5月

 

『プロデューサーズ』
 いわずと知れたミュージカルの名作の映画化。しかし元々は映画作品(メル・ブルックス監督・脚本、アカデミー賞オリジナル脚本賞受賞、助演男優賞ノミネート)で、それをミュージカル化し、それがさらにミュージカル映画化されたという経緯なのだそうだ。本作では舞台版の演出家であるスーザン・ストローマンが監督、オリジナルメンバーも出演という、ミュージカル版にかなり忠実な映画になっている。
1959年ニューヨークのブロードウェイ。一度は名声を手にしたものの、今では最低のプロデューサーとして知られるマックス(ネイサン・レイン)。新作ミュージカルも大コケで頭を抱えるマックスの事務所を、会計士レオ(マシュー・ブロデリック)が訪問する。興行が失敗した時の方が儲かることもあると気づいたレオを上手く言いくるめ、マックスは史上最悪のミュージカル製作に乗り出すのだが。
 ギャグの数々の古臭さ、ベタベタさに辟易するかもしれないが、そこはぐっとこらえてほしい。俳優たちが一度歌いだすと、実に楽しい。さすがミュージカル!と喝采したくなる。そもそもミュージカルは多分にベタで過剰なものだからこれでいいのか。スマートなものを好む人はそもそもこの映画を見に来ないんじゃないかと思う。
 ミュージカル版の演出家が監督しているからか、画面のセットも舞台装置ぽい。といか舞台装置がそのまま映画の中に出現しているみたいだ。これだけ舞台のミュージカルぽいと、映画にする必要はないのでは?と思うかもしれないが、映画には映画の面白さがあると思う。ニューヨークの街中でのロケは映画ならではだし、キャストをアップで見ることが出来るというメリットも。美男・・・はいないかもしれないけど、美女の方はウマ・サーマンが1人で請け負って、美脚を惜しげもなく披露している。あと「ハト」がらみのネタも映画ならではだろうなぁ・・・。
 ちなみにこの映画、どういうわけかゲイ絡み(というかステレオタイプのオカマ絡み)のネタが多い。そもそも主役2人の間が何かあやしいよ!と思ったのは私だけでしょうか。私だけですね。ともあれオカマの演出家&アシスタント一同はかなり強力なキャラだ。演出家とアシスタントの笑い方がまんまおすぎとピーコなのだが、オカマの笑い方は万国共通なのでしょうか。あと、エンドロールは必ず最後まで見てほしい。エンターテイメント魂を見た。


『ぼくを葬(おく)る』
 海で始まり海で終わる。なるほどこう繋がっていたのか。31歳の新鋭カメラマン・ロマン(メルヴィル・プヴォー)は撮影中に突然倒れ、病院に運び込まれる。診察した医師からは、ガンで余命3ヶ月と告知された。
 前作『ふたりの5つの分かれ路』がいまひとつだったので、あれーこれは停滞ぎみなのかなーと思っていたら、今作では何だか巨匠の風格すら漂ってきたフランソワ・オゾン監督。やっぱり只者ではなかったか。彼が現在挑んでいるのが「死についての3部作」だそうで、今作は愛する者の死についての映画であった『まぼろし』に続き、「自分自身の死」を取上げている。
 余命僅かと宣告されたロマンは、病と闘うわけではない。肉体的、精神的に苦しみつつも死を受け入れていく。死との向き合い方は人それぞれだと思うが、ロマンはあくまで自分1人で死を向き合う。死を受け入れて平穏な心になっていくほど、彼は孤独になっていく。むしろ勤めて孤独であろうとし、自分の死を自分1人だけのものにしようとしているように見える。
 彼の死の受容の仕方は、彼自身には平穏をもたらすかもしれないが、身近な人々にとっては残酷なことかもしれない。彼は家族にも恋人にも病気のことを打ち明けず、自分の心の中だけで人間関係に決着を付けていく。残される側にとっては、本人の言動の意図がわからなくて辛いんじゃないかと思う。ロマンの若い恋人が、急に別れを切り出されてうろたえる様、そして後にロマンと再会し彼の言動に戸惑う様が、まだ幼さの残る青年で状況を全然分かっていないらしいだけに、何ともやるせない。残される側はたまったもんじゃないなーと思う。でも一方で、死ぬ本人が納得しているならそれでいいじゃないかとも思う。
 ロマンが唯一自分の死が近いことを打ち明けるのが、父方の祖母(ジャンヌ・モロー)だ。この2人のシーンが圧巻だった。祖母が彼に「今夜あなたと死にたい」というセリフがすごい。この2人は、ロマンが言うように「僕もおばあちゃんももうすぐ死ぬから似ている」のだが、それ以前に自己のあり方が似ているのだろう。基本的に常に1人で立つタイプの人なのではないかと思う。特に親密な祖母と孫というわけではないのが、魂の根っこのところが繋がっている感じがするのだ。逆に、実の姉や母親とは、もちろん何某かの愛情はあるのだろうが、理解しあっている、繋がっているとは言い難い。姉とのわだかまりは、まだ愛情故という感じがするが、母親とは明らかに別種の人間なのだなぁと。実家で食事をするシーンで、ロマンと母親とが全くかみ合っていないのがいたたまれなかった。もし家族ともっと繋がっている感じがしていたら、ロマンは自分の病気のことを打ち明けたのだろうか。それともやはり1人で死んでいくのだろうか。
 彼が子供嫌いだったり、家族の写真を撮りたくないというのは、つまるところ自分に連なるものが嫌い、自分のこと・子供の頃の自分を好きではないということではないかと思う。彼が姉親子の写真を撮ったり、最後にある幻を見たりするのは、ようやく自分を受け入れることが出来るようになったということなのだろう。
 重く堅いテーマだが、主演のメルヴィル・プヴォーが大変美形なので、見た目としては楽しい。彼のルックスがこの映画を牽引している感じもした。冒頭と終盤とでは肉付きがかなり違っていて、きついダイエットをした様子が窺われる。そしてやはりジャンヌ・モローは存在感が強烈だ。もうすっかりおばあちゃんなのだが、色香がある。あと、出番は少ないのだがロマンの父親役のダニエル・デュヴァルはいい顔をしていて存在感があった。
 唯一ひっかかったのは、ロマンが自分の子供を残そうとすること。ゲイであるロマンにとっては自分の指向に反する行為をすることになるのに、何でわざわざ遺伝子を残すのかと。子供を欲しがっている夫婦に対する善意や好意ではないだろうし、自分の痕跡を残そうとしているとも思えない。もっとそっけない感じなのだ。生物の役割として?



