6月

『グッドナイト&グッドラック』
 1953年、アメリカはマッカシー議員による「赤狩り」に揺れていた。人気ニュース番組のキャスター、エド・マロー(デヴィッド・ストラーザン)は、家族が共産党員であるという疑いをかけられた空軍兵士が除隊処分を受けたという新聞記事を読んだ。上層部からの圧力がかかる中、マローとプロデューサーのフレンドリー(ジョージ・クルーニー)はこの事件を取上げることにする。
 マッカーシズムに立ち向かった実在の名キャスター、エド・マローとその仲間の戦いを描いた、ジョージ・クルーニー監督出演作品。クルーニーの監督としての手腕は本物らしい。現在のような保守化している国内状況で、あえてこういう題材に取り組んだ所にやる気を感じる。そして、こういう作品を作れるという所が、アメリカの健全さなのだと思う。全編モノクロで、当時の実際のニュース映像も使用しているのだが、上手くかみ合っていた。
 マローたちもマッカーサから名指しで批判され、上層部からは圧力がかかり、彼らを全面的に支持してきた経営者も及び腰になってくる。プレッシャーに耐え切れず、悲劇を迎える同僚もいる。しかし、マロウたちはへこたれずに戦い続ける。渋いオヤジ満載、アメリカ版プロジェクトX(微妙に時期を逃した表現だ・・・)とでもいいたくなる、漢気むんむんな映画だった。といっても暑苦しさは全くなく、あくまで抑え目のトーンだった。マローもフレンドリーも、追い詰められてもユーモアを忘れず、減らず口をたたく。彼らの同僚たちも同様だ。派手に騒ぎ立てるのではなく、あくまでこれが自分の職業だからやる、という姿勢なのが好ましい。
 当時の赤狩りはヒステリックといってもいいくらいで、今見ると(しかも外国の事情だし)何でそんなに共産党を恐れているのかピンとこない。「昔別れた妻が共産党の集会に出席していたことがある」程度でも当局に目を付けられるのだ。世間が一つの方向に流れ出した時の怖さがあった。こういう中で、絶対叩かれるとわかっているのに「いやそれは違うんじゃないの」と声をあげるのは難しい。でもマスコミである以上それをやらなければならないというマロー達の矜持が潔い。私は完全に公正な報道というのは無理だと思っているが、全く画一的な報道よりは、(その方向性が偏っていたとしても)色んな方向を向いた報道が混在している方が、まだしも健全だと思う。マロー達の行動は、正義感云々というよりも、職業倫理(まあ正義感といえば正義感なんだけど)によるものだろう。
 ただテレビというメディアは、そもそも視聴者が見たがるものを作っていくという性質が強い。マローたちの硬派な番組は、娯楽を求める視聴者からは徐々に見放されていく。良質でも硬派な番組はうけないというのは今も昔も同じなのか。何か切ないなぁ。でも視聴者=私たちの嗜好を優先した結果なのだ。テレビはくだらないとよく言われるが、くだらなくしているのは視聴者の意志でもある。テレビに関わる側だけでなく、見る側の姿勢も問われる映画だったと思う。



『嫌われ松子の一生』
 ミュージシャンになる夢を抱えて上京したものの、全く芽は出ず自堕落な生活をしていた笙(瑛太)の元に、父・紀夫(香川照之)が訪ねてきた。笙の伯母・松子(中谷美紀)が死んだので、彼女が住んでいたアパートを片付けて欲しいと言う。笙は顔も知らない伯母のアパートを訪れるが、そこは正にゴミ屋敷。彼女はアパートの住民から「嫌われ松子」と呼ばれていた。若い頃は中学校の教員だったという彼女が、なぜこんな生活を?松子はいったいどんな人生をおくったのか。
 日本版『ダンサー・イン・ザ・ダーク』とでも言いたくなる、悲惨な話を美しく楽しいミュージカル仕立てで見せましょう!という力技。しかも本作は美しいだけでなく滅法笑えるのだ。私は原作小説は読んでいないのだが、多分原作はこんなに笑える小説じゃないはず。悲惨な話を辛気臭く撮ってもつまらない、どうせだったら悲惨を突き抜けて笑っちゃえ!という中島哲也監督の判断は正しかったと思う。しょっぱい女の半生記なんて見たくないです。松子という女性は、客観的に見ると学習能力ないし浅はかだし不幸なんだけど、彼女自身は結構満足していた、常に全力投球(投球方向に問題あるけど)していたように思える。松子をただの不幸な女、惨めな女としては描きたくないという監督の強烈な意思が見られた。怒涛の転落人生、正にライクアローリングストーン状態なのだが、彼女を貶めるような方向にはいっていないのが良い。だから大笑いできるし、ホロリとできるのだろう。
