1月

『あるいは裏切りという名の犬』
 久々にフレンチ・ノワールと言うにふさわしい映画を見た。監督は自身も元警官のオリヴィエ・マルシャル。パリ警視庁に勤める警官レオ・ヴリンクス(ダニエルー・オートゥイユ)とドニ・クラン(ジェラール・ドパルデュー)はかつては親友だったが、今はレオの妻であるカミーユを奪い合ったという過去があり、今は次期長官の座を巡るライバル同士だ。現金輸送車強奪事件でレオが手柄を立てそうなことに焦ったドニは先走って容疑者を逃してしまい、さらにレオがある殺人事件に関わっていると本部へ密告する。
 脅威の大どんでん返し!というわけではないが、意外な展開がスリリングで面白い。巧みな構成というわけではないのだが、要所要所できちんと目配せしているので、全体通してみると伏線が活きているという印象を受けた。キャラクターの行動にちょっと腑に落ちない点がいくつかあったものの(特に山場でのドニのスタンドプレイは、自分の命すら脅かすアホな行動としか見えないだけに不可解。また、レオの妻と連絡をとろうとするギャングが盗聴の可能性を予測していないのも納得いかない)、キャッチーなストーリーだと思う。ハリウッドでリメイクが決定したというのも頷ける。派手ではないが、すごく映画らしい映画だなぁと思った。逆に言うと、もっと派手な演出にも耐えそうな映画なのだ。
 2人の男の確執の物語であり、キャラクターの感情は大きく揺れるのだが、映画としては渋い。2人の警官が単純に正義感と汚職警官というわけではなく、どちらもそれぞれ後ろ暗い所があるという所が苦味を生んでいる。レオは現場第一主義の正義漢だが、逮捕の為にはダーティーな行為も辞さない面がある。一方、ドニは野心家で出世に躍起になっている。結局2人とも、多かれ少なかれ目的の為なら手段を選ばないのだ。その結果、2人の辿る運命には自業自得という感が否めないというところも、また苦い。もっとも、2人に大きな違いがあるとすれば、レオは部下を大切にするがドニにとっては部下も道具の一つだったという所だろう。最後の一オチは、人徳の差としか言いようが無い。管理職の皆さん、部下は大切にしましょうね!
 主演のダニエル・オートゥイユとジェラール・ドパルデューは流石の貫禄。この2人の存在感と演技によって、「映画らしさ」みたいなものが強まっていると思う。ストーリーがスリリングというより、この2人の感情の行方がスリリングなのだ。オートゥイユは淡々としつつ時に暴力的な男役を好演していた。ドパルデューは、尊大でありつつ卑屈なキャラクターがすごく上手くて、強い印象を残した。
 それにしても、女を取られた男の恨みって怖いですねー。男の嫉妬は時に女の嫉妬よりも黒々しいのではないかと思ってしまう。しかし、そんなこと延々と恨みに思っているとは(そもそもカミーユはそんなにいい女には見えないのよ)、ドニの器もたかが知れている。ちっちぇ!ちっちぇよ!




『合唱ができるまで』
 パリのアマチュア合唱団が、女性指揮者クレール・マルシャンの指導の元、コンサートに向けて練習を続ける様子を記録したドキュメンタリー映画。監督はマリー=クロード・トレユ。合唱曲はマルカントワーヌ・シャルパンテェイエの『真夜中のミサ曲』と、ミヒャエル・ハイドン『メメント「主よ、御心に留めて下さい」』。
 題名の通り、合唱団が本番のステージに上がるまでのドキュメンタリーなので、実は本番の映像は殆ど含まれない。そして、合唱団のメンバーや講師一人一人の背景には一切触れない。物語的に盛りあげる演出はされていないし、そもそもどういう合唱団で等という説明もない。ただただ練習風景を追うだけなのだ。監督の視線が過剰なものにならず、非常に抑制されている。
 よけいな演出がされないので、合唱団のメンバーの、上手く声が出たときにぱっと浮かぶ嬉しそうな表情や、照れくさそうな表情がかえって印象に残った。合唱団のメンバーは約100人。幼稚園児から老人まで年齢も幅広い。歌の上手さも人それぞれ。最初は年齢別のグループで練習し、最終的に全体練習をするのだ。しかし、バラバラだった声が段々まとまってハーモニーが生まれてくる過程には、歌えるというのは老若男女問わずに楽しいことなのだと改めて気付かされる。
 合唱団のメンバーだけでなく、指揮者や講師の音との格闘ぶりも心に残る。特に指揮者のクレール・マルシャンの、そこに目指す音があるはずなのになかなかその音を捕まえられない、合唱団にその音を伝えられないというもどかしさを抱えている様子が印象深かった。



