12月

『イカとクジラ』
 1986年ブルックリン。16歳のウォルト(ジェス・アイゼンバーグ)と12歳のフランク(オーウェン・クライン)兄弟は、共に作家である父バーナード(ジェフ・ダニエルズ)、母ジョーン(ローラ・リー)と暮らしていた。しかし突然両親は離婚。兄弟は父親の家と母親の家を行ったり来たりする生活を余儀なくされる。
 まず、少年を主人公とした青春映画として面白い。ウォルトはちょっと小利口なティンエジャーらしくナマイキだが、その様はどうも滑稽だ。知識をひけらかしたり、女の子の前でかっこつけ、結局彼女を傷つける羽目になったり、なんともイタい。ピンクフロイドの曲をパクってコンテストに出場するあたり、いやいや誰か気付くだろうよ!と突っ込みまくりだ。自分が見えていないし、周囲も見えていない。率直に言って嫌なガキである。しかし、こういうイタさは誰もが通ってきた道ではないだろうか(私だけですか)。だから単に嫌なガキとは切り捨てられない。また父親っ子のウォルトは、ジョーンに対しては特に辛辣で、離婚も彼女のせいだと思っている。しかし、本当に母親だけのせいだったのか。ウォルトが自分と家族とを見つめなおすラストシーンは、ほろ苦くも清清しい。子供が大人になっていく瞬間を、こういう形で描くのかと。
 そして、一つの家族がバラバラになっていく過程を描きながらも、決して湿っぽくならず、ユーモアに満ちていておかし悲しいといった味わいがある。兄弟の両親は決して悪い親というわけではない。むしろ、友達感覚で話の分かる方だろう。でも、子供にとって親のみっともない所、不完全な所を目の当たりにしていくのは、結構キツいんじゃないかと思う。少なくとも、この映画の兄弟は、親を不完全な人間として許容できる境地には至っていないようだ。特にウォルトは父親と父親の作品に心酔しており、文学作品に対する評価も女の趣味も、バーナードの受け売り。父親のお墨付きを貰わないと安心できないのだ。
 で、このバーナードがそれなりにちゃんとしているならいいのだが、実は大人としてはあまりちゃんとしていないのね(笑)。何でも自分を正当化し、負けん気が強く、すぐむきになる。要するに子供っぽい。作家だけに強要は豊かで話は面白いから付き合う分にはいいのだろうが、自分以外の人(特にインテリでない人)を俗物として見下しているので、一緒に生活するのはちょいと大変そうだなと。まあ、離婚されそうではある。一方、ジョーンの方も夫との生活に疲れ、浮気を重ねている。彼女は自分の浮気遍歴を子供たちに打ち明けてしまうのだが、親のセックス事情を知るのって、子供は凹まないだろうか。そういうのにオープンなお国柄ではあるのだろうが、よけいに子供が混乱しそうな気がする。打ち明けた方は気が楽なのかもしれないけどさー。個人であることと、親であることを両立させていくバランスが難しいなーと。
 監督は『ライフ・アクアティック』でウェス・アンダーソン(本作のプロデュースをしている)と共同脚本を手がけたノア・バームバック。全体的に笑いのセンスがよくて、ちょっと新人離れしたこなれ方をしているなと思った。お話自体は特に目新しさはないものなのだが、会話のつなげ方とか小物の使い方とか、細かい所が上手いので、作品が際立って見えるのだ。きちんと作っている所に好感を持った。挿入歌のセレクトも良い。



