10月

『旅するジーンズと16歳の夏』
 生まれたときから仲良しな4人の少女。ある日、体型が全く違う4人にぴったりと合う、不思議なジーンズを手に入れる。夏休み中離れ離れになってしまう4人は、順番にジーンズを回し履きすることにする。
 ガールズムービーが好きな人にもそうでない人にもお勧めしたい、青春映画の秀作。ルックスも性格も全く異なる4人の少女達は、それぞれ悩みを抱えている。自信家でスタイル抜群のブリジット(ブレイク・ライブリー)は、自殺した母を想い続け、その喪失感を自分が入っているサッカーチームのコーチへの恋愛感情で埋めようとしてしまう。ちょっと太めで情が深いカルメン(アメリカ・フェレーラ)は離婚した父親と夏休みを過ごすことになってはしゃぐが、彼には既に新しい家族がおり、彼女を省みてくれない。ギリシャの祖父母と過ごすことになった美少女リーナ(アレクシス・ブレーデル)は、自分の殻を破れず、窮屈な思いでいる。そして1人地元に残ってスーパーでのアルバイトをしているティビー(アンバー・タンブリン)は、周囲の人々を撮ったドキュメンタリーを作ることにするが、12才の少女と知合う。
 4人のエピソードが交互に描かれるが、特にティビーと12才の少女のエピソードが良い。正直、ベタな話だと分かっていても泣かされてしまった。ティビーはティーンエイジャーらしい不機嫌さと傲慢さをもった、ちょっと我の強い子なのだが、年下の少女と関わることで、視野がより広くなり、大人になっていく。ティビー役のアンバー・タンブリンがまた上手くて、少女が成長していく過程の表情の変化を見事に体現していた。また、容姿にコンプレックスがあるカルメンが、父親の後妻と上手くいかず、ブディックでとうとうキレてしまう所では、彼女の怒りやいたたまれなさがひしひしと伝わってくる(父親がまた鈍感というか、デリカシーがないのだ)。15、16才というと内面が急激に変化する時期で、不安だったり不安定だったり、自分自身の中高生時代を振り返ってみても、ままならないことばっかりだった。この映画の中でも、どの女の子もそれぞれのままならなさを抱えているが、何とかのりこえていこうとする。彼女達のジーンズは魔法のジーンスだったかもしれないが、彼女達に起きた変化は彼女達自身の力、そして友人の助けで起きたものだ。だからこそ、素直に良い話だと思えたのかもしれない。
 しかし、やっぱりルックスが今一つな子に共感してしまう(ごめんティビーとカルメン・・・でもあなたたちもすごくかわいいから!)。なので、どう見ても愛らしいリーナのエピソードには、まあこれだけ可愛ければそういうオチになるよなーと思ってしまって、共感できなかったのだ。

『シン・シティ』
 輝く高層ビルと朽ち果てた裏通りから成る「罪の街」シン・シティ。汚いやり方で利権をむさぼる権力者ロアークが支配する、暴力と汚職に満ちた街だ。3人の男たちが愛する女たちの為に、命を掛けた戦いを挑む。
 全編ベースはモノクロで、所々があざやかに彩色されている。原作のアメコミをそのまま映画化したそうだ。実際、カット割もマンガのコマ割をかなり忠実に再現しているそうだ。実写映画というよりもアニメーションの印象に近いかもしれない(映画の作り方の発想としては、『キャシャーン』に近い気がする。映画の出来は天と地ほど違うが)。小説で言ったらパルプ・ノワールみたいな雰囲気で、タランティーノが入れ込んでいたというのも納得。
 アメリカの(多分)一つの理想の男性像であろう、「男は愛する女の為に戦って死ぬ」をそのまんま実践している映画。それ以外の要素はあまりない。文字通りセックス&バイオレンス、ファック&キルキルキル!の世界なのだが、マッチョ感がそれほど強くないのは、男たちは滅びる運命にあることが臭わされるからかもしれない。そもそも、この映画に出てくる女性はみんな強いし、悪者は心底悪者だしね。そしてマッチョ感を上回るロマンチシズムがあると思う。男たちの女たちに対する愛情の一途さは、狂信的と言えなくもない。特にミッキー・ローク演じるフランケンシュタインのような容貌の前科者・マーヴは、一度寝ただけの娼婦ゴールディーの仇をとるために、自分の命を投げ打って犯人を追う。ブルース・ウィリス演じる刑事ハーティガンも、自分の人生を捨てる覚悟で少女ナンシーの人生を守る。クライヴ・オーウェン演じるドワイトも、そんなことしてやる義理はないのに、かつての恋人とその仲間の娼婦達を守る為、奔走する。んもー、この人達破滅願望あるんじゃないですか!でもその疾走感が映画の魅力になっている。この世界観にどっぷり浸りたい。
 そしてキャストがまたいい。この人刑事顔なのか?と思うくらいブルース・ウィリスは役柄にはまっている(原作のキャラクターが彼似なんですね)。そしてなかなか良いと思ったのが、クライヴ・オーエン。私、この人の顔はあまり好きではないのだが、何かに取り付かれたような、狂信的な瞳が役柄(割と妄想狂的に正義を貫くキャラなので)にぴったり。そしてイライジャ・ウッドが、とーっても気持ち悪い役柄で出ている。LOTRのイメージは払拭されたか。あと、冒頭とラストにちょろっと出てくるジョシュ・ハートネットは一見優男なのだが・・おいしい所をさらっていきます。女優陣も皆セクシー。最近出演作の公開が相次いでいるジェシカ・アルバは当然のごとくかわいい。そして娼婦のボス・ゲイル役のロザリオ・ドーソンと無敵の暗殺者ミホ役のデヴォン青木は、正直言って男性人よりかっこいいくらい。特にデヴォン青木最高です。強すぎる。

