9月

『ユナイテッド93』
 2001年9月11日に起きた、アメリカのワールド・トレード・センターにハイジャックされた3機の飛行機が突っ込み爆発した。そしてハイジャックされたものの、ワールド・トレード・センターまでたどり着かなかった1機があった。その飛行機・ユナイテッド93便が離陸してから墜落するまでを、関係者の証言を元に映画化したのが本作だ。監督は『ボーン・スプレマシー』のポール・グリーングラス。
 私たち観客はこの事件の顛末を知っている、どんなに乗客が頑張ってもこの飛行機は墜落し、誰も助からないと予めわかっている。こういう素材を映画化する場合、バッドエンドを前提としていかにエンターテイメント作品でありつつ、犠牲者と遺族に対する敬意を失わずに映画として成立させるかという点が大きなポイントになってくる。本作の場合、これがちゃんと成功している。
 制作側は、当時の管制官や航空会社職員、被害者遺族等に入念に取材したそうだ。特に管制官らは当事者本人が本人役で出演までしている。機内で何が起きているかわからず、関係者が右往左往する過程の臨場感が生々しかった。また、機内の様子にしても「こういうケースだったらこうなるだろうな」という強い説得力を感じた。もっとも、時々典型的なサスペンス映画のような画面が混じりはするのだが、その兼ね合いも興味深く見ることが出来た。実際には、乗客はこの映画のように毅然と立ち向かったかどうかというのはわからない。あくまでフィクションではあるのだが、フィクションとしての面白さと、実在の人達への目配りが、ぎりぎりの所で兼ね合いをつけているように思った。実在の人々に対する誠意という点では、エンドロールにそれを強く感じた。乗客と搭乗員1人1人の名前が全て実名で記載してあるのだ。映画本編では乗客の名前は殆ど出ないので、実際にはエンドロールで名前が出ても誰が誰だかわからないのだが(つまりエンドロールでは「キャップを被っている男」という風に書いてもよかったわけだが)、それでもきちんと表示したことで、その人達にそれぞれの人生があった、名前のある一個人であったということが浮かび上がる。
 また、テロリストの青年が搭乗する前、誰かに「愛している」と電話するシーンを挿入することで、彼らもまた名前のある一個人であったことに気付かされる。テロリストを悪者にしてしまえば、映画としては簡単で分かりやすく、盛り上がるだろう。しかしそれは、あの事件の本質とは異なるのだ。映画はテロリストたちの祈りで始まり祈りで終わる。それがやりきれない。



『スーパーマン・リターンズ』
 コミックや映画を見たことはなくとも、誰もが「あーあの全身タイツ」程度には知っているスーパーマン。過去に何度も映画化されているが、本作は1978年公開のクリストファー・リーブ主演、リチャード・ドナー監督作品であった『スーパーマン』及び『スーパーマンU冒険編』の流れに連なる作品らしい。シリーズ新作としては実に18年ぶりとなる。
 故郷を探す宇宙の旅から、5年ぶりに地球に帰ってきたスーパーマン(ブランドン・ラウス)。仮の姿である新聞記者として会社に復帰するが、思いを寄せていたロイス(ケイト・ボズワース)には子供と新しい恋人がおり、刑務所に入るはずだった宿敵レックス・ルーサー(ケビン・スペイシー)はまんまと自由と富を手にしていた。
 大いなる存在である「父」により、人類を救い導く為に遣わされた「息子」という、完全にキリスト教の思想を下敷きにした作品だったのだなぁと、今更ながら再認識した。そういえば、今作のスーパーマンは今までよりも受難を受けているらしい。敵から直接的にボコられるスーパーマンを目にするとは思わなかった。ボコられ方がまた生々しく、痛々しい。最近のアメコミヒーローの中では、スーパーマンはかなり完全無欠なタイプだと思うのだが、そのスーパーマンでさえも単純に強い存在ではいられないのか。ロイスは「スーパーマンは必要か」とかいう記事でピュリッツァー賞(笑)受賞しているし、ヒーローにとっては踏んだり蹴ったりだ。圧倒的に強い存在というのが、お話の中とはいっても成立しにくい時代になったのだなとしみじみ実感。
 そして印象的だったのは、スーパーマンを助けるのが人間達だということだ。特に、ロイスの恋人であるチャールズが、恋敵とわかっていてもスーパーマンを助けるため、必死で自家用機を飛ばして脱出しようとするシーンは、正直スーパーマンの活躍シーンよりも手に汗握って応援したくなってしまった。主人公の恋敵だからといって憎たらしい造形にはしない所に、ブライアン・シンガー監督の心意気を感じた。
 スーパーマンのルックス(衣装)とか能力とかというのは、今となってはコントみたいな設定(実際、ルーサーに「あのタイツ男!」と言われる)なのだが、うっかり笑いの方向に意識がいかないように、入念に気を配って作られていたように思う。逆に言えば、このレベルまでアクションシーンの完成度が高ければ、全身タイツなヒーローでもギャグにはならないということだ。本作の前半最大の見せ場飛行機救出シーンは、そのくらい気合が入っていてすごく出来がいい。スーパーマンの動きだけではなく、ああいった状況だと機内はどういう状況になるかという所の描写が面白い。重力の働き方にすごく迫力があった。
 主演のブランドン・ラウスは新人だそうだが、ちょっとレトロな正統派2枚目という印象だ。清潔感があって品が良い所が、スーパーマンに向いていたのか。また、ルーサー役のケビン・スペイシーが今回実に楽しそうだった。明らかに生き生きしている。ケビンとその仲間たちがあまりに楽しげなので、スーパーマンよりもむしろこっちの仲間に入りたくなるくらいだ。冷酷な悪人だが、どこかコミカルという、いいキャラクターになっていたと思う。
 所で本作で一番気になったのは、南極にあるというスーパーマンの実のパパが作った(らしい)学習システムの性能。人違いで起動しちゃったって、えーっ!あんまりですよパパ。それ本当に超高度な文明の産物なの?!