『恋人たちの失われた革命』
 2005年ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞、オゼッラ受賞作。監督はフィリップ・ガレル。主演はガレル監督の息子であるルイ・ガレル。1968年、パリの五月革命の中に、詩人を志す20歳の青年フランソワ(ルイ・ガレル)もいた。ある日フランソワは、彫刻家の卵・リリー(クロテイルド・エスム)と出会い恋に落ちる。
 1968年から69年にかけての、あるカップルの出会いと別れであり、パリの若者達の群像劇である。といっても、ドラマ性は薄い。あの時代に対するオマージュとしての側面が強いのだろうか。画面もモノクロでスクリーンサイズはスタンダードという、当時の映画をそのまま再現したようなものだ。時代背景を知らないと、ちょっと分かりにくいかもしれない。監督がこの時代に強い思い入れを持っているのはわかるが。
 革命は思っていたようにはいかず、フランソワたちは失望する。しかしその後も何をするでもなく、延々とぐだぐだつるんでいる。革命は停滞する為の口実に成り果て、彼らはモラトリアム期間を引き伸ばしていく。楽しみはパーティーとセックスとドラッグ、資金源は金持ちの仲間だ。彼らから熱気や意欲が失われ、ダルそうな感じ、倦んだ感じが色濃くなっていく様はやるせない。
 そんなうだうだした状態から現実に立ち返っていくのが、まず女性達だという所が興味深い。どこの世界でも女性の方が現実的なのかしら。彼女らに引っ張られ、男達も血に足を付けたり、付け損ねて転落していったりする。「この愛を忘れないで」「この愛は永遠」などと思っていても、生活には勝てないのね、という案外せちがらいオチ。生活力のない男はやっぱり捨てられるのか・・・。
 それにしてもこのネタで3時間は辛いですよガレル監督!思い入れたっぷりなのはわかるんですが、もちっとコンパクトで頼みますわ・・・。3時間耐えられたのは、主演のルイ・ガレルのルックスがすばらしかったという一点につきる。モノクロに映える、雰囲気のある美形だ。実はこの映画、全く見に行くつもりはなかったのだが、予告編でルイ・ガレルがあまりにかっこよかったのでつい見に行ってしまったのです。



『酒井家のしあわせ』
 関西の田舎町に住む酒井家は、父・正和(ユースケ・サンタマリア)、母・照美(友近)、長男・次雄(森田直幸)、長女・光(鍋本凪々美)の4人家族。照美にとってはコブ付き再婚で、次雄と光は父親違いの兄妹だ。ごくごく平和に暮らしていた一家だったが、ある日突然正和が家を出た。なんと好きな男ができたというのだ。唖然とする照美と次雄だったが。
 物語は主に、長男・光の視点で描かれる。子供から見た親の姿、大人の不可解さとか滑稽さみたいなものの掴み方が上手いという印象を受けた。血の繋がらない父親に対する未だに少しぎこちない感じとか、母親に対するうっとおしさとか、思春期特有の不機嫌さが前面に出ていた。演じる森田直幸は、決して芸達者ではないのだが、そのこなれていない部分が却ってよかったと思う。憮然とした表情が板についていた。父親も母親もそれぞれの悩みがあり、考えがあるわけだが、そういうことは子供にはなかなか伝わらないのね。
 子供同士のやりとりの作り方も、なかなか上手い。中学生男子のぐだぐだ加減は結構リアルだったと思う。田舎の中学生なので皆純朴ぽい(笑)ということもあって、好感がもてた。次雄の初恋らしきものの顛末は情けなくも笑えるのだが、これはよくありそうな話だよなぁ。女子って残酷だね!
 しかし、父親が家を出た動機とか、それに対する母親のアクションとかは、ちょっと苦しい。そういう状況でそういうことするかな?と、説得力が今一つ乏しいのだ。ストーリーの構成が、正直言ってあまり上手くないということもあるかもしれない。かといって、冴えない映画というわけでもない。ちょっとしたシークエンスや小道具の使い方、会話等の細部は上手いのだ。ディティールの作りこみが上手い。特に酒井家内の美術は、ちゃんとそこで人が生活している感じがした。あと、次雄の友人の家がやっている喫茶店の、田舎の喫茶店独特のさびれた、生活感溢れる感じがツボだった。こういう所がきちんと考えられている映画は、脚本や出演者がいまいち弱くても、何とか見られることが多いと思う。
 監督・脚本は呉美保。家族というものに対して、基本的に信頼感を持っている人ではないかと思う。時にうっとおしくかっこ悪いが、やっぱり家族は愛しくユカイなものではないだろうか。次雄が正和に会いに行こうと泣くシーンは、あそこで本当に父子になったんだなぁとぐっときた。
 ちなみにちょっとネタバレになりますが、正和の同僚の方は、あれ結構本気だったんじゃないかと思うけどどうですかね。私の目に変なフィルターがかかっているんですかね。