『チャーリーとチョコレート工場』
 ロアルド・ダールの名作小説(私は読んだことないのだが。申し訳ない)がティム・バートン監督によりとうとう映画化された。主演はティム・バートン作品常連のジョニー・デップ。透明のガラスに激突という、今時コントでもやらないようなギャグを体を張ってやってくれているので注目。
 とっても貧乏な家庭に育つチャーリー少年。大好きなチョコレートを買ってもらえるのは誕生日だけだった。一方、お菓子作りで世界一有名なウォンカ氏の工場は、出荷するチョコレートの内5枚だけに、招待状を忍ばせた。招待状を当てた子供は、誰も見たことがないチョコレート工場の中を見学できるのだ。おじいちゃんのへそくりのおかげで運良く招待状を当てたチャーリーは、おじいちゃんと共にウォンカ氏のチョコレート工場を訪ねる。
 端的に言うと、悪い子は変なおじさんにおしおきされちゃうよ!思いやりを忘れず家族を大事にね!という実も蓋もない話である。5人の子供たちがチョコレート工場に入ってからの展開も同じパターンの繰り返しなので、正直言ってお話の流れ自体は起伏に乏しい。マセガキは嫌いなんだよ!という主張は大変よくわかるが。ウォンカ氏と父親とのエピソードの挿入の仕方も唐突で、わざわざ入れる意味があったのかちょっと疑問。もっとも、ああいうエピソードを入れざるを得なかったのがティム・バートンの業なのだろうけど。
 見所はやはりビジュアルだろう。工場内のカラフルでサイケな、毒々しさ一歩手前のビジュアルは、好きな人は延々と眺めて楽しめそう。チョコレートの川やら砂糖細工の船やらゼリーの木の実やら、子供の想像をそのまま映像化したみたいだ。美術の精度はものすごく高いと思う。チョコレート工場だけでなく、チャーリーの傾いた家(傾き加減の穴のあき加減が絶妙)も、貧乏だけど居心地がよさそうな感じ。セットだけでなくファンタジーのさじ加減が上手いと思う。ふと我にかえると、チョコレートの滝なんて作っちゃって衛生的には大丈夫なのかしら、とか、チャーリーの家ってゴキブリ出ないかしらとか全くファンタジーでないことが頭に浮かびそうになるのだが、それをギリギリのラインで押さえてくれるような作りこみ方だった。
 まあ、深いことは考えず、ウンバ・ルンバ人の歌と踊りを楽しめばいいのだろうけど。でもあの色彩センスには正直付いていけませんでした。目がちかちかする。