『深海 Blue Cha-Cha』
 刑務所から出所してきた若い女性アユー(ターシー・スー)は、姉と慕うアン(ルー・イーチン)の店でホステスとして働く。アユーに目をつけた店の常連客チャン(レオン・ダイ)に、月給より高いお金を払うからと外に連れ出されるが、惚れっぽいアユーはチャンにのめりこみ、とうとう怒らせてしまう。店で働けなくなったアユーはアンの口利きで、機械工場で働くことに。そこでであった青年シャオハオ(リー・ウェイ)はアユーに好意を持ち、2人は付き合い始めるが。
 アユーは言うなれば困ったちゃんな女性。ちょっと優しくされた相手にはすぐ夢中になって、いつもトラブルを呼ぶ。この人、と思い込むと相手の思惑に気づきもせずに邁進してしまう。相手が電話に出ないとパニックを起こして泣いて暴れる。遊びのつもりで声をかけたチャンもアユーの電話攻撃にどん引きして、最後にはアユーを紹介したアンに対してマジ切れする。一方、優しいシャオハオはアユーのことを理解しようとし、彼女に合わせた生活をしてくれるが、常に「愛してる?」と聞いてくるアユーに対して、段々息苦しさを感じてくる。当然、2人の関係もぎくしゃくし始める。
 いくら好きな相手でも、全部をゆだねられてべったりくっつかれていたら、たいていの人はうんざりするだろう。アユーの愛情面は未熟というか、相手に対する依存度がやたらと高い。また、一つのことに夢中になると、他のことや他の人たちに対する思いやりが出来なくなってしまう(結局アンのことも激怒させてしまう)。彼女は精神バランスがあまりとれておらず、自分でもその自覚がある。「頭の中のスイッチが入ると自分では切れなくなる」と言うのだ。その為、精神科医からもらった薬が手放せない。正直言って、私にとっては見ているとイライラするタイプの女性だし、こんな女性が身近にいたら嫌だろうなぁとも思う。しかし、映画を見ていてあまり嫌な気持ちにはならなかった。
 多分、アユーの難儀な人振りを見ていても嫌にならなかったのは、彼女に愛想をつかしつつも、最後まで見捨てないアンの存在があるからだろう。彼女はアユーに対して辛らつであるが、同時に姉や母親のような愛情を注ぐ。そして彼女自身も痛い目にあいつつもへこたれない、逞しい女性だ。彼女の存在がなかったら、この映画は随分と救いのない、陰鬱なものになっただろう。アユーには恋愛よりもまず先に、母親的なおおらかな愛情を注がれて成長することが必要なのかもしれない。
 本作は台湾映画。使用されている言語は中国語なのだが、映画の雰囲気自体は光の感じとか、空気の湿度感等が、むしろ日本映画に近いような気がする。ちなみにシャオハオの部屋に大友克弘監督『ロケットボーイ』のポスターが貼ってあったのにも妙な親近感を覚えた。