『ダーウィンの悪夢』
 世界第2の広さを誇るタンザニア共和国の淡水湖、ヴィクトリア湖・生物多様性の宝庫として「ダーウィンの箱舟」と呼ばれていた湖に、肉食の淡水魚・ナイルパーチが放たれ生態系は一変。ナイルパーチが在来種を駆逐してしまったのだ。しかし変化したのは湖の生態系だけではなかった。湖畔の町には増えすぎたナイルパーチを食用加工するための一大産業が誕生していたのあ。
 湖の生態系が崩れ、加工産業が発展することで湖の水質も悪化するが、いわゆる環境問題を中心に置いたドキュメンタリーではない。問題とされるのは、ナイルパーチから始まるドミノ倒し状の経済活動である。ナイルパーチ産業によって湖畔地域は経済的に潤うが、その一方で職にあぶれる出稼ぎ労働者やストリートチルドレンが増加する。決して地域が全体的に豊かになっているわけではない。更に、ナイルパーチ輸出に便乗して、アフリカ内の紛争地域や他国への中継地点としての、武器の密輸入が横行しているらしい。
 そもそも、ナイルパーチはたくさん捕れるが、その肉は全て欧米や日本への輸出用で、地元の人間にとっては手の出ない高値だ。加工の過程で廃棄されるアラ部分を、更に加工して地元住民向けに売っているのだが、その加工過程の非衛生さは、輸出用工場とは比べ物にならない。だって地べた(もちろん土)にどさって積んだアラをおもむろに干していくんですよ。当然ウジ沸きまくり。ハエ飛びまくり。「あれ、何か白いものがよじってるなー」と思ってよくよく見るとウジ(特大サイズ)の大群。ぎゃー。でもそこで働いている人たちは、アンモニアで目を痛めながらも「仕事があるだけいい」と言い、ごく普通に働いている。地球の南側が北側の下請工場化しているという現状をまざまざと見せ付けられる。じゃあナイルパーチをボイコットしようよ!という動きが映画公開後に出たらしいが、それは見当外れな行動だろう。ナイルパーチが悪者なのではなく、欧米(そして日本)がアフリカ(アフリカじゃなくても、経済力が弱くて人件費が安い国)からどんどん摂取できるというレールが既に敷かれている点が問題なのだろう。ナイルパーチ以外の輸入品にも、当然似たような背景があると考えられる。南が北の下請けになっているのだ。当然、日本に住む私たちも部外者ではいられない。だから、見ていて大変居心地悪い作品ではある。
 ただ、この映画がタンザニア共和国の現実そのままを映しているかというと、そうとも言えないと思う。実際、映画公開後にタンザニア側からは反論の声が上がったそうだし、ネット上で目にする映画批評の中にも、特にタンザニアで生活した体験のある人からは、異論の声が上がっているようだ。ドキュメンタリーといっても、各シーンを撮影し編集する過程で監督の意図が反映される。全くの事実、というのはありえないということを念頭においておきたい。
 そういったことを横に置いておいても、この映画の問題提示は興味深い。が、映画としては少々退屈だ。監督が生真面目すぎるのか、「見せるもの」としての意匠に欠けていると思う。もっとタイトに編集してほしかった。正直言って飽きる。また、ナイルパーチ産業についてはともかく、武器密輸に関する航空機操縦士らへのインタビューは、少々「言わせている」感があって不自然だったように思う。
 



『悪夢探偵』
 マンションの自室で絶命した少女。眠りながら自らを切り裂いたサラリーマン。自殺と思われた2件の事件には、死亡者が2人とも、死ぬ間際まで「0」と表示される人物と携帯電話で話していたらしい、悪夢を見ていたらしいという共通点があった。事件を担当した刑事・霧島慶子(hitomi)は、「0」が2人に何らかの暗示をかけ、悪夢の中で死に追いやったのではないかと推理する。彼女は他人の夢に意識を介入させることができる影沼京一(松田龍平)の存在を知り、に助けを求める。しかし自身も自殺願望のある影沼は、事件への関わりを執拗に嫌がるのだった。
 塚本晋也監督、久々の娯楽作品。映画タイトルからして「マンガです!キャラクターものです!」と言わんばかりだ。B級の臭いがプンプンするのだが、それが却って魅力になっている。実際、ハリウッドからリメイクのオファーが出ているという噂も。
  探偵役の影沼が決してかっこいいヒーローではなく、他人の感情が見えてしまうという能力故、厭世的で自殺未遂歴あり仕事はやる気なしという、どちらかというと困った人だというキャラクター造形がいい。素足に黒マントという一歩間違えるとただの変体なコスチュームも、長身で手足の長い松田龍平には映える。冒頭で炬燵の布団の下から松田の手がにょきっと出てくるのだが、綺麗な手なんでちょっとびっくりしました。本作のキャッチコピーでもあった「ああ嫌だ。ああああ嫌だ。ああ嫌だ」というセリフも、松田が言うと怨念倍増で大変いい感じ。また、本作の主人公とも言える霧島屋久のhitomiは、映画初出演(というか本格的な女優業自体初めてなのでは)ということで決して上手い演技ではないのだが、普段の溌剌としたイメージとは大分異なる、少々病的なキャラクターが案外違和感ない。プロポーション抜群だから見栄えがするしね。霧島の上司役が大杉漣だったり、冒頭で原田芳雄がちょこっと出ていたりと、脇も手堅い。特に霧島の同僚役の安藤政信は、うつろな感じがあってよかったです。いや単に私がファンなだけですが。悪夢の中ですっごい楽しそうに突き抜けているのが印象に残った。
 私は追いかけられる夢とか殺されそうになる夢とかを頻繁に見るのだが、この映画の悪夢の中の、姿は見えないが音が追ってくる、というシチュエーションはかなり怖いと思う。少なくとも、私にとってはこの映画の悪夢は大変悪夢っぽかった。霧島が理科室みたいな所で逃げるシーンは、かなり生々しかった。微妙に時間の前後関係とか場所の位置関係が一致しない所も、夢の特性が出ていたと思う。クライマックスは、後から考えるとどうもつじつまの合わない所がある気がするのだが(そもそも誰の夢なんだよとか)、そのつじつまの合わなさこそが夢なのだろう。また、夢の中のシーンでも現実のシーンでも、水のイメージや水辺のシーンが多用されていた。そういえば、水の中に沈んでいくイメージは、眠りに落ちていくイメージに近いと思う。母親の愛に恵まれなかったらしい影沼にとっては、子宮回帰のイメージでもあるのだろう。
 夢の中に入る探偵役というと、最近では『パプリカ』もあるし、特に目新しい題材ではないだろう。しかし、ネタとして映像化しやすい、ありふれているが故にいじりやすいという利点がある。何より、「悪夢」という題材は監督の資質に合っているのではないかと思う。この人、結局何撮っても悪夢っぽくなっちゃうと思うんですが(笑)。ちなみに塚本監督は役者としても活躍しているが、本作でも重要な役で出演している。塚本作品では肉体に対する違和感というか、過剰な肉体性がしばしば現れるが、監督が自演した時にそれが最も強まると思う。本作でもかなり変態的です。