『メゾン・ド・ヒミコ』(映画のラストに触れています)
 小さな塗装会社で働く沙織(柴崎コウ)の前に、ある日若い男・春彦(オダギリジョー)が現れる。彼は沙織の父親の恋人で、父親は癌で死が近いというのだ。沙織の父親は、彼女と母親を残し、ヒミコ(田中泯)と名乗ってクラブのママをしていた。そして引退後、ゲイのための老人ホーム「メゾン・ド・ヒミコ」を開いたのだった。沙織は自分と母を捨てた父を恨んでいたが、嫌々ながらホームを手伝うことになるのだった。
 『ジョゼと虎と魚たち』が至る所で絶賛気味だった、犬童一心監督と渡辺あや脚本のコンビによる新作。さすがに手堅い。そして音楽は映画音楽は18年ぶりとなる細野晴臣。柴崎コウがメイクアップならぬメイクダウンして出演していることでも話題になった。田中の存在感、オダギリの色気に妙に説得力がある。
 ゲイの為の老人ホームとか、父親の恋人がオダギリジョーとか、一見少女漫画的なファンタジー風味である。元々、大島弓子の漫画を映画化しようという企画から発生した映画だそうなので、それも当然かもしれない。しかし、映画の中で沙織は、メゾン・ド・ヒミコを指して「こんなのインチキじゃん」と言い放つ。この映画の構造を(そして映画という作り物の仕組みを)崩しかねない言葉だ。最初、このセリフはなかったらしい。しかし入れなくてはならないと監督は考えたそうだ。ファンタジー風味でありながら、この映画を甘いファンタジーにはとどめたくなかったスタッフの本気が窺われる。
 ところが、この本気さがラストで覆される。メゾン・ド・ヒミコ=ユートピアを出て行った、つまりファンタジーから出て行った沙織は、再びメゾン・ド・ヒミコに戻ってくるのだ。なぜわざわざ避けようとしていたことをするのか?思うに、マイノリティよりも親子の葛藤よりも何よりも、「老い」という問題が作り手にとって最も切実(というか身に染みる)な問題だったからではないだろうか。身に染みるからこそ、離れ離れにするに忍びなかったのだと思う。せめてユートピアの夢を見たいということか。相反する要素を抱えつつも、映画総体としてはばっちり成功しているあたりがすごいのだが。
 いわば違うジャンルの人達が集まってくるという話だ。沙織とゲイの老人達との間には、徐々に何らかの絆というか関わりというかが生まれてくるが、それは沙織のゲイに対する偏見がなくなったということではない。また、春彦と沙織の間には恋愛感情のようなものがうっすらと漂い、ぎこちなくキスを交わすものの、沙織は春彦に「触りたい所、ないんでしょ」と呟く。ヒミコは沙織に「それでもあなたが好き」と告げるが(おそらく感動的なシーンではあるが)、それは沙織が味わってきた苦しみを補完するものにはならないだろう。彼らの間には依然として壁があり、歩み寄ることはできても交わることは出来ないように見える。その、交わることはないという寂しさを抱えつつも、寄り添おうとすることを否定はしない。優しくはあるが悲しい。ほのかに優しいラストもこの先の危うさを感じさせ、救いがない。

『空中庭園』
 原作小説を読んだ時、なぜこのタイトルなのかあまりぴんとこなかったのだが、映像化されることによって、このタイトルのもつ意味合いがより明確になったのではないかと思う。というより、このタイトルに合わせたカメラワークにしたのだろう。カメラは冒頭から、振り子のようにゆらゆらと揺れ、また、天から見下ろすようにゆっくりと旋回する。
 もっとも象徴的なのは、冒頭でクローズアップされる電気スタンドの傘だろう。花や水の溢れる塔を模っていて、ちょっと変わった絵柄だなと思って見ていたのだが、これはそれこそ空中庭園、はたまたバベルの塔をデザインしているのだろう。しかし空中庭園もバベルの塔も本来はなかったはずのもの、不自然な人工物だ。そして家族も同じく不自然な人工物であり、いつ壊れるかも分からない脆いものだということだろうか。
 じゃあ、豊田利晃監督は人工的な家族なんてやめちゃえよと主張しているのかというと、そうではない。むしろ、演技でもいいじゃないか、形を装い続ける中で生まれるものもあるのではないかという投げかけになっていたと思う。多分、豊田監督は家族という形式に対する、基本的な信頼感があるのだろう。それが、原作小説よりもより具体的に希望を感じさせる(白々しい演技だとも考えられるが、少なくとも演技が出来る程度の余裕はあるわけだ)ラストを生み出したのではないか。
 原作では、家族5人プラス部外者1人のそれぞれにスポットが当てられたが、映画では小泉今日子演じる絵里子、特に彼女の母親に対する葛藤に焦点を絞っていた。あのキョンキョンがこんなに上手くなるとは!段々憑かれたようになっていく目が恐い。普通に日常生活をこなしているのに、片足妄想に突っ込んでいる感じだ。母親とのやりとりの一方的な腹立ちや憎悪が鬼気迫るものがある。絵美子の妄想が突如挿入されるので、段々妄想と現実が入り混じってどっちがどっちだかわからなくなる。
 そして元アイドルといえば、板尾創路演じる絵里子の夫・貴史の女王様系愛人役で出演していた永作博美がすごい。というか面白い。この人がこんな演技するようになるとは・・・。さらにアイドルだったのかどうか微妙なソニン(これまた貴史の愛人役)が生々しく色っぽい。
 原作を読んでいる時にはそれほど感じなかったのだが、映像化されると、新興住宅地のもつ息苦しさというか、救いの無さがまざまざと立ち現れていて、自分がこういう所で育っていたらと思うと、少々ぞっとする。鈴木杏演じる不登校女子高生の行き場の無さは、他人事とは思えない。こういう隙間のない地域は、スタンダードからちょっとはみ出してしまう人にとっては、非常に生き難いと思う。逃げ場がないから。

