2月

『プライドと偏見』
 
18世紀末のイギリス。ピングリー家の近所に、お金持ちと評判の独身男性ピングリーとその妹、そしてピングリーの友人ダーシー(マシュー・マクファディン)が引っ越してきた。5人姉妹がいるピングリー家では、娘が玉の輿に乗れるのではないかと母親(ブレンダ・ブレッシン)を筆頭に大はしゃぎ。その騒ぎにいまひとつ乗れない次女エリザベス(キーラ・ナイトレイ)は、ダーシーの高慢さに腹を立てるが、同時に彼のことが気になり始める。
 18世紀イギリスを代表する作家であるジェーン・オースティンの小説『高慢と偏見』が原作なのだが、原作の少女マンガテイストを遺憾なく再現していると思う。第一印象の悪かった男性の良い所が次第にわかってくるという展開といい、身分違いの恋と言い、最後は玉の輿でゴールインと言い、もろに王道少女マンガだ。ストーリーだけでなく映像的にも、ダンスパーティーの最中なのに、いきなり「世界に二人だけ」状態になったり、ブランコに乗っている間は周囲がスローモーションで動いたりと、ヒロインの心情(のニュアンス)をそのまま映像化している感じ。制作会社であるワーキングタイトルは、「ブリジット・ジョーンズの日記」や「ラブ・アクチュアリー」といった良質なラブコメを作ってきたのだが、いよいよ少女マンガ文法をマスターしてきたらしい。
 昔、原作小説がTVドラマ化されたものを見た時は、男性陣があまりぱっとしないと思ったのだが、改めて映画を見たら、意外に皆かわいい。エリザベスには陰気だとかプライドが高いとか言われるダーシーだが、そうではなくて内弁慶なんだと(妹と接する時のニコニコ振りを見よ)。女性の前では緊張しちゃってしゃべれないタイプなのね。牧師館にエリザベスを訪ねてきた時のうろたえぶりはコントのようだ。また、一見ちゃらい男風なピングリーが実はシャイだったり、本来嫌な奴役である牧師もあれは彼なりに一生懸命なんだよなーと思うと可愛く見えてこなくもない。
 エリザベス役のキーラ・ナイトレイは、自分の意見を臆せず口にする、当時としては珍しい女性役にはぴったりだったと思う。ちょっと凛々しい顔つきなのがいい。しかしキャスティングの妙を見せたのは、彼女ではなく母親役のブレンダ・ブレッソンと、父親役のドナルド・サザーランド、そしてダーシーの叔母役のジュディ・ディンチだったと思う。さすがベテラン。ドナルド・サザーランドが演じると田舎紳士役でもなんとなく上品な感じがする。役者の格が違うというべきか。そしてジュディ・ディンチは貫禄がありすぎて正直怖い(笑)。
 エリザベスの母親の言動が私の祖母の言動にそっくりで参った。どこの国にもこういうミーハーで独善的で自己中心的(でも自分では相手の為と思っている)おばちゃんがいるのねー。こういう人が自分の親だといたたまれないと思う。人前での身内自慢、娘自慢(そんなたいそうな娘じゃないのに)はやめてくれ!恥ずかしいから!
 女性は働くことができず、結婚しないと生活できなかった時代に、エリザベスのようなヒロインを生み出したジェーン・オースティンは勇気があるなーと思った。愛する人と結婚するべきだといっても最後は結局玉の輿かよ!と言ってしまえばそれまでなのだが、たぶんオースティンはエリザベスのことが好きすぎて、幸せにせずにはいられなかったのかなと。ただ、個人的により共感したのはエリザベスではなく、友達(不器量)のシャーロット。彼女は生活の為に変わり者の牧師(最初エリザベスに求婚するがふられる)と結婚するのだが、いざ結婚生活が始まるとシャーロットも牧師も意外に幸せそうなのだ(かみ合ってはいないが)。理想を追い求めるよりも、程々の所で手を打った方が幸せなのかもしれない。要はその後の腹のくくり方ではないかと思う。