『ラッキーナンバー7』
 原題は『Lucky Number Slevin』。7は関係なかった。日本人に馴染みやすい邦題にしたのだろうが、ちょっと微妙だったか。NYにやってきた青年スレヴン(ジョシュ・ハートネット)は、友人のアパートにいた為、その友人と間違えられ、マフィアのボス(モーガン・フリーマン)の前に連れて行かれる。友人はボスに多額の借金があり、それを帳消しにする代わりに対抗組織のボスの息子を殺せと言うのだ。
 面白かったー!冒頭からして、これは何かすごいことが起きるに違いない!という雰囲気に満ちているのだが、期待を裏切らなかった。最後に伏線がきちんと回収されてオチがつく映画は、やはりカタルシスがありますね。気持ちよく騙されたい人にはお勧めの作品だ。全部のピースをきちんと処理しているので、すごくすっきりとする。「だからあそこは不自然だったのか!」とか「だからあの場面でカットされるのか!」とか、全て腑に落ちます。ミステリ好きの人はぜひ。
 後半、結構凄惨な話になってくるのだが、全体的にユーモアがあるので暗くならない。特に登場人物同士の会話は気が利いていている。「洒落た」じゃなくて「小気味いい」と言うのがふさわしい感じの、軽さがある。特にスレヴンと、友人のアパートの隣人であるリンジー(ルーシー・リュー)が交わす会話は楽しかった。ルーシー・リューって、日本人の感覚からすると美人なのかいまひとつピンとこなかったのだが、本作の彼女は、大変かわいらしいですね。ちょっとお茶目で。衣装も、洗練されているとかすごくオシャレとかではないのだが、ちょっと隙のあるかわいらしさが良く出ていた。衣装と言えば、ジョシュ・ハートネットの衣装も、スタイリッシュというわけではないのだが、何だかかわいかった。アーガイルのベストとかね。他の登場人物にしても、セリフから衣装に至るまで、キャラクターをかなり立てていたと思う。敵対するマフィアのボス2人の衣装を対照的にしていたのも面白い。監督のポール・マクギガンは『ギャングスター・ナンバー1』の時も結構衣装に凝っていた。洋服好きなのかもしれない。
 で、その監督だが、『ギャングスター〜』を見た時の印象では(『ホワイト・ライズ』は未見)、こんなに伏線がしっかり張られた面白い映画を撮るとは思わなかったので、ちょっとびっくりした。いやー成長したなぁ!大躍進と言っていいのではないでしょうか。『ギャングスター〜』の時に萌芽が見られた、ショットのつなげ方のユニークさが、今回は際立っていたと思う。間の詰め方、外し方が上手い。
 キャストも豪華だった。「モーガン.フリーマンは出演作の格を上げる」法則は未だ健在のようです。主演のジョシュ・ハートネットは、私はあまり好きな顔ではなかったのだが、コメディには向いているみたいで、素直に可愛いと思えた。そして、ブルース・ウィリスが大変ブルース・ウィリスらしくてよかったです。『16ブロック』ではたるみまくっていた体型が見事に元通り。さすがプロ。



