4月
『かもめ食堂』
フィンランドの首都・ヘルシンキで、閑古鳥が鳴いている「かもめ食堂」なる食堂を営むサチエ(小林聡美)。旅行中に「ガッチャマンの歌知ってますか?」とサチエに声をかけられたみどり(片桐はいり)、飛行機の乗り継ぎ時に荷物がなくなってしまいヘルシンキで足止めをくっているマサコ(もたいまさこ)。3人の女性がかもめ食堂で過ごす日々。
とても心地よく見ることが出来た映画だった。3人の女性がヘルシンキを訪れた訳は具体的には説明されない(マサコの事情だけはちょっと触れられるが)し、彼女らの背景についても特に説明はない。食堂にやってくる人たちも色々と訳ありっぽいが、それも多くは語られない。しかし何かあるんだろうなーという空気感だけはある。3人の女性も、ヘルシンキの人々も、自分の思いを声高に語ることはなく、感情を吐露しても抑制がきいている。それぞれ大変だということを殊更に言い立てなずに、さらっと流す所に一種のダンディズム(女性にダンディズムとは変だろうか)を感じた。語らないことによる映画の豊かさがあったと思う。
それにしても、3人の女優がただそこにいて、何となく会話を交わす(ように見える)だけでこんなに楽しくなるとは。3人のキャスティングが決まった時点で、この映画は半分勝っていると思う。小林聡美は当然のごとく上手い。前々から思っていたのだが、この人は食べ物を美味しそうに見せる力がある。美味しそうに料理を作るし、美味しそうに食べる。片桐はいりはその存在自体が強力だが、今回は割と普通の人の役。時に空回りする一生懸命さが意外に似合う。そしてもたいまさこの有無を言わせない存在感には参った。もういるだけでいいレベル。
荻上直子監督の映画は初めて見たのだが、空気感、間合いの取り方が上手いと思った。ドラマチックなことは何も起こらないのに楽しく面白いというのは、会話や動作のテンポが映画を引っ張っているからだと思う。サチエが合気道をやっているというのも、妙に腑に落ちるのだ。そして猫を連れて散歩しているおじさんとか、日本かぶれ青年のTシャツとか、小さいところのくすぐりが上手い。それがうっとおしいと言う人もいるかもしれないが。
見ていて幸せな気持ちになるのは、出てくる料理が美味しそうだというのも一因だと思う。おにぎりを筆頭に、肉じゃが、鳥のから揚げ、豚肉の生姜焼き、塩鮭などオーソドックスなものばかりなのだが、いちいち美味しそう。そして唯一のフィンランド料理らしきシナモンロールがこれまた美味しそう!スクリーンからシナモンとお砂糖の匂いが漂ってきそうな、ひしひしと伝わってくる「美味しそう」だった。ちなみに「かもめ食堂」のセットは本当の食堂を借りたもので、食事時にはセットの中でも料理していたそうだ。お米も毎日炊いてもらったとか。ヘルシンキのスタッフにも好評だったそうだ。『ルート225』
14歳のエリ子(多部未華子)は、1歳年下の弟ダイゴ(岩田力)を迎えに行った帰りに、2人でパラレルワールドに迷い込んでしまう。町も学校も殆ど同じなのだが、その世界には両親だけがいない。果たして2人は元の世界に戻れるのか?
