10月

『ワイルドスピードX3 TOKYO DRIFT』
 シリーズ3作目だが、ストーリー上の繋がりはない。これ1本だけ見るのでもOK。ただし、1作目を見ておくと、ちょっとだけ(本っ当にちょっとだけ)うれしいことがあるかも。ケーレースで何度も事故を起こし、母親に愛想をつかされカリフォルニアにもいられなくなった高校生ショーン(ルーカス・ブラック)は、幼い頃に分かれた軍人の父を頼り、1人日本へ。慣れない高校生活の中、同級生に連れられてきたのは地下駐車場でのカーレースだった。
 ストーリーは他愛もないもので、設定上の突っ込みどころもいっぱい。主人公が高校生に見えない!とか、国際免許取得済みなの?とか、軍人が何故下町のボロ家に?とか、ヤクザの組織構成が謎とか、そもそも日本に来る必要性があったのか?とか、考えていくときりがない。ストーリー展開上もかなり強引で、主人公とヒロインが惹かれあう理由がわからないし、ライバルの扱いもあんまりと言えばあんまりだ。全てをレースで解決!というのはお約束なのであえては突っ込まない。
 そして舞台が日本の洋画にありがちな、間違った日本文化理解の数々。特に給食の無駄な豪華さと「UWABAKI」には笑った。UWABAKIは、あー惜しい!って感じでしたが。都内の地理が目茶目茶な繋がり方をしているのもおかしい。新宿と銀座と渋谷がそんな繋がり方をするはずはないのだが。まあ、異文化理解なんてこんなもんでしょう。東京の雰囲気はわりと上手く掴んでいる方だと思う。
 欠点は多々ある映画なのだが、駄目な映画かというとそうではない。数々の欠点が、この映画に限っては全てプラスに働いている。何だこのミラクル。頭を使う必要が全くないのでストレスがかからないというのもあるが、映画を作っている側が何かすごく楽しそうなのね。まあ、ものすごく頭悪い映画ですが(笑)。何か憎めないし、ちゃんとスカっとするのがいい。時々ものすごく見たくなるタイプの映画だった。週刊少年マガジン(決してジャンプやサンデーではない)掲載の二番手三番手的ポジションのマンガを読んでいるような楽しさ、といえばいいだろうか・・・分かりにくい例えだな・・・。
 見所であろうカーレース自体は、期待したほどではなかった。ドリフトって、基本的に地味ですよね・・・。カット割りが細かいせいか、ちょっとせせこましい印象も受けた。ただ、渋谷のスクランブルや有楽町マリオン前を爆走というシチュエーションは、すごく楽しかった。さすがにロケは出来ないので、街並みのセットとCGとの合成だそうですが。



『マイアミ・バイス』
 ’80年代アメリカのTVドラマのリメイク。監督・脚本はドラマシリーズも手がけたというマイケル・マン。以前、ドラマの方をちらっと見たことがあるが、映画はもっとトーンが暗めで、ハードな印象を受けた。そもそもマイアミバイスなのに主な舞台はマイアミじゃないのね・・・。

 マイアミ警察特捜課の刑事として潜入捜査に携わる、クロケット(コリン・ファレス)とダブス(ジェイミー・フォックス)。ある日、密輸コネクションにFBIの極秘情報が漏洩し、潜入捜査員が殺された。FBIから要請を受け、クロケットとダブスは覆面捜査を開始。運び屋としてコネクションに接触する。
 わざわざ舞台を南米にする必要はあったのだろうか。話のスケールは大きくなったが、地理的に広がりすぎた為、ストーリーも間延びしてしまった気がする。風景は山も海も、空撮を駆使していてすごくきれいなんだけどねー。また刑事ドラマらしく迫力のある銃撃戦等はあるものの、全体的には印象が散漫だった。見終わった後、「で、どんな話だったけ?」という感じに。マイケル・マン監督作品としては薄味かも。もっと濃厚なものを期待していたのに・・・。ストーリーの展開も、ちょっと強引だったような。犯罪の構図がいまいちよくわからなかった。私が前半で半寝状態だったのが悪いのか(そうだよ)。特に後半の流れは強引だったと思う。潜入捜査にしては杜撰な気がするんだけど・・・。また、クロケットは組織の女幹部(コン・リー)と恋に落ちるのだが、これもちょっと唐突。マイケル・マン監督は男女の色っぽい話は苦手なのか、とってつけたような感が。変にサービスする(というかサービスにもなってなかった気が・・・)するより、ストイックに硬派に徹した方が、監督の持ち味が出せたように思う。コン・リー自体は「冷たい女」的でなかなかよかったですが。
 クロケットとダブスは性格が対照的という設定なのだが、この映画ではそれがあまりうまく出ていなかったと思う。クロケットは女に手が早く、ダブスは恋人を大事にしているという一面がちらりと見えるくらい。もうちょっと2人の間のやりとりが見たかった。意外に会話が少なくて物足りなかった。私はクロケット役のコリン・ファレルがあまり好きではないもので、クロケットにばかりスポットが当たるのもちょっと不満。もっとジェイミー・フォックス出してよ!



