセントになっていたと思う。子供が大人になる=痛みを獲得していく話を目指したのかもしれないが、あと一歩及ばずという感じが。主人公が感情を獲得していく過程が、ちょっと説明不足だったかもしれない。



『長州ファイブ』
 黒船到来に揺れる江戸時代末期の日本。長州藩から5人の若者が、幕府の禁を破り渡英した。山尾庸三(松田龍平)、野村弥吉(山下鉄大)、志道多聞(北村有起也)、伊藤俊輔(三浦アキフミ)、遠藤謹助(前田倫良)である。山尾庸三は後の東京大学工学部設立者、伊藤俊輔はもちろん後の初代内閣総理大臣・伊藤博文。全員実在の人物であり、史実に基づいている。いわゆる「長州五傑」です。ロンドンには今でも彼らの渡英を記した記念碑があるとか。監督は『地雷を踏んだらサヨウナラ』等、やはり実在の人物をモデルにした映画を撮っている五十嵐匠。
 正直言って、映画としては色々と難点のある作品だ。特にショットのつなげ方がぎこちなく、話の流れがごつごつとした印象のある点、セリフが所々説明的で練れていない点が気になった。しかし、映画全体としてはなかなか好印象だった。何か、清々しいのだ。この清々しさは、彼らの「学びたい」「外国を見たい」「日本を変えたい」という情熱の(その良し悪しは別として)一途さによるものかなと思った。こういう情熱は現代劇ではもう成立しないのか、映画の中では久しく見ていなかった気がする。史実を元にした時代劇というよりも、5人の青年の青春劇として面白かった。若者が初めて見聞きするものに対して「わーすげぇ!」と素直に感激するテンションの上がりっぷりが、なんだか新鮮だった。
 史実が元になっているので、「あーこの人が後にあんなことを」という感慨深さも。後の業績への伏線となるエピソードも挿入されていた。ただ、このエピソードはどうも類型的というか、セリフと同様に練りが足りなかったように思う。特に山尾とろうあ者であるイギリス女性とのほのかなラブストーリーは、ちょっとありきたりだったように思う(山尾が日本初の聾唖学校を設立したことへの伏線、そして「文明化」の陰にあるものの説明としては、わかりやすかったけど)。また、「生きたる機械」という言葉を連呼しすぎ。そんなに良い言葉だとは思わないけど・・・。実際に5人のうちの誰かがこの言葉を残しているのか?
 俳優は全員、好演していたと思う。主役格の松田龍平は、剣術シーンの体のキレが際立っていたが、セリフはちょっと篭り気味。もともと発声の歯切れのいい人ではないことに加え、時代劇風の発声が合わなかったみたい。逆にすごく良かったのが、志道役の北村有起哉。映画前半はこの人が引っ張っていた。決してハンサムな顔ではない(むしろ珍妙な顔)のだが、すごく生き生きとしていた。
 彼らをロンドンへ運んでくれた船長を始め、イギリス人が皆いい人すぎるような気もするが、実際はどうだったんだろうなー。 ロンドンの風景等は、CGやセットと組み合わせてあるのだろうが雰囲気出ていた。主要な建物がそのまま残っているというのは、やはりあちらの強みか。



『ドリームガールズ』
 オーディションで歌手になる夢を掴もうとしていたエフィー(ジェニファー・ハドソン)、ローレル(アニカ・ノニ・ローズ)、ディーナ(ビヨンセ・ノウルズ)のコーラストリオ。あるオーディションでカーティス(ジェイミー・フォックス)という男に目を付けられ、人気スタージミー(エディ・マーフィー)のバックコーラスに抜擢される。カーティスはプロデューサーとしての手腕を発揮するようになり、3人も「ドリームガールズ」としてデビューする。しかしカーティスは、歌唱力のあるエフィーではなく、美貌を持ち声に癖がないディーナをフロントに据える。彼女らの曲はヒットを続けるが、エフィーの不満は溜まる一方だった。
 モータウンレコードとシュープリームスをモデルにしているのは明らかで、要するにモータウンの内輪揉め話。もちろん、モータウンのことを知らなくても楽しめる(モータウンの音楽が苦手だと辛いと思うが)。ちょっと残念なのは、1960年代から70年代にかけての社会的な動きに関する説明が少ないこと。アメリカ人にとっては言うまでもないことだから説明不要なのかもしれないが、社会情勢が音楽事情に大きな影響を与えた時代なだけに、もう少し詳しく触れてほしかった(エフィーがカーティスの音楽の方向性を疑問視するのも、それが白人に媚びることだと考えているからだという側面もあるだろうし)。所々、当時の映像を取り入れたりキング牧師の演説に触れたりと時事ネタを投入しているものの、かなりあっさりとしている。
 また、場面転換が性急すぎるという印象を受けた。登場人物達の行動や、何があったのかという過程がかなり省略されているので、慌しく見えるのだ。特にディーナとカーティスがいつの間にかくっついていたのが唐突。もしかしたら、元々は伏線となるシーンがあったのを時間の問題でカットしたのか?と勘ぐってしまった。そして慌しい割には上映時間が長い(笑)。映画としては、以外に欠点も多いのだ。
 しかし、ミュージカルとしての楽しさが欠点を帳消しにしている。音楽もパフォーマンスも、当時のノリをそのまま再現しているみたいで実に楽しい。予想以上に王道ミュージカルだった。映画としてのゴージャス感があるというか、ああ大作映画を見た!という満足感があった。
 本作でアカデミー賞助演女優賞を受賞したジェニファー・ハドソンのパフォーマンスは当然のごとく素晴らしい。正直、普通に演技しているシーンではそう上手いとも思わなかったのだが、歌い始めるやいなや情念ほとばしりまくり。圧倒される。エフィーは客観的に見たら結構困った人だと思うのだが、この歌を聴いてしまうと彼女のことを悪くいえない。得な役だ。また、エディ・マーフィーのパフォーマンスも予想外に良かった。グルーヴィでセクシーで下世話な曲の方が生き生きとしているあたりが実にいい。エディ・マーフィーがエディ・マーフィー以外の役をやっているのを初めて見た(笑)。
 本作で一番割を食ったのは、ディーナ役のビヨンセではないかと思う。主演女優のような扱いだが、実際に映画を見ると、中心にいるのはむしろエフィーとカーティスだ。ディーナには映画中盤までスポットがあまり当たらない。そして後半も、情念ほとばしるエフィーほどの迫力はないのだ。ビヨンセにとっては皮肉な話で、ディーナを指した「美人で個性の薄い声の方が売れる」という言葉は、ビヨンセ本人にも当てはまるのだ。これはポップスターの宿命なのかもしれない。アクが強すぎたら売れないもんなぁ。
 それはさておき、妙に面白みを感じたのは、映画前半でのエフィーとカーティスの関係だ。エフィーはカーティスの恋人気取りだが、カーティスは明らかに「うわーどうするよこれ(汗)」的な顔をしているんですね。うっかり手をつけちゃったけど、出来れば他に乗り換えたいというような。明らかに迷惑そうな彼に平気でしなだれかかれるエフィーの根性もすごい。それ天然なの計算なの?!仲間に見捨てられて、「あなたは私を愛しているはず!」と切々と歌い上げるのだが、いやいやあんまり愛してなかったと思うよ!とついつい脳内で突っ込みを入れてしまい、感動していいのか笑っていいのかわからなくなった。押しの強い女に好かれると大変だよねー、とうっかりカーティスに同情した。商業的には曲調を変えたのもエフィーを切ったのも正解だっただけに、彼の末路がなんだか哀れ。

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