 この監督の映像センスは卓越していると思う。キラキラ感が強烈で、なのに映画として下品にはなっていない。そして、前作『下妻物語』ではそれほど意識しなかったのだが、構成力がかなりある。2時間強、全く退屈しなかった。時代別にエピソードを切り取っていくことによって、昭和の風俗史のような一面も見られて面白かった。映画を見た後でパンフレットを読んで驚いたのだが、最初に挿入歌の殆どを作って、音楽の構成を決めてから他のシーンを当てはめていくという手法で撮られたそうだ。うわー面倒くさい。挿入かシーンそれぞれは、そのままPVに出来そうな完成度なので、それを違和感なく地のストーリーとつなげてあるのには唸った。ただ、最後の鳥瞰視点と時間逆回転は、ちょっと冗長すぎた。「おかえり」ってのがやりたかったんだろうけど、もうちょっとはしょってほしかった。
 キャスティングのセンスの良さには特に唸らされた。主演の中谷美紀は、よくここまでやったなぁというくらいの熱演だった(が、パンフレットによれば本人「力不足で申し訳なかった」とコメントしていて、監督の要求の凄まじさが窺われる)。香川照之の息子が瑛太というのも「あー言われてみれば似ているかも!」と思わず納得。そして松子が付き合ってきた男性達のチョイスもすごい。宮藤官九郎に劇団ひとり、武田真治、荒川良々、伊勢谷友介。特にクドカンの、これが地なんじゃないかと思える目の笑ってなさはすごかった。松子の唯一の理解者とも言える、めぐみ役の黒沢あすかは、多分この映画の中で一番かっこいい。痺れた。個人的には、ソープ店マネージャー役の谷中敦(東京スカパラダイスオーケストラ)と、売れっ子ソープ嬢役のBONNIE PINKのはまりっぷりがステキだったと思う。ともかく細かい所のキャスティングが上手すぎる。劇団ひとりの妻が大久保佳代子(オアシズ)なのには泣けてきた。
 映画自体はとっても面白かったのだが、松子という女性に共感するか、好意的に見られるかというと、それは別問題だ。こういう愛されたくて愛したくてしょうがない人というのは、見ていて疲れる。むしろ、松子を殴ってしまう男たちの気持ちの方がよくわかる。もうねー、ああいった愛情のあり方に耐えられないわけですよ。私が男で松子みたいな女性と付き合っていたら、間違いなく殴っちゃうね。「犬みたいな目でオレを見るなァァァァっ!!」とか言って。



『ナイロビの蜂』
 アフリカに駐在している英国外務省一等書記官のジャスティン(レイフ・ファインズ)は、ナイロビの空港からロキへ向う妻テッサ(レイチェル・ワイズ)を見送った。しかしテッサは惨殺された姿で発見された。彼女は友人である黒人医師アーノルドと共に、スラム地域の医療救援活動に励んでいた。ロキ行きもその活動の一貫だったはずだが、同行したアーノルドは行方不明、事件はよくある強盗殺人として処理されようとしていた。不審に思ったジャスティンは独自に真相を突き止めようとするが、何故か上層部から圧力がかかり、ロンドンへと送り返される。テッサは何をしていたのか。
 物語の一つの軸として、妻が追っていたある陰謀の真相究明というサスペンスがある。趣味が園芸と言う、全く荒事には向かないジャスティンがどのように危機を切り抜けていくか、ハラハラした。情熱的なテッサとは対照的に、ジャスティンは行動的なタイプではないしケンカも苦手だ。しかしさすが外交官というべきか、言葉での駆け引きになると、急に強さを発揮する。逆に、テッサはいわゆるかけひきが苦手で、それが彼女の死を呼び寄せたとも言える。この対照的な夫婦像が面白い。
 スパイ小説の大家であるジョン・ル・カレの小説が原作ということなので、このサスペンス部分が中心なのかと思っていた。「夫婦愛映画」みたいに宣伝されていたのを見て、それはどうかなーと思っていたのだ。しかし、実際に見てみたら、これは確かに夫婦愛の物語だった。客寄せの為のこじつけじゃなかったのね・・・。妻を亡くした夫が、何故妻は殺されたのか、彼女が何を追っていたのか知りたい、妻は本当はどんな人間だったのか知りたいという一心で、それまでの生活も地位も捨てて走り出す。それは、自分が本当に妻に愛されていたのか、愛されていたとしたらそれはどのような形の愛なだったのか知りたいということだろう。そしてテッサがどういう形でジャスティンを守ろうとしていたかということも見えてくる。ストーリーを牽引するのが、夫婦の間の愛なのだ。実際、ジャスティンはアフリカが抱える問題自体にはそれほど興味を示していない。彼がアフリカを舞台にした陰謀をあばこうとするのは、あくまでそれが妻の意思だったからだ。そんな彼が終盤、飛行機に現地の子供を乗せるか否かで、かつての妻と同じような言動をとるのは皮肉でもある。
