11月

『ブラック・ダリア』
 「Mrアイス&Mrファイア」と称される、ロス市警の刑事バッキー(ジョシュ・ハートネット)とリー(アーロン・エッカート)のコンビ。ある日、腰を切断され、口を耳まで切り裂かれた若い女の死体が発見される。女の身元は映画女優を夢見ていたエリザベス・ショート。リーはこの事件に異様な執着を見せる。バッキーは不審に思いつつも調査を続けるが。
 ジェイムス・エルロイの出世作「ブラック・ダリア」を、ブライアン・デ・パルマ監督が映画化。デ・パルマは最近はちょっと変で下世話な映画(いや本人真面目なんだと思うけど)ばかり撮っているイメージがあったのだが、本作は意外にも下世話感は薄い。デ・パルマお得意の派手なカメラワークも控えめだ。リーが落下するシーンがややデ・パルマぽかったくらいか。
 原作に忠実に映画化しようとしたのがわかる。当時のロスの雰囲気もいい感じに出ていると思う。が、何故か薄味で物足りない。監督が萎縮してしまっているのだろうか。なんだか全て小作りな印象を受けた。原作にあった混沌としたエネルギーが失われてしまっているように思う。もちろん原作と映画は別物ではあるが、これはもったいない。
 ストーリーはかなり駆け足で、しかも入り組んでいる。錯綜したストーリーを何とか2時間に納めようとしたのだろうが、情報が次から次へと出てくるので、一つ一つを味わう暇がない。キャラクターの言動にも唐突な印象を受けた。原作小説自体がかなり唐突な展開を見せるものだったと思うのだが、原作には物語を突き動かす一種のグルーヴ感があり特にリーがダリア事件にのめり込んでいく過程は、もうちょっと描いて欲しかったと思う。のめり込む理由は説明されるものの、取って付けた様な感が。訳も分からずのめり込むという設定だとしても、ダリアにそうさせるだけの吸引力が感じられないので、少々苦しい。原作に対する律儀さが空回りしてしまったかもしれない。
 男2人と女1人という三角関係がストーリーの中心にあるが、美女に男二人が思いを寄せるという図式だけでなく、三角形の頂点が二転三転していくのが面白い。バッキーとリーの恋人ケイ(スカーレット・ヨハンソン)は惹かれあうが、その間には常にリーの存在がある。リーとケイはバッキーの与り知らぬ所で共謀関係にある。そしてリーとケイ、バッキーとケイの間にいるのはブラック・ダリアでもある。最後にダリアの幻影を見せるのはちょっと蛇足だったが。
 出演者に妙に精彩がないのが気になった。リー役のアーロン・エッカートは、先日見た『サンキュー・スモーキング』があまりにも良かったもので、ついそのイメージで見てしまったということもあるかもしれない。ジョシュ・ハートネットは、バッキー役にしてはちょっと甘すぎる感じかも。ヒロインであるスカーレット・ヨハンソンがどうにも冴えない。見せ場であろう濡れ場にも全然色気がなく、なんだかコントみたいだった。そういえば、濡れ場に限らずコントっぽいシーンが多かった気がする。そんな話じゃないはずなのだが・・・。事件の鍵を握る女性の役で、世間では不評だったヒラリー・スワンクは、私はなかなか良いと思った。この役柄、内面に闇を抱えるようでいて、実は案外単純な女性というキャラクターだった思う。
 所で、この時代(60年代か?)の警察って長閑というか、自由度が高かったのだろうか。バッキーとリーは、警察署内で開催されたボクシングの試合で対戦したことで知り合いになる。この試合、内輪の試合じゃなくて、警察の広報活動の一環として一般市民も見に来るものなのだ。もちろん新聞にも実名報道される。警察官がスターとかアイドルのような扱いをされるのって、なんだかすごい時代だなと。



『ストロベリーショートケイクス』
 デリヘルの事務所で電話番をしている里子(池脇千鶴)、そのデリヘルでデリヘル嬢をしている秋代(中村優子)、OLのちひろ(中越典子)、ちひろとルームシェアをしているイラストレーターの塔子(岩瀬塔子)。4人の女性の、色々とままならない日々。
 私は女性が主人公の映画や小説に共感することがあまりない。どちらかというと、女ってわかんねーなぁと思いながら見る(読む)ことの方が多い。本作も同様で、あー女の子ってわかんない・・・と思いながら漫然と見たのだった。特にこれはもう、全然わかんないなぁと思ったのは秋代。デリヘル嬢としてがんがん金を稼いでマンションを買おうというのは、まあ分かる。分からないのは、彼女が学生時代から片思いを続けているキクチ(安藤政信)に対するスタンスだ。えーと、何で告白しないの・・・?いや告白しないならしないでいいんだけどさあ、だったら最後までセックスしないでいる方がお互い気まずくなくていいんじゃないのー?そもそも何年も一方的に思いを寄せているのって不毛だと思うんですけど・・・。結局何をしたいんだあんたは!と悶々としてしまった。
 対して、一番違和感を感じずに見ることが出来たのは里子。彼女は一見ふわふわしているようだが、実は一番逞しいというか、現実的に生きているのではないか。その時その時をちゃんと楽しめている感じがして、見ていて不安にならない。そういえば、家族との関係が映画の中に出てくるのは里子だけだった。
 原作漫画(魚喃キリコ)を読んだ時は特に気にはならなかったのに、映画になったものを見ると、女の子たち(特に塔子とちひろ)のキャラクター付けが、随分と紋切り型だと思った。過食症とか結婚願望の強さ故ウザい女扱いされるとか、まあありがちだなと。また、秋代が棺桶で寝ているとか、里子の部屋のベランダにはブランコがあるとかは、ちょっとやりすぎな感も。マンガだとキャラクターが最初からある程度記号化されているから、記号的なキャラ設定でもそんなに気にならないのだろうか。生身の女優が演じているから却って気になったのかもしれない。また、映画オリジナルである秋代のある選択に関しては、それこそステレオタイプすぎて興ざめだった。確かに女性にとっての大きな転換点ではあるだろうが、結局そこに落ち着いちゃうということには、がっくりするというか、もう暗鬱とした気分になります。そういうのじゃない何かがほしいのよ。
 で、生身と言えば、セックスシーンやヌードが妙に多い映画でもあった。生々しいといえば生々しい、人の私生活を覗き見しているような撮り方なのだが、あんまりやらしい感じではない。単純に運動しているみたいだった。実も蓋もなくて、セクシーさがないのだ。濡れ場は総じてつまらなかった。
 ラストは映画のオリジナルなのだが、これは蛇足だと思う。もっとばっさりと切るような、クールさが欲しかった。このラストだと、本当に少女漫画みたいだ。