『トゥモロー・ワールド』
 2027年の世界。人類には18年間子供が生まれておらず、地球上から消え去る日も遠くはなかった。エネルギー省の官僚セオ(クライヴ・オーウェン)は、離婚した妻・ジュリアン(ジュリアン・ムーア)が率いる地下組織に誘拐される。ジュリアンらは、人類の将来の鍵を握る少女を人類救援組織に送り届けようとしていた。彼女の為に必要な通行許可書をセオに作って欲しいというのだ。なりゆきで彼女らに同行するセオだが。原作はP.D.ジェイムズ『人類の子供たち』(原作タイトルのほうがいいよね・・・)、監督は『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』のアルフォンソ・キュアロン。
 私にとっては守備範囲外の映画(SF)ではあるのだが、これは良かった!ストーリーの早い段階でいきなり不意打ちかけられれ、セオと少女の四面楚歌な逃避行に手に汗握った。メリハリがきいていて、ものすごく感情を揺さぶられた。妙に臨場感が強烈な作品だったのだが、これは撮影が優れているからでは。長回しを多用しているのだが、特に終盤、戦場シーンで十数分ワンショットの部分があるのだが、セオの後方にカメラがついてくる。ドキュメンタリーのような臨場感(ご丁寧に、レンズに血飛沫まで飛んでくる)だった。他にも、カーチェイス中の車内のシーン(これは本当にどうやってんのかと思った)や、クライマックスの室内での長回しなど、はっとするような映像が多く、ビジュアル面で圧倒される作品だった。ちなみに撮影監督は『スリーピー・ホロウ』のエマニュエル・ルベッキとのこと。
 また、舞台であるイギリスの、人類の滅亡が色濃くなり、自殺者や鬱病が多発、海外からの入国は厳しく規制されテロが多発している社会の荒廃の様子が強く印象に残った。トゲトゲした空気に満ちていて、見ていて結構辛かった。割と近い未来という設定なので、現代とさほど変わらない街並みなのだが、「こういう事態になったら多分こういう感じで荒れるだろう」という荒れ方の加減が上手かったように思う。生生しくて、見ていて結構辛かった。その辛さが終盤でカタルシスを増倍させるわけだが。デストピア映画の金字塔と言ってもいいかも。
 ただ、種として先がないということが、個人のメンタリティにどの程度ダメージを与えるのだろうかという点で、少々疑問に思った。人口減少により高齢者の生活を若年層が支えるという構造が成り立たないという実際的な問題はとりあえず置いておいて、個人の快適さだけを追及していれば、別に子供生まれなくても、そんなにショックは受けないのではないかとも思う。それとも、子供が極端に少ない世界では、他人の子供も自分の子供のように大事に思うようになるのだろうか(映画の中で、最年少の少年がアイドルのごとく扱われるのはグロテスクだったが)。
 もっとも、映画を見ている間はそういう所は気にならず、ただただ映画のダイナミズムに引き込まれた。すごくうねりのある、生き生きとした作品だったと思う。終わりつつある世界で何を信じ、誰(何)の為に生きればいいいのかという切実さに打たれた。絶望的な状況の中で、死にたくない、何かを残したいという強烈な思いがセオの中に湧いてくる、その表出の仕方にはぐっとくる。盛り上げ方が上手いのだ。セオ役のクライヴ・オーウェンが荒んだ男役に合っていて、泣き崩れる所とか、すごく上手かった。あと、最近いい仕事の多いマイケル・ケインがここでも好演していた。泣かせる役どころだったと思う。所でこの映画、動物がやたらと出てくるのだが、監督の趣味?それとも人類が衰退した世界では動物が元気になるってこと?



『ルナシー』
 悪夢にうなされ泊まっていた宿屋の部屋を荒らしてしまったペドロは、「伯爵」と名乗る奇妙な男に助けられる。彼の屋敷に連れて行かれたペドロは、モラルに反した宴会を目撃する。逃げ出そうとするペドロだが、伯爵にトラウマ克服の為と言いくるめられ、精神病院に入れられてしまう。チェコの鬼才、ヤン・シュヴァンクマイエル監督による長編映画。エドガー・アラン・ポーやサド伯爵から影響を受け、彼らへのオマージュとして作られた作品だそうだ。確かに伯爵の言動は、サドの影響が色濃い。
 監督が得意とする実写アニメーション部分は今作ではさほど多くはない(お約束の生肉は大活躍しているが)。それゆえなのか、人形アニメーションに見られたグロテスクと紙一重のファンタジックさは薄れ、グロテクス、そしてグロテスク故のこっけいさがどんどん前面に出てきたという印象を受けた。無生物が演じていたことを生身の人間が演じると、もうオブラートとか隠喩とかがなくなって、単に生々しくなっちゃうんですね。何と言うか、もう何かを隠そうという気がさらさらないというか、更に開き直っちゃったというか、やりたい放題であります。このネタで2時間は、正直キツかった。屋敷での顛末だけか、病院のでの顛末だけか、どちらかに絞った方が収まりがよかったのでは。それともシュヴァンクマイエルに収まりのよさを期待するのが間違っているのか。そして以前のシュヴァンクマイエル作品には、何かしら美的なものがあったと思うのだが、今回はそれすら否定しているように思う。元々アナーキーな作家ではあるが、年をとって更にアナーキーになったというか惰性でアナーキーなままというか・・・。こう、もうちょっとメリハリが欲しかったなと。
 シュヴァンクマイエルの作品には、初期から一貫して、いわゆるヒューマニズムや人間の良心みたいなものを全然信じていないという印象を受けているのだが、本作ではそれが更に強まっていたように思う。人間の理性やいわゆる良識に対して、「それは本当に価値があるのか」と問いかけてくる。
 人間の自由=欲望を統制しようとするもの、倫理も宗教にもアンチを掲げ、不信感や嫌悪感を隠さない作品ではあるが、全部タガを外せば自由になるのかというと、そうとも思えない。今度は欲望にがんじがらめになるだけで、自由など死ぬまでないのかもしれない。
 それにしてもこの監督、肉屋のいいお得意さんなんだろうなぁ。結構半端ない量使っていると思う。ただ、今回は生肉は
出なくてもよかったんじゃないかと思わなくもない。



