5月

『真夜中の弥次さん喜多さん』
 ♪ただふーたーりぃだけーでー 生きてーいーたーいーのぉー♪もしくは♪ラーブ・ラーブ・ラーブ♪
 ヤク中の恋人・喜多さん(中村七之助)を立ち直らせる為、弥次さん(長瀬智也)は2人でお伊勢参りに出発する。しかし喜多さんの幻覚症状は悪化する一方で、旅は波乱気味なのだった・・・。IWGPや木更津キャッツアイでTVドラマでは大人気だった、脚本家クドカンこと工藤官九郎の初監督作品となる。な、なんてばかばかしく気合の入ったCGの使い方なんだ!
  さて、クドカン映画ということで、「クドカン組」的役者が総出演している。テンションの高い奉行役の阿部サダヲを始め、セリフが全くないにも関らず強烈なインパクトを残す松尾スズキや、出番はちょっとなのに画面に馴染みすぎている古田新太、そんな役かよ!と光速でつっこみたくなる荒川良々等、おなじみの面々が勢揃い。更に大きい役から小さい役まで、ゲスト的な出演者もたくさん。私が見に行った時には、周囲が若い人ばっかりだったからか、おぎやはぎが一番ウケていた。個人的に嬉しかったのはARATA。頭ちっちぇ〜。
 工藤官九郎は、一見自分の身内ばかりを起用しているように見えるが、実際は相当な確信を持って配役していると思う。今作も配役の妙で見せてくれた。主演の長瀬はよく泣く熱血バカの役が大変似合う。相方の七之助(よくここまでやってくれたと思う・・・まさかセーラー服着るとは)は素でヤバい人っぽい。どう見てもヤバい薬やってそう。そして無駄に色気を振りまいている。他には小池栄子が本気で恐かった。「お米をとぎます」ってセリフがこんなに恐くなるとは・・・。
 劇場版「木更津キャッツアイ」では、冗長すぎるところが気になり、クドカンの本領はやはりドラマにあると再認識させられた。しかし今作では2時間強とちょっと長めとはいえ、やじきたが通る関所ごとに「〜の宿」として章だてることで、何とかメリハリはついている。連ドラ感覚で見ればまあ問題ないかと。
 とりあえず映画を見て何がわかるかというと、弥次さんは喜多さんのことがとにかく大好きであると。ラブラブだと。実はラブストーリー(しかも不倫)ど真ん中だったんじゃないかと。いやー、愛だね愛・・・と空ろな瞳で呟きたくなる。それはさておき、喜多さんは「おいら、リヤル(リアル)がとんとわからねぇ・・・)」と呟く。しかし弥次さんにとっては喜多さんと一緒にいることこそがリアル。その意味ではかみあっているいるのかいないのか微妙なんだけど・・・
 ちなみに弥次さん喜多さんはゲイの恋人同士なんで、当然絡みのシーンもあるのだが(そして予想以上にしっかり絡んでいたのだが)、そのシーンを見ている時に若い女子客の間から「気持ち悪―い」という声がわらわらと聞こえた。あっ世間ではそういう認識だったのね忘れてたーいっけなーい、と逆に新鮮な気持ちに。所で、髷を噛むのってプレイとして斬新ですね。

『我が家の犬は世界一』
 北京に暮らすラオ一家。夜勤労働者であるラオ(グォ・ヨウ)は、無愛想な妻ユイラン(ディン・ジャーリー)や反抗的な息子リアン(リー・ビン)よりも愛犬のカーラを可愛がっている。しかし中国では犬を飼うには許可証が必要で、登録には5000元という大金がかかる。裕福でないラオにはとても払えず、無登録のままこっそりと飼っていたのだ。しかしある時、散歩中のカーラが警察に見つかり、回収されてしまう。当日の午後4時にはカーラが収容所に送られてしまう。ラオはタイムリミットまでにカーラを取り戻すことが出来るのか?!
