3月
『ジャーヘッド』
海兵隊に入隊した青年スオフォード(ジェイク・ギレンホール)は、新兵訓練の後、偵察狙撃隊STA候補に選抜される。過酷な訓練の中60人の候補から絞り込まれた8人に残ったスオフォード。そんな折、イラクのクウェート侵攻が知らされ、ついにスオフォードも戦地へ向かうことになるのだが。
戦争映画というと、いかに悲惨で救いのない状態か訴える映画が大半だと思うが、これはちょっと違う。サム・メンデス監督らしい、ちょっと距離感を保ったクールさ、シニカルさがあった。
この映画の中では、主人公が戦場に来てみたものの、延々と何も起こらないわけです。人っ子一人通らない砂漠の真ん中で、ただただ敵を待つだけの日々。それで、さあ始まった!と思ったらあっという間に(それこそミサイル一発で)終わって、自分が出る幕は全くないわけです。1年近く前線にいて実働4日間。えーっ。あれだけしごかれて訓練して、それで何もないまま戦争が終わりそうだったら、せっかくだから一人くらい殺しとこうかなーと思いかねないんじゃないかと思う。冷静に考えるととんでもないんだけど、それが妙な説得力をもってしまう(戦場の惨状とはまた別の)異常な状況。しかし、それと同時に戦争だと意気込んでみたものの、日常は全く終わらずに続くという、矛盾したものが並列しているという不思議さ。
メディアが支配しボタン一つでミサイルが飛ぶハイテク戦争などと言われていた湾岸戦争だが、この退屈さも一つの側面だった。この映画ではいわゆる戦争の惨状は殆ど描かれないのだが、前線にいる兵士たちのかるーい感じ、やっと発砲できそうな機会にめぐり合ってはしゃいじゃう感じに、また別の怖さを感じた。人間、環境には適応してしまうものなのね。
教官の新米に対するしごき方は殆どイジメなのだが、すごーく頭の悪そうな感じがおかしかった。兵士たちの悪ふざけも下ネタ満載で、何と言うか、ガラの悪い寄宿学校みたいなノリだった。上官が兵士達をあおる時の文句も、「お前はどこのスターだ!」と突っ込みいれたくなるみたいなテンションで、一般社会とは隔絶されている感があった。それとも体育会系組織ってみんなこんななの。
『イノセントボイス 12歳の戦場』
1980年、中米の小国・エルサルバドルではアメリカが支持する政府軍と農村ゲリラとの内戦が続いていた。11歳の少年・チャベが母親と姉、弟と一緒に住む村は、軍とゲリラの勢力の境界線に近く、毎晩銃撃戦が起こっていた。政府軍は12歳になった少年たちを強制的に徴兵していく。やがて学校は閉鎖され、チャベの12歳の誕生日も迫ってきた。ストーリーは、脚本を手がけたオスカー・トレスの実体験に基づいているそうだ。脚本を書くのに3ヶ月程かかったそうだが、ルイス・マンドーキ監督に持ち込んだ所、すんなりと採用が決まったとか。
毎日毎日戦闘が起こり、町には軍が常駐していると、戦争も日常の一部になってしまう。子供たちは普通に学校に行くし、友達と遊びまわって帰りが遅くなり、母親に怒られたりするし、好きな女の子に何とかアプローチしようとするし、バスの運転手にあこがれたりする。子供の日常と戦闘の過酷さとの落差に愕然とする。村の家がバラックばっかりなのは、毎晩銃撃戦があって、そのつど修理しないとならないからだ。一番痛ましいのは、やはり12歳の少年たちが無理やり徴兵されるということだろう。泣きながら連れて行かれても、再教育されて小さな兵士となり、ゲリラを倒すことに疑いを持たなくなる。そして、かつての友人同士で殺しあうということもある。
将来に対する希望が全く持てない環境で生きていかなければならない、というかそれ以前に生き残らなくてはならないのだ。その理不尽さに呆然としそう。大人達も、神父が「もう祈るだけでは足りない」と言ってしまうくらいに疲労しているし、この状況がすぐによくなることはないと諦めている。唯一の希望は、国外(主にアメリカ)に出ることだ。チャベも不本意ながらも、家族を置いてアメリカへと向う。しかし自分の生まれた国を捨てることしか生きていく希望が持てないというのは、その国にとっても、国民にとっても不幸としか言いようがないと思う。
政府軍につかまったチャベたちの目が、子供の目ではなくなっているのが痛ましい。無理やり大人にならなくてはならない、子供時代が不当に奪われることに怒りを感じるが、だからといってどうすることも出来ないという悶々とした気持ちになった。
『アフリカ・ユナイテッド』
アイスランドに住む外国人で結成されたサッカーチーム、「アフリカユナイテッド」。国内3部リーグに初参戦した1年目の悲喜こもごもを追う。
選手も監督も外国人で、トルコ、アフリカ、ポーランド、ユーゴスラビア等色々な国からやってきているのだが、アイスランドって結構外国からの留学生や移民、出稼ぎが多い国なのだろうか。長年アイスランドに住んでいて、一度は祖国に戻ったものの、「もうアイスランドが自分の国みたいだ」と話す選手もいた。
アマチュアリーグなので、選手は皆本業が他にある。そして弱小チームだからスポンサーを探すのにも一苦労。この弱小っぷりが本当に洒落にならない弱小さなんで、見ていて切ないというかしょっぱいというか・・・。素人目にも、試合の序盤から既に「あー負けそう・・・」という雰囲気が濃厚に漂っている。自分の才能に自信満々な選手もいるのだが、ストリートサッカーをやって大きくなった人たちばかりなので、チームとしての戦略とかチームプレイとかが全く身についていないのだ。こんなに負けばかりだともうサッカー辞めたくなるんじゃないか、それ以前にチームが解散するんじゃにかと思うのだが、不思議とチームは転がり続ける。やっぱり皆サッカーが好きなのね。
選手のキャラが立ちすぎていて可笑しい。特にユーゴスラビア出身のメカニックと、アフリカから留学している法学部学生の俺様っぷり(そして超仲悪い)のやりたい放題加減には突っ込み入れまくりです。彼らは彼らなりにチームのことを考えているんだろうが、監督の胃に穴が開くんじゃないかと思う。
『ダークホース』
『氷の国のノイ』でデビューしたダーグル・カウリ監督の長編新作。前作は母国であるアイスランドが舞台だったが、今作では監督が映画学校に通っていたというデンマークが舞台だ。タイトルは競馬で言う所の「ダークホース」の意味とのこと。
