1月

『Mr.&Mrs.スミス』
 奥様は暗殺者。ちなみにダーリンも。ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーという2大スターが共演。流石に華やかだ。
 ジョンとジェーンは結婚して5,6年になる夫婦。しかし最近は仲がぎこちなく、夫婦でカウンセリングにも通っていた。実は2人はそれぞれ別の組織に属する殺し屋で、お互い秘密にしていた。しかしある依頼のターゲットがブキングし、お互いが殺し屋であることがバレてしまう。相手を消さないと自分が組織に消されてしまう!
 派手な爆発やカーチェイスはあるけれど、思ったほどアクション映画ぽくはない。むしろ全編痴話喧嘩?な戦うラブコメと言った方がいいかもしれない。夫婦で派手な撃ち合いをしても結局よりを戻して残骸となったキッチン(床ガラスだらけなんだから靴履けよ!)でラブラブなモーニング、なんて展開なので、何だよもう終わりかよ!もっとどつきあってよ!と不満な所も。他にも、組織が2人の処遇に手間隙かけすぎなんじゃないか、そもそももっと簡単な解決方法があったのでは、というように色々と大雑把なのだが、そこを突っ込むのは野暮というものだろう。あくまで2大スター夢の共演!しかも2人はプライベートでもラブラブだよ!という所を楽しむ映画だと思う。
 大味さと特に後半のストーリーのぐだぐだ加減にさえ目を瞑ってしまえば、マンガ的でなかなか楽しい。2人が家の中にこっそり武器の収蔵庫を作っているところや、ジェーンのオフィスがいかにも「秘密基地」、しかも部下は女だけな所とかは、マンガ好きの心をくすぐる。あと、ちょっとした所の2人のやりとりがテンポがよかった。ディナーで腹の探り合いをしている所や、修羅場中に全く関係ないことで痴話喧嘩を始める所とか。特にお互いに殺し屋じゃないかと勘ぐっているディナー中、ジェーンが包丁で肉を切ろうとするのを「僕がやろう」と上手いこと包丁をとりあげたジョンが、ジェーンがナイフを取り出してパンをすぱすぱ切っているのを見て「やっべ切れてるし!超切れてるし!」みたいな顔をする所が妙に私のツボにはまってしまった。ブラピって基本的にトロそうな顔だと思うんだけど、私だけかな・・・
 主演の2人が美男美女でガタイもいいので見ていてゴージャス感がある。特にアンジェリーナ・ジョリーがかっこいい。ボンテージ衣装とか、ワイヤーでシャーッとビルから脱出するところとか、惚れ惚れとする。正直ブラピよりも強そうだと思う。「私負ける気がしません」オーラが漂っているし。
 ところで、冒頭のカウンセリングシーンで、カウンセラーが2人に一週間のうちのセックスの回数を聞くのだが、アメリカでは夫婦は頻繁にセックスしないといかんと考えられているのだろうか。そんな、新婚当時はともかく5、6年もしたら恋愛当時のテンションなんて保っていられないよー、絶対無理だよー(少なくとも私は)。アメリカの夫婦は大変だなー。恋愛と結婚とは別物だと思うんだけど・・・。むしろ恋愛中とは違うということを認識しないと、結婚生活が長続きしない気がする。いや私未婚なんで何ともいえませんが。

『ロード・オブ・ウォー』
 崩壊以前のソビエト連邦ウクライナから、家族と共にアメリカに渡ってきたユーリー(ニコラス・ケイジ)は、両親が経営するレストランを弟と共に手伝っていた。ある日ロシア人ギャングの襲撃を目撃したユーリーは、武器の売買は儲かるのではないかと考え、弟ヴィタリー(ジャレッド・レト)と組んで武器の密売を始める。危ない橋を渡り続け、めきめきと頭角をあらわしていくユーリー。美しい妻と子供も出来、世界有数の武器商人に上りつめた。しかし、彼のことをインターポールの捜査官バレンタイン(イーサン・ホーク)が追い続けていた。
 主人公であるユーリーは、実在の複数の武器商人がモデルになっているそうだ。ユーリーのキャラクターがちょっと面白い。武器の密売や、自分が打った武器によって多くの人が死ぬことには(全くというわけではないが)葛藤を感じないのに、ドラッグ中毒の弟を厚生施設に入れたり、弟が商売女を家に連れ込むのを許さなかったり、武器の報酬として美女をあてがわれてもぐっと堪える。商売以外のところでは、意外に倫理観が強いのだ。弟と違って、ドラッグをやっても中毒にはならないし、かなり意思が強い。一方で節操なくどの国にも武器を売りさばき、インターポールの追及も口八丁手八丁で切り抜けていく。商売に関しては倫理がない。明らかに善人ではないが、悪人というわけでもないところが面白い。
 ユーリーは武器密売のせいで、妻子も弟も失ってしまう。でも武器商人はやめられない。金の為だけではなく、本能のようなものだろう。才能がある人は羨ましいが、才能の種類によっては幸せだとは限らないのか。
 それにしても、武器密売って儲かるんだなー。そりゃあ戦争がなくならないわけだよなーと妙に納得してしまう。この映画の最後に、世界最大の武器売買の存在が明かされる。これが武器密売の最大手だとすると、永遠に戦争はなくならなそう。
 1発の弾丸が製造され流通し使用されるまでを映したタイトルロールを始め、最後までテンポがよくて面白かった。法に触れているとはわかっているものの、ユーリーがのしあがっていく過程が愉快。ニコラス・ケイジは、狡猾だけど悪人とは言い切れない、多面的なキャラクターにはまっていた。ユーリーの弟役のジャレッド・レトがちょっとかっこいい。良心の葛藤からドラッグに溺れていく、優しくも弱いキャラクターがルックスに合っていたと思う。