『王の男』
 16世紀初頭の韓国。時の王・ヨンサングン(チョン・ジニョン)は官女に溺れて施政は悪化していた。漢陽に出てきた芸人チャンセン(カム・ウソン)と相棒の女形コンギル(イ・ジュンギ)は、王を茶化した芝居をして、侮辱罪で逮捕される。「王を笑わせることができれば侮辱ではない」と反論したチャンセンは、必死で芸を披露し何とか難を逃れる。王宮付きの芸人となった2人だが、宮廷内の陰謀に巻き込まれていく。
 韓国映画、特にエンターテイメント映画を見るたびに思うのだが、喜怒哀楽全ての感情が濃厚だ。正直胃もたれしそうです。友情にしろ嫉妬にしろ、いちいち直球・剛速球で投げてくるので、対応するのにいささか疲れる。そういう、濃い感情には慣れていないのよ...。
 で、見ていて大変気になったのが、韓国の観客の間では、チャンセンとコンギルの関係は100%友情・友愛と見なされているのか、それとも同性愛的な関係があると見なされているのかということです。冒頭で、コンギルは興行先でしばしば、セックスの相手として雇い主に貸し出されているらしいということが臭わされるのだが、それをチャンセンが体を張って止めるわけです。これはまあいい。そりゃあ、弟みたいなものらいしい止めるわなぁと思う。しかしそこに嫉妬も見え隠れする、ような気がするんです私は。更に王宮に入ってから、ヨンサングンがコンギルをいたく気に入り、毎晩自室に呼ぶ。で、チャンセンはこれに対しては明らかに嫉妬しているように見えるんですね。今までの雇い主との間には感情面での繋がりはないが、ヨンサングンとコンギルの間には何か通い合うものが出来てしまった(王の寂しさにコンギルが気づくという形で描かれており、これは月並みではあるが悪くないと思った)。それに気づいて心乱れる、という風にも受け取れるわけです。このあたり、韓国の観客にとって、友情の範疇に入っているように見えているのかというのが気になったのだ。何か下世話な所ばっかり気になっちゃって何なんですが。
 チャンセンは男気溢れる人物、ヨンサングンは狂気を孕んだ人物として、比較的はっきりとしたキャラクターを持っており、その感情もストレートに見て取れる。しかし、コンギルがどういうキャラクターであるのか、何を考えているのかというのは、いまひとつはっきりとしない(そもそもセリフが少ない)。この映画の中空部分とでもいうか、チャンセン対コンギル、ヨンサングン対コンギルという風に、コンギルに相対することによってそれぞれのキャラクターが際立っていくという所が面白かった。しかしコンギル、意思がはっきりしないので見ていて大変イライラします。どっち?!どっちにするの?!思わせぶりな態度は身の破滅を招きかねないという話だったような気もします。芸にかける情熱とか、何か途中で忘れちゃったよ。
 ヨンサングンを演じたチョン・ジニョンが本気で気持ち悪かったのが、強烈な印象を残した。瞬き少なくて、目がギョロっとしていて、これはイっちゃってる人の顔ですね。すごいです。
イ・ジュンギは確かに美青年本作では怪しい魅力を発揮していた。ちょっと不思議な顔つきの人だと思う。



『それでもボクはやってない』
 就職面接の当日、満員電車の中で痴漢に間違われ現行犯逮捕されてしまった金子徹平(加瀬亮)。警察署で無実を訴えるものの全く聞き入れられずそのまま拘留、そして起訴されてしまう。無実を信じる母親(もたいまさこ)と友人(山本耕史)、そしてベテラン弁護士・荒井(役所広司)、新米弁護士・須藤(瀬戸朝香)の助けられ裁判に臨むが。
 実に怖ろしい映画です。特に男性にとってはトラウマになりかねないのでは。自分の言うことを誰も信じてくれないというシチュエーションがしみじみと怖い。ここはどこの星ですかという位に自分の言葉の通じない、外部から見ると明らかにおかしいことになっているのに内部ではそれがまかり通っているという、不条理小説等ではよくありそうなパターンだが、実話が元だから笑えません。日本人以外が見たらこういった展開はブラックコメディにしか見えないのではないかとも思う。取調べ(というか調べてないけど)も裁判も、客観的に見るとそのくらい滑稽だ。こんな滑稽なものに人生左右されるなんて・・・と考えるとかなりげっそりとします。かなりショッキングな内容だった。
 周防正行監督にとっては実に11年ぶりの新作だ。11年ぶりということに、映画を見る前は不安を感じていたのだが、むしろパワーアップして戻ってきた感が。過剰な悲壮さはなく、具体的な事例とデータの積み重ねで、畳み掛けるように日本の刑事裁判、司法制度の奇妙さを描いていく。裁判シーンは本職の弁護士から見ても大変リアルだそうで、薀蓄映画としても楽しめそうだ。監督独特のユーモアは本作でも発揮されていて、ちょっとした所に妙なおかしみがあるのだが、主人公の身に降りかかることが洒落にならない理不尽さなのでどうも笑えない。『Shall We Dance?』のような気軽に楽しめる娯楽作ではないので、前作のイメージのままに見に行ったら、期待はずれになるかもしれない。大変興味深く面白い映画ではあるのだが、見ている間かなりの緊張を強いられるので、気軽にお勧めできないのだ。
 おそらく監督は、この作品の為の取材を始めた当初は、ここまで深刻なものになるとは思っていなかったのではないだろうか。取材を進めていくうちに問題の大きさをじわじわ実感していった結果、こういう映画が出来上がったという印象を受けた。司法制度の原則は「疑わしきは罰せず」なのだが、それが全く守られていない、むしろ厳罰傾向にあるそうだ。裁判官といえども所詮官僚というくだりには、わずかな希望を打ち砕かれた感が。起訴されたんだから何かしらはやったんだろう、という先入観が社会全体にあるのだろうか。99%有罪というのは、どう考えてもおかしいのだが。
 映画前半での徹平の言動は、少々ボンクラ過ぎるのではないかと思った。いくらパニックになっていても、最初に弁護士呼べとか、安易にサインしてはいけないとか、普通気づきそうなものだが。ただ、加瀬亮のひょろっとした風貌と相まって、翻弄されるキャラクターとしては上手く動いていたと思う。細かいところのキャスティングが上手く、特に主人公を信じる母親、そして対照的な裁判官2人が印象に残った。
 この映画では、物証が殆どの場合存在せず冤罪が起こりやすい痴漢事件を題材に、安易に有罪判決の下される裁判のおかしさを主張している。しかし反対に、被告は絶対有罪なのに物証不足で無罪判決となり、悔しい思いをする原告もいるだろう(痴漢事件に関わらず裁判一般として)。そういう立場の人がこの映画を見たらどう思うのだろうかと、ちょっと気になった。そして「それでもボクはやってない」という題名ではあるが、「やってない」というのは実は主人公がそう主張しているだけであって、実際に何があったのか、実際の裁判と同様に見る側(裁く側)が確認することは出来ないのだ。そういう意味では、なんとなくもやっとした後味が残る。もちろん、実際何があったのか確認することが出来ないからこそ、裁判は慎重に行わなくてはならないのだが。