『シャーロットのおくりもの』
 小さな体で生まれた子豚のウィルバートは、母豚のおっぱいの数が足りず、あわや牧場主に処分されそうになる。牧場主の娘・ファーン(ダコタ・ファニング)により助けられたウィルバートは、すくすくと成長する。しかしブタは冬になると食肉にされてしまう運命。ショックを受けるウィルバートを助けようとしたのは、友人のクモ・シャーロットだった。
 原作は有名な児童文学であり、過去にアニメーション化もされた。アニメのシャーロットはなかなかに色っぽかった記憶があるのだが、本作のシャーロットはクモ以外の何者でもございません。納屋の動物たちが「気持ち悪い!」と彼女を邪険にするのも頷ける。しかしそのリアルにクモであるシャーロットが、段々いい女に見えてくるのが不思議だ。ウィルバートを助ける動機が、友達になってくれたからというのが泣かせるじゃないですか・・・。愛する者の為に体を張るシャーロットにはちょっと泣かされた。
 ただ、やはり大人の目線で見てしまうからか、そこを突っ込んじゃいけないと思いつつ気になってしまう所もある。ファーンはウィルバートが処分されそうになるのを「不公平だ」と言って止めさせるのだが、ウィルバートがハムやソーセージにならなかったことこそが、他のブタにとっては不公平だよなぁ。いいお話ね!と涙しつつ、でも所詮ブタは食用だぜ・・・と黒い心がささやくのを止められませんでした。ウィルバートが基本的に何もしないのも釈然としない。シャーロット任せかよ・・・。
 もっとも、小さいお子さんにも大人にも満足できるようなクオリティの映画ではある。動物達は、シャーロット以外は実写+CGなのだろうが、大変良く出来ていると思った。デフォルメしすぎず、下品になっていない所がいい。ネズミのコミカルな言動なんて、うっかりするとやりすぎになりそうだが、スベる直前で留めている感じが。
 そして、主演のダコタ・ファニングの安定感がすごい。もうダコタが出てれば大丈夫!くらいのブレのない演技で全く危なげがない。動物達だけでなく、ダコタが演じるファーンという少女に対する演出も、なかなか目配りがきいていたように思う。ファーンは動物とばかり遊んでいる少女で、母親が心配するくらいだ。しかし、ウィルバートが農場の動物達と仲良くなっていくのと平行して、彼女にも仲の良い同級生(カメラ好きの少年て所が面白い)ができる。そういう、子供の世界が広がっていく過程をちょこちょこと見せる所が上手かったと思う。
 ちなみに、本作で一番素敵なキャラクターだと思ったのは、ファーンの(学校のかお医者さんなのかよくわからないんだけど)先生。「あの子動物と話せるって言うんです」と心配するファーンの母に対して、「じゃあ話せるんでしょうね、私たちにはわからくても」としれっと答える所がいい。



『敬愛なるベートーベン』
 「第九」作曲当時のベートーベンと、既に難聴をわずらっていた彼を支えた1人の女性を主人公とした物語。1825年のウィーン。作曲家を目指して音楽学校に通うアンナ(ダイアン・クルーガー)は、ベートーベン(エド・ハリス)の写譜師をすることになる。天才の仕事を間近で見られると興奮するアンナだったが、実際のベートーベンは癇癪持ちで我侭な、どうにも困った男だった。
 性別も身分も立場も違う2人が、音楽に対する理解により心を通じ合わせていく。音楽が中心にあるだけに、山場となる「第九交響曲」初演シーンには非常に力が入っていた。既に耳が殆ど聞こえないベートーベンをサポートする為、アンナはステージに入り、彼に音の高低を伝えるのだが、オーケストラだけでなくベートベンとアンナの顔が交互にクローズアップされる。曲を通じて2人が心を通わせているのはわかるのだが、そこまでしなくてもいいよと言いたくなる。冒頭から結構顔のクローズアップや、登場人物の心情をダイレクトに反映するようなカメラの揺れが多く、少々くどい。監督自身が、ちょっと作品に酔ってしまっているような印象を受けた。監督は『秘密の花園』『太陽と月に背いて』のアニエスカ・ホランド。コスチュームプレイ映画が好きなのかしら。あと、エド・ハリスは上手いのだが目が虚ろで気持ち悪いのよね・・・。
 ベートーベンといえば、生涯独身で恋愛を成就できなかった、孤独な天才として知られている。この映画の中でも、ベートーベン自身が自分は孤独だったと言及するシーンがある。が、この作品で描かれているベートーベン像は、「そりゃあ恋愛成就するわけないっす」と納得してしまうような人物なのだ。癇癪持ちだとか我侭だとかというのはともかく、この人致命的に相手の気持ちが分からないんですね。別に冷たい人というわけではなく、むしろ情熱的で強い愛情を持つことが出来る人なのだが、その愛情の向け方が常に間違っている。相手にとってベストなことをやるのではなく、相手に対して自分がよかれと思っていることをやるので、相手にとっては却って迷惑だったりする。かわいそうなのはベートーベンに溺愛されている甥で、自分に音楽の才能がないという自覚があるのに、ベートーベンは彼をピアニストにしようとやっきになっているのだ。だから甥ぐれちゃうんじゃん・・・。アンナに対しても、音楽を理解しているという共通項はあるものの、音楽以外のところではやっぱり「こいつ空気よめねーなー」「それはセクハラですよ先生!」的な言動が多々ある。人との接し方が下手なのだ。それは孤独でもしょうがないよな・・・。
 ベートーベンは音楽については天才なのだが、(この映画の中では)人としては尊敬できない、というか、天才を帳消しに出来るくらいの欠点がある。全くそういう作風ではないはずなのに、「このおっさんしょーがねーなー」と絶えず突っ込みながら見てしまった。アンナの恋人の建築士が出品したコンペ会場のシーンで突っ込みも最高潮に。ベートーベンはコンペ会場に姿を現し、アンナの恋人の作品をけちょんけちょんにけなす。・・・あんた建築の専門家じゃねーだろ!確かにたいしたデザインではないのだが、その是非を決めるのはお前じゃないだろうと。相手がアンナの恋人ということで、嫉妬しているようにしか見えないのだった。子供かあんたは。美に対して忠実な人といえばいいのだろうが、社会人としてはダメだろうなぁ。至高を追求するのは自分の専門分野にとどめておいて欲しいもの。こういう人と一緒に仕事をするのは、喜びも大きいだろうがそれ以上に苦しみやジレンマに悩まされるだろう。アンナの忍耐力には頭が下がります。