『ステルス』
 戦闘機の爆音轟き挿入歌は全てヘビー寄りロック。にも関わらず眠くてしょうがなかったですよ!正直言って前半の展開殆ど覚えてないよ!ジェシカ・ビールの水着というサービスショットがあったのはおぼろげに覚えてるけど前後の脈絡がわからない!(でもこの映画見る上では全然問題なかったです)
 アメリカ海軍の精鋭パイロット、ベン(ジョシュ・ルーカス)、カーラ(ジェシカ・ビール)、ヘンリー(ジェイミー・フォックス)。彼らのチームに、
4機目のステルス機が加わることになった。しかしそれは、人工頭脳を搭載しパイロット不要の、最新鋭のステルス“エディ”だった。不安を抱えながらも訓練に臨んだ一同だったが、エディが制御不能になり、暴走を始めた! 人工知能が自我を持ち暴走(なんでこの手のAIて暴走すると人を襲うんですかね)するというもう出尽くした感のあるネタをなぜ今更、という疑問が頭から離れなかった。そして何故ジェイミー・フォックスはアカデミー賞受賞したにも関わらず、わざわざこんな映画に出てるんだという疑問も。
 
この映画、アメリカの独善さを皮肉った人形劇映画『チーム・アメリカ』を、そのまんま大真面目にやってしまったような作品だ。えーそれ本気?!と我が目を疑う展開が相次ぐ。テロリストのアジトがあるからって、いきなり所の国を空爆しちゃっていいんですか。仲間を救うためだからってロシア上空に無断侵入した上ロシア機を迎撃しちゃっていいんですか。北朝鮮に単身で乗り込んでいいんですか。外交問題に発展しちゃうよ!戦争起きちゃうよ!本物のアメリカ軍関係者が見たら「俺らこんなに頭悪くねーよ!」と怒り出しそうな内容だ。また自国大好きアメリカ映画かよー、と思ってうんざりしていたら、アメリカ国内でもこれはさすがにあんまりだと思われたらしく、興行成績ランキングからは早々に姿を消したそうだ。
 一番の見所はCGを駆使したステルス機の飛行シーンなのだろうが、何せステルス機だから超高速。高速すぎて飛行シーン自体はあんまり楽しめなかった。ステルス機のデザインもあんまり面白みがないし、一番の目玉がこれでは寂しい。エディVS人間の大バトルかと思ったら、そうでもなかったしなぁ・・・・。どこに重点を起きたかったのかいまひとつわからない。空中給油ポイント(この設定なんてほとんどファンタジー)の爆破場面だけはなかなか見ごたえあったが。
 ちなみに監督のロブ・コーエンは日本のアニメも好きらしく、「マクロス」と「戦闘妖精・雪風」大好きだそうだ。・・・だったらさあ、最初から「雪風」実写版作ればよかったじゃないよ「ステルス」の予算で!そっちの方が絶対面白いよ!