『カポーティ』
 トルーマン・カポーティの代表作である『冷血』。1959年11月15日、カンザス州の田舎町で起きた一家惨殺事件を題材にしたノンフィクション・ノベルだ。この『冷血』の為の取材、執筆をしていた次期のカポ−ティに焦点を当てた伝記映画が本作。カポーティ役はフィリップ・リーモア・ホフマン。本作でアカデミー主演男優賞を受賞した。監督はベネット・ミラー。カポーティの著者や本人のことを知らなくても一応わかる話にはなっているが、『冷血』や彼の伝記を読むと、より面白く見ることができると思う。
 カポーティは『冷血』以降、長編を完成させることはできなかったと言う。この作品を書く過程で、彼の中の何かが失われてしまったかのように。この映画はその「何か」に迫ろうとしていたのだろうが、残念ながら一歩及ばなかったように思う。意気込みは感じられるが、もうちょっと踏み込んでほしかった。作劇自体は意外に平凡だったと思う。淡々としているというより、メリハリに欠けていると言った方がいいかもしれない。見終わってから記憶に強く残っているシーンが特には思い出せないのだ。ただ、寒々とした、がらんとしたカンザス州の風景は印象深かった。空も地平もやたらと広く、がらんとしているのだ。
 ではこの映画が凡作かというと、そうではない。本作の非凡さは、殆ど主演のフィリップ・シーモア・ホフマンの演技によるものだ。ダイエットして体型を変え、カポーティの特徴ある声色と喋り方をマスターして、とルックスや立居振舞はカポーティ本人に相当似ているようだ。更に、カポーティの傲慢さ、ナイーブさ、俗っぽさがちらちらと見て取れる、熱演と感じられない熱演は見事。彼のような、ちょっとクセのあるタイプの役者が主役を張れる作品はそうそうないだろうから、役者としての将来をこの作品に賭けていたのだろう。その賭けには見事に勝利している。彼あってこその本作といってもいい。もし主演がシーモア・ホフマンでなかったら、この映画は随分退屈なものになっただろう。また、シーモア・ホフマン以外にも、カポーティの幼馴染で取材のアシスタントを勤めたハーパー・リー役のキャサリン・キーナーや、保安官役のクリス・クーパーも渋くてよかった。役者の上手さに支えられた映画だったと思う。
 カポーティは犯人の1人であるバリーと親しくなる。バリーはカポーティを信頼し、内面を彼に明かすようになる。しかしカポーティが彼との対話から生み出そうとしているものは、彼らを救うものではなく、言い方は悪いが彼らを食い物にするものである。結局は自分の名声の為だ。カポーティは「愛する者を利用し尽くせるか」という趣旨の質問に対して、NOと答える。しかし『冷血』の存在とそれに与えられた評価を知っている私たちは、その答えは嘘だと知っている。
 ではカポーティがバリーに対して友情も愛も持っていなかったかというと、そうではないのだろう。カポーティはバリーはもう1人の自分であると感じ、彼のために弁護士を雇う。一方で愛し、同時に食い物にするというのは矛盾した行為ではあるが、おそらく人間は誰しもそれが出来るのだ。ただ、そういう対象がいること、矛盾を抱え込むことにに、あまり長くは耐えられないのかもしれない。保安官がカポーティに「『冷血』というのは犯人のことか、それともお前のことか」と問うシーンがあった。カポーティがやったことは確かに冷血に見えるし、実際自分の作品の為なら相当人でなしなことも出来た人ではないかと思う。しかし、本当に冷血だったら、『冷血』以降書けなくなるということはなかったのではないか。



『トリスタンとイゾルデ』
 ケルトの伝説である、イングランドの騎士トリスタンとアイルランドの王女イゾルデの悲恋物語。ワーグナーのオペラになったのが有名だ。本作はその物語を映画化したもの。製作総指揮は『グラディエーター』の監督であるリドリー・スコット。彼はこの物語の映画化企画を長年暖めていたそうで、監督にケヴィン・レイノルズを指名。トリスタン役は「スパイダーマン」シリーズのジェームス・フランコ、イゾルデには「アンダーワールド」シリーズのソフィア・マイルズを起用。
 アイルランド軍との戦闘で重傷を負い、仮死状態で海に流されたトリスタンは、アイルランドの王女イゾルデに助けられる。イゾルデは身分を隠してトリスタンの看病をし、2人は恋に落ちる。しかし、イゾルデはトリスタンの主君であるコーンウォール領主マークとの政略結婚が決まっていた。
 最初は敵国同士であり、後には不倫の恋という、盛り上がりそうな要素てんこもりな悲恋物語だが、この映画はどうにもこうにも盛り上がらない。各エピソード毎のペース配分が均一で、ここぞという決めポイントが定まっていない印象を受けた。全てのポイントでそれなりに盛りあげようとしているのだが、同じ度合いでの盛り上がり方なので、却ってメリハリがなくなってしまったのではないか。はい次はい次〜、という感じに、どんどんエピソードを消化しているだけという印象を受けた。いっそ暑苦しいくらいに、お昼のメロドラよろしく盛りあげてくれればよかったのに。
 そして、主人公の2人があんまり賢くなさそうなので、悲恋の悲しみも半減だ。敵同士だった頃はともかく、後半イゾルデがマークと結婚してからは、2人が単にうかつな人たちにしか見えない。そんな会い方してたらバレるってー!不倫するならもうちょっと用心深くしてくださーい!2人のうかつさによって国を滅ぼされた(字幕で滅ぼされてないというフォローが入ったが、あれはほぼ壊滅しているような気が・・・)ようなものなので、マークが非常にかわいそうです。嫁にも部下にも裏切られるなんて・・。トリスタンよりいい奴だと思うのに・・・。イゾルデは男を見る目がないよ!煮え切らない若者よりもお茶目で実直な年上男の方がいいよ!
 主演の2人にいまいち魅力がないのも残念だった。ジェームス・フランコは「スパイダーマン」では陰湿な色気があっていい感じだったのに・・・。時代劇には向いていないのか。イゾルデ役のソフィア・マイルズは我侭な小娘にしか見えんかった。ミスキャストでは。



