12月
『ロバと王女』
ジャック・ドゥミ監督が1970年に制作したミュージカルファンタジー。この度、ドゥミ夫人であるアニエス・ヴァルダ監督による監修の元、デジタルニューマスター版でお披露目された。殆ど力技な領域にまでドゥミ美学が披露されていて、大変愉快だった。原作は「シンデレラ」で有名なシャルル・ペローの童話「ロバの皮」。冷静に考えると、あっさり近親相姦しそうになっている危険な童話でもある。
宝石を生むロバによって栄えている王国。王様(ジャン・マレー)とお后様は仲睦まじく暮らしていたが、お后様は病に倒れてしまう。悲しむ王様に対して「私より美しい人と再婚して」と遺言し、お后様は死んだ。王様が後添えとして目を付けたのは、何と自分の娘である王女(カトリーヌ・ド・ヌーブ)。戸惑った王女はリラの精(デルフィーヌ・セイリグ)の助言を受けて、ロバの皮を被って隣国へ逃げ出した。そして森の中の小屋で暮らす王女を偶然見掛けた隣国の王子(ジャック・ペラン)は、彼女に一目惚れしてしまう。
キラキラなファンタジー、と言っても撮影されたのは20年以上前なので、CGを駆使して背景を作り込むというわけにはいかない。とってもローテク(お城はフランスで普通に見ることが出来るようなお城だし)で、むしろ舞台演劇に近い感じがする。王子と王女が想像の中でデュエットし始めて草原でウフフアハハと駆け回るシーンには思わず目眩がしたが、全編監督の強固な意志みたいなものが感じられて、かなり楽しんだ。玉座やベッドのデザインや色使いは、今の女の子もとっても喜びそうな少女節全開なもの。ドゥミ監督は乙女心を持ちあわせた人だったに違いない。昨今のプリンセスブームに乗っかった形の日本公開だが、一見の価値はあると思う。主演のカトリーヌ・ドヌーブはとにかく美しい。ボリュームのあるドレスをとっかえひっかえ着てくれるのだが、ドレス負けしていない。こういうタイプの美しい女優さんは、今では殆どいないと思う。
所で、この作品の中の価値観では、どんなに頭が良くて財力があっても、ブスは女として認められていない。王様が「ブスなんて抱けるか」的なことを言うわけです。美人だったら自分の娘でもいいのか!フライヤーには「自分の力で幸せを掴むプリンセス」みたいなことを書いてあったが、自分の力って顔か!結局顔か!と絶望にかられそうになりました。第一リラの精の助力なしでは何も出来なかったはず。あー、夢が壊れた。『ドア・イン・ザ・フロア』(ややネタバレです)
『ホテル・ニューハンプシャー』『ガープの世界』『サイモン・バーチ」『サイダーハウスルール』と数々の著作が映画化されている作家ジョン・アーヴィング。この映画の原作は、彼の『未亡人の一年』。ただし、全体の3分の1程度だそうだ(私は原作小説は未読です9。監督と脚本は、アーヴィング直々のご指名があったトッド・ウィリアムズ。
児童文学者のテッド(ジェフ・ブリッジス)は妻のマリアン(キム・ベイシンガー)、4歳の娘サラ(エル・ファニング)と暮らしている。夫婦の仲には、ある事件以来溝があった。テッドは夏の間、自分の母校の後輩である少年・エディ(ジョン・フォスター)を自動車運転や雑用のアルバイトに雇う。テッドに憧れているエディはアルバイトを楽しみにしていたが、酒びたりで女たらしなテッドに戸惑い、美しく寂しげなマリアンに惹かれていく。
あらすじだけ見ると、人妻と青年の不倫メロドラマみたいだが、それとはちょっと違う。この映画の主軸はあくまでもテッドとマリアンだ。この夫婦は、実は息子二人を亡くしている。それ以来、2人の中の何かが壊れてしまった。特にマリアンは情緒不安定で、娘のサラに対しても良い母親でいようと努力はしているが、限界を感じている。テッドはマリアンの寂しさを埋める為に、息子によく似ているエディを雇う。二人が不倫関係になるのも見越している(息子に似た男と寝るというのはグロテスクなのではないかと思うが、どうなんだろう)。