 一つ一つのシークエンスやその繋ぎ方が印象的だったのだが、特にテッサの死後冷静だったように見えたジャスティンが、ロンドンの自宅で泣き崩れるシーンは圧巻だった。また、アフリカの風景が色鮮やかで強烈。撮影がいい。監督は『シティ・オブ・ゴッド』のフェルナンド・メイレスだが、前作に引き続き、時系列がシャッフルされており、同じようなシーンが反復されることも。しかしきちんと整理されていて、わかりにくいということはない。相変わらず話の組み立て方が上手い。
 正直、メイレス監督がジョン・ル・カレ小説を映画化というのが意外だったのだが、『シティ・オブ・ゴッド』も本作も、命の単価が安い世界を舞台にしている。本作の中心にあるのは夫婦愛だが、アフリカが世界の中で置かれている状況というのも、間違いなく一つのテーマである。そういう意味では、メイレス監督が本作を作ったのも腑に落ちるのだ。



『デスノート(前編)』
 そのノートに名前を書かれた人は死ぬという「デスノート」。そのノートを手にし、犯罪者のいない理想の世界を作ろうとする天才・キラ=夜神月(ライト・藤原竜也)と、人はあくまで司法の下で裁かれるべきだとし、キラを阻止しようとする天才・L(エル・松山ケンイチ)の頭脳戦。連載当初から大反響を巻き起こした人気漫画がついに実写映画化された。監督は平成ガメラシリーズの金子修介。本作は前編で、10月に後編が公開される予定。
 超人気作品の映画化、しかもデスノートの使い方に関する細かいルールがストーリー展開のキモになっているとあって、それをどう映像化するのか心配だったが、少なくとも原作未読者でもわかるようにはなっていた。ルールの提示の仕方がかなりスムーズに、わかりやすくなっていたのには感心した。本作は、ライトとLが出会うまで(出会い方の経緯は原作とは異なる)なのだが、話の流れはかなりスピーディーだった。集中していないと置いていかれそうだ。
 冒頭、本格的に話が転がりだすまで(タイトルが出るまでだったかなー?)がちょっと垢抜けないのだが、これはエキストラ、端役の演技のまずさによるものだったと思う。ライトが凶悪犯探しに乗り込むクラブの雰囲気や、街頭インタビューに答える通行人の言動がカリカチュアされすぎで、もうちょっと何とかならないかなと思ってしまった。また、金子監督は、日常と地続きの部分の作り方が下手なんじゃないかと思う部分が多々あった。ライトの自宅内の生活感のなさはモデルルームなみだ。食事も不味そうだしなぁ・・・。原作自体、生活感とは無縁の作品ではあったものの、せっかく実写で映像化するんだから、もうちょっと配慮してもいいと思う。話が浮世離れしていくと、それほど違和感なくなるのだが。
 私は原作を読んだうえで、そこそこ楽しんで見ることが出来たが、レイ(細川茂樹)とナオミ(瀬戸朝香)の扱いはあんまりではないかと思った。原作でもあんまりな扱いだったレイはともかく、キーパーソンであるナオミの行動が頭が悪すぎる。仮にも元FBI捜査官なのに、ライトに対して安易に近づきすぎで不自然だ(原作では、ナオミはライトを疑っていない)。また、秋野詩織(香椎由宇)というオリジナルキャラクターを投入しているが、あまり上手く活きていなかった気がする。ライトの非情さ人間味の両方を際立たせることは出来たかもしれないが。
 この話は「縛り」と「操り」に特化したミステリだったのだなと、映画を見て再認識した。ただ、映画では「操り」要素が強くなりすぎていたように思う。これだと、Lを結構簡単に殺せることになっちゃうんじゃないかと思う。ともかく、後編で話をどう纏めるのかが気になる。
 キャスティングは概ね成功だったのでは。藤原竜也は正義感ゆえに傲慢な役が良く似合う。映画では、ライトがどこで道を踏み外していくのかが、原作以上に強調されていたように思う。そして、意外な掘り出し物だったのが、L役の松山ケンイチだ。動きがLそのもの。か、かわいいじゃないか・・・!