『フラガール』
 昭和40年、エネルギー源が石炭から石油に変化する時代の流れの中で、各地の炭鉱は閉山していった。福島県いわき市も同様だったが、リストラに悩む炭鉱会社は、地元の温泉を生かしたレジャー施設「ハワイアンセンター」の設立計画を進めていた。目玉であるフランダンスショーの為、地元の少女たちはダンサーを目指して特訓を開始する。フラダンスの教師は東京からやってきたダンサー・平山まどか(松雪泰子)。しかし鉱山で働いてきた地元民からの反発は強かった。
 とても楽しく、気持ちよく見ることのできる映画だった。しかし、この映画のどこが良かったのかと問われると、具体的にこう、という説明が何故かできない。見終わったあと、なんとなく幸せな気分は残るんだけど、強烈に残っているシーンがないのだ。そんなに強い個性のある作風ではないし、作劇もつたない所が多々ある。特に後半は、色々トラブルが起こりすぎな感もあった。トラブルが多発するにしても、もうちょっと提示の仕方に工夫があればなあと、勿体無くも思う。特にこれはまずいと思ったのは、炭鉱であった事故をダンサー達に告げる所。身内に犠牲者が出た人に対して、あんなに思わせぶりな間を作るなって話ですよ。コントじゃないんだから。
 粗があったにも関わらず全体としていい雰囲気になったのは、映画の中心にあるフラダンスという要素が魅力的だったからではないかと思う。最後、フラガール達が勢ぞろいして踊り、蒼井優がソロダンスを披露するのを見た時点で、これまでの難点は許す!という気分になるから不思議だ。フラダンスを使ったシーンは一様に上手く出来ていたと思う。冒頭、まどかが一人で踊るシーンが、後半で紀美子(蒼井優)により反復される。どちらも美しいシーンだった。少女たちの成長とまどかとの師弟関係の絆を象徴していて、きれいに纏まっていたと思う。また、東京へ戻ろうとするまどかを追って少女たちが駅に来るシーンは、パターンとしてはひどくありふれたもので、正直言って陳腐ぎりぎりのラインだったと思う。しかし、そこに言葉ではなくフラを持ってきたことで、陳腐にならずに踏みとどまっていた。ダンスという芸術の強みを改めて感じた映画でもあった。
 物語の骨組みは、素人が頑張ってものになるという『スイングガールズ』と同じようなものなのだが、お気楽に徹した『スイング〜』とは異なり、本作はシリアス。笑いは少なめ、涙たっぷりだ。『スイング〜』では、少女たちが頑張るのは自分たちの為なのだが、『フラガール』では自分の為だけではなく、家族の為、地元の将来の為でもある。経済問題というかなり差し迫った問題が背後にある点が、むしろ、イギリス映画が十八番とする、『ブラス!』『キンキーブーツ』『フル・モンティ』のような、「アイデア勝負で貧乏から一発逆転」映画に近いかもしれない。パターンから外れず、枠組みの中でのアレンジに徹したことが吉と出たと思う。この展には、製作者側がかなり気を付けていたように思う。いわゆるスター俳優が出ている映画ではないので、王道に撤することで、老若男女の幅広い客層をとりこもうとしたのではないか。
 で、いわゆるスターは出ていないものの、出演者が皆良かった。主演の松雪泰子は、正直映画のスクリーンで見るにはどうだろうと思っていたのだが、ここに来て大化けしたなという感が。フラダンスは相当特訓したようで危なげがなかった。気が強い女性を好演していたと思う。特に男湯での立ち回りにはしびれた。そしてフラガールのリーダーである蒼井優だが、彼女にはやはり才能を感じる。バレエをやっていただけあって、ダンスの筋もいいのではないか。福島弁でしゃべるのがこれまたかわいいのだ。女優が皆、生き生きとしていて魅力的だった。また、男優陣もなかなか良かった。豊川悦司は最近映画に出まくっているが、本作ではわりとざっくばらんとした印象の役柄で意外な印象を受けた。そして岸辺一徳はいつも通り飄々としていて味が有る。この人は、とりあえず出ていればOKな感じがしなくもないですが。  所で、紀美子の母親(富司純子)が、ストーブを貸してくれと鉱山の労働組合に頼み込むシーンの言葉には、この時代には現代よりも、働くことに対する希望が(女性に限らず)あったのではないかとふと思った。現代だと、あそこまで率直な言葉は出てきにくいのではないかと思う。



『トリノ、24時からの恋人たち』
 最初の30分間くらいがすごく眠かったんだが、眠さのピークを過ぎたあたりから、段々ドライブがかかってきた感じが。予告編を見た限りでは、シネフィル向けの薀蓄盛りだくさん映画なのかなーと思っていたら、全然そうじゃなかった。確かに過去の映画に対するオマージュは含まれているものの、もっとストレートかつ単純に映画が好きだという気持ちを呼び起こされる、愛すべき作品だった。映画はこうでないと、とか、これを知らないなんてモグリだとか、そういう押し付けがましさはない。スクリーンの前に座って約2時間夢を見る、それが映画だろう!と言わんばかりの心地よさだった。
 主人公は3人の男女。トリノの映画博物館(モーレ)で、住み込みの夜間警備の仕事をしているマルティーノ(ジョルジョ・パソッティ)。ファーストフード店で働くアマンダ(フランチェスカ・イナウディ)。車泥棒として夜に動くアマンダの恋人アンジェロ(ファビオ・トロイアーノ)。勤務先の店長とモメて騒ぎを起こしたアマンダがモーレに逃げ込んできたことで、彼らの日常は大きく変わり始める。
  男2人に女1人という三角関係だが、三角関係ではあってもドロドロとしたものはなく、むしろ友情に近い繋がりが心地よい。特に若干蚊帳の外的な感じのあるアンジェロが、存外に良いキャラクターだった。一見マッチョで女たらしなのだが、仲間からは慕われているらしい。カフェで仲間が次々とコーラスに参加してくるシーンや、マルティーノと「決着」をつけようとするシーンは、何と言うか男の子的でほのぼのとする。一方、サイレント映画が好きで、自分自身もサイレント映画のごとく無口なマルティーノも、いわゆる映画オタクという感じではない。彼が好むのはサイレントに限られているようだし、自分で撮影もしているものの、映画について自ら言及することは殆どない。いわゆるシネフィルとは程遠い、ひっそりと一人で映画を楽しんでいるという趣だ。そんな彼が始めて自分の映画を分かち合いたくなった相手がアマンダ。彼がやっていることは冷静に考えるとストーカー行為なのだが、この映画からは性愛に匂いがあまり感じられないので、ぎりぎりでファンタジーの枠にとどまっており、不快感はなかった。自分が写っている自主映画フィルム(しかも高校生レベルのポエム付き)を見せられたら、普通ひくよね(笑)。そこでひかずに「じゃあ3人で付き合っちゃえば?」となるところが映画の映画たる所。実際にはこんな三角関係は難しいだろうが、いいじゃない映画だから。その「映画だから」というポイントを監督がよく弁えており、愛しているのだと思う。
 トリノの町がまた魅力的に撮影されていて、主役はトリノだと言ってもいいくらいだ。その町へ行きたくなる映画というのが時々あるが、この映画も間違いなくその一つ。そして極めつけは何と言っても映画博物館(モーレ)。うわー、激しく行きたい!そして住みたい!