ほぼ無職に等しいグラフィティ・アーティストのダニエルと、パン屋の女の子・フラン、ダニエルの風変わりな友人達の、ちょっと奇妙ででも普通な日々。ほぼ全編モノクロなのだが、監督はヌーベルバーグの影響を強く受けているそうで、その時代に対するリスペクトとしてもこの映画を作ったそうだ。
ダニエルの友人である「爺さん」(といっても30〜40代の男なのだが)にしろ、過剰に色気を撒き散らす癖のあるフランの母親(このお母さん、困った人なのだがなんだか可愛くて憎めない)にしろ、いい味出している。特に「爺さん」は本業は睡眠に関する研究をしている研究者だが、サッカー大好きで常にサッカーの審判員のユニフォームを着ている。実は彼が一番最初にフランに一目ぼれしたのだが、女の子に対して全くまともなアプローチが出来ず、ダニエルに先を越されてしまった挙句、気づくと何故かフランのお母さんと同じベッドに、という哀愁漂う(笑)一面もある。彼がサッカーの審判に掛ける情熱は並々ならぬものがある。エキセントリックなキャラクターだが、実は彼の方がダニエルよりも社会的な地位が安定しているというのもおかしい。ダニエルの方が少なくとも常識的なのだが。
また、ストーリー後半から出てくる中年の裁判官が、のほほんとした作品の雰囲気を引き締めている。出張に行きたくもなく、自宅に帰りたくもない。結局空港で一泊してしまったり、最後には妻子を置いて姿を消してしまう。あることがきっかけで社会的な責任を引き受けようと決意するダニエルとは対照的だ。しかしこういう「全部捨てて消えちゃいたい」願望は、共感できるだけにほろ苦かった。
映画の中、一箇所だけカラーの部分があるのだが、上映終了後のティーチインで、「彼女だけが現実に生きているからでは?」という観客からの指摘があった。しかし、あのショットはダニエルの視線によるものなので、その解釈はちょっと違うんじゃないかなーと思った。ダニエルにとってそこだけは色鮮やかだった、その瞬間は世界が変わって見えたという意図によるものではないかと思う。サウンドトラックが渋くていいなぁと思っていたのだが、監督が自ら手がけたものだそうだ。
『ロック・イン・レイキャヴィーク』
『精霊の島』のフレドリック・トール・フレドリクソン監督が、劇映画製作で成功する以前のドキュメンタリー作品。’80年代前半のアイスランド・ロック・シーンを取材している。時事的な側面が強いので、資料としては貴重かもしれない。
当時のアイスランド・ロック・シーンでは、パンクとニューウェイブが二分していたような印象を受けた。中学生じゃないの?というくらいに若い男の子たちのバンドがいたり、ベテラン風なバンドがいたりと取材対象となったバンドの年齢は幅広い。年長組はニューウェイブへ、年少組はパンクへと流れたみたいだ。
当時はともかく、今の感覚からすると流石にイタいサウンドなのだが、ニューウェイブ系の方が、ある程度テクニックのあるバンドが多いからか、まだ聞ける。パンク系バンドは勢いだけで押し切っているからかなり辛い。ほどほどの才能とほどほどのテクニックとだったら、ほどほどのテクニックの方が長持ちするんじゃないかなーともふと思った。そして60、70年代はかっこいいと思われるようになったが(リバイバルブームが来たが)、80年代がかっこよく見える時代は果たしてくるのだろうかとうっすら思った。
ステージ上でラップにぐるぐる巻きにされたり、火だるまになったり、鶏の頭をギロチンにかけたりするバンドもいて、ロックバンドというよりもパフォーマンス系の現代美術みたいな感じになっていた。ステージも劇場とライブハウスとの中間みたいな感じで、何と言うか、まだあまりロックシーンがこなれていなくて、迷いがある感じだった。 一番若いバンドが中学校卒業したくらいの年齢だったと思うのだが、インタビューの中でドラッグの話ばかりしていてすっごく頭悪そうだった・・・。ステージもモロにパンクなのにまだたどたどしい感があって、ほほえましいというかしょっぱいと言うか。
ちなみに14,5歳のビョークが出演している。バンドでの出演だったのだが、ビョークは少女のころから既にビョークだったのね。明らかに突出している感が。
『カミュなんて知らない』
大学のワークショップ。元映画監督の中條教授(本田博太郎)の指導の下、学生たちは映画撮影のクランクインを目前にしていた。しかし主演俳優が突然降板し、助監督の久田(前田愛)は代役獲得の為奔走、演劇サークルの池田(中泉英雄)を何とか獲得した。一方、監督の松川(柏原収史)はストーカー的な恋人のユカリ(吉川ひなの)に辟易していた。
大学生の言動はあまりリアル(今日的な)なものではないと思う。今の大学生は、教授のショウペンハウアーやヴィスコンティにちなんだあだ名は付けないだろうし、ユカリを「アデル」と称するとも思えない。マルクス兄弟やゴダールについて語る世代でもないと思う。でも、真夏の大学のうだるような感じ、そして大学生の人間関係のある種のだらしなさには、妙にリアリティがある。あと映画オタク(というよりシネフィル的な学生と言ったほうがいいのか?)の数々の発言の恥かしさとか、気負った映画ファンがやりそうなもので苦笑いしそう。
映画を撮る話であると同時に、恋愛模様の話でもある。ちょい二枚目の松川は、来るもの拒まず去るもの追わずの無駄にオープンな性格。5年間付き合っている彼女(吉川ひなのが怖い。一人だけ別の世界の人みたい)がいるが、スクリプターの女の子を自宅に泊めたりしている。久田はしっかり者で結構モテるし山岳部の彼氏もいるのだが、ひそかに片思い中。教授の中條はダンスサークルの美少女(黒木メイサ)に惹かれている。何かにつけて彼女を目で追って後までつけてしまう、まさに『ヴェニスに死す』状態。そして彼らの恋愛はもれなく皮肉な結末を迎える。特に中條が幻滅していく様(スープの食べ方に幻滅していくというのが、すごく分かると思った)は滑稽でもあるしかわいそうでもある。身から出た錆とも言えなくもない松川は、洒落にならないような事態になってしまうのだが。