『アイスエイジ2』
 氷河期を舞台にしたアニメーションの第2作目。今回はいよいよ氷河が溶け始め、マンモスのマニー(山寺宏一)、サーベルタイガーのディエゴ(竹中直人)、ナマケモノのシド(太田光)も洪水から逃れる為に、氷河の谷の果てを目指して旅を始める。旅の途中でマンモスの女の子エリー(優香)と出会うが、フクロネズミの兄弟と育った彼女は、自分もフクロネズミだと思い込んでいた。
 前作は、人間の赤ちゃんという全く言葉の通じない異世界の存在を、人間の社会に送り届ける旅だったが、今回は言葉は一応通じるけど上手く噛み合わないという、なまじ言葉が通じるよりもある意味質が悪い相手との旅。絶滅寸前のマンモスという種族で、自分の家族を既に失っているマニーは「同じ群の家族と一緒にいるのが一番」と思っているが、最終的には種族とは違う形の家族を作ろうとする所が、今日のアメリカ的なのかなとちょっと思ったが、それは穿ちすぎか。
 正直言うと、本筋のストーリーはそれほど面白いとは思わなかった。サイドストーリーとして前作から引き継がれている、リスとドングリのエピソードの方が笑える。全くのサイドストーリーかと思っていたら、あんな形で本筋に絡んでくるとは!そしてオチまでひっぱってくる(しかもバカ演出)あたりに、制作側のリスに対する愛を見た。予告編もリスがメインだったし、ある意味筋が通っている。
 日本語吹替え版で見たのだが、シド役の爆笑問題・太田は上手い。シドというキャラクターのウザかわいさに、彼の資質がよく合っていると思う(いや誉めてるんですよ!)。そういえば相方の田中も『モンスターズインク』では好演していたし、2人とも芸達者なのね。それに対して、声優が本業の山寺宏一はいつになく冴えない。マニーのような生真面目でお堅い役にはあまり合わないのだろうか。喋り方がもったりしていて、本来持っている軽妙さが活かせていなかったと思う。ディエゴ役の竹中直人は最近滅多に見られない二枚目演技なのだが、いかにも「俳優が声優やってます」的なたどたどしさがあって、正直苦しい。エリー役の優香は、予想よりは上手かったが、まあこんなもんかなという程度。
 それにしても、最近の3Dアニメーションのレベルは高い。技術の進歩ってすごいなー。前作でも氷の表現が美しかったのだが、今作は水の質感がすごくリアル。リアルすぎてデフォルメされたキャラクターや風景とかみ合っていない所もあったが、水中の気泡などはすごくきれいだった。



『ファザー、サン』
 退役軍人である若い父親アンドレイ(アンドレ・シチェティーニン)と、軍人養成学校に通う息子アレクセイ(アレクセイ.ネイムィシェフ)。父親は息子をとても愛しているが、思春期の息子との間には感情のもつれもあった。
 芸術性が高く難解なことで知られるアレクサンドル・ソクーロフ監督の新作は、意外にセリフや音楽が多用されていて間口は広目(といってもやはりソクーロフだから、私にとっては睡魔との戦いだったのだが...)。愛情と反感、きまり悪さのようなものが入り混じった息子の父親に対する態度は普遍的なものだろう。父親の、愛しているのだが息子の不機嫌さにどう向き合えばいいのか分からないというような態度も。しかし、父親と息子という設定ではあるものの、父親が若いので、兄弟のようにも同性の恋人同士のようにも見える。冒頭の肉体の絡み合いには、一瞬何事かと思った(笑)。そしてアレクセイが見せる、アンドレイの友人の息子に対する嫉妬は度が過ぎているようにも見える。親子の形というだけではなく、もっと広義に象徴的に、2人の男性の関係性として見せようとしているのかもしれない。「父親の愛は苦しめること、息子の愛は苦しむこと(だったか?)」という言葉が印象的。
 そして2人に、隣人である息子の友人や、父親の友人の息子サーシャが絡む。息子とその友人は、友人同士というよりむしろ兄弟のような、保護者・被保護者的な側面を見せる。そしてアンドレイとサーシャの関係も、サーシャがアンドレイに保護を求めているような所がある(サーシャの父親は失踪しており、彼は父親の行方を捜す為にアンドレイの元を訪ねた)。父・息子的なもの、保護者・被保護者的なものが映画の中に偏在している。しかし、この関係はふとしたことで逆転もするのだ。
 親子は肉親であるが、遠い存在でもある。特に子供にとって、親というのは近しいが結局分からないままの存在なのかもしれない。夢の中で、2人はそれぞれ一人で立ち尽くす。父親が病気を患っているらしいことも加わり、離別が予感されるのだった。
 映像がとにかく美しく、色彩や輪郭が柔らか。そして緊張感に満ちている。具体的にドラマチックなストーリーが展開するわけではないのだが、不穏な感じがしてドキドキした。人物のアップが妙に多いことも関係しているのか。



『ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!』
 発明家のウォレスと愛犬グルミットが住む町では「巨大野菜コンテスト」を間近に控えていた。しかし野菜を食い荒らすウサギが大量発生しており、ウォレスはウサギ狩に奔走していた。首尾よくウサギを回収したものの、数が多すぎて収容しきれない。そこっでウォレスはウサギを野菜嫌いにする機械を発明し、さっそく実験してみたのだが。
 クレイ・アニメの金字塔を打ち立てたアードマン・アニメーションの「ウォレスとグルミット」シリーズ、待望の長編映画。アニメーターの指紋まで見えそうな手作り感覚の映像はもちろん、脚本も結構練ってあって面白かった。オーソドックスな映画の素養がかなりある製作陣なのではないだろうか。コメディであり、SFであり、ホラーであり、ミステリであり、アクションである。モンスターの正体を明かす過程など、結構スリリングだ。
 手作業のクレイアニメであるので、企画から完成まで実に5年。1人のアニメーターが1週間で作れる映像が5秒というから気が遠くなりそうだ。今作ではCGも加わり、映像にはかなり見ごたえがあった。クレイアニメはこじんまりとした作品になりがちだという先入観があったのだが、本作にはスペクタクル感を感じた。終盤の、グルミットが活躍する空中戦(文字通りのドッグファイト)はかなりかっこいい。あと、今までのウォレス〜シリーズは割ともったりとした笑いのある作品だったと思うのだが、本作はテンポがより軽快だった。
 それにしても、ウォレスは本当にダメなおっさんですね!こんなダメ主人に尽くすグルミットの忠犬振りには泣けてくる。な、なんでそこまで...(涙)。ダメな男ほどかわいいということでしょうか。



『僕とキミの虹色の世界』
 高齢者専用タクシーの運転手をしている芸術家の卵クリスティーン(ミランダ・ジュライ)、離婚したばかりの靴屋の店員リチャード(ジョン・ホークス)を中心に、アダルトチャットにはまっている幼児や、大人ぶった女子高生2人組、冴えない中学生男子や「嫁入り道具」収拾が趣味の女の子ら、普通だけどちょっと変な人々の群像劇。
 ヒロインのクリスティーンは、自分の思いで突っ走ってしまう、ちょっとイタい女の子。可愛いから許されるけどそれストーカーですから!みたいな所は『アメリ』と似たタイプだと思う。映画全体の美術や衣装のかわいらしさも、『アメリ』ぽいかもしれない。女性監督による衣装や音楽がオシャレっぽい映画という点では、ソフィア・コッポラにも似ているかも(実際、ポストソフィア・コッポラと称されているらしい。ソフィアと同じく洋服のプロデュース等もしているそうだ)。しかし、アメリのように凝りに凝って作りこんだファンタジー(悪意込み)ではないし、ソフィア・コッポラほどガーリーではない。もっと、一種の野太さみたいなものがある。
 何より、この映画に出てくる人たちは、客観的に見たらちょっと困った人、ちょっと冴えない人ばかりだ。ヒロインは可愛いと言えば可愛いが、いわゆる美人ではないし、美男も出てこない。そしてヒロインを筆頭に、情熱の空回りっぷりが結構みっともない。勢いで自分に放火しちゃうリチャードや、リチャードに片思いをして暴走しちゃうクリスティーンの姿は、正直イタい。が、どこか可愛い。アホだなぁと切り捨てられない感じがする。やっぱり一生懸命だからなんだろうけど。しかしそんな彼らにも輝く瞬間は訪れる。
 リチャードの中学生の息子と、隣の家の女の子(嫁入り道具を集めている子)が最後に見せる奇妙な連帯感が、何となく心温まった。お互いにやっと居場所が出来たのかなという感じがして。あと、リチャードと息子2人が夜中に散歩する所がよかった。お互いにちょっと照れがある感じがね。



『僕の大事なコレクション』
 いやー、これはすごく良いですね!予告編すら見たことがない状態で見に行ったのだが、当たりでした。こういう予期せぬ大当たりがあると大変いい気持ちになります。
 一族に関わる様々なものを収集しているユダヤ人青年ジョナサン(イライジャ・ウッド)は、死んだ祖母が残した写真を手がかりに、子供の頃に死んだ祖父の知り合いだという女性を探しにウクライナへ向かう。通訳兼ガイドの青年アレックス(ユージーン・ハッツ)とその祖父(ボリス・レスキン)は、今はなくなった「トラキムブロド」村を目指す。
 若者は、自分の過去はともかく、両親や祖父母の過去(歴史と言ってもいい)は自分とは無関係だと考えがちだ。しかし、何かの拍子にそれがひょっこりと姿を現す。アレックスが戸惑うのは、彼にとって実際的な関わりがないと思っていた「歴史」であったものが、いきなり身近な所と結びついてしまったからだ。対してジョナサンが終始冷静なのは、彼がコレクター=過去を収集し、分類・観察する存在だからだろう(彼がユダヤ人であるということも大きく関わっているのだろうが、そのあたりの事情には残念ながら私は詳しくない)。コミカルなロードムービーだと思ったら、シリアスな問題が中心にあった。最後は悲しみを湛えつつも、ペシミスティックではない。こういう形の許され方がありうるかというと、どうかなとは思うのだが、それでも希望のある終わり方でよかったんじゃないかと思う。
 作っている側が手馴れている感じの映画ではないのだが、所々にびっくりするくらいいいシークエンスがあって、随所でひきつけられた。ショボいホテルの食堂でじゃがいも落とすあたりの、全員がもうしょうがなくて笑っちゃう感じとか。全体的にユーモアのセンスが良かったと思う。映像も、ウクライナの丘がうねうね続く風景に拠るところが大きいのだろうが、長閑で気持ち良い。ひまわり畑とはためく洗濯物なんて、半分くらいファンタジーの世界に入っている感じで素敵。このシーンだけでなく、主観と客観の描き分けが上手いと思った。
 キャストも好演。イライジャ・ウッドはやはり演技が上手いんだと思う。そして出演作を上手く選んでいる感じが。アレックス役のハッツは本業はミュージシャンで、演技経験は全くないそうだ。でも滅茶苦茶ブロークンな英語にいい加減な通訳がいい味出していた。アレックスの祖父役のボリス・レスキンはロシアの名優なんだそうだが、この役にはこの人以外考えられないというくらいぴったり。そして犬が名演だった。なかなかこういう味わいは出せないと思う。