マリアンも、女遊びの激しいテッドの行動を見透かしている。お互いに深く理解しあっているのだ。そして依然として愛がある。しかしもう一緒にはいられないという、なかなかシビアな話ではある。傷ついた状況を一緒に乗り越えられる夫婦もいるだろうが、この2人はそうではなかった。それぞれ一人で痛みに慣れていくしかないという所が辛い。オーソドックスな話だと、家族が回復する方向へ向かうのだろうが、この映画では一旦壊れてしまった家族は回復し得ない、回復するとしたらそれぞれがそれぞれのやりかたによってのみであるという、厳しい結論に至っている。マリアンは最後には家を出て行く。最初は夫の方が現実を認識しているのかと思っていたら、いつのまにか逆転していた。
ベースはシリアスだが、コメディタッチな部分も多かった。特にセックスに関る部分には笑いがある。エディがマリアンの下着を見てマスターベーションしようとしている所を、当のマリアンに目撃されてしまったり(こんなこと実際にあったら立ち直れなさそう)、テッドと浮気相手の修羅場など、かっこ悪くておかしい。
所で、私はテッドみたいなタイプの男(演じるジェフ・ブリッジスが嫌いというのではなく、キャラクターとして)が嫌いなもので、見ていて大分イライラした。欲望を押さえられないタイプの人とはどうも性が合わないみたい。『マダムと奇人と殺人と』
ベルギーのブリュッセル。墓場で若い女性の死体が相次いで発見された。レオン警視はさっそく調査を開始する。彼が聞き込みで訪れた下宿付ビストロ「突然死」では、おかまのイルマが娘との初対面を控えて不安でいっぱいになっていた。果たして連続殺人事件の犯人は?そしてイルマは娘に受け入れてもらえるのだろうか?
いいかげんな下宿の主人、味オンチなコック、小人の物売り、常に小鳥を連れている老人、異様に派手な秘書、そしておかまの中年男等、変な人ばかりが出てくるコメディ。唯一まともな人であるレオンも、趣味が編み物(周囲には隠しているみたいだけど)とちょっと変わっている。コメディ映画だが、結構下半身絡みの下品なギャグ(しかも温い)が多い。下品なら下品でももっと突き抜けちゃえばいいのに、と思わないでもないが、このゆるーい感じが持ち味なのだろう。何も考えずに長閑な気分で見ることが出来た。長閑すぎて、見終わった後ストーリーの細部が思い出せないし、犯人が誰だったかさえうっかり忘れそうになったけど。ストーリーそのものの面白さというよりも、映画の中で使われている小物や警視が飼っているバセットハウンドのおっさん臭いしゃべり(喋るんですよ)等、細かい所が面白い。特に警視の秘書のイヤリングには目が釘付けだった。あの乳絞りイヤリングはお手製なのだろうか市販品なのだろうか。
ちなみに、殺人事件が絡んでいるものの、理論的に正しい推理は全くされていないので、ミステリ映画だと思ってはいけない。犯行動機も全然わからなかった。いやもしかしたらちゃんと説明されていたのかもしれないけど、覚えていない。そのくらいゆるい映画だった。
監督のナディーヌ・モンフィスの本業は作家。これが初監督作品となる。実は原作小説は彼女自身が書いている「レオン警視」シリーズで、ベルギーではカルト的な人気があるのだとか。映画監督としての手腕には正直疑問が残るが、自分の小説の雰囲気を正しく映像化するという点では成功しているのでは。いや原作小説読んでいない(というか翻訳されていないのでは)のだが、多分こんな感じなんだろうなーというのが分かる映画なので
『ミリオンズ』
8歳の少年ダミアン(アレックス・エテル)がダンボールで作った「庵」で遊んでいると、ポンド束の詰まった鞄が空から落ちてきた。神様からの贈り物だと信じた彼は、10歳の兄アンソニー(ルイス・マクギボン)と大喜び。しかしイギリスでは、もうすぐ通貨がユーロに変わってポンド札はただの紙切れになってしまう。果たして通貨切り替えまでに大金を使いきれるのか?!そしてお金は本当に神様のプレゼントなのか?!