藤野千夜の小説が初めて映画化された。監督の中村義洋は自身での監督の他、『刑務所の中』『クイール』などの崔洋一監督作品の脚本を担当している。本作はかなり原作に忠実だった。
パラレルワールドというSF的な設定を使っているものの、全然SFぽい作品ではない。パラレルワールドという設定は丸投げ状態で映画は終わってしまう。いやいやセオリー通りだったらそこで元に戻るだろう!と原作を読んだ時にも思ったのだが、あっさり映画は終わってしまう。
元の世界に帰れるかどうか、何でこういうことになったのかということよりも、よくわからない状態でうろうろしつつ事態に立ち向かう、姉弟の心の中に焦点が当てられていたと思う。クールなエリ子が眠りながら泣いてしまうシーンはちょっと切ない。パラレルワールドに入り込んでしまうというような劇的なことではなくても、14,5歳くらいの頃には自分自身の如何ともし難い感じ、世界に対する無力感とか不安感が強くあったと思うのだが、その「如何ともし難い」感じが、彼らが置かれた不条理な状況とシンクロしていた。この映画(原作も)で良いなと思った所は、彼らがその如何ともし難い状況、不条理さと格闘した上で、それを受け入れて生活を続ける所だ。セオリー通りではない、と前述したのだが、成長物語としてはセオリーからそう外れていなかったのかもしれない。
主演の2人がなかなか良い。多部未華子はいわゆる美少女ではないのだが、目つきにちょっとドスが効いていてクールな雰囲気がある。そして弟役の岩田力が最高だ。ナチュラルに不自然。お前何なんだよー!と頭をぐしゃぐしゃーとかき回したくなるような面白さがあった。この2人の姉弟としての掛け合いが良い。そうそう、こういう距離感だよなーとか、弟って面倒くさいんだよなー、かといっていなくなってしまうとちょっと寂しいかもとか、弟のいる身としては色々と共感してしまった。
ただ、映画としてはちょっと盛り上がりに欠けて、単調な感じが。原作も淡々とした小説だからしょうがないのかもしれないが、もうちょっとメリハリがほしかった。あと、にわか雨が上がったシーンで、手前の方は地面が濡れているのに奥の方は乾いて見えるのがちょっと気になった。気のせいかな・・・。
『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』
アメリカ・テキサス州の国境付近。メキシコから出稼ぎにやってきたカウボーイ・メルキアデス・エストラーダの死体が見つかった。メルキアデスの親友だったカウボーイのピート(トミー・リー・ジョーンズ)は、メルキアデスとの「死んだら故郷のヒメネスに埋める」という約束を思い出す。保安官(ドワイト・ヨーカム)にメルキアデスを殺した犯人を捜せとせっつくものの、はぐらかされるばかり。ダイナーのウェイトレスからメルキアデスを殺した犯人が国境警備隊のマイク(バリー・ペッパー)だと聞いたピートは、マイクを拉致したままメルキアデスの故郷を探しに国境を越える。
「約束は、必ず守る」というのが映画のコピーだった。「男の約束」映画といえば、ショーン・ペン監督、ジャック・ニコルソン主演『プレッジ』が印象に残っている。ジャック・ニコルソン演じる引退した刑事が、被害者の母親との約束を守る為に少女殺人事件を追うという話だった。しかし同じ「約束」絡みの映画といっても、主人公が妄執に捕らわれていく『プレッジ』と比べると、友人との約束をなんとしても守ろうというピートの姿は妄執じみているとも言えるが、本作に陰鬱さはない。
一つには、テキサスの乾いた風土がすこんと突き抜けた絵を作っているということがあると思う。砂と岩ばかりの、だだっ広い大地が続く。そして空がやたらと広くて青い。そして何より、ピートは(何せ演じているのがトミー・リー・ジョーンズだから)無骨な男だが、メキシコからやってきたメルキアデスに対してだけでなく、国境を越えてきた密入国者達や国境に暮らす盲目の老人に対して、一定の敬意というか、思いやりが垣間見えるのだ。この、広義の意味での愛がこの映画の一つのポイントになっていたと思う。ピートの行動は私的正義の行使でもあるから、ちょっとひっかからなくはない。しかし、メルキアデスの遺体が腐らないようにピートが四苦八苦し、遺体にたかるハエやアリを追い払う様には、もうそれは友情突き抜けて愛だ!愛だろ!と突っ込みたくなるかわいさがあるのだ。ただ、男達の愛は、なぜか女性達には向けられない。ピートにはダイナーのウェイトレス(人妻)と付き合っているが、彼女の内面のことは良くわかっていない。メキシコから「結婚しよう」と彼女に電話するが、無理だと断られる。そしてマイクの妻は夫にも田舎町にも愛想をつかし、去っていく。男女の間には同胞愛みたいなものは生まれないのかしら・・・ちょっと切ない。