『真夜中のピアニスト』
 ロマンチックな雰囲気の邦題だが、中身は全然甘やかではない。原題は「De Battre Coeur S’est Arrete」。「僕の鼓動が止まった」とでもいう意味だそうだ。原題の方が映画の内容に合っているので、日本ではこの言葉が使われなかったのが、ちょっと勿体無い。
 トム(ロマン・デュリス)は父親の後を継ぎ、不動産ブローカーとして働いている。ブローカーといっても、時には暴力沙汰にもなる汚れ仕事だ。しかし本当は、死んだ母親のようなピアニストを夢見ていた。そんなある日、彼は偶然にかつての恩師に出会い、ピアノのオーディションを再び受けないかと勧められる。彼は中国人の女性ピアニストに教師役を頼むが、彼女はフランス語が話せず、彼らは音と仕草のみでレッスンを続けることに。
 トムは28歳。この年齢で、しかも数年間のブランクがある上でピアニストを目指すというのは、正直言って無謀だ。それでも自分が好きなものは諦められない、諦めたつもりになっていても、目の前に一筋の光が見えたら、思わずすがってしまう。トムにはなまじ才能があるだけに、余計残酷だと思う。ピアノを弾いている時に幸せそうな表情になるのが、却って痛々しい。
 見ていて色々と思うところ多く、ちょっと平静ではいられなかった。これは己のことかと。嫌なもん見せてくるなと。しかしこういうもやもやを孕んだ、見ている間気持ちよくない映画の方が、後々まで心に残ることが多い。
 トムは不動産ブローカーをやりたくてやっているわけではない。父親の後をしかたなく継いで嫌々ながらやっている。割り切ってやってしまえばいいのだが、この手の仕事をやるには繊細すぎるのだ。仕事をしている時の疲労しきった感じ、自分が擦り切れていく感じが、見ていてひしひしと身に染みた。心抉られる。そんなに嫌な仕事なら辞めてしまえばいいのだが、トムはそれも出来ない。ピアノを本気でやりたかったのなら、もっと早く父親を捨てて家を出ればよかったのに、それも出来なかった。思い切りが悪いのだ。端的に言うと弱い。この弱さが他人事とは思えず、痛い所を突かれた感があった。
 トムは自分の弱さゆえ、結局チャンスをふいにしてしまう。父親の愛を得ることもできず、また父親を守ることも出来なかった。しかし、その後の彼はつき物が落ちたような、穏やかな表情をしている。夢を失ったからといって全てをなくすわけではなく、それでも人生は続くということ。つまり大人になるということなのかもしれないが、それは残酷ではあるが、ジャック・オディアール監督は必ずしも不幸としては描いていない。自分の弱さを否定しない所、弱さも自分の一部として受容する所に、この映画の地に足の付いた部分があると思う。

『ベルベット・レイン』
 マフィアのボス・ホン(アンディ・ラウ)の暗殺計画が噂されている香港暗黒街。ホンの3人の部下は、誰が首謀者なのかと腹の探り合いをしていた。ホンの右腕・レフティ(ジャッキー・チュン)は無慈悲な男で、彼が後を継げば血なまぐさい事態になるのは目に見えていた。その夜、ホンに子供が産まれる。妻を見舞ったホンに、レフティは妻子を連れて国外へ出ることを薦める。一方、レストランで働く若者・イック(ショーン・ユー)は友人のターボ(エディソン・チャン)に連れられ、暗黒街のボス暗殺者を選ぶくじ引き会場にいた。そしてくじに当たったイックは、ナイフを持って暗殺へと乗り出すのだが...
 権力を手にした2人のマフィアの絆と確執、そして若者2人の友情という、2本のエピソードから成る映画。香港でマフィア映画で男の友情というと、ねっとりみっしりとした濃いイメージがあって、そういうものを期待していたのだが、割とあっさり風味。えー、もっとこう、ね!と演出指導したくなったりならなかったりと、痒い所に手が届かない映画だった。もっとも、この映画の雰囲気自体は割と好きなので(終盤の雨のシーンは、いやそんなに戦えないだろーと突っ込みを入れつつも、きれいに撮れていてよかった)、不満足というわけでもない。脱臭されたフィルム・ノワールという感じか。
 年長組の確執や、年少組の掛け合いはもうお約束の範疇なのだが、エピソードとしてはやはり年長組編に惹かれる。付き合いが長く信頼し合っているからこそ積み重なってくる澱のようなものが、不穏さを漂わせている。私は特にアンディ・ラウが好きというわけではないし、最近のアンディ・ラウにはあまりかっこ良さを感じなかったのだが、今作のアンディには色気を感じた。元々わりとギラギラ寄りの脂っこい人(すいませんファンの皆さん...あくまで私の中でのイメージですから!一般的にはそうじゃないと思います!)だと思っていたのだが、年齢を重ねて脂っこさが抜けてきたのか、丁度いい案配に。ちょっと疲れている感じが妙に色っぽいと思ったのは私だけか。対して若者2人は、顔は整っているのだが、あまり魅力を感じなかった。チンピラという役柄のせいもあるのだが、薄っぺらい感じだ。エディソン・チャンは『頭文字D』ではかっこよかったのに、今回は煩いばかりだった。
 ちなみに物語に一つの仕掛けがあるのだが、分かる人には相当早い段階で分かってしまっただろう。私ですら、これはプランAとプランBのどっちのオチかなーと予想しながら見ていたくらいだから。ちなみにこの映画の中でもっともかっこいいのは、ホンの奥さんだと思う。女は強いねー。