『狩人と犬、最後の旅』
 ロッキー山脈に暮らす実在の狩人、ノーマン・ウィンターが本人役で主演した、1人の狩人と犬たちの晩夏から冬にかけての生活。現在では数少なくなった狩人・ノーマンは、森林伐採が進み動物たちが減っていく中、狩人を辞めて山を降りようかと迷っていた。更に愛犬を亡くして落ち込んでいた彼に、友人が若い雌犬を押し付けた。しぶしぶ犬を連れて帰ったノーマンだが、アパッシュと名づけられた犬は他の犬たちとなかなか馴染まない。
 監督のニコラ・ヴァニエは犬ぞりでシベリア横断8000km.を達成した、フランスの冒険家だ。その為か、犬ぞりシーンには拘りがあるようで、確かに見ごたえがあり緊迫感に満ちている。犬に対する愛情が見え隠れするし、犬の方もその期待に十分こたえているのでは。また、ロッキー山脈の風景がとにかく素晴らしい。吹雪等、大自然の厳しさも垣間見えるものの、全般的に自然の美しさを見せることに終始していた。これがちょっと物足りなくもある。
 確かに景色は雄大で圧倒されるし、その中に登場する野生動物たちも、よくこの瞬間を捉えたなと感心するような表情を見せている。しかし、それはロッキー山脈自体の魅力と、撮影技術の高さによるもので、これだったら「世界遺産」見てるのと同じじゃないかと思わなくもなかった。映画としての面白さとは、またちょっと違うような気がする。そもそも、狩人が本人役で出演しているのだから、ストレートにドキュメンタリーとして作ってもよかったんじゃないかと。一応ストーリーはあるものの、語り口は素朴というか単調というか。アパッシュの成長にやたらとスポットを当てるのも、ちょっとわざとらしいかなぁと思った。
 ただ、フィクションとして彼の生活を再構築した為に、とっつきやすくはなったと思う。狩猟だけでなく、家作りや町への買出し、犬ぞりでの移動等、盛りだくさんで楽しめるという利点はあった。ロマンチシズム先行な所が気にならなくはないが、エンターテイメントとしてはこれで正解だったか。何にせよ、山に行きたくなる映画ではある。
 ところであの犬達は演技できる犬なのだろうか、それとも実際にノーマンの飼い犬なのだろうか。そり犬達はともかく、ノーマンの最初のパートナーであるハスキー犬は、自分が演技していることを理解して動いているとしか思えない。それくらいいい動きをしていた。



『シャガール ロシアとロバとその他のものへ』
 20世紀を代表する画家であるシャガール。彼の作品と人生を、彼自身と彼と親交のあった芸術家達の映像とで追うドキュメンタリー作品。シャガールの肉声が聞ける貴重な1本だ。特に劇的な演出はしておらず、時系列にそって淡々と解説している地味な作品なのだが、動いているシャガールの映像を見るのは初めてだったので、興味深く見た。
 シャガールというと、色彩鮮やかな、カップルや動物が宙を舞うファンタジックな作風のイメージがあるが、実際は自分の体験に基づいた絵画を描いていた。1887年にロシアで生まれたユダヤ人であるシャガールは、民族的には受難の時代を体験したわけだが、それが初期から中期の作品には色濃く表れている。また、最初の妻であるベラへの率直な愛情も。一貫して、自分にとっての現実を描こうとしていた人だったように思う。また、彼の絵画は浮遊感が強いという印象があったので、動きを重視していたというのは正直意外だった。
 シャガールは自分のことを喋るのは苦手だったらしいが、他の作家については意外に饒舌で、率直な賛辞も惜しまなかった。映画の中にはブラック、ドローネー、デュシャン、ピカソら同時代の芸術家の姿も見られるが、皆にこやかで楽しげだ(ただし、ピカソとはウマが合わなかったそうで、高く評価していたものの対面することは避けていたという)。シャガールは穏やかな性格の人だったらしく、周囲からも好かれていたらしい。彼の初期の作品はキュビズムぽく見えるのだが、実際はキュビズムに対してあまり好意的ではなかったそうだ。ブラックのキュビズム時代の作品は「正直わからない」的コメントをしているのだが、抽象画に対しては褒めているのが印象に残った。



『アガサ・クリスティーの奥様は名探偵』
 フランスの田舎でのんびり暮らすベリゼール(アンドレ・デュソリエ)とプリュダンス(カトリーヌ・フロ)夫妻。2人は以前は諜報機関に勤めていたが、プリュダンスは既に退職している。2人でベリゼールの叔母を老人ホームへ訪ねた折、プリュダンスは不思議な老女と出会う。「あれはあなたのお子さんでしたの?」と意味不明な問いかけをするその老女は、しばらくして老人ホームから姿を消す。そして2人の元には、叔母がその老女・ローズから譲り受けたという、古い屋敷を描いた風景画が残された。その風景に見覚えがあるプリュダンスは、それがどこなのか、そしてローズはどこへ行ったのか探り出そうとする。
 原作はアガサ・クリスティの『親指のうずき』。おしどり探偵トミー&タペンスシリーズのうちの1作だが、この映画は何故かフランス映画。主人公の名前もフランス風に変えられている。もちろん会話はフランス語。しかし、意外にも原作の雰囲気を再現している。監督はパスカル・トマ。新作が日本で公開されるのは、ものすごく久しぶりなのではないだろうか。
 不思議な老女との出会い、絵の中の家、小さな村で起きた過去の少女連続失踪事件、そして襲われるプリュダンスと、大変盛りだくさん。次から次へと事件が起こって、なんとも目まぐるしい。ミステリといっても、探偵役のプリュダンスが推理して事件を解決するわけではなく、直感にしたがって動き回るうちに偶然が偶然を呼んで、勝手に真相が明らかになるという側面の方が強い。いわゆる推理サスペンスものを期待して見ると、肩透かしをくらうかもしれない。更に、ストーリーはかなりご都合主義というか、強引かつ唐突な展開が多い。しかし驚くことに、原作にほぼ忠実なのだ。原作読んでいる間はあまり気にならなかったのだが、アガサ・クリスティは筆力あったんだなぁ(笑)。
 だからといってこの映画がつまらないかというと、まったくそうではない。なかなか愛すべき作品だったと思う。ご都合主義的な展開はご愛嬌なのだが、登場するキャラクターがお茶目でかわいい。プリュダンスの猪突猛進振りや、それを見ておろおろするベリゼールの姿は笑いを誘う。出てくる人たちが皆、原作よりもクセのあるキャラクターになっていてコミカル。フランスの田舎の風景も美しい。
 色々とジョークも挟んでいる作品なのだが、そのユーモアセンスがちょっと妙だなとも思った。ベリゼールが出席した国防関係の会議のとんちんかんさや、船上での医者と看護士の妙ないちゃつきかたには、何ともすっとぼけた味わいがある。これは監督独自のセンスなのだろうか、それともフランス人的なセンスなのだろうか。ミステリというよりコメディとしてみた方がいいのかも。
 プリュダンスの娘夫婦と孫に対するスタンスが、日本とは全く違う点が興味深かったのだが、これはお国柄の違いによるところが大きいのかもしれない。また、ベリゼールとプリュダンスの間に未だ色っぽい雰囲気があるのも、お国柄なのかなと。