『ココシリ』
 題名の「ココシリ」とは、実際の地名だ。海省・チベット高原南端のタングラ山脈から、北部のコンロン山脈に広がる、平均海抜4700mの地域を指す。気候は冷寒で空気も薄く、当然人間が活動するには厳し過ぎる環境だ。現在はココシリ自然保護区として管理されているが、保護区に指定されるまでは、密漁によりチベットカモシカの乱獲が行われていた。それに対抗する為に組織されたのが、ボランティアで活動するパトロール隊だった。そのパトロール隊の活躍が報道されたことが、保護区制定の足がかりになった。この映画は、パトロール隊の実話に基づき作られている。
 自腹でチベットカモシカを乱獲する密猟者と戦うパトロール隊もすごいのだが、とにかくココシリの自然がすごすぎる。高い樹木が殆どなく、延々と山と丘が連なる風景。空気が澄んでいるからか、遠近感がだんだんおかしくなってきそうだ。平原を走るジープの方が手前にあるはずなのに、背景の山の方が何故かくっきりと見える。山がやたらとでかい。でかすぎる。すぐそこにあるみたいに見えるのに、多分結構離れてるんだろうなー。
 しかし、まあ雄大な大自然・・・などと思っていられるのは最初のうちで、その大自然の中がいかに過酷な環境かということが提示されていく。道なんてないに等しい(一応公道があるのだが、密猟者が公道を使うはずもないので、パトロール隊も荒地を延々と走っていくことになる)中を延々と走り、当然給油ポイントなんてないから燃料や手持ちの食料にも気をつけなくてはならない。車のタイヤが泥にはまったり、砂に足を取られたりする(流砂が本気で怖い...!)。雪が降れば即吹雪になり、視界が遮られる。密猟者と戦う前に環境と戦わなくてはならないのだ。実際、映画の中でも密猟者ではなく自然災害で死んでいくメンバーが後を絶たない。そういう環境の中で生き残るには、時には仲間を切り捨てていくようなこともしなくてはならない。残酷なようだが、そうしないと仲間全員が死んでしまう。リーダーの苦渋に満ちた顔が印象に残った。
 パトロール隊は、ボランティアでやっていることだから収入はない。お金に困って、回収した密猟品の毛皮を恥を忍んで売ったりもする。そこまでしてどうして密猟の取り締まりをやるのかという動機については、映画の中では語られない。パトロール隊のリーダーは、最後は何かに憑り付かれたように進んでいく。ただ、彼らがココシリをとても大切な場所と思っていることはわかる。具体的にどうこうというのではなく、そこにあるから守る、というようなものなのかなと思った。
 密猟はかなり大々的なものらしく、カモシカの数は激減したとか。映画の中でも、平野一面にカモシカの死体が並んでいるというショキングな映像があった。ただ、密猟者側も過酷な環境の中で活動するわけで、リスクは大きい。彼らの中には、草地が減って従来の放牧ができなくなり、密猟以外に収入を得る道がなくなったという事情を持つ者もいる。パトロール隊は、彼らのそんな事情を知りつつ、彼らを取り締まらなくてはならない。安易に善悪で割り切れる問題ではないことに、暗鬱とした気分になった。



『間宮兄弟』
 間宮明信(佐々木蔵之助)と間宮徹信(塚地武雄)は2人暮らしの兄弟。もう立派な大人だが、兄弟仲がよく一緒に遊んでいる。ある日彼らは一念発起し、かわいい女の子と仲良くなろうと、常連のレンタルビデオ店の店員・直美(沢尻エリカ)と、徹信が用務員をしている小学校の教師・依子(常磐貴子)を誘ってカレーパーティーを開くことに。
 間宮兄弟はすごく仲が良く、一緒に徹夜でビデオを見たり、トリビアクイズを出し合ったり、出張先から電話したりする。文字通りお風呂も一緒寝るのも一緒。しかし彼らはモテない。女の子と仲良くしようとしても、相手からは恋愛対象として見てもらえない。女の子とのお付き合いにおける経験値が少ないから、一緒にいても空気が読めない。まあこれじゃあ、嫌われはしないけどモテないわなぁとは思う。
 しかし彼らが必死で女の子にモテたいと思っているのかというと、どうもそうではないような気がする(そもそも本気でモテたかったら、一人暮らしするんじゃなかろうか)。彼らの人生の歓びは、モテるということとは別の所にあるのではないか。野球観戦にしろモノポリーにしろ、彼らの遊びに対する姿勢は真摯なのだ。生活を面白がる才能があるというか、実に楽しそう。2人の生活は既に完成されていて、そこに女の子が入り込む隙間はない・・・というと言いすぎなのかもしれないが、彼らの世界では、女性はさほど大きい要素ではないような気がする。幸せの形、人生の形は人それぞれだ。
