7月

 

『美しい人』
 主人公の異なる9話から成るオムニバス映画。監督は『彼女を見ればわかること』のロドリゴ・ガルシア。日本語題名のイメージだと、これはさぞたおやかな女性が登場する優雅な映画なのではと思ってしまうが、実際はかなり渋い。9つの話の殆どが、人生の中でもかなり厳しい瞬間を描いているのだ。修羅場映画と言ってもいい。
 各エピソードは10数分で、いきなり始まり、いきなり終わる。主人公である女性がどういう人物なのか、今どういう状況なのか、全く説明されない。会話のやりとりで何となく分かってくる。しかし全部は分からない。あくまで断片的だ(9話目だけはオチらしきものがあるが。しかも恥ずかしながら、私はこのオチに最初気がつかなかった・・・)。本当に、人生の10数分間を切り取ったような映画なのだ。ちなみに撮影期間はわずか18日間だそうだ。
 映画解説を読んでいて初めて気づいた(見ている間は気づかなかった)のだが、どのエピソードも、ほぼワンカットで撮られているそうだ。これはびっくりした。そういう印象を受けなかったのだ。カメラがやたらと動くなぁとは思ったので、動きが大きく早いことで、ワンカットではないように見えたのかもしれない。ワンショットということは、映画内の時間と映画外(つまり1エピソードの上映時間)がイコールなわけだ。加えてカメラ位置が人間の目線に近いので、自分がそこに一緒にいるような感じがした。
 その為なのか、異様な緊張感を強いられる。主演女優の皆様の熱演も、もちろん効果的。私が特にしびれた(というか打ちのめされた)のは、3話目。ホリー(リサ・ゲイ・ハミルトン)が実家に帰ってくる。彼女は父親に恨みがあるらしく、妹に「パパを呼んで!」とまくし立てるのだが、父親と彼女の間に何があったのかは結局最期まで明かされない。しかし彼女が非常に葛藤していること、辛いこと、父を憎んでいるがそれだけではないことはひしひしと伝わってくるのだ。また、5話目には最も心が痛んだ。サマンサ(アマンダ・セイフライド)は高校生だが、障害者である父親と、彼の世話に疲れきった母親との間を行き来する調停役だ。彼女が進学をしなかったのは、彼女がいなくなったら2人の間が崩壊するからだということが分かってくる。彼女が最後に見せる何かを諦めたような表情が何ともやるせない。
 修羅場を切り取った9編ではあるが、当然人生が修羅場だけということはなく、修羅場の後も人生は続く。3話目のホリーがその後のエピソードで看護士として働いていたり、5話目のサマンサの母親が、7話目ではある行為を踏みとどまったりと、人生が続く様子が垣間見られることに力づけられた。
 「男性監督がなぜここまで女性を描けるのか」という評を所々で目にしたのだが、この映画の主人公は確かに全員女性だが、彼女らが対面する問題は、何も女性に限ったものではない。男性であっても同じような事態はあるだろう。男女問わず、人生で起こりうるままならない状況、そしてそれに対面した時の人間の強さであったり弱さであったりという部分が、共感を呼ぶのではないだろうか。主人公を全て女性にしたのは、男性である監督にとって、同性の主人公では生々しくなりすぎる(距離が取れない)からではないかとも思った。



『13歳の夏に僕は生まれた』
 工場経営者である両親の下、何不自由なく育った13歳の少年サンドロ。夏休みに父親に連れられて地中海クルージングに出るが、誤って海へ転落してしまう。おぼれかけていた彼を助けたのは、不法移民を密入国させる船に乗っていたルーマニア人のラドゥとアリーナの兄妹だった。彼らはイタリア移民センターに保護される。サンドロは無事両親と再会するが、ラドゥとアリーナを何とか助けたいと考え、2人を養子にしてほしいと両親に訴えるのだが。 監督は『輝ける青春』がカンヌ国際映画祭「ある視点」部門グランプリを受賞したマルコ・トゥリオ・ジョルダーナ。
 勉強不足で恥ずかしいのだが、私はイタリアにおける移民問題について殆ど知らなかった。この映画では、少年の目線を通して移民問題が垣間見られる。サンドロという少年は結構裕福なおうちで育っていて、お父さんの工場ではアフリカ系やアラブ系の移民の従業員が働いていたりする。そのせいか、他の文化圏の人に対する関心は、普通の子よりも強いみたいだ。後で調べてみたら、サンドロ一家が暮らすブレシャという都市は、イタリアの中でも端役から外国人労働者を受け入れていたそうだ。受け入れ過程の中では当然文化の違いによる軋轢や問題が生じてくるが、それでも都市基盤は持ちこたえており、失業率は2%に留まっている。工場労働者には移民が多く、サンドロも馴染みがあったというわけだ。
 しかし、外国人労働者に馴染みが深くても、彼らはあくまでよそ者、労働力である。サンドロの両親にしても、外国人労働者を手ひどく扱うということはないが、彼らの文化を理解しようとはしていない。特に父親の工場での態度は少々無神経で、サンドロがちょっと気まずく思っているのがなんとなくわかる。でも、サンドロの父親のような態度が、雇用者としては一般的な態度なのかもしれない。サンドロも何事もなく成長すれば、父親のような態度をとるようになったかもしれないのだ。が、彼は決定的な体験をしてしまう。
 サンドロはラドゥとアリーナを自分の家の子にしてほしいと頼むのだが、両親の気持ちの問題や、法律上の問題等は山積で、子供一人の力ではいかんともしがたい。それでも(私は意外に思ったのだが)、両親は里親になってみようかという気になってくる。しかし、ラドゥ兄妹には彼らなりの都合があり、彼らの世界のルールがある。それは外部からはどうしようも出来ないことなのだ。そもそも(サンドロが大人だったとしても)彼らに対して何か出来ることがあるのか。とにかく提示されている問題に対する解決法が全く見えないので、全般的に救いがない。
 移民問題を扱った作品ではあるが、少年が自分が生きていたのとは別の世界、圧倒的な他者と出会うことで世界を広げていく、他の世界に対する想像力を得ていくという成長物語でもあった。もっとも、成長すると言うのは苦さをはらんだものである。サンドロは一生懸命考え、行動していくのだが、何も出来ない。しかし、あくまで1人の少年のパーソナルな物語とすることで、映画に優しさが加えられたと思う。最後の場面には、理解することも力になることも出来ないなりに、寄り添おうとする彼の姿勢に少しほっとした。