『エコール』
 高い塀で囲まれた森の中。6歳から12歳の少女たちの住む寄宿舎と、彼女らがダンスと自然科学を学ぶ学校がある。12歳になった少女は森を出て行き、新しく棺に入った少女が届けられる。原作はフランク・ヴュデキント『ミネハハ』、監督hあルシース・アザリロヴィック。ギャスパー・ノエのパートナーとしても有名。
 陰影にとんだ映像は美しく、少女たちはコケティッシュでかわいらしい。が、閉ざされた世界と少女とひそやかなエロチシズムと・・・って今更こんなネタやられても〜。もうおなかいっぱい、食傷気味であります。好きな人はすごく好きそうな世界観だけど、私はもういいかなぁと。悪くはないのだが、まあこういう感じだろうなぁという予想範疇から全くはみ出さないので、面白みには欠けた。逆に言うと、期待したものは裏切らないということでもあるんだろうけど。
 原題は「innocence」。その原題通り、少女たちは外界からの影響を何も受けず、男性とも接することなく、純粋無垢に育てられる。が、その教育は彼女たちを鑑賞物、そして生殖相手として育てる為のものらしいということが節々から見て取れる。体の美しさを校長がチェックする場面や、世話係の老婆が年長の少女・ビアンカに「その足(の美しさ)なら外でも役に立つだろう」と言う場面、そして年長の少女たちが、秘密の劇場でお客にダンスを披露する場面等。そして学校の経営は、ダンスの観客からの見物料で成り立っているらしい。イノセントな世界は欲望(主に成人男性の)の上に成り立っていると考えると、グロテスクでもある。そして蝶のさなぎを観察している場面で、女教師が口にする「繁殖の相手を探すのよ」という言葉が、そのものずばり、ラストシーンにつながっている。このラストは、少女が無自覚なのか自覚的なのか、ちょっとぞくっとした。
 幼い女の子のヌードやら下着姿やらがやたらと出てくる映画である。そして着衣姿であっても、スカートはミニ、ショートパンツは超ショートである。性的に未成熟な存在のセクシャルさを強調する意図が明白にあるのだが、「イノセントとか言っといてどうせこういうの見たいんでしょ?ん?」という監督の意地悪さが垣間見えた感あり。



『unknown』
 密室状態の廃工場で目覚めた5人の男。その内2人は何故か拘束されていた。しかし全員が記憶喪失に陥っており、自分が誰なのかもわからない。果たしてここで何があったのか?彼らは何者でどういう関係なのか?低予算映画ぽいのだが、話の展開が速くて面白かった。大作感は薄いが、1000円で見たら得した気分になりそう。
 と書くと非常にミステリアスな謎解きもののようだが、実は工場に掛かってきた電話や工場内に残された新聞から、彼らはどうやら誘拐事件の犯人と被害者らしいということが割りと早い段階で判明してしまう。そして徐々に記憶も戻ってきて、どうやって工場から脱出するかという方向へ話がシフトしていく。もっとも、中途半端に記憶を失っているので、誰が犯人で誰が人質なのか、自分はどちら側の人間で誰が仲間なのかさっぱりわからないという状況は続く。お互いの疑心暗鬼や駆け引きはそれなりにスリリングだが、いっそぎりぎりまで記憶を失っていた方が、ミステリとしては面白かったんじゃないかなと思わなくもない。また、工場内だけでなく、誘拐事件を捜査している警察側の動きも描かれるので、スリリングさが弱まってしまったかなと。まあ、これはこれで分かりやすくていいのだが、密室劇としての本作も見てみたかった。
 記憶を失った男たちは「俺がこんなことをやるはずない」「でも本当は自分はひどいことを出来る奴だったんじゃないのか」と葛藤するのだが、誰が誰なのかわかってみると、やっぱりその人らしい行動をとっていたという所が面白かった。人間、自分の本性からは逃れられないんですかねー。しかしその反面、知りたくなかった自分の本性にも気づいてしまうということも。最後に一つどんでん返しがあるのだが、この人はこの後どう行動したのか・・・。
 瀬戸際に立った男たちがようやく団結し、一人また一人と口笛を合奏するシーンがあるのだが、これは良かった。まあベタなシーンではあるのだが、こういうのは気分が盛り上がりますね。



『スネーク・フライト』
 FBIエージェントのフリン(サミュエル・L・ジャクソン)はギャングの殺人現場の目撃者であるショーンを、裁判での証言の為にハワイからロスへ護衛することに。しかし搭乗した飛行機には、ショーンを抹殺するため、ギャングの一味によって大量の毒ヘビが放たれていた!果たしてフリンは毒蛇からショーンと乗客たちを守ることが出来るのか?!
 あらすじ書くと、すっごくバカっぽいですね。でも本当にこういう話だからしょうがない。そして設定はバカだけど、いわゆるユルいおバカ映画としては作らないあたり、さすが『セルラー』のデイヴィッド・エリス監督であります。この調子で一流のB級映画監督を目指していただきたい。もう感動作とか超大作とか作らなくていいから。最初、展開の唐突さにあれ?と思ったのだが、飛行機に搭乗してからは俄然面白くなる。小道具の使い方が妙に律儀で、ちょっとスポットの当たった小物はほぼ全部(と言うとちょっと言いすぎなんだけど)伏線に使われる。つまり分かりやすい。ヘビの活躍っぷりもヘビに噛まれた乗客の死にっぷりも大変華々しく分かりやすい。この手の映画は分かりやすくてなんぼだからこれでいいのだ。特に蛇に噛まれる時のシチュエーションが、「こういうのが見たいんでしょ?わかってますって!」と言わんばかりのサービスぶり。乳首噛まれたりムスコ噛まれたり眼球食い破られたり、もう大変です。そして大蛇が登場すると、「これはやっとかんとダメだろう」的にお約束シチュエーションが。もう蛇でおなかいっぱい。やれることは全部やってやった!的な、妙な気合を感じた。
 『セルラー』を見た時も思ったのだが、別にすごい能力は持っていない(フリンはFBIだけど、それが特別な能力とはされていない)人たちが、知恵と勇気で事態を打開していくという展開がいい。パニック映画でありながら、この展開ゆえに妙に燃える。さっきまでガタガタ震えていた女性が「おばあちゃんの知恵袋」的に蛇に噛まれた子供の危機を救ったり、自己チューに見えたおデブ男が子供を気遣ったりという、ちょっとした所がいい。特にフライトアテンダントの男女4人の活躍には思わず目頭が熱くなりそうでした(笑)!年配女性アテンダントが体を張って赤ん坊を守ろうとするのとか、もう、ぐっとくる。エリス監督は人間の善意とか職業倫理とかに、基本的に信頼を置いている(もしくはそれを信頼したい)人なのではないかと。
 そしてやはりサミュエル・L・ジャクソンが主演だからこそ、妙な迫力が生まれていると思う。彼の顔力には並々ならぬものがあります。さすがヨーダと並んでも違和感ない男。あのギョロ目で説教されて「黙って俺に従え!」と言われたら思わず従いそう。「もーう、頭きた!」とエリスがブチ切れるところは見ているこっちも「キターっ!」て感じでした。ブチ切れ後の蛇駆逐方法がこれまたすごいんですが・・・。いや死ぬよ!それ絶対死ぬよ!と思う(というか爆笑しそうになる)のだが、サミュエルがすごい顔して言ってるからまあ大丈夫かなぁという気持ちにならなくもない。
 脇役が全員妙にキャラが立っているところも楽しく、特にオヤジギャグを連発する副機長がいい味出していた。ギャグが総じて下品(中学生男子レベル)なところもよかったと思う。トイレで蛇に噛まれたカップルが苦しんでいる声を聞いて、添乗員が「まあお盛んね!」的コメントをするのとかね。
 ちなみにエンドロールにテーマソングのPVが流れるのだが、このPV出演者は一般公募によるものだとか。つまり素人さん?何かすごいサービス精神です監督。