しかし、久田はちょっと微妙。本命には振り向いてもらえない損な役回りの子かと思っていたら、教会での告白シーンでそんな子だったのかと。肝心な所は伏せていて結構ずるい。結局、映画の主導権も彼女が握ることになる。結果的には一番得したのか?このあたりの人間関係は、リアルというよりも、ある種図式的な感じだった。というより、この映画自体が映画作りを図式化したような感じがした。映画の製作や手法をきちんとわかっている人が見れば、もっと的確に理解できるんだろうけど。
学生たちが撮影している映画は『タイクツな殺人者』という、実際にあった(という本作内設定)高校生による老婆殺人事件を元にしたもの。学生たちが「主人公は正気だったのか狂っていたのか」と議論するのだが、結論は出ない。それでも撮影は進み、殺人シーンの撮影に。かなりの迫力で、撮影している映像としてのシーンなのか、過去に起きた殺人事件としてのシーンなのか、境界があいまいになっていく感じがした。
監督の柳町光男にとっては、実に10年ぶりの監督作品となるそうだ。彼は大学で教鞭をとっていたこともあるそうなので、そのときの経験が学生や教授の描写に活かされているのかもしれない。特に最後、中條教授がつき物が落ちたように生き生きと撮影に臨んでいるのは、監督自身の心境の反映でもあるのかなと思った。
『アサルト13/要塞警察』
大晦日のデトロイト。元麻薬捜査官のローニック(イーサン・ホーク)は、潜入捜査中に同僚を死なせてしまったトラウマから抜け出せず、老朽化の為もうすぐ閉鎖される13分署でデスクワークに就いていた。仕事にも身が入らず、精神安定剤が手放せない。そんな折、囚人護送中のバスから、吹雪で運転が出来ないので一時避難させてほしいという連絡が入る。しぶしぶ受け入れたローニックらだったが、突然何者かが署に侵入してきた。どうやらバスが護送してきた暗黒街の大物・ビショップ(ローレンス・フィッシュバーン)殺害が狙いらしいのだが。
1976年の「要塞警察」(ジョン・カーペンター監督)のリメイク作品。私は旧作は見たことがないのだが、今作は結構面白かった。そんなに緻密なプロットではないのだが、余計なことはすっぱりとやらない潔さがあったと思う。まずローニック以外のキャラクターの背景は殆ど言及されない(警察署の事務職の女性が犯罪者とセックスするのが趣味という変な設定はあるのだが)。そして彼らの敵の事情や背後の闇についても、通り一遍の説明しかされない。いやいやそれは設定的におかしいだろうよ!と突っ込みたくなる所もあるのだが、話がどんどん進むので、見ている間はそんなにケチを付ける気にならなかった。
警察署員と護送されてきた囚人たちが、必要に迫られて生き残るために手を組むのだが、悪人は最後まで悪人で、改心したりしない。ただ、悪人なりの行動規範はあって、それに基づいて協力するというのが良い。このあたりのキャラ設定はきっぱりと大味で、「とりあえずトラウマのある警官」「とりあえず暗黒街の大物」というきわめてステレオタイプなもの。でもそれでいいのだ。キャラクターの内面を無駄に肉付けしないことがプラスに出たと思う。こういう映画の方が見ていて楽なのよね。余計なことをぐたぐた考えさせない、さっぱりとした娯楽作だった。
あと、この手の作品の常としてキャラクターがどんどん減っていくわけだが、セオリー通りだったら最後まで残しそうなキャラクターもあっさりと切っていくあたりも、妙な潔さがあった。
主演のイーサン・ホークは、一時期アイドル的に人気があったと思うが、最近はちょっと崩れた感じの二枚目役が多いような。端正な顔だけどいまいちぱっとしないんだよな・・・。対してローレンス・フィッシュバーンは存在感がありすぎ。すごい変なオーラが出てます。
『クラッシュ』
夜のロサンゼルスで起きたある自動車衝突事故を中心とした、様々な人々の群像劇。彼らの人生が一瞬だけ交差する。それは何をもたらすのか。監督・脚本は『ミリオンダラー・ベイビー』で脚本を手がけたポール・ハギス。これが初監督作品となる。アカデミー賞作品賞、脚本賞、編集賞を受賞した。大感動作という触込みだが、意外に淡々としていたと思う。いわゆる「泣ける映画」ではない。
深い人種差別意識を持つ警察官と彼にセクハラまがいの尋問を受けるTVプロデューサーの黒人夫婦、ペルシャ人であるのだがアラブ人と一緒くたにされて起こる雑貨屋店主、黒人警官に勲章を授与することでリベラルなイメージを打ち出そうとする白人政治家等が登場し、一見、人種差別問題をテーマにした作品のように見える。だが、この映画の本質はそういった所にはないと思う。
登場人物達は、最初、皆ステレオタイプな人物として描かれている。非常に分かりやすく人種差別主義者であったり、ホワイトカラーであったり、ブルーカラーであったり、移民であったりする。「俺ら黒人をステレオタイプで見やがって」と不平不満をいきまく黒人青年が、本当にその「ステレオタイプ」な黒人だったというシニカルな展開には笑った。
しかし彼らに予期しない出来事が、それこそ「クラッシュ」が起こることによって、ステレオタイプな面の後ろから、異なった姿、もしかしたら自分でも思いもよらなかった面がふいに姿を現してくるのだ。この「思いもよらない面」を際立たせる為のステレオタイプであったのかと思う。「思いもよらない」というのは、良い部分にも(本人も気付かなかったような)悪い部分にもなり得る。とてつもない悲劇で終わることもあるし、その人が本来持ちうる善良さが垣間見られることもある。そして、悲劇を食い止めるのもまた「思いもよらない」ことであるのだ。
予告編では「僕たちはぶつかり合って、分かり合っていく」という言葉が使われていたが、実際は別に分かり合っていないし問題が根本的に解決したわけではない。むしろ、ドン・チードル演じる刑事の家庭環境に象徴されるように、人間がわかりあうのは非常に困難であるという所にこの映画の根っこはあると思う。この刑事が、個人的にはこの映画の中で一番かわいそうに思えた。彼が抱える欠乏を埋めうるものが映画の中に全く見当たらないので、見ていていたたまれない。誇りまで捨てたのにその仕打ちかよと。全くの他人よりも近しい関係の人との関係の方が、得てして厄介だしより傷付けられ(傷つけ)やすい。