『愛より強い旅』
 『ベンゴ』『ガッジョ・ディーロ』『僕のスウィング』等、ロマ文化(特に音楽)をテーマに映画を撮ってきたトニー・ガドリフの最新作。主演は『ガッジョ・ディーロ』でも主演し、最近では『スパニッシュ・アパートメント』『真夜中のピアニスト』『ルパン』等主演作が相次ぐ若手ロマン・ディリス。
 青年ザノ(ロマン・デュリス)はある日突然、恋人マイナ(ルブナ・アザバル)とアルジェリアへ向かう。彼らの両親はアルジェリアからの移民だった。2人は電車を無銭乗車で乗り継いでスペインを目指し、船でアルジェリアへ向かうが船を乗り間違えてモロッコに着いてしまう。モロッコからは陸路での旅だ。旅の途中ではアルジェリアからパリを目指す人々もおり、2人は様々な人と出会う。
 自らのルーツを探しにいくという話なのだろうが、2人のルーツが実際にどういうものであるか、両親は何をしていた人か、彼らの過去に何があったかという背景については、意外なほど言及がない。ザノ一家が住んでいたマンションの部屋を内装も荷物もそのままにして出国したことや、マイナの父親がアルジェリア語を話したがらないことや彼女の背中に傷痕があることから、何らかの迫害を受けて国を捨てざるを得なかった一族なのだろうということだけが分かる。
やはり基本はロードムービーなのだろう。若いカップルが主役なので、エネルギーが有り余っていてテンションが高い。平たく言えばいちゃつきやがってこのやろ!というイライラ感は否めない。特にマイナは常にやる気満々というか、放埓であぶなっかしくもあった。どこかおぼっちゃん風なザノとは対照的だ(実際、「お坊ちゃん育ちのあんたとは違うのよ!とマイナがザノにキレる場面があった」。マイナ役の女性の笑い声が下卑た感じですごく勘に障ったのだが、最後まで見るとあれはそういうキャラクター設定だったのかなと思った。常にテンション上げてないと自分を保てない人というか。お近付きにはなりたくないタイプではあるが。
 アルジェリアに着いてからのザノとナイマの振る舞いが対照的だった。ザノは子供の頃のことを思い出してはしゃぐが、ナイマは疎外感を感じて不機嫌だ。占い師の言葉で、彼女と家族が過去に酷い目にあったらしいということは分かるのだが、まじない(?)でマイナが癒されました的なラストはちょっと安易だと思う。「落ち着かないの。どこへいっても同じ」というマイナの言葉に対して、そんなことはないというアンサーを出したかったのだろうが。 
 セビリアへ行く途中でアルジェリアからの密入国者らしい兄妹と出会う町が廃虚化していたのだが、あれは内戦の跡なのだろうかと色々気になった。アルジェリアも大地震の影響でビルや家屋が倒壊している地域も残っていたし、ナチュラルに廃虚が出てくる映画だった。あと、ザノが住んでいたマンションがすごい高層ビルで、結構お金持っている人なのかと思ったら、公団団地だそうだ。地震がない国だと普通の団地も超高層なのか。
 ザノとマイナがウォークマンでずっと音楽を聴いているのだが、音楽好きのガドリフ監督らしく、あらゆるジャンルの音楽が使われている。しかし最後にはヘッドフォンを外し、アルジェリアの民族音楽で締められる。音楽と一体になったロードムービーだった。

『ロード・オブ・ドッグタウン』
 1975年のカリフォルニア州ヴェニスビーチ。その中でも貧しい人々が暮らす地域は、通称ドッグタウンと呼ばれていた。ジェイ・アダムス(エミール・ハーシュ)、トニー・アルヴァ(ヴィクター・ラサック)、ステイシー・ペラルタ(ジョン・ロビンソン)の3人の少年は、サーフィンとスケートボードに明け暮れていた。彼らの憧れであるサーフショップのオーナー・スキップ(ヒース・レジャー)は、ある日客から新しいスケードボードのパーツを見せられる。スキップはスケートボードのチーム「Z−BOYS」を組んでPRし、新製品を使ったボードを売り込むことを思いつく。ジェイ、トニー、ステイシーは大会で大活躍し、一躍有名人に。スキップのサーフショップにもボードの注文が殺到していた。しかし彼らの才能に目をつけた企業が引き抜きの声をかけてくる。
 若者達が才能を見出され、一躍スターダムにのしあがり、そして没落していくという、まあある種の型に添った物語ではあるものの(別にスケボである必要もないんだけど)、実話だというから反論のしようがない。脚本はZ−BOYSのメンバーだったステイシー・ペラルタ本人によるものだ。監督のキャサリン・ハードウィックは元々ペラルタと面識があり、元Z−BOYSのほかのメンバーも、俳優達の役作りやスケーティングへのアドバイスをしているそうだ。
 もっとも、型に沿っているからこの映画がつまらないということではなくて、すごく面白かったし楽しかった。ディティールがしっかりしている(と言ってもスケートボードに詳しい人が見ると、色々変な所があるらしいが)し、何より登場人物全員がよく動くので、映画全体に「運動している感」というか、グルーヴ感があって、乗っている状態で最後まで見ることが出来た。ストーリーを捻ればいいってもんでもないのかなと思った。主役3人のキャラクターが、ワイルドで自由を愛するジェイ、目立ちたがり屋で野心家のトニー、真面目で優等生タイプのステイシーというふうにそれぞれ立っている。彼らの家庭の事情等の背景や、仲間内での友情と微妙な嫉妬や羨望等の描写もなかなか繊細でよかったと思う。若手俳優3人も魅力的だった。特にガス・ヴァン・サント監督の『エレファント』に主演していたジョン・ロビンソンは、前作に引き続き真面目そうな役柄に合っていた。個人的に、こういう「はじけられない」タイプの役にはシンパシーを感じる。
 彼らはあまり裕福な層ではなく、スケートボードでのし上がることは、そこから脱出する為の唯一の手段でもある。この「才能によって現状から抜け出す、もしくは脱出し損ねる」というのは青春ものの一つのパターンだと思うのだが、そこに付き物な苦さは案外薄い。トニーとステイシーは大手企業の誘いに乗りスターとなり、ジェイは商売としてのスケートボードを嫌い地元に留まる。どちらの選択をも否定していない所に監督の視線の優しさがあり、それが苦味を和らげていたと思う。3人が実在の人物であり、今なお健在であるというのも一因かもしれない。
 所で、スケートボードの大会のシーンがあるのだが、当時のスケートボードは今のものからは想像できないくらい牧歌的だったらしい。現在の様に立体的なスタイルを確率したのがZ−BOYSだそうだ。当時は本当に革新的なことだったのだろうと思う。