『幸福のスイッチ』
 和歌山県田辺市で小さな電気店を営む父親(沢田研二)と3人の娘。二女・怜は仕事に夢中で家庭を顧みない父親に反発し、美術系専門学校に進学するため状況。学校卒業後デザイン会社に就職したものの、イラストにダメ出しした上司にキレ、その勢いで退職してしまう。貯金も食料も尽きて途方にくれた怜の元に、姉(本上まなみ)が入院したという知らせが。慌てて帰省した怜だが、実は入院したのは父親。怜は嫌々ながら、実家の電気店を1ヶ月間手伝うことになる。
 基本的には家族の物語なのだろうが、働くことについて色々と考えさせられた。怜は自分が一生懸命描いたイラストを、「クライアントの意向に沿わないとダメ」と怒られてキレる。が、仕事として受注した以上、発注元の意向に沿うというのは当然のことだ。あー違うのよー、自分的ベストじゃなくて相手にとってのベストな仕事をしなくちゃならないのよー、自己表現とかはその後よー、と見ていてハラハラするというかうんざりするというか。怜がキレた上司にしても、叱られるのはまだいい方で、何も言われずにボツということだって在り得る。ちゃんと修正の指示やフォローを出してくれるだけ、彼女の会社の上司(2人出てくるのだが)はどちらかというと良い上司だろう。しかも彼女は営業職の彼氏に対して、デザイン勉強してたのに営業やっていて悔しくないのかとなじってしまう。そ、それは言っちゃあ駄目だろうよ〜!1人で仕事やってるんじゃないんだぞ!ともかく子供っぽい言動に辟易とした。
 彼女は働くということに関してどうも認識が甘く、実家の電気店でも不平たらたらで仏頂面だ。仕事中に「客が見ていないと思っても仕事中は仏頂面するな(というような趣旨)」と電気店の助っ人に来ている元同級生に諭されるのだが、全くその通りですね。怜は自分がやりたい仕事をやりたいわけだが、やりたい仕事をやるためには、やりたくない仕事もいっぱいやらなくてはならないのだ。そして、やりたくなかった仕事の中にも面白さとか、やっててよかったと感じられるようなことがあるかもしれないのだ。
 対して、怜の父親は仕事一筋だが、自営業なので当然妻子もそれに付き合わされる。お客の喜んでくれる顔が見たいというのはごく自然なことだが、父親のそれは少々度を越している。こんな電気屋さんが近所にいたらすごく助かるけど、サービスしすぎて赤字じゃあ、家族はたまったもんじゃないでしょう。生活成り立ってこその仕事ですよ。仕事に何を求めるかというのは人それぞれだが、この父親は仕事に精神的な面での喜びを求めすぎな気がする。実は怜も「自分の絵を認められたい」というのが一番にあるので、どちらも仕事に過大なものを求めすぎという点では一致しているのかもしれない。
 こじれた父娘の関係が、父親の仕事を見つめることで徐々にほぐれていくという、まあありきたりと言えばありきたりな物語だ。しかし下手に「上手いことやってやろう」という色気を出さず、地味でもきちんと作ったという印象を受けた。父親と娘が頑固でへそ曲がりと言う似たもの同士だからこそ、よけいに関係がこじれるというのも、あるよなあこういうの、と笑いを誘われた。
 もっとも、全般的に悪くないものの、怜と父親のキャラクターが私にとって非常にイライラさせられるものだった為、いい話なのに何かげんなりしてしまった。怜の妹のちゃきちゃきとしたキャラクターが、唯一の救いだったか。



『ナチョ・リブレ 覆面の神様』
 宣教師だった両親を無くしたイグナシオは、修道院に引き取られる。大人になったイグナシオ、通称ナチョ(ジャック・ブラック)は、修道院で料理番をしていたが、貧乏ゆえろくなものを子供達に食べさせてやれない。ルチャ・リブレ(メキシコの覆面プロレス)ファンだったナチョは、自分もレスラーとして出場して賞金を掴もうと思いつく。
 ジャック・ブラックは、とにかくキャラの濃い俳優だ。独特な風貌と体型のせいもあるだろうが、どの映画に出ても普通の男役ということはまずなく、一癖ある男の役だ。加えて、何かに夢中な人、のめり込んでしまっている人の役が多い。『スクール・オブ・ロック』しかり、『キング・コング』しかり。本作もその流れの上にあると思う。何でこういう役柄が多いんだろうと思っていたのだが、どうもジャック・ブラックの目の力によるところが大きいんじゃないか。この人、目が妙にキラキラしてるんですよ(笑)。美しくキラキラしているんじゃなくて、なんというか、陽性の狂気みたいなものを感じさせるキラキラ加減なのだ。
 もうひとつ、何かに夢中な人というのは、多かれ少なかれどこか子供っぽい所があるが、ジャック・ブラックはそういった稚気をかもし出せるのだと思う。本作のルチャは、彼が演じてきた中でも特に子供っぽい部類に入るキャラクターだ。いい歳こいたおっさんが礼拝中に憧れのルチャを落書きしたり、片思いのシスターを思って自作ポエムを作ったりするわけです。うわあ恥かしい。
 私はこの手の子供っぽくてくどいキャラクターは大の苦手のはずなのだが、ジャック・ブラックが演じていると、なんだか許せてしまう。なんだよかわいいな!とか思ってしまう。何これ。欠点のいっぱいある役柄でもなんだか憎めない、根がいい人っぽい感じが出てくるのだ。人徳ってやつか。
 映画としてはユルユルで、ジャック・ブラック主演じゃなかったら絶対見ていないような代物。私は結構笑ったんだが、ギャグは子供が喜びそうな類のものなので、そういうのが苦手な人は見ないほうがいいかも。
大人にとっては物足りない映画ではあるのだが、音楽はなかなかよかったです。メキシコの音楽は長閑で楽しい。あとシスター役の女優さんがすごくかわいかった。デビュー当時のペネロペ・クルスに似ている。