一方、埋葬の旅に同行する(というかさせられる)マイクにとっては、贖罪の旅となる。人を人とも思わない男が、段々他人に対する思いやりを覚えていく。彼がメキシコ人に混じってトウモロコシの皮をむく姿には不自然なこわばりなくなっていて、それまでの彼とは明らかに違っているということがよく現れていた。この為か、映画後半の展開は一挙に神話的になっていた。メルキアデスの意外な秘密やラストシーンも、その神話性を強めていたと思う。
物語の舞台が国境の町なので、密入国者が度々出てくる。国境といっても柵か何かがあるわけではなく、国境警備隊が監視しているだけなので、目を盗んでアメリカに入国してくるのだ。ピート達は逆に、アメリカからメキシコへ密入国する(ピートはマイクを拉致したお尋ね者になっているので)のだが、メキシコに入っても荒野は荒野で何かが変わるわけでもない。当然といえば当然なのだが、全くの地続きなんだなーと妙に納得した。その地続きのところで密入国だ何だと言っているのが段々ばからしくなってくる。これは監督が意図したところだろう。
トミー・リー・ジョーンズの初監督作品であり、主演作である。2005年カンヌコクサイ映画祭では主演男優賞を受賞しており、さすがの存在感だった。渋い。「自分で主演すれば安上がりだから」とは本人のコメント。脚本は『アモーレス・ペロス』のギジェルモ・アリアガ。こちらもカンヌで最優秀脚本賞受賞。アリアガは時系列シャッフルが得意技だが、本作でも特に前半は過去現在が入り乱れていた。しかしそれが効いている。受賞も納得だった。
『タッチ・ザ・サウンド』
スコットランド出身のパーカッショニスト、エヴリン・グレニーを追ったドキュメンタリー。彼女は8才の頃から聴覚に異常が生じ、12才の頃には耳が殆ど正常に機能しなくなった。しかしプロの音楽家となるべく勉強を続け、イギリスの王立音楽院に入学。プロのパーカッショニストとしてデビューした。
彼女は楽器の音を、振動としてキャッチしているらしい。私たちは耳で音楽を聴くが、彼女にとっては全身が音楽を聴く為の器官なのだ。私たちにとっては単なるノイズのような音も、彼女にとっては音楽になるのかもしれない。彼女は普通の楽器だけではなく、がらくたや日常品等、あらゆるもので音楽を作る。物を打楽器として叩き合わせるだけでなく、紙をこすったり飛ばしたりする音も音楽になるのだ。音楽の幅がとても広い。彼女は私たちよりもより豊かな音の世界に生きている、全ての音が彼女にとっては音楽となりうるのかもしれないと思った。
グレニーと他の演奏者とがセッションしているのだが、廃工場でのギタリストのフレッド・フリスとの演奏が時間も長く、印象的だった。ロール紙を投げて音を作るのにはちょっとびっくり。即興音楽って演奏者のセンスのみで成立するものなのだろうか。2人とも演奏している姿がすごく楽しそうだった。
また、ドラマーのオラシオ・エル・ネグロ・エルナンデスとのセッションはすごく勢いがあってかっこいい。何だかロックぽかった。彼女が来日した時の映像もあって、静岡県で和太鼓演奏集団である鬼太鼓座とセッションしていた。これがまたパワフルでかっこいい。他のセッションと比べるとかなりかちっとしていたのだが、あれは即興なのだろうか。それとも楽譜みたいなものがあるのだろうか。即興だとしたら恐ろしくレベルの高い世界だ。
所で、彼女が兄の元へ帰省する件があったのだが、彼女は自身で認めているがファザコンだそうだ。音楽好きだった父親とは通ずるものがあったとか。しかし、そういう父娘を傍で見ている母や兄は、ちょっと辛かったんじゃないかと思う。彼女らに見えている世界が自分たちには見えないわけだから。そう思うと、彼女の兄の姿は時々寂しそうに見えてきた。こちらの勝手な想像なのだが。
『リバティーン』
17世紀イギリス。国王チャールズ2世(ジョン・マルコビッチ)から追放を受けていたジョン・ウィルモットことロチェスター伯爵(ジョニー・デップ)は、恩赦を受けてロンドンに戻ってきた。破天荒な振る舞いを続けるジョンは、ある日劇場で女優エリザベス(サマンサ・モートン)を見かける。彼女の才能を見抜いたジョンは、演技指導を申し出るのだが。
予告編の段階で女たらし的なことを言っていたが、冒頭でいきなり「男もいける」発言にはのけぞりました。そ、そっちもかーっ!!でも当時のロンドンは男色に寛容、というより一種の流行だったらしい。ジョンも結構おおっぴらに男の愛人を連れてた。チャールズ2世がジョンを見限らないのも、彼が美形だから(実際のロチェスター伯爵が美形かどうかは知らんが、この映画ではジョニー・デップが演じているから)じゃないの?と勘ぐってしまう。もちろん女の愛人もぞろぞろ出てくるのだが。そんな彼が、エリザベスだけには本気で恋をしてしまう。しかしエリザベスの選択はシビアだった。ジョンにしろエリザベスにしろジョンの妻にしろ、出てくる人出てくる人皆やたらと気の強い人ばかりだった。特にエリザベスの誇り高さ、意志の強さは強烈だった。そういう意味では、普通の人は出てこない映画だった。