『風の前奏曲』
 実在したタイの伝統楽器「ラナート」奏者であるソーン師の半生を描いた伝記映画。19世紀末に伝統音楽奏者の一家に生まれたソーンは、幼い頃からラナートの才能があった。めきめきと腕を上げ青年となったソーンは自信満々だった。しかしある時、巨匠と呼ばれるクンインの演奏を聞いてショックを受け、自信喪失する。故郷で独自の奏法を生み出したソーンは宮廷楽団に迎え入れられるが、彼の斬新な奏法は反発を呼んだ。そんな中、彼は再びクンインと対決することになる。
 晩年のソーンと若い頃のソーンと、2つの時代が交互に映し出される。いつの時代なのかとちょっと戸惑う所もあったが、それほど混乱はしなかった。若い頃のパートは、青年が才能ゆえに驕り、挫折し、また立ち上がるというストレートな成長物語。映像もとてもストレートでてらいがない。すれていない映画とでもいった感じで、ちょっと昔のNHKの2時間ドラマみたいなものを彷彿とさせる所があった。その王道さが懐かしい。そのせいか、私が見に行った時には年輩のお客さんが多かった。意外に対象年齢を選ばないと思う。

 クンインの演奏が始まるとバトル系少年漫画よろしく文字どおり暗雲たちこめ嵐が起きるのには、笑ってもいい所なのか迷ってしまった。マンガだったら心情やシチュエーションの表現として背景に雷が落ちたり暗雲が沸いたりするけど、それをそのまま(しかも心象風景ではなく本当に雨が降ったんですよということで)映像化しちゃうところが素直というかなんと言うか。ハリウッド映画や日本映画でやったらギャグになってしまいそうだが、この映画の中ではOK。全編そんな感じで、まっすぐ、真っ向勝負な映画だった。
 最近日本でもヒットしたタイ映画である『マッハ!』とは打って変わって、アクションもラブロマンスもない地味な映画ではあるが、タイでは異例のロングランヒットだったとか。タイ・アカデミー賞では作品賞、監督賞他主要7部門を受賞している。ストレート、直球勝負なものが好まれるのだろうか。何より、主人公であるソーン師が尊敬されているということなのだろうが。言うまでもなく音楽は素晴らしいし、演奏シーンも迫力がある。ソーンは伝統音楽の奏者ではあるが、新しいものや西洋音楽に対する抵抗は案外少なかったみたいで、息子がピアノを買ってくると、渋い顔をしているのかと思いきや、息子のピアノ演奏に合わせてナラートで伴奏してしまうというエピソードも。ソーン晩年の第二次世界大戦中には、国家政策としての近代化至上主義とそれに伴う伝統芸能の禁止により、ラナートをはじめ伝統的な楽器の奏者は弾圧されるようになっていたそうだが、多分辛かっただろう。軍とソーンとのやりとりにはむかっ腹が立つし気が重くなるしで、最後にちょっと暗い気持ちになってしまった。が、全般的にさわやかだと思う。

『疾走』
 干拓地「沖」のある町に両親、兄と静かに暮らすシュウジ(手越祐也)。「丘」の人々は「沖」には近寄らなかった。幼い日、自転車が壊れて泣いていたシュウジはヤクザの鬼ケン(寺島進)に助けられる。しばらくして鬼ケンは殺されたことが分かった。やがて中学生になったシュウジは、風変わりな少女エリ(韓英恵)と彼女が通う「沖」の教会の神父(豊川悦司)と親しくなる。エリには両親がなく、同級生も周囲の大人も寄せ付けなかった。しかし「沖」にリゾート施設が建設されることになり、やくざまがいの業者が地元に出入りするようになる。沖の家に対する連続放火事件も起き、シュウジの周囲にも不穏な空気が漂っていた。
 シュウジは物知りな兄を慕っているのだが、シュウジにも観客側にも、徐々に兄が見た目どおりの優等生ではなく、この家族が問題を抱えていることがわかるのだが、シュウジ一人がそれを自覚していくみたいで(両親は気付いていなくもないのだろうが、何もしない)見ているとちょっと辛い。そういう話だからしょうがないんだけど、あーこれから崩壊するよー来るよ来るよ来たー!みたいに予想を裏切らない鬱な展開。普通の家族や普通の学校、普通の田舎町の残酷さがありありと映し出されていたと思う。しかし、シュウジの両親の無関心さや担任教師のとって付けたような嫌な先生ぶりが戯画的すぎて、嫌さ半減になっている気も。他にも、「どうして人は死ぬの?」「誰か一緒に生きてください」のようなあざとい言葉づかいが気になった。そこまでサービスされると恥ずかしい。また、途中までシュウジが自分を指して「お前は〜」と語りかけ、最後は語りが神父に引き継がれる。が、この形はあまり必要なかったと思う。語る行為が上手く機能していなかった気がする。
 題名は疾走なのだが、あまり疾走感は感じなかった。むしろ、シュウジのような普通の少年が置かれているままならなさというか、無力さが心に残る。シュウジはエリの為に(先生に「やめてください」と言うことは出来たけど)何かやってあげられるわけでもないし、兄を止められるわけでもない。学校ではともかく、家庭の中でも無力であるというのがやりきれなかった。エリにしても、シュウジよりはずっと強い子だと思うが子供故に無力という所は同じだ。疾走するというよりも、流れに抗えずこうなっちゃった、みたいなやるせなさがあった。
 シュウジを演じた手越祐也は、台詞回しはお世辞にも上手いとは言えないが、黙っているシーンが妙に雄弁だったと思う。エリ役の韓英恵も同じく。役者としては大人役の人たちの方が圧倒的に良い。特にヤクザの愛人役の中谷美紀が群を抜いていたと思う。演技をしている中谷美紀は久しぶりに見たのだが、この人こんなに上手だったっけ?!と驚いた。
 所でシュウジが最後に残したものとやらには、申し訳ないが失笑しそうになった。男性の発想ってやっぱりそっちにいくのかなー。そんなものなくてもエリの存在で物語としては完結していると思うが。ちなみに原作は重松清の同名小説。ネット上の感想等を読んだ限りでは、基本的に原作通り(後半所々飛んでいるらしいが)みたい。