『立喰師列伝』
 歴史の裏で暗躍し、あらゆる飲食店を戦慄させた伝説の仕業師たち。人は彼らを「立喰師」と呼んだ・・・。
 第二次世界大戦後の闇市にたたずむ立ち食い蕎麦屋に現れた「月見の銀二」を始めとする立喰師たちを紹介しつつ、戦後からバブルの時代までを追う擬似近代史でもある。しかし若い世代には、それがネタなのか史実なのかわからない所も多いのでは。その時代をある程度体験していないと分からないネタが多すぎたと思う。そして、コメディであるのにギャグが全く笑えないというところが最も痛い。私が見に行った時にはそこそこ人が入っていたのだが、そこ笑う所だよね?という所でも客がくすりとも笑わない。場内に吹き荒れる北風。正直辛かった。
 押井守監督の新作になるわけだが、制作費をばーんとつぎ込んだ前作『イノセンス』とはうってかわって、本作は安上がりっぽい。手法はいわゆるセルアニメーションではなく「ライヴメーション」なる、デジタル写真を3DCGアニメーションとして動かすもの。手法自体はまだ色々と面白い見せ方が出来そうなのだが、本作ではいまいち洗練されきっていないというか、紙芝居かパラパラマンガを見せられているみたいで、あまり新鮮味は感じなかった。使い方に研究の余地ありか。
 そしてキャストは押井&ジブリ人脈とでもいうべき、分かり人にしか分からない業界関係者の皆様。同僚とか友達とか友達の友達とかに出てもらったというノリで自主映画のようだ。でも自主映画って、内輪の人間でない(時には内輪の人間しか)と楽しめないことが多いよね・・・。
 普通、モノローグやナレーションの長い映画は駄目な映画とされていると思うのだが、本作は延々とナレーション進行。出演者の演技力が皆無でも大丈夫!ある意味いい度胸。それにしても、本当にこのネタを長年温めていたのか?!本気で撮りたかったのか?!なにをどうやりたかったのか、著しく見失っている気がするのだがどうだろう。



『愛より強く』
 最愛の妻を亡くし、無気力な生活を送る中年男ジャイト(ビロル・ユーネル)は、殺人未遂を起こして精神科へ送られた。彼はそこで若い美女シベル(シベル・キケリ)に偽装結婚を持ちかけられる。トルコ系ドイツ人であり厳格なイスラム教徒の家庭で育ったシベルは、結婚する以外に家を出る道がないのだ。シベルの情熱に押し切られ、結婚を承諾するジャイト。しかし、ジャイトは徐々にシベルを本気で愛するようになる。
  第54回ベルリン映画祭で金熊賞を受賞した、ファティ・アキン監督作品。偽装結婚が真実の愛に、というと典型的なメロドラマにも思えるが、泣かせや甘いロマンスは一切なしの、意外にもハードな映画だった。ハードといっても難しいとか堅いとかいうのではなくて、激しい、厳しいという感じのハードさ。タイミングの悲劇とでもいうような、男女のすれちがいがやるせない。
 監督自身トルコ系ドイツ人であり、自らのルーツを見つめなおすという意図もあったようだ。ヒロインがトルコ系であり、イスラム教徒の家庭で育っているというのがストーリー上での大きな要素になっている。現代でもこんなに戒律が厳しいとは、正直思っていなかった。女性にとっては辛い環境だなー。夫以外の男と関係を持ったシベルが「家族に知られたら殺される!」というのだが、言葉のあやじゃなくて本気で殺されかねないということなのね。実際、ある事件の後、シベルの父親は娘の写真を全て燃やし、兄は「妹とは縁を切った」と言う。兄がすごい形相で妹を追っかけてくるのが怖い。キャリアウーマンとして活躍するシベルの従姉妹は、一族の中では異形の存在だ。それは偽装結婚してでも家から出たいかもな・・・と納得してしまう。
 もっとも、シベルという女性は、いわゆる自立心の強い女性というよりも、元来はお嬢さん育ちで甘ったれな人だと思う。だって自由=複数の男と遊んでドラッグやるって、それもまた一つの道だけど、普通はしっかりした人はやらないでしょー!後先考えようよ!
 で、そのシベルを延々思い続けるジャイトだが、頼りにならないヘタレ男ではあるがシベルへの思いに関しては一本筋が通っている。見返りを求めず(肉体関係もなしで)ただただ愛してくれるというのは、女性にとって(ムシのいい話ではあるが)一つの理想ではあるんじゃないかと。奔放なシベルに耐えまくる姿が健気だが、シベルのせいで人生狂っちゃうのだ。結局惚れた者負けなのかー。余談だが、ジャイト役のビロル・ユーネルのギョロ目顔は、個人的にはかなり好き。全体的に細いんだけどお腹がたるんでいるあたりにもかわいらしさを感じる(私だけか)。
 ドイツを舞台とした前半は、登場人物の歓びも苦しみもテンションが高く、エネルギッシュ。しかし後半、舞台がイスタンブールに移ると、ジャイトが悟りの境地に至ってしまうからか、しんみりとしたトーンになる。しかし全体的に力強い。ハッピーエンドというわけではないが、これはこれで・・・と思った。
 ちなみに、監督は音楽好きらしく、ロックや伝統音楽がごった混ぜで多用されている。要所要所でトルコの伝統音楽ぽいバンドの演奏が挿入され、アクセントになっていた



