8月
『メリンダとメリンダ』
メリンダ(ラダ・ミッチェル)という女性を主人公にした喜劇と悲劇のラブストーリー。マンハッタンのカフェでお喋りに興じている劇作家達。知人の噂話から、不倫をして夫・子供と別れるはめになったメリンダという女性を主人公にした、悲劇と喜劇、2種類の物語が始まる。喜劇と悲劇、どちらが本当の人生を映し出すことが出来るのか?一人のメリンダは睡眠薬を飲みすぎた状態で、売れない俳優である夫&お嬢様育ちの妻の家に転がり込む。もう一人のメリンダは、同じアパートに住む売れない俳優&映画監督夫妻のパーティーに出席し、ミュージシャンと知り合うのだが・・・。
ウディ・アレンの十八番である、ニューヨークを舞台にしたラブストーリー。アレンは本当にニューヨークが好きなんだなと思う。正直言って、物語よりもニューヨークの町並みや登場人物達のファッションに目が行った。特に衣装は、登場人物のキャラクターが一目瞭然になっているところは流石という感じ。室内のインテリアなども、ウディ・アレンらしくおしゃれで居心地が良さそう。こんな部屋に住んでみたくなる。そしてウディ・アレンらしく会話は軽妙でシニカルで所々嫌味。
喜劇と悲劇のパートが交互に展開されるのだが、話が盛り上がっていくにつれ、悲劇と喜劇はそんなに違わないんじゃないかと思うようになった。喜劇の中でも悲哀があり、悲劇は盛り上がるほどに却って吹き出しそうになる。当人にとっては悲劇なのだが、客観的に見ると滑稽ということもあるだろう。結局、同じ出来事を違う立場で見ているだけなのかもしれない。悲劇が突き抜けると喜劇になるし、喜劇も突き抜けると悲劇になるという表裏一体さを見せられた感じ。もっとも、ドラマとしてはまあこういう風になるだろうなという話なので、ちょっと手を抜いたんじゃないの〜、と言いたくもなったのだが。コントとメロドラマを交互に見せられている感じだった。お話としては喜劇のメリンダの方が面白く、悲劇のメリンダはちょっと色あせてしまった。
主演のラダ・ミッチェルが悲劇・喜劇両方のメリンダを演じている。「普通(ほどほど)に美人」という風貌には親しみがわく。対してお嬢様育ちの奥さん役のクロエ・セヴェニーは、控えめ(そしていつも何かを我慢している)な美人役がはまっていた。『リンダリンダリンダ』
文化祭直前のとある田舎の高校。軽音楽部の恵(香椎由宇)、響子(前田亜季)、望(関根史織)はライブをやるつもりだったのだが、ギターの萌(湯川潮音)が指を骨折したことがきっかけで、ボーカルの凛子と恵が大喧嘩。しょうがなく3人で出来る曲を探して即興バンドを作ることに。古いテープから流れてきた『リンダリンダ』を聞き、ブルーハーツのコピーバンドをやることにした。更に恵は「ここを最初に通った人がボーカル」と言い出し、たまたま通りがかった韓国からの留学生・ソン(ペ・ドゥナ)をスカウトし、わずかな日数で練習に励む。
文化祭に向けてガールズバンドががんばりますよという、まあありきたりな話なのだが、空気感のリアリティがすごい。リアリティといっても、今の高校生はこんな生活してますよというリアリティではなくて、どの世代の人が見ても「高校時代ってこんな感じだった」と納得してしまいそうな、ある種の原型のようなリアリティだ。実際、私自身はこういう高校生活は全く送ってない(文化祭がなかったし、そもそも友達殆どいなかったし)のだが、それでもああこんなだったよなぁと思ってしまった。多分、「高校→青春→元気で爽やか」ではなくて、時折きらめきを見せつつも、うだうだ感に満ちているから嘘臭くないのかもしれない。実際の高校生活って結構ダルいしだらしない。そして、映画の冒頭や途中途中に挿入される、映画少年がとっている文化祭紹介の自主制作ビデオで朗読されるポエム(笑)が、非常に青々しくイタイタしく、おっそろしく的確に一部の10代少年少女の特徴を捉えていた。この位の年齢ってうっかり思い入れたっぷりのブツを作っちゃって、後でいたたまれない思いをすることが多々あると思う。もしや監督の実体験に基づく反省なのか?