『レジェンド・オブ・ゾロ』
 『マスク・オブ・ゾロ』から8年。再び元祖正義のヒーロー「ゾロ」が戻ってきた。キャストは前作と同じく、アントニオ・バンデラスとキサリン・ゼタ・ジョーンズ。舞台は1850年、アメリカの31番目の州になろうとしてたカリフォルニアだ。ゾロ(アントニオ・バンデラス)は美しい妻エレナ(キャサリン・ゼタ・ジョーンズ)とやんちゃな長男と共に、幸せにくらしていた。彼はヒーロー・ゾロとしての活躍は続けていたものの、アメリカの州となることを機に、引退を考えていた。そんな矢先、不気味な秘密結社の存在に気付く。
 ヒーローものではあるのだが、今回のゾロはあんまりかっこよくない。中年サラリーマンよろしく、奥さんに「あなた仕事に夢中で家庭のことなんてどうでもいいのね!子供の担任の先生の名前知ってる?!」となじられたり、父親がゾロだと知らない息子に「パパ情けなーい」と愛想つかされたり、ファミリードラマのお約束連発。挙句の果てには妻と離婚、フランス人貴族と仲良くしている妻にメラメラとジェラシーを燃やして醜態を見せたり、私が見たかったのはこんなゾロじゃないよ!昔の貴方はどこへいってしまったの?!と憤慨する前作のファンもいると思う。ヒーローものというより、夫婦の倦怠期にさしかかった、家庭持ち中年男の悲哀を描いたコメディ映画のようだった。それはそれで共感を呼びそうではあるが・・・。
 今作ではゾロよりむしろ奥さんの方が強そうだった。実際、ゾロより活躍していたというか役に立っていたというか・・・。最近のゼタ・ジョーンズは女優としての貫禄たっぷりなので、バンデラスが貧相に見えなくもない。また息子もやんちゃではしっこく、トラブルメーカーでもあるがここぞという所で活躍していた。もしかしてゾロいらなかったんじゃ・・・という疑念が頭をよぎったが、前作よりもファミリー向けではある。実際、笑いの要素がかなり増えていた。

 反対に、アクションはちょっと物足りなかった。ゾロといえば華麗な剣さばきが見所だと思うのだが、肝心の剣での戦いがあまりかっこよくない。バンデラスももう年だということなのだろうか。それとも地味だから割愛されたのだろうか。ちなみに、終盤ではアクション映画ではお約束の汽車内でのアクションがある。しかし、バイクや自動車はともかく、馬で汽車の屋根に飛び乗ったヒーローは初めてなのでは。馬は大迷惑。

『ギミー・ヘブン』
 新介(江口洋介)は弟分の貴史(安藤政信)と組んで、ヤクザ(鳥肌実)の下請け仕事である盗撮サイトの運営をしている。新介は共感覚と呼ばれる感覚を有していた。恋人の不由子(小島聖)にもこの感覚は理解できない。ある日、新介と貴史は盗撮サイトのモニターに写り込んでいた少女・麻里(宮崎あおい)を保護する。麻里の実父母は既に死んでおり、その後養女に入った家の養父は何者かに殺されて大騒ぎになっていた。しかも麻里の以前の養父も変死している。殺人事件を追う警部・柴田(石田ゆり子)は、事件に共感覚が絡んでいると睨み、新介に接触してくる。また、アンダーグラウンドで「死の商人」とされる通称ピカソなる男(松田龍平)も新介を挑発してきた。
 共感覚とは、ひとつの感覚が刺激されると、本来の感覚とは別の感覚も伴う現象のことを言うそうだ。例えば、印刷された文字が常に色や臭い、手触りや味としても感じられるという現象だ。生活する上でさほど支障はないが、自分が見、感じる世界を他人に完全に理解されることがない為、共感覚の持ち主は、孤独感や現実に対する希薄感を抱きやすいと言う。この共感覚を素材とした映画ということで、なんだか面白いんじゃないかと思ったのだが。
 結論から言うと、久々に見たダメな映画だった・・・。とにもかくにも脚本がまずい。まず、殺人事件が起こる必要性がない(殺す必要ない)し、あのオチだったら警察が最初に捜査した時点(柴田が麻里の家にのりこんだ時点)で事件が解決していないとおかしい。警察がよっぽど怠慢だということになってしまう。柴田が新介にだけ目をつけるのも不自然だし、ピカソの動きの意図もよくわからない。そもそも冒頭で飛び降り自殺した女は何のために出てきたんだ。
 また、新介達の仕事の様子やピカソが作ったと言うゲームが、雰囲気設定というか、まあこんなもんだろ、という感じで描かれており、なんだか興ざめ。多分、この手の商売とか技術とかのことを全然調べないで脚本書いたんだなーという気がする。あんなにタイミングどんぴしゃで映像の割り込みが出来るのかとか、あのゲームはオンラインなのかとか、じゃあピカソは新介がアクセスしてくるのをずーっと待ってるのかよとか、気になってしまった。別に細部まで正確に再現する必要はないが、必要最低限に嘘臭くないようにはしてほしい。こういう所にきちんと手をいれないと、これを土台としてその上に成り立つストーリーという大きな嘘が立ち上がってこない気がする。
 そして何より、共感覚を素材とした意味があまりない。普通に孤独だからとかでいいじゃないですか。新介の孤独感というのがあまり感じられなかった。ラストの雨のシーンを撮りたかっただけなの?それにしてはちゃちいぞ!
 あまりほめる所のない映画だったが、唯一、安藤政信の「捨てられた子犬ちゃん演技」には唸らされた。何このなりふり構わなさ。「えーえーわかってますよこういうのが見たいんでしょ?!」と言わんばかりの無駄な熱演。何か尻尾とか耳とか見えてきそうだった。この人が30代ってサギだと思う。