しかし、だから他人と関わるのは無駄だ、この世界には神も仏もないんだ、という悲観的な空気はこの映画の中にはない。生きている限り、分かり合うことが困難であっても否応なしに他人とは関わらざるを得ない。だからこそせめて、ぶつかりあっていくなかで、奇跡とは言わないまでも何か正しいもの、良いものがそこにあることを願ってやまない、その思いが映画終盤のいくつかの幸運を配置させたのではないかと思う。
ドン・チードルを始め、マット・ディロン、サンドラ・ブロックら新人監督の作品としては異例の豪華キャスト。しかも上手い。ただ、サンドラ・ブロックはこの映画の中であまり重要性のない役回りで損をしているかもしれない。
『スティーヴィー』
大学生の頃、スティーヴィーという少年の「ビッグ・ブラザー」(家庭環境に恵まれない子供の世話をする制度)をしていた映画監督のスティーブ・ジェイムズは、10年後に青年となったスティーヴィーとの再会を果たす。ジェイムズはスティーヴィーの許可を得て彼を追った映画を撮ることにするが、他の仕事の関係で撮影は中断。1997年に撮影を再開するが、その頃彼は親戚の少女に性的虐待をした罪に問われていた。
スティーヴィーの母親は彼の誕生を望まず、暴力を振るっていた。母親は再婚して家を出て行き、彼は義理の祖父母の元で育てられる。落ち着きのない子供だったスティーヴィーは、やがて児童養護施設に入るが、そこで性的虐待を受け、どんどん荒れ始める。軽犯罪を繰り返し、成人してからも殆ど無職の状態だった。青年となったスティーヴィーは、嘘をつくし気まぐれで、何を考えているのか分からない人物だが、祖母と婚約者を愛し、信頼した相手に対しては愚直な誠実さをも見せる。時には不愉快な人物かもしれないが、悪人ではない。しかし彼は性犯罪者でもある。当たり前といえば当たり前のことなのだが、人間て割り切れないものだとつくづく思った。スティーヴィーの婚約者は軽い知的障害のある女性なのだが、彼の良さを理解している数少ない存在だ。彼女は、彼がやったことは許せない、でも彼を愛していると言う。また、スティーヴィーの妹は子供の頃、やはり彼から性的な虐待を受けている。しかし、それでも兄の生活を管理し支えている。
スティーヴィーの母親もまた、アルコール中毒の父親から虐待を受けていた。そしてスティーヴィーは自分の姪に...という絵に描いたような暴力の連鎖だ。しかし、スティーヴィーの叔母(被害者である少女の母親)やスティーヴィーの妹のように、その連鎖を自ら断ち切ることの出来る人もいる。何が分かれ道になっているんだろうと考え込んでしまった。傍にいて愛してくれる人、というより適切(過度でもなく過小でもなく)な愛情の有無が大きいのだとは思う。スティーヴィーは祖母には愛されているのだが、祖母と両親との板ばさみのようなことになってしまい、よけいに彼を苦しめることになった。逆に、彼の妹は祖父母や両親に対してもうちょっと距離を置いており、それが彼女がきちんと大人になることができた一因だと思う。もっとも、その妹にしても、母親のことを母親とは認めていないと断言するから、子供の頃の体験が後の人生に与える影響というのは恐ろしい。母親は娘との距離を縮めようとするのだが、娘の方は母親を許容はしても、「もう遅いのよ」と絶対許そうとしないのだ。
監督がスティーヴィーを取材することにしたのは、10年前、彼と連絡を取り続けていれば彼の人生はもっと違ったものになったのではないかという自責の念があったからだと思う。ただ、当初は対象ともっと距離を置いたフィルムにするつもりだったろう。しかし、スティーヴィーが犯罪を犯したことで、撮影を続けるかどうか決断を迫られる。撮影続行するものの、監督は何度も自分がやっていることは正しいのか、スティーヴィーを単なる素材として見ているのではないかと自問し続ける。この葛藤がフィルム全般にわたっていて、結果として監督が撮る側であり撮られる側でもあるという、面白いことになっていた。自分参加型ドキュメンタリーというか、かなり主観の強いものになっていると思う。スティーヴィーの人生の一部を自分も引き受けるということだから、精神的にはかなりきついんじゃないかと思うが。スティーヴィーが刑務所に入った後に、彼の婚約者が監督に対して「あなたが映画を撮ったのは何か良いことを生んだわよね」と言うのだが、この言葉に対して監督が見せる表情が、何とも言えない。見ているこっちが泣きそうだ。
『ミュンヘン』
実際にミュンヘン・オリンピックで起きたテロ事件を題材とした、スティーブン・スピルバーグ監督による大作。1972年5月2日、ミュンヘン・オリンピックの選手宿泊所で、パレスチナのゲリラ「ブラックセプテンバー」による選手団襲撃事件が起きた。11人の人質は全て死亡。イスラエル機密情報機関「モサド」は、事件首謀者11人の暗殺を図り、特別チームを編成する。そのリーダーに任命されたアフナー(エリック・バナ)は4人の仲間と共に、任務を執行していくのだが。
アフナーはモサドの一員ではあるものの、暗殺の経験なんてない。そもそも荒事は専門外で、妻は出産を控えているというごく普通の男だ。暗殺するのも試行錯誤を繰り返す手探り状態で、映画としては至ってシリアスなのに、あたふた感が何だかおかしい。アフナーは料理が趣味で、仲間と最初に顔合わせをした時も手製の料理でもてなす。この料理と食事のシーンがしばしば出てくるのだが、妙に長閑だ。何だかノリが学校の部活みたいで、深刻さがあまりない。当事者にとってはそんなものなのかもしれないが。
しかし、テロに対する報復とは言え、アフナーは段々暗殺に対して葛藤を抱くようになる。暗殺相手が記号としての暗殺相手ならいいのだが、罠を仕掛ける為に生活習慣を観察しているうちに、その人にも家族がいて、仕事をしていて、という普通の人間としての側面に気づいてしまう。途端に殺すのが怖くなる。映画の後半ではこの葛藤が延々と続く。