山下淳弘監督は、どうということない、意味をなさない会話のやりとりの中でその人達の関係性を臭わせることや、人と人の微妙な関係や間合いを表現するのがとても上手いと思う。特に、前作『リアリズムの宿』を見て思ったのだが、中途半端に知り合っている人同士の気まずさや、ちょっと恥ずかしいこと、いたたまれないことを捉えるのは抜群に上手い。今作でも、いつもクールな恵が元カレと会った時の親しみと気まずさが入り交じっている感じとか、ソンに告白した男子高校生の空回り振りとか、生徒をかまいたいんだけど不器用な先生達とか、気まずい感じが笑いを誘った。
それにしても、何とも愛らしい映画だった。女の子達が皆いとおしくなる。監督も明らかに「この子ら可愛いなぁ」と思って撮っているのだが、あまりセクシャルな視点を感じないので、女性が見ていても居心地が良かった。
そもそも、ブルーハーツの曲を使った時点である意味勝っている。正直言って、恵と響子が冒頭、部室でたまたまテープから流れてきた「リンダリンダ」を聞いて飛び跳ねつつ絶叫するシーンで既にちょっとやばかった。私はブルーハーツの大ファンというわけではないのだが、世代的にやはり感慨深いものがある。リアルタイムで聞いていた頃よりも、むしろ今の方が曲の力を感じて心に染みた。更にサントラが元スマッシングパンプキンズのジェイムス・イハという(一部の人にとっての)豪華さ。軽音部の部室内に貼ってあるポスターやフライヤーも、そうそうこういうのが貼ってありそう!というもので、音楽好きならまじまじと見入ってしまうはず。途中で使われる曲がユニコーン『すばらしい日々』、はっぴいえんど『風来坊』というのは、狙い澄ましていてちょっと嫌みでもあるが嬉しかった。しかし、今の高校生はプリンセスプリンセス知らないんですね・・・『運命じゃない人』
第14回ぴあフィルムフェスティバルスカラシップ作品。2005年カンヌ国際映画祭批評家週間に正式出品された。そしてフランス作家協会賞、最優秀ヤング批評家賞、最優秀ドイツ批評家賞、鉄道賞の4賞受賞という快挙を達成した。監督はこれがデビュー作となる内田けんじ。
気弱なサラリーマン宮田(中村靖日)は、他人を全く疑わない超いい人。買ったばかりのマンションから出て行った元カノ・あゆみ(坂谷由夏)を忘れられずにいる。彼の親友・神田(山田聡)は探偵。あゆみの行方を追ううち、彼女が結構サギ師だと知る。その神田をあゆみが訪ねてきた。ヤクザの浅井(山下規介)の事務所から200万円を持ち出したので逃がしてくれと言う。一方宮田は行き着けのレストランで、婚約者に浮気された家出女・真紀(霧島れいか)と知合う。
と、ざっとあらすじを説明してみたものの、以上は一夜の出来事を俯瞰して見た時に出来る説明だ。この映画の中では登場人物それぞれの視点からその夜の出来事が描かれる。全部通して見た時に、一体どういうことが起きていたのか分かるのだ。群像劇というよりも、主人公を変えた連作短編集のような構造になっている。立体パズルのようにそれぞれの時間と出来事が組み合っていき、あれ?と思っていた箇所の謎が解明される過程は爽快だ。真紀のモノローグがうざったいなーと思っていたのだが、あれはこういうオチをつけるためだったとは・・・。各賞を受賞したのも納得の面白さ。最後まで驚きに満ちていた。私が見に行った時は平日の最終回だったのだがそこそこの客入りで、客席からも頻繁に笑い声があがっていた。
映画としてはとっても小規模だが、メジャーっぽいエンターテイメントのセンスがある監督だと思う。語り口の軽妙さとそれぞれのキャラクターの立ち方は、新人監督とは思えないくらいこなれていて正直意外だった。特に貧乏性でセコいヤクザ・浅井のキャラクターは際立っていた。そのせちがらさが身に染みる。ただ、小物使いとか画面全体から漂う雰囲気が安っぽいのはちょっとどうかと思う。低予算どうこうではなく、上手くいえないのだが何かが決定的に貧しい気がする。監督のセンスの問題なんだろうか。特に音楽がまずい。一昔前の自主制作ポップスみたいでガクっと力が抜ける。映画において音楽が果たす役割は大きい。音楽さえ良ければ、映画自体が退屈でも何となく印象に残ることもあると思う。もう少し気を使って欲しかった。脚本とストーリーテリングの才能はあるが、美的なセンスは低い監督なんだろうか。