『秘密のかけら』
 『スイート・ヒア・アフター』でカンヌ映画祭グランプリ、『アララトの聖母』でも本国カナダで数々の映画賞を受賞したアトム・エゴヤン監督の新作。相変わらず音楽のセンスが良い。今回は50年代、70年代を舞台としたクラシカルなサスペンス風の作品。そしてある意味ラブストーリーでもあると思う。
 1972年のロサンゼルス。新進気鋭のジャーナリスト・カレン(アリソン・マーロン)は、15年前ショウビズ界で起きたある事件を追っていた。当時人気絶頂のデュオだったラニー(ケヴィン・ベーコン)とヴィンス(コリン・ファース)。TVの生放送やクラブでのショーで富と名声を手に入れていた。しかしある時、若い女性・モーリーンの全裸死体が二人の宿泊予定ホテルの部屋で発見された。このスキャンダルによってデュオは解散、2人はショービズの最先端から姿を消した。果たしてモーリーンは誰に殺されたのか?カレンは2人に近づくが・・・・。
 過去と現在(といっても1972年)を行き来し、時間軸が入り乱れる構成なので、じっと見ていないと話の展開に置いていかれそうだった。現在も15年前も演じている俳優は同じなので、今どっちの時代だっけ?と混乱しそうにもなった。しかし、この混乱こそがアトム・エゴヤン監督の狙いだったと思う。この映画の中で語られる「何が起こったか」というのは、まず登場人物それぞれの主観によるものとして語られる。最後、その語りによってある真実が推測されるのだが、その推測に対して確証は与えられない。本当のことは誰にも分からないのだ。そして分からないほうがいいこともある。カレンはかつての憧れのスターの真実を知ろうとしてその裏側を見てしまい、ラニーとヴィンスはある秘密を知ることでコンビ解散せざるを得なくなった。真実を知ることが幸せとは限らない。だから最後、カレンはある人物に対してああいう行動をとったのだろう。
 「不思議の国のアリス」がモチーフとして使われており、謎が謎を呼ぶ、ちょっとデヴィッド・リンチっぽい雰囲気もあるのだが、アトム・エゴヤン監督はリンチよりも理知的でオチを幻想方向には持っていかない。結構理詰めで責めてくるというか、合理的なオチをつけたい人なのかなと思った。やはりミステリっぽい作品だった『プリシラの旅』も、幻想方向に行きそうで行かない感じがあった。粗っぽくはあるが、ミステリ映画として面白かった。
 ラニーとヴィンスのやりとりの微妙な感じがなんとも言えない。いやーコンビって辛いのね・・・。ラニー役のケヴィン・ベーコンが久々にきゃぴきゃぴしていて、そういえばこの人はデビュー当時、アイドル的な扱いだったよなーと思い出した。いつのまにかケレン味のある役ばかり演じるようになっちゃって・・・。今作ではなんだか若返っていた。何だかんだ言っても上手い。コリン・ファースも、一見穏やかだがふとしたはずみに凶暴さを見せる男役に、ちょっと憂鬱そうな顔つきがはまっていた。