やりたい放題なジョンだが、常に人に嫌われる方向へ、蔑まれる方向へと突き進んでいるようで、何かに取り憑かれているみたいだった。一心不乱に地獄行き。才能が突出している人って、やはりそういう極端な一面があるのだろうか。また、彼の不道徳振りや破天荒には、権力者側に自分を委ねたくない、周囲とつるみたくないという強烈な意志が感じられるのだが、その意志が全部裏目に出ているというか、自分自身を不幸に追いやる方向に働いている。もうちょっと違う方向へ突き抜けられなかったのかなーと思う。転落していく人の話を見ているのは気が滅入るね・・・。
ただ、最後になぜ国王を弁護するのかちょっと疑問だった。今まで(王の庇護を受けながらも)さんざん好き勝手していたのにー。その場のノリ的な世論の盛り上がりに政権が左右されることに、否を唱えたかったのだろうか。だとすると、やはり最後まで周囲とつるみたくない人だったのかもしれない。
監督のローレンス・ダンモアは、映画監督としてはこれがデビュー作だそうだ。しかし初監督とは思えないこなれかたで、むしろ中堅監督のような手堅い感じがあった。衣装やセットは凝っていて、時代劇としても見ごたえがあった。特に当時のロンドンの汚さはすごい。スクリーンから悪臭が漂ってきそうだった。また、画面がすごく暗く、全体に陰鬱な雰囲気が。
『ヒストリー・オブ・バイオレンス』
冒頭、小さなモーテルに立ち寄った男2人。1人が建物の中から出てくる。ドアの脇にあるゴミ箱に手を拭いたペーパータオルか何かをひょいと捨てる。車の中で待っていた男と、水がもうないと言い合いになり、若い男の方がモーテル内に水を取りに行く。カメラは若い男にくっついてモーテル内に入り、室内を見回すのだが、そこでやっと床に2体の死体が転がっていることが分かるのだ。つまり、さっきモーテルから出てきた男が手を拭いていたのは、血で汚れたからというわけだ。初っ端から殺人が起こっているにも関わらず何ら説明がなく、映像のつなげ方だけで経緯を示すという、非常にきちんとした印象。これを他の監督がやっていたら別に驚きもしないのだが、デイヴィッド・クローネンバーグ監督がやっているからびっくりだ。こんな端正にショットをつなげる人だったっけー?
アメリカ・インディアナ州の田舎町。ダイナー店主のトム・ストール(ヴィゴ・モーテンセン)は妻エディ(マリア・ベロ)と中学生の長男、幼い長女と幸せに暮らしていた。ある日トムのダイナーに強盗が押し入り、隙を突いて反撃したトムは強盗を射殺。一躍ヒーローとして報道されてしまう。それを見たある男(エド・ハリス)がトムの店にやってきた・・・。
私はこの映画がとても面白かったのだが、その面白さを説明するのが難しい。多分全然面白くない、不満だという人も結構いるのではないかと思う。バイオレンスはあるがアクションではないし、ミステリーというわけでもない。サスペンスはあるが、サスペンス映画化といわれるとそれもちょっと違う。トム一家の様子は、最初は典型的なホームドラマのようだ。あるジャンルに嵌めた面白がりかたが出来ない映画だったと思う。トムが何者であるのかについても、一応の説明はあるが取って付けたようなもので(あのギャング一家の描写は、そんな迂闊なギャングがいるかよ!と突っ込みたくなるようなお粗末なものなのだが、多分意図的なものだろう)、彼が誰であるのかという謎については中途半端だ。トムと家族の今後がどうなるのかについても、何ら提示されない。ある意味観客に丸投げしている映画なのだ。暴力の是非を積極的に問うわけでもない。むしろトムの立ち回りはかっこよく見えてしまうし、暴力とセックスが密接な関係にあることも示唆される。そもそも強盗を撃ち殺したトムは周囲から賞賛されているのだ。しかし、少なくともトムが家族に全面的に受け入れられたわけではない。トムが同じテーブルにつくまでの妻の表情が凄まじいのだ。ある意味この映画の中で一番怖い。
私はクローネンバーグの映画が特に好きというわけではないのだが、今まで見たクローネンバーグ映画の中では本作が一番好きかもしれない。この映画、編集がタイトなのである。冒頭のシーンから最後まで、冗長さがなくずんずん進む。今までのクローネンバーグ映画というと、平行線だったりねじれていたりループだったりでどこかいびつだったのだが、今作はびっくりするくらい直線な映画だ。いやー、こんな風にも作れる人だったのか...。前作「スパイダー」が意外にオーソドックスだなとは思っていたのだが、人間年取ると王道に戻ってくるものなのだろうか。