『涙そうそう』
 血の繋がらない兄妹間の愛情という、もうネタが出尽くした感のあるストーリーなので、全く新鮮味はない。物語の工夫も乏しく、特に後半の不幸のドミノ倒しには勘弁してくれ・・・と言いたくなる。別に不幸てんこもり映画が悪いというわけではないが、予告編を見て「こういう話だろうなぁ」と思ったものをそのまんま再現されると、少々うんざり。演出があまりにも月並みだったというのも、うんざりとした一因。病院のシーンなんて「さあ泣け今泣け」と言わんばかりで、もうちょっと何とかならなかったのかと思う。エンドロール後もダメ押しみたいで蛇足だった。そこまでやらなくてもわかるって・・・。
 この映画が何とか見られるものになっているのは、主演の2人の力によるものだと思う。特に兄役の妻夫木聡は、今まであまり上手い役者というイメージを持っていなかったのだが、今回は上手いと思った。冒頭、市場を品物を持ってバタバタ走っていくシーンで、私は彼のファンというわけではないのだが、ちょっと心つかまれるものがあった。パワーの出力加減の調節が上手いというか、その作品内で自分がどういうことを要求されているのかという見極めが的確な役者なのではないかという印象を受けた。すっかり美少女に成長した妹・カオル(長澤まさみ)と再会するシーンでの複雑そうな表情など、なかなか上手い。
 妹役の長澤まさみも好演していたと思う。特に前半の溌剌とした演技は魅力的。全国の男子の8割はこれにやられるんだろうなぁ。「にいにい」とか言われたいんだろうなぁ(そう思わせた時点でこの映画は半分成功していると思うが)。沖縄なまりのセリフも自然なもので、元々演技の筋のいい人なんじゃないかという印象を受けた。すごく生き生きとしていてよかったです。しかしなまじ演技が良いもので、この人主演作に恵まれないな・・・としみじみとしてしまうのも事実なのだった。事務所はもうちょっと何とかしてやればいいのに・・・。
 それはさておき、カオルの父親役が中村達也だったのにびっくり仰天しました。ええええー!何故こんなアットーホーム(笑)な映画に出てんの?!そんな人じゃなかったはずなのに(笑)!!そして何故トランペット吹き?!しかし彼を見られたのでこの映画にはかろうじて満足できました。



『ワールド・トレード・センター』
 2001年9月11日避難する人々の救出の為、倒壊する世界貿易センタービルに入り自らも瓦礫の下敷きになった2人の警官。この2人と救出に当たった関係者の証言を忠実に映画化した作品だそうだ。警官役はニコラス・ケイジとマイケル・ベーニャ。監督はオリバー・ストーン。
 状況が状況だけに、大変息苦しく緊迫感のある映画だった。人が無力に死んでいく映画というのは、どうにも気が滅入る。主人公の警官2人は救出の為にビルに入るものの、誰も救出できないまま生き埋めになってしまい、仲間が目の前で死ぬのを見るしか出来ない。実話に基づいているから2人が助かると分かってはいるものの、見ていてとてもストレスがかかった。
 あくまで被害にあった警官2人とその家族にのみにスポットを当てており、テロそのものというより、その中におかれた人達の家族愛や勇気を描いた作品だ。それはそれで見ごたえがあるが、あくまでこの事件の一面でしかない。少々食いたらなさも感じた。天災や事故ならともかく、事件が事件だけにその背景や犯人サイドを描いたものも見てみたいと思ったのだが(時期的にまだ無理かもしれないが)。また、ある側面のみを描くことで、大分内向きな映画になってしまったのではないかと思う。観客の感想や思考が、色々な方向へは派生していきにくい映画ではないかと。
 この映画のような描き方だと、9.11を題材にする意義がそれほど強烈には感じられないのだ。大きな災害に見舞われた人々の勇気ある行動、という切り口だったら、別に天災でも戦災でもいいわけだ。どんな被災地でも戦地でも、勇気をもって救出を行った人達はいただろう。本作は実話という強みはあるものの、ちょっと複雑な思いだった。
 また、ストーリーの中でも色々とひっかかる所があった。特にひっかかったのは、主人公2人を最初に発見する元・海兵隊員の行動だ。彼は経験なクリスチャンらしく、神がアメリカと人々を救う力を自分に与えたと信じ、単身被災地へ赴く。彼の行動は全くの善意からのものだが、この考え方にはかなり危うさを感じる。神が自国を守っている、というのは自国の行為を全て正当化することにならないか(テロリストたちも神に祈ってテロに臨んだんだろうしなぁ・・・)。傍から見ているとどうも危なっかしくて不安になる。
 また、主人公の妻が警察署や病院で、情報が錯綜していて夫の安否がわからずヒステリックになるのだが、周りにも家族の安否がわからない人がたくさんいるんだから、そんな自分だけがダメージを受けているような言動とらなくても、と思ってしまった。当事者はそれどころじゃないだろうというのは分かるのだが。特に病院でマクローリンの妻が、息子が貿易センタービルのエレベーターボーイをしていて行方不明だという黒人女性と話す件。息子が行方不明(というか、多分助かっていないであろう)人に対して「夫は今救出されている最中なの」と言うのはいかがなものかと。アメリカではそんなことないのかな。国民性の違いなのかしら。
 何にせよ、警察官とか消防士とかって損な職業だな・・・としみじみ噛み締める映画でもあった。警官の役目は基本的に治安維持であって、彼らは別に災害救出のプロではないわけだ。スーパーマンではないし、特別に勇敢というわけでもないだろう(一般人よりはちょっと勇敢かもしれないけど)。でも一度災害が起これば救出にかり出されるし、自分の命が危険にさらされるとわかっていても、それを拒否することは(多分)できない。終盤、レスキュー隊員が部下に「家族に愛していると伝えてくれ」と言うところではしみじみとしてしまった。いや、辛いっすよね・・・。