『楽日』
 台湾を中心に活動しているツァイ・ミンリャン監督の新作。どしゃぶりの雨の中にたたずむ、古い映画館。上映されているのはキン・フーの『血闘竜門の宿』だ。しかし広い場内に客は数人しかいない。相手を探してさまようゲイの青年、幼い孫を連れた老人、やたらと音を立てて飲み食いする中年カップル。そして脚の悪いもぎりの女性。
 特にストーリーらしいストーリーがあるわけではなく、ただ場内の人たちの様子が淡々と映し出される。この映画館に来ているのは、皆孤独な人たちだ。孤独な人たちが一時を共有する場としての映画館は、寂れていてもどこか優しい。私はうら寂れた映画館が結構好きなもので、映画の中の映画館を眺めているだけでも嬉しくなってきた。
 映画館自体がこの映画の真の主役であると言ってもいいと思う。もぎりの女性が館内を歩き回る様子や、廊下の暗がりの中に潜む客、そして延々と続く空の客席のロングショット等、映画館にいる人々だけでなく、映画館と言う空間自体の存在を強く意識させる部分が多々あった。また、映画を見ている私たちが、映画の中の映画館の客席にいるかのような感覚に陥る角度ショットがしばしばあったのだが、これは明らかに意図されたものだろう。映画館の大きな特徴は、不特定多数の他人と一緒に映画体験をするという点だが、この映画では他の観客と映画体験を分かち合うだけでなく、映画の中の観客とも何かを分かち合うかのように思える。
 シネコンではない、昔ながらの映画館に対する監督の愛と惜別の思いに満ち溢れた作品だった。この惜別の念は、映画館内のある2人の客に対しても強く感じるものだった。過去の映画、子供の頃に見た自分の映画体験の原点となっている映画に対する敬意を表した作品でもあると思う。
 淡々とした、うっかりすると眠り込んでしまいそうな作品だが、飄々としたユーモアも感じる。男子トイレでの同性愛を匂わせつつ気まずさたっぷりな長回しや、映画館をさまよう幽霊の噂を聞かされた青年が、自分の背後にいきなり現れた(実は脱げた靴をさがしてかがんでいただけなのだが)若い女性を幽霊と勘違いして逃げ出してしまう件など、妙なユーモラスさがあった。
 もぎりの女性と映写士がすれ違い続けるのが印象に残る。饅頭の使い方が上手い。どしゃぶりの雨も、このほのかな切なさをかきたてていた。