『ティム・バートンのコープスブライド』
 ティム・バートン監督にとっては『ジャイアントピーチ』以来のアニメーション作品となる。ダークな雰囲気は『ナイトメア・ヴィフォア・クリスマス』を彷彿とさせるが、更に完成度は高くなっていると思う。予告編見たときCGかと思ったのだが、ストップモーションのアニメーションだそうだ。精度高すぎる。
 19世紀(らしい)ヨーロッパのとある田舎町。魚屋で一財産を作った成り金夫妻の息子・ビクター(ジョニー・デップ)は、没落貴族の娘・ビクトリア(エミリー・ワトソン)との結婚をひかえていた。といっても、貴族の肩書きが欲しいビクターの両親と、お金に困ったビクトリアの両親が計画した政略結婚である。結婚式を明日に控え、予行練習を行う一同だが、上がり性のビクターは失敗ばかり。頭を冷やしに森へ出たビクターは、一人で式の予行練習をしていた。しかし、小枝と間違えて死体の骨に指輪をはめてしまったことで、死体の花嫁(ヘレナ・ボナム=カーター)がよみがえってしまった!しかも彼女は結婚したくてたまらず、ビクターに惚れ込んでしまったのだ。
 お話は単純極まりないのだが、実に良い。シンプルなストーリーで感動させられるのは、虚構性の高いアニメーションの強みだと思う。ラストではうっかり涙してしまいましたよ!ピュアな心って大事だよね!と己のキャラクターをなげうったコメントまでしたくなる。死体の花嫁は、一途で(人の話を聞かないとも言う)いじらしくて、一歩間違うとウザいキャラなのだが、そのいじらしさが素直にかわいいと思えた。対する現世の花嫁・ビクトリアも、美人ではないけれど気立ての良い、愛すべき人として描かれており、どちらもかわいい。そして一歩間違うと単なるダメ男キャラなビクターも、情けないけれど優しい、そして最後にはちゃんと自力で奮闘するキャラクターとして好感が持てた。どのキャラクターも、造形的にはいわゆる可愛らしい姿ではないのだが、その言動によって可愛らしさが滲んでくる。メインの3人が、基本的に思いやりのある人として描かれているので、多少欠点がある(イタい)所も気にならない。
 音楽満載のミュージカル風になっており、特に骸骨のレビューは楽しかった。生者の世界はモノクロで陰鬱なのだが、死者の世界は色彩豊かで活気に満ちているという、ちょっとシニカルな世界。生きている人間の方が悪どくて、死んだ人間の方が純粋だという所に、「シザーハンズ」で異形の姿だが心は純真な主人公を描いた、ティム・バートンの好みが反映されている。もしかして、生者の世界の陰鬱さを強調する為に、19世紀という時代設定にしたのかなとも思った。
 それにしても、70分程度とはいえ、この制作課程を想像すると気が遠くなりそうだ。キャラクターの動きの滑らかさはもちろんだが、太った女性が歩く時の胸の揺れまで再現する細かさ。しかも『チャーリーとチョコレート工場』と同時制作していたというから、ティム・バートンには頭が下がります。キャストが被っているのもそういう理由からだとか。