この映画の登場人物は、(大多数の人間がそうだと思うが)宮田以外全員に裏の顔がある。宮田はとことん善意の人で他人を疑わないお目出度い人だ。彼の善意が報われたように見えても、その裏では化かし合いが展開されているのだ。しかしそれでも最後には人の善意は報われるかも、というメッセージを・・・と見せかけつつ、あのオチって本当は更なる金ヅルを狙ってるって意図なんじゃないの?!と宮田のように善人でない私は勘ぐってしまうのだった。『ある朝スウプは』
2004年ぴあフィルムフェスティバルPFFアワードグランプリ受賞、2004年バンクーバー国際映画祭ドラゴン&タイガー・ヤングシネマ部門グランプリ受賞、2005年香港国際映画祭アジアデジタルビデオ部門グランプリ受賞作品。しかし製作日数8日、制作費3万という超低予算&短期制作作品。90分とは思えない濃さを持った映画だった。
パニック障害を起こして社会生活がままならなくなった北川(廣末哲万)は新興宗教にはまっていく。同棲相手の志津(並木愛枝)は彼を何とか日常に引き止めようとする。
どこにでもいそうなカップルに起こった不測の事態、なのだが誰にでも起き得る事態である。理解しあっていると思っていた2人が、ちょっとしたきっかけから全くの他人であるということに気付いていく。その過程を2人に接近して映していくカメラの映像が生生しい。鏡に映る映像が効果的に使われていて、実際のカップルの生活を覗き見しているような感じも受ける。男女2人以外の登場人物が殆どいないので、2人の間の空気感が濃すぎて息苦しい。2人のやりとりがまた自然で生々しく、見ていていたたまれなくなる。
2人の会話はどんどんかみ合わなくなるのだが、一緒に暮らしてきた時間も長いから、一見かみ合っているように見える。そういう日常の隙間から、ひょっこりとディスコミュニケーションが姿を現す所が恐かった。2人はお互い良かれと思って相手を説得しようとする(新興宗教を止めるように、加入するように)のだが、お互いに自分の陣地に引き込もうと空回りしているだけで、コミュニケート出来ているとは言えない。ラストのトイレに閉じこもった北川と窓越しに交わす志津との会話には、それが如実に表れていたと思う。幾分セリフが作られすぎな感もあったが、ちょっと冷や汗が出そうな緊張感のあるやりとりだった。このやりとりの後の朝食の場面は、諦めたからこその穏やかさに満ちていて痛切だ。
監督・脚本・撮影の高橋泉は、主演の廣末とユニットを組んで映像制作活動を続けていたそうだ。廣末が撮影して高橋が主演することもあるとか。私がこの映画を見た日には、上映後に監督と社会学者・宮台真司とのトークショーがあったのだが、監督と廣末とは阿吽の呼吸というか、細かく指示しなくても相手の意図が通じ合う所があるとのことだった。役者には要所要所のセリフだけ渡して、後はアドリブで創作してもらったそうだ。映画に対して自分の理論や世界観を明確に持っている監督だと思うのだが、それが多分に無意識に行われているというか、言葉で上手く説明できない人なんだなという印象を受けた。
ところで一箇所気になったのは、志津が何故北川の家族に助けを求めなかったのかということ。北川の家族はアパートからそれほど遠くない所に住んでいて、2人は正月には一緒に挨拶に行くくらいには親しい。志津1人で背負いきれる問題ではなかったと思うのだが。『魁!!クロマティ高校THE★MOVIE』
ああこんな日が来るなんて!週刊少年マガジンに連載中のギャグ漫画「魁!!クロマティ高校」(野中英次)がついに実写映画化された。クロマティには訴えられちゃったけどめでたい!監督は「地獄甲子園」でシネクイントのレイトショー動員新記録を樹立した山口雄大だ!これは見ないわけにはいくまい!