『マリー・アントワネット』
 14歳でオーストリア王家からフランス王太子ルイ16世に嫁ぎ、18歳で処刑されたマリー・アントワネットのベルサイユ宮殿での日々を描いた、ソフィア・コッポラ監督作品。マリー・アントワネット役はキルスティン・ダンスト。日本ではおばさん顔だブスだと不人気なダンストだが、本作では大変可愛らしい。私、この人好きなんですけど(世間でなんでこんなに嫌われてるのかわからないわ・・・)、今作では特に良かったんじゃないかと思う。
 いわゆる歴史劇だと思って本作を見た人は、まあ大抵がっかりするだろう。また、映画に強いドラマ性や人間の感情の衝突を求める人にとっては特に見るべき所はないだろう。しかしこの映画がダメな映画かというと、そんなことはない。少なくとも私は大変楽しく見た。カンヌでは大ブーイングだったそうだが、何でかなー。いわゆる映画通の人にはソフィア・コッポラ作品をけなす人が多いが、けなされるほど酷いものは作っていないと思うんだけど・・・。映画はかくあれ、という通念が未だに根強いのかしら。
 時代劇を見るのではなく、1人の女の子の青春ものとして見ると、案外しっくりくるように思う。一晩中パーティーやって仲間とバカ騒ぎして(ケタが違うけど)というのは、ティーン映画のお約束でありましょう。映画全体のちょっと過剰なくらいのキラメキ感も、ガーリーというよりは青春真っ只中!という雰囲気が。あー若いっていいわねぇ。
 その一方で、監督が意図をしたのかてしていないのか定かではないが、マリーの愚かさも露呈される。「自然の中が好きなの!」と娘を連れて田園を歩き回るが、それは彼女の為に手を入れられ管理された、自然「のようなもの」でしかない。農婦に扮した自演オペラも失笑ものだ。本人多分大真面目なんでしょうが(ところで、彼女が友人らに朗読していた本の著者を忘れてしまったのだが、ルソーだったか?だとしたらとんだ皮肉ですね)。財政が破綻しかけていると聞くと「じゃあダイヤを買うのはやめるわ」って、他にやめるべきことがいっぱいあるだろーが!国のトップにこんな女がいたらたまったもんじゃないです。そりゃあ革命もおきるわ。オーストリアにいた頃の彼女の服装はさほど豪奢なものではなく、周囲の愛情にも恵まれていた様子が見られるだけに、ちゃんとした教育係がいれば、または夫がしっかりしていれば、違う人生だったかもしれない。他の家、他の時代に生まれていたら、結構普通の女性として長生きしたんじゃないかしらと。マリア・テレジアももうちょっと何とかしておけばよかったのに!
 マリー・アントワネットにとっては、政治も民衆もどうでもよかった(自分の世界に存在しない)のだろう、という視点が貫かれているのだが、仮に民衆の困窮とか反乱とかを描こうと思っても、ソフィア・コッポラには出来ないんじゃないかと思う。この人、貧乏とか圧政とかがどういうものか、リアルにイメージ出来ないんじゃないかと(笑)。この人の映画、どれ見ても生活臭ないし貧乏とは程遠いからなぁ。そういう意味ではソフィア=マリーか?実は自分の青春が投影されているのか?それはそれで嫌だなぁ(笑)。
 ともあれ、大変目の保養になる映画ではある。次々と登場するドレスに靴に山のようなパステルカラーのお菓子。あー幸せ。映画内のマテリアル量が幸福度と直結している感じがします。音楽のリズムにのって次々と靴が映し出される所とか、異様な幸せ感がある。例によって音楽のチョイスもばっちり。こういうの、鼻につくと嫌がる人もいるんだろうけど、私はすごく好きです。ヴェルサイユでがんがんニューオーダーを鳴らすのって、楽しいじゃない。