 妻も子供も自分には無関心で、帰宅すると愛犬だけが喜んで迎えてくれる・・・。これと全く同じ現象が友人宅で起きている。会社から帰ってから、犬に向かって「わかってくれるのは●●だけだよ〜(涙)」と呟くのだ。犬の愛情は無償(多分)だからね・・・。多分日本中のご家庭で同じ現象が起きているに違いない。世の中のお父さんはかくも冷遇されているものらしい。同じ境遇のお父さんが見たら、身に染みて思わず涙してしまうかもしれない。
 そんなわけで、見ていてとってもしょっぱい気持ちになる映画だった。ラオは冴えないし強くもない、ごく普通の男だ。長いものには巻かれがちな、少々情けない所もある。そんなラオもカーラを取り戻す為に奔走するのだが、そのやりかたも全然かっこよくはなく、警官に賄賂を贈ろうとして却って怒らせてしまったり、人のつてを頼ってもとんちんかんな対応をされてしまったり。右往左往っぷりに同情してしまうくらい。息子のことを理解できなかったり妻に対する不満が溜まっていたりするのに、本人を前にしては何も言えず、公衆トイレで壁にむかって文句をぶちまける姿もこっけいかつ哀しい。
 ラウにかっこいい所は一つもない。自力では何も解決できなかった。カーラのことだけではなく、妻に対しても息子に対してもいいところを見せられないのだ。ある事件で留置所に入れられてしまった息子に対して、怒鳴りつける以外に何もできず、反対に息子から自分のことを何も分かっていないとなじられる。妻との間に距離があり、家族それぞれがお互いのことをよく分かっていない、すれ違い状態だ。しかしこういう状態は多くの家庭で見られる、ごく普通のことだと思う。だからこそ、ラウの不満や息子や妻のいらだちに「あるある!」と共感できる。
あ、愛犬映画ではないですよ念のため。あえていうならお父さん映画。

『さよなら、さよならハリウッド』
  オスカー賞を2度受賞したことがある映画監督のヴァル(ウッディ・アレン)は、今ではすっかり落ち目。CM撮影を請け負って細々と暮らしているものの、偏屈な性格から何度もクビになっていた。そんなおり、ハリウッドの大手スタジオからオファーが舞い込む。ヴァルの元妻である映画プロデューサーのエリー(ティア・レオーニ)がぜひにと推薦し、会社を説得してくれたのだ。しかしその会社の社長はエリーの今の彼氏。エリーに未練たらたらのヴァルは、元妻を寝取った男が経営する会社の映画など!とごねるが、返り咲くにはこれが最後のチャンスと諦めてオファーを受ける。しかしストレスのあまり、クランクインを目の前にして、ヴァルは心因性の失明状態に陥ってしまう。
 ウッディ・アレンが演じる男はいつも同じようなタイプだ。自意識過剰でうじうじと思い悩み、自己弁護ばかりする。でも問題を解決する行動力はない。身近にいたら間違いなくイライラするタイプだ。しかし、アレンが演じるとどこかかわいげがあり憎めない男になる。これは人徳というか何と言うか、ウッディ・アレンじゃないと出来ない技だと思う。うーん、得な人だ。
 今作のヴァルも正にそういう男で、延々と愚痴っている。元妻への恨みつらみを延々と(仕事の話の中に織り交ぜながら)訴え、体調不良を訴え(元妻に「また?」とバカにされる)と、黙っている暇がないくらいだ。このヴァルという映画監督は、ウッディ・アレンのセルフパロディなのだろう(実際のアレンはここまで情けない人ではなさそうだが、もっと性格は悪そう・・・)。プロデューサーとモメたり、若いガールフレンドを自分の映画に出演させちゃったりと、それは自虐ネタなのかな・・・!と思ってしまう。しかもヴァルは映画監督としてはスランプ中だ。この作品の中では、映画を撮る苦しみがすべてギャグになっているのだが、実際の映画監督の皆様にはヴァルの苦しみが切々と迫ってきて、素直に笑えないかもしれないなぁとも思った。映画の撮影現場関係者の感想を聞いてみたくなる。