が、そんなことわざわざ言われるまでのこともなく、何を今更という感もなくはない。いや実際にやってみないと実感わかないでしょ、とも言えるが、それにしても気づくのが遅すぎる。また、暗殺を重ねるにつれてアフナー達の知名度も上がり、自分たちが暗殺の対象になっていく。が、それも当然のことで、むしろ何で最初から自分たちも標的になるということを想定していないのかが不思議だ。他にも、毎回同じような手口を使ってたら脚が付きやすくなるだろうとか、情報源が自分たちの情報を他に売っているだろうとか、自明の問題に後から気づいてあたふたするので、マヌケに見えて仕方なかった。情報機関の人ってもっと慎重なんじゃないの!何だか想像していたよりも大分アバウトというか、詰めの甘い仕事をしている。そしてモサドの上司とアフナーとの最後の会話も、言うまでもないことだろう。そういう組織にいる人間がそれに無自覚であることのほうがおかしい。
映画のトーンはものすごく真面目で重厚だし、流石スピルバーグというべきか手馴れていて手堅い。私はこの題材となった事件について殆ど知らなかったので、「へ〜」というものめずらしさもあってそれなりに見られたのだが、このあたりの事情に詳しい人にとっては「だから何なんだよ」という映画だったのでは。
『SPIRIT』
病弱な少年フォは武術家である父親に憧れていたが、父は息子に同じ道を歩ませることを嫌い、稽古を拒んでいた。しかしフォはこっそりと修行を続け、父の死後、武術の試合では連勝を納めていた。しかし名声が高まり弟子が増えるにつれうぬぼれも増していく。ある日武術家チンに怪我をさせられたという弟子の話を聞いたフォは、チンを煽って試合をふっかけ、とうとう彼を殺してしまう。チンの息子は復讐の為フォの母と娘を殺し、フォはやっと自分の過ちに気付くのだった。道場を捨て流浪の旅に出たフォは、瀕死の状態だった所を長閑な山村に暮らす老婆とその孫娘・ユエツーに助けられる。静かな暮らしの中で、フォは本当の強さに気付いていくのだった。そして1914年10月、上海。世界初の異種格闘技戦の舞台に、静かに佇むフォの姿があった。彼が辿り着いた境地とは。
実在したという武道家・フォ・ユァンジアを主人公とした映画だが、いわゆる伝記映画というわけではなく、実在のフォのキャラクターや生涯とはちょっと違うらしい。うぬぼれゆえ転落し、自然の中で(美少女が助けてくれるのはお約束)悟りを開いて本当の強さを身につけるという、こんな少年漫画どこかで読んだぞ〜、というストーリーなので、新鮮味は全くない。身体的な強さだけではなく、正しい心が必要だという主張も少年漫画のお約束。ある意味安心して見られる。
そして安心して見られるといえば、主演のジェット・リーのアクション(マーシャル・アーツ)は健在。これが彼にとっては最後のマーシャル・アーツとなるという話だったが、本当だろうか。体型はさすがに中年ぽく肉付きが良くなっているが、動きの切れはばっちり。今作では異種格闘技ということで、ヌンチャクや槍、剣を使ったアクションも見られるのでお得感があるかもしれない。
ただ、とにもかくにも大味な話なので、色々と突っ込み始めるときりがない。フォの言葉に友人や対戦相手が「君がそんなに深く考えていたとは」とか「感服しました」とか言うんだけど、そんなに深いこと言ってないような・・・むしろあまり頭のよろしくない方なような・・・。そして流派を問わず武道家を集めて国中の武道家の心をひとつに!というのは正に週刊少年ジャンプな展開で笑った。最後に観客がフォのもとへ走りよるのも、絵だけ見ていると何だか笑える。それより救急車呼べ!シュプレヒコールみないな掛け声も字幕でみると微妙におかしいのだが、近年の中国経済の発展振りを見ると笑えない。実は的を得た演出だったのか。
中村獅童が日本代表の武道家役として出演している(そしてちゃんと中国語でセリフを喋っている)のだが、かなり美味しいところをもらっている。剣を振り回す姿は結構様になっていてかっこよかった。
『ONE PEACE THE MOVIE からくり城のメカ巨兵』
週間少年ジャンプの目玉マンガであり、TVアニメでも人気のシリーズの劇場版7作目。監督はTVシリーズと単品上映1作目である『デッドエンドの冒険』を手がけている宇田鋼之助。非常に手堅い好作となった。
大嵐のグランドラインで、沈没寸前の海賊船に乗り込んだルフィ(田中真弓)一行。無事宝箱を入手したが、その中に入っていたのは黄金入れ歯のおばあさんだった!がっかりするルフィ達に、おばあさんは自分が住む島に送り届けてくれたら、伝説の財宝である金の冠をあげようと取引を持ちかける。俄然張り切ってその島へ向かう一行だが、島では自称天才発明家の領主・ラチェット(稲垣吾郎)が待ち受けていた。すったもんだの末、ルフィ一行とラチェットは協力して島の宝を探すことにするのだが。
シリーズ内では異色だった前作『オマツリ男爵とヒミツの島』とは打って変わって、少年漫画の王道に帰ってきたような感じが。私は細田監督色の濃い『オマツリ男爵〜』も好きなのだが、今作は原作とTVシリーズのカラーに忠実なので、原作やTVシリーズのファンでも違和感ないだろう。
お宝があって、謎の地下道があって、当然ダンジョンとトラップがあって、それぞれのキャラクターの必殺技が披露されて、最後はめでたしめでたし、という東映アニメ映画のお手本のような作品だった。最近なかなかないのだが、あくまでメイン客は子供だという意識がしっかりとしていたと思う。子供を飽きさせない為に、動きが面白い、ギャグが分かりやすく笑える、話の筋がはっきりわかる(シンプルである)、というのを徹底していた。そしてなおかつ、子供と一緒に来た保護者、そして大きいお友達もそれなりに楽しめるレベルにはなっている。このあたりは流石ベテラン監督だと言うべきか。危なげが全くなくて安心して見ていられた。TVシリーズをずっとやっている人だからか、時間軸的にシリーズのどのあたりに入る話かが明示されて、TVシリーズの今後の展開の伏線になるエピソードもちょこっと入っていた。これは本シリーズ内では初めてなのでは。そしてキャラクターを大事にしているなーという印象がある。手馴れていて立て方が上手い。
ともかく、いわゆる萌えアニメじゃない楽しいアニメ映画になっていて高感度は高かった。私が見に行った時は、客層がまさしく老若男女状態だったのだが、ちゃんと全員から笑いを取れていた。童心に返って楽しみました。ちなみに、今回作画も頑張っていて、特にウソップの鼻には注目してほしい。作画監督の愛を感じた。あとナミとロビンの胸が揺れすぎであります。