学力最低レベル、不良の吹き溜めの都立クロマティ高校。上山高志(須賀貴匡)は学校を改革してみせると意気込む超真面目な学生。しかし彼の言動は何かがズレているのだった。
主演の須賀貴匡は、この人のこれまでの役者人生の中でもベスト級の演技だったんじゃないの!?というくらいの熱演(本人によれば、まず髪型を7・3にするところから入ったとか)。他のキャストも、皆よくぞここまで揃えたと言いたくなる。というか皆よくオファー受けたな!一番漢気溢れていたのは、よりによってフレディー役を受けてしまった渡辺裕之だと思う。セリフは一言もないのに、あの姿が頭に焼き付いて離れない。彼のキャリアにとってマイナスとならないことを願う。
「地獄甲子園」の時は、笑えるのか笑えないのか微妙な感じ(まあ原作が原作だし)だったが、今回はばっちり笑える。原作漫画は映像化するのが難しそうな笑いだったのだが、それとはまた別物のおかしさがあった。なんなのこのおかしさー。特に前半のギャグのテンポが良い。今回はお笑い芸人である板尾創路が構成として脚本に参加しているのだが、彼の力による所が大きいかもしれない。客の反応もかなり良かった。
地球防衛軍を結成するあたりからはいまいちテンポが鈍くなっていたと思う。あまりストーリー性が強くない方が面白いネタなのかもしれない。
出演者が皆とっても生き生きしていて、多分皆原作漫画が好きなんだろうなぁと思った。現場がすっごく楽しそう。『鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』(TVシリーズ最終回のネタバレあり)
原作(荒川弘)が売れ、TVアニメが大ヒットし、とうとう映画にもなった「鋼の錬金術師」通称ハガレン。劇場版オリジナルストーリーだが、TVシリーズ最終回の実質的な続編であり、TVシリーズの少なくとも後半の流れを把握していないと何がなにやら、という感じになる(原作漫画とは全く違う展開なのでご注意を)。
TVシリーズの最後では2つの世界で離れ離れになってしまったエルリック兄弟。その最終回から2年後、18歳となったエドワード(朴ろみ)は自分が生まれ育った世界を離れ、もう一つの平行世界、1923年のミュンヘン(つまり私達の現実世界という設定)で、弟のアルフォンスに似た青年・ハイデリヒ(小栗旬)の元に身を寄せていた。錬金術を失ったエドは科学の力で自分の世界に戻る方法を模索するが、道は見えず希望を失いつつあった。一方、錬金術世界(従来のハガレンの世界)で兄と旅した記憶を失ったまま、錬金術師として成長した13歳のアルフォンス(釘宮理恵)は、兄が生きていると信じて捜し続けていた。そしてミュンヘンでは理想郷シャンバラへの路を開こうとする謎の団体・トゥーレ協会が動き出す。
生身のエドとアルの2ショットとかエドのボニーテールとか成長したアルはエドそっくりとか、大きいお友達が一度は妄想したであろうネタがてんこもりで、これはもしやオフィシャル同人誌状態か?!となかばハラハラなかばウキウキ(えっ。)しながら見に行ったのだが、あれ?あんまり萌えない・・・何か普通に面白くて萌えを忘れた。TVアニメの劇場版としてはまずまずの出来だと思う。キャラクターがきちんと動くので見ていて満足。特にラースとグラトニーの戦闘シーンには「動く絵」としてのアニメーションの面白さがあった(主人公のシーンじゃないのがちょっと悲しいが)。
ただ、全編爽快な気持ちで見られたかというと、そうでもない。1923年と言う時代背景が、全体に暗い影を落としている。私はこの頃の時代背景の映画や小説を見たり読んだりすると、いつも鬱々とした気分になる。社会がある方向に流れようとしている時の熱気というのは、アニメとは言えどうも気持ち悪い。しかもこの場合、これからナチスが台頭するであろう時代なので、よけいに鬱々としてくる。ちなみに、後にナチス副親衛隊長となるルドルフ・ヘス等の実在の人物も登場する。トゥーレ協会も、ナチスの前身となる実在の組織。時代設定は、うまいこと使ったなという感がある。