『デスノート The Last name』
 映画『デスノート』の後編。前フリなしでいきなり話が進行するので、前編鑑賞は必須だろう。この後編では、前編でちらっとしか登場しなかったミサ(戸田恵梨香)がメインキャラクターに加わる。ちなみにミサについている死神・レムの声は池畑慎之助。また、原作とはかなり設定が異なるが、ニュースキャスターの高田清美(片瀬那奈)も大きな役割を果たす。他のキャストは前編からそのまま引き継がれている。
 映画としては、前編よりも面白いと思う。実は前編を見ている間、「・・・あと何分?」と何回も時計を見てしまった。それほど長い作品ではないが、間延びしている印象を受けたのだ。後編はそのあたりが改善されていたように思う。編集が上手くなっていたのかもしれない。ただ、2時間強で完結させなければいけないのにやっておかなくちゃならないことが多くてで、本当のあと●●分で終わるの?!と時計を気にしてしまいましたが(笑)。なかなかテンポは良くなっていたと思う。あと、妙にお笑い要素が増えていた。これはL(松山ケンイチ)とミサの出番が増えたからかな...。セットの安っぽさとエキストラの下手さ(エキストラが下手というよりエキストラへの演出が下手と言った方がいいのか)は相変わらず。今時、テレビドラマでももうちょっとうまいことやると思うのだが・・・。こういう所をきちんとやらないと、映画にゴージャスさが出ないと思うんだけど。
 前編を見たとき、金子修介監督にしては女性を撮る時のショットがあっさりとしているなー、これは心を入れなおしたのかしらと思ったのだが、私の気のせいでした。今作では舐めるようにミサと高田の美脚をフォーカスしています!特に自室の高田は微エロショット満載なので男子はよくよく見ておくといいかもしれない。どんな部屋着だそれは!他のシーンでも、妙に下の方から煽るように撮るので、「あ、見えちゃうかも」的ショット満載でした。金子監督、よっぽど片瀬那奈を気に入ったんだろうか。単に前編に出てた瀬戸朝香かも香椎由宇も監督の好みじゃなかったってこと?
 正直、ストーリー展開には結構苦しい所もある(前編同様、原作の弱い部分がはっきり見えてしまった感が)のだが、勢いで何とか押し切っている。少なくとも見終わった直後は、結構面白かったなーという満足感が。本作のラストは原作とはちょっと異なるオリジナルなのだが、こういう落とし方にしたのも良かったと思う。ただ、原作ファンがどう思うのかはわからない。やっぱりいやなのかな(ちなみに私は原作は面白いと思ったが、特に入れ込んでいるわけではない)。
 ともあれ、後編はLがかわいかった。もうこの一点に尽きる。一瞬、Lを見る為だけにもう1回見てもいいと思った。駄菓子をほうばる姿もロングみたらし団子をタレにちゃぼちゃぼ付ける姿もミサに絡む姿も全て愛らしいです!今回、かなりいい所取りだったんじゃないでしょうか。Lのキャラクター作りにはかなり力の入っていたのではなかろうか。句読点のズレた喋り方も、奇矯さを強めていてよかったと思う。逆に、月(藤原竜也)はなんだか冴えなかったな...。演じる藤原竜也に精彩がなかったと言った方がいいか。つくづく、スクリーンに向かない人らしい。



『三峡好人』
  今年のベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した、ジャ・ジャンクー監督の新作。中国の一大プロジェクトである三峡ダムの建設を背景にしている。三峡ダム建設中の町。建物は次々と取り壊されてゆき、ビル解体の出稼ぎに来た男たちと、町を離れる元住民たちが行きかう。その中に、山西省から16年前に別れた妻子に合いに来た男と、同じく山西省から出てきた2年間音信不通の夫を探す女がいた。
 ジャ・ジャンクー監督の映画は、見ている間はだらーっとしていてかったるいなーとも思うのだが、見終わった後の余韻が深く、後々からふっと1シーンを思い出すというような、妙な尾の引き方をする。全体的なインパクトが強烈というのではなく、所々にぐっとくるシークエンスがあるという感じだ。なんと言うことない世間話とか、室内の様子とかに、何だかすごく惹かれるものがあった。そして本作では、ごくごく日常的な風景の中にぽこっとファンタジックな要素が入る。その唐突さがまた、見ている側の意識にひっかかってくるのだと思う。なぜこんなシーンが?といちいち考えずに見た方がいいような気がする。うがった解釈をしては、却って勿体無い。
 今作は特にぐっとくる箇所が多かったように思う。舞台である三峡自体が、元々山水画のような美しい風景であることに加え、その中で建物がばんばん壊されていくというミスマッチ、一種の廃墟の美しさみたいなものがあったのも、各シーンが印象に残った一因かもしれない。特に、冒頭、船上の人々を長回しで撮っているのは美しかった。最後も同じようなシークエンスが反復され、きれいに終わっている。こういうきちんとした(というと語弊があるのだが、作為の強い)構造になっているのがちょっと意外だった。もっと「撮りっぱなし」な作風の監督かと思っていたので。
 国を挙げた一大事業の影でダムに沈み行く町、というのは、環境汚染や労働問題、住民への保証等の社会的な問題提起には恰好なテーマだろう。だが、そういった問題の投げかけ、政治的な匂いは、まったくと言っていいほど感じられない。むしろ、換わり行く世界の中でも黙々と生活を続ける人間の姿が、強く心に残った。監督の関心の中心はそこに住む人々、人間の生活にあるのだろう。そこに映される生活は、決して美しいものでも経済的に豊かなものでもないのだが、悲壮感みたいなものは皆無だ。妻子を探しに来て右も左も分からなかった男が、ビル解体で生活費を稼ぐうち、いつの間にか町に馴染んでいる様子や、知人と一緒に夫を捜す女性が、ふと何かをふっきっていく様子などは、なんだかすがすがしい。普通にご飯を食べたり、扇風機を回したりという、なんということのないシーンが妙にツボだった。
 ちなみにこの映画、最初は三峡ダム工事を追ったドキュメンタリーになる予定だったとか。段々劇映画にしたいなぁと思うようになり、結局両方作ってしまったのだそうだ。



『キング 罪の王』
 海軍を除隊した青年エルビス(ガエル・ガルシア・ベルナル)は、田舎町の牧師の元を訪ねる。彼は牧師デビッド(ウィリアム・ハート)が結婚前、金で買った女との間に生まれた子供だった。初対面で息子と名乗るエルビスをデビッドは拒絶する。エルビスは彼の娘、自分とは母親違いの妹となるマレリーに近づく。
 現代のギリシア悲劇とでも言うべき、寓話的な復讐物語である。監督はジェームズ・マシュー。監督は『チョコレート』でアカデミー賞オリジナル脚本小候補になったミロ・アディカ。
 父親と息子の確執という一面も持つ物語だが、それ以上にデビッドが牧師であるというのがポイントになっていると思う。神に仕え人々の規範となる彼と、夫・父親である彼とは必ずしも一致しない。隣人への愛を説く一方で、家族の害となりそうな者は遠ざけるのだ。エルビスが果たそうとする復讐は、一つの家族を崩壊させるものであると同時に、彼らの信仰の矛盾や欺瞞をつく、神への復讐とでも言えるものでもある(デビッドの妻や娘の存在感が微妙に薄いのは、父なるものに対する復讐という意味合いを帯びているからか)。エルビスの最後の言葉は、「お前はそれでも信仰を保てるか」と突きつける、残酷かつ皮肉なものだ。
 エルビスの復讐は徹底してアンモラルで冷酷なものだが、彼が残酷で悪辣な人間なのかというと、少々違うように見える。むしろ、無知な子供の行動と言った方がいい。あまり物を考えているとは思えないし、状況が見えていない。ガエル・ガルシア・ベルナルの小柄な体格も相俟って、未熟な人間という面が際立っていた。この映画の面白い所は、劇的なことが起きるときにあまり劇的な演出がされず、劇的なことをしているエルビスも、あまり感情が高ぶっているようには見えないところだ。彼が復讐する物語ではあるものの、強い憎悪のようなものはあまり感じられない。「そういう状況だったからやった」というように、淡々とモラルを犯していく。
 デビッド一家の敬虔なクリスチャンぶりは、あまり宗教色の強くない日本人の感覚で見ると少々いきすぎな感もあるが、保守系アメリカ人の感覚では、そう奇異なものではないのだろうか。いまどき進化論をリアルに否定する層が実在するということが、違う文化圏から見ると信じがたく見える。