『ドイツアニメーションフィルム』
 ドイツの短編アニメーション15本を特集上映したのだが、東京ではひっそりと上映されていて、予告編もフライヤーも目にしたことがない。でもなかなか面白かった。
@ ルビコン川
 「狼と羊とキャベツを、漕ぎ手の他1匹(1個)しか乗れないボートで川の向こう側に運ぶにはどうすればいいか」という、同種のパターンがいくつもあるパズルをモチーフにしたアニメーション。最初は普通にボートで行き来しているのだが、段々奇妙なことに。最後には川でさえなくなってしまう。線=絵が動くという意味では非常にアニメーションらしい、アニメーションの特質を生かした作品だったと思う。段々奇妙な展開になっていく様が、妙にきっちりと手順を踏んでいて理屈っぽい感じがするのはお国柄か。監督はイスラエル出身のGil Alkabetz。アニメーション単品を見た限りでは全く思い及ばなかったのだが、アラブとイスラエルの対立問題をイメージしているのだとか。
A 放浪者
 線路で自殺しようとしていた男は、奇妙な動物達を見掛ける。トロッコに乗って移動する奴らは妙に楽しそうなのだ。チョークとカラーインクで描かれたような、ざっくりとした画風のアニメーション。モノクロ部分とカラー部分のコントラストが強く、少々不気味でもある。オチにはブラックユーモアが漂うというか、達観しているというか。汽車に轢かれ損ねた男が失禁してしまう等、妙な所で演出が細かかった。監督はベテランのJochen Ehmann。
B パッチワーク・クイーン
 レトロな絵のコラージュによるアニメーション。何でも縫いあわせてくれるパッチワーク・クイーンの元に、傷心の娘がやってくる。空を飛びまわるハサミや糸巻きの兵隊等、メルヘンチックだが不気味。心臓を縫いあわせて「はい大丈夫」というのもちょっと恐いし。ハサミの群れは凶凶しくもある。ちょっとゴシックっぽい雰囲気は個人的には好みだった。使われている歌も好みだった。やっぱりちょっと恐いんだけど(愛する人をハートに閉じ込めてしまおう、みたいな歌詞だった)...。監督はLars Henkel。使われている絵は印刷物からの抜粋なのかと思っていたが、(少なくともメインキャラクターの顔に関しては)監督が自分で描いているみたい。
C 囚われの王女
  Daniel Hopfinerによるパペットアニメーション。廃虚に幽閉されているらしい女性が目覚め、光の方向を目指す。人形の動きは弱々しく、画面は暗い。死を思わせる陰鬱かつ詩的な雰囲気の作品。廃虚や壊れそうな人形等、シュヴァンクマイエルを思わせる所もあるが、もっと端正で抑制がきいている。19世紀ドイツの物語が原作だとか。
D 案内人HARARA
 エジプトのファラオの墓の案内人であるHARARA。墓の秘密を探りに地下の納骨堂まで潜るが。グロテスクにデフォルメされたフィギュアアニメーション。今回上映された作品の中では一番ドラマ性が強く、テンポも良い。物語のアイディア自体はありふれたものだが、組み立て方とカメラの動かし方が上手くてスペクタクル性があったと思う。スタンダードな娯楽作品として面白い。監督はAndy Kaiser。
E ゴーストトレイン
  TINE KLUTH監督初のアニメーション作品だそうだが、そのせいかちょっとぎこちない。人形アニメーションなのだが、人形の動きがぎこちないというのではなくて、話の運び方がぎこちない感じだった。モノローグで説明する部分が多すぎたかなーと。行方不明になった友人とその妻を捜して、奇妙な移動遊園地に迷い込んだ男の話なのだが、移動遊園地の不気味な感じは出ていたので、ちょっと勿体無い。
F メッセージ
 メッセージを囁き合う人々。しかしやがてそのメッセージは町中に溢れ出し、人々を飲み込んだり襲ってきたりする。空中に満ちた文字の連なりは、インターネットを意味するのだろうか。情報から疎外される恐ろしさ、メッセージが暴走していく恐ろしさを皮肉った、社会派作品。アニメーションの絵柄もシンプルで大人っぽい。洗練されているが、面白味には少々欠ける。監督はRaimund Krumme。
G RECENTLY2
 体調に不安を持つ男が病院へ行く、という全く日常的な、Jochen Kuhn監督の私小説的なアニメーションなのかと思ったら、レントゲンで心の中を覗かれたりしていて、奇妙な味わいが。油彩っぽい絵と写真とのコラージュ。絵に力が入っているのは分かるが、あまり面白くもない。日記風の作品。
H サイクロプス
 Daniel Nocke監督によるクレイアニメ。ギリシャ神話に登場する、一つ目巨人「サイクロプス」。現代に生きる彼らは人間と共存しようとしていた。モダンダンスの振り付け師として有名になったサイクロプスの元に観光客達が訪れるが。人間の浅はかさや卑怯さをシニカルに描いているが、ナンセンス風でもある。「そっちかよ!」と突っ込みたくなるオチだった。観光客夫婦の妻の悩みは、現代人をカリカチュアしたものみたいで全く真実味がない。あと、サイクロプスの服装が、振り付け師ってやっぱりどこの国でもこういう格好してるんだという感じでちょっとウケた。
I カラス
 エドガー・アラン・ポーの詩「大鴉」を原作としたアニメーション。赤、黒、白のみを使ったシンプルな作品。キャラクターのデフォルメの仕方はアメコミ風で、パキッとした印象。この画風でポーの詩のイメージに合うのか?と思ったが、意外に良く合っていた。キャラクターのフォルムがどんどん変化していって不安感を煽る。監督はHANNES RALL。
J ROCKS
  Chris Stenner, Heidi Wittlinger監督による3Dアニメーション。2003年のアカデミー賞にノミネートされていた作品だそうだが、それも納得な面白さ。お話がちゃんと面白く、技術的にもレベルが高いと思う。荒野にたたずむ「岩人間」2人のやりとりなのだが、周囲の時間の流れを岩の時間の流れから見ている(つまり、周囲の様子がものすごく早く変化する)のがミソ。荒野だったのが草が生えて動物が行き来し、人間が現れ町が出来、巨大都市となり、また廃虚となっていくという壮大な時間の流れなのだが、岩にとってはあまり関係ない。「あっ、また苔生えてきちゃったよ!」くらいのノリなのがおかしい。岩のキャラクターデザインもすごくかわいいと思う。
K 楽園行き
  Jan Thuring監督のデビュー作品。人形アニメーションだ。デビュー作としては、絵のつなぎ方が上手い。演出力があるのかなと思う。廃品置場に住むネズミ達が、絵葉書で見た緑溢れる楽園を目指して旅に出るのだが...。具体的なセリフは一切ないのだが、ネズミ達が意外に表情豊か。ユーモラスだが、オチはちょっと物悲しい。笑い話みたいな話の落し方なんだが、途中でネズミがばしばし死んでいくので笑えないというか。
L モーメント〜瞬間
  Thomas Voigt監督によるペインティングアニメーション。草原で狩りをしていた男が、自分も牛の姿になってしまう。アフリカかどこかの民話なのか?それとも監督のオリジナルなのか?濃さのある、芸術性の高いアニメーションだが、その分面白味はないかもしれない。悪夢を見ているような感覚の映像なのだが、それだったらもっとつじつまが合わない方が面白いかも。
M ヘシー・ジェイムス
 ネバダの砂漠にぽつんと立っているカフェ&ガソリンスタンド。油を売っている店主とごろつきの前にお喋り男が現れる。ごろつきはお喋り男にケンカを吹っかけるが...。登場人物が全て害虫という目に優しくない(笑)3Dアニメーション。喋っていることはどうでもいいことなのだが、笑える。映像もすごくよく出来ていると思う。ゴキブリの腹の造形がすごい。監督はJohannes Weiland。
N ESCAPE
 実写とペインティングのコラージュ作品。ペインティングする手を間近から撮ったり、更にペインティングされた絵画をクローズアップで撮ったりと、映像が濃くて暑苦しい。アニメーションというよりも、現代美術の映像作品という感じのする、もろに芸術指向な作品。正直、タイトルがどのあたりに由来するのか良く分からんかった...。監督はKirsten Winter。
ちなみにこちらのサイトを参考にしました。
http://www.oeff.jp/program/german_animation_exhibition_jp.php

『スタンドアップ』
 暴力を振るう夫から逃げ、実家へ戻ってきたジョージー(シャリーズ・セロン)。実家は鉱山の町で、ジョージーの父親(リチャード・ジェンキンズ)も鉱山で働いている。若くして出産してシングルマザーとなり、その後結婚、父親の違う2人の子供を連れたジョージーは町の人たちから白い目で見られていた。ジョージーは子供達を養う為、給料の良い鉱山の仕事に就くことにする。しかし完全に男社会な鉱山では、女性は男性の仕事を奪う存在として疎まれていた。ジョージーも執拗な嫌がらせを受けることになる。実話を元にしているそうだ。監督は『クジラの島の少女』のニキ・カーロ。
 シングルマザーがセクハラに耐え兼ねて訴訟を起こす、という一文で何となくストーリーが想像できるが、おそらくその想像通りの映画だと思う。意外性はないが面白い。舞台は70年代アメリカ。女性の社会的立場はまだまだ弱く、特に田舎町の鉱山という男社会の典型のような環境だ。鉱山でジョージーを始めとする女性達が受ける嫌がらせやセクハラの数々は殆ど犯罪レベル(簡易トイレに入っている時にトイレごとひっくりかえされるってガキの喧嘩かよ!と思うけどビジュアルで見ると結構すさまじい)。とうとうレイプされかかって流石のジョージーもキレるのだが、浮気性の尻軽女というレッテルが張られているので誰も信じてくれない。ジョージーが騒げば騒ぐほどイカレた女として見られる、そう見られることでジョージーはいら立ち更にキレるという悪循環。見ている間はほぼ完全にジョージーの味方になって見ることが出来るだろう。ジョージーの性格にも問題は多々あるのだが(お友達にはなりたくないタイプなのだが)、彼女を悪く言う気にならないのは演出の力だろう。
 父親が母親に家出されて急に改心したり、いじめの首謀者が弁護士に責められてぽろりと本当のことを言ってしまったりと、特に後半は脚本の粗さが目立った。頑固一徹だった父親、しかも今まで娘に対して否定的だった父親がいきなり娘の味方になるとは考え難いし、いじめの首謀者にしても、あれだけ嘘をついていたら、最後までしらばっくれそうなものだ。前作『クジラの島の少女』の時も思ったのだが、心境の変化に至るまでの説得力がちょっと弱い。
 それにしても、女同士の嫌がらせは陰湿だと言うけれど、男の嫌がらせも相当陰湿らしい。最近身近でこの手の話を聞いたばっかりなので、鬱々としてきてしまった。男性は下手に腕力あるだけに始末が悪い。しかも、数少ない女性の同僚も、自分達に対する報復を恐れて(仕方ないとは思うけど)ジョージーを避ける。私は映画の登場人物にはそれほど感情移入しない方だが、ジョージーがいじめられる様には後頭部がカッと熱くなる腹立たしさが込み上げてきた。大人数で一人をいじめるのはみっともないよ!それに気付け!と恫喝したくなるが、大人の世界でもいじめの構造は同じなのよね・・・。しかし、女性達は周囲(男性)との明確な差異がある分、まだ堂々とセクハラだとして戦うことができる。問題は、彼女らに対してセクハラしたくない男性、マッチョ(悪い意味でね)になれない男性達だと思う。この映画に出てくる鉱山みたいな環境だと、繊細な人とかジェントルな人とかは多分浮く。その中で疎外されない為には、マッチョな振りをするしかない。(狭義での)男らしさを強制されるのもきついと思うんだけどなー。同性からのセクハラ(と言うのだろうか)の方が避けにくいし訴えにくいし、解決しにくいんじゃないかと。