『トレインスポッティング』が大ブレイクしたのは一昔前、最近はいまひとつぱっとしなかったダニー・ボイル監督の新作は、彼が「自分の子供に堂々と見せられる映画を」と考えて作ったものだとか。確かに『トレイン〜』は子供にゃ見せられないよね...。子供達の為に気合を入れたのか、久々に面白い。ご家族皆さんでどうぞ。
ダミアンは聖人マニアで信心深く、お金は貧しい人の為に使わなければと思っている。しかし如何せん子供だから、「貧しい人」がどういう人たちを指すのかよく分からず、近所の人たちに「貧乏なの?」と聞きまくる始末(募金方法とかもよくわかってないのがおかしい)。対して兄のアンソニーはドルに対するポンドの価値を把握しているくらいのリアリストで、お金大好き。しかも頭がよくて弁が立つ世渡り上手。クラスメイトを買収してギャングのようなチームを作ったり、高いおもちゃや携帯を買い捲ったりと、資本主義を満喫している。しかしおもちゃの値段などたかが知れている。もっと高い買い物を!いや財テクを!と思って不動産を買おうとしたり銀行に預けようとしたりしても、子供だから相手にしてくれない。子供ならではの制約や視野の狭さにおかしみが滲む。その視野のせまさとか融通の利かなさにはちょっとイライラした。ちなみに、ダミアンは聖人マニアでことあるごとに何かにちなんだ聖人(色んなものに守護聖人がいるんですねー)の名前をあげるのだが、彼の想像の中に出てくる聖人の皆さんがおかしい。聖女がタバコ吸っていいのか!
ポンド札の本来の持ち主(と言ってもわけありの金なので、持ち主がまっとうな人のわけがない)が金の行方を追って兄弟を追ってくる後半には、結構ドキドキさせられた。そして死んだ母親を思う兄弟の思いにもはホロリとする。特に兄のアンソニーは、普段はこまっしゃくれた言動なのだが、実は弟以上に母親が死んだことでダメージを受けている。父親と仲良くなった女性が自宅に来た時にも、気のいい女性だからダミアンは喜ぶのだがアンソニーはいい顔をしない。彼女がお金をネコババするかもしれないからと言うのだが、そのうちに「彼女がいなくなったら、ママが死んだ時みたいにパパがまた笑わなくなる」と漏らすのがいじらしい。『ある子供』
20歳の青年ブリュノ(ジェレミー・レニエ)は定職に就かず、仲間の少年達と盗みを働いてその日暮らしをしている。18歳の恋人ソニア(デボラ・フランソワ)は、病院で出産したばかりだ。しかし金に困っているブリュノは、子供を不法に養子縁組をしている業者に売ってしまう。ソニアはショックのあまり気絶してしまい、その後はブリュノを拒絶する。ブリュノはことの重大さに気付き、子供を取り戻そうとするのだが。
ブリュノとソニアが子犬のようにじゃれあう場面が、映画の前半では度々見られる。また、ブリュノが時間を持て余し、1人で壁を蹴って遊ぶ場面もある。彼らの行動はまるで子供だ。ソニアは子供が出来ると母親として行動するようになるが、ブリュノは子供のままだ。題名の「ある子供」とは、2人の赤ん坊のことではなく、ブリュノのことだろう。年齢的にもまだ子供から抜け出していないと言っていい。子供が子供の親になったものだから、赤ん坊を躊躇なく売ってしまい、ソニアがどんなにショックを受けるか考えもしない。彼のやることは一貫して浅はかで計画性がない。自分の手におえない事態を抱え込んでしまった子供が、延々とうろうろしているような話だ。
しかし、彼は最後に逃げずに責任を取ることを選ぶ。逃げ切れないと諦めたという見方も出来るだろうが、これは成長したということではないか。ブリュノは警察に行ってひったくりの共犯である少年に面会するまで、自首するかどうかずっと迷っていたと思う。スクーターを持ったまま逃げてしまうかな、スクーターを売ってしまうかな、という危うさをずっと漂わせていた。彼が自首を本気で決意したのは、少年と体面した瞬間ではないだろうか。少年が赤ん坊と同じく、彼にとって守るべき存在として認識された、彼が大人の立場を選んだということだと思う。つまり、一人では大人になれない、他者との関係性の中でしか人間は成長できないということではないだろうか。