 ウッディ・アレンが主人公を演じるコメディで舞台はニューヨークで、というわけで新鮮味はさほどない。「目が見えない男が映画を撮ったらどうなるか」というシュチエーションコメディも、その笑いのセンスはコントに近いような、予測の範囲内のものだった。苦みはあるが基本はベタなものだ。しかしその分、安心感がある。特に今作では、ヴァルとケンカ別れした息子との仲が微妙に修繕されたりという、アレンらしからぬ優しい要素も入っていて、なかなか心温まる。  しかし、このラストは結構シニカルだ。この映画の原題は「ハリウッドエンディング」なのだが、ハリウッド映画のような都合の良い終わり方をこう言うのだそうだ。この映画も、ヴァルはハリウッドの娯楽大作をバカにしているにもかかわらず、正に「ハリウッドエンディング」。しかしなおかつ「さよなら、さよならハリウッド」なオチであるという二重の皮肉。アレンのハリウッドに対する愛憎が窺われる。更にかの国(アメリカじゃないですよ)ではそんな映画がウケそうというのも、妙に説得力があるので笑ってしまう。

  『阿修羅城の瞳』
 かつて鬼退治集団「鬼御門」の副長だった病葉出門(市川染五郎)は、今は江戸随一の人気役者として活躍していた。ある日出門は、盗賊つばき(宮沢りえ)と出会い、お互いに強い由縁を感じる。つばきは昔の記憶を無くしており、肩に奇妙な痣があった。一方、鬼を率いる尼僧・美惨は、つばきの肩の痣は阿修羅王の転生である証拠と気付き、阿修羅の力に魅入られ元鬼御門でありながら鬼に荷担した邪空(渡辺篤郎)をそそのかして、出門とつばきの前に送りこむ。
 恋をすると鬼になる女と鬼殺しの男との恋愛という、いかにも盛り上がりそうな物語だったが、物語自体よりも、舞台セットや衣装に目がいった。人気劇団である劇団★新感線の同名舞台を、『陰陽師』シリーズの滝田洋二監督が映画化したものなのだが、元が舞台演劇なので、映画のセットもいかにも舞台っぽく、けれん味たっぷりな華やかなもの。特殊メイクやワイヤーアクションを駆使しており、かなり特撮っぽいというかマンガぽいというか、ともすると安っぽくなりそうだったので心配だったのだが、終始華やかな雰囲気を楽しめた。CGもそこそこ頑張っているなという感じで、(終盤の巨大な宮沢りえ以外は)なかなか良い。一応江戸時代ということにはなっているようだが、時代背景を考えずに、「なんちゃって江戸」に酔いたい。反対に、この「うそ臭い」世界に馴染めない人にはさっぱり楽しめない映画だと思う。
 市川染五郎は歌舞伎も演じて殺陣もこなしてという活躍ぶりだったのだが、アクションがとてもサマになっている。さすが歌舞伎役者というべきか、動きのキレが良くガタイも良い。衣装も艶やかでかっこよかった。しかし対する宮沢りえのアクションはどうもさえない。特に終盤の見せ場である染五郎との戦いのいシーンは、その殺陣の下手さに哀しくなってしまった。そしてこの2人、どちらも美形は美形なのだが、美しさのベクトルが違っていて、2ショットのシーンはどうも奇妙な気がしてならなかった。何か別のジャンルの人みたいなんだもん・・・
今回敵役の渡部篤郎は相変わらず他の作品と同じ演技で、しかも相変わらず噛ませ犬役なのが、哀しいを通り越してすがすがしかった。最近こんなんばっかりだなー。
 ちなみに音楽は近年ぶいぶい言わせている菅野よう子。例によって国籍不明な音楽で盛り上げている。そして主題歌はなぜかスティング。これは正直ミスマッチだったと思う。

『キングダム・オブ・ヘブン』
 12世紀のフランス。自殺した妻と子供の死に打ちひしがれていた鍛冶屋のバリアン(オーランド・ブルーム)の前に、彼の実父だという騎士ゴッドフリー(リーアム・ニーソン)が現れる。ゴッドフリーは十字軍の騎士としてエルサレムに向かう途中だった。同行するのを最初は拒んだバリアンだったが、死んだ妻を愚弄した司祭をはずみで殺してしまい、住んでいた村から逃げざるを得なくなる。ゴッドフリーの遺志を継ぎエルサレムに赴いたバリアンは、キリスト教者であるエルサレム王(エドワード・ノートン)に仕えることになる。エルサレムではエルサレム王と回教徒の指導者サラディン(ハッサン・マスード)によってつかの間の平和が保たれていた。しかし狂信者や権力を狙う野心家によって危機が訪れる。
 今現在、戦争映画を作るのはかくも難しい。特に大規模な映画で色々な人が見ることを想定している映画は、あちらにもこちらにも「政治的配慮」をしなくてはならず、あちらを立てればこちらが立たずということになる。そのためか、今一つ歯切れが悪い。これまで十字軍映画では悪者として描かれることが多かったサラディンを切れ者の賢王として描いたり、十字軍の中にも俗悪・非道な騎士がいたりする所は画期的なのかもしれないが。