『弓』
 海の上に浮かぶ船の上で暮らす老人(チョン・ソンハン)と少女(ハン・ヨルム)。幼い頃老人に連れてこられた少女は、17歳になったら老人と結婚するのだと言う。 釣り客の案内や占いをして静かに暮らしていた2人の前に、1人の青年が現れる。少女は青年と淡い恋に落ち、老人との関係は揺らぎ始める。
 韓国の鬼才、キム・ギドク監督の新作。私はこの監督の映画は『サマリア』『うつせみ』しか見ていないのだが、作風はどんどんファンタジックな、神話的な方向へ進んでいるように思う。今作も、いわゆる現代劇、リアルな物語というよりも、一種の寓話として見た方がいいだろう。そういう見方をしないと、老人と少女の関係が生臭くて直視できないという所もある。爺さんそれ犯罪ですから!と突っ込んではいかんのだ。
 メインとなる登場人物は老人、少女、青年の3人だけ。映画の中の情報量がかなり押さえられていて、少女と老人のバックグラウンドや舞台となる場所等、具体的な情報は出てこない。かなり抽象度が高いのだ。加えて少女にはセリフが一切なく、老人も殆ど喋らない。このことが、2人がこの世の人ではない、別世界の人である雰囲気を強めていたと思う。
 もっとも、別世界の人のようではあるが、老人と少女の関係はかなり生々しい側面も孕む。老人は少女に他人が近づくことを許さず、少女と青年が親しげにすると嫉妬心を剥き出しにする。老人は少女を大切にしているが、自分の妻にする為だ。一方、少女は老人を愛し、信頼しているが、時に老人の嫉妬を煽るような行動をとったり、青年に対しては積極的にアプローチをしたりする。特に青年が現れてからの2人の関係の緊迫感は、他の部分が神話的に美しい分、妙に生々しく醜悪ですらある。キム・ギドク監督の作品では、しばしば神話的な美しさと、現世的な醜悪さが並列になっているように思う。その対比が面白い。
 老人は少女の保護者であり、夫である。最後、少女を解放したかのようにも見えるが、少女の子供となって再生しようとしているようにも解釈でき、爺の執念恐るべし、と唸った。ただ、少女の方も老人の魂胆が全部分かっている風なのが少々怖かった。結局は少女が上手いことやって老人を厄介払いした、と考えられなくもない。が、そんな解釈するべきではないんでしょうね。
 映像はシンプルだが、色のセンスが良く、美しい。海の青と、少女の服の赤のコントラストが際立っていた。映画の構造としては前作『うつせみ』の方が完成度が高いと思うのだが、ビジュアル的には本作の方が魅力がある。あと、ヘグム(韓国二胡)による音楽がとてもよかった。少女役のハン・ヨルムは『サマリア』にも出演していたのだが、一種の強烈な魅力がある。清純でありながら男性がわらわらたかってくるような、何か非常にやばい雰囲気があります。身近にいたら絶対嫌です(笑)。



『出口のない海』
 『半落ち』で日本中を涙させた原作・横山秀夫&監督・佐々部清のタッグ再び。主演は歌舞伎俳優の市川海老蔵。映画としてはデビュー作となる。太平洋戦争中、兵士が乗り込み直敵艦へ突っ込むという兵器「回天」に搭乗する任務についた青年兵士達の青春を描く。
 ネタがネタだけに、やはり辛気臭い映画ではある。ただ、『半落ち』ほどあからさまに泣かせようという演出は、思ったほどはなかった。むしろ淡々とした、地味な印象だ。淡々としているというより、原作のダイジェストじゃないのか(原作読んでないので印象のみですが)?という感も無きにしも非ず。ちょっと起伏には欠けているかもしれない。また、ラストの現代のシーンは、蛇足だったと思う。当時の出来事を現代に繋げていきたいという意図はわかるが、あまり上手く機能していたとは思えなかった。
 映画としては、まあ普通の出来ではないかと思うが、セリフが薄っぺらい所が気になった。あまり胸に響いてくるような言葉がない。主人公たちが海軍に志願した理由も、何故死ぬとわかって回天に乗ったのかも、いまひとつ曖昧なままだ。もうちょっとそれぞれの登場人物の言葉が練れていればなぁと。
 もっとも、具体的にこうだという理由はなかったというのが実際のところかもしれず、そこがリアルだとも言える。主人公は後輩に対して、この戦争には負けるし、自分は助からないだろうと笑って話す。この一種の諦めというか、強い意志によって選択したというより、一連の流れによてやむを得ずそういう立場に立たされてしまった、その道を選ばざるを得なかったという描き方が、却って現代でも共感を呼べるものだったのではないかと思う。そして、実際にそういう人の方が多かったのではないかと思った。戦争犠牲者を使命感を持った英雄的な人物として描いた映画は、個人的にはどうも嘘臭く感じる。
 主演の海老蔵は、現代劇にはどうも向いていなかったのではないかと思う。演技のタイプが現代劇と違うので、他の俳優から浮いてしまうのだ。彼のルックスも、当時の日本人的ではあるのかもしれないが、如何せん周囲の俳優は現代的な顔なので、ちぐはぐさが否めなかった。更に、彼は若干おっさんぽい顔と声なので、恋人役の上野樹里と一緒にいると、恋人というより親子みたいだった。一方、意外に好演していたのが伊勢谷友介。達者な演技というわけではないが、プライドが高いと同時に卑屈さを持つ男の役にははまっていた。
 反戦映画というより、厭戦映画だろう。主人公の死に方があんまりにもあんまりなので、戦争て嫌だ〜!という気分になるのは間違いない。しかし実際の戦争では、こういう無意味な死に方をする人が大半なのだろう。