一見ドキュメンタリー風な、演出をしていないような絵なのだが、実際には非常に綿密に組み立てられていると思う。必要最低限のシーンで、登場人物のキャラクターや置かれている立場を説明している。そしてダルデンヌ兄弟の前作『息子のまなざし』よりも、よりドラマティックになっている。後半の、ブリュノがチンピラに脅されて以降の展開など、サスペンスと言ってもいいくらいだ。シーンの切替えがシャープで、緊張感が緩まない。シーンの取捨選択が上手い、編集能力の高い監督なのではないかと思う。何と言うか映画の強度の高さみたいなものを感じた。2度目のパルムドール受賞も頷ける。
この映画の舞台はベルギー南部の町だそうなのだが、ベルギーでは若年層の失業率が20%と高い。特に南部地方の失業率は国内でも高いそうだ。ブリュノやソニアのような若者達は決して特別な存在ではなく、どこにでもいるような存在なのだ。このような、若者の生活基盤が脆弱になっていくという問題は、日本の社会がこの先抱える問題でもあると思う。即効性の解決方法がある問題ではないので考えると気が重くなる。『イントゥ・ザ・サン』
いいかげんにもほどがある!でもそれでこそのスティーブン・セガール先生です。一生ついていきます!(嘘)。
不法入国の外国人排斥を主張する都知事が射殺された。日本育ちのCIAエージェント、トラビス・ハンター(スティーヴン・セガール)は、新人捜査官と共に捜査に着手する。黒幕は新興暴力団を仕切る黒田(大沢たかお)と、彼と手を組んだチャイニーズマフィア。黒田は目的の為には手段を選ばない冷酷な男だった。果たして2人の対決の行方は?!
何でCIAやFBIが日本の都知事暗殺事件に着目し、捜査員まで送り込んでくるのか謎だとか、トラビスは英語で喋っているのに相手は普通に日本語で返事しているとか、CIAがトラビスにわざわざ監視をつけている理由がわからんだとか、刀より飛び道具使った方が効率いいんじゃないかとか、CIAがそんなにドジっ子でいいのかとか、突っ込みどころが多すぎて大変。でも突っ込みどころのないセガール主演映画なんてありえないから!むしろ突っ込みどころがおおければ多いほど盛り上がるのがセガール主演映画だから!
加えて今回は、セガールが製作、原案、脚本まで手がけている(主題歌も手がけたらしい)。マーシャルアーツを使ったアクションも殺陣も日本語も披露してくれてサービス満点。突っ込めないわけがないのだ。突っ込み初心者でも「なんでやねん!」て突っ込み入れすぎて右手が筋肉痛になるくらい突っ込める。特にたどたどしすぎて時に聞き取れないセガールの日本語には注目。黒田のアジト(寺ってのが笑える。個人で寺を所有するってあり得ないだろ)に殴りこむ前夜に刀を取り出し、「コレ、メチャメチャキレマスヨ〜、アシタ、コレデヒトコロシマスヨ〜」とか言われたら失笑するしかないだろう。セガールが日本語を喋るたびに場内にさざなみのように失笑が広がっていた。でもそれでいいのだ。皆セガール先生のお茶目っぷりこそを見たいはずだから!彼が延々とB級映画に出続けてハリウッドで生き残っているのは、そのお茶目さによるものだと思う。どんなにダメな映画に出ていてもなーんか憎めない。
日本人キャストが結構豪華。寺尾聰、伊武雅刀、豊原功補という普通に日本映画を撮れるキャストだ。そして特に、黒田役の大沢たかおが今まで見たことないくらいに生き生きしている。チンピラ役が心底似合っていると思う。ちなみに期待していた栗山千明が数秒しか出ないのには、がっかりを通り越して開いた口がふさがらない。予告編のクレジットにはあんなにでかでかと載っていたのに!『Jの悲劇』
私の中ではベスト・オブ・嫌な話作家であるところのイアン・マキューアン作品『愛のつづき』を原作としたイギリス映画。あのおっそろしい話をいかに映像化したのかと思っていたが、びっくりするくらい原作に忠実。しかも結構よく出来ている。監督は『ノッティングヒルの恋人』『チェンジング・レーン』を手掛けたロジャー・ミッチェル。
作家であり大学教授であるジョー(ダニエル・クレイグ)と彫刻家である恋人のクレア(サマンサ・モートン)は、郊外の野原でピクニックをしていた。突然、事故を起こした熱気球が彼らの目の前に降りてた。中には老人と少年が乗っている。周囲に居合わせた人たちと気球を引き降ろそうとするジョーだが、突風のせいで気球が再び空に舞い上がってしまう。ジョーらはとっさに手を放して助かるが、手を放さなかった一人の男は落下死してしまう。数日後、罪悪感にさいなまれるジョーの前に、同じ現場に居合わせた青年ジェッド(リス・エヴァンス)が現れる。ジェッドなぜかジョーに付きまとい、彼の生活は徐々に狂っていく...