『天空の草原のナンサ』
 
モンゴルに暮らす遊牧民の一家。長女である6歳のナンサは、町の学校から戻ってきた所だ。母親に頼まれて焚き付け用の牛の糞を集めにいったナンサは、洞穴で黒白ぶちの犬を見つける。ナンサは犬をツォーホルと名づけて可愛がるが、犬が狼を呼び寄せると心配した父親は、飼うことを許さない。父の留守中にこっそりとツォーホルを飼い始めたナンサは、放牧の途中でツォーホルとはぐれてしまう。そんな時、雨宿りをさせてくれたおばあさんから「黄色い犬の伝説」を教えてもらう。
 原題を直訳すると「黄色い犬の洞窟」で、日本語タイトルとは全く関係がない。いや天空って関係ないし!と思っていたのだが、スクリーンに映されるモンゴルの風景は、画面の上半分にぽかーっと空が広がっていて、案外いい邦題だったかもしれないと思った。背の高い樹木がなく、丘と平原が延々と続いている風景は、日本人にはあまりなじみがないが、魅力がある。物語自体は、女の子が犬を拾ってきたというだけの話なのだが、風景が良いのでなんとなく満足してしまう。ロケ地の力ってやっぱりあるんだなと思う。
 この映画の面白さは、物語というよりも、映画に出てくる人たちの生活そのものの面白さなのではないかと思う。羊の毛を刈って町へ売りに行ったり、牛の乳をしぼってごはんにしたりチーズみたいなものを作ったり、ゲルを解体して牛車に乗せたりという一連の仕事にいちいち見入ってしまった。子供たちが雲の形を動物に例えて遊んだり、お父さんのお土産であるプラスチックのひしゃくを焦がしちゃったり(それでお父さんが古い金属のひしゃくを修理する)という、どうということない暮らしのどこが面白いのかと問われると困るのだが。馴染のない(エキゾチックな)文化に対するものめずらしさや憧れという面ももちろんあるのだろうが、それ以上に、ここに映し出されているのは普通の人たちが普通に生活していることの強固さ、面白さではないかと思う。何か、すごくきちんと生活している感じのする映画だった。面白いのと同時に何となく安心する映画だとおもったのだが、こういうところに要因があったのかもしれない。
 出演者は皆素人で、一家全員が(家畜と犬を含めて)そのまま映画に出演してくれたそうだ。なので、映画の中で映されている一家の生活は、普段と同じものだそうだ。ドキュメンタリーのようだがドキュメンタリーではない(話の筋はちゃんとあるし、演技もつけている)。ちなみに小さい子供とハゲタカの群れが交互に映し出される所があって、別撮りしたものを編集したのだろうと思っていたら、いきなり同じフレームに両者が納まっていて、しかも子供が普通にハゲタカの群に向ってトコトコ歩いていくんで驚いた。



『THE有頂天ホテル』
 大晦日の夜、ホテル「アバンティ」では大晦日から新年にかけてのパーティーの準備に追われていた。しかし曲者揃いの宿泊客にマイペースな総支配人、従業員達もそれぞれの事情を抱えていて、無事に年を越せそうもないのだった。彼らに平和な新年は来るのか?!
 いまや日本で一番有名なコメディ作家であろう三谷幸喜が監督した新作映画。自身で監督した映画としては3作目になるが、おそらく映画の密度は今作が一番高いのではないかと思う。映画が1枚の原稿用紙だとすると、全てのます目がびっしりと埋まっていて、しかも1マスあたりに3文字くらい無理無理に書いちゃっている感じ。元々三谷の脚本は時間的な空白、隙間が少ない傾向があると思うのだが、今作は特にみっしりと詰まった映画だった。限られた時間の中で複数のエピソードが縦横無尽に行きかい、伏線を配置しかつ全部回収して多少乱暴でも大団円を迎えさせる手腕は、まあ大したものだなと思う。めまぐるしい映画ではあるが、非常に機能的だと思う。「ホテル探偵」という実際にはありえないであろう装置を置いたのも効果的だった。伏線を回収するためだけの機能とは言え、ハードボイルドのパロディのような存在感が面白い。石井正則(アリ
toキリギリス)に演じさせたのもよかったと思う。
 大したものと言えば、キャスティングの豪華さも大したものだと思う。三谷幸喜のネームバリュー(とフジテレビの力)はやはり絶大なのだろうか。主演の副支配人役である役所広司を始め、三谷脚本経験者が多いようだ。役所はミスキャストという感想も目にしたが、この人実際はこんな感じの人なんじゃないかなーという気がした。ともかく普通にしていればシリアスに見える人なので、壊れ始めてからのイタイタしさが尋常ではなく、直視するのをためらうくらいであります。他にも西田敏行、佐藤浩一、伊東四郎、松たか子、香取慎吾、篠原涼子、戸田恵子らと1週間TVドラマ見続けたら1度は目にしそうな(西田は無理かもしれないけど釣りバカがあるから年に1度は必ず目にするということで。戸田は少なくともアンパンマンで声は聞ける)面子が揃っている。巷では客室係の松たか子が好評らしいが、個人的には断然コールガールな篠原涼子を推したい。松たか子は普通にスターっぽくて面白みがないんだよな...。あと伊東四郎が自由すぎる。
 お約束どおり最後は大団円なのだが、佐藤浩一演じる悪徳議員に最後までかっこいい見せ場を造らなかった所がミソか。女の一言であっさり前言撤回という、かっこわるい所が逆に見せ場になっているというのが意地が悪いというか何と言うか。大晦日にみんなの夢がかなう...というよりも、所詮人間の本性は変わらないから、無理せずせいぜい好きなことをやればいいさという、かなりなげやりなオチに思えました。