『バイバイ、ママ』
両親の仲が良すぎて孤独な少女時代を送ったエミリー(キラ・セジウィック)は、自分だけの子供がほしくてたまらず、自らシングルマザーとなる道を選び、妊娠する為だけにセックスを繰り返した。やっと生まれた息子・ポール(ドミニク・スコット・ケイ)と2人、幸せな日々を送っていたが、6才になったポールは何故自分が学校に通わないのか疑問に思うようになり、外の世界へ興味を持ち始める。エミリーは息子を必死で引きとめようとするが、2人の世界は綻び始めていた。
悪役から善人まで幅広く演じる演技派俳優、ケヴィン・ベーコンの初監督作品。ともすると悲惨な話になりそうだが、ユーモアと映像の美しさがあり、後味は悪くない。何より、監督のエミリーに対する視線には優しさがあり、子離れできない彼女を一方的に非難する話にはしていない。彼女がやっているのは困ったことではあるのだが、少女時代の彼女の寂しさや、両親との関係、近所に住んでいたきれいな女性との関係を描くことで、彼女が抱える寂しさ、常に1人取り残されるのではないかという不安を抱えていることがわかってくるのだ。少女時代の彼女が、学芸会でデヴィット・ボウイの曲を歌うシーンがあるのだが、曲のセレクトがあまりにも切ない。
エミリーは息子に対する依存度が異常に高く、彼女がポールを自分の元に引きとめようとする姿はかなり怖い。エミリーがポールを自分の元に引きとめようとする姿はかなり怖い。息子が好意を寄せるものにすごく嫉妬して、次々と排除していくのだ。彼女らに手をさしのべてくれる人達も遠ざけてしまう。こんな母親だったら、子供はたまったもんじゃないと思う。
しかし、彼女は同時に息子のことをすごく愛していて、一概に悪い母親とは言えない。子供と同じ立場で、一緒に空想の世界で遊べる母親なのだ。子供が4,5歳くらいまではそれでいいのだろう。が、ポールは段々エミリー以外の大人や、同年代の子供に興味を持っていく。エミリー1人では、ポールが求める物に応え切れなくなってくるのだ。それはごく自然なことだが、エミリーはそれを受け入れられない。ポールにとってはエミリー以外の世界も必要なのだが、エミリーにはポールが全世界だ。しかしポールは(当然のことながら)そんな母親を疎ましく思うようになる。エミリーはポールを「LOVERBOY」と呼ぶのだが、ポールは猛烈に嫌がるのだ。エミリーはポールに「怖いと思った時がチャンスなのよ」と言うのだが、エミリー自身はずっと怖がっていて、ポール以外の人との世界、外の世界へ出て行けなかったのではないか。
ちなみに、監督のケヴィン・ベーコンも、エミリーの父親役で出演している。彼はちょっと酷薄そうな顔をしているし、最近は悪役ないしは変態な役が多いのでイメージがあまりよくなかったのだが(好きですが)、この映画を見たら、この人もしかしてすごく優しい人なんじゃないのかと思ってしまった。また、少女時代のエミリーを可愛がってくれた近所の奥さん役で、サンドラ・ブロックが出演している。いつになくアンニュイでお美しい。70年代ぽい服装が似合う人だと思う。
『ブロークバック・マウンテン』
第78回アカデミー賞監督賞・脚色賞・オリジナル音楽賞受賞。なんで作品賞あげないのーっ!そう主張したくなるくらい美しく感動的。アン・リー監督作品の中では間違いなくベストだ。
1963年アメリカ西部、ワイオミングのブロークバック・マウンテンで出会ったカウボーイのイニス(ヒース・レジャー)とジャック(ジェイク・ギレンホール)は、厳しい自然の中で友情を通わせる。やがてそれは愛と肉体関係に形を変えていった。彼らの関係は20年にもわたるが、それぞれの家庭や現実が陰を落とす。男性同士の恋愛の話ではあるが、ゲイの恋愛というよりも、もっと普遍的な愛、人間関係のありかたに焦点をあてた映画だと思う。逆にゲイの方から見たら、こんなの違う!ということになるかもしれないが。でも、これはこれでいいと思う。
2人の関係が20年も続いたのは、たまにしか会えなかったからかもしれない。毎日会っていたら素晴らしい思い出も薄れるだろうと。ただ、そういう思い出に耐えられる人と耐えられない人がいるのだと思う。イニスとジャックの間に溝が生じていくのも、イニスがジャックよりも世間の目を気にしていたからというのもあるだろうが、ジャック(彼の方が若いし)はイニスほど思い出に耐えることができなかったのではないか。