一方的に執着心を向けられる、しかもその感情の根拠がわからず、自分の言葉は相手に通じない。想像するだけで背筋がぞわっとなる、恐ろしい状況だと思う。自分は相手のことを何とも思ってないのだと説明しても、「そんなこと言って...」とか「わかってるくせに」とか挙げ句の果てには「僕をもてあそんでいるんだろう!」と逆ギレされる。いやいやいや、話聞けよ!言っても言っても理解してもらえない、相手の思い込みが強すぎるというのは実に恐い。しかもジェッドの場合、単なる愛情によるストーカーではなくて、信仰心まで絡んでいるらしい(このあたりは原作小説の方が詳しい。映画では触り程度)からやっかいだ。
しかもそのストーカーを演じているのがリス・エヴァンスというのがまた恐い。リス・エヴァンスには大変申し訳ないのだが、彼はちょっと癖のある顔立ちというか風変わりな風貌なので、不気味な役柄を演じるとよけいに不気味なのだ。ジョー役のダニエル・クレイグは、新ジェームズ・ボンドに抜擢された人。いわゆるハンサムではないが知的な顔立ちだと思う。でも私の中ではリス・エヴァンスとディープキスした俳優として名前が刻まれることでしょう...ごめんねダニエル。
原作のひたひたとした恐怖、静かな狂気がかなり良い感じで再現されていたと思う。赤い気球のイメージが幾度となく繰り返されて、不安感を煽ってきた。音楽のないシーンに緊張感があって印象的。そして劇的な終盤。いやー、嫌な映画見た!(すごい誉めてます)。『灯台守の恋』
フランス、ブリュターニュ地方のウェッサン島。1963年、この島の灯台守として、アルジェリア戦争帰還兵のアントワーヌ(グレゴリ・デランジェール)がやってくる。よそ者で灯台守としては初心者なアントワーヌに島の人間は敵意をあらわにする。しかし灯台守のリーダーであるイヴァン(フィリップ・トレトン)は、アントワーヌの器用さや人の良さを認め、無骨な態度ながらも受け入れていく。しかしアントワーヌはイヴァンの妻マヴェ(サンドリーヌ・ボネール)と恋に落ちてしまうのだった。
古今東西を問わず、よくありそうな不倫話なのに、何となく深みがある気がするのはフランス映画だからか。はたまた厳しいが美しいウェッサン島や荒れる海の風景のせいか。ただ、恋に落ちる2人よりも、マヴェの夫であるイヴォンが良い。イヴォンは最初はアントワーヌに反感を持っているのだが、彼を仲間として認め、他の仲間から庇う。実はイヴォン自身もこの島の出身ではなく、マヴェと結婚する為に移り住んだのだ。だからアントワーヌの苦労もわかったのだろう。アントワーヌとマヴェの不倫を知って当然苦しむのだが、2人のことよりも、2人の関係を自分に密告した仲間の行動の方を蔑んでいるような所がある。そして2人のことを知ってもどちらも責めない。何と言うか、マヴェに対してもアントワーヌに対しても愛があるというか、それゆえ許すみたいな所がある。スマートで機知に富んだアントワーヌも魅力的なのだが、イヴァンの愛のあり方は渋く強い。この映画はイヴォンとマヴェの娘が今は空家となった実家を訪れ、ある本を手にする所から始まる。現在から過去を振り返る形なのだが、この娘の存在によって、イヴァンが選んだ愛のあり方がより浮かびあがってくる。
所で、舞台であるウェッサン島はケルト文化が残っているのだが、こういう男らしい(というのは性差別になるよな...なんというか、無骨な感じの)気風の土地だと、アントワーヌのように気の優しい、繊細なタイプの男性は生き難いだろうなーと思う。殴られたら殴り返すのが良しとされるような社会の中では、誰も殴りたくないという立場の人は弱虫扱いされるというのが何か腹が立つ。アントワーヌが左手を怪我した経緯が、彼自身によって半ば自棄気味に明かされる所は痛々しかった。
監督のフィリップ・リオレは、『パリ空港の人々』『マドモアゼル』等、期間限定の関係が出てくる映画を撮っているが、今作も同じ。どこからか流れ着き、また去っていくというパターンが好きなのかもしれない。あと、余談だが猫が名演技を見せている。『キング・コング』