『愛されるために、ここにいる』
 ジャン=クロード(パトリック・シェネ)は、仕事にも家族との関係にも疲れた50歳男性。医師に運動不足を指摘され、職場の近くのダンス教室に通い始める。その教室には、結婚を控えているものの、婚約者に対して不安を拭えない女性・フランソワーズ(アンヌ・コンシニ)が通っていた。2人はタンゴのレッスンを通じて、徐々に惹かれあっていく。
 これはフランス版「シャル・ウィ・ダンス?」か?と思いきや、その味わいは相当違う。地味ではあるが、じんわりと心に染みる、味わい深い秀作だった。フランス人というと恋愛上手でオシャレで口が達者でというイメージがあるが、本作に出てくる人達は、皆どこか人間関係に不器用だし、口下手だ。ジャン=クロードは老齢の父親に会いに、週に1回老人ホームを訪問している。しかし口下手で父親との会話が殆どない。その父親の方も、息子が帰るのをこっそり見送ったりしているくせに、相対している時には憎まれ口ばかりたたいてしまう。何そのツンデレぶり!ジャン=クロードの息子も、父親の事務所で働くのは嫌だと思っているのに、気弱でなかなかそれを言い出せない。皆、押しが弱いというか、相手に対して今一歩踏み込めないというか、なんとももどかしく、そこが可愛らしい。そして、全ての感情が控えめな所に好感が持てる。ベースが控えめだから、抑えきれず出てきた表情とか感情にはっとする。
 寂しいという気持ちは、自覚がないうちは別に平気なのだが、自覚しちゃうと一挙に襲ってくるものなのかもしれない。茫漠とした寂しさ、誰かと一緒にいたいという切実な思いが、実に身に染みる。だからこそ、一歩踏み出そうとするジャン=クロードに共感し、応援したくなる。演じるパトリック・ジュネが、またいい。演技はぎりぎりまで抑えられており、表情もそんなに変わらないのだが、すごく味わい深いのだ。しみじみと彼に見入ってしまった。いい皺の入り方をしている。フランソワーズ役のアンヌ・コンシニも、すごい美人というわけではないが、かわいらしい。笑うと目じりに皺が入るところがなんかいいのね。
 フランスは中年男映画、老人映画の秀作の宝庫であるというイメージが(あくまで私の中に)あるのだが、本作も同様だった。この作品、主人公が50歳というのも一つのポイントだろう。人生半ばをすぎても人間変われるんだという、勇気を与えてくれる作品だと思う。最後はどうとでも解釈できる余地のあるものだが、肝心なのは、ジャン=クロードの恋愛が成就したか否かということではないだろう。彼が一歩踏み出した、相手に踏み込んだということが重要なのだ。フランスでは半年を越えるロングラン・ヒットになったそうだ。やっぱり皆、力づけられたいのね。監督はステファヌ・ブリゼ。2006年セザール賞では3部門にノミネートされたそうだ。次の作品が楽しみな監督だ。