『木更津キャッツアイ ワールドシリーズ』
 人気TVドラマの映画化第2弾にして完結編。これはもう続編もスピンアウトも出ないだろうという、納得の終わり方になっている。監督は1作目「日本シリーズ」と同じく金子文紀、脚本は宮藤勘九郎。ぶっさん(岡田准一)が癌で死んで3年。キャッツのメンバーもバラバラになっていた。ある日、公務員となって今は木更津市役所に勤めるバンビ(櫻井翔)は、ショッピングモール建設予定地で「それを作れば彼はやってくる」という声を聞く。これはぶっさんの声に違いないと踏んだバンビはアニ(塚本高史)、マスター(佐藤隆太)、うっちー(岡田義徳)を呼び集める。しかし「それ」って何?ぶっさんは本当にやってくるのか?
 基本的にはTVシリーズのファン、日本シリーズを見た人の為の映画ではあるのだが、意外にもオーソドックスないい映画だった。私はTVシリーズのファンではあるのだが、正直言って劇場版1作目は小ネタが多すぎて映画としてはダレていたと思う。TVドラマ出身のクドカンにとって、2時間という尺は長すぎるのかと、少々がっかりした。しかし今回はダレがない。お約束の「前半/後半」システムは健在なのだが、各回の配分具合を思い切ってカットしてあって、間延びしていなかったと思う。クドカン映画慣れしてきたなーという印象を受けた。
 木更津キャッツアイは(ぶっさんの余命という期限付きであるものの)一種のユートピアもの、モラトリアムものという側面も持っていたと思うのだが、今回は「楽しい時間は終わるんだ」というテーマが明確に見える。そういう点ではクドカンの目線は結構シビアで、アニやマスターのフラフラ加減や、無難な就職に悩む(そしてぶっさんの声が聞こえたことが契機になってはっちゃけてしまう)バンビの迷走ぶりはイタい。この映画を見に来るお客さんは、出演者のアイドルとしての側面もあって、多分10代の女性が多いと思うのだが、むしろ20代から30代前半くらいの男性の方が身に染みるのではないか。クドカンの作品は基本的に男の子コミュニティーの話なので、女性が見てももちろん面白くはあるのだが、強く共感するのは男性なのではないかと思う。
 キャッツの主人公は一応ぶっさんではあるのだが、本作の主人公は、実はバンビだろう。本作でとうとう「本当に普通なのはバンビだけ(アニやマスターは普通なようでいて実は半非日常な世界に生きているキャラクターだ)」と言われてしまった彼は、都内の大学を卒業して地元で公務員勤め、という非常に堅実かつスタンダードな進路を歩んでいる。客観的には何も問題ないじゃないですかといいたくなるのだが、本人にしてみたらやっぱり「これでいいのか」と思っちゃうんでしょうね。今があまりにも普通なので、バカ騒ぎをしていた時期がやたらと輝いて見える。しかし人生は普通に続くし続けなくてはいけないというせつなさが、彼に体現されていると思う。アニやマスターだと、またバカ騒ぎしちゃいそうだもんね・・・。
 「それを作れば彼はやってくる」というセリフで一目瞭然なのだが、本作は『フィールド・オブ・ドリームス』のパロディだ。ただ、『フィールド〜』が死者の来訪によって主人公が童心を取り戻していく話であったのに対して、本作では死者の来訪によって生きている側が大人になっていくという、逆の構造になっているのが面白かった。『フィールド〜』って「あの頃に戻ろうよ」という所が大きかったと思うのだが、キャッツでは「あの頃にはもう戻れない」なんですね。



『ブロック・パーティー』
 『ヒューマン・ネイチュア』『エターナル・サンシャイン』を監督したミシェル・ゴンドリーの新作は、何とドキュメンタリー。コメディアンのデイヴ・シャペルが発起人となり、2004年9月18日にブルックリンで開催されたブロック・パーティー(街中の通りを区切ってゲリラ的に開催するライブイベント)を追ったものだ。ゴンドリーは元々ミュージックビデオを撮っていた人だけに、音楽ものとは相性がいいのかもしれない。ライブの見せ方を心得ていると思う。
  カニエ・ウェスト、ジル・スコット、エリカ・バドゥ、モス・デフ、フージーズを再結成したローリン・ヒルらという豪華なメンツによるステージは、当然のことながら大盛り上がりを見せる。ヒップポップやブラックミュージックが好きな人はもちろん、それほど興味のない人でも、結構楽しめるのではないだろうか。この楽しさは、発起人でありライブMCであるシャペルによる所が大きい。プロのコメディアンだから当然といえば当然なのかもしれないが、軽快で調子の良い彼の喋りが、映画全体を引っ張っている。特に故郷であるオハイオ州の田舎町での、住民とのやりとりはユーモラス。彼は無作為に選んだ人たちにパーティーのゴールドチケット(交通費込みでご招待!)を渡すのだが、それに対する住民のリアクションも人それぞれでおかしい。やっぱりニューヨークって憧れの地なのだろうか。シャペルがオハイオ州立セントラル大学のドラムラインをパーティーに招くのだが、ニューヨークへ行けると決まった時の学生たちのリアクションがすごい。日本で地方から東京に行く、というのとは興奮度合いのケタが違うような感じが。
 もう一つ興味深かったのが、キリスト(もしくはキリスト教の神)について触れたライムが多かったこと。意外に宗教色が濃く、ストレートに神への訴え・賛歌を歌っているものもある。ライブ前には出演者全員でキリストとアッラーに祈ってたしね。ヒップホップ畑って、宗教的には意外と保守的なのか?あとはやはり政治色が強い。日本のヒップホップとは根本的に違うなと(どちらがいいということではなく)。もちろん日本のヒップホップでも社会派なものはあるが、ここまで露骨かつ分かりやすいというか、あけっぴろげ感は薄いと思うので。
 パーティーに招待された客の中には「ヒップホップは汚い言葉を使うからちょっと・・・」という年配女性もいたのだが、確かに言葉は汚い(笑)。しかしその場にいた人達が羨ましい。映画見ているだけで踊りたくなります。