LOTR三部作でアカデミー賞を見事受賞したピーター・ジャクソン監督が、愛してやまない「キング・コング」をリメイクした。舞台は1930年代。映画監督のカール・デナム(ジャック・ブラック)は撮影中止になりそうな映画を完成させる為、映画会社をだまくらかしてロケ地への航海を強行する。降板した女優の代役として急遽スカウトされた売れないボードビル女優アン・ダロウ(ナオミ・ワッツ)と、脚本家ジャック・ドリスコル(エイドリアン・ブロディ)らを乗せた船は幻の孤島「髑髏島」へ。しかしそこは太古の生物が生息し、島の王とあがめられる巨大ゴリラが君臨している想像を絶する世界だった!・・・あらすじ説明するとすごく馬鹿っぽいね。
3時間という超大作なのだが、ジェットコースターに乗っているようなスピード感。次から次へとイベント発生する感じだった。そして映像は前評判どおりの迫力。今現時、映画はここまでできるというサンプルのような映像だった。ジャングルの中での恐竜や巨大昆虫との格闘や肝心要のキングコングの造型・動きはもちろんだが、前半と終盤の1930年代のニューヨークの風景が素晴らしい。キングコングが摩天楼に登ると、ビルの窓から室内の内装までちゃんと見える所にはちょっと感動した。
しかし、面白かったことは面白かったのだが、見終わった後その面白さが尾をひかなかった。「あれ?そういえばどいういうシーンがあったっけ?」と首を捻ってしまった。どうも私は、映像スペクタクルの面白さや映画製作の技術的な面白さはよくわからないらしい。見たことがないような映像を見ることには、あまり関心がないのだなと再確認した。それよりも、今まで見ていたものを見る角度を変えたとき、こんなに違って見えるんだと示してくれる映画の方により関心を引かれるらしい。そして、巨額の製作資金を投入して自由奔放に作った映画より、色々な(主に経済的な)制約を受けつつも、何とかすり抜けて作られたような映画の方に魅力を感じるらしい。あんまり無邪気に映画を作られてもなぁ・・・何となく困っちゃうんだよなぁ。何なんですかねこれ(誰に問うているのか)。
P.Jがキングコングが大好きだというのは、すっごくよくわかる。でも好きすぎてコング=オレみたいになっちゃっているので、正直ひく所もあった。霧の中から憧れの美女が現れて見詰め合うシーンなんて、申し訳ないちょっと失笑しそうになった。やりすぎだよー。そこが男の子的ではあるのだろうけど。そもそも、巨大ザルと恐竜と巨大昆虫が大暴れって、小学生男子が教科書の端っことかに書いていそうな話だ。その小学生男子的な発想を大資本を投入して映像化しちゃうというのは、なかなか度胸があると思うが。でもそれだけ金と技術があればもっと他の映画を・・・勿体無いと思わずにいられなかった。せめて2時間以内に納めてほしかった。3時間延々恐竜やら巨大ゴリラやら見せられてもちょっと・・・。
私がこの映画に乗り切れなかった最大の要因は、キングコングというキャラクターに愛着をもてなかった所にある。だだっ子を見ていてイラっとするのと同じ感じだった。そもそもあれ、ストーカーだよ。あんなにでっかいストーカー嫌だと思う。悲恋とか愛とか言われても全然納得いきません。コングよりは、映画監督カールの方にずっと哀愁を感じる。情熱に才能がおっついてないのね。仲間が死んで「彼の為にも映画を完成させる!」「興行収入は彼の妻子に分ける!」って言っている時は多分本気なんだけど、いざ金が手に入ったら絶対分けないタイプだと思う。人としては大分問題あるけど憎めない。ジャック・ブラックは、妙な情熱に取り付かれた人を演じると抜群に上手い。(人間の)出演者の中では彼の1人勝ちだったと思う。『チキン・リトル』
いつも失敗ばかりで運の悪いニワトリの少年、チキン・リトル。1年前に「空のかけらが落ちてきた」と大騒ぎしたことで町中の笑いものになり、その失敗談が映画化されてグッズが出回る始末。彼はこの失敗を挽回しようと奮闘するが、なかなか上手くいかない。しかしある時大変な事件が!