『あおげば尊し』(若干ネタバレです)
 小学校教師・光一(テリー伊藤)は、末期ガンの父親(加藤武)を自宅で介護することにした。厳しい教師であった父を見舞う客は一人もいない。死を間近にした父に対して出来ることも思いつかず、無力感に駆られる光一。その傍らで光一の妻(薬師丸ひろ子)と母(麻生美代子)は淡々と介護を続ける。一方、光一が担任する学級では、インターネット等で死体の写真を見ることが流行っていた。生徒の一人は葬儀場に度々入り、苦情の電話が学校にきていた。光一は死を前にした父の姿を生徒たちに見せようと決意するが。
 家族の生と死と見つめるということがひとつの大きなテーマであるとは思うのだが、もうひとつ、現代の教師が教育現場で抱える困難さの方が気になった。子供の「何で死体を見ちゃいけないの?」という問いに対して、光一は具体的な答えを返せない。道徳的な返答では通じないということは分かっているのだが、「駄目だから駄目」的なことしか言えないというもどかしさ。光一はわりといい教師ではある様子なのだが、子供たちとある一線より向こうの意思疎通が出来ないというか、子供のことがどんどんわからなくなっていく、自分たちの言葉はもう子供に伝わらないという焦りとか不安感のようなもの、一種の気持ち悪さが強く印象に残った。父親に対して光一が発する言葉は、シンプルではあっても実感のこもったものなのだが、子供たちに対する言葉はどこか空疎になってしまう。このあたりの、子供に対する言葉の難しさとか空しさが、正直言って父親が死を間近にしているというシチュエーションよりも重苦しかった。学校の先生って辛いよなぁと。
 死体を見たがる生徒の心の動きがなんとなく釈然としない。死んだ父親に対する罪悪感というのは分かるのだが、それが死体を見たいという方向にくるのだろうかと。そしてこの映画のような形でそれが解消されるのだろうかと。まあお話だからと言ってしまえばそれまでなのだが、どうも唐突に設定が提示された感がある。子供が死体を見たがる、特に理由はなく見たがるという方が、私はまだ腑に落ちるのだが。
 結局、父親の姿を見せても子供たちは変わらないし、光一もあっさりと「駄目だったよ」と言う。そして父に対しても何も出来ないまま、父は死んでしまう。そういう所では結構シビアな映画。それだけに最後の「仰げば尊し」にはとってつけたような印象も受けるのだが(何より市川準監督らしからぬ演出だと思うのだが)、ダルデンヌ兄弟の『ある子供』を見た時にも思ったのだが、こういうベタな場面を最後にもってくることで、これはフィクションである、自分はお話としての映画を作るものであると意思表明しているのかなと。