『半月』
 クルド人の老音楽家マモは、イラクでコンサートを開くため、バンドのメンバーを連れて国境を越えようとするが、様々な困難が立ちはだかる。『亀も空を飛ぶ』が高く評価された、クルド人監督バフマン・ゴバディの新作。2006年東京フィルメックスでの上映で鑑賞した。
 冒頭、闘鶏場に電話がかかってくるあたりから場内で笑いが起こっていた。この監督、ユーモアのセンスがある。頑固でワンマンタイプなマモと、道化役のバス運転手とが、笑いを誘ういいキャラクターになっていた。背景には、フセイン政権崩壊後にクルド人が置かれている状況というシリアスなテーマが根底にあるものの、あくまでユーモラスに描く、抑制のきいた所に好感が持てた。エンターテイメントとして楽しいのだ。冒頭、闘鶏場に電話がかかってくる件から、既におかしい。バスを借りる所でのやりとりとか、逃亡した仲間を撃っちゃうところとか、もうこれコントだよなぁ(笑)。
 マモは著名な女性歌手をメンバーに加えるのだが、イランでは女性がソロで歌うことは禁止されているそうだ。これは初めて知ったので驚いた。見つかったら警察に逮捕されるのだ。検問との攻防は、かなりハラハラした。映画の中に出てくる、女性歌手だけが閉じ込められている村は、実在するものではない(そういうシステムはない)そうだが、不思議な光景だった。
 現実的な光景の中に、ふいにマモの見る予知夢のようなものや、夢のような景色が出現し、また、土着的な民話のような世界の中に、携帯電話やパソコン、メール(ちなみにyahooメールだ)が普通に存在する。ユーモアの中にもきわめてシリアスな問題が挿入される。相反すると思われる要素が混在している所が面白かった。終盤、少々シリアス化のスピードが速すぎたように思ったが、全体的にはバランスが取れた作品だと思う。マモが見るファンタジーは美しい(特に若い女性が雪の中棺おけを引っ張るシーンは美しい)のだが、元々ロケ地の風景がファンタジックというか、異世界風であるのも効果的だったと思う。元々こういう地形の多い土地なのかと思っていたのだが、監督によればかなり入念にユニークなロケ地を選んでいるとのこと。
 それにしても、国境越えるのがこうも大変だとは・・・。理不尽だよなぁと思うのだが、その理不尽さを正面から「理不尽なんですよ!」と怒りをぶつけるような表現にしないのが監督のスタンスなのだろう。ちなみにこの映画、イランではまだ上映許可が出ていないそうだ。



『オフサイド』
 2006年のワールドカップ予選。国民的スポーツとも言えるほど、イランでサッカーは人気がある。しかし女性がスタジアム観戦することは禁止されている。ワールドカップに出場できるか否かの運命がかかったバーレーン戦を見ようと、男装した少女たちはあの手この手で憲兵と渡り合う。監督はジャファル・パナヒ。2006年ベルリン国際映画祭では銀熊翔を受賞した。受賞も納得の面白さ。ちなみにフィルメックスでは観客賞を受賞した。おめでとうございます。
 イランにももちろん女性サッカーファンはいるし、女性サッカーチームもある。しかし男性に混じってスタジアムで観戦することはできないし、逆に男性が女子サッカーを直に見ることもできない。映画に登場する女子サッカーチーム選手の少女によれば、チームの監督(男)はモニターで試合を見て携帯電話で指示を出すのだとか(笑)。男装して忍び込んだ少女たちは、憲兵に捕まり一箇所に集められる。へこんでいた少女たちが、だんだん憲兵がたじたじするような盛り上がりを見せていく過程がユーモラスだった。特に途中で逃げ出して試合を見てきた少女が、皆のところに戻って試合の流れを実演する(笑)くだりがおかしい。人数足りないから憲兵も無理やり参加させるのだ。で、憲兵も憲兵で試合が見たいんで、時々妙に息があった掛け合いになる。唯一サッカーにあまり興味なさげなちょっと年長の憲兵が、最後には一緒に盛り上がっちゃうのが何とも楽しい。あんたいい人だな!
 もちろん、イランで女性が置かれている状況という社会的な問題が示唆されている。しかし、それをそのままドン!と出すことはせず、双方の考え方のギャップからくるおかしみを前面にだしているところが楽しかった。男勝りな少女が憲兵に対して、何で女はサッカーを見ちゃいけないんだ!と問い詰めていくが、憲兵の答えがしどろもどろで段々とんちんかんになっていく。笑えるのだが、笑えるからこそ「これっておかしいんじゃないの?」という問いかけが真っ当なものに見えるのだ。
 少女たちのタフさはもちろん、憲兵たちが根は皆良い人で、ほのぼのとする。
何より、サポーターの言動が万国共通であることがおかしくてしょうがなかった。最後すごいうやむやになった感があるのだが、それもまあいいかと(笑)。



『上海の伯爵夫人』
 ジェームズ・アイヴォリー監督の新作であり、脚本はカズオ・イシグロの書き下ろし。撮影はクリストファー・ドイル。アイヴォリーと長年チームを組んでいたプロデューサー、イスマトール・マーチャントにとっては遺作となった。本作の完成試写を見ることはできなかったとのことだ。
 1936年の上海。ロシアから亡命してきたソフィア・ベリンスカヤ伯爵夫人(ナターシャ・リチャードソン)は、夫を亡くし、クラブのホステスとして働き家族を養っていた。しかし家族は水商売にいい顔をしない。一方、盲目の元アメリカ外交官ジャクソン(レイフ・ファインズ)は現役から退き、上海でクラブ通いをする日々。ある日ソフィアの機転に助けられたジャクソンは、彼女を自分の「夢の店」に花として迎えようと決意し、とうとう自分でクラブを開く。
 一見メロドラマのようであるのだが、非常にプラトニックだ。しかしその控えめさ、抑制が好ましい。なんとキスシーンは1回しかなかった。2人が惹かれ合っているのは明白なのだが、男は自分の世界だけを見つめて自分の気持ちにも気付かず、女は男の夢を壊さないよう、自分の私生活を彼に見せないよう配慮する。うーんじれったい。でもその踏み出さない感じがいいのではないかと。最近のラブストーリーは踏み出すのが早すぎですよ。
 男女のラブストーリーであると同時に、夢の世界に閉じこもっていた男が外へと踏み出すまでの物語でもある。
名作と名高いアイヴォリー監督の『日の名残』は、結局最後まで自分の世界の外へ出られない男の話だった(だから名作だということはわかるのだが、私はあまり好きではなかったのだ)。本作ではほのかとは言え、未来への希望みたいなものが見えるのでほっとする。動乱の時代を背景にしており、主人公達の運命も決して幸せなものではないのだが、でもこの先なんとかなるんじゃないかという気がしてくるのだ。
 元外交官で、精神的にはともかく経済的にはそこそこいい暮らしをしているジャクソンに対して、ロシアから逃げてきたソフィアの生活は苦しい。夫は既に死んでいて女ばかりの家族なのだが、義母と義妹は水商売をしているソフィアのことを恥じ蔑む。お前ら誰が稼いだ金で生活していると思っとるんじゃー!と一喝したくなるが、当時(いや今もこういう人達はいそうだけど)はこういう考え方が一般的だったのだろう。ただ、義妹にはムカつく女と思いつつ、少々同情もした。この人、率直に言って不美人だし色気もないんですね。美人で聡明な義姉がいたらコンプレックス刺激されて、イヤミの一つも言わずにはいられないかもしれない。
 主演のレイフ・ファインズは相変わらず安定感がある。育ちの良さそうな役によく合う人だと思う。また、ソフィア役のナターシャ・リチャードゾンがとてもよかった。ネット上で色んな人の感想を見たかぎりでは、あまり評判宜しくない(特に男性からは)ようだが、何でー!?素敵じゃないですか!元ロシア貴族の落ちぶれた感と気品とが滲み出ていて、とても魅力的だった。そして、謎の日本人マツダ役の真田広之が予想以上にいい!この人はちょっと昔の日本人的な風貌をしているので、歴史劇の方が向いているのだろう。決してスタイルの良い役者ではないし上背もないのだが、身のこなしが美しくて、時々はっとするような所がある。舞台をやっていた人は、やはり動きがびしっと決まるのだろう。ほぼ全部英語のセリフでの演技だったが、健闘していたと思う。