『スキャナー・ダークリー』
 フィリップ・K・ディックのベストセラー小説が映画化された。ディック原作の映画といえば『ブレードランナー』や『トータル・リコール』『マイノリティ・リポート』があるが、原作とは大分違ったものになっていたらしい(私恥ずかしながら原作未読でして・・・)。本作はディック作品原作としては、かなり原作に忠実なのではという前評判を耳にした。しかし、原作に忠実になることで、映画としての面白みが薄れないか、いびつな映画にならないかという懸念も頭をよぎるのだった。
 今から7年先の未来。「物質D」と呼ばれる、最終的には左右の脳を切断してしまう強力なドラッグが蔓延していた。政府は麻薬取締強化の為、人々を常に監視するシステム「ホロスキャナー」を設置した。覆面麻薬捜査官のボブ・アークター(キアヌ・リーブス)は麻薬の供給源を絶つ為、自身が「物質D」の服用者となり、ドラッグ中毒者たちと同居することに。しかし捜査本部へのタレコミがあり、ボブは自分と同居人たちの行動を監視する羽目になる。
 この作品は実写ではなく、実写映像をトレースし、デジタル・ペイントするアニメーション技術、ロトスコープを使用している。キャラクターの顔は明らかにキアヌ・リーブスでありウィノナ・ライダーであるのだが、画像のタッチはアニメーション以外の何者でもないという、不思議なことになっている。監督のリチャード・リンクレイターは、『ウェイキング・ライフ』でも同じ手法を使用していた。今作では技術的な進化もあるだろうが、更に手法が洗練されていたように思う。麻薬取締官らが着ている、姿が次々に変わるスーツなどは、よくできているなぁと思った。
 出てくる人達の大半がジャンキーなので、映像にも彼らが見る幻覚と彼らの現実とが混在している。アニメーションだと、現実も幻想も同じレベルで描かれるので、だんだんどこまでがドラッグによる幻影でどこが現実なのか、曖昧になっていくのだ。更にボブは、ドラッグ中毒者の自分を麻薬捜査官の自分が監視するという、奇妙な事態に陥っている。しかも「物質D」の影響で脳が分裂しているらしい。果たして自分は本当に麻薬捜査官なのか、それとも本当はジャンキーで、麻薬捜査官になった幻想を見ているのか。題材と手法が上手くかみ合ったアニメーションだったと思う。最近の映画だと今敏監督の『パプリカ』も、夢と現実が交じり合っている作品だった。本作の方が、ジャンキーが主人公だけに、全般的に酩酊感が強いかもしれない。
 映画中盤までのトーンから予想するとびっくりするくらい、最後は痛切なものだった(これは多分原作通りだと思う)。原作者であるディックは自身もドラッグ中毒だったそうだが、その苦しみが滲み出ていたように思う。映画の最後には、これは原作に添えられていたのであろう、ディックによる「献辞」が流れる。これがまた切実で泣けてくるんですよ。ちなみに音楽にはレディオヘッドのトム・ヨークやDJスプーキーが参加していて、お得感あり。
 それにしても、常に誰かが誰かを監視している社会は、安全なのかもしれないが気持ち悪い。監視する側もまた誰かに監視されて、どこまでもきりが無い。



『父親たちの星条旗』
 1945年、第二次世界大戦の激戦地であった硫黄島で、星条旗をあげる兵士たちの写真が撮影された。その写真は厭戦ムードが漂いつつあったアメリカ国民の士気を高揚させ、長引く戦争での資金難を立て直したのだった。クリント・イーストウッド監督による「硫黄島二部作」のうち、アメリカ側の視点で描いたもの。
 星条旗を上げたことで一躍英雄視されるようになった3人の兵士の名前と顔が、最後までよく覚えられなかった。これは私が人の顔と名前を覚えるのが苦手ということもあるのだが、意図的に個人の色を薄めていたのではないかと思う。あの3人は選ばれた3人ではなく、もちろん英雄でもなく、たまたまそこに居合わせてしまっただけだ。それが特別なものとして扱われることの悲劇があったと思う。感情を出さずに要求された役割をこなすもの、良心に誠実であるが故酒に溺れていく者、与えられた立場を利用してのし上がろうとする者。それぞれ「英雄」という役割に対するアプローチの仕方は違うのだが、「英雄」という役割は、決して彼らを幸せにはしなかった。酒に溺れていく兵士が苦しむのは、戦地での苛酷な体験の為ということもあるだろうが、自分本来の姿ではないものを押し付けられ、演じざるをえなかった為ではないかと思った。
 戦場は当然悲惨なものではあるのだが、本作内での戦場の描写は、「さあさあ悲惨ですよ」というあからさまなものではない。もちろん、激戦地が舞台だから人はボコボコ死ぬし死に方もえぐい。しかし、情感を盛りあげることはない。むしろ冷静に、見ている側の感情が入り込む隙がないように演出していると思う。観客に「そこで盛り上がるな」「泣くな」と言わんばかりだ。主要登場人物はあまり内面を吐露せず、劇的な場面では表情をあからさまには見せないように撮られている。この冷静さが、この映画に余計な色がつくことを防いでいるのだと思う。
 戦場の悲惨さよりも強く印象に残ったのが、戦場の悲惨とアメリカ本国での盛り上がりの落差だ。このギャップがグロテスクだった。硫黄島に見立てたハリボテでの茶番劇にはげっそりとした。そりゃあやってらんないよなと。そして一気に加熱し一気に冷めてしまう大衆の残酷さにもやりきれなくなった。死屍累々な戦場よりも、ある意味こっちの方がこわい。映画のトーンの冷静さが、度を過ぎた加熱の異様さを際立てているのだ。
 この映画、息子による父親についての聞き取りという形をとっているのだが、これはあまり上手く機能していなかったように思う。他は冷静でドライなのに、最後の父親と息子、家族のシーンだけウェットすぎたと思う。「お父さんはえらかったんだ」的な話では全くないのだから、もっと救いのないような、突き放したオチでもよかったのでは。