 所で、彼らは別に対人関係が全くできないというわけではなく、それぞれ社会人としてちゃんと生活している。面白いと思ったのが、ビール会社の研究員である明信が地方のビール工場に出張した時、帰り際に工場職員が何人かで見送りをしてくれる。しかも見送りに駆けつけてくれる人もいたりして、熱い握手を交わすのだ。何だか明信は大人気ぽい。おいおいファンクラブかよ!つまり、女の子とはかみ合わなくても、共通の話題のある人とだったら大いに盛り上がれる、あまつさえ人望を得ちゃったりするわけだ。別に駄目な大人というわけではないのだ。人として好かれるというのと、異性に好かれるというのはまた別の問題なのね・・・。
 本作を見てしみじみと思ったのだが、私はどちらかというと間宮兄弟側の人間なのだろう。この映画に出てくる女の子達とは別の人種なんだろうなぁ。人生における楽しみとか悩みのポイントが、彼女らとは明らかに違うと思った。間宮兄弟が面白がっている姿勢についてはすごく共感できるし、一緒に盛り上がりたくなるんだけど。いやー女の子の考えていることは分からないなぁ(同性なのに)。
 キャスティングはなかなか上手くいっていたと思う。間宮兄が佐々木蔵之助とは
ちょっとかっこよすぎないか?と思ったが、妙なおかしみのある人なので、塚地と兄弟役でも違和感ない。また、兄弟の母親役の中島みゆきがすごく可愛い。ぽわーっとしているんだけど、結構度胸ありそう。また、常盤貴子が珍しくどんくさい(しかし何故かすぐ色仕掛けを使おうとする)女性を演じていて、ちょっと新鮮だった。



『隠された記憶』
 TVの書評番組のキャスターを務めるジョルジュ(ダニエル・オートゥイユ)は、出版社に勤める妻アン(ジュリエット・ビノシュ)と12歳の息子と、平穏に暮らしていた。ある日彼の元に、彼の自宅を延々と撮影したビデオテープと、不気味な絵が送りつけられた。その後もビデオと絵は送りつけられる。身の危険を感じたジョルジュは子供の頃のある事件を思い出す。
 監督は『ピアニスト』のミヒャエル・ハネケ。『ピアニスト』がかなりショッキングな作品だったので、今作も後味が悪いだろうなと思っていたのだが、予想を裏切らない嫌〜な映画だった。ただ、サスペンス仕立てなので、前作よりもとっつきやすさはあると思う。本作は2005年度のカンヌ国際映画祭で、監督賞・国際批評家賞・人道賞の三部門を受賞した。
 例えば貧富の差であるとかフランスにおける人種差別であるとか、色々な問題を想起させる作品ではあると思う。しかし、監督の意図はそのあたりにはない(というわけではないだろうが、最も重要な主題とはしていない)のではないか。この映画の最大の特徴は、何が本当かわからないという所だ。ジョルジュは徐々に昔のことを思い出す。映画の中、所々に彼の記憶らしき映像が挿入されるのだが、あくまで彼の主観なので、どこまで実際にあったことなのかは定かではない。それは他の人物に関しても同様だ。彼らの主張を裏付けるものは何もない。ビデオの件だけではなく、妻は浮気をしていたのか否か、息子は一晩どこへ行っていたのか、全て曖昧なままだ。ラストシーンが「衝撃」であると宣伝されていたものの、これは衝撃的な映像であるというより、こうでも言っておかないと何が起こっているのか見落としてしまいそうになるからだろう。しかし、そのラストシーンでさえ、この2人が前々から知り合いだったのか、それともこれから何かが起こるのか、判然としない。更に、この映画のどの部分が送りつけられたビデオテープの映像で、どの部分がリアルタイムとしての映像なのかが、曖昧だ。
 監督は意図的に観客を翻弄し、考えさせるように仕向けている。真相がどのようなものであったかどう解釈しても、監督の想定内になっているのではないだろうか。そういう意味では大変人の悪い映画と言えると思う。観客を観客のままでいさせてくれない、無理やり巻き込もうとする力がある。



『テニスの王子様』
 アニメ化、ミュージカル化もされた週間少年ジャンプ連載の人気漫画「テニスの王子様」(通称テニプリ)が、とうとう実写で映画化された。アメリカ育ちのテニスの天才少年・越前リョーマ(本郷奏多)は、突然日本に呼び戻され、青春学園テニス部に入部することになる。