『美しき運命の傷痕』
 『ノーマンズ・ランド』でアカデミー外国語映画賞を受賞したダニス・タノヴィッチが、今は亡きポーランドの巨匠・キシェロフスキが残した三部作構想を映画化した。本作は三部作のうち「地獄」をテーマとした作品である。ちなみに三部作のうち「天国」は、トム・ティクヴァがケイト・ブランシェット主演で映画化している(映画タイトルは『ヘヴン』。私は未見です)。ダノヴィッチ監督は、『ノーマンズ・ランド』ではコミカルかつ非常にシニカルな作風だったのだが、本作ではキシェロフスキ作品の雰囲気を意識的に再現していたと思う。植物をUPにしたときに周囲にほこりが舞ってきらきらしている所とか、ガラス越しに見る人物の姿、コップで溺れるハエのショットがすごくキシェロフスキぽくて、ちょっとびっくりした。
 三人姉妹の長女ソフィー(エマニュエル・ベアール)は夫の浮気に悩んでいた。次女セリーヌ(カリン・ヴィアール)は、毎週介護施設にいる母親(キャロル・ブーケ)を見舞っている。三女アンヌ(マリー・ジラン)は大学生だが、教授と不倫関係にあった。
 予告編を見て想像したのとは全然違う方向に話が進むので要注意かもしれない。配給会社が宣伝していたような「激しくも美しい、愛と再生の物語」ではないのだ。この物語はもっとエグい。特に次女のエピソードは、キシェロフスキの『愛に関する短いフィルム』をモチーフとしているのかと思ったら、えええ〜そういうオチなの?!と。3人姉妹が抱えている問題は、深刻ではあるが、月並みというか、物語としてはステレオタイプなものだ。真の主役は3人姉妹ではなく、彼女らの母親だったと思う。母親が最後に発した(と言っても彼女は声が出ないので文字で綴るのだが)言葉は強烈だ。そんなに許せないものなのかと。彼女は娘たちの為に父親を退けるのだが、見ていると娘の為というよりは、自分のプライドの為なんじゃないかなーと思わなくもない。娘たちに比べて圧倒的に真意が見えないところが、マリー・ジランの冷たい美貌とあいまって怖さを増していた。こういう人が母親だったら正直大変だと思う。延々と自己主張が激しそうだもんなぁ。
 「愛と再生」とうたわれているものの、愛も再生もはっきりとした形では提示されない。希望の見える終わり方というわけでもなく、むしろ人間の愛ゆえに苦しむという面、人間の心の不可解さが強調されていたと思う。しかも3人姉妹は結局愛を失っていくのだ(ソフィーは夫を、アンヌは愛人を、そして一見愛に恵まれていないように見えるセリーヌは、彼女を常に気遣ってくれた老人を亡くす)。しかし終盤、姉妹は電車の中で、どことなくすっきりとした顔をしている。(ソフィーとアンヌに限っては)見切ったほうがいい愛もあるのだ。
 冒頭の、カッコーのヒナの映像が象徴的だ。そのまま「託卵」ととってしまうのは穿ちすぎだろうが、善意でやったことだが・・・という意味合いが、不穏な余韻を残す。



『トム・ヤム・クン!』
 
原題が本当に『トムヤムクン』だったことにびっくりした。更に、本作の初期の予告編「ぞーうさん ぞーうさん だーれが好きなーのー そーよ ジャーさんが すーきなのよー」という脱力感溢れる替え歌が歌われていたのだが、実はこれ、そう的外れでもなかった、というか本作の核心を突いている!ということにびっくりした。
 代々、王に献上する為の象を育てているカーム(トニー・ジャー)と父親、昔は王族に使える兵士の一族だった。ある日、カームが可愛がっていた象がベトナム人マファイアのジョニー率いる動物密売組織に奪われてしまう。ジョニーを追って単身オーストラリアに乗り込むカーム。しかしひょんなことから警察にまで追われることになってしまう。
 前作「マッハ!」はトニー・ジャーの動きに目が釘付け、思わず口をぽかーんと開けっ放しにしてしまう快作アクション映画だった。本作でもスタント一切なしというルールは貫いている。しかし、「戦ってはいけない」という縛りがあった前作では、曲芸のようなアクションがメインだった。対して、本作では結構早い段階で敵と戦い始める。前作のひょいひょいと宙を舞うトニー・ジャーの動きが魅力的だったので、ちょっとがっかり。でも基本的な動きが圧倒的に早いので、ガチンコ勝負もかなり見ごたえがある。
 悪党(小物)のアジトがまるで日活アクション映画のセットで笑ってしまったのだが、その日活アクションな画面の左上からトニー・ジャーがひょーいと飛び込んできて、右下にいる悪党にゴキっと一発くらわせるというシークエンスがものすごく気持ちよかった。トニー・ジャーのアクションの気持ちよさは、滞空時間が長い所にあると思う。格闘アクションだと、上下の動きはあまりなくなっちゃうのでもったいなかった気がする。 格闘をメインにもってきたということで、プロレス風だったり拳法風だったりカポエラだったりと、格闘技のバリエーションも揃っていた。特にカポエラの人は面白かった。他の格闘技に比べて動きがリズミカル。
 舞台がオーストラリアだったり、キャラクターの国籍もまちまちだったりと、世界進出を視野に入れた本作。しかし、タイ映画独特の不思議さがあると思ったのは私だけか。冒頭、延々と象とトニー・ジャーが戯れていて、なかなか話が進まず、一旦話が転がりだすと途中何か抜けてるんじゃないの!?と思うくらい一気に転がる。全体の構成が不思議だ。最終的にはハリウッド進出を狙っているのだろうが、基本的な文法がどこかずれている気がするんだよなー。これは今までタイ映画を見る度に思っていたことなのだが、そこがタイ映画の良さでもある。あと、ラスボスのキャラクター設定にタイのお国柄を感じた。