出演者が皆好演しているのだが、特にイニス役のヒース・レジャーが素晴らしい。トラウマを抱え、感情をあまり面に出さないキャラクターなのだが、ジャックと別れた後に壁を殴りつけて泣き崩れたり、ジャックと再会して子供のようにはしゃいだりと、突発的にものすごく率直に感情が剥き出しになる姿が胸に迫った。かわいらしくもあるし、痛々しくもある。ジャックと再会した時の浮き足立った感じ、がっつくようにキスしている姿を妻に目撃されてしまうシーンでは、観客から笑いが沸いていた。でもあそこって笑う所だったのかなー。私はハラハラしてしまって笑うどころではなかった。
個人的には、ラブストーリーとしてよりも、世の中に自分のいるべき場所が見つけられない人の物語としての痛切さを感じた。イニスもジャックもそれぞれ結婚し子供が出来るが、妻との関係はやがて冷え切り、家庭内でも社会の中でも違和感を感じている。そういう居心地の悪さやいたたまれなさが堪らない。だんだん世間とも距離をおいていき、思い出がより鮮やかさを増す。何だか幸せなのか不幸なのかわからないが、そういう風に生きていかざるをえない人もいるのだろうと思う。アン・リー監督の映画ではしばしば、社会的なマイノリティー、また周囲に馴染めない人達の葛藤が描かれる。東洋系であり、ハリウッドで活躍するアン・リー自身の出自が、そういう視点を生んでいるのだろうか。
ブロークバック・マウンテンの風景が素晴らしく美しい。『楽園をください』の時も思ったのだが、アン・リー監督は自然の風景を撮るのが上手い。そういえば、この映画も一つの楽園探し(ないしは失楽園)の物語だったか。
『寝ずの番』
津川雅彦ってマキノ省三の孫だったんですね!初めて知った。その津川雅彦がマキノ姓を襲名し、マキノ雅彦として映画監督デビューした。貫禄たっぷりの新人監督だ。
上方落語界の稀代の噺家・笑満亭橋鶴が亡くなった。弟子達は通夜の「寝ずの番」のために集い、思い出話に花が咲くのだった。
いやー、笑った笑った。映画を見て腹をよじるほど笑ったのは久しぶりだ。冒頭の「そ●が見たい」に始まり腰から下をネタにした笑いばかりなのだが、不思議と下品な印象は受けなかった。コメディとしてとてもよくこなれているのだ。これはさすが津川雅彦、という感じだ。芝居の中での笑いのことをよくわかっているのだろう。そして遊びなれているのだろう(笑)。
津川人脈とでも言うべきか、出演者がやたらと豪華だ。橋鶴の弟子役の中井貴一は、コメディの才能がある。爽やかな役よりも本作のようなコミカルな役柄のほうが、地に近いのかもしれない。タヌキやカッパと10年近く共演しているだけのことはある。中井の妻役の木村吉乃はしょっぱなからえらいことをさせられているが、この人も意外にコメディも出来る人だったのか。デビュー当時からは想像できないこなれっぷりで、女優としては確実に格を上げている。適度にエロさがあるのも良い。また、橋鶴の息子で弟子役の岸部一徳は相変わらず岸部一徳なのだが、ひょうひょうとした可笑し味がある。「死人のカンカン踊り」は無茶だが笑えた。生者と死者がいっしょになって大騒ぎしているような映画だった。
舞台は通夜で相手は死人だが、ギャグはオール下ネタ、エロ結構有というバチ当たりな内容である。しかし愉快だ。観客(老若男女)の反応もいつになく良かった。この映画の最大の利点は、普段あまり映画館に来ないであろう、おじさんおばさんが大笑いできるという所だと思う。下ネタは世代を超えるのか。ただ、下世話な笑いとかベタな笑いとかが苦手な人は駄目だろうなー。
『キスキス、バンバン』
ドジを踏んで警察に追われていた泥棒のハリー(ロバート・ダウニー・Jr)は、ハリウッド映画のオーディション現場に紛れ込んでしまう。彼の振る舞いを迫真の演技と思い込んだスタッフの指示で、ハリウッドでスクリーンテストを受ける羽目に。探偵役の修行の為、探偵のペリー、通称ゲイ・ペリー(バル・キルマー)に弟子入りするが、死体遺棄現場を目撃してしまい、殺人事件に巻き込まれてしまう。
ハリウッドが舞台ということで、映画ネタがちょこちょこ出てくるコメディと、ハードボイルドをミックスしたみたいな、軽妙な映画だった。冒頭のタイトルロールがちょっとレトロかつキュートで、初っ端から心を掴まれた。そして主演の2人のかけあいが楽しい。お調子者のハリーとタフでマッチョな探偵ベリー(しかしゲイ)。ハリーは探偵業にのめりこんでいくのだが、ベリーは迷惑そう。しかしいざという時は妙なチームワークを発揮する。バディムービーとしても楽しかった。ロバート・ダウニー・Jrもバル・キルマーも、それぞれはちょっと地味な感じがするのだが、この映画ではうまく嵌まっていたし、2人のノリがかみ合っていたと思う。ちなみに、ベリーの携帯電話の着メロには笑った。ゲイはやっぱりこの曲が好きなの?