『ゲド戦記』
 遥か昔に竜と人とが住む世界を分けたアースシー。しかし、人間の世界である東の海に竜が現れ、しかも共食いをする姿が目にされた。同時に疫病の流行や農作物の不作等、世界の均衡が崩れていた。均衡の崩れを懸念し旅を続けるハイタカ(ゲド・菅原文太)は、砂漠で狼に襲われていた少年・アレン(岡田准一)を助ける。アレンはある国の王子だったが、父親を刺し、国を捨てたのだ。ハイタカと共に旅をするアレンは、顔に痣のある少女・テルー(手嶋葵)に出会う。
 名作ファンタジー小説を原作とした、宮崎吾朗の初監督作品(そもそも映画に携わること自体初めてらしいが)となる本作。これまでのジブリ作品よりもだいぶ素朴で地味だ。経験豊富なスタッフに支えられて一生懸命作りましたよーという印象。ま、初々しくて悪くはないですが。
 監督の若さゆえか、何ともぎこちない。ストーリー展開にしろ、キャラクターの動かし方にしろ、「あああっ、そこはそうじゃなくてですねっ」と思わず手を出したくなってしまった。悪くはないのだが、演出が月並みすぎるところが気になった。特に、(これは監督がやっているのか作画監督がやっているのかよくわからないのだが)、キャラクターの表情の付け方があまり上手くないと思った。特に、アレンのダークサイドが表出する所での表情の変え方は、ちょっと演技させすぎで凄みに欠ける。また、ウサギの振る舞いや、テナーを魔女扱いする女2人のやりとりのシークエンス等はオーバーすぎて、映画のトーンから浮いていたと思う。やりすぎもしくはやならさすぎな所が多いのが気になった。やっぱり宮崎駿は上手かったんだなぁと(宮崎吾朗には本当に申し訳ないのだが)再確認する羽目に。
 ただ、この作品は宮崎駿監督でなくてよかったのではないかとも思った。というのは、宮崎駿はこの映画のアレンのような、鬱屈した美少年(笑)の造形は苦手なんじゃないかなと思ったのだ。彼だったら、多分少女テルーの方へ力を入れてしまうのではないかと思う。いや美形といえばハク(『千と千尋の神隠し』)もハウル(『ハウルの動く城』)もいるじゃないか!というご指摘もあるだろうが、どちらもかなり造形に苦心していた節がある(あとハウルは青年だと思うので除外)。そもそも、宮崎駿アニメの少年は元気でまっすぐな正しい少年ばかりだ。間違っても父親を刺して逃げたりはしなさそう。そういう点では、監督が変わってよかったかもしれない。
 面白い(といっていいのかどうか分からないのだが)と思ったのは、最初は世界の均衡が如何こうという大きな世界の話から始まるのに、どんどん典型的なボーイミーツガールになっていく所。最早、竜が何の為に出てきたのかわからない。テルーには例によって秘密があるのだが、その秘密も何かの役に立つ訳ではなく、唐突に明かされている。更に、この物語の中では、大きな問題は何も解決していないのだ。アレンが自分の内面に折り合いをつけることが出来たという、あくまで個人的な部分に問題が帰結している所が興味深い。下手に世界の問題をもってくるよりも個人的な部分に帰結させた方が説得力があると踏んだのか、単に流れでこうなってしまったのか(そもそも原作ではどうなっているのか)気になる。
 ちなみに、挿入歌の作曲は谷山浩子、エンドロール曲の作曲は新居昭乃という、局地的にマニアックなことになっている。いや良い曲ですけど。この起用も今までのジブリ作品ではあり得なかったことだろうなー。
 