『家の鍵』
 妻と幼い子供がいるジャンニ(キム・ロッシ・スチュアート)は、ミュンヘン駅のカフェに呼び出された。ジャンニには若い頃に付き合っていた恋人がいたが、彼女は出産が原因で死去した。ジャンニはそれがショックで、生まれた息子パオロ(アンドレア・ロッシ)を捨て、恋人と彼女の家族の元を去ったのだ。ジャンニを呼び出したパオロの伯父は、障害のあるパオロをミュンヘンからベルリンのリハビリ施設まで送り届けるようジャンニに頼んだ。ジャンニは初めてパオロと面会するが、戸惑いを隠せない。
 障害を持った子供と生きていくという、かなり硬派なテーマの作品ではあるのだが、意外にもユーモアに満ちていて、くすりと笑わせられるシーンが随所にあった。笑いの要因は主にパオロのよく言えば天真爛漫、悪く言えば傍若無人な振る舞いにある。しかし単にわがままなのではなく、彼なりのユーモア・機知があるということが見て取れるのだ。明らかにジャンニを笑わせようとしているということが分かる言動もある。ジャンニも徐々にパオロのユーモアを解するようになり、2人で冗談を言い合う所など微笑ましい。
 しかし、ベースにある問題はやはり重い。ジャンニはリハビリ施設で、重い障害を持った娘を持つ中年女性ニコール(シャーロット・ランプリング)と出会う。自力での移動が可能で周囲とコミュニケートできるパオロと異なり、ニコールの娘は車椅子なしには動けず、言葉も話せない。親の立場からすると、「私がいなくなったらこの子はどうなるんだ」と気が気でないだろう。シャーロット・ランプリングの演技がこれまた素晴らしく、落ち着いた(諦念したような)態度の中、時折激しい感情がぱっと表出する感じがありありと現れていた。この母娘は、ジャンニとパオロ父子のもう一つの姿とも言える。ジャンニ自身も、「(パオロは)まだ子供だからかわいがってもらえるが、体が大きくなったらそうはいかない」と将来に対する不安が隠せない。障害を持った子供の親にとって、子供が成長していくというのがいかに悩ましい問題であるか、再認識させられた。
 最後、ジャンニはパオロをつれて、彼のペンフレンドが住むノルウェーへと向かう。物語は一気にファンタジーっぽくなる...が、最後に突きつけられる結論はシビアだ。親子は最初から「なっている」のではなくて、「なっていく」ものなのだろう。「家の鍵」というタイトルの意味が重い。ジャンニハパオロと心を通わせたが、彼の「家の鍵」をもらえなかったのではないだろうか。



『陽気なギャングが地球を回す』
 
伊坂幸太郎の同名小説の映画化。小説の映画化というと、原作ファンにとっては心配&失望の絶えないものだ。また映画を作る側にとっては、どう頑張ってもファンが持っている原作のイメージとはズレてしまう。そのあたりをどうクリアしていくかにかかっていると思うが、本作はそこそこ健闘していたと思う。私はかいます。
 世間を騒がしている4人組の銀行強盗。この4人=公務員で嘘が見破れる成瀬(大沢たかお)、喫茶店マスターで演説の達人(?)響野(佐藤浩一)、スリの天才・久遠(松田修平)、正確無比な体内時計を持つ雪子(鈴木京香)は、新たな銀行強盗の計画を練るが、思わぬアクシデントが。
 私、原作は読んだものの、その流れを既に忘れてきているのだが、概ね(ラストちょっと違うし、あえて端折っている設定もあるんですが)忠実だった。映画としては、最後伏線の回収速度が速すぎてちょっと混乱しそうになるが、うまくまとまっていたと思う。
 実写映画ではあるのだが、手法がアニメーション的とでもいうか、かなりデフォルメした作風になっている。監督の前田哲は伊丹十三や阪本順二、周防正行らの下で助監督をやっていた人なので、コミカルな作風には慣れているのだろう。スピーディーに話を転がしていく所も良かった。初監督作品だそうだが、健闘していると思う。
 原作自体、かなり浮世離れというか、一種のファンタジー的な話(そもそもあんな悠長に銀行強盗できるわけない)なので、フィクション度を上げられるだけ上げるぜ!という意気込みだったのかもしれない。見る人によってはうるさくて嫌だと思うかもしれないが、私はこういうジャンクっぽさは大好き。キャストの衣装や美術等も、あえて強めにデフォルメした印象を受けた。あと、多分アクションやSF以外の邦画ではあまり例がないと思うのだが、自動車をCG映像にしちゃった所(止まっている所は実写)。これだったら確かにカーチェイスは思いのままだ。全体をマンガっぽくしたのは、派手なカーチェイス(ちゃんと空中舞うし片輪走行する)がやりたかったからかもしれない。実写だとコストかかりそうだもんね・・・。
 原作付き映画で、原作ファンにとってもっとも問題なのはキャスティングだろう。まあ何をやってもイメージどおりということはないので、原作とは別物と思って楽しむ方がいい。個人的に、大沢たかおは成瀬のイメージではないのだが、実際に喋って動いていると、そう違和感はない。それより響野役の佐藤浩一との年齢差の方が気になった。原作ではそんなに年齢は違わなかったよなー?で、佐藤浩一だが、相変わらず佐藤浩一なんだが(いや説明になっていないが)いつになく野放し状態というか、やりたい放題で楽しそうだった。段々顔芸の域に入ってきているな・・・。雪子役の鈴木京香はなかなか良かったが、ちょっとセクシーすぎるかも(笑)。大穴だったのだのが松田修平。松田優作の二男、松田龍平の弟にあたるわけだが、これが可愛い。ポスター見たときは全然何とも思わなかったんだけど、動いて喋ると何ともいい感じで、久々に俳優の姿のみであーやられたーと思った。役柄との相性も良かったのだろうが、意外にコミカルな動きが似合う。お兄ちゃんより愛嬌があると思う。