『歓びを歌にのせて』
 天才指揮者のダニエル・ダレウス(ミカエル・ニュクビスト)は心臓病に倒れ、現役から退く。彼は少年時代をすごした小さな町に移り住み静かな余生を送るつもりだったが、周囲に押し切られて町の聖歌隊の指導をすることに。しぶしぶ聖歌隊に参加したダニエルだったが、徐々に合唱の魅力に目覚め、改めて自分の音楽を作ろうとする。
 いい話ではあるのだが、心臓病なのに雪国で暮らしていけるのかとか、そのさむーい雪国で、廃校になった木造の学校で薪ストーブひとつで冬を越すのって自殺行為じゃないかとか、そもそも何でそんなに薄着なのかとか、心臓病なら冷たい水に入るなよとか、ダニエルの行動に対する疑問がとまらない。これが監督の演出なのか単なる脚本の粗なのか微妙な所だ。ダニエルは全く世間知らず(天才少年がそのまま育ったような人なので)で、普通に生活しているとボンクラにしか見えない。音楽の才能以外では未熟な人間が成長していくという側面を出したかったのだろうが、冷静に見ていると行動がまぬけなので、映画のオチ自体もコントにしか見えなかったの(思わず「病気じゃないのかよ!」と突っ込みそうになった)。感動的な話のはずなのに感動半減。
 あれもこれもとつめこみすぎて、ちょっと冗長になっている気がした。監督はダニエルが自分の音楽を掴むまでの物語であると同時に、町の人たちが変化していく物語にしたかったのだろうが、ダニエルがどういう人なのか、最後までよくわからなかった。町の人々に関するエピソードは輪郭がはっきりとしているのだが、ダニエル本人についてはどうも中途半端。
 ダニエル自体は中身のない、中空のような存在だったと思う。いっそ彼の内面に関わるエピソードは全部削って狂言回しに徹し、町の人たちのみに焦点を当てた方がすっきりとしたのでは。この映画の真の主人公は町の人たちだろう。町の中では確たる地位を築いてきた牧師が、聖歌隊の人気の為逆に地位が揺るぎ、従順だった牧師の妻が夫に本心をさらけ出したり、夫の暴力に耐えていた女性が家庭から逃げ出したりと、主に女性達を中心に、合唱に関わっていくうちに段々変化していく様子が清々しかった。一つ一つは月並みなエピソードなのだが、いわゆる美男美女が独りもいない(レナという若い女の子だけかろうじて可愛い)ので妙に説得力がある。特に、夫のドメスティックバイオレンスに耐えるガブリエルという女性が、徐々に自分の尊厳を取り戻していくのがいい。彼女の独唱も美しい。しかし彼女の夫のようなDV男性て、子供とっては優しくて一見良き父親なケースが多いのね。何故だろう。
 また、聖歌隊の女性達が段々生き生きとしていくのを見て、その夫達がもれなく「指揮者とできてるんだ」と思い込むのがおかしい。何でそっちのほうへだけいくのかなー。発想が貧困だよ!彼女らにも自分たちの世界があって、その世界が豊かなものであるという所へは考えが至らないのだろうか。
 映画が魅力的に見えたのは、音楽の力が大きいと思う。合唱曲も全て収録したサウンドトラックはお勧め。



『スキージャンプ・ペア Road to TORINO 2006』
 2006年のトリノ冬季オリンピックから正式種目となるスキージャンプ・ペア。しかしそこに至るまでの道のりは厳しかった。そもそもの始まりは約10年前、物理学者・原田敏文が偶然見つけたチューチューアイスのくびれを基に、画期的な仮説「特殊飛行隊分裂論(通称ランデブー理論)を立てたことだった。しかし学会からは全く認められなかった。彼は理論を実証すべく、1組の板に2人で乗り込み大空を舞うというスキージャンプ・ペアなる競技を発案する。これはスキージャンプ・ペアを正式競技として認定させる為奔走した、原田とその息子達、そしてスキージャンプ・ペアに魅せられたスキージャンパー達を追ったドキュメンタリーである・・・!
 えー、スキージャンプ・ペアという競技は皆様ご存知の通り実在いたしません、今の所は。これは真島理一郎のCG作品「スキージャンプ・ペア」に基づく架空のドキュメンタリー。「スキージャンプ・ペア」は2003年にDVDとして第一弾が発売され累計15万枚の大ヒットとなり、第二弾とあわせると累計販売枚数40万枚突破。更に海外の映画祭でも上映され高い評価(と多分笑い)を得た。以前、真島へのインタビューを見た時、「次はスキージャンプ・ペアがいかに成立したかという(架空の)ドキュメンタリーを撮りたい」と言っていたのだが、本当に撮ってしまったとは・・・。
 硬派ドキュメンタリーな作風に撤していて、大真面目でアホな冗談を言うような可笑しさがある。特にプロジェクトXぽさというか、NHK的な作法をばっちりマスターしていて目配りが細かい。ナビゲーターに谷原章介を起用するあたり、真面目さと胡散臭さのバランスが絶妙だと思う。舟木和喜や荻原次晴本人が出演しているとい凝り様。荻原はTV露出が多いだけにちょっとコメントがこなれすぎているのだが、舟木はちょっとぎこちないあたりがドキュメンタリーぽくてばっちりだ。というか良く出てくれたな・・・。他にもガッツ石松にアントニオ猪木という、無駄に豪華なゲストも。メインキャストである原田兄弟も素人っぽい所がそれらしくていい。原田博士はちょっと芝居やりすぎな感じで残念。もっとたどたどしい演技な役者の方が、ドキュメンtナリーぽくてよかったと思う。
 そしてなんといっても一番の見所(というか聞き所)は、ジャンプの実況だと思う。いかにもスポーツキャスターの実況ぽいこなれまくった喋りなのだが、実況の茂木淳一は、実は監督の友人で、プロの役者でも司会者でもないそうだ。こなれすぎ!ジャンプのCG映像はいかにもCGな絵なのだが、このほげほげーとした感じがまたいい。個人的には大好きな一作。