錬金術世界とミュンヘンの街並みは、違う世界でありながら似ていて、うっかりするとどちらがどちらか区別がつかないくらいだ。「話がわかりにくくなる」いう感想も目にしたが、これはかなり意識的にアルは自分が「門」を開いたが為に破壊された街を前に呆然とするが、その崩壊した街並みは、第二次世界大戦で破壊されるであろうベルリンを彷彿とさせ、このあたりにもちょっと暗い気持ちにさせられたのだった。
所で、ラストでのアルの選択だが、ウィンリィも立つ瀬がないよね・・・。世界=兄さんかよ・・・うわぁ・・・と、この物語の真髄を見た思いでやや遠い目をしてしまった。『亡国のイージス』
ヨンファさんが言うのよ「見ろ、日本人。これが戦争だ」って。・・・いやいやー、これは分かりやすく犯罪だと思うなー。
東京湾沖で訓練中の海上自衛隊イージス艦「いそかぜ」が某国のテロリスト・ヨンファ(中井貴一)率いるグループに占拠された。イージス艦の副官・宮津(寺尾聰)とその部下達はヨンファの協力者だったのだ。ヨンファは強力な化学兵器「グソー」で東京を攻撃すると脅迫し、防衛庁情報局の渥美(佐藤浩市)らは対策に乗り出す。一方、艦からの退却を命じられた先任伍長の仙石(真田広之)は一人艦に残り、ヨンファ側に拘束された情報局員・如月(勝地涼)の救出に乗り出す。
大長編である原作小説(福井敏晴)を2時間強に纏めているので、私は原作小説未読なのだがそれでも、相当にエピソードをカットしているのだろうということが分かる。原作を読んでいないと意味不明な部分(ヨンファが野球場に行く場面とか)もあった。特に女性テロリストの存在は、映画の中ではおまけにすらなっていない。これではわざわざ出演した女優がかわいそうというものだ。しかし、全体的には原作を読んでいなくても分かるようになっていたと思う。
「空前のスケール」「アクション大作」「自衛隊の存在意義を問う」「日本人のあり方とは」と大々的に宣伝されていた本作だが、これらの宣伝文句は的を得ていない。派手なアクション映画だと思って見るとがっかりするだろうし、イデオロギー色はむしろ薄い(申し訳程度に触れられているが)。私の勝手な印象だが、阪本順次監督の関心が多分そういう所にはないんじゃないかと思う。宮津とその部下達がなぜヨンファに同調したのか説明不足なのでちょっとマヌケな人に見えてしまうし、そもそも映画後半になるとヨンファが何をしたかったのかすら曖昧になっていく。あれでは単に東京を攻撃してみたかっただけみたいではないか。そしてアクションに関しても、見せる為のアクションというよりは、「自衛官ならこのくらいは出来るんじゃないの」的アクションという印象が強く至って地味。しかし、それが阪本監督の世界なのだと思う。
監督は、ヨンファや宮津のように理想や使命感に燃えるキャラクターや、もしかすると渥美のような国を憂う(あんまり憂いてるみたいに見えないんだけど)キャラクターにも思い入れがないというか、あまり共感するところがないのかもしれない。この監督が愛しているのは、今までの作品を見ても、地を這いながらも生き延びていくキャラクターであるように思う。だから主役だということを差し引いても、仙石が一番キャラクターとして生きているのではないかなと。ヨンファの理想や思想を「そんなことどうでもいい!」と無効化してしまう仙石の叫びが、監督の本音に一番近いんじゃないかと思った。
ちなみにこの映画をゲーム化するとしたら、アクションでもシューティングでもなく、いかに敵を落とすかという説教ゲームにできそう。理論ではなく熱さで勝負。熱い言葉をかけ続けて敵キャラからの信頼度を上げるとイベント発生(絵筆をもらえたり、身を呈して庇ってもらえたり、後々絵を送ってもらえたりするわけね)。ヨンファ以外は絶対説得できる設定になっているので、いかに大勢を短時間で落とすかで勝負が決まるとか。『妖怪大戦争』
こういう作品を堂々と作っちゃうカドカワさんて太っ腹。どんなに失敗してもめげない七転び八起き精神を見ました。