ストーリーは死体がボコボコ出てくる(しかもそんな簡単に死体処理していいのか?みたいな)、ちょっとブラックかつ乱暴なもの。大味と言えば大味で、ミステリとしてはちょっと苦しい。でも深く考えずに軽く楽しめる映画だった。あまり予算がかかってないっぽいのも好ましい(笑)。ただ、日本ではあまり宣伝してもらえなかったのががかわいそうだった。こういう、傑作秀作というわけではないが軽妙で可愛げのある映画が、もっと公開されてもいいと思う。ジャンルをカテゴライズしにくい内容がネックになったのか。それともギャグが大人風味(要するに下半身関係が多い)所が倦厭されたのか。
『Vフォー・ヴェンデッタ』
独裁国家となった近未来のイギリス。自警団に因縁をつけられたイヴィー(ナタリー・ポートマン)は、Vと名乗る仮面の男(ヒューゴ・ウィービング)に助けられる。彼は現政府転覆を狙っており、イヴィーの目の前で中央刑事裁判所を爆破する。そして政府の弾圧を糾弾し、11月5日のガイ・フォークス・デイに一斉蜂起するよう市民に呼びかける。イヴィーはかつて政府に両親を奪われておりVに共感するが、彼と関わったことで政府に眼を付けられる。一方、ベテラン刑事はV絡みの事件を捜査するうちに、政府が隠蔽していたある研究所の存在に気付き始める。
ヒーローアクション映画だと思っていたのだが、実際はアクションはそんなに派手ではないし(あまり見せ方が上手いとも思わなかったし)、Vはいわゆる正義のヒーローではない。ウォシャウスキー兄弟が絡んでいると言うことで『マトリックス』のような映画を期待すると、肩透かしになるかもしれない。むしろ、Vがエドモン・ダンテスに例えられるように、復讐ものとして見た方が納得するかもしれない。ともあれカタルシスはない映画なので、気軽な娯楽作としてはあまりお勧めできない。
Vは自分の復讐の為に、ある研究に関わっていた政府の要人を次々と暗殺していく。政府の転覆を狙うのも、彼の復讐の一環だ。私情で市民を陽動して、いざ政府が転覆したら後は責任持たないよ、的な話だったと思う。見方によっては不正を正す正義だが、その一方ではいわゆる悪しきテロリズムであるという、正義とも悪ともつかないキャラクター。また、彼の出自を考えると、一種のフランケンシュタインものとも考えられなくもない。
テロリズムや政治・宗教の腐敗、社会の偏狭さ等、やりようによっては深く掘り下げられるテーマを孕んでいるものの、如何せん脚本がいまいちで、どのへんに重点を置きたいのかよくわからない。特に中盤の話の展開がまずく、Vやイヴィーの行動が不自然。特にVがイヴィーにあることを仕掛けるのは、何故そんなことをするのかさっぱり分からない。ていうかまずいだろうそれは!犯罪だから(いや犯罪者なんだけど)!日本で起こった某事件を思い出してしまった。イヴィーもあっさり納得する所がとんでもなくおかしい。この件の途中で挿入されるある女性のエピソードがなかなか良いのに、その良さも台無しだ。ウォシャウスキー兄弟に脚本の妙を期待するのが間違っているのか。きっと原作コミックはおもしろいんだろうなーとは思ったけど。
『ラストデイズ』
伝説的な存在へ上り詰めたロックスター(マイケル・ピット)が自ら命を絶つまでの2日間。監督は『エレファント』のガス・ヴァン・サント。ピンと来る人にはピンと来るだろうが、1994年4日5日に自殺したニルヴァーナのボーカル、カート・コバーンへのオマージュ的な映画だ。ただし、あくまでフィクションであるし、ニルヴァーナの曲が映画内で使われているわけではないので、ニルヴァーナのファンだからこの映画を見てみようかと思った人は要注意。あまり娯楽性は高くない映画だ。
手法は前作『エレファント』と同じくドキュメンタリー風で、やはり同じく時間軸がザッピングされている。最初は若い男が森の中をうろうろしているだけなので、何のことかと思うのだが、だんだんどういう経緯があったのか、彼だけではなく彼の友人らの視点も交えて、2日間の全体像が見えてくるのだ。