『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』
 1943年、ヒトラー独裁政権末期のドイツにヒトラー打倒を呼びかける「白バラ」という組織があった。その紅一点であった女学生ゾフィー・ショルとその兄・ハンス、仲間のクリストフは2月18日にミュンヘン大学構内で逮捕され、5日後、人民法廷で大逆罪を宣告され、即日処刑された。何故処刑が急がれたのか?ゾフィーとはどのような女性だったのか?50年間東ドイツに隠されていたゲシュタポの記録と、生存しているゾフィーの姉やモーアの息子等、多くの人々への取材によって、マルク・ローテムント監督が完成された力作伝記映画。第55回ベルリン国際映画祭では銀熊賞を受賞している。
 銀熊賞受賞も納得の作品だった。テーマが硬派で史実を元にしているだけに、内容にケチがつけにくいというのもあるのだが、何よりスリリングでぐいぐいとひきつけられる。ゾフィーが兄とビラを撒く所や、ゲシュタポに尋問を受ける過程は、緊張感で息が詰まりそうだった。かなり構成が上手かったと思う。映画としての強度が高いというか、密度高い作品だった。
 ゾフィーは最初ゲシュタポの尋問官から尋問を受け、疑いを否定しながらも手の震えが止まらない。しかし、一旦腹をくくると目の力がみるみる強くなり、尋問官がたじたじとするような毅然とした態度で臨む。心がくじけそうになっても、死の直前まで冷静さを失わなかった強さがすごい。もっとも、彼女はカリスマ性があったり特別に頭が良いというわけではなく、聡明ではあるがごく普通の女子学生だったみたいだ。ただ、自分の良心を曲げない強さを持っていたのだろう。しかしあの時代、そういう強さを持ち続けることがどんなに困難だったか。死の直前まで冷静さを失わなかったゾフィーの勇気に敬服する。対するナチスは既に末期だからか、ヒステリックなまでの盛り上がりようで怖い。ここまでくると理屈もへったくれもなく、ゾフィーに対する追求も「それへ理屈だよ!」と突っ込みたくなるような内容。こういうことが本当に行われていたというのが恐ろしい。もう二度とこんな時代を繰り返したくないと思わせる映画だった。
 ゾフィー役のユリア・イェンチが上手い。ベルリン映画祭で最優秀女優賞を取っただけのことはある。特に美人というわけではないのだが、迫力があり力強い。また、尋問官役のアレクンサンダー・ヘルトは、表情を殆ど出さないが、ゾフィーとの対話で迷いが僅かに出てくる微妙な変化が上手く出ていたと思う。
 ところで、ゾフィーは特に敬虔なキリスト教徒という訳ではなかったようだが、プロテスタントであり、独房の中でも神に救いを求めて祈った。熱心ではないにしろ、信じる宗教があるというのは、やはり最終的には強いのかもしれない。