『薬指の標本』
 小川洋子の同タイトル小説が、なぜかフランスで映画化された。映画化された小川作品と言えば『博士の愛した数式』が大ヒットしたが、本作は原作も映画も『博士〜』とは大分趣きが異なる。こちらの方が小川洋子本来の持ち味だと思っていたので、『博士〜』を読んだときはびっくりしました私。
 清涼飲料水工場で働くイリス(オルガ・キュリレンコ)は、作業中に誤って薬指の先を切り落としてしまう。工場を辞めたイリスは「標本製作助手」の求人広告を目にし、依頼者が持ち込んだ品物を標本にし保存する、奇妙な施設で働くことになる。
 主要人物がごく少ないのだが、それぞれの視線が充満している映画だった。イリスの上司である標本技師(マルク・バルベ)は常にそっと彼女を見つめる。しかし彼女が彼を探す時、彼は見つからず、常に彼女の死角から姿を現す。彼との関係においてイリスは一方的に「見られる」対象として存在し、視線は双方向のものにはならない。2人が初めてセックスする時、イリスだけが裸にされ技師は着衣のまま、というのも2人の関係を象徴している。普通のラブストーリーであれば、イリスが技師に惹かれていく経緯が描かれそうなものだが、この映画はその部分を殆ど描かない。2人が今どのような関係にあるのかだけを提示しているように思えた。技師のイリスへの接し方は、恋人というよりも、一つのマテリアルに接するような態度に見える。欲望のあり方がフェティッシュなのだ。
 一方、もう一つの男女関係が、イリスとホテルで同室の男(生活時間帯が間逆なので、部屋で顔をあわせることはない)だ。この2人は直接接することはないものの、要所要所で視線をあわせる。また、男はイリスに対して、部屋をきちんと片付けたり花を飾ったりと、そこはかとない気遣いや思いやり(まあ下心とも言うが)を示している。スタンダードなラブストーリーだったら、この2人がカップルになることの方がありそうに思える。が、決定的なタイミングで彼のある姿をイリスが見てしまい、結局彼らが関係を築く機会は失われてしまう。ここでは視線が関係を壊してしまうのだ。
 イリスは技師に靴をプレゼントされ、それがきっかけで2人の仲が深まるのだが、靴というところがエロティックだ(しかもいつも履いていてくれとか言われる)。ヒロインが靴によって束縛され、視線を浴びる存在でいる、という点には一種マゾヒズム的なエロチシズムを感じた。濃密ではないが息苦しさがある。映画全編に水の気配、湿度が充満している(雨や海、マタイリスの肌はいつも汗でしっとりと濡れている)のも、息苦しさを強めていた。自分の意思がだんだん侵食されていき、ついに何かを手放してしまう(もしくは一歩踏み出してしまう)時の危うさと甘美さがひたひたと満ちてくる。
  監督はフランス人監督のディアーヌ・ベルトラン。原作をここまで深く理解し、再構築した映画(しかも原作小説は監督にしてみたら異国の話なのに)というのも珍しいと思う。主演のオルガ・キュレリンコはガーリーさと色っぽさが両立していて、とても魅力的。モデル出身で演技経験はない人だそうだが、この映画の雰囲気にははまっていた。また、音楽がなかなか良かった。サントラ買ってもいいなーと思った。



『イルマーレ』
 韓国映画『イルマーレ』をハリウッドでリメイクした作品が本作。舞台はシカゴだ。主演は『スピード』以来12年ぶりの共演となるサンドラ・ブロックとキアヌ・リーブス。監督はアレハンドロ・アグレスティ。
 湖畔にあるガラス張りの家から引っ越すことになったケイト(サンドラ・ブロック)は、ポストに次の住民に向けたメッセージを残す。一方、その家に引っ越してきたアレックス(キアヌ・リーブス)はケイトの手紙を読むが、家の状態と手紙の内容とは何故かちぐはぐ。手紙をやりとりするうちに、何とケイトは2006年、アレックスは2004年にいることが分かる。
 タイムトラベル系SFとして見ると、かなりのタイムパラドックスが発生してしまうので、えええっこれじゃまずいんじゃないの?!と思わなくもない。あと、あそこはどうしてそうなるの?と気になるところもあったが、それをいちいち突っ込むのは野暮というものだろう。あくまで大人のファンタジー的なラブストーリーとして楽しみたい。
 私は普段この手の映画はあまり見ないしそれほど好きではないのだが、本作には素直に何だかいいな〜と思えた。その大きな要因は、思い合う2人がなかなか出会うことが出来ないという所にあると思う。映画表現として2人が同じフレーム内にいるのだが、2人の間には2年の時間差がある。実際に一緒にいるシーンは実はすごく少ないという、異色のラブストーリーでもある。主人公2人が、いわゆる血気盛んな若者ではないというのもポイントの一つだと思う(設定年齢は不明だが、30代半ば〜後半くらいか)。2人のゆっくりテンポのお付き合い(というか文通ですが)は、若人には耐えられないのではないかしら...(笑)。特にケイトのキャラクター造形がなかなか良く、仕事はそこそこ上手くいっているし、家族との仲も悪くはないけど何か寂しい、物足りないという、迷えるお年頃な雰囲気がよかった。そういう時に必要なのは、必ずしもすぐ傍にいてくれる人とは限らないのではないかと。ここにはいない、しかしどこかに必ずいる人に自分が思われているということの、不思議な心強さがある。
 他にも、ケイトの元カレや同僚、アレックスに片思い中の同僚や、昔ひと悶着あったらしい父親等、脇役の造形も悪くなかったと思う。特にケイトの元カレとアレックスに片思い中の同僚のウザさ表現には、妙に力が入っていて笑った。このタイプの人に何か恨みでもあるんですか監督(笑)!でもいるんですよね、善人なのにウザい人。
 特にここがいい!というポイントはないものの、全体的にいい雰囲気の映画だった。最後の展開には、大丈夫だとわかっていても思わず手に汗握った。