しかし、最後まで彼が何を思い、何に苦しんで死を選んだのか、彼が森の中に来るまでにどういうことがあったのかは一切提示されない。ただ、彼が死に至るまでの2日間がそのまま観客側に手渡されるのだ(そういえば、『エレファント』もそんな映画だった)。それは結末を放り出すということではなく、人の心の中は他人にはわからないという、ガス・ヴァン・サントの死者に対する敬意なのかもしれない。
主演のマイケル・ピットは、いかにも「心の病です」的な演技が最初鼻についたが、風貌は確かにロックミュージシャンぽい。ギターと歌も披露しているが、結構上手かった。一貫して派手な演出のない、抑制のきいた(言い方によっては退屈な)雰囲気だった。最後、温室の中に倒れる主人公から魂が抜けていく描写だけが、他から浮いていて奇妙だったが。映画内の音楽は、自然界の音やテレビ、ラジオの音、外界からのノイズのみだったのだが、所々で聞こえる教会の鐘の音と聖歌の歌声が不安感を煽る。こういう音をずっと聴いていたら、段々本当に精神を病んでいきそうな気が。
『ブロークン・フラワーズ』
コンピュータ事業で一財産作った元モテ男、今は愛想を尽かした恋人に出て行かれたばかりの中年男ドン・ジョンストン(ビル・マーレイ)の元へ、ピンクの封筒に入った差出人不明の手紙が届いた。手紙には「あなたの息子は今19歳」と書かれている。どうやら昔の恋人かららしいが、一体誰から?おせっかいな隣人(ジェフリー・ライト)のお膳立てで、かつての恋人たちを巡る旅に出たドンだったが。
ジム・ジャームッシュ監督快心の一撃(私限定で)。こんなに「おかし悲しい」感じを醸し出せる監督だったっけなー。と言っても大きな感動やカタルシスはない。しかし見ているうちにじんわりと心が温まる。うらさびしくも何故か幸せな気分になった。何より、主演のビル・マーレイが傑作である。この人は『ロスト・イン・トランスレーション』あたりから、特異な立居地を築いてきていると思う。彼がいるだけで何となくおかしい、無表情だけど見ているうちに笑えてくるという、何だか分からんがすごい境地に達しつつある。最早そこにいるだけでいい。ニンジンをぶすぶすフォークで刺して無表情のまま食べるという動作や、道端で花を摘むというありふれた動作だけでこんなにおかしいとは。
そしてドンのかつての恋人たちのキャスティングが豪華。レーサーだった夫に先立たれ娘と二人暮らしの気の良いセクシー美女にシャロン・ストーン、結婚後不動産で一儲けしたものの夫との間はぎこちない奥様にフランセス・コンロイ、アニマルカウンセラー(いわゆるアニマルセラピーではなく、動物に対してカウンセリングするのだ)のバツイチ女性にジェシカ・ラング、その助手のミニスカメガネ娘にクロエ・セヴィニー、ワイルド系お姉様にティルダ・スウィントン、そして冒頭でドンの元を去る恋人にジュリー・デルピー。そうそうたる女優陣だ。特にシャロン・ストーンは意外にも気さくでキュートな役柄が似合っていた。しかし10年前にシャロン・ストーンがジム・ジャームッシュの映画に出演すると予想出来た人がいただろうか。いやー、本当に大女優になっちゃったんだなー。そしてクロエ・セヴィニーの、超ミニスカワンピ(何故かサイケな柄)に白衣、防寒ブーツ、メガネ、ポニーテールというある意味狙いがニッチすぎるファッションが忘れられない。
何かが起こると思いきや何も起きないし、母親は誰なのか、息子は誰なのかという謎もそのまま。しかし、終盤で思わずダイナーから駆け出すドンを見ていると、そんなことどうでもよくなってくる。この映画は間違っても「中年男が親子の絆を再確認する」とか「家族の形を問う」とかいうものではない。ドンは唐突に父性に目覚めたような行動をとってしまうが、これは彼の成長というよりもむしろ勘違い的な、ギャグとして描かれている。中年男が人生を見つめなおすという側面はあるかもしれないが、そんなに劇的だったりご大層だったりせず、もっとだらーっとした、ぼんやりとした変化だ。いや変化などないのかもしれない。ドンもかつての恋人たちも、正直言って今はしょっぱい。それこそ盛りの過ぎた「ブロークンフラワーズ」かもしれない。しかしそれが不幸せかというと、そんなことはない。寂しさや物悲しさをはらみつつも、この映画は人生に対して肯定的だと思う。うろうろする人生でもいいじゃないか。