『ホテル・ルワンダ』
 1994年のルワンダ。長年続いていたツチ族とフツ族との内戦に和平協定が結ばれようとしていた。しかし一部のフツ族によりツチ族の襲撃が始まり、大虐殺に発展していた。外資系ほ4つ星ホテルの支配人ポール(ドン・チードル)は、ツチ族である妻のほかにも、なりゆきで近所の人達をホテルにかくまうことになる。ホテルへの避難民は日に日に増えるが、状況は悪化するばかり。ポールはホテル業で培ったコネと話術と機転で、避難民を守る為に奔走する。
 実話を元にした本作は、最初アメリカの数劇場で公開され、翌週には2300館へと拡大され、更にアカデミー賞3部門にノミネートされた。しかし日本では公開のめどが立たず、一般映画ファンの署名運動によりようやく日の目を浴びたという経緯がある。そして日本でも公開劇場では満員御礼の大ヒットを飛ばしている。私が見に行ったときも、平日の日中にも関わらず満席だった。面白い映画にはちゃんと客が入るのだと実感した。要は宣伝方法だと思うので、配給会社には勇気を持って映画を買い付けて力いっぱい宣伝してほしい・・・っと、映画の感想から話がずれた。
 社会問題的にどうこうという以前に、サスペンス映画として圧倒的に面白い。次から次へと難局を迎えるポールが、次はどうやって切り抜けるのかというハラハラドキドキ感があった。これはミニシアターでなく大劇場(とは言わないまでもせめて200〜300席規模の劇場)で上映すべき作品だったのではないか。
 主人公であるポールは、いわゆるヒーローではない。特に正義感が強いわけでもなく、力を持っているわけでもない。あくまで一介のホテルマン、普通の男だ。ピンチを乗り切る為には権力者に賄賂だって送るし、虐殺の張本人であるフチ族の過激派とも交渉する。そこが面白い。彼が避難民を助けようとするのも、正義感というよりもホテルマンとしての職業倫理(滞在客には支払能力はさておき、一応請求書を配るのだ)と、目の前で殺されそうになっている人を放っておけないという、割と素朴な良心によるものだと思う。このあたりが面白い。彼が以上な状況の中で何とか冷静さを保てたのは、仕事場であるホテルでホテルマンとして振舞い続けていたということに寄る所が大きいのではないかと思った。「アフリカ版シンドラーのリスト」とも言われたらしいが、シンドラーよりもより現実を見据えている、地に足がついている感じがした。
 個人的に心に残ったのは、国連軍の隊長だ。もうヨボヨボのおじいちゃんで、正直やる気があまり感じられない。それでも虐殺の現場で、国連軍が出来ることはあまりにも少ないという事実に対する諦めと悔しさが滲み出ていたと思う。また、世界は無関心で彼らを助けてくれない。ポールはベルギーのホテル本社に必死で訴え一度は難を逃れるのだが、限界がある。多国籍軍も撤退してしまった。ポールはホテルの従業員に、お得意様への最期の挨拶の電話をさせる。そして、電話を通して相手の手を握りなさい、そして決して離すな、それが命綱になると言う。しかしこのやり方でも、個人レベルの助けは得られるかもしれないが、それが大きなうねりになることはない。それがもどかしいし哀しい。
 それにしても、虐殺の情景が凄まじい。直接的な殺人シーンは意外に多くはないのだが、死体がごろっごろ転がっている。特に買出しに出かけたポールの乗っているヴァンがガタガタ揺れるので何かと思ったら、道路一面に死体が転がっているシーンは強烈。死体そのものは映さず、ヴァンに乗ったポールががたがた揺れている(つまり道に転がっている死体にヴァンが乗り上げている)所を映すのが上手い。そして寒気がする。
 それまで諍いはあったものの、フツ族とツチ族は同じエリアで共存していた(現に、フツ族であるポールの奥さんはツチ族)。しかし、何かのきっかけでぼこぼこ殺しあう状況が起こった。誰でも虐殺する、される側になり得るというのが恐ろしくてならなかった。そして、その中で「普通」であることが何と難しいのかと。