『太陽』
 1945年8月、日本の戦況は逼迫していた。昭和天皇(イッセー尾形)は被災を免れた生物研究所と地下壕を行き来していた。やがて連合国占領軍総司令官ダグラス・マッカーサーとの会見の日が訪れる。
 アレクサンドル・ソクーロフ監督の新作。非常に静かで冷ややかなトーンの映画だ。内容が内容だけに、日本での公開は難しいのではとも言われていた作品だ。しかし、これは歴史劇というよりも、一つの寓話、神話劇であると思う。そういえばソクーロフ監督の作品は、どんな主題であってもどこか神話的な色合いが濃い。史実と異なる、日本に対する理解が浅い等の指摘は少々的外れだろう。
 当時の天皇は人間の身体を持ちながら人間ではない、神であるという扱いをされていた。天皇が側近(佐野史郎)に自分の体は皆と同じだと言っても(内心はともかく)まともに取り合われない。天皇と周囲との会話はなかなかかみ合わず、そもそも対等な会話はありえない。天皇は「あ、そう」という言葉を繰り返す。否定とも肯定ともつかない、意味がないような言葉だが、何を言っても彼の言葉は周囲に届かないと達観した故の言葉かもしれない。会話のちぐはぐぶり、従者のあたふたぶりはユーモラスでもあり、ソクローフ映画としては珍しく笑いの要素の多い作品だった。神とは滑稽なものなのか。いや、人間が神をやっているから滑稽なのか。
 客観的にはおかしい、ユーモラスな情景だが、天皇本人にとってはディスコミュニケーション状態、孤独な状態である。監督の関心は神の地位に置かれた人間の不自然さ、孤独にあったのだろうかとも思った。天皇が最もまともな会話を交わしたのがマッカーサーであるという皮肉。マッカーサーは「外」の人である。彼にとっては天皇は神ではないのだ。
 主演のイッセー尾形は、一つ間違うと醜悪にさえ見える、神経質な指先の動き、クセのある喋りで演じていたが、最初ぎこちなかったのがだんだんこなれていったという印象を受けた。映画の流れと同じ順番で各シーンの撮影をしたのかもしれないなと思った。「チョコレート、おしまい!」というセリフは、いかにもイッセー尾形的。また、佐野史郎の出演は意外だったのだが、あたふたぶりがなかなかいい味を出していた。
 終盤、天皇はようやく皇后と再会する。お互いに「あ、そう」という言葉を交し合うシーンは穏やかな、ごく普通の夫婦のような和やかなものだ。しかし最後、天皇にある事実が告げられる。彼が神をやめる為の代償だったのか。何ともいえない気分になる。



『16ブロック』
 NY市警の刑事ジャック(ブルース・ウィリス)は、16ブロック先の裁判所に裁判の証人エディ(モス・デフ)を護送する仕事をおおせつかった。2時間程度ですむ簡単な仕事のはずだったが、何もかにエディが襲撃される。彼は警察内部の不正を目撃していたのだ。警察全てを敵に回してしまったジャック。閉廷までの118分で法廷にたどり着けるのか。
 実に実に面白い!燃える!演出がタイトで無駄がなく、しかもわかりやすい。冒頭、ジャックが死体の「お守」をいいつけられ、他の警官が現場を離れた隙に、現場のアパート内を物色して酒瓶を持ち出しおもむろに飲み始める、という短いシークエンスだけで、彼が署内でどう見られているのかが分かる。また、徐々に彼がかつてはやり手であったこと、では何故酒に溺れるようになったのか等、背景が徐々に見えてくる。そして、この一件が彼にとってどういう意味を持っていたのかが明かされ、最後の感動を生む。見えてくるものを全て伏線としてきちんと使っている、コストパフォーマンスのいい筋立てなのだ(ちょっと無駄にしすぎなくて、ご都合主義と言えなくもないのだが、そこはまあお約束ということで)。ストーリーのテンポも良く、飽きさせない。監督は『リーサル・ウェポン』シリーズのリチャード・ドナー。流石に慣れていて手堅いという印象を受けた。年季の入った職人技という感がある。エンターテイメントのツボがばっちりわかっているなあと思った。
 タイトなサスペンスかと思っていたら、もろもろの伏線のせいで後半になって思いもよらない感動が。不覚にもちょっと涙ぐんでしまいましたよ!警官としての誇りを忘れくすぶっていたジャックが、事件に巻き込まれ、再出発しようとしているエディと関わるうちに、自分自身も変化していく。ダメオヤジがかつてのタフさを取り戻し、人生をやり直そうとする姿には、思わず胸が熱くなった。演じるブルース・ウィリスが、かつての全身武器男ぶりはどこへやら、お腹はぼてぼて(ベルトの上の腹のたまりっぷりを見よ)、目は虚ろな姿で奮闘していて泣かせる。最初小汚いのに、だんだんかっこよく見えてくるのだ。そしてエディ役のモス・デフの喋りがいい。モス・デフでないとこの味は出ないよな!2人の組み合わせの妙もあった。
 最後のワンシーンが実にいい。若い監督がこれやったら、ベタだけにちょっと安っぽくなってしまいそう。しかしそれを70歳越えたドナー監督にやられると、もう泣けてきます。何か勇気出てきた!久々にハリウッドの良心を見た感があります。