『明日へのチケット』
 インスブルックからローマへの列車へ乗り込んだ老教授は、世話をしてくれた女性秘書との逢瀬を夢想する。一方、イタリアから青年を連れて乗り込んだ中年女性は、
2等車切符で1等車に居座ってしまう。また、スコットランドから乗車している若者3人は、ローマでサッカー観戦する予定だ。彼らはたまたまサッカーのユニフォームを着ていたアルバニア人少年と会話を交わす。
 エルマンノ・オルミ、アッバス・キアロスタミ、ケン・ローチ。3人の名匠による3つのエピソードからなる映画だ。特に章立てはされておらず、各監督が担当するパートへの移行はごく自然なものだった。一つの列車の中でのエピソードに限定しているというのが吉と出たと思う。
 オルミ監督による老教授のエピソードは、おじいちゃん妄想ばかりしちゃってしょうがないなー(苦笑)と思わなれそうな話なのだが、意外に心地良い。不快にならないぎりぎりのラインを守っている。むしろ妄想しなくて何が人間だよ!人間は妄想する生き物だよ!と擁護したくなる。真面目な話、妄想=想像力があってこそ、現実の世界で他人を思いやることができるのではないかと思う。最後彼が見せる行動には、電車の乗客ならずとも微笑みたくなる。
 横暴な中年女性と彼女に振り回される青年を描いたキアロスタミ監督のパートは、女性の言動のむちゃくちゃさで笑わせるだけでなく、彼女が抱えている寂しさや不安感を垣間見させる所に優しさを感じた。こんなおばさん目の前にいたらすごく迷惑なんだけど、駅に1人残った彼女の姿には頼りなさすら感じられ、なんだか切なかった。青年と少女のやりとりもさりげなくていい。会話の繋ぎ方が上手い監督だと思う。
 ケン・ローチはいかにも彼らしく、移民問題を下敷きにしたもの。3人のイギリス人少年は「移民とか難民とかって大変なんだろ?」くらいの認識しかない。彼らにとってはサッカーの試合が重要であって、難民問題など他人事だ。が、そこがリアルに感じられる。悲しいことだが実際そんなもんだよなと。少年たちはさほどものを考えていなさそうだ。アルバニア人少年やその家族にサンドイッチを振舞うのも、彼らは単純に好意でやっているとしても、同情が相手に対する見下しと紙一重であるという危うさを孕む。そういったことには非常に無頓着なのだ。アルバニア人一家の窮地を見て気持ちがぐらぐら揺らいでしまうし、単純だし幼い。しかし、単純さゆえに出来ることもある。最後でばっと視界が開けるような爽やかさがあって、それまでのもやもやが一掃された。
 しかしサッカーのサポーターって強いねー(笑)。言葉通じなくてもOKなのか・・・。



『007 カジノ・ロワイヤル』
 007ナンバーをもらったばかりの若きジェームズ・ボンド(ダニエル・クレイグ)の初仕事は、世界中のテロリストに資金を提供している「死の商人」ル・シッフルにカジノで勝ち、彼の資金を絶つこと。ボンドは資金管理係の美女ヴェスパー(エヴァ・グリーン)と共に勝負に挑む。
 これまでの007シリーズのファンからは「ジャガイモみたいな顔」と非難轟々だった新ボンドだが、今度のボンドはいい!確かにいわゆる2枚目ではないが、若さの中にも苦味がある。何より彼はガタイもいいし、しっかり走ったり跳んだりできるからね(笑)!そのへんを考慮してか、今作は生身のアクションシーンに力が入れられていたと思う。冒頭の走りっぱなしな追いかけっこに、いきなり心を鷲掴みにされた。クライマックスのベネチアでの銃撃戦は、街並みの雰囲気に助けられた所も大きいだろうが、やはり燃える。特にアップダウンの取り入れ方が上手くいっていたと思う。今までの007ではお約束だったビックリドッキリメカやヒミツ兵器は殆ど出てこない。ボンドカーも割と普通の自動車だ。特に近年の007は、最早スパイ映画のパロディのようで笑わずにはいられなかったのだが、本作はスパイ・アクション映画の基本に返ったようで、予想以上に硬派。これは嬉しかった。
 また、新ボンドは拷問受けてもツヤッツヤしていた先代とは異なり、結構頻繁に死にかける。駆け出しだからという設定もあるのだろうが、これまでよりも生身っぽいボンドになっている。殺しの任務にてこずったり、あっさり毒薬を盛られたりと、まだまだ青いのう・・・。ただ、前半で見せる対人妻でのタラしっぷりは期待を裏切らない。拷問受けている最中の減らず口にもニヤリとさせられた。そうそう、この拷問、最初何をしているのかよくわからなかったのだが、相当痛そうだ。しかもちょっと笑える(笑)。いや笑う所じゃないと思うんだけど、やる方もやられる方もビジュアル的にマヌケだから。
 サブタイトルが「カジノ・ロワイヤル」だけにギャンブルシーンも見所だが、心理面の駆け引きに重点が置かれているので、ポーカーのルールが分からない人(私もよくわかってません)でもしっかり楽しめると思う。ストーリーのテンポが良く、ぐいぐい引っ張られた。脚本は『クラッシュ』のポール・ハギスなのだが、複雑な筋を混乱させずに組み立てている所は流石。ただ、イベントが多発しすぎて、「で、任務の内容って何だっけ?」とはたと我に返るところがなきにしもあらず。ま、楽しいからいいんですが。
 監督は『007 ゴールデンアイ』のマーティン・キャンベル。私は『ゴールデンアイ』は未見なのだが、本作ではなかなか手堅い仕事をしたなという印象。ただ、この監督(それとも脚本のハギスか?)はロマンスにはあまり興味がないらしい。ボンドとヴェスパーのロマンスには、どことなく取って付けた感がある。「とりあえずきれいな景色の中に美男美女がいればいいだろ」的ななげやりさを感じた。確かに風光明媚な舞台ばかりだから、目には優しいんだけど・・・。2人が惹かれあう必然性があまりなかったかなと。逆に言うと、そこはあくまで添え物で、メインはアクションとギャンブルということなんでしょう。久々に、男の子が喜びそうな映画が出てきたなーという感じが。