ディズニーが初めて自前で作った3DCGアニメーション。しかし結論から言うと、今まで『トイ・ストーリー』『モンスターズインク』『ファインディングニモ』等、ディズニー提供の3DCGアニメを作っていたピクサースタジオが、いかにセンスが良かったかを再確認することになってしまった。技術力はそう変わらないだろうし、本作がつまらないわけではない。子供向けアニメとしては手堅いと思う。ただ、手堅さを越えるプラスアルファが感じられなかった。アニメーションのキャラクターはこういう動きをするだろう、という先入観が作り手の中にあって、その中でしかキャラクターが動いていない気がする。
そもそも(個人的な好みだが)キャラクターの造型に全然魅力を感じないんだよな・・・(特に宇宙人のなげやりなデザインはどうにかならなかったのか)。アメリカでは、アニメーションというと3DCGが主流になりつつあるそうだが、どうも私は馴染めない。見慣れていないということもあるのだろうが、平面的な絵で表現する所にも、3DCGとは別のアニメーションの面白さがあるのではないかと思う。
もっとも、さすがディズニーと言うべきか、子供には安心して見せられる内容だ。昔の映画や歌謡曲ネタのギャグが多いのは、保護者向けのサービスか。特にフィッシュがキングコングのまねをするのがかわいい。
ところで、チキン・リトルが抱えている問題が、失敗ばかりしてしまうということよりも、父親がちゃんと話を聞いてくれないという所にあるというのは、現代的だなぁと思った。親が自分の話をまともに取り合ってくれないというのは、ドジばかりゃっちゃうというのよりも心情的にはきついんじゃないだろうか。学校でみそっかすでも家でちゃんと安心感を得られていれば、割と大丈夫なのではないかと思う。『七人のマッハ!!!!!!!』
アクション映画界を震撼させた『マッハ!』のパンナー・リットグライ監督と製作チームによる、CGなしワイヤーアクションなしスタントなしの超硬派なアクション映画。ただし、ストーリーは『マッハ!』とは全く関係ないのでご注意を。
特殊部隊所属の刑事のデュー(ダン・チューボン)は、麻薬密売組織のボスを逮捕するという手柄を立てたが、その捜査の中で先輩刑事を殉職させてしまい、意気消沈していた。そんな折、妹ニュイが参加している、アスリートによる地方慰問団に加わることに。しかし訪問先の村をゲリラが襲撃。村人達を人質にとり、麻薬密売組織のボスを釈放することを国に要求してきた。デューはアスリートたちと共に、ゲリラに戦いを挑む。
ストーリーは大味だが、冒頭のトラック2台を使ったカーアクションを始め、生身アクションのすごさで全てのマイナス要素を帳消しにできる。トラックから落ちたり跳ねられそうになったり、これ何人か死んでるんじゃないの!というくらいの無謀さ。そしてチューボン以外のアスリートメンバーは、本職のアスリート。当然無茶苦茶よく動くし無駄がない。特に器械体操選手の動きの美しさには見とれてしまった。人間、それ自体に意味はなくても完成された動きを見ると見とれてしまうものらしい。口がポカーンとなります。
ストーリーは大味ではあるが、村人ととの交流が後半への伏線になっているたりなど、お約束的な気配りがあって嬉しい。特にセパタクロー選手と片足の男との共闘はかっこいい。片足の男の動きのキレがすごい!冒頭、なんでこんなに長々とやるのかなーと思っていた麻薬密売組織との戦いも、ちゃんと最後の展開に絡んでいた。ただ、結構パタパタと人が死ぬので、『マッハ!』のような楽しさを期待すると裏切られるかもしれない。軽く大量虐殺状態なことに加え、人の死に方が妙にリアルだ。マシンガンで撃たれたら、実際このくらいパタッと倒れるんだろうなという軽さなので、生々しい。アクションの現実離れした楽しさとはちょっと異質な感じがあった。
ゲリラが村人達を殺す映像をネットで流して首相を脅迫するところや、村の周囲に監視カメラを取り付けて軍を攻撃するところなどは妙に現代的。しかし映画自体は洗練されていないし何となくレトロ。しかも目玉は肉弾戦というちぐはぐさが、奇妙な味わいを醸し出している。ともあれ、運動する身体を眺める楽しさに満ちている。