『ブレイブストーリー』
 11歳の少年ワタル(松たかこ)は、破綻してしまった家族をもとに戻そうと、女神が願いをかなえてくれるという異世界「幻界(ヴィジョン)」へ向う。宮部みゆきのファンタジー小説が、フジテレビと映像スタジオGONZOにより映画化された。さすがフジというべきか、宣伝活動には力が入りまくりだ。しかしそれも空回りに終わりそうな予感が・・・
 原作小説はハードカバーで上下巻だったと思うのだが、それを2時間強に纏めているので、本編のダイジェスト版のようなことになっている。ワタルは願いをかなえる為に宝玉を集めなくてはならないのだが、その宝玉を集める過程も思いっきりはしょられている。ワタルが旅をしていく過程がダイジェスト程度にしか見られないので、後半で「何で急にしっかり者になっているの?」と不自然に感じた。元々RPGゲーム的な物語ではあるのだろうが、映画ではイベントとイベントの間のエピソードが殆どないので、どうも唐突にストーリーが展開している印象を受けた。ワタルを導く「声」の正体にしても、唐突すぎて、どういう脈絡で出てきたのか、説得力がない。いやいや何者だよお前!と突っ込みまくり。
 また、やはり時間的な制約があったからだろうが、「幻界」がどのように成り立っている世界なのか、どんな国や種族があるのか、そして国交はどうなっているのか、地理的にはどうなのかがよくわからない。だからいきなり戦争が!とか魔族が!とか言われても、何だかなぁという気分になる。最後は魔族出せばいいと思ってるだろコラ!
 「家族をもとに戻したい」という同じ願いを持つワタルとミツルという2人の少年が、対照的に配置されている。2人の対照的なキャラクターによって、映画のコピーとしても使われている「自分の願いのためなら何をしても良いのか」というテーマが際立ってくる・・と言いたいところだが、このあたりも今一つだった。色々要素を詰め込みすぎて、主軸がぼやけてしまった感じが。また、2人の少年が現実世界で抱える問題の大きさを、もっとクローズアップしてもよかったと思う。小さい子供も見る映画だということで、ちょっと遠慮してしまったのだろうか。このあたりをもっと突っ込んで描いていれば、人にはなぜファンタジーが必要なのかという所まで切り込めたかもしれない。この際、一般向けか子供向けか割り切ってしまえばよかったのになー。マスコット的キャラクターなんて出さなくていいのに。色々勿体無い映画だった。所々で魅力的なシークエンスがあっただけに惜しい。



『時をかける少女』
 過去に何度も映像化された筒井康隆の小説が、アニメーション映画になった。もっとも、時代設定は現代で、ストーリーも原作とは別物。しかし原作のエッセンスはちゃんと残っていると思う。
 高校2年生の紺野真琴(仲里依紗)は、踏切事故がきっかけで時間を跳躍する=タイムリープ能力を得る。大はしゃぎで能力を使いまくる真琴。ある日クラスメートで野球仲間の千昭(石田卓也)に告白されて動揺し、タイムリープで告白をなかったことにしてしまう。しかし千昭が他の女の子と付き合い始めると、何となく面白くない。一方、同じく野球仲間の巧介(板垣光隆)は、下級生に告白されたが断ってしまう。真琴は2人の仲を取り持とうとタイムリープするが、なかなか上手くいかない。
 タイムリープの性質上、反復ギャグが多くて楽しい。特にカラオケボックスでの件では客席からも大きな笑いが起きていた。タイムリープの動機がおバカすぎて笑える。一方、タイムリープで同じ状況を繰り返すわけだが、決して全く同じにはならない。タイムリープする本人である真琴の心理だけは、巻き戻らずに連続しているからだ。千昭からの告白がなかったものになっても、真琴だけはそれを覚えているから、彼の前でぎくしゃくしてしまう。こういう、時間がリピートしていると同時にリピートしていないという所が面白かった。タイムリープを挿入することによって、却ってその一瞬一瞬のかけがえのなさが際立つという、逆説的な構造になっていた。
 背景や小物はすごくこまやかに緻密(特に商店街等は住所が特定できそうなくらいに)に描き込んであるが、キャラクターの作画は意外にあっさりとしている。このあたりに、細田守監督のアニメーションに対する考え方が窺える。キャラクターに使われている線は少なく、影もほとんどつかない。ちょっとロングショットになると、細部(プリーツスカートのひだとか)は省略されてしまう。しかし手抜きというわけでは決してなく、アニメーションの良し悪しは1枚絵の美しさではなく、あくまで動きによって左右されるということだろう。キャラクターの演技が的確であれば、相当フラットな絵でもいけるという確信を持っていると思う。監督が自分とスタッフの演出力・作画力に相当な自信があるのではないだろうか。実際、キャラクターの動き、表情等の演技のつけ方が素晴らしく、思わずうなった。見ている側の感情がぶわーっと引き出される感じだ。アニメーションは基本的に線の連続にすぎないのに、何でこんなに感情を揺さぶられるのか。アニメーションにしても実写にしても、演出って大事なのだと再確認した。
 真琴という、さばさばとした元気のよい少女のキャラクターがすごくいい。ちょっと鈍くて自分の気持ちに気付いていない所とか、もう可愛いのだ。キャラクターは所詮記号ではあるのだが、こういう少女が今そこにいる感じがありありとする。いやー、上手いわ細田守。もう、映画全体が愛しくてたまらない。未来を待つのではなく飛び込んでいく感じの青春映画。唯一の難点は主題歌が野暮ったいこと。一昔前のアイドル歌謡曲みたい・・・