『ウォーク・ザ・ライン 君に続く道』
 1950年代、エルビス・プレスリーらと共にロカビリーの黄金時代を築き上げたジョニー・キャッシュの伝記映画。ジョニー役のホアキン・フェニックスは、歌も吹替えなしでこなしているのだがこれがまた低音ボイスで上手い。ホアキンにとっては間違いなく代表作になるはず。監督は『17歳のカルテ』や『アイデンティティー』など佳作の多いジェームズ・マンゴール。
 ジョニーは音楽好きで孤独な少年だった。やがて成長し空軍に入った彼は、少しづつ自作の曲を書き溜めるようになった。除隊後、初恋の女性ヴィヴィアンと結婚したジョニーは音楽への夢を諦められず、オーディションを受けるが、たまたま披露した自作の曲が評判になり、一躍スターに。しかし音楽で成功するにつれ、ツアーで自宅を空けることが増え、妻との距離は開いていった。ある時ジョニーはコンサートで共演したジェーン・カーター(リーズ・ウィザースプーン)に心惹かれる。
 ジョニーはどこか成長しきれていない、子供のような人物で、現実とちゃんと折り合いがつけられないような所がある。特に好きになった女性に対しては一途すぎるというか夢見すぎというか、結婚して子供を育てるというのがどういうことか本当にはわかっていなかったのだと思う。結局妻のヴィヴィアンとは上手くいかず、最終的には離婚。更に、片思いの相手であるジェーンに拒まれてドラッグと酒に溺れる等、人としてはかなりダメダメだ。傷つきやすく弱い人として描かれている。そりゃあジェーンもこんな男と再婚するのは躊躇するわなーと思わざるを得ない。
 しかしそんなジョニーが、ジェーンの支えを得て、何とか人生を立て直そうとあがく。それが胸を打つ。ジェーンだけでなく、ジェーンの両親も一緒になって彼を支えようとするのがいいなぁと思った。ずっと子供だった男が、ちゃんと大人になるまでの成長物語でもある。再起を図ったジョニーが刑務所で初ライブをやるのだが、囚人達の反応がすごくいい。人生の陰の部分を歩いてしまった人達の共感を呼ぶ歌なんだろうなぁと思った。
 それにしても、子供の頃、親からきちんと承認されなかったことが、後々までずっと尾をひいていて、親の責任というのはやはり大変なものだと思った。ジョニーには出来の良い兄がいたのだが、彼が遊びに行っている間に事故で死んでしまう。父親は兄の死に非常にショックを受けて、ジョニーの前で「間違った子が死んだ(何故出来の良い兄が死んで出来の悪い弟が生きているのか)」と口にしてしまう。あ、あんたねー、自分の子供の前でお前が死ねばよかった的なこと堂々と言うなよ!ジョニーは大人になってからも父親に認められようと色々やってみるのだが、父親の方は彼を許せない。いやはや切なかった。
 ジョニーを支えることになるジェーン・カーターという女性がとても魅力的。3回離婚しているシングルマザーなのだが、世間の目に屈することなく堂々と生きている。演じるリーズ・ウィザースプーンは、今まではちょっとおばかさんな感じの女の子役が多かったのだが、今作では気丈かつキュート。ジェーンの歌も吹替えなしでリーズが歌っているのだが、予想以上に上手くてびっくりした。
 ところで、ホアキン・フェニックスが、兄を亡くした傷から立ち直れない男を演じるというと、ちょっと複雑な気持ちになる。本人どう思っているのか気になってしまう。いや、観客がどうこういうことじゃないんだけど。