『マーダーボール』
 ウィルチェア(車椅子)ラグビー、通称マーダーボールに迫るドキュメンタリー。アメリカ代表とカナダ代表は、元アメリカ代表のジョー・ソアーズがカナダに渡って監督に就任したといういきさつもあり、宿敵同士だ。2002年世界選手権では僅差でカナダが勝利。2004年のアテネ・パラリンピックを目指して双方しのぎを削るのだった。
 障害者スポーツを取り上げたドキュメンタリーというと、障害を持つ選手たちの苦悩に焦点が当てられる硬派な作品では?という先入観を持ちがちだ。が、この映画は湿っぽさや「泣かせ」とは無縁だ。選手は皆いかつい強面おっさん兄さんばかりで、相当ワルっぽい。いわゆるスポーツマン的なさわやかさとは無縁そうだ。競技自体もかなり荒っぽいもので、試合中の事故のせいで体に金属ビスを入れている人も少なくないとか。
 もちろん選手らが苦悩しなかったわけはない。選手の一人が「空を飛ぶ夢を見ることがある。飛んでいると手足があるのを感じるんだ」と話すのだが、話す彼の表情が何とも言えない。また親友が運転していた車に乗っていて事故に遭い、重度の障害を負った選手は、その親友とは結局絶縁状態になってしまう。パラリンピックを機に交流が復活する様子にはちょっとほっとさせられた。
 ただ、こういったエピソードはあくまで枝葉であって、映画の中心にあるのはウィルチェアラグビーという競技の面白さと、それに賭ける人たちの情熱だ。ともかく見た目に迫力がある。撮影自体にも、「とにかくかっこよく撮ってやる」的な意欲を感じた。競技用の車椅子は特殊装甲で、ぶつけあって敵を妨害する。かなり荒っぽいがかっこいいのだ。これは男の子が好きそうだなぁという感じがする。選手も監督も、勝つことに貪欲で、相手をけなすことにも負けて悔しがることにも全く遠慮がない。暑苦しいし騒がしいが、見ていて燃えます。また、障害者である彼らがどういう生活をしているかという点でも興味深かった。たとえば着替えの方法なんて、身近にいないとわからないもんね。
 カナダ監督のジョー・ソアーズが特にキャラ立ちまくりなオヤジだ。試合中の興奮っぷり、悔しがりっぷりが尋常ではない。家族から「ラグビー中毒」と称されるくらいラグビー一筋で、自宅には自分が獲得した数々のトロフィーが飾ってある。傍にいたらなかなかうっとおしそうなオヤジなのだが、小学生の息子に対する感情は微妙らしい。彼は自分がスポーツマンなだけに息子にもスポーツをさせたいのだが、息子は成績優秀なものの、スポーツの素質はなくぽっちゃり体型。父親とは正反対の、大人しくてナイーブそうな子だ。どこの世界でも、父親は息子に自分と同じフィールドに立ってほしいものなのか。かみ合わなさそうな父子を複雑な思いで見ていたのだが、最後にフォローが入っていてちょっとほっとしました。




『百年恋歌』
 3つの時代の男女を描く、ホウ・シャオシェン監督の新作。全ての話で女はスー・チー、男はチャン・チェンが演じる。1966年、兵役を控えた若者が、ビリヤード場で働く女性に恋をする「愛の夢」。1911年、遊郭の芸妓と革命を志す若き文人の結ばれない愛を描く「自由の夢」。2005年、お互い別の恋人がいる女性ミュージシャンと写真家との出会いを描いた「青春の夢」。3話から成るオムニバスだ。
 最初の『愛の夢』が特に素晴らしい。男女は何となく惹かれあっているようであるが、まだ何も起こらない。男が引っ越した彼女を探して奔走し、最後にやっと恋が始まりそうな予感がするのだ。2人の関係の動きが控えめなことで、逆に将来を感じさせる、希望の持てる終わり方になっていて気分が良い。スー・チーもチャン・チェンも初々しく(スー・チーなんてもうベテランのはずなのに!)何ともかわいらしい。初夏の匂いがしそうな雰囲気だ。オールディーズの音楽も心地よく、何とも言えない幸福感と甘酸っぱさを味わうことが出来た。この話、ぼーっと眺めているだけでもいい。光線の具合がすごく魅力的だった。キラキラしている。
 2話目の『自由の夢』は、1話目とはうってかわって、夜のシーンが多くひっそりとした雰囲気だ。舞台も遊郭の中のみで、閉鎖的な濃密な空気が漂う。これはこれでなかなか切ない。1話目の男女はまさにこれからという可能性に満ちているが、2話目の男女は、すでにどうこうなってしまってもう先へ進みようがない、という雰囲気だ。男にはどうやら妻子がいるらしく、芸妓を身請けする気はない。女の最後の言葉には、自由への諦めと恨みが滲んでいて痛い。ホウ・シャオシェンは過去を舞台にした作品が得意らしく、レトロな舞台設定がはえていた。撮影の美しさは抜群。同じようなシーンの反復が多いのだが、そのたびに意味合いが違ってきているのも面白かった。ただ、台湾の歴史に詳しくないと、ちょっと意味の分からないオチではあると思う。
 1話目2話目で、ちょっと流れがかったるいけどまあ満足できるかなと思っていたのだが、3話目『青春の夢』はどうもいただけない。他の2編と比べると精彩を欠いている。主人公の男女に与えられた属性が、勘違いしたオシャレさんみたいな感じで、安っぽい。2人の関係も非常に漠然としていて、お互いに何かの欠落を埋めようとしているのだろうが、単に元々の恋人に対して思いやりのない人にしか見えなかった。安易な方向に走っちゃったなぁという感が。時制シャッフル構成でごまかしてもダメです!監督自身が現代の男女に対する違和感、不可解さを感じていて、それを消化しきれなかったのかなという印象を受けた。
 そういえば、どの話でも手紙(メール)がキーアイテムになっていた。手紙を読むときの女(男)の表情がいい。たまには手紙を書こうか、とも思わせるシーンでした。また、音楽もそれぞれの話を象徴していた。