『花よりもなほ』
 
父親の仇を討つ為に、信州から江戸へ出てきた青木宗左衛門(岡田准一)は、江戸の中でも掃き溜めと化している貧乏長屋に住んでいる。仇討ちに成功すると幕府から報奨金が出ると、長屋の住民たちは賞金を期待する。しかし宗左衛門は剣の腕はからっきしで、長屋の子供たちに読み書きそろばんを教える日々を送っていた。
 切ったはったのない仇討映画で、大変和やかだった。人は生きてなんぼ、という前向きさのある時代劇。そういう意味では時代劇といっても、現代の価値観による世界ではある。もっとも、今時代劇をやるのだったら、やっぱりこういう内容の方がいいんじゃないかなーとも思った。主人公も、今で言ったらニートだよなあこれ(笑)。いくら武士とは言っても、全員が剣の達人ということは、もちろんない。そして武士の中にもいわゆる「武士道」や仇討というシステムに馴染めない人もいただろう。そういう人も、それはそれで正しいのだとすくい上げてくれる、視点の優しさがあった。私がいいなぁと思ったのは、女好き・遊び好きでいいかげんな宗左衛門のおじさん。こういう生き方も(少なくとも仇討よりは)いいんじゃないだろうか。
 宗左衛門が住む長屋のボロ加減が、不快感をぎりぎり感じないくらいまでボロを極めていてなかなかに見ごたえがあった。絶対に冬を越せなさそうな作りだ。衣装をたたくとホコリが舞うという芸の細かさ(?)にも笑った。こぎれいなのは武家の未亡人・宮沢りえのみで、あとは主役に至るまで全員こ汚い。でも臭ってきそうではないあたり、映画としてのさじ加減が上手い

 全体的に、登場人物全員が大切にされていると思った。長屋の中のやっかいものや、憎まれ者、そして仇であってもどこか可愛い、憎みきれない所を作ってある。宗左衛門が仇の男が妻子と一緒にいる様を見て、仇は憎いが子供から父親を奪うのは忍びないと悶々とするあたりも良かった。キャスティングが、登場人物それぞれのキャラクターを上手く引き出していたと思う。お笑い分野の人が多く出演しているからか、コメディ部分が引き立っている。また主演の岡田淳一は、デビュー当時はまさかこんな映画に出る人になるとは思わなかったので、感慨深いものがある。
 見ると気持ちがほっこりとする佳作。是枝監督が『カナリア』の次にこういうメジャーど真ん中風作品を撮るとは意外だったが、撮ろうとしているものは案外変わっていないのではないかと思った。やはり人と人の繋がり方、家族のあり方に関心の強い監督なのではないかと思う。



『プルートで朝食を』
 タイトルの「プルート」は冥王星のこと。ニール.ジョーダン監督の新作となる。アイルランドの小さな町。教会の前に捨てられていた赤ん坊は近所に養子に出され、すくすくと育った。成長した彼「キトゥン」(キリアン・マーフィー)はゲイであることをカミングアウトし、街から出て行く。ロンドンには自分の母親がいるはずだ・・・。
 70年代のアイルランドとロンドンが映画の舞台。当時の英国では、アイルランド独立運動とそれを弾圧するイギリスとの激しいぶつかり合いが起きており、IRAによる爆弾テロが頻発していた。キトゥンの幼馴染の青年たちもIRAに参加するようになったり、キトゥンが恋するバンドマンがIRAの武器調達係だったりと、身近な人達も皆革命思想に燃えている。しかし、キトゥン自身は無関心だ。彼女(いや生物学的には彼なんだけど)は自論を声高に叫ぶ人々に、ことある毎に「真剣真剣って嫌になっちゃう」と嫌悪感を示し、相手をのらりくらりとはぐらかす。とは言っても、彼女はいい加減なわけではない。「真剣にならない」という姿勢を貫くという形で、筋が通っているのだ。
 時代背景として常に見え隠れし、彼女の友人や家族を巻き込んでいくテロも、元々は真剣さ故の行動だ。真剣なのは良いことではある。しかし真剣さというのは往々にして煮詰まりやすく、頭の固い状態になりがちだ。そもそも、男性として生まれながら女性の心を持ち、女性として生きようとするキトゥンにとって、「頭の堅い」社会はやさしくない。自分らしく生きようとする限り、社会と戦わなくてはならないのだ。キトゥンは現実と向き合わずにフラフラしているようにも見えるが、そうではないと思う。軽薄さは、頭の固さに対する彼女なりの戦いだったのではないか。彼女はとうとう、テロリストと間違えられて逮捕されてしまうのだが、「社会」の代表とでも言うべき大真面目な警官と、彼女との全くかみ合わないやりとりがおかしかった。
 戦うといっても暴力や言論によるやりかただけではなく、こんなやりかたもあるんじゃないの、という楽天性があるのではないか。映画がエピソードごとに章立てしてあるのがちょっとうっとおしいと思ったのだが、それもキトゥンの人生を完全に「お話」化してしまう為のものだったのだと、後から納得した。この世にもっとファンタジーを!という監督の主張だったのかもしれない。
 最後、彼女が自分の家族をちゃんと見つけたのには(甘い展開ではあるけれども)ほっとした。主人公が前向きでファニーだから軽快な雰囲気になっているが、ストレートに撮ったら結構救いのない話になったんじゃないだろうか。