『エレクション』
 香港黒社会で最大の組織では、2年毎に選挙で会長を選ぶ。今回当選したのは知的な穏健派・ロク(サイモン・ヤム)。構成員に賄賂を使って根回ししたのに落選したディー(レオン・カーフェイ)は納得できずにロク派の構成員を人質に取り騒ぎを起こす。現会長は会長の証である「竜頭棍」をディーから遠ざける為、大陸へ運ばせる。しかしディーもそれに気付き、使いを出す。
 何とも奇妙な映画だった。物語自体は、組織のトップを争う2人(とそれぞれの支持者)の熾烈な争いということになるのだろうが、肝心の2人が早い段階で警察に拘束され、自分では何も出来ない状態に。拘置所から部下に指示を出すわけだが、だんだん部下たちが勝手に右往左往しているように見えてきた。どの人がどちら側なのか、あっさり寝返る奴もいて、見方を変えれば「竜頭棍」を巡るドタバタ劇のようだ。実際、何で「竜頭棍」にそんなに拘るのかもはっきりしない。冷静に考えれば、前会長と他の構成員が認めればそんなものなくても問題ないわけです。他の部分ではごく実際的に物事が運ばれるので、「竜頭棍」の存在が妙に浮いて見えた。
 また、設定自体はいわゆる「ヤクザ映画のお約束」的なものなのだが、その映し方がヤクザ映画によく見られる様式的なものではなく、妙に生生しい。様式化されていれば安心して見られるのだが、ひょこっと枠からはみ出していくので、落ち着かない。特に暴力シーンの自然さ(妙な言い方だが)は、自然なので却って笑えてくるという、変なことになっている。カーチェイスの果ての乱闘シーン等は、ヤクザ映画に良く出てくるような、いわゆる派手でかっこいいものとは明らかに違う(とりあえず血の付き方が汚い)。しかしすごく面白く、そして非常に痛そうんですけど、でも何か変だなぁと。
 また、人質を木箱に入れてがけの上から落とすという拷問も、ビジュアル敵にはインパクトあって怖いのだが、結構な重さのはずなのにわざわざあれをもう一度上に持っていってまた落とすのかと思うと、どっちが拷問されているのかよくわからなくなってくる。この変さ、一種のおかしみというのをジョニー・トー監督が意識してやっているのかどうかよくわからないというのも、この映画の奇妙さの一つではあると思う。
 画面が暗く、人物の表情が読み取りにくいシーンが多く、不穏な雰囲気が漂う。登場人物の多くが実際にに腹の底の見えないキャラクターであるのだが、その最たるものである1人が最後に取った行動にはあっけにとられた。結局それなのね(笑)。それまでのイメージが覆るだけに、ショックは大きい。




『ヘンダーソン夫人の贈り物』
 第二次世界大戦前のイギリス。長年連れ添った夫を亡くしたヘンダーソン夫人(ジュディ・デンチ)は、ふと思い立ってソーホーの劇場「ウィンドミル」を買い取る。支配人として雇ったヴィヴィアン・ヴァンダム(ボブ・ホスキンス)発案のノンストップ・ショーは大当たりするが、他の劇場が真似をし始め客足は遠のいた。起死回生の為ヘンダーソン夫人は、「踊り子を裸にしましょう」と発案するが。監督は『ハイ・フィデリティ』のスティーブン・フリアーズ。実話を元にしたストーリーだそうだ。レビューで使われている音楽には、当時実際に使われていたものもあるとか。ストーリーの運びが若干とっちらかっている印象を受けたが、いわゆるバックステージものとして、とても楽しい。
 とにもかくにもジョディ・デンチの魅力全開の作品だった。全国のデンチファンはぜひご覧になるべきでしょう。貫禄たっぷり、気品はあるがお茶目でもありちょっと意地悪、というデンチの良さが存分に活かされていたと思う。ヴァンダムに妻がいると知ってショックを受けて拗ねたり、若い踊り子たちに囲まれるヴァンダムに嫉妬を見せたりするヘンダーソン夫人は、大分わがままな人でもあり(実際そばにいたら疲れそうだし)、他の俳優が演じたら鼻持ちならない女性に見えそうだ。しかしデンチがやると、ヴァンダムに「困った人だが憎めない」と言わせるだけのことはあるわ、とすんなり納得できるのだ。嫌味にならないのね。デンチはベラベラっとセリフをまくし立てても下品にならない稀有な人だと思うのだが、本作でもショーの検閲官にヌードは芸術よ!違法じゃないわよ!と言いくるめるくだりが良かった。この検閲官はヘンダーソン夫人とは昔なじみなのだが、若い頃からこういう調子で言いくるめられてきたんだろうなぁという気配が、ありありと漂っているのだ。
 また、デンチとがっぷり組み合うボブ・ホスキンスもお見事。下手な俳優だったら完全にデンチに食われていたところだろうが、しっかり張り合っている。ユーモラスさと悲哀と狡猾さが入り混じるキャラクターが味わい深かった。主演2人の演技力と魅力に支えられた映画だと思う。特に2人の掛け合いと攻防が続く前半は楽しい。ヘンダーソン夫人がクマの着ぐるみを着て劇場に潜入するのはやりすぎではないかと思ったが・・・。
 対して後半ではイギリスが第二次世界大戦に突入し、物語にも暗い影を落とす。戦時下でも劇場を維持し続けた夫人と踊り子たちの気骨に気分も盛り上がる・・・のだが、夫人が劇場を開いた動機にはちょっとひっかかる。そりゃあ、戦時下でも娯楽は必要だし、これから前線に出る兵士には余計に景気づけが必要だろう。しかし、「楽しんだんだからお国の為に安心して死ね」という意味合いにも取られかねないのでは。もちろんヘンダーソン夫人にそんな意図はなかっただろうし、むしろ戦時下の風潮に対する反感からの行動だろうと思うが、そういう方向に使われかねなかったんじゃないかと。




『ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド』
 イギリスの辺鄙な岬で人目をはばかるように育てられた、結合性双生児のトムとバリー(ハリー・トレッダウェイ&ルーク・トレッダウェイ)。彼らは父親の意向によってレコード会社と契約し、「ザ・バンバン」なるバンドとして売り出された。一気にスターダムになった2人だが・・・。
 擬似ドキュメンタリーとして作られているので、当時の関係者(とされる人々)、彼らを題材とした小説を出版した作家(とされる人)らへのインタビューが挿入される。虚と実の間を行き来する構造が、「ロックスター」という虚構と生身の人間としての自分との間で苦悩した双子のあり方と重なる・・・と見えるが実際は虚と虚なんですね。メタ映画ってこと?
 しかしメタ映画にした必然性があまり感じられない映画ではあった。途中で、双子を題材にした小説を映画化したものの映像とか撮影現場とかが挿入されるのだが、それが映画としてつまらなそうな映像なのね(笑)。それで興ざめした。普通に真っ向からフィクションとして撮っても問題なかったと思う。手法を重視しすぎた(そしてその手法もあまり上手くない)という印象を受けた。監督のキース・フルトン&ルイス・ペペは『ロスト・イン・ラマンチャ』というドキュメンタリーを撮っているので、その時の経験を活かしたかったのかとも思ったが、題材と手法があまり上手くかみ合わなかったか。でもこれ真っ向からやったら、よくあるバンドの内輪もめ話になりそうだしなぁ・・・。
 「男2人の間に1人の女が登場して関係が泥沼化」というシチュエーションは、フィクションの中ではよくあるが(現実にもよくあるでしょうが)、本作では男2人が物理的に離れられない為、よけいにややこしいことになる。兄が彼女といちゃついている間、弟はそこから逃げられない。そりゃあ関係もつれるわ!しかし泥沼関係にいまひとつ説得力と言うか迫力というかが足りなかったように思う。主人公は結合性双生児である為、肉体的にだけではなく、精神的にも密着しており切り離しが難しい(と映画の中で医者が解説する)のだが、そのあたりの描写があっさりすぎだったように思う。ケンカしていても、普通の兄弟げんかの範疇に見えてしまった。まあ男の子ってそんなもんでしょ?と思ってしまう。監督側としては、(言い方に語弊がありますが他に思いつかない)病んだ雰囲気をもっと出したかったんじゃないかと思うのだが、意図したほどには出ていないという感じが。あと、双子の関係を脅かす女性が、あんまり魅力的じゃないのも一因か。
 なんとなく消化不良気味な映画ではあったが、主演の双子は確かに美形で魅力がある。この2人がいなかったら成立しない企画だったかもしれない。また、双子が育った岬の、荒涼とした風景には惹かれた。そして肝心の音楽は、70年代ぽさが出ていて悪くなかったと思う。悪くない部分が色々とあるだけにもったいない。



『どろろ』
 48体の魔物に奪われた肉体を取り戻そうとする青年・百鬼丸(妻夫木聡)と、彼の腕に仕込まれた刀を狙うコソ泥どろろ(柴崎コウ)の旅。原作は手塚治の漫画だ。しかし手塚作品の中でもまさかこれをチョイスするとは・・。監督は『黄泉がえり』『カナリア』の塩田明彦。
 長編小説や漫画等を映画化した場合、ダイジェスト版になってしまうという失敗が往々にしてある。本作も残念ながら、そうなってしまったように思う。私は原作は相当過去に1度読んだきりなので、本作が原作に忠実なのかどうかはよくわからないのだが、エピソードが散漫としていて、ここぞという盛り上がりに欠けていたと思う。そろそろ面白くなるのかなーと思っているうちに映画が終わってしまった。
 目玉のはずのワイヤーアクションもいまひとつ。ショットが小刻みな部分が多くてダイナミックさに欠ける。結構な制作費がかかっているはずなのに、少なくともアクションシーンに関しては安っぽさが否めない。なんか、日曜の朝に放送している特撮みたいなんですけど・・・。特に中盤で出てきたツチノコみたいな魔物はもろに着ぐるみ感があって、なんだかがっかり。他の魔物もデザインがありきたりで、おどろおどろしさに欠ける。もうちょっと何とかして欲しかったなー。
 ファンタジー映画ということでCGは必須なのだが、部分によって出来不出来の差が激しい。百鬼丸の腕などはなかなかよくできたように思うが、魔物は全般的にショボかった。また、CGと実写とのかみ合わせがうまくいっていないのか、やたらと平面的に見えるシーンがいくつかあった。何か、遠近感が狂うわ・・・。
 どうもぱっとしない映画だったが、一番致命的だったのは、主演の2人が役にはまっていなかった所。2人とも下手なわけではないだけに、なんだかかわいそうだった。妻夫木は陰のあるキャラクターは苦手なのではないだろうか。ダークヒーローという柄ではないだろうしなぁ。ヘタレた青年とか人の良い青年役だったら、無難にこなすのに。対して柴崎は熱演してはいるのだが、どろろ役には大人すぎるし女っぽすぎる。やんちゃっ子演技が却ってイタイタしかったですよ。多分、要求されたことをきちんとクリアしようとしていたんだろうけど、とにかくミスマッチ感が拭えなかった。
 塩田明彦は、本作ではあまりやる気がなかったのだろうか。『黄泉がえり』は堅実な娯楽作品だったし、『カナリア』は社会派の秀作。その後にこれかよ・・・。この人もっとポテンシャルあるはずなのに・・・。人気俳優・手堅い監督・そしてミスチルの主題歌を合わせてもダメな時はダメなのね。
 

 

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