『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』
 2015年。世界中で通称「レミング病」と呼ばれる症状を発症させるウイルスが蔓延していた。映像によって視覚から感染し、発症すると自殺衝動に駆られ、確実に死に至る。しかし、ある2人の男が奏でる音を聴くと、発病を抑えることが出来るという噂があった。富豪の老人ミヤギ(筒井康隆)は孫娘ハナ(宮崎あおい)を救おうと、探偵を雇って2人の男(浅野忠信、中原昌也)を探す。
 レミング病のウイルスは、実は政府の研究機関から漏れたものだったとか、発症を防ぐのがミュージシャンが奏でる「音」であるとか、富豪とか探偵とか、安いマンガに出てきそうな安易な設定だ。富豪、孫娘、探偵、そして2人の男行きつけのペンションのママ(岡田茉莉子)は、キャラ造形もマンガ的でわかりやすいといえば分かりやすいし、薄っぺらいと言えば薄っぺらい。前作『レイクサイドマーダーケース』といい、ある種の典型のような、キャッチーであると同時に安っぽい設定をあえて使って、哲学的、形而上的な表現をしようとするのが最近の青山真治監督のスタイルなんだろうか。
 もっとも、そういう意図があったとしても、今作は映画としては微妙だと思う。各シーンが妙なところで切り替わる、ちょっと不自然につなげた編集なような気がした(映画の文法について全く詳しくない為、あくまで印象だが)。どうにもぎこちなさが漂う映画だった。
 ぎこちないと感じたのは、役者それぞれの演技のジャンルが全く別のものだからかもしれない。筒井、岡田はいわゆる演劇的な、舞台栄えしそうな演技だし、浅野はいつもどおりの浅野、宮崎は比較的ニュートラルな印象だが、そう上手くはない。そして中原はそもそも本業は役者ではない。それぞれの演技レベルやベクトルがあっちこっちを向いていて、なんとも収まりが悪いことになっている。収まりを悪くするのが監督の意図だったのかもしれないが、それが何の為なのかがよく分からなかった。
 内容如何こうというよりも、男2人が音を収集しているシーン(傘のホネにパイプをくくりつけてひゅんひゅん回す装置はいいなぁと思った)とか、自転車で走っているシーンとか、断片的なものが印象に残った。ロケ地は北海道だそうで、ばーっと丘が広がっている景色がいい。終盤、草原で浅野がギターを鳴らすシーンは流石によかった。が、景色でごまかされた感がなくもない。
 男2人は、ありとあらゆる音を採集し、自分たちの「音」を作る。世に満ちる音を採集するということは、世界を記録することに他ならないと思う。そしてその「音」を響かせることは世界の再生でもあるのだろう。自殺に至る病を食い止める音がそういうものであると考えると、なんとなく腑に落ちる。ちなみに発症を止める「音」とは轟音なのだが、美しい音楽ではなく轟音、ノイズであるというのには妙に納得がいく。美しい音楽だと満足して死にたくなっちゃいそうだから。混沌の方がエネルギーに満ちているとは思う。



『PROMISE』
 戦場でさまよう幼い少女・傾城の前に、女神が現れある契約を持ちかけた。「なに不自由ない生活を約束しましょう、そのかわり真実の愛は得られない、それでもいい?」。傾城は女神と契約を交わし、後に女王の座を手に入れる。そのころ、王の配下である無敵の将軍・光明(真田広之)は蛮族との戦いの中で俊足の奴隷・昆崙(チャン・ドンゴン)を得る。伯爵(ニコラス・チェー)の反乱から王を救う為、光明と昆崙は城へ向かうが。
 『さらば、わが愛/覇王別姫』でカンヌ国際映画祭パルムドールを受賞し、最近では『北京バイオリン』が好評だった巨匠チェン・カイコーの新作。また、成長した傾城を演じるのは香港のセシリア・チャン、そして韓国のチャン・ドンゴン、日本の真田とキャストもさまざま。歴史アクション映画というよりも、ファンタジー映画だった。
 映像には非常にこっていて、CGも多様している。面白いのは、CGっぽさが残っていても監督があまり気にしていないらしいこと。映画の前半で牛の大群に襲われるというシーンがあるのだが、牛の集団がどう見てもCGで、下手すると人間の体を通り抜けているように見える。また、光明や昆崙が飛んだり走ったりするシーンもすごく誇張されていてマンガのよう。映像美を追求しすぎで、ちょっと笑ってしまいそうになった。他は唯美的なのに、アクションだけ少年漫画とか格闘ゲーム的で、「あっド●ゴンボールだ!」とか「竜●旋風脚!」とか心の中でこっそり唱えてしまった。
 映像美に偏った珍作になるかと思っていたのだが、ストーリーは意外にシニカルだった。途中で出てきたセリフや設定が、きちんと最後まで伏線として活きている(むりやり引っ張ってきた気もなきにしもあらずだが)ので、流石巨匠というべきか。俳優陣も良い。真田は今作では体型がちょっとでっぷり気味なのだが、傲慢な将軍が様になっている。そして意外によかったのがニコラス・チェー。途中まではにぎやかしなのかと思っていたが、終盤、心情を吐露するあたりでぐっと良くなった。酷薄で執念深いキャラクターが似合っていたと思う。
 ただ、やっぱり映像的にここは笑わせたいのだろうかそれとも本気なんだろうかと迷ってしまう所が多すぎた。傾城が凧状態とか、伯爵の杖がサムズアップだったりファッキュー!だったりとか、昆崙の走りがマンガ絵だとか、突っ込み始めるときりがない。しかも映画のベースとなる空気感は至ってシリアス。何この取り合わせは。所詮凡人に巨匠の美的センスはわからないということでしょうか。カイコー先生のやることは思い切りすぎていてついていけませんよ。

 

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