『MI3』
 最早説明不要のトム・クルーズ主演シリーズ最新作。スパイを引退して今は指導教官に徹しているイーサン・ハント(トム・クルーズ)。恋人との婚約お披露目パーティ中に、教え子である工作員リンジーの救出の依頼が。無事リンジーを発見したものの、彼女は頭部に仕掛けられた超小型爆弾により死んでしまう。事件の黒幕が闇商人デイヴィアン(フィリップ・シーモア・ホフマン)と知ったハントは、彼を追って仲間と共にバチカンへ。
 痛快娯楽大作という言葉がぴったりの映画だった。この映画の美点は、見た人の心に後々まで残るように、とは製作者が微塵も考えていないという点に尽きると思う。観客を2時間強、いかにハラハラドキドキさせ、スクリーンに釘付けにしておくかということに、全ての神経を注いでいるように思えた。余韻を残そうという意図が全く窺えないあたり、娯楽映画として潔いと思う。もうすっぱり忘れちゃって結構ですから!と言わんばかりだ。
 そしてもう一つ神経を注いでいるのは、トム・クルーズをいかにかっこよく見せるかという所だ。基本的に単独行動(もしくは仲間の腹が読めない)だった1、2作と異なり、今回は信頼する仲間とのチームプレイが作戦の主体となっている。とはいっても、主役はやはりトム。トムのいいとこ取り映画である。トラック運転手やら神父やら、フィリップ・シーモア・ホフマンのそっくりさんやら、コスプレ姿も披露してくれる。さすがに年齢は隠せなくなってきているが、きっちりアクションもこなしている。トム・クルーズのためのシリーズと言っていいだろう。トム・クルーズのえらい所は、彼が主演しているというだけで1ジャンルが確立するという所だ。映画1本持たせられるパワーと人気というのは、やっぱり侮れない。製作総指揮や監督の選出、キャスティングにも参加しているそうだが、敵役にフィリップ・シーモア・ホフマンを起用するあたりにはセンスの良さを感じた。
 監督はTVドラマ出身のJ.J.エイブラムズ。映画初監督作品がトム・クルーズ主演作とは、いきなりの大役でプレッシャーも大きかったのではないかと思う。しかし、初監督作品としては成功では。もっとも、話の流れをスピーディーにしようとしたあまり、ちょっと展開が不自然だった。そもそも、あのオチだと話がデカくなる必然性がない。ああいう黒幕がいるのなら、最初から大事にならないように手を回しておけばいいんじゃないかな・・・



『レイヤー・ケーキ』
 麻薬ディーラーの「俺」(ダニエル・クレイグ)は、金を溜めて若いうちにこの業界から足を洗うのが夢。しかしそんな折、ボスであるジミー(ケネス・クラナム)から、有力者である彼の友人、エディ・テンプル(マイケル・ガンボン)の行方不明の娘を探し出すこと、イカれたギャング・デューク(ジェイミー・フォアマン)が手に入れた大量のエクスタシーを売りさばくことという2つの命令を受ける。しかしデュークのエクスタシーの入手元は、国際指名手配犯が牛耳るヤバい組織だった。ドラッグ仲買人である「俺」にも組織の刺客が迫る。「俺」は果たして無事引退できるのか。
 一度入ったら抜けられず、いい目を見るには上へ上るしかない裏社会。その中でも「俺」の仕事ぶりは、ギャングというよりもサラリーマンに近い。羽目を外さず堅実に、着実にというのが「俺」のやりかたなのだ。この「ジャンルはどうあれお仕事ですので」という淡々としたスタンスが、いかにもプロっぽくもユーモラスにも見える。実際のドラッグディーラーは案外そんなもんだろうなー、こういう姿勢の方が商売としては成功するだろうなーという妙な説得力を感じた。そして、そんな彼が慣れない荒事に巻き込まれてにっちもさっちもいかなくなっていくという所に、面白さがあった。ギャング映画というよりも、むしろ組織に組み込まれた人間の悲哀を描いたような、サラリーマン映画ともいえるような、おかしくもほろ苦い味わいがある。騙し騙されという世界で誰が最後に笑うのか、はたまた最後に笑える人などいないのか、スリリングだ。もっとも、全員どこかでツケを払わされるので、爽快感とは程遠い。途中、これはいらないんじゃないかなーと思ったエピソードにもちゃんと最後は「ツケ」を払わされる。何もそんな形で払わされなくても・・・とややぐったりとした。
 「俺」は頭は切れるが普段暴力沙汰とは縁がない男なので、いざ荒事となるとオタオタしてしまう。娘探せや!と脅されて「えーそんなん無理っすよ!」と言いたいけど言えない(そもそも言って通じる相手じゃない)中間管理職的やるせなさ。「俺」の苦労の半分くらいは、「こいつには話が通じないのにどうしよう」「こいつをどうやって懐柔しよう」というような、対人関係に絡んだ苦労である所が、よけいにサラリーマンぽさをかもし出していて、なんだか世知辛いのだ。話の通じない上司って困るよねー。一方、銃を手にするとついウキウキしてしまうあたりがおかしい(自室で鏡を前に銃を構えるシーンは、ダニエル・クレイグ主演の次回作である007のパロディのようだ。もちろん、製作時期的にそんな意図はないのだろうが)。普段、いかに銃や暴力と縁がないかということが窺われる。
 監督は『ロック・ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』や『スナッチ』の製作を手がけマシュー・ヴォーン。確かに本作も雰囲気が似ている。しかし、ストーリーのスピードはもっとゆっくり目で地味。スタイリッシュといえばスタイリッシュだが、なんとなくレトロな感じも。昔っぽいというよりも、部屋の内装やファッション等の雰囲気が90年代当時の最先端的というべきか。なんだか微妙。また、字幕監修が音楽評論家のピーター・バラカンだったのが不思議。何か特殊な方言とかスラングとかが入っていたのか?ついでに音楽も妙に80年代ぽかったのが不思議だった。これは監督の趣味なの?何故今Duran Duran?