『X―MEN ファイナルディシジョン』
 シリーズ3作目にして(一応)完結編。ミュータントは病気であるという説の下、ミュータント因子を消滅させる新薬「キュア」が開発された。人間になるかミュータントとして生きるか、選択を迫られるミュータント達。一方マグニート(イアン・マッケラン)らはミュータントの独立を訴え、キュアの源となる少年ミュータントを抹殺しようとする。
 予告編を見れば一目瞭然だが、実は生きていたジーン(ファムケ・ヤンセン)の力を巡る戦い、そして彼女を想うウルヴァリン(ヒュー・ジャックマン)の葛藤がストーリーの一つの軸となる。今作の監督は『ラッシュアワー』のブレッド・ラトナー。『ラッシュアワー』は出演者の掛け合いが絶妙なアクションコメディだったのだが、基本的にシリアスな本作でも、所々にコミカルな演出があるあたりに名残が見られる。それほど個性の強くない職人的な監督らしく、そこそこ手堅くまとめていた。
 従来のファンへのサービスはきっちりやっていて、(製作会社やスポンサーからの要望もあったのだろうが)、キャラクター総出演だった。島に渡るために橋をぶったぎって宙に浮かせるシーンも、話の流れ上は不要なのだが(マグニートは重力制御できるので、島に行きたかったらモーゼよろしく海を分けるなり、海底を持ち上げるなりすればいいわけだ。そもそも、普通に飛行機使えばいいと思う)、見た目がおもしろいんじゃね?的にわざわざやってしまう所に、サービス精神の旺盛さが窺える。またサービスといえば、前2作ではあまりなかった、セクシーなシーンが今までより増えているのも監督ならではか。ジーンはいつになく積極的だし、ミスティークは人間体でオールヌードを披露しているし、ウルヴァリンは服(いや皮膚もですが)ひん剥かれてるしね。
 ただ、肝心のアクション、大乱闘シーンが今一つさえなかった。少数VS大軍勢というバトル系少年漫画的な展開なのだが、Xメンの皆さんの能力て、実は団体戦向きではないのね。特にウルヴァリンは完全にガチンコ向きの能力なので、かっこよさが発揮できていなかったと想う。雑魚が次々襲ってくるという、散漫なバトルになってしまった。新キャラクターのエンジェルが、本当に顔見せ程度にしか出なかったのも物足りない。全体的にストーリーが駆け足でここぞ!という見せ場がなかったのが残念。
 1,2作目を通して一つのテーマであった、異種族とどう共存していくか、共存しうるのかという点は、今作でも引き継がれている。今作では「キュア」の存在を通して、同化すればいいのか、それとも異なる物として折り合いをつけていくのかという葛藤が描かれている。ただ、どちらが正しいかという回答は提示されない。ストームは私たちは病気ではない、薬で同化するなんて臆病だと怒るのだが、ニュータント省長官は、偏見を避けたいというのは臆病なことだろうかとたしなめる。このテーマが尻すぼみなのは勿体無かったと思う。根が陽性らしいブレッド・ラトナーには重荷だったか。



『LOFT』
 芥川賞受賞作家である春名礼子(中谷美紀)は、大衆小説への転換を図るがスランプ中だった。編集者の木島(西島秀敏)の手配で、気分を変える為に森の中の一軒家へ引っ越す。その家の向かいには大学の研究施設だったという、不気味な建物があった。ある夜礼子は、使われていないはずの建物に一人の男が出入りしているのを見る。その男・吉岡誠(豊川悦司)はある日礼子の家を訪れ、「ミイラを預かってくれませんか」と頼む。
 ・・・ミイラを預かってくれって、何のギャグだって話ですが。でもそういう展開なんです。黒沢清監督の新作。鬼才という言葉が実に似合う映画監督だと思う。この人のホラー映画(ということにします)は、ホラー映画のセオリーには結構忠実で、何かが起こりそうな時にはちゃんと何かが起こるし、何かが出てきそうな所にはちゃんと何かが出てくる。逆に、突然変のものを出して客を単にびっくりさせる、というようなことはやらない。律儀なのだ。しかし、そのセオリーに沿ったシークエンスが連続すると、なんとも形容しがたい奇妙なものが生まれてくる。これは黒沢清しか撮らないよなぁ・・・というものになってしまうのが不思議だ。監督本人は、多分つじつまの合った、映画の文法に忠実なものを撮っているつもりなんだろうけど、そのつじつまは世間のつじつまとはちょっとずれているのではないかと思う。
 1000年前のミイラにまつわる怪奇現象が主軸になるのかと思いきや、話の軸はどんどん若い女性の失踪事件にスライドされていく。ミイラの存在によって礼子の恐怖、妄想がふくらみ、一番危惧すべき失踪事件の真相にはなかなか気づかない、という妙な構造だった。しかし失踪事件の真相はどんなものだったのか、過去のミイラ引き上げ現場の映像はどういうことだったのか、客観的な事実としては説明されないパーツが多々あり、いわゆるオチのある話にはなっていない。ホラーではあるが、こういう悲劇があってこういう幽霊が出て、というホラーではなく、何かよくわからないけど気持ち悪いものがある、というホラー。そして「よくわからないけど気持ち悪いもの」の方が圧倒的に怖い。
 中谷美紀と豊川悦司の間で交わされるセリフは、他の登場人物の間で交わされるセリフに比べると妙に作り物めいた、演劇的なものだ。最後の抱擁シーンなど、派手な音楽とあいまって、どこぞのメロドラマのようだ。そもそも、吉岡は実在しているのか、作家である春名の妄想ではないのかと、それこそ妄想してみたのだった。
 冒頭に「私に掛けられた呪いは愛」という言葉が提示されるが、どのへんが愛の呪いなのかは正直わからず、あの言葉を提示した意図もわからない。このラストシーンは愛による絆をあっさりと否定するものだったと思うが。