ゲスト声優はラチェト役にSMAPの稲垣吾郎、その部下2名に極楽とんぼの加藤&山本だったのだが、まあまあ上手かったんじゃないかと思う。特に稲垣がいつになく生き生きしている風だった。ベストセリフは「おかあちゃま!」。似合いすぎる。
『機動戦士ZガンダムV 星の鼓動は愛』
新生Z三部作がついに完結。いやー結局全部見ちゃったよ...。しかし見てよかったんじゃないかと思います。とりあえず見たぞ!という満足感はあり。というか、Zがどんな話だったかやっとわかった。
今回はカミーユ(飛田展男)とシャア(池田秀一)が所属する反地球連邦組織エゥーゴ、ティターンズののっとりを狙う木星輸送船ジュピトリスのシロッコ(島田敏)、そして旧ジオン軍残党アクシズのハマーン・カーン(榊原良子)の三つ巴の戦いになる。何とほぼ全編先頭シーンのみという、かなりタイトな編集になっていた。もちろん、TVシリーズのエピソードはばっさばっさと切り落とされているのだが、特に気になることはなく見ることが出来た。エピソードの編集は、今回が一番上手くいっていたと思う。新しく加えられた映像も心なしか多くなっていた。宇宙でのモビルスーツ戦は目まぐるしいがスピーディーで、ついまじまじと見てしまった。特にキュベレイは、「何故そのフォルムか!」と問いただしたくなるようなやや変態的なフォルムなのだがかっこいい。TVシリーズのファンの方が映画版の編集具合をどう思うかは微妙なのだが、新しく付け加えられた部分はなかなかきれいに出来ているので、とりあえずはお勧めしてみたい。
ラストがTVシリーズと違うということが大きな話題になっていたが、確かに違った。TVシリーズの終わり方は(映画見に行く前にビデオで見直したんですが)何か脱力するというか、十数時間費やして辿り着いたのがこれかよ、というか、色々といたたまれない気持ちに。今作でやっと安心できたというかすっきりとした・・・。カミーユはガンダム史上最も女性に翻弄されたキャラクターだったと思うのだが、その汚名を挽回?したような感が。でも結局そこに落ち着くんかー。何だかなー。
そしてZに登場する女性といえば、私にとってはエマとレコアなのだが、対照的な女性キャラクターであるものの、改めて見ても2人ともやっぱり報われないキャラクターだったと思う。本当にいたたまれないのはこっちか。そしてハマーン・カーンの私情剥き出しっぷりが、改めてみるとすごかった。アクシズの皆さんがかわいそうであります。
『ナルニア国物語 第一章 ライオンと魔女』
近年希に見るファンタジーブームに乗って、名作ファンタジーがとうとう映画化された。LOTRやハリポタを越えることは出来るか。
第二次大戦中のロンドン。ペベンシー家の4人兄弟は、田舎のお屋敷へ疎開した。屋敷の中でかくれんぼをしていた末っ子のルーシーは、空き部屋の中にあった大きな衣装ダンスに隠れる。しかしその奥には雪のつもった森が広がっていた!そこは「ナルニア国」。魔女に支配され100年の冬に閉ざされたその世界には、4人の人間の子供が悪を倒すという伝説があった・・・
私が原作小説を読んだのは8,9歳くらいの頃だったと思うのだが、タンスを抜けて異世界へという設定がなんとも楽しかった。全巻夢中で読んだが、特に『ライオンと魔女』は何度も読んだ。多分、シリーズ内でも一番話にメリハリがあって、面白いのではないかと思う。
その原作がどんなふうに映画化されたのか楽しみでもあり心配でもあったのだが、原作にはかなり忠実だと思う(今、手元に原作本がないんで記憶に頼ってますが)。もちろんエピソードは色々とカットされているだろうが、原作の絵の雰囲気にすごく近い。はっとするような絵が随所にあった。特に、ルーシーが初めてナルニアに立ち入る所にはぐっと引き込まれる。また、衣装ダンスやビーバー夫妻の家等のセットも原作の挿絵をそのまま立体化したみたいで、かなり気合が入っている。根強いファンがいる作品だけに、手は抜けないということだろうか。あと、冒頭でいきなり第二次世界大戦中のドイツ軍によるロンドン空襲場面を持ってきたのには驚いた。そういえばそういう時代設定だったなー。しかし戦時下という苦しい状況から逃避する為の異世界ファンタジーかと思うと、複雑でもある。
原作の雰囲気は忠実に再現しているのだが、映画としてすごく面白いかというと、ちょっと微妙。つまらなくはないのだが、あまり盛り上がらない。イベントをとりあえず順番に消化していくような感じで、起伏に欠ける。また、今になって見てみると、実は自分たちは異世界の王様女王様で、魔法の力が使えて皆の先頭に立って戦って・・・という子供の願望丸出しなストーリーなので、それを映像にしてまざまざと見せられると、正直ひいた。最後の戴冠式なんて、ファンの皆様には申し訳ないがちょっと笑いそうになった。ファンタジーだから、何で子供が数日で剣の達人に!なんて突っ込んでもしょうがないのだが、いきなり強くなっているので、やっぱり気になってしまった。
ただ、兄弟姉妹間の「兄姉超うぜぇ〜!」「弟妹めんどくせ〜っ!」という感じが面白かった。兄弟姉妹がいる人は、少なくとも1度は本気で兄弟姉妹に対する殺意を覚えたことがあると思うのだが(私だけか)、そういうイライラ感は上手く出ていたと思う。特にピーターとエドマンドという兄弟の関係は結構丁寧に演出されていた。エドモンドの兄に対する反発だけでなく、ピーターが実は長男としていっぱいいっぱいな感じ(意外に優柔不断だったり物考えてないキャラクターになっていたような・・・)が現代的だったと思う。冒頭の駅のシーンで、軍服姿の兵士につい父親を重ねて目で追ってしまうというちょっとしたシーンを入れることで、本当は彼も父親が恋しいんだということを匂わせていて上手い。
ペベンシーの子供たちのキャスティングは上手かったと思う。これまた原作の絵のイメージに近かった。要するに適度に地味な所が良かったのだが、特にエドモンド役の子はいい感じに育ちそうで、10年後が楽しみ。エドのツンデレぶりがハーマイオニーをしのぐ勢いだったので、ツンデレ弟好きの皆さんはぜひご覧になるといいと思う。もー、本当はお兄ちゃん大好きなくせに!