 読んだことのある方ならお分かりだろうが、原作はあんまりにもあんまりな展開の為、最早キャラ萌え漫画を通り越して、突っ込み素材漫画となってしまった。それを実写化というからどんなことになるのか、色々な意味でドキドキしながら映画に臨んだのだが、予想以上に面白かった。ミュージカル版にも出演しているキャストが多いそうなので、キャラクターに対する理解度が高いのかもしれない。上手いこと特徴掴んでいると思う。特にリョーマ役の本郷奏多(彼はミュージカル版には出ていない)は、小生意気そうで大変かわいらしい。細いよー。小さいよー。彼の着替えシーンや入浴シーンが妙に多いのはサービスなんでしょうか。父・南次郎役の岸谷五郎とのやりとりも、ぶっきらぼうでかわいい。
 原作漫画では、部員の放つ奇想天外な技の数々に読者から突っ込み入りまくりだったろうが、それを実写化されるとやはりかなりの破壊力がある。意外に漫画に忠実に再現しているので、余計におかしい。特にダブルス戦、菊丸
V.S.向日の空中戦はユカイすぎる。文字通り空中で回るんですよ奥さん(奥さん?)!何も本当に回らなくてもいいじゃないかと思うのだが、回しちゃうんですね。「波動球」に至っては死人が出るんじゃないかという勢い。そして技を出すときは当然技の名前をコール。正に戦隊もののノリ。おかしさと恥ずかしさでわき腹を痛くしつつも、大変愉快だった。ちなみに噂の「手塚ゾーン」は、実写だと結構マヌケだった。
 作っている側が「原作そのまんまやったる!ていうかむしろそのまんまが見たい!」と思って作ったのか、それとも「こんなのアレンジのしようがないっす・・・」と諦めて作ったのかは分からないが、その「そのまんま」さが味になっている。ストーリー展開がとっても駆け足ではあるものの、キャラそれぞれの見せ場を作ろう、特徴を生かそうという努力が見られた。意外にエンターテイメントとして良心的なのだ。基本的にテニプリファン向け(一見さんお断り)ではあるのだが、戦隊もののノリが好きな人にはちょっとお勧めしてみたい。妙に燃えます。
 一つ感心したのが、対戦相手である氷帝の跡部の白シャツに、織模様が入っていたこと。さ、さすが跡部様は違うぜ!スタッフよくわかってんなー。
仕事が細かいわ。



『やわらかい生活』
 『ヴァイブレーター』が好評だった廣木隆一監督と女優寺島しのぶコンビの2作目。共演には豊川悦司、松岡俊介、田口トモロヲ。原作は芥川賞受賞作家である絃山明子の「イッツ・オンリートーク」。
 橘優子(寺島しのぶ)は35歳・独身・無職。ふと思い立って蒲田に引っ越してきた彼女は、毎日フラフラと写真を撮って自分のサイトに上げていた。ネットで知り合った「痴漢」(田口トモロヲ)や、大学時代の同級生で、銀行を辞めて区議会議員をやっている本間(松岡俊介)、鬱病仲間のヤクザ(妻夫木聡)とたまに会う日々。そんな中、故郷から従兄弟の祥一(豊川悦司)が転がり込んでくる。
 最初のうち、この女性は何で毎日フラフラしているのかなー、部屋はちょっとアートっぽいけど自営業者なのかフリーターなのかよくわからないなーと思っていた。で、死んだ親の保険金で生活している、かつてはそれこそ「勝ち組」な高学歴・高収入だった、病気で入院していたということが、他の人とのやりとりから徐々に分かってくる。彼女は鬱病なのだが、欝の時期に入っていない時は普通に生活できる。が、一旦欝の時期に入ると、社会生活が全くおくれなくなるのだ。
 こういう所に注目されるのはおそらく監督の本意ではないのだろうが、寺島しのぶの演技が鬼気迫っていて、欝病(そして反動としての操状態)の人は本当に大変だなーと、他人事なのだが大変さをかみ締めてしまった。鬱病の人の話は身近でもよく聞くのだが、実際どういう状態かというと、いまひとつわからない。「鬱々としている」とか「やる気が出ない」とかとは明らかに違うレベルにいっちゃうのね。 コントロール出来ない状態なんだろうなと。髪の毛を洗ってくれた祥一に、優子が八つ当たりしてしまう場面がある。優子に対してわがままばっかりいってしょうがない女だなーと思うこともできるのだが、多分優子自身でもどうにもできないんだろうなーとも思う。多分すごく自己嫌悪に陥るんだろうなと。  「やわらかい生活」という題名ではあるが、あまりやわらかくはない映画だった。優子と祥一との共同生活は、確かに心地良い、やわらかなものだったかもしれない。が、それは微妙なバランスの上に成立った心地よさで、もろい。子供同士が身を寄せ合っているようで、ぎこちなく、なかなか切ないのだった。
2人ともあまりお近づきになりたいタイプではないのだが彼ら生き辛さは、局地的わかるなぁと思うところも。やっぱり切ないなぁ。  私は寺島しのぶという女優があまり好きではないのだが、やっぱり上手いとは思った。すごくすさんでいる感じが出ていて、役の設定年齢や寺島本人の年齢よりもだいぶ老けて見えた。そして豊川悦司が良い。まあ私がファンだというだけなんだが、ヒモっぽい役にはまっていた。あと、舞台出身の俳優だからか、発声がいい。競馬場で叫ぶシーンがあるのだが、意外に声が通る。