『西瓜』
 真夏の水不足が続く台湾では、生の西瓜や西瓜ジュースが売れまくっていた。一人暮らしの女・シャンチー(チェン・シャンチー)は、以前露天商をやっていた若い男・シャオカン(リー・カンション)を部屋に誘って、一緒に食事をする。徐々に惹かれあう2人だが。
 『楽日』に続いて公開されたツァイ・ミンリャン監督作品。ひたすら雨が降り続く『楽日』に対して、本作は乾燥した水不足。また、人々の思いが沈殿していく閉館間際の映画館という「場所」が大きな要素を占めた(というか映画館内以外の場所が殆ど出てこない)前作に対して、、本作では主役の男女は比較的頻繁に移動する。場所、シチュエーションよりも、男女の心情にスポットが当てられていたように思う。具体的に2人が思いを告げるシーンはない(というか男の方にはセリフ自体が殆どない)のだが、食事を作るシーンが大変ほほえましい。ここだけ少女マンガのようなシチュエーションなのだ。セリフはないがコメディぽいシーンが所々にあった。特にシャオカンは西瓜ジュースが苦手なのに、シャンチーの手前飲んだフリをする、しかし彼が西瓜ジュースを好きなのだと勘違いしたシャンチーは更におかわりを注いでしまうというシークエンスがよかった(ここは、観客のリアクションもよかった)。また、男には殆どセリフはないが、代わりにミュージカルシーンがある。彼が何かを思ったであろう部分では、いきなり派手な衣装に身を包んだキャスト(リー・カンション本人だったり、他のダンサーだったりする)が歌(といっても口パクだが)と踊りを披露する。唐突な上に洗練されきっていない下品さがあって、笑っていいものかどうかちょっと迷った。思い切り笑うには微妙すぎるのよ・・・。
 シャオカンの職業は、実はAV男優だ。必然的にセックスシーンがしょっちゅう出てくる。よくモザイクなしで上映出来たなというシーンもあった。しかしセックスといっても、シャオカンにとっても相手のAV女優にとってもお仕事なわけで、全く色っぽさを感じなかった。単に肉体労働にしか見えない。スタッフが必死で手製シャワー(水不足で水道使えないので、ペットボトルに穴あけたものをスタッフが上からかざすのだ)を浴びせるシーンでは、そのショボさにうんうん大変よね、と肩の一つも叩きたくなる。セックスに関わるシークエンスの殆どに、おかしさとショボさと(肉体的な)しんどさが漂っていて、セクシーどころの話ではないのだった。AV業界って、大変ねぇ。ペトボのキャップの件なんて、洒落にならん。ちなみにAV女優さんの一人がいきなり日本語喋りだしてびっくりしたのだが、日本のAV女優さん(今は引退されている)とのこと。
 セックスが一つの重要な要素となっている映画ではある(過激なセックスシーンがあるという触れ込みで、監督の他作品よりは大分客が集まったとのこと。どこの国でも観客が考えることは一つなんでしょうか)が、男女がいわゆる恋愛感情の下にするセックスは、1ヶ所しかない。肝心の恋愛模様は意外にプラトニックで、その対比が面白かった。
 色々解釈は出来るだろうが、実は解釈はどうでもよくて、キワモノミュージカルやかみ合わないやりとりをクスクス笑えばいい映画のような気もする。最後なんて、あれは笑うしかないでしょう。真面目に見ていたらマヌケすぎる。