 ストーリーの流れとしても、バリアンが何故英雄と呼ばれるようになったのか(カラクの戦いで武勲を立てて、といわれていたが、とても活躍したようには見えない)、何故イスラエルの為に尽力することを決意してのかという転機がはっきりせず、話が無理矢理進んでいるように見える。最後のエルサレムを守る戦いも、最後にそういう決断をするなら最初から街を捨てればいいのに・・・と思ってしまう。バリアンと愛し合うことになるイスラエルの王女シビラ(エヴァ・グリーン)が何を考えているのかさっぱりわからないのも難点。お飾りで出すくらいなら最初から出さなくていい。
 十字軍の英雄となったバリアンと、回教徒の指導者サラディンを、どちらもそれほど宗教的な人物としては描いていない所が面白い。信仰厚い人というよりも、倫理的かつ実務家という側面が強い。サラディンは「戦争に負けるのは我々の罪深さのせいではなく戦争の準備が足りないからだ」と言って部下の反感をかう。バリアンは戦闘で出た死体の山を疫病を防ぐ為火葬にしようとする。司教に反対される(キリスト教では最後の審判の後に死者が復活するとされている為、遺体は形をとどめる為に土葬にする)と、「(疫病を防ぐ為なら)神も許してくれるはずだ。許さぬような神なら信じる必要はない」と言い放つ。そもそもバリアンは巻き込まれ型ヒーローで、剣術よりは井戸掘りや測量の方が得意。戦い方も、測量の技術を活かしたものだ。こういう実際的な人達が、何故エルサレムを巡って戦わなければならないのかが最大の謎なのだが・・・。
 オーランド・ブルームは主役をやるにはまだちょっと線が細いかもしれない。が、中世ぽいルックス(今回もコスプレが似合う・・・)や潔癖そうな所は合っている。驚いたのは、エドワード・ノートンが出ていたこと。素顔が全く出ない役だったのだが、ノーブルさが漂って適役だったと思う。

『バタフライ・エフェクト』
 子供の頃から時々記憶喪失になることがあったエヴァン(アシュトン・カッチャー)は、治療の為に日記をつけることにした。大学生になって記憶をなくすことも滅多になくなったが、昔の日記を見たことがきっかけで、過去に戻る能力を持っていることに気付く。その能力を使って、家庭運に恵まれず苦労していた幼馴染のケイリー(エイミー・スマート)を助けようと、時間を遡るのだが・・・。
 「ドラえもん」的な時間巻き戻し、歴史改竄話。エヴァンはケイリーを幸せにする為、何度も時間を遡って不幸の要因となりそうな事柄を取り除いていくのだが、こちらを立てるとあちらが立たずという感じで、何度やっても上手くいかない。子供時代のいたずらで悲惨な事故を起こしてしまったことや、ケイリーが父親から虐待を受けていたらしいこと、ケイリーの兄の乱暴な気質など、エヴァンは一つ一つ変えていくのだが、必ずどこかにしわ寄せがくるのだ。エヴァンがこれをどうクリアしていくのかが面白さの一つだったと思う。
 エヴァンの子供時代のエピソードがちょっと長すぎるんじゃないかと思っていたのだが、ここで仕掛けた伏線を、後半で一つ一つ回収していく。無駄がなく、なかなか経済的だ(一箇所だけ回収されていない伏線と思われる部分があったのだが、制作途中でストーリーが変えられたのかもしれない)。伏線の敷き方が「ここ大事ですよー」「ここ後で出ますよー」と言う風にわかりやすく、後半はどんどん話を進めていくので、かちかちとパーツが組み合わさっていくような満足感があった。細かい所までチェックすると穴があるのだろうが、次々と話が展開するからか、見ている間はそれが気にならない。A級ではないが、よくできたB級娯楽作というような作品で、意外と満足度は高かった。
 日本ではあまり知名度がないようだが、主演のアシュトン・カッチャーは、アメリカのアイドルだそうだ。本作で脱・アイドルを図ったのだとか。ルックスは間違いなく良いので、この作品をきっかけに日本でもブレイクするかもしれない。アイドルという先入観がない分、すんなりと二枚目役者として定着するかも。