小学生のタダシ(神木隆之介)は両親が離婚した為、母親と母方の祖父と鳥取で暮らしている。東京からの転校生ということでクラスではいじめられっ子だ。そんなある日、タダシは夏祭で世界に平和をもたらすという「麒麟送子」に選ばれた。臆病なことをクラスメイトにからかわれ、見返してやろうと天狗山に登るが、なぜか妖怪が見えるようになってしまう。一方、人間を憎む魔神・加藤(豊川悦司)が復活し、各地の妖怪をさらって悪霊を作り出し、人間世界の破壊をもくろんでいた。
監督はなぜか三池崇。一応夏休み対応のファミリー映画という触れ込みなのに、三池が監督でいいのか!と思ったが、意外に普通の映画作りをしている。なんといってもタイトル「戦争」だし血沸き肉踊る大冒険映画か?!と思ってしまいそうだが、全くそういうことはない。とっても温くて緩ーく、後半のぐたぐた加減は『ゼブラーマン』を彷彿とさせる。何も考えないで映画を見られるっていいなーと久しぶりに思った。そもそも本気で盛り上げようと思ったら、ああいうオチにはしないよな。看板に偽り有なので、タイトルを変更するべきですよこれは。
特殊メイクの妖怪やら、マスコット的にかわいい妖怪スネコスリ(あまりにも見た目ヌイグルミでちょっと興ざめなんだけど)やらが出てきて、一見子供向けなのだが、これはやっぱり大人向けの映画だったんじゃないかと思う。麒麟送子としてタダシが戦う時も、タダシが強くなったんじゃなくて剣が勝手に戦ってくれるというあたり、妙に冷めている。しかも彼の奮闘が全く役に立っていないというオチ。加藤ならずともなんだそりゃー!と叫びたくなるに違いない。
そしてもう一つ大人の視点、というか大人の事情が窺われるのが、楽屋ネタ的な出演者の皆様。あまり違和感のない(というかこなれすぎていて今後の進展が心配になる)宮部みゆきはともかく、あっ素人だ!でも誰だっけ?的な大沢在昌や、どんな妖怪だよ!と突っ込みたくなる忌野清志郎。とどめの水木しげる御大など、ファンには嬉しいのかも知れんが部外者には何のことやらわかりませんよ、的な出演が多すぎたと思う。こういう内輪遊びは行き過ぎると下品なので、本気で映画をヒットさせたいならやらない方がいいと思うんだけどなー。
ちなみに何故出てくれたのかわからない豊川悦司だが、魔神加藤にはまりすぎていた。これを演ったらもう恐いものないと思う。色物化しないように気をつけて下さい。そして私的ベストアクトはアギ役の栗山千明。に、似合う!露出度は低いけど足とか胸元とか超セクシーでかっこいい!他にも川の妖怪「川姫」という娘さんが出てくるのだが、2人ともそれとなく色っぽいショットが多かった。男子は注目。そして何より神木くんの着替えシーンはサービスショットなのかと問いたい。何かヤバいものを感じます。小学生男子なのになんだその妙な色気は!アメリカだったら絶対倫理的に問題になってるよ!日本人一億総ロリコンとか言われても反論できん。『ターネーション』
他人のアルバムやホームビデオを見るのは、正直言ってあんまりおもしろくない。こういうのは、そこに関った当人だからこそ色々思い出しておもしろいんであって、部外者にはよくわからないのではないだろうか。この映画はまさにそういったもので、監督のプライヴェートなものでもある。それが「作品」としてかろうじて成立しているのは、編集と音楽の使い方の上手さによるものだろう。11歳の頃から撮り溜めた自分や家族、友人らの映像を、監督であるジョナサン・カウエットがiMovieで編集したものだ。制作費は何と218ドル。家庭用パソコンの付属ソフトで映画が作れてしまうという、制作方法にも注目された作品。
カウエットは撮影終了当時31歳。よくもまあ、子供の頃からの映像をちゃんと保存しておいたものだ思う。映像で記録することに関しては、ちょっと偏執的な執着のある人なんじゃないかと思った。映画は彼の母親の生い立ちから始まる。美人だった母親・レニーはモデルとしても活躍したが、屋根から落ちるという事故に遭ったことがきっかけで、精神を病むようになる。ジョナサンが生まれたものの、彼は里親に引き取られ、虐待を受けた後、祖父母に引き取られた。そして成人した後、レニーと再会する。