『硫黄島からの手紙』
 クリント・イーストウッド監督による「硫黄島二部作」。こちらは日本側の視点から描いたもの。日本人をアメリカ人が描くということで、どこかズレたものになるのではと懸念していたのだが、全く杞憂だった。違和感なく、日本人の話としてみることが出来た。日本人俳優の日本語の演技に対して、どうやってOKか否かの判断を下したのか気になってしまう。冒頭、発掘隊の人達のセリフ回しがちょっとぎこちなかったのと、本編中でも役者のせりふが若干聞き取りにくかったのが気になったが、これは監督が日本語を分からないからというわけでもないだろう。
 戦争映画だから、それはもう惜しみなく人が死ぬわけだが、メインの登場人物の死に方については、相当配慮されていると思う。どう配慮しているかというと、殆どの人物に関して、絶対ヒロイックな死に方をしないように配慮しているのだ。月並みの戦争映画だとうっかり感動しそうな所で、絶対カタルシスを生じさせないように気を付けていると思った。実際、映画の中でかなり中心的な役回りの人物であっても、「えっそこかよ!」と思わず突っ込みたくなるショボい死に方をする。しかしそのショボさに強烈なリアリズムを感じた。英雄的な戦死はありえない、というのがイーストウッドの主張なのだろうか。観客を気持ち良く泣かせる、感動させるような映画は、少なくともこの題材では作らないぞという強固な意志を感じた。これは、なまじ泣ける映画を作るよりも難しいことなのではないかと思う。観客に「硫黄島で戦死した立派な人達がいた」的に感動されてしまうのは、イーストウッドの本意ではないだろう。
 『父親たちの星条旗』においても、本作においても、基本的に敵兵の(個人としての)顔はあまり映されない。自分たちとは違う、なんだかよく分からないものとして置かれている(だからこそ躊躇せず戦えるわけだか)。が、本作ではアメリカ兵もまた1人の人間であり、誰かの子供であるということが1人の上官によって示唆される。このシーンは感動的ではあるのだが、戦争の中では個人の顔というものは殆ど考慮されないことの裏返しであると思うと虚しくもある。
 出演者は総じて良かっ。
 英国軍が去ると、今たように思う。栗林中将役の渡辺謙は、さすがの安定感。途中でチラッと出てくる洋装姿が大変様になっていて、軍服着てる場合じゃないと思った。また、巷で好評の二宮和也は確かに悪くない。ちょっとヒネた、こすっからい感じの雰囲気がよく出ていたと思う。彼は声も顔つきも実年齢より子供っぽいので、所帯持ちで兵士でというのがなんだか痛々しくもあった。また、中村獅童は典型的な悪役だったが、あまりに典型的で一歩間違えるとコント。ここは笑っちゃダメなんだろうなぁと思いながら見た。



『ファースト・ディセント』
 下は10代上は40代という、年齢も性別もばらばらな5人のスノーボーダが、アラスカの断崖絶壁をすべる!「ファースト・ディセント」とは、初めて人が滑る斜面のことだそうだ。
 2006年冬季トリノ五輪ハーフパイプで優勝したショーン・ホワイト(20歳)、同じく金メダリストのハンナ・テーター(19歳)、ビッグマウンテンのパイオニアであるショーン・ファーマー(42歳)とニック・ペラタ(40歳)。そしてカリスマと言われるノルウェイのテリエ・ハーコンセン。この5人が雪山に挑む様を追ったドキュメンタリー。スノーボードの歴史にも軽く触れられている。ドキュメンタリーとしてはちょっとぎこちなかったように思う。出演者に「ちょっとそのへん歩いてみてくださーい」とか「ちょっとそこでポーズ付けてください」とか指示している様が、頭に浮かんでしまう。スノーボーダー達のキャラクターをたてすぎている感があった。
 もっとも、彼らの滑りにはさすがに見ごたえがある。私はスノーボードは全くやらないが、「何かえらいことになっている」というわくわく感がある。冷静に考えると、ヘリで山のてっぺんにヘリで下りてがけを滑り降りるというのは最早ネタレベルの意味のわからなさではないかと思うのだが、やる側はものすごく真剣に(そりゃあ、失敗すれば即死だしね)やっている。ヨットで世界一周とか自転車で大陸横断とかもそうなのだが、人間は冷静に考えるとあまりメリットのない途方もないことをやってみたくなる、そしてそういうことをやっている人を見て感動してしまう性質があるのだろうか。
 ともあれ、滑っている姿は実に気持ちよさそうだ。スノーボードのメジャー化には、ビデオの普及が大きく影響しているということだが、確かに見た目の気持ちよさ・派手さが」あるなぁと。滞空時間の長いスポーツって見ていて一種の快感があると思うのだが、私だけかしら。 あと、景色がとても美しい。あー山に行きたいな!
 ちなみに日本でのスノーボードの盛り上がりに触れている部分があったのだが、(ちょっと昔の映像だと思うのだが)あんなに熱狂的だったのかー。プロボーダーが来日した際のイベントも、スポーツというよりショー。目茶目茶派手で正直気恥ずかしい。海外のプロボーダーが若干ひいているのがおかしかった(笑)。