 冷静に考えると、エヴァンの努力は明後日の方向を向いた見当違いなものだ。わざわざ時間を遡って人生をやり直すなどというまどろっこしいことをせず、目の前に現れている、今現在の彼女の為に直接何かしてあげればいいのではないかと思ったのだが、それを言っちゃうとこの映画、成立しないからなー(苦笑)。自分の彼女には、まっさら傷なしの状態でいてほしいものなのか?傷だらけの女は大学生には難易度が高すぎるのか?そう思うと若さが暴走しているみたいで笑える。予告編では究極の切ないハッピーエンド、みたいな宣伝をしていたが、別に切なくはないですよ。

『タナカヒロシのすべて』
 32歳独身(彼女なし)の男・タナカヒロシ(鳥肌実)はかつら工場に勤めている。同僚や上司との付き合いは極めて悪く、プライベートの趣味もない。実家住まいで家族は両親とネコ。変わり映えのない毎日を送るヒロシだが、父の急死を皮切りに、母も倒れるわサギに遭うわ会社は倒産するは、とうとうネコのミヤコにまで異変が!果たしてタナカヒロシはこれを乗り切ることが出来るのか。
 乗り切るといっても、タナカヒロシは自主的にこれらを乗り切るのではない。彼は自分からはアクションを起こさず、降りかかってきた災難も淡々と(困った顔をしつつ)受け流していく。そのせいで相手の言うがままにサギに遭っちゃったり、見合いを断れず当日逃げ出してしまったりもするのだが・・・。
 映像面でも、タナカヒロシが何かを決断する場面は描かれず、画面が暗転すると、もう何かが起こった後になっている。例えば、タナカヒロシの元に電話がかかってきて、次のシーンではもう葬式の最中というように。タナカヒロシが事を処理する過程が描かれないので、よけい自分からは動かない人という印象が強くなる。しかし、徐々にタナカヒロシが何かやってみる場面が増えてくる。父が倒れた時にも母が倒れた時にも淡々としていたタナカヒロシが、ネコのミヤコの異変に気付いて疾走する。更に、サギ師に押し切られていたタナカヒロシが、ミヤコの為に無理矢理動物病院に泊り込み、「しばらくは大丈夫でしょう」と告げた獣医に「しばらくって何だ!」と詰め寄るのだ。そして最後の唐突な行動。とうとう自分から一歩を踏み出した彼の姿には、ちょっとだけ胸が温まる。
 平凡なタナカヒロシを演じるのが、風貌もパフォーマンスも異形な芸人・鳥肌実だというのがおかしい。普通の人の役のはずなのに普通に見えない、でもやっていることは普通という妙な感じだ。また、女優陣が皆良い。母親役の加賀まりこは、浅草育ちの気丈なお母さんにハマっていた。また、ヒロシに片思いをしているらしい弁当屋役のユンソナがとてもキュート。そして小島聖のナース姿は必見。

『クローサー』
 新聞記者(といっても担当は死亡欄)のダン(ジュード・ロウ)は、車にひかれそうになったストリッパーのアリス(ナタリー・ポートマン)を助け、恋に落ちる。やがて小説家になったダンは、ポートレートの撮影がきっかけで、写真家のアンナ(ジュリア・ロバーツ)と知合い、お互いにひかれあう。そのアンナはひょんなことがきっかけで医者のラリー(クライブ・オーウェン)と付き合い始める。アンナの個展で4人が揃ったことを契機に、彼らの関係は錯綜し始める・・・。
 フライヤーによれば「ロマンチックで甘美な香を醸し出す」映画だそうだが、どうしてどうして。むしろ苦いよ!いっそしょっぱいよ!パートナーを愛しながらも、嫉妬、嘘、猜疑心にさいなまれる4人の姿は、赤裸々なセリフと相俟って相当見苦しい。美男美女(クライブ・オーウェンは微妙だけど)が演じているから見られるのであって、これが不細工な人間同士だったらちょっと目も当てられない。一歩間違うと昼メロのようにドロドロしそうな話だが、意外にもドライな味わいなのは、脚本と演出のキレの良さ、省略の上手さ故だと思う。
 4人はかっこ悪い所を丸出しにしていくのだが、特に男性2人は、彼女が浮気相手とどんなセックスをしたかまでを根掘り葉掘り聞き出そうとして、見苦しいことこの上ない。そんなこと訊いてどうなるものでもないと思うのだが。少なくとも私は知りたいと思わないが、知りたくなるのが人情なのか。