彼の少年時代や、ゲイであることを自覚した青年時代に関しては妙に歯切れが悪い。映像にサンプリングを重ね、視覚的な面白さのみを演出し、単なるエピソード化してしまっている。自分の子供時代、青年時代というのは大体において恥ずかしくて、人には知られたくない。しかし、こういう映画を作る以上、そのあたりの照れは捨ててほしかった。しかし後半、母親と向き合うようになってから、技巧的な映像はぐっと減る。やっと腹をくくったのかなという感じだ。祖父母に暴行されたという母親の妄想は本当だったのか祖父を問い詰めたり、母親に昔のことを執拗に尋ねたりと、今まで関らないようにしていたことと向き合おうとしているかのようだ。家族の秘密は知らない方がいいこともあるが、この人は知らずにはいられなくなったのだろうなと。
一番あっぱれなのは、撮影でもプレイベートでも延々と付き合った、監督のパートナーだと思う。恋人の母親(しかも精神を病んだ)と同居するっていうのは相当ヘビーだと思う。もしパートナーがいなかったら、監督はこの映画の製作や母親との生活には耐え切れなかったんじゃないかと思う。『コーチ・カーター』
「バスケが、したいです・・・!」。あっ、ここ「スラムダンク」だったら三井が泣きながら呟く所だ!と思った観客は多いに違いない。だって劇場の売店で井上雄彦のイラスト集売ってたもん!関連商品にもほどがあるわい!
リッチモンド高校の卒業生で、今はスポーツ用品店店主のカーター(サミュエル・L・ジャクソン)は、母校のバスケ部コーチを依頼される。迷った末にオファーを受けたカーターだが、部員のやる気は低く、授業にもまともに出ていない。カーターはバスケ部を建て直す為、まず彼らの生活改善を図り、3つの約束をさせる。
1999年に、カリフォルニア州リッチモンド高校で実際にあった話を原作にしている。カーターが部員たちに科した約束とは、「一定以上の成績を維持する」「授業には全て出席する」「試合の時は上着とネクタイを着用する」ということ。彼はこのルールを徹底的に守り、部員の成績が悪いままだったので体育館の使用を禁止、試合もキャンセルしてしまう。そして練習は目茶目茶ハード。映画だから誇張してるのかなと思ったら、実際にあのくらいはやるらしい。恐れ入ります。
カーターが要求しているのは、部員はまず高校生であれということだ。彼らの殆どは家庭が貧しく、将来進学できる見込も薄い。この環境から抜け出すには、勉強して大学に進むしかないのだ。アメリカの小説を読んでいると、時々、高校生の時は花形選手だったが、その後は転落の一歩、という登場人物が出てくるのだが、正にその通りということか。
弱小チームの起死回生というと、アメリカ版「スクールウォーズ」か?と思う所だが、結構シビアな話でもある。努力による勝利や仲間との友情等が当然盛り込まれていて、スポ根の王道は踏まえている。しかし、殆ど人間はスポーツで飯は喰えないから、この環境から抜け出したかったら進学しろという結構シビアな話でもある。そして貧しい環境に育った彼らには、スポーツで奨学金を得て推薦で大学に入る他、進学する方法がない。
部員達の両親がカーターに猛反発するように、スポーツは彼らの生きがいになる。しかし、それで輝けるのは人生の中のほんの一瞬だ。その後には長い人生が待っている。カーターは人一倍バスケを愛している。愛しているからこそ、バスケに関った部員達の「その後」の人生に何らかの希望を持たせようと考えたのだろう。実際に、実在のカーターコーチの教え子達の中には、奨学金を得て大学に進学し、活躍した選手もいるそうだ(エンドロールで、各選手のその後が紹介される)。こういう考え方が異端視されるということは、アメリカはやっぱりスポーツ至上主義国ってことか。いやー、アメリカに生まれなくて良かったです、本当に(私の体育の成績は惨憺たるものだった)。『×××Holick 真夏ノ夜ノ夢』