 ちなみにフランシス・マクドーマンド、シシー・スペイクスというオスカー女優が脇役で出ているという豪華さ。あとフランシス・マクドーマンドの彼氏役がショーン・ビーンなのだが、この人はちょろっと出て美味しいところを持っていくというポジションを確立しつつある気がする。今回すごく良い人役だった。多分この映画の中で一番良い人なんじゃないかと(笑)。

『僕のニューヨークライフ』
 ウディ・アレン監督の新作。お馴染みのニューヨークを舞台としたコメディだ。ウディ・アレン監督は70歳だというのに年に1本は新作を発表しているというハイペース振りがすごい。 
  コメディの脚本作家ジェリー(ジェイソン・ビッグス)は、女優の卵アマンダ(クリスティーナ・リッチ)と同棲している。2人はお互い人目ぼれだったのだが、最近はアマンダが自称「セックスできない症候群」に陥りジェリーは忍耐の日々。彼の年上の友人で、高校教師の傍らコメディの脚本を書いているドーベル(ウディ・アレン)は、変人だけどジェリーは一目置いている。そのドーベルが「アマンダは浮気をしている!」と力説。ジェリーは彼女を尾行することに。
 爆笑するほど可笑しいかというとそうでもなく、夢中になるほど面白いかというとやぱりそうでもない。ぬるま湯的コメディなのだが何となく見ちゃうのは、ウディ・アレン作品だからとしか言いようがない。主人公はちょっとダメ系でくよくよ悩んでいて、女の子はセクシーでエキセントリックで、皆ベラベラ喋り捲って...というウディ・アレン節は健在。正直、最近の(「ギター弾きの恋」などN.Yもの以外の作品は除いて)アレン作品はどれも同じに見えちゃうんだが、それでもまあいいかーという気がするし、新作上映されると義務であるかのように見に行ってしまう。何故だ。これが人徳ってやつ(多分違う)?おそるべしウディ・アレン。
 ただ、今作の主人公は20代と若く、青春ストーリーの側面もあるのが今までちょっと違う。やっぱり自意識過剰に悩む姿(スケールの小さい悩みだけど)は若者の方が似合うねー(笑)。ラスト、晴れ晴れとして新天地へ向かうのも、主人公の若さゆえか。ウディ・アレンもとうとう若者にアドバイスする役(とんちんかんだけど)をやるようになったかと思うと何か感慨深いものがある。今のウディ・アレンが昔の自分にアドバイスしているような映画だった。でもウディ・アレンのアドバイスっていまいちありがたくなさそうだよね...。
 主演のジェイソン・ビッグスは、顔の造形が微妙な所が、右往左往する主人公にはぴったりだったと思う。ビッグス演じるジェリーに好意を持っている女性が、ジェリーとアマンダと一緒に食事をしていて「私、ハンサムは好きじゃないの。個性的な顔が好き」と言い出すのには、いや一目瞭然なんだけど、好意的なのはわかるけどそこは黙っておいてやれ!と思った。「顔が微妙だから好き」って言われるのって男性的にはどうなんだろうか。
 ちなみにクリスティーナ・リッチが演じるアマンダが大変な困ったちゃんなんだが、これ天然なのかな計算なのかなー。同性の友達がいなさそうなタイプの人だと思いました(いや友達出てくるんだけど)。

『オリバー・ツイスト』(最後ややネタバレです)
 19世紀イギリス。救貧院で暮らす孤児の少年・オリバー・ツイスト(バーニー・クラーク)は、葬儀屋に奉公することになる。しかし使用人や葬儀屋のおかみさんにいじめられ、奉公先を飛び出しロンドンへ向かう。何とかロンドンに着いたものの、疲労と空腹で倒れ込んでしまったオリバーを助けたのは、スリの少年だった。彼はスリ仲間の元締めである老人・フェイギン(ベン・キングスレー)に引き合わされる。
 文豪チャールズ・ディケンズの同名小説を、『戦場のピアニスト』でアカデミー賞を受賞したロマン・ポランスキー監督が映像化した。今まで何度も映像化されている作品だが、今作は比較的原作を忠実になぞっているとのこと。監督が自分の子供の為に造ったというだけあって、暴力シーンやきわどいシーンは一切ないので安心して見られると思う。
 か弱いが善良な子供が虐げられつつも懸命に生き、最後には幸せを手に入れるという、ベタ中のベタな話なのだが、ベタの強みというか、こういうのは万国共通で楽しめるし飽きがこないんだろう。流石古典文学。多分、10年後に見ても普通に見られる映画ではないかと思う。この手の古典的な話をものすごくお金かけて撮るというのが一番豪華なのではないかと思わなくもない。
 所でこの映画、意外なくらいにストーリーのメリハリがない。裕福な紳士に引き取られたオリバーがスリ仲間に誘拐されたり、悪党がオリバーを付けねらったりというドキドキするべきシーンはあるのだが、それほどスリリングではないし、最後まであっさりとしている。意図的に盛り上がらないようにしていると言った方がいいかもしれない。ダイナミックな物語というよりも、絵巻物を眺めているような映画だった。物足りないと思う人も多そうだが、私は逆に一貫してテンションを押さえ気味だった点に好感を持った。
  最後、逮捕されたフェイギンがとうとう絞首刑に処されることになり、紳士に引き取られていたオリバーは面会に行く。フェイギンは既に正気ではないが、オリバーと再会するとただただ喜ぶ。今まで中途半端な悪党として結果的にオリバーを翻弄することになったフェイギンだが、この場面ではある種父親的であった。オリバーに「行け」という言葉が重い。オリバーは最後には新しい家庭としあわせを手に入れるわけだが、その幸せは結果的にフェイギンを踏み台にして手に入ったものでもある。それでも良しとするのがフェイギンが最後に見せた父性なのだろう。
 制作費80億というだけあって、セットと衣装は素晴らしい出来栄え。ちょっときれいすぎな感はある(臭いがしなさそうという意味で)が、長時間気分良く眺める為には、このくらいで丁度いいのかもしれない。エキストラを19世紀ぽい顔の人だけ選んだという細かさには脱帽。セットだけじーっと眺めてみたい。