BIG RIVER ビッグリバー』
 日本人バックパッカーの哲平(オダギリジョー)、姿をくらました妻を捜すパキスタン人のアリ(カヴィ・ラズ)、アル中の祖父とトレーラーハウスで暮らす若いアメリカ人女性サラ(クロエ・スナイダー)。国籍もまちまちな男女3人が、アリゾナの砂漠をうろうろする。
 ほぼ3人のみで進行するロードムービー。3人の国籍がばらばらであることや(特に9.11以降に撮られた本作でアリをパキスタン人という設定にしたのは)、サラがおそらくプア・ホワイトであることは、いわゆる「アメリカ的な豊かさ」に対する、そこから外れている人の関わりを描きたかったのだろうと思う。途中、西部劇の舞台のような廃墟と化した町で、西部劇の幻を見るくだりあたりにも、アメリカ的なもののアイコンとしての西部劇なのだろうと察することが出来る。しかし、全体的に漫然としていて、アメリカという国の姿はぼやけてしまった。むしろ3人のパーソナルな部分がクローズアップされていくので、正直言ってこれがどこの国を舞台にしていても、そう違いはないのではないかと思った。そもそも日本人である舩橋淳監督が、アメリカを舞台にアメリカについての映画を撮るということに、ちょっと無理があったのかなと思った。ニューヨークを中心に活動している映像作家だそうだが、アメリカという国をまだ消化し切れていない感じがした。
 3人の中で最も印象深いのは、中年パキスタン人のアリだった。演じるカヴィ・ラズという俳優については私は何も知らないのだが、しょぼくれた雰囲気が出ていて良い。彼が「アメリカでは差別される!」と訴える所はちょっと類型的すぎると(実際にこういう状況だったら、もうちょっと違う言い方をするんではないかと)思ったが、奥さんが何で逃げたのか納得いかない所や、奥さんが逃げたということを哲平やサラには言えない所に、万国共通らしい中年男のわびしさが滲んでいた。
 やたらと煙草を吸う場面の多い映画だった。煙草の多さが3人の気まずさを表していたように思う。3人とも成り行きで一緒にいる関係なので、ずっと一緒にいれば当然気まずい。煙草でも持ち出さないと間が持たないのだ。車の中で3人が連想ゲームをする場面があるのだが、英語の語彙の少ないアリは、言葉に詰まると「
Cigarette!」と叫ぶ。ここでも煙草が間を持たせていた。
 ロケ地に少なからず助けられた映画だったと思う。アリゾナの風景は、砂と岩ばかりなのだが美しかった。雄大というより、ぽかんと広がった、だだっぴろい風景で、殺伐とした美しさがある。所々で挿入される空撮も見ごたえあり(あまり必要性は感じなかったが)。
 オダギリジョーが全編英語のセリフに挑んだ映画として評判になったが、彼の英語はなかなか上手かったと思う。発音がネイティブに近い英語というわけではないが、英会話をある程度できるという雰囲気が漂っていた。



『インサイド・マン』
 マンハッタン信託銀行に強盗が入った。客と従業員を人質に取った彼らは、「ジャンボ機を用意しろ」と要求を始める。捜査指揮を取る警官フレイジャー(デンゼル・ワシントン)は、全く焦りを見せない強盗グループのリーダー(クライブ・オーウェン)の態度に疑問を抱く。一方、腕利きの女弁護士(ジョディ・フォスター)は、銀行頭取に呼び出されていた。
 段々と謎が解け最後にはあっと驚く・・・という流れだが、あまりパズル的な構成ではない。複数の視点で事件を疑似体験するという、ハラハラドキドキなサスペンス要素の方がミステリ要素よりも強い映画だった。そもそも観客に対して犯人側の動きがある程度提示されている(そしてある程度までオチが読める)から、謎解きの余地はさほどないのでは。犯人グループのリーダーが何をしていたか、というサプライズに関しても、冒頭の前フリで大体予測がつく(でもああいうことしたら普通バレるんじゃないかな・・・)。
 じゃあこの映画が物足りないかというと、全くそうではない。2時間弱、全く飽きなかった。起こるであろうことがある程度予測出来ていても、それをいつ起こしてどうやって見せるかというポイントが的確に配置されていれば、映画の流れはダレないものだなと思った。今までスパイク・リー監督の映画に対しては、社会派というイメージがあったのだが、本作は堂々たる娯楽作品。しかもキレが良い。シークエンスの緩急の付け方が上手いのだと思う。ワクワクしながら見て、見終わった後はすっきりと忘れられる。この「すっきりと忘れられる」というのは、娯楽作品にとっては案外重要なファクターだと思う。余韻の残る名作もいいけれど、後味を残さない名作というのもある。