人気漫画家集団CLAMPがヤングマガジンに連載している同タイトル漫画がアニメーション化された。制作は『イノセンス』を手がけたプロダクションI.G、監督は劇場版「クレヨンしんちゃん」の水島努。フリーになってからは、本作が初の劇場作品となる。
普通の人間には見えない異形のものが見えてしまう高校生・四月一日君尋(ワタヌキ・キミヒロ)(声:福山潤)は、どんな願いでも叶えるという不思議な店の店主・壱原侑子(大原さやか)と会い、霊感体質を変えてもらう対価として、彼女の店で働くことになる。ある日、侑子のもとにオークションへの招待状が届く。古い洋館に赴いた侑子、四月一日と友人の百目鬼静(ドウメキ・シズカ)(声:中井和哉)。館には他にも各ジャンルの熱心なコレクター達が、コレクションを完璧なものにしようと訪れていた。しかし館の主は姿を現さず、彼らは1人また1人と姿を消していく・・・
不思議の国の少年アリス(女王様付き)か、はたまたギャグ入り「イノセンス」か。この位の規模の作品としては、背景美術はかなり頑張っている。和洋中が入り混じった館の内部も、変な建物好きな私には楽しかった。キャラクターもしっかり動いている。最近のCLAMPのキャラクターデザインは、手足が異様に細長く引き伸ばされていて、全体像を見るとかなりバランスが変なのだが、その変さを逆手にとって、細長いフォルムならではの面白い動きを作った作画監督の力は大きいと思う。キャラクターの動きも背景も、じーっと見てしまう魅力があった。ほどほどに安い感じ(誉めてるのです)も見る側に負担を与えなくてよかったかもしれない。
奇妙な館に閉じ込められてしまう、というわりとありがちな設定ではあるのだが、幻想的かつキッチュな雰囲気を上手く作ったなという感じがする。お話もオチをきちんと予定調和に落としていて、すっきり。ただ、併映の「ツバサクロニクル」とリンクするという触込みで、無理矢理接点を作っていたのはいただけない。無理したせいで、その部分だけ収まりが悪くなってしまった。この程度なら接点なんて作らないで、潔くピンで上映してほしい。『ツバサ・クロニクル 鳥カゴの国の姫君』
人気漫画家集団CLAMPが週刊少年マガジンに連載している(すまん。ここまでのくだり↑と同じだわ)「ツバサ」。「ツバサ・クロニクル」としてTVアニメ化され、このたび劇場版として登場だ。サクラ姫(牧野由衣)の失われた記憶を取り戻す為、小狼(シャオラン)(声:入野自由)、黒鋼(稲田徹)、ファイ(浪川大輔)は時空を越え、彼女の記憶のかけらである羽を捜している。今回彼らが訪れたのは、人々が鳥と共に暮らす美しい国。しかし国王が圧制を振るい、不穏な状態だった。小狼とサクラは王の親衛隊と間違われ、少年コルリに攻撃される。彼らは国王から、この国の姫である知世を守っていた。一方、黒鋼とファイは不思議な力を持つ国王に捕らえられてしまう。更に知世もさらわれてしまった。小狼とサクラは知世を助けに城へ向かう。
なかなか出来のよかった『Holick』に比べると、こちらは残念ながら・・・と言わざるを得ない。TVアニメの拡張版と考えれば、作画はまあ普通だと思う。が、お話が大味すぎる。そもそも国王は何で国を闇に閉ざしたいのか(だって全然メリットなさそうなのに)、何故知世が「鍵」なのか大して説明されないので、話の展開が唐突に感じられる。サブキャラクターのコルリも親衛隊長も、何のために出てきたのかわからない。
30分程度という時間の制約もあったのだろうが、だったら時間を拡大してピンで上映した方がよかったのでは(でも採算とれなさそうだもんなぁ・・・)。TVアニメの劇場版にありがちなショボさが出てしまって残念。同時上映である『Holick』とリンクしているというのが、『ツバサ』側から『Holick』へのリンクはあまり無理がなかった。元々侑子は『ツバサ』に次元の魔女として登場しているもんね。
そもそも、(原作読んだ方でないとお分かりでないでしょうが)知世を助けるのは黒鋼の役目のはずでは。キャラクターの基本的な設定は守ってほしい。