『麦の穂を揺らす風』
 1920年アイルランド。医師になる為ロンドンへ行こうとしていた青年デミアン(キリアン・マーフィー)は、駅でのイギリス兵の暴行に毅然と立ち向かう機関士ダン(リーアム・カニンガム)の姿を目にし、兄ティディ(ポードリック・ディレーニー)と共にイギリスからの独立運動に身を投じる決心をする。ついに戦いは終わり講和条約が結ばれたものの、今度は講和条約の内容をめぐって、アイルランド人同士の戦いが始まるのだった。
 イギリスとアイルランドの間の歴史上の問題を扱った作品であるが、国名を入れ替えれば現代でも続いている問題である。本作の中で、イギリス軍の振る舞いが非常に残酷なものとして描かれている為、イギリスのメディアからは「反英国映画だ」という批判を受けたそうだが、この批判はちょっとずれているのではないかと思う。征服者は大抵の場合、被征服者を多かれ少なかれ虐げるようになるものだ。残虐行為が無かったとは言えないだろう。自国の行いを美しく描くことだけが愛国心ではない。また、不完全なものとはいえ講和に漕ぎ着けたアイルランド内部で分裂がおき、結局イギリス軍がしていたのと同じことをかつての仲間に対して行ってしまう、アイルランドの内戦の虚しさも描いている。特定の戦争や植民地問題そのものの是非を問うというよりも、むしろ、ここまでやりあわないと事態を収束できない人間の愚かしさに対する嘆き、疑問の投げかけをするという側面の方が強かったように思う。特定の国に対するアンチなのではなく、普通の人達が大した理由もなく殺され、普通の生活を手に入れるためにここまでやりあわなくてはいけない状況とは何なのか、ということを強く打ち出していた。アイルランド軍の中で抗争が起き、かつての仲間同士で殺しあうようになるという、延々と続く戦いがやりきれない。結局共倒れで英国の思う壺になるのだ。この流れに沿って、物語前半での弟の行動を、最後に兄が反復するという構造が、またやりきれない。どこかで回避できたはずなのに何でこうなってしまったのかと、本当に泣きたくなるのだ。
 ケン・ローチはあまり捻った作風の監督ではないと思うのだが、今作もストレートど真ん中だ。一つ一つのシークエンスがとても力強く、心をゆっさゆっさ揺さぶられる。この揺さぶられ加減がすごかった。登場人物の心情がぐわーっと迫ってきて、見ている間何度も叫びだしそうになった。2006年のカンヌ映画祭でパルムドールを受賞したのも頷ける。
 出演者の殆どがアイルランド出身者。デミアン役のキリアン・マーフィーの演技は本当によかった。特に、幼馴染を処刑した後、さっと後を向いて立ち去るというシークエンス。あっさりとしているように見えるが、投げ出した腕の動きに、やりきれなさとか怒りとか、自分の中におさまりきらない感情が込められていて、強く印象に残った。あと、デミアンの同志となるダン役のリーアム・カニンガムは、実にいい顔をしていた。アイルランドの風景と音楽も美しい。が、その美しさ故に悲しみも強まるのだ。