 捜査官役のデンゼル・ワシントンには、随分おじさんになっちゃったなーという印象を受けた。しかし、彼の地に足の付いた「普通の警官」な感じがすごく良かったと思う。あと、犯人グループのリーダー役のクライブ・オーウェンは、あまり好みの顔ではないのだが、本作ではかっこよく見えた(笑)。そして弁護士役のジョディ・フォスターは適任。裁判で負けそうな気がしない。メンツだけ見るとやたらと豪華なのだが、映画自体はそれほど華やかな大作風ではなく、むしろ小気味良い小作品といった感じがした。上映時間が短めなのも好ポイント。
 本作で一番いいなぁ!と思ったのは、(ネタバレを避ける為に漠然とした表現になるが)正しくありたい、正しいことを見せたいという監督の意思が見受けられる所。生活していくには、当然清濁併せ呑まなくちゃならない。この映画に出てくる人達は皆腹に一物ある人だ。組織内で強い立場にいるとは言えないフレイジャーにしても、彼よりは断然有利な立場にいる女弁護士にしても、きれいごととは縁遠い存在だ。が、そうじゃないことも出来るんだと。下っ端の警官にも、そして犯罪者にさえ「これを見逃してはいけない」というプライド、矜持があるという、粋なラストだったと思う。
 逆に言うと、そのくらい重い罪だという共通認識があるということだ。そういう点は、あちらの社会は徹底しているなぁとも思った。



『真昼ノ星空』
 日本の隠れ家に滞在中の台湾人の殺し屋・リャンソン(ワン・リーホン)。彼はコインランドリーで見かけるさびしげな女性・由起子(鈴木京香)に思いを寄せていた。リャンソンが通うプールで監視員をしているサキ(香椎由宇)は、リャンソンのことが何となく気になっている。ある日リャンソンは、弁当やのワゴンに乗っている由起子を見かけ、後をつける。
 たまに生活臭のない映画を見たくなるのだが、そういう気分にはちょうど良い映画だった。リャンソンという殺し屋には全く生活臭がない(というか、殺し屋という職業自体だいぶ日常離れしているが)。隠れ家は妙にお金がかかっていてこぎれいだし、彼の作る料理はレストランのディナーの様だ。そして極めつけはリャンソンを演じるワン・リーホンのアイドル的なきれいな顔。対して、鈴木京香演じる由起子は、昼間は弁当屋で働き、夜は工事現場で交通整理のバイトをするという、全くオシャレでない生活をしている。住んでいる家も古い平屋で、質素な生活だ。しかし、鈴木京香が演じていると、疲れた風貌の中にも色気があって、あまり貧乏臭くならない。彼女は本作では、ほぼすっぴんだと思うのだが、流石女優と言うべきかきれいなのだ。映像自体も青みがかった色合いで、特に風光明媚でも何でもない、普通の町の風景なのに、何となく日常離れした感じがする。生活感を上手いこと薄めているなと思った。
 メロドラマとしては非常に薄味で、リャンソンと由起子は手もつながないしキスもしない。出てくる人たちそれぞれが、何らかの形で片思いをしていたり、秘めているものがあったりして、気持ちの出し方が控えめであるのが心地よかった。直接ストーリーには関わってこないのだが、サキの友達らしい少女が、リャンソンと言葉を交わしたサキに嫉妬しているのか、それともリャンソンに嫉妬しているのかよくわからない態度で、妙に必死な感じが可愛くもあり、何となく不穏な感じもし、印象に残った。
 片思いの連鎖で思わぬラストを迎えるのだが、このラストはどうとでも解釈できるものだと思う。色々なところを曖昧なままにしたのがよかったんじゃないかと思う。私はアンハッピーエンドだと解釈したのだが・・・。これでハッピーエンドだとちょっとやりすぎな気がするので。
 夏の香りが濃厚にする映画だった。舞台が那覇ということもあると思うのだが、太陽がカーっと照る感じとか、プールの匂いとか、夏の夜の空気が湿った熱気とかが、うわーっとよみがえってきた。少々少女マンガ的ではあるが、ほのかなメロドラマといった味わいのする、なかなかの好作。こういう映画がお蔵入りになっていた(製作されたのは2004年)というのは残念。同じようにお蔵入りになっている映画がいっぱいあるんだろうなー。もったいないなー。


 

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