『ローズ・イン・タイドランド』
 最近不調だった(と思うのよ私は)テリー・ギリアム監督の新作。『不思議の国のアリス』をモチーフにした、少女ローズの物語。もっとも、アリスのようなファンタジーを期待するとしっぺ返しを受けるかもしれない。奇天烈は奇天烈なんだけどね...。
 10歳の少女ジェライザ=ローズ(ジョデル・フェルランド)は、ママが突然死んだ為、パパと一緒におばあちゃんの家へやってきた。おばあちゃんはとっくに死んでおり、家は荒れ放題。ローズはバービー人形の頭をお供に探検を開始する。
 テリー・ギリアムの作品としては、久々の成功作と言えるのではないだろうか。ギリアムといえばセットが作りこまれたファンタジックな映画を撮る監督というイメージがあるが、今回は前作『ブラザーズ・グリム』のように完全な異世界を作るのではなく、ある視点からこの世を見ると、あたかも異世界のように見えるという、角度の違い程度の留めた点が成功の要因ではないかと思う。
 「ある視点」とは、この場合少女ローズの視点だ。彼女の置かれた状況は、客観的に見ると悲惨なものだ。母親はオーバードーズで急死、父親は母親の死体を放置してローズと遁走、そして父親自身もオーバードーズで死亡してしまう。住まいはほこりにまみれた廃屋だし、食べるものもない。しかしローズ本人は(お腹がすいて困ったりはするけど)至って元気だ。バービー人形の頭相手におしゃべりをし、「魔女」から逃げ惑う。彼女が見ている世界では、彼女は一人ではないしパパも生きていて、この世は冒険で満ちている。子供の一人遊びの形、そのとっぴょうしもなさが全編に描かれた作品だった。私もどちらかというと1人遊びばかりしている子供だったので、彼女の遊び方が懐かしいと同時に、こそばゆいというか、いたたまれないというか。
 もっとも彼女は半分くらい、自分の境遇を客観的に認識しているようにも見える。自分の心細さを空想で補って生きているのではないかとも思えるのだ。逆に言えば、想像の中にしか逃げ場がないということだ。子供の強さと無力さの両方が、やじろべえのように危ういバランスを取っていた。第三者的に見れば、彼女は育児放棄された子供に他ならないので、見ていてちょっと辛いところも。
 主演のジョデル・フェルランドは大変かわいらしい。そして天才的に演技が上手く、芸達者だ。しかし彼女が愛らしい分、知能に障害があるらしい青年との交流には、危うさを感じるシーンも。倫理的には結構問題ありな映画だよなこれ...。ともあれロリの皆さんは大喜びでしょうなぁ。



『ゆれる』(ネタバレです)
 母親の一周忌で帰省した猛(オダギリジョー)。東京で売れっ子写真家として活躍している彼は、実家の父親とは折り合いが悪い。その2人の間に立つなだめ役の兄・稔(香川照之)。父親とはまともに会話もしない猛だが、稔とは軽口も飛ばしあうのだった。法事の翌日、猛と稔、稔のガソリンスタンドで働く幼馴染の智惠子(真木よう子)は、子供の頃によく行った渓谷へと遊びに行った。山の中で写真を撮っていた猛は、吊橋の上で揉め合う稔と智惠子を見る。そして智惠子は橋から落ちてしまった。
 この映画のスリリングさは、猛にとっての稔の位置づけがだんだんわからなくなっていくという所にある。猛にとって稔は優しい兄であり、正直で実直な人間であったはずだ。しかし、裁判の中で稔の狡猾な面や、猛に対する鬱屈した思い等が段々見えてくる。じゃあ自分が兄と思っていた人物は何だったのか、全部嘘だったのかという、身近な人間のことがにわかに分からなくなるという混乱。その、わりとミニマムな規模での人間関係の不可思議さが容赦なく描かれていた。稔役の香川照之の少々卑屈っぽい、どこまでが本気なのか分からない振る舞いの演技が生々しくて、やたらと迫力があった。男の嫉妬をこれほど上手く演じることが出来る俳優は、なかなか思いつかない。
 いわゆる「藪の中」方式の映画で、実際に何があったのか、他殺なのか事故なのかは最後までわからない。決定的なシーンは(実際にあったという裏づけのあるものとしては)映し出されない。たとえば猛が「見た」と言うことは、あくまで彼が「見たと思っている」ということなのだ。つまり、真実を明らかにするというよりも、猛がどういう人間であると信じることにしたかということの方がフォーカスされている。真実は明らかにはならず、その曖昧さがラストの猛の微笑みまで繋がってきている。彼は何をしたのか、何があったのか、映画を見ている側も延々と考えざるをえない。
 もう一つひっかかったのが、東京に対する漠然とした憧れと、そこで成功した(ように見える)人への嫉妬だ。猛が本当に成功しているのかどうかは定かではないが、東京でカメラマンという何となくオシャレなイメージ、(田舎と比べたら)垢抜けたセンス等に智惠子は魅せられ、稔は密かに嫉妬する。彼ら(特に智惠子。稔の場合、猛の方が異性にモテるという事実があるので)の羨望は東京という記号に対するイメージ先行のものだとは思うが、村全体が顔見知りのようなもので就職先も限られているという環境では、確かに東京へ出た人をうらやましく思ったり、嫉妬したりするかもしれない。しかしそれにしても、智惠子が猛に(東京へ一緒に行けるんじゃないかと)期待してすがるような表情をするのが、あまりにイタい。東京へ行きたいと思っていることではなくて、一緒に東京へ行けるなんて思ってんじゃないの、と図星を指されてキレてしまう所がイタいのだ。彼女の行動は浅はかだと思うが、「ここから出て行きたい」という息苦しさや切実さもわからなくはない。東京が豊かさとか自由さのアイコンみたいになっているのに却って貧しさを感じたのだが、安直な希望をもってしまうくらい煮詰まっているわけで、見ていていたたまれなかった。
 稔にしても、智惠子とうまいことやった猛との会話(洗濯物をたたみながらの会話が超怖い)とか、面会室での豹変したような態度等、嫉妬と憎悪がじわじわにじみ出てくる。「俺はこんななのにお前は何で」という気持ちがばしばし表面化してきて、誰もが一度は持つ感情であろうだけに、居心地の悪いことこの上ない(この構図が、猛の父と叔父から引き継がれているという所が恐ろしい)。稔や智惠子の生活は実際ににつまらないものなのか、無価値なのかということはここでは問題ではなくて、彼らはそう思ってしまう、という所が問題なのだ。華麗に今の生活に満足していたとしても、明らかに社会的に成功している人が目の前にいたら、やはり嫉妬するだろう。それが兄弟であっても、いや兄弟であるから余計に、比較せずにいるのが難しいのかもしれない。
 身近な人間関係が孕む不穏さを、ねちっこく丹念に描いている映画だった。監督の西川美和は本作が長編2作目だが、実に上手い。ショットのひとつひとつを入念に吟味して作っていると思う。主演のオダギリジョーも今までのキャリアの中では多分ベストの演技をしている。




『アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶』
 ロバート・キャパらと共に写真家集団「マグナム」を設立し、スペイン内戦やパリ解放、ガンジーの死等、歴史的瞬間を撮った写真家アンリ・カルティエ=ブレッソン。2004年に亡くなった彼に関するドキュメンタリー。本人が作品とその人生について言及した唯一のドキュメンタリーだそうだ。
 カルティエ=ブレッソンは風景写真や報道写真の他に、著名人のポートレートを数多く撮っている。ドキュメンタリーの中にもいくつか出てくるが、どれも感じの良いものだった。被写体のパブリックイメージをそのまま写すというのではなく、パブリックイメージからするとちょっと意外な姿、その人の素の部分がふっと見えた瞬間を捉えている。
 特に印象的だったのは、マリリン・モンローのポートレートだ。撮影中の1コマらしいのだが、にこにことしたセクシーな女性ではなく、やや俯いたポーズではにかんだような、内気そうな表情で写っている。本当はこういう人だったのかもしれないな、と思わせる1枚だった。また、ジャコメッティのポートレートは、ジャコメッティが作る彫刻や絵画を象徴するような姿で、ちょっとぞくりとした。もちろんカルティエ=ブレッソンは、「今この人の本当の姿が見えた!」と確信してシャッターを押しているのだろうが。被写体にそういう姿をさせるのも、写真家の才能の一つなのだと実感した。人物の写真を撮る才能というのは、風景等を撮る才能とはまたちょっと違うのかもしれない。カルティエ=ブレッソンは運よく両方の才能を持っていたのだろう。
 ちなみに彼自身は、ちょっとはにかみやな所のある内気な人だったそうだ。そういう人が、色々な著名人と会って彼らの心を多少なりとも開かせたのかと思うと、何か不思議な気がする。コミュニケーション能力というのは、いわゆる話が上手いということであったり、気配りが細やかであったりということだけではないのかなと。
 カルティエ=ブレッソンは写真(特に風景写真)を撮る際、構図に徹底的に拘っている。「決定的瞬間」が来るのを辛抱強く待ち、その瞬間が来たらさっと捕まえる。瞬時に配置の美しさを理解する審美眼と瞬発力のある人だったというのが、彼自身の言葉からよく分かるのだ。