『サンキュー・スモーキング』
 タバコ研究アカデミーPRマンのニック・ネイラー(アーロン・エッカート)は、凄腕だが健康志向の昨今、世間からの評判は散々だ。巧みな論理すり替えテクニックに減らず口で、「情報操作の王」とも呼ばれている。バッシングを交わし訴訟を防ぎハリウッドにも乗り込みと大活躍のニックだったが、人生最大のピンチが訪れる。原作はクリストファー・バックリーの『ニコチン・ウォーズ』。
 これは面白かった!監督のジェイソン・ライトマンはまだ新人監督だが、新人らしからぬキレの良さ。実は彼の父親は、『ゴーストバスターズ』『デーヴ』等を手がけた映画監督アイヴァン・ライト。血筋と環境はばっちりだったわけだ。マハリウッド・エージェントの描写は、意外に経験に基づいていたりするのか?(エージェント会社の内装のインチキジャポニズムが確信犯的に突き抜けていている。社内にニシキゴイ飼ってたりミニ石庭があったりするんだよ!振袖を羽織っているスーパーエージェントの姿には、客が失笑していた)。タイトルロールも洒落ていて、全体的にセンスのよさを感じた。特に会話の切れ味が良い。ニックと「モッズ特捜隊」(死の商人「Merchant of Death」の頭文字をとってM.O.D特捜隊というわけ)を結成しているアルコール業界の広報担当ポリー(マリア・ベロ)、銃製造業界の広報担当ボビー・ジェイ(デヴィッド・コークナー)の、一般的な倫理とはちょっとずれたブラックな会話と「不幸(?)自慢」は笑える。
 ニックは口先一つで世間の荒波を乗り切っていくわけだが、彼自身には内面が全くないタイプだ。非常にうすっぺらい、が、うすっぺらい故に面白く、憎めない。彼はタバコ会社勤務なのでタバコを擁護しているが、もし禁煙団体に雇われたら難なく禁煙PR活動をこなし、タバコの害を訴えるだろう。彼自身には主義主張はなく、彼を雇った人たちに有益な主義主張をひねり出すというだけなのだ。そういう意味では正真正銘、プロのPRマン。美人記者にあっさりたらしこまれ、内部情報をだだ漏れにし自滅するあたりには本当にこいつ切れ者なのか?と思うが、そこがまた憎めないんでしょうね。あと最後の証人喚問での彼の答弁は、ちょっとありきたりで精彩にかけたと思う。
 そんな男が唯一真面目に向き合おうとするのが息子だ。世間に嫌われ軽蔑されても平気だけど、息子には愛されたい、尊敬されたいというのがいじましい。というか彼のいじましさ、誠実さはここにしかない。息子には「自分で考えるのが大事なんだ」と柄にもなく正論を唱えたりもする。もっとも、これも対息子向けのPR作戦なんだとは思うけど。
 ニックは世間の憎まれ役、悪者のはずなのに、いつの間にか彼が表現の自由を訴え、それに思わず心動かされる。禁煙運動という社会的には正しいはずの行為をしている議員の方が(やり方が強引なだけに)悪者に見えてくるのだ。シニカルで愉快だけれど、ちょっと怖い。結局誰かの流した情報やレトリックに踊らされているだけなのかと。
 所でこの映画、ヘビースモーカーであるという設定のニックは、映画内で全く喫煙していない。実は演じるアーロン・エッカートは敬虔なモルモン教徒で、酒もタバコも一切やらないとか。よくオファー受けたな(笑)!しかし見事に演じていました。その意味でも人をくった映画ではある。



『<Sad Movie>サッド・ムービー』
 消防士、手話キャスターと耳が不自由なその妹、似顔絵描きの青年、スーパーでパート勤務をしている女性、「別れ代行屋」の元ボクサー、多忙な女性会社員とその息子。8人の男女が迎える、ある別れの物語。韓国エンターテイメントお得意のベタな感動物語だが、「別れ」がテーマとなった群像劇という点がやや異色か。
 それぞれのエピソードはオーソドックスなものなので、予告編を見た人の予想は多分裏切らないだろう。ただ、予告編では「大感動!」のようなことを言っているが、その点は拍子抜けで、どこが「Sad」だよ!と文句の一つも言いたくなった。確かに哀しいシチュエーション目白押しなのだが、各エピソードが悔い足らず、終盤で感動に至るほどのテンションを保てていないのだ。群像劇なのが裏目に出たと言っていいだろう。2時間弱を8人で分け合っているものだから、1人あたりのエピソードが薄くなる。感動に至るまでの材料不足だったかなと。それぞれのエピソードが複雑に絡み合っているというわけでもないので、群像劇にする必要もあまり感じなかった。使い古したネタを目新しくリフォームしようとして失敗したような感じ。
 所で、映画では現実的にはこんなのあるはずない、というシチュエーションも、映画が盛り上がる為ならありえるものだ。ただ、その「ありえない」加減が突き抜けていれば却って気にならないのだが、微妙な「ちょっと苦しいかなー」くらいだと妙に気になる。この映画では、映画の演出上盛り上がると思ってそうしたのだろうが、(普通の日常の話なだけに)ちょっと変だなと思った所が何箇所かあった。耳の不自由な少女と、少女の姉の恋人である消防士が手話でやりとりするシーンなのだが、消防士は手話がよくわからないので、とんちんかんな受け答えをする。少女は「鈍い奴!」と怒るのだが、だったらちゃっちゃと筆談すればいいのにー。他愛のない話ならともかく、結構大事な話も出てるのに。消防士に怒るのは筋違いってものだろう。また、その消防士が恋人へのプロポーズ用の指輪をむきだしで持っている(そして案の定なくす)というのも何だか変。指輪を投げ上げるシーンを入れたかったんだろうけど、大事なものをそんな扱いしないのではないかと。
 特にそれはどうかなぁと思ったのは、消防士が恋人に残したあるもの。ああいうことされたら、残された方はたまったもんじゃないと思う。忘れようにも忘れられないだろうが!後味悪いだろうが!本当に愛しているのなら、残された相手が速やかに自分のことを忘れられるように配慮するべきなんじゃないかと思うんだけど・・・。私だけですか。

 

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