『ダ・ヴィンチコード』
 
講演の為パリに来ていたハーヴァード大学教授(トム・ハンクス)のラングドンの元に、ルーブル美術館長ソニエールが殺害されたという知らせが入った。ソニエールは殺される前、さほど親しくないラングドンに会いたいというメールを送っていた。フランス司法警察のファーシュ警部(ジャン・レノ)はラングドンに捜査協力を求めるが、彼を容疑者と睨んでいた。ルーブル美術館で奇妙な姿の遺体と対面したラングドンは、警察の暗号解読担当でソニエールの孫であるソフィ(オドレイ・トゥトゥ)に助けられる。彼女はソニエールが残したメッセージを解読する為、ラングドンの力を必要としていた。
 最早説明無用、解説本や後追い本が絶えない大ベストセラー『ダ・ヴィンチコード』が映画化された。監督はロン・ハワード、主演はトム・ハンクス。しかし、この2人を引っ張り出す必要があったのかというと、ちょっと疑問だ。そもそも、(少なくともこの映画の中では)ラングドンという役柄は、あくまでもイエス・キリストにまつわる謎を解く為の狂言回し的な役割で、キャラクターとしては非常に書割的だと思う。閉所恐怖症というトラウマも取ってつけたみたいだ。トム・ハンクスが演技力を披露する場はあまりなかったと思う。ソフィ役のオドレイ・トゥトゥの方がまだ演技力を発揮する場に恵まれているような気がするが、こちらも物足りない。多分原作では暗号解読で活躍したり、自身の出自に対してもっと苦悩したりするのだろうが、映画では(とにかく話の展開が速いので)これまたいればいいキャラクターになっている。なんだかもったいないなぁ。2人とも狂言回しのようになってしまって、キャラクターとしては空洞な感じなのだ。
 これに対して、彼らの敵となる修道士シラス(ポール・ベタニー)や、ラングドンの既知であるイギリス貴族サー・リー(イアン・マッケラン)には、信念に取り付かれた人間の怖さや滑稽さがあって、演じた役者は得しているんじゃないかと思う。特にポール・ベタニーは、この手のちょっと危ない人(修道士だから本人敬虔なクリスチャンで大真面目なのだが、情熱の方向があさってを向いている)な役柄が上手い。
 ロン・ハワードにとっても、映画化の面白みがある作品だったとはあまり思えない。私は原作小説は未読なのあが、小説だけを読んだ人からは、「映画化したら面白そう」という話をよく聞いた。多分、謎解きの中の図像解読の要素が大きくて、舞台も各国を転々とするからだろう。でも、実際に映像したら、謎解きが妙にショボくなってしまった。特に「最後の晩餐」の解読はどうもこじつけに見えちゃう。それがOKならどうとでもとれるんじゃないかなーと思った。それに、言葉による暗号の解読は、どう頑張ってもダイナミックな映像にはなりにくいだろう。苦肉の策が終盤の「太陽系出現」なのだろうが。暗号解読というテーマは映像化には不向きだということが証明された映画だったと思う。ただ、一つロン・ハワードが監督でよかったと思ったことは、話の流れがきれいに整理されていたこと。駆け足ではあるが、きちんとまとまっていた。もっとも、全編山場みたいな状態なので、却って緩急がなくて盛り上がらなかった。



『夜よ、こんにちは』
 1978年3月16日、ローマで起こったキリスト教民主党のアルド・モロ党首が、極左武装集団「赤い旅団」に誘拐され、55日間の監禁の末5月9日に殺害されたという実際に起こった事件を題材にした、『輝ける青春』のマルコ・ベロッキオ監督の作品。大学図書館に勤める若い女性・キアラ(マヤ・サンサ)は、フィアンセと共に新しいアパートに移ってきた。しかし、彼女は「赤い旅団」のメンバーであり、旅団がモロ党首を監禁しておく為のアパートを借りるため、メンバーとフィアンセ同士の振りをしていたのだ。誘拐の成功に喜ぶキアラだが、徐々に自分たちにモロを殺す権利があるのか苦悩するようになる。
 テロリストの側にのみ焦点を当て、テロリストも人であるという側面を強調した作品なので、ともするとテロリスト擁護ではないかと非難されそうだが、そういうわけではない。確かに「赤い旅団」のメンバーは、ごく普通の若者達という側面も持つ。しかしそれは、ごく普通の若者達らしく情けない側面があるということでもある。最初は意気込んで政府に声明文等を送りつけていた彼らだが、モロと相対していると彼らの未熟さが露呈していく。モロも政治家である以前にごく普通の人であるのだが、流石に人生のキャリアが違う。モロは別に特別なことを話すわけでもないのだが、彼の言葉に比べると、「赤い旅団」の若者達の言葉は借り物のように聞こえてくる。革命だ、裁判といっても、仲間内だけの閉じた言葉に聞こえるのだ。
 そして、モロがごく普通の老人であることを目の当たりにして、旅団のメンバーも動揺し始める。モロの監禁も、政府との交渉材料であるという以上に、段々誘拐したもののどうすればいいのかわからなくなり、ひっこみがつかなくてモロの処刑まで進んでしまったような危うさを感じた。「もういやだ!彼女に会いたいんだ!」と隠れ家を飛び出してしまったメンバーには思わず笑ったが、誘拐殺人するよりは彼女に会いに行った方が、そりゃあいいわなー。そういうわけで、旅団のまぬけさばかりが際立っていた。こういうまぬけな部分が優先されていれば、モロ殺害のような悲劇は起きなかったのかもしれないが。彼らの行動の虚しさばかりが心に残った。
 この映画では、何故かピンクフロイドの音楽が多用されていて、ちょっとレトロな雰囲気がった。また、各シーンの性質と使われる音楽が密着に結びついていた。幻想的なシーンだと何故か必ず「トルコ行進曲」が使われるのだが、この使い分けがきっちりしすぎていて、映画の流れがちょっとぎこちなくなっていた。



『初恋』
 1960年代の東京。母親に捨てられ、叔父夫婦の家に居候しているみすず(宮崎あおい)は家にも学校にも居場所がなかった。そんな中、みすずは新宿のジャズ喫茶Bで、東大生の岸(小出恵介)と知合い、その仲間達との交流が始まる。みすずは密かに岸のことを想うが、岸はみすずに三億円強奪事件の計画を打ち明ける。
 1968年12月10日に起きた「府中三億円強奪事件」の犯人は女子高校生だったとする本作。だが、この映画はあくまでみすずという少女のラブストーリー。三億円事件の映画と想って見ると、期待はずれになるかもしれない。
 60年代の風俗や風景を再現する為に、かなり頑張っているという印象を受けた。ファッションや建物の内装、CGで再現された当時の銀座など、当時をリアルタイムで体験した人にはかなり懐かしく感じられるのでは。特に、当時の自動車・バイクがこれだけ集められた映画は、最近では珍しいと思う。
 宮崎あおい以外の出演者は、あまり有名な人はいないのだが、それぞれになかなかいい顔をしていたと思う。演技が上手いというわけではないが、ちょっと堅い感じのところがむしろよかった。特に、みすずの兄の恋人・ユカ役の小嶺麗奈は、60年代のメイクやファッションがよく似合っていたと思う。
 ただ、映画としてのボキャブラリーがかなり貧困なのではないかと思った。表現したいことはいっぱいあるのだろうが、表現の仕方の手持ち駒が少なくて、つい安直な方へ走ってしまっているという印象を受けた。いまどき「大人になんてなりたくない!」というセリフを堂々と使われると、ちょっと困ってしまう。そういう風潮だった時代を描いているにしろ、普通、初対面の人間にこんなこと言わないよねー。で、そう言い放って立ち去ろうとする少女の手を掴んで引き止める、という展開には恥かしすぎてさぶいぼ立ちそうだった。昔の少女漫画かよ!全部どこかで見たような、何かの型に嵌まっているような感じで、新しい映画を見たような気がしなかった。