『サムサッカー』
 17歳の高校生ジャスティン(ルー・プッチ)は未だに親指しゃぶりがやめられない。行き着けの歯科医ペリー(キアヌ・リーブス)に親指が苦くなる催眠術をかけてもらったが、指しゃぶりが出来なくて却ってパニックを起こし、とうとう学校でADHD(注意欠陥多動性障害)と診断されてしまう。両親は大ショックだが、処方薬で頭脳明晰になったジャスティンは、部活の討論会で大活躍をする。しかし今度はその処方薬に頼るようになってしまった。
 ジャスティンはごく普通の家庭に育ち、両親の愛情も受けている。学校ではそう目だたないが、一応ガールフレンドはいるし、客観的には大した問題は抱えていなさそうだ。しかし「自分は何か上手くいっていないんじゃないか」という不安が消えないのだ。じゃあ大人になれば不安じゃなくなるのかというとそんなことはなく、ジャスティンの両親もそれぞれに不安を抱えている。メロドラマ俳優に夢中な母親(ティルダ・スウィントン)はジャスティンをもてあまし気味だし、父親(ヴィンセント・ドノフリオ)は自分と全くタイプの違う息子に戸惑っている。決して悪い家庭ではない(むしろ平均的に良い両親である)が、全てがかみ合っているわけではないのだ。ジャスティンの成長を描いただけなら月並みな青春映画(それはそれで面白いのだが)になっていただろうが、大人が抱える不安を見せたこと、両親らの造形が上手かったことで、この映画は成功したのではないかと思う。特に父親がジャスティンと接する時の一種のぎこちなさには、こういう父息子関係はよくあるんじゃないかと思わされた。
 少年がああ、世界ってこんな側面もあったんだ!と気付き、視界が開けていく感じがとても清々しかった。特にいいなぁと思ったのが、ジャスティンが母親が浮気しているのではないかと疑って、勤務先(母親は看護士)の高級リハビリ施設へ偵察に行き、母の浮気相手だと思い込んでいるメロドラマ俳優に出くわしてしまう件。俳優の口から、自分の知らない母親の側面が賞賛をもって語られる時の、ジャスティンの表情がなんとも言えない。
 母親は職場では頼もしい存在であること、父親がフットボールをやめた理由、ガールフレンドは実は自分が思っていたような正確ではなかったかもしれない等、自分の知らなかった周囲の人々の姿が見えてくることで、ショックを受けることもありつつも、一つ視界が開けただろうかという感じがよかった。目からウロコが落ちると、辛いこともあるけど楽になることもある。視野の広さを得ることで、ジャスティンは少しタフになったのではないかと思えるのだ。
 ジャスティンの弟はなかなかクールで良いキャラクターだった。「お兄ちゃんはいつも心配しているね」(だったかな?)というセリフがキツい。歯科医のペリーは、自分のスタイルが定まらない人物として描かれており、ジャスティンの一つの未来形とも言える。キアヌ・リーブスが演じているというのも面白かった。この人万年青年というか、迷走しつつスターであり続けているという稀有な存在だと思う。主演のルー・プッチは全くの新人らしいが、2005年ベルリン国際映画祭銀熊賞・最優秀男優賞を受賞、さらに同年のサンダンス映画祭特別審査員賞・演技賞を受賞している。ガールフレンドからあるショッキングな告白をされる時の表情が良かった。監督のマイク・ミルズは、CMやブランドのデザインワーク等を手がけていた人。長編映画としては、本作が初監督作品だそうだ。何かこじゃれただけの映画になっているのではと危惧したが、意外にも地に足の付いた、素直な作風で感心した。 



『マッチポイント』
 元プロのテニスコーチ・クリス(ジョアナサン・リース・メイヤーズ)は、就職した高級テニスクラブで、金持ちの息子トムと知合う。トムの妹クロエと付き合うようになり、兄妹の父親の会社でポストを手に入れ、順風満帆かのように見えるクリス。しかし彼はトムの恋人ノラ(スカーレット・ヨハンソン)と、クロエと結婚した後も浮気を続けていた。
 ウディ・アレンが36作目にして初めてニューヨーク以外の土地を舞台にした。本作の舞台はロンドン。環境が変わって心機一転したのか、今までの少々内輪ネタ的コメディから脱却して、アレンファン以外の人でも入りやすい、間口の広い作品になったと思う。ストーリーはものすごく直球な不倫泥沼話だ。しかし、ここはウッディ・アレンの本領発揮というか、シーンの取捨選択が上手く、ストーリー内で起こっていることはありきたりなのに、スリリングなサスペンスになっていた。右往左往する人の描写がコメディにおいてもサスペンスにおいても上手いのは、監督ならではだと思う。
 冒頭のテニスボールがネットに当たるショットの反復とそのオチには、なるほどこうきたかと唸った。やっぱり人生運次第なのね。構成が全体的にシャープで、映画内時間の飛び方が結構思い切っているのに話が分かりにくいということはなかった。きれいに纏めたなという感じが。このあたりはさすがベテラン。
 主人公のクリスは、野心が強くてあまり好感の持てる奴ではないのだが、クロエには「子供が欲しい!」と迫られ続け、ノラにも「奥さんと別れてよ!」と迫られ続け、だんだんかわいそうになってくる。彼が最後にとったやり方は許されることではないが、何とか逃げ切ってくれ!と手に汗握ってしまった。女性のウザさの描き方が上手いのは、さすがアレン先生と言うべきか。実生活が肥やしになっているんですね!特にクロエは、空気読めないというか何と言うか、周囲を非常にイライラさせる女性ですね。結婚するのもお友達になるのも遠慮したくなるタイプ。またセクシーなノラも、最初はゴージャスな雰囲気なのに、後半はどんどんビッチ!な面が露呈していく。えええそんなに嫉妬深いキャラだっけ?遊びと割り切ってたんじゃなかったの?!そりゃあクリスも困るよな!演じるスカーレット・ヨハンソンがビッチな女役にぴったりだった。この人、地もこんなんじゃないかという雰囲気がある(笑)。
 クリスにしろノラにしろ、浮気に関してはやっていることが大変頭が悪い。こんなやり方で1年(くらい映画内時間では経っていると思うのだが)もバレずに続くはずない。もうちょっとどうにかしろ!とりあえず避妊はしとけ!そして浮気相手は選べ(笑)!・・・んん?やっぱりいつものウディ・アレン作品てこと?

 

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