『サラバンド』
 イングリッド・ベルイマン監督20年ぶりの新作。映画作品としては最後の作品になるらしい。1974年の『ある結婚の風景』の続編となる。離婚後30年ぶりに再会したマリアン(リヴ・ウルマン)とヨハン(エルランド=ヨセフソン)。一方、チェロ奏者であるヨハンの息子ヘンリック(ボリエ・アールステット)は、自分の娘カーリン(ユーリア・ダフヴェニウス)にチェロのレッスンをつけていたが、父娘は愛憎を剥き出しにしていく。
 登場人物の感情の触れ幅が大きく、その発露一つ一つも強烈。感情が全て濃いのだ。その濃さにちょっと当てられた。特にヘンリックとカーリンの間の愛情は強く、それゆえお互いを傷つける。娘を手放したくない父と、父を愛しつつも違う路を歩もうとする娘。さらにその背後に、死んだヘンリックの妻の存在がある。また、ヨハンとヘンリックは強く憎みあっており、その憎しみをぶつけ合う。しかも、ヨハンはヘンリックの妻を好きだったらしい。愛にしろ憎しみにしろ、こんなにも強い感情を相手に対して抱けるものなのかと、何か不思議な気持ちにもなった。そして、こういった強烈な愛を扱った作品を85歳で撮るベルイマンは、実にタフだと思った。強い感情を扱うのって、なかなかしんどいことではないかと思うのだが。少なくとも私は見ているだけでげっそりしそうだ。興味深いとは思うのだが、耐えられなさそう。
 ストーリーというより、それぞれの感情のぶつけ合い、会話によって立ち上がっている映画だったと思う。登場人物が4人だけな分、よけいに濃密だった。会話が中心であるという点では、舞台演劇的なのかもしれない。特にヘンリックとカーリンのシーンは、カメラが2人を真横からとらえているせいか、舞台を見ているような印象を受けた。登場人物の感情の発露が強烈なのも、舞台演劇的か。
 登場人物のうち、女性2人は年齢の隔たりはあるものの、緩やかな絆を築き、自分なりの人生を辿ろうとしている。対して男性2人は、なかなか困った人達だ。ヨハンは頭が良く面白い人物ではあるのだろうが、傲慢で我侭なので、一緒に暮らすのは大変そう。皮肉屋で、息子に大しても元妻に対しても平気で傷つけるようなことを言う。一方、ヘンリックは優しい人ではあるのだろうが、娘に対して過剰な愛情を注ぎ、結果的に彼女の自由を奪っている。死んだ妻への思いが強すぎ、娘を妻の代わりにしているのだ。この父・息子は対照的な人物ではあるのだが、相手に対する配慮がちょっとずれている、相手ときちんと関係を築けていないという点では共通しているのだ。そんな父息子が、お互いに対する憎しみでがんじがらめになっているというのは皮肉だ。
 映画の題名は17〜18世紀にヨーロッパで普及した古典舞曲のこと。カーリンがバッハの「無伴奏チェロ組曲第5番」内のサラバンドを演奏するシーンがある。その他にも、バッハとブラームスの曲が効果的に使われていた。



『パプリカ』
 夢の中に現れ人の心を解明する少女パプリカ。その正体は、精神医療総合研究所の研究員・千葉敦子(林原めぐみ)だった。彼女は他人の夢に同調する為の器具DCミニを使い、内密に夢の中でセラピーを行っていたのだ。しかしある日、DCミニが盗まれ研究員の精神が侵入を受ける。敦子はDCミニを開発した天才研究者・時田浩作(古谷徹)と共に犯人探しに乗り出すが。
 今聡監督による、筒井康隆の同名小説の映画化。今監督と言えば、『パーフェクト・ブルー』『千年女優』等、現実と妄想の境界を追及する作品が印象的だったが、本作もその路線の延長線上にある。敦子が活躍する現実の世界と、パプリカが活躍する夢の世界はどんどん交じり合っていく。どこまでが夢でどこからが現実(覚醒した世界)なのか。こういう題材をアニメーションでやると、現実を描いても夢を描いても均質なものになる(絵は絵だからね)のが面白い。夢と現実の境界がより曖昧になるのだ。
 私は原作は読んでいないのだが、多分原作のストーリーよりも単純化されているのだろう。物語自体はさほど捻りはなく、意外に単純だった。あまり物語の整合性等は重視していない作品だと思う。正直、脚本(今敏と水上清資)はちょっと弱いと思った。前作『東京ゴッドファーザーズ』の脚本がすごく良かったので、期待しすぎてしまったという所もある。もっとも、今回はストーリーのためのアニメーションではなく、アニメーションの為のストーリーだという印象を受けた。色々と解釈するよりも、膨大なイメージに身を任せて眺めていた方が楽しいかもしれない。絵的には細部まで相当楽しめると思う。
 本作では、他人と夢を共有できたら素晴らしいだろうという人と、夢は冒すべき領域ではないという人が出てくる。しかし、どちらも自分が「これはよかろう」と思うことをやっているだけで、他の人がどう思っているかということには無頓着だ。要するに周囲の状況が見えていない人達なのだが、そういえば『千年女優』のヒロインも、自分の思いにだけ生きる、自己完結した人だった。しかし本作では、自己完結した世界から引っ張り出そうとする人が出てくる。それによって覚醒した世界に戻ってきたり、自分の世界が崩壊してしまったりするのだが、その違いが興味深い。また、『千年女優』のヒロインは自分大好き人間だったが、本作の敦子はさほど自分が好きではないっぽい。彼女は他人が心の声を聞く手伝いはするが、自分の内面には無頓着だ。自分の心に無頓着というところも、『千年女優』とは対照的だと思った。更に、本作では思いを伝えるべき人の顔がちゃんと見えている。現実と妄想という作品のテーマは似ているが、ベクトルは反対向きな感じだ。
 今までプロの声優をあまり起用しなかった今監督だが、本作ではヒロインに林原めぐみ、共演に古谷徹、大塚明夫、山寺宏一という王道な声優演技のできるキャストを起用している。今回は「アニメですよ」と強調したかったということか。ベテラン揃いなのでさすがに全く危なげがない。特に古谷徹は(キャラクターのルックス的に)よくオファー受けたなというような役なのだが、見事にはまっていて正直驚いた。うーんそうきたか・・・。しかしこの3人の声が一つのスクリーンから発せられているのを見ると、アニメファンとしては何か感慨深いものがありますな。

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