『博士の愛した数式』
 第一回本屋大賞を受賞した小川洋子のベストセラー小説が映画化された。監督は『雨あがる』の小泉堯史。現代劇は初めてとなる。
  「ルート」という渾名の数学教師(吉岡秀隆)が生徒の前で語り始めたのは、彼に渾名を付けた「博士」との思い出。彼の母親(深津絵里)は家政婦として博士(寺尾聰)の家に通っていた。博士は交通事故に遭っており、新しい記憶は80分間しかもたない。最初は戸惑った母親だが、段々打ち解け、ルートも交えた3人の時間はかけがえのないものとなった。
  しっとりと美しい作品。ただ、客観的に良い映画だというのは分かるのだが、私にはちょっとウェットすぎたようだ。原作にあったかどうか記憶が定かでないのだが、所々、言葉の選び方が安易すぎる所が気になった。「大切なものは心で見るんだ」って星の王子様かよ!そんなこと分かってるからいちいち言わないでほしい。音楽が辛気臭く、仰々しくなる時があるのも気になった。この雰囲気に浸れる人にはいいんだけど、もっとあっさりとした美しさのある映画にしてほしかった。あと風景が非常に美しい(長野県上田市を中心にロケしたらしい)が、美しい風景はいいからもうちょっと短く...と思わないでもない。
 寺尾聰の演技は流石というべきか、最初キャスティングを聞いた時には何だかイメージが違うような気がしたのだが、実際に見てみるとこれは博士だなぁと納得させられる力があった。対して家政婦役の深津絵里は、原作のイメージと比べるとキャピキャピしすぎていてちょっと煩かった。彼女では可愛すぎたと思う。もうちょっと年長で落ち着いた感じの人の方がよかった。
 原作では地の文の説明できた数式や数学の知識をどうやって説明するのかと思っていたのだが、吉岡秀隆演じる数学教師の授業の内容として説明されていて、これは上手い構成だった。私は数学が大の苦手(今でも計算はとても苦手)なのだが、これを見ていると数学って面白いのかもしれないと思いそうになった。
 出てくる頻度はさほど多くないのだが、博士の義姉役の浅丘ルリ子が良い。一見冷淡なようだが、博士とルート親子を覗き見ている時の表情とか、嫉妬心と自制心のせめぎあいの表情が上手い。寺尾と朝丘の存在感で映画の半分が成り立っていた気もする。

『プルーフ・オブ・マイ・ライフ』(ややネタバレです)
 精神を病んだ天才数学者の父(アンソニー・ホプキンス)を5年間介護したキャサリン(グウィネス・パルトロウ)。父の死後、彼の教え子だったハル(ジェイク・ギレンホール)が遺品のノートを見に来る。ハルはキャサリンに好意を寄せていた。最初はつんけんしていたキャサリンだが、やがて彼の思いを受け入れ、彼に父親の机の鍵を託す。引き出しの中には世紀の発見とも言える数式を証明を記したノートがあった。
 頭の良い親というのは、子供にとっては大きなプレッシャーだ。親に匹敵する才能がない限りいつまでたっても「出来の悪い子」扱いだし、そもそも頭の良すぎる人とは話がなかなか通じない(なまじ相手の頭が良いだけに、こちらが理解できないということが相手には理解できないのね)。また、仮に親と同等の才能があったとしても、親のコピーと見なされてしまいがちだ。この映画のキャサリンの場合、彼女自身も数学の才能があり、父親と同等に話すことが出来た。しかし父親を愛するがゆえ、彼を看病する為に彼女は大学を退学してしまう。そして父親の死後は抜け殻になってしまう。父親の死から立ち直り、いざ世紀の発見をしたと告げても、それは父親の功績なのではと疑われる。どこまで行っても父親の影から抜け出せないというのは、幸せ不幸せは別として色々と厄介だと思う。
  ただこの映画、そういった父娘の葛藤を主軸にしたいのか、キャサリンとハルのラブストーリーを主軸にしたいのか、今一つはっきりとしなかった。どちらもやろうとしてどちらも中途半端になってしまった感じ。数式の正しさを証明しようとするという展開になるのかと思っていたら、それも何だか中途半端なまま終わってしまい、物足りなかった。一人の女性が再生するまでを描きたかったらしいが、あれは再生したことになるのかなー。
 監督は『恋に落ちたシェイクスピア』のジョン・マッデン。そして主演は前作に引き続きグウィネス・パルトロウ。個人的に好きな女優ではないのだが、情緒不安定で不機嫌な役が妙に似合う。今回は特に怒ったりわめいたりというシーンが特に多く、少々うるさくもあった。キャサリンがハルに「信じて欲しかった」と訴えるシーンがあるのだが、あんなに情緒不安定だった人に信じてと言われてもちょっと・・・。彼女が正しいという具体的な根拠がないだけに、ハルに同情してしまった。そいうえば、『恋に落ちた〜』も私はあまり面白いと思わなかったのだった。相性の悪い監督なのだろうか。

 

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