『パイレーツ・オブ・カリビアン/デッドマンズ・チェスト』
 ジョニー・デップがお茶目な海賊を演じて大ヒットとなった『パイレーツ・オブ・カリビアン』の続編。前作とはストーリーが直接繋がっており、前作のあらすじ説明等はないので、1作目を見てから本作を見ることをお勧めする。更に、本作の後に3作目が控えているので、もし見るなら3作目まで見る覚悟をしておいた方がいい。最後が思いっきり「続く!」という終わり方になっているので。
 不死の海賊バルボッサから、ブラックパール号を取り戻したジャック・スパロウ船長(ジョニー・デップ)。しかしブラックパール号は、そもそも自分の魂と引き換えに“深海の悪霊”デイヴィー・ジョーンズ(ビル・ナイ)から手に入れたものだった。このままではデイヴィー・ジョーンズとの契約が履行され、ジャックの魂が取られてしまう。ジャックはデイヴィー・ジョーンズの弱点であるデッドマンズ・チェストを追う。一方、婚礼を挙げるはずだったウィル(オーランド・ブルーム)とエリザベス(キーラ・ナイトレイ)は、ジャックを逃がした罪で捕らえられてしまう。
 ディズニーランドのアトラクションが元になっているだけあって、前作同様、老若男女が楽しめる娯楽作。しかし、今回は前作よりもコント風味が増してきた。スタッフや出演者がだんだん笑いのツボを分かってきた(にしては微妙だけど)のか、単なる悪ノリなのか。ともあれ、主演のジョニー・デップの扱いや演技はもはや完全にコントだ。串に縛り付けられて丸焼きにされそうになる件とか、最後の「志村後ろ後ろー!!」的シチュエーションとかには、ドリフかよ!と思わず突っ込みたくなる。最近のジョニー・デップは、こういう過剰にコミカルな役柄がお気に入りなのだろうか。非常にノリが良く、本人が楽しんでいる感じがする。デップ以外でも、ストーリー前半で捕らえられた海賊たちが網ごと逃走するシーンとか、終盤の大車輪上の三つ巴とか、アクション映画というよりもコメディ映画のようなシーン満載。とても楽しかった。ただ、これもやっちゃえ、あれも楽しいぞ、という具合に製作側のノリが暴走気味で、いささかくたびれた。もうちょっとかいつまんでくれてもいいと思うんですが・・・。娯楽作品で上映時間3時間近いってのは辛い。
 メインキャストは全員、前作からの続投だが、それぞれ満遍なく見せ場があった前作と比べると、本作はデップの一人勝ちの感がある。キーラ・ナイトレイの男装姿が凛々しかったり(彼女の胸のなさが遺憾なく発揮されております...)、オーランド・ブルームが相変わらず剣さばきを披露していたりと、それなりに出番はあるのだが、いまひとつ印象が薄い。キャスティング自体は華やかなのにもったいない。3作目では活躍するのだろうか。そういえば、本作のジャックは船長らしいことを殆どしていない。むしろウィルの方がしっかりしていたような。
 基本的に子供の発想から膨らんだような映画なのだが、あまり野暮なことは言わず、童心にかえって楽しむのも良いと思う。 まあディズニー映画ですから。



『トランス・アメリカ』
 大変面白かった。アメリカを横断するロードムービーとしても良いし、親子映画の変化球としても良い。セリフや役者の演技一つ一つに説得力があった。監督のダンカン・タッカーは本作が長編デビュー作だそうだ。デビュー作がこの水準とは、次回作が楽しみ。
 ブリー(フェリシティ・ハフマン)は身体的には男性だが、精神的には女性なトランスセクシュアル。女性として生活しており、性転換手術を控えている。ある日、彼女の元へ息子トビー(ケヴィン・ゼガーズ)が拘置所に入っていると連絡が入る。男性として生活していた当時、一度だけ関係した女性との間に子供が生まれていたのだ。渋々ニューヨークへ向かい、息子の保釈手続きをしたブリー。自分の正体を伏せたまま、彼をケンタッキーに住む継父の元へ送ることになるのだが。
 例えばゲイやドラッグ・クイーンが映画の主人公の場合、大抵陽気で前向き、セックスに対してオープンで、基本的に強い人間という造形をされがちだ。しかし、本作の主人公であるブリーは、内気でむしろ堅物、非常に真面目な性格だ。職業はさえないウェイトレスだし、お金もそんなにはない。ゲイ仲間のパーティで奔放さに眉をひそめたりする。まあ、ごく普通の人なのだ。息子に接する態度も、本当におばちゃん的というか、中年女性のものだ。つまり普通の人なのだ。セクシャリティ以外は。この「普通さ」「生真面目さ」があるからこそ、彼女の「体も女性になりたい」という願いが切実なものとして見えてくるのだと思う。
 ブリーもトビーも、社会的には立場が弱く、本流からはちょっとずれてしまった人間だ。その2人が、ぎこちないながらも徐々に距離を縮めていく様がいい。2人とも最初は「無礼な若者」「堅物のオバサン(後にキモいオカマ)」とお互いに思っているのだが、段々相手の本質の部分が見えてくるのだ。2人が旅の途中で会うカウボーイが、なかなか良いキャラクターだった。彼はブリーとトビーの事情は全く知らない(ブリーが身体的には男性であることも知らない)のだが、彼らの内面にある良い部分を見抜き、率直な好意を示す。彼がトビーにカウボーイハットを被せてやるシーンには、思わず泣きそうになった。
 逆に、ブリーの実家の家族、特に母親は、ブリーが本当はどうしたいのか、何がほしいのかを全く理解しない。ブリーの中に、自分が見たいものを見るだけなのだ。ブリーとトビー、ブリーの家族とのやりとりは、おかしくも痛ましかった。両親や兄弟は人間にとって一番身近な存在だが、その家族に自然体の自分を受け入れてもらえないというのは、辛いだろうと思う。そりゃあ家出もしちゃうよなー、妹もアル中(と直接的には言われていないが、「金を持たせるとすぐ酒に使ってしまう」というようなことを言われているので)になっちゃうよなーと。
 ブリーとトビーとの関係は、母子とも父子とも違うものだ。新しい関係の可能性をほのかに(あくまでほのかに)提示するラストが良い。「何であそこでいきなり終わるの?もっと続きがあるのかと思った」と話ているお客さんがいたのだが、あそこで終わるから良いのよ。はっきりした答えが出ればいいとは限らないのだ。


 

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