『鉄コン筋クリート』
 義理と人情とヤクザの町「宝町」。そこでは「ネコ」と呼ばれる、大人を尻目に軽がると空を舞う2人の少年クロ(二宮和也)とシロ(蒼井優)が暮らしていた。しかし町に「子供の城」なるレジャー施設を中心とした再開発の話が持ちかけられ、ヤクザたちが暗躍し始める。クロとシロは殺し屋に追われ、重傷を負ったシロはクロと引き離される。1人になったクロは暴走し始めるが。
 原作は松本大洋の同名マンガ。彼の作品の中でも特に人気が高い本作を、STUDIO4℃がアニメーション化した。監督は、VFXの第一人者であるマイケル・アリアス。これが長編初監督となるが、初監督作品としては異例の豪華なスタッフ陣だ。アニメーションとしてのクオリティは間違いなく高く、娯楽作品としてきれいにまとまっている。
 冒頭15分間くらいのカメラの動きにぐっときた。「飛んでいる」感じ、浮遊感がたまらない。実はこの作品に対して、ストーリーやテーマが云々ということは、あまり言う気にならない。私が既に原作マンガを読んでいるからということもあるが、何より本作はビジュアルの気持ちよさに特化していると思うからだ。身体的に心地いい・刺激のある映像と言えばいいだろうか、ストーリーとかキャラクターの感情に対してではなく、キャラクターの動きとかカメラの動きのひとつひとつにぐっとくる。カメラが上へ下へひゅんひゅん動く映像の好きな人や、街並み等の背景マニアにはたまらないんじゃないかと思う。
 監督のマイケル・アリアスは日本に滞在していた時期に原作マンガを読んで強い感銘を受けたとのことだが、この映画では監督としての個性を出しすぎていない所がよかったのではないかと思う。監督の作品というよりは、STUDIO4℃の作品という側面の方が強い。実際、STUDIO4℃にとっては勝負作と言える作品だと思う。今まで作品のクオリティは高いものの興行的にはいまひとつ恵まれなかったが、今回は絶対成功してやるという気合を感じた。
 キャストは本業の声優ではなく、殆ど俳優を起用しているが、これが中々良かった。シロ、クロは(ちょっとシロの声がくどかったけど)特に違和感なし。感銘を受けたのはヤクザの鈴木役の田中泯。ぴったりだった。木村(伊勢谷友介)と最後に話す所とか、泣けるのよ。あと、若い刑事・沢田役の宮藤官九郎もへらっとした感じがあっていたと思う。シロと関わっていく過程での沢田の変化にもホロリとさせられた。



『フランキー・ワイルドの素晴らしき世界』
 スペインのイビサ島を中心に活躍していた人気DJフランキー(ポール・ケイ)。ゴージャスな毎日を送っていた彼だが、クラブの轟音の弊害で聴力を失う。音楽を失い荒れた生活を送るフランキーだが、読唇術の教師ペネロペ(ベアトリス・バタルダ)と出あったことで、新しい音楽の世界を発見する。フランキーは再起できるのか?
 フランキーを知る人や同業者へのインタビューが随所に挿入される、擬似ドキュメンタリーとして作られていて、コミカルな味わいがある。本当にそれっぽい人たちがそれっぽいことを言うのがおかしい。フランキーの人柄が基本的にいい加減で、ヘラヘラしているのもコミカルさの一因。人気DJとしての生活も酒!女!ドラッグ!という絵に描いたような羽目の外しぶりも、お約束すぎて笑ってしまう。しかしそんなヘラっとした主人公だからこそ、音を失った後に音楽を発見した瞬間の喜びと、新しい音楽の世界を獲得しようという真摯さが引き立つのだが。音を無くしたことで自分が本来持っていた音楽を楽しむ心を取り戻すという逆説が面白い。
 音楽そのものよりも、音楽をどう見せるかという所が工夫されていたように思う。DJブース内でミックスしているシーンでは画面が2分割されるのだが、DJがどう音を作っていくかわかって面白い。また、音のバランス、音響効果にかなり拘っているのではという印象を受けた。音響設備の充実した映画館で見るといいかも。



『エラゴン 遺志を継ぐ者』
 農民の叔父と従兄と暮らす少年エラゴン(エド・スペリーアス)は、森で不思議な青い石を見つける。石が割れて飛び出してきたのは、メスのドラゴン・サフィラだった。エラゴンはドラゴンと一体となって空を飛ぶドラゴンライダーに選ばれたことを知る。自分もドラゴンライダーでありながら全てのドラゴンを殺し国を支配した暴君・ガルバトリックス(ジョン・マルコビッチ)を倒すべく、エラゴンは村の語り部ブラム(ジェレミー・アイアンズ)と共に反乱軍へ合流する旅に出る。
 昔のRPGみたいな話としか言い様がない。とにもかくにも、今なんでこれを映画化するのか、理由がさっぱりわかりません!少年が力の持ち主に選ばれ、巨悪を倒して姫を助ける、という、ファンタジーのフォーマットそのものなのだ。別にフォーマット通りなのが悪いというのではない。ただ、今の観客は今までに世に出たファンタジー小説やらゲームやらマンガやら映画やらで、目が肥えている。皆こういう話には慣れきっているだろう。フォーマットプラス何か、つまりよっぽど語り口が上手いか、世界観が作りこまれているか、キャラが立っているか何かしないとお客をひきつけられないと思うのだが。本作には残念ながらその何かが感じられなかった。見ていて全然盛り上がらない。CGはよくできていてドラゴンの動きに違和感はないし、風景(ロケ地はハンガリー)も雄大で美しいのにもったいない。
 エラゴン役のエド・スペリーアスは本作がデビュー作だそうだが、本当に普通の男の子で、あまりヒーローっぽくはない。普通の男の子が成長していく話だからそれでいいのだが、ちょっとボンクラすぎるような気が・・・。共演はマルコビッチにジェレミー・アイアンズと豪華なのだが、全く華が感じられませんでした。あー残念。あと、敵役でロバート・カーライルが出ていたのだが、終盤でいきなり老け顔メイクになっていた。多分そこに至るまでに何かあったのだろうが、何らかの理由でカットされてしまったのだろう。いいのかそれで。

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