『キャプテン・ウルフ』
 アメリカ海軍特殊部隊所属のエリート軍人・ウルフ大尉(ヴィン・ディーゼル)は、あるプログラムを開発した科学者を、誘拐犯の手から奪還する任務を受けた。一度は奪還に成功したかと思ったものの、科学者は殺害され、彼も狙撃されて2ヶ月間入院することに。退院後のウルフに与えられた任務は、残された科学者の子供達を守ること。しかし子供達はティーンエイジャーの長男長女を始め、5人とも難物ぞろい。にわかベビーシッターとなってしまったウルフは、果たして子供達を守ることができるのか?!
 ハリウッドの子供向け映画には、子守りモノとでもいうべきジャンルがあるのだろうか。確かシュワルツネッガーも、『キンダガートンコップ』でにわか保育士になってしまった刑事役をやっていたような。明らかに子供向け(制作はディズニー)なので、テロリストは出てくるけど死人怪我人一切なし(子供達のお父さんだけは冒頭で亡くなってしまうが、死体は出てこない)。血を見せないので、小さいお子さんにも安心してみせられる。テロリストなのに飛び道具持ってないし、妙な拳法で戦うし、挌闘シーンがあるにはあるけどあまり痛くなさそうだし。大人にとっては毒にも薬にもならない。子供達が皆それなりに演技が上手く可愛いので、まあ見られるかなと。お腹いっぱいにはならないまでも、軽いおやつ程度にはなる。
 軍人と子供という、方や秩序の固まり、方や無秩序の固まりのような相対する存在が同居したらというシチュエーションを使ったギャグや、この手の話のお約束として両者の間に芽生える絆などは、無難にまとめている。ちょっと面白いと思ったのは、ウルフは軍人として規律正しい生活を子供達に強要するのだが、それ以外ではそれほど強権的ではないのね。長男が、本当は武術なんかよりミュージカルをやりたくて、こっそり練習しているのを、ちゃんと応援するしね。こういう所は現代的かなと。あと、意外にきちんと伏線敷いてあったので、これはちょっとびっくりした。いや、そんなもん作るなよ!という意味でもびっくりしたんだけど。

  『蝉しぐれ』
 藤沢周平の小説が原作。原作ファンの方にとっては色々といいたいこともあるのだろうが、私は藤沢小説には特に思い入れがないし馴染みも薄いので、先入観や期待がなくて、かえってよかったのかも。
 下級武士である養父(緒方拳)によって育てられた牧文四郎(市川染五郎)。しかし養父は謀反の汚名を着せられ、切腹させられてしまう。数年後、謀反人の子として白い目で見られつつも、母と細々と生活していた文四郎。しかし数年後、牧家は突然名誉回復を言い渡され、文四郎も藩での役職を与えられる。一方、文四郎の幼なじみ・ふく(木村佳乃)は殿の側室となり、密かに世継ぎを出産していた。そしてその世継ぎを巡った陰謀に、文四郎も巻き込まれていく。
 時間の流れがゆったりとした、というよりゆったりとしすぎている映画だった。物語は、主人公たちの子供時代から始まる。確か染五郎主演の映画だったよなー、じゃあぼちぼち成長した姿で登場するのかしらと思ったら、延々と子供時代が続くんですねこれが。文四郎の父親の人柄が窺われる台風のエピソードはともかく、祭りのエピソードとかはあんまりいらなかったんじゃないかなー。そして場面転換するたびに、美しい日本の風景が挿入される。風景は確かに美しいのだが、「いやそれは分かっているんで早く話を進めて欲しいんですけど」と言いたくなる。あと30分短ければ、もっと好感度が上がったのに・・・。
 それでも、なかなか悪くない映画だったと思う。文四郎たちの生活は、現代の貧乏サラリーマン(いや身分としては公務員に近いのか)を彷彿とさせるもので、わびしくなるが親しみも湧いた。父親がよれた裃を着て、そろそろ新しいのがほしいなーと漏らすと、母親がうちにはそんな余裕ありませんと言う。うわー侘しい。でもお父さんがちょっとかわいい(笑)。文四郎がいわゆるかっこいいヒーローではなく、剣術がちょっと上手い程度の、普通に生活している(そして貧乏な)人物だというのも、地に足の付いたヒーローものという雰囲気を醸し出している。そしてラブストーリーがあくまで控えめなのがいい。世の映画やら小説やらTVドラマやらは皆ラブを発しすぎ。このくらいでいいのよ。
 主演の市川染五郎は、華はあるけど貧乏侍役には似合わない。この人はやっぱり、派手な着物着て女をいっぱいはべらせている方が様になると思う。ふく役の木村佳乃は、品がある。特に終盤の表情が良かった。また、2人の子供時代を演じた役者が、演技が上手いわけではないが、初々しくて良い。あと、染五郎の幼馴染の友人役でふかわりょうと今田耕二が出演していたが、ふかわが意外にはまっていた。
 

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