『リトル・ランナー』
1953年、カナダのハミルトン。全寮制のカトリック学校に通う14歳の少年ラルフ(アダム・ブッチャー)は校則を破ってばかりの問題児だった。彼の母親は病気で入院していたのだが、ある日昏睡状態に陥ってしまう。看護婦はラルフに「奇跡でも起きない限りお母さんは目覚めない」と告げる。しかしある日、無理やり入れられたクロスカントリー部の練習中、ボストンマラソンの走者であったヒバート神父(キャンベル・スコット)が「君たちがボストンマラソンで優勝できたら奇跡だ」と漏らす。この言葉を真に受けたラルフは、奇跡を起こして母親を目覚めさせる為、ボストンマラソン優勝に向けて猛練習を始めるのだった。
14歳の少年が奇跡の存在を真に受けるだろうかという疑問はあるものの、キリスト教国ではきっとそうなんだと勝手に納得して鑑賞。ラルフは女の子に対して興味津々、それゆえ数々の失敗をして校長を激怒させ、全校生徒からは笑いものにされる。この失敗の数々が「お前バカだな〜」とため息がでるようなものなのだが・・・。お酒もタバコも試してみるし、友達の手を借りて文書偽造もする。しかしその一方で、奇跡を起こせると本気で信じている。キリスト教徒でない身から見ると、この2つが両立しているというのが面白いのだが、そんなに不自然なことではないのだろう。
タイトルはヒット作『リトル・ダンサー』にあやかっているのだろうが、作品の方向性はちょっと違うと思う。少年が頑張る話という点では同じなのだが、ダンスが大好きでダンサーになりたいという自分の夢をかなえるために戦う少年を描いた『リトル・ダンサー』に対して、本作のラルフは、別にマラソンが好きだったわけではない。彼がボストンマラソンでの優勝を目ざすのは、それが奇跡だからだ。ラルフは「心から祈れない」と悩むのだが、彼にとってはマラソンで走ることが祈りの行為になっているのだ。そういう意味では、少年映画であると同時に、信仰の一つの形を描いた映画であったと思う。原題は「SAINT RALPH」。正に「聖ラルフ」なのだ。
しかし、生真面目さや堅苦しさはなく、少年が主人公の映画としては王道の楽しさがあったと思う。ラルフと親友の友情や、一人奮闘するラルフをバカにしていた級友達が次第に彼に一目置くようになる過程等は、お約束ではあるのだがやはりいい。そしてラルフを問題視していて、マラソンにも大反対だった校長らが、クライマックスでは思わず彼を応援してしまうという盛り上がりもやっぱり嬉しい。少年のアホさと真摯さの兼ね合いも丁度よかったと思う。
もう一人の主役とでもいうべきヒバート神父が、ラルフのコーチをするうちに自分自身も走る歓びを取り戻してくというエピソードも良い。全て想定内の話ではあるのだが、良心的な、安心できる映画だった。ちなみにヒバート神父役のキャンベル・スコットが妙にかっこよく見えたのだが、これは神父服マジックだろうか...不謹慎で面目ないですが。
『シリアナ』
地球規模で、誰かがどこかで何かをたくらんでいるという、大錯綜群像劇。と言っても主要キャラクターはお互いに面識ないのだ。もつれた糸のようなエピソードをきちんと脚本化しているのは見事。
ベテランCIA工作員ボブ(ジョージ・クルーニ)に「アラブ某国の王位継承者を暗殺せよ」という指令が下った。一方アメリカ巨大石油会社から解雇されたパキスタン人の出稼ぎ労働者の青年ワシーム(マザール・ムニール)は途方にくれていた。そしてその石油会社の為、アメリカ司法省と取引する弁護士ベネット(ジェフリー・ライト)。一方件のアラブ某国の王室とのコネクションを利用して、反米派王子ナシール(アレクサンダー・シディグ)の側近となったジュネーブ在住のエネルギー・アナリスト、ブライアン(マット・ディモン)。一見関係なさそうな彼らを巻き込む陰謀とは?