『夢駆ける馬 ドリーマー』
 かつては大牧場を経営していたものの、今では農地や馬の殆どを手放し、競走馬のトレーナーとして働いているベン(カート・ラッセル)。ある日、彼が担当していた雌馬ソーニャドールが不調を見せる。レースの出走取り消しを提案するベンだが、オーナーの強い意向で出走させることに。そのレース中、ソーニャドールは骨折し、オーナーは安楽死を命じた。娘・ケール(ダコタ・ファニング)前で安楽死させるに忍びなかったベンは、ギャラと引き換えにソーニャを引き取り、トレーナーを首になる。その日から、ケールとベンはソーニャの復帰を目指し、トレーニングを始めるのだった。
 負傷した競走馬が復帰したという実話を元にした映画だが、大きく脚色してあり、実話は元ネタという程度らしい。ソーニャドールという競走馬の物語、またダコタ・ファニング演じる少女の物語である以上に、人生にっちもさっちも行かなくなった中年男の復帰戦映画だったと思う。カート・ラッセルが大分老け込んで、体格もでっぷりとしてきているのだが、それ落ち目のトレーナー役には却って合っていた。名トレーナーだった父親に対するコンプレックスがあり、自分が本当にしたい仕事よりも、生活の為の仕事を優先せざるを得なかった、という、ちょっとしょんぼりとした感じが良く出ていたと思う。
 娘の「ソーニャドールを走らせたい」という思いを、最初はバカにしていたベンだが、妻(この奥さんよく出来た人すぎる・・・普通は生活を優先しそうだけどなー)や父親の助力もあって、段々本気でソーニャの調教に取り組み始めるのだ。そうすると、何故か妻も父親も、当然娘も生き生きとしてくる。共通の目標が出来たことで家族が再生するという、まあありがちな展開ではあるのだが、好感の持てるストーリーだった。あくまで家族が中心で、馬を擬人化したり過剰な思い入れをこめて描いたりしていないところも良かった。
 ダコタ・ファニングは流石名子役というべきか、演技・存在感に全く危なげがない。ダコタを出しておけば大丈夫という思惑で作られた映画なんじゃないかという気もするが、確かに彼女が出ていれば大方大丈夫な気がする。彼女も大分育って、ちょっとませた感じがしてきたが、アイスキャンディーでソーニャを手なずけるエピソードとか、後半、レースへの出場資金を調達する為にある作戦に出るエピソードは、こまっしゃくれた感じがしてよく合っていたと思う。あと、コーヒーの入れ方が分からなくてどえらい液体をこしらえる所がかわいかった。
 ファミリー向け映画としては手堅くまとまっている。ただ、老若男女が楽しめる様に配慮した結果、少々薄味にはなっている。実際はこんな上手くいかないよなー、とふと我に返ってしまった。競馬映画としては『シービスケット』という名作が既にあるだけに、どうも印象が薄かった。



『ピンクパンサー』
 1963年に『ピンクの豹』から始まった、ピーター・セラーズ主演のピンク・パンサーシリーズ。本作は主人公であるクルーゾー警部をスティーブン・マーティンが演じるリメイク版だ。
 サッカーの試合中に、フランス代表チームの監督が何者かに殺され、彼が嵌めていたピンク・パンサーダイヤモンドの指輪が消えた。ドレフェス警視(ケヴィン・クライン)は自分を引き立てる為、フランス一無能な警察官・クルーゾーを事件担当に据え、自分は密かに調査チームを組む。そうとは知らないクルーゾーは、助手の警官ポントン(ジャン・レノ)と共に捜査を開始する。しかし被害者の恋人ザニア(ビヨンセ)を追ってニューヨークに行った折、ニューヨーク空港でトラブルを起こして「フランスの恥」と報道され、捜査からも外されてしまうのだった。
 セラーズ版のファンがどう感じるのかはわからないが(私はセラーズ版を見たことがないので)、頭を空っぽにしてお気楽に見られる愉快なコメディだったと思う。いわゆる洒脱な笑いではなく、むしろベタなギャグ(多少下ネタあり)なのだが、そのアホらしさが妙に琴線に触れた。こういうくだらないの大好きです。自転車妨害とかクルーゾーの「奇襲」とか、反復ギャグが良い。正直、見た後何にも頭に残らない映画なんだけど、その残らなさっぷりが潔いと思う。ギャグ映画はかくあるべし。全般的にテンポが良くて上映時間がほどほどに短いのも良かった。
 クルーゾーはとんちんかんなのだが、実は単なるバカではない、というのが、(多分)セラーズ版との最大の違いなんだろう。彼のある特技(というか技能)には、あっそうきたか!と、ちょっとびっくり。でもそれならそれでもっと早く気づけよ(笑)!意外にミステリーとしても楽しかったのだった。
 脇役も豪華で、クルーゾーの天敵(クルーゾーには自覚なし)ドレフェス警視に、最近はすっかりコメディが板についてしまったケヴィン・クライン。肝っ玉が小さそうな、小役人的な役柄が妙にはまっていて、おいしいというか哀しいというか。そして、ポントン役のジャン・レノは『ダ・ヴィンチコード』に引き続き(というか本作の方が先なのか)刑事役なのだが、『ダ・ヴィンチ』とは全く異なり、セリフは殆どなく、大真面目な顔で変な全身タイツ衣装を着てマーティンと不思議なダンスを踊るという荒業も見せてくれる。表情が全然変わらないからよけいおかしい。一応大スターなのにこういう細かい仕事もしっかりこなしているあたりがえらい。



 

 

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