彼らを結びつけるのはずばり石油。この利権を巡ってエグい駆け引きが繰り広げられる。単なるアメリカV.Sアラブという図式ではなく、その周辺や国の中枢だけではなく末端の人も容赦なく巻き込んでいく。特に、大企業によって職を奪われたワシームが、マドラッサ(イスラム神学校)を心のよりどころとし、過激なイスラム原理主義に飲まれていく過程はいたたまれない。貧しさがテロリストを産んでいるのだ。そしてそのテロリストが貧しさの元となったアメリカを攻撃、という悪循環。彼だけが損得とは別の次元で動いている(結果破滅する)というのがまた何とも・・・。それぞれのキャラクターにはさほど深入りしない、冷ややかな視線の映画。最後もあっけなく終わるのだが、そのあっけなさが逆にショックだった。こんなにごく普通のことですよ〜、みたいなノリでこういうことをやるか!と。
監督・脚本は『トラフィック』(スティーブン・ソダーバーグ監督)でアカデミー脚色賞を受賞したスティーブン・ギャガン。今回は更に錯綜する脚本が見事。ただ、見る側にある程度の知識を要求する映画なので、私のようにこのあたりの事情に詳しくない観客は、予習が必須だろう。余計な説明はせず、どんどんエピソードが展開していくので、ついていくのにかなりの努力が必要だった。良くも悪くも玄人向けかもしれない。
入り組んだエピソードを、ソダーバーグ組とでも言うべき豪華なキャストが支える。特に主演のジョージ・クルーニーは原型をとどめない程の太りっぷりで、熱の入れようが窺われた。アカデミー賞助演男優賞受賞も納得。
ちなみに「シリアナ」とは、ワシントンのシンクタンクで使われている用語で、シリア、イラン、イラクが一つの民族国家になることを想定する中東再建のコンセプトだそうだ。しかし誰の為の中東再建なのか。それを突きつけてくる映画だった。
『うつせみ』
2004年ベネチア映画祭で最優秀監督賞を受賞した、キム・ギドク監督作品。同年に『サマリア』でもベルリン映画祭で受賞してるから、恐るべし。
無人の家に忍び込み、住民が留守のうちに、まるで自分の家のように料理や掃除、洗濯をしてTVを見て眠って、という生活をしている青年テソク(ジェヒ)。ある日忍び込んだ家の中で、顔に青あざをつくった女性ソナ(イ・スンヨン)を見つける。ソナは嫉妬深い夫から暴力を受けていたのだ。あわてて逃げたものの生気のないソナが気になり、テソクは再びソナの家に戻った。しかし彼女の夫が帰宅し、なじられたソナは萎縮するばかり。テソクはゴルフクラブで夫にゴルフボールを打ちつけ、ソナを連れ出す。パートナーとなった2人は留守宅に忍び込んで生活する。ソナにとっては心休まる生活だったが、予想外の事態が起き、テソクは逮捕され、ソナは夫に連れ戻される。
結構あらすじを説明してしまったが、予告編を見れば分かる範囲のことなので、ネタバレではないはず。ストーリーだけ見ると、美青年と人妻の駆け落ちという王道のメロドラマ、うっかりお昼の1時2時にTVドラマになっていそうな話なのだが、キム・ギドクが撮ると下世話さが全くなくなって、あくまで美しく知的になっているのが面白い。私は監督の作品は『サマリア』しか見ていないのだが、正直ここまで美的で(良い意味で)図式的な映画を作る人だとは思っていなかったので、ちょっと驚いた。ショットの繋がりや画面構成に全く無駄がなく、ストイックな印象を受けた。映画の技法や文法をすごく勉強している人なんじゃないかと思う。
今作は良質のメロドラマの形をとっているが、その内容はドラマティックであるというよりも、観念的・抽象的なものだったと思う。登場人物の背景は殆ど説明されないし、現実的なものの制約からは解放された所でストーリーが進んでいたと思う。そういう意味では、一種のファンタジーと言ってもいいのではないだろうか。極端な話、(少なくとも後半は)自由を奪われた妻の脳内妄想ともとれなくはない。そうすると妄想に負けている夫の立場がないのだが・・・。魂が結びついているのであろう、主人公カップルの純粋な愛は美しいのだが、じゃあ夫婦が一緒に暮らすってどういうことなんだろうとちょっと考えてしまった。この映画の趣旨とはちょっと違うのだろうが。ま、暴力振るう夫は論外ですが。
ちなみに、韓国語の原題は「空き部屋」、英語題名は「3番アイアン」である。英語題名も監督が決めたらしい。3番アイアンは、使うことの少ない、忘れられがちな存在なのだとか。3番アイアンのようにひっそりと存在する2人の物語ということか。
『アメリカ 家族のいる風景』
かつては西部劇のスターだったが、酒とドラッグに溺れて今はうだつの上がらない俳優のハワード(サム・シェパード)。衝動的に撮影現場から逃げ出して久しぶりに母親の元を訪れると、自分の子供を身ごもったという女性から連絡があったという、衝撃の事実を知らされる。自分の子供を捜しにモンタナ州ビートを訪れたハワード。そこでかつての恋人(ジェシカ・ラング)と再会するのだが。
人間、年をとると弱気になるのだろうか。ハワードはやりたい放題の人生のツケというべきか、妻も子供もおらず母親とも疎遠だった。かつての栄光も今は霧のかなたとなれば、弱気になってもしょうがないと思う。が、何でそこで昔の恋人に会いに行ってしまうのか。母親に会いに行くというのはわかるのだが、大勢の元恋人の1人でしかなくて、しかも10数年間音信普通だった相手と今更会って(まして息子とは初対面なわけだし)何をしようというのか。息子なんて冗談じゃない!と思っていたくせに、ついつい会いに行ってしまう(そして息子が大反発)し、昔の恋人にもうっかり「やりなおそう」なんて言って逆に怒らせてしまう。冷静に考えれば「そんなに上手くいくはずないよ」と気付きそうなことなのだが、弱気になっている彼にはそこのところが見えない。元恋人の彼女の方は、ハワードと同じく「もしかして」とちょっと期待している所があって、実はまんざらでもないのだが、彼が求めているのが彼女自身ではなく、家族になってくれる何者かであることを見抜き、彼に対して怒りを顕わにする。やれやれ・・・とため息つきたくなるような展開だった。
そしておじさんたちは何故常に娘=少女に救いを求めるのか。この映画には、母親の遺骨の入った骨壷を抱え、ハワードにまとわりつく少女(サラ・ポーリー)が出てくる。彼女はどうやらハワードの娘らしい。昔の恋人にも息子にも拒絶されたハワードを、彼女だけが一方的に慕い、許す。・・・だからなんでそこで許しちゃうのかって話ですよ。あー、ヴィム・ヴェンダース監督は逃げたなーとがっかりしてしまった。もう諸々の葛藤を描くのはきついのかしら。ハワードが一方的に許されちゃうので、息子やら元カノやらとのごたごたがうやむやなままで、映画の主題がどのへんにあるのかもわからなくなってしまった。むしろ子供たちとは徹底的に揉めておいて、その後に訣別なり和解なりを獲得するべきだったと思う。自分と繋がっている人間が必ずいるという希望が提示されるのはいいのだが、今までそういう繋がりを無視していた人間にいきなりそれが提示されるというのは、ご都合主義的ではないだろうか。一種の神話としての物語だとしても、無垢な少女による許しという構図がオヤジの願望ダダ漏れな感じがして、正直見苦しかった。
風景以外は少々退屈な(妙に冷静な探偵の存在はちょっと面白かったが)映画だったが、音楽のセンスは相変わらず良い。そこがまた小憎らしいんだけど・・・。ちなみに日本語タイトルには「アメリカ」とあるが、これはちょっと誤解を招きそうだ。アメリカを象徴する映画という感じではなかったのだが。また「家族」といいつつ、血縁はあるものの全然家族になっていなかった。皮肉として付けたのなら別だが。