 ダンは恋愛に対しては情熱的でロマンチスト、よく言えば少年らしさを持った、悪く言えば子供っぽい。「真実を知りたい」というが、その真実とやらに耐えられるほど寛容ではない。知りたがりすぎて失敗してしまうのだ。対してラリーはプライドと劣等感が入りまじった男。クラブでのアリスに対する態度は、かなり下種なものだ。相手より優位に立とうとして肝心なことを見落としてしまうのが皮肉(オヤジのお約束として、金を払ってストリップを見たにも関わらずストリッパーに対して「こんな破廉恥なことを」と貶したりする。勘弁してくれ)。そしてアンナは、何が欲しいのか多分自分でもよくわかっていない。とにもかくにも皆大人気なさすぎる。4人の中では若いアリスだけが、やりたいこと、欲しいものが首尾一貫している。最後に彼女が見せる毅然とした姿は、この映画の中で唯一清清しい。ちなみに彼女にはある秘密があるのでお見逃しなく。
 主題歌がとても良い。耳から離れなくてつい口ずさんでしまう。サントラには収録されないらしいのでご注意を。

『ミリオン・ダラー・ベイビー』
 クリント・イーストウッドの監督作品としては、前作『ミスティックリバー』が頂点であろうと思っていた。が、この映画はさらに凌駕している。まさか今になってこんな傑作を作ってしまうとは。しかも主演。イーストウッド御大、おそるべし。2004年アカデミー賞の主要4部門を受賞した。
  ボクシングの老トレーナーであるフランキー(クリント・イーストウッド)は、雑用係の元ボクサー・スクラップ(モーガン・フリーマン)と古いボクシングジム「ヒット・ビット」を経営していた。フランキーの信条は「自分を守れ」。しかし早くタイトルを取りたい若手ボクサーのウィリーは、ボクサーを大事にして中々タイトル戦を組まないフランキーに見切りを付けて他のジムに移籍し、タイトルをものにした。そんな時、女性ボクサーのマギー(ヒラリー・スワンク)が現われ、フランキーに教えを請う。フランキーは女性ボクサー等認められないと断るが、毎日トレーニングに励む彼女の姿に段々心を動かされていく。
 ボクシングジムが舞台であり、ボクサーとトレーナーが主人公ではあるが、スポーツ映画ではない。もちろんボクシングの試合のシーンはあるし、ボクサー役のヒラリー・スワンクがしっかりとトレーニングして撮影に臨んでいることも分かる。しかしこの物語の核心はボクシングという競技ではないのだ。イーストウッド監督自身、インタビューで「これはラブストーリーだ」とコメントしているが、正にその通りである。恋愛という意味ではなく、もっと広い意味での愛がこの映画の中核にある。フランキーとマギーは、トレーナーとボクサーという師弟関係・信頼関係を越えて、疑似親子的な関係を築いていく。フランキーは実の娘と長年音信不通であり、マギーは幼い頃に父親を亡くしている。お互いに欠けたものを埋め合い、タイトル戦での栄光という共通の高みを目指す。そしてこの2人だけではなく、フランキーとスクラップの腐れ縁的な友愛、スクラップが鼻つまみ者の若者に投げかける慈愛がある。また、愛の不在も描かれる。マギーは母と妹弟の為に賞金で家を買うが、母親は「生活保証を受けられなくなる」と却って迷惑そうだ。マギーに対する態度はあまりにもぞんざいで腹が立つ。
  この映画の核心は、その愛故に何をやるか、そして何をやらせるかという所だ。物語後半、マギーを悲劇が襲う。マギーはフランキーにあることを頼むのだが、この内容には賛否両論があることだろうと思う。私は彼女の選択とフランキーの選択に対しては異論はない(個々の判断で何が正しいと決めるつもりはない)のだが、彼女がフランキーに対してこれを頼んだということにはひっかかりを感じる。ここでポイントになるのは、フランキーもマギーもアイルランド系であるということだ。そしてアイルランドはカソリック国である。フランキーに対してこういうことを頼むのは、彼に一生重荷を背負わせること、彼の魂の一部を奪うことに他ならない。そこまで重大な頼みだからこそ、愛し信頼する相手に頼むのだろうが、愛する相手の人生を奪うことが出来るのか。考え込んでしまった。
 そして、その人にとって何が尊厳であるかということも考えさせられる。この映画に出てくる人達は、皆世間的には負け犬と呼ばれるだろう。しかし負け犬の人生にも輝かしい瞬間は訪れる。マギーの頼みに苦悩するフランキーに対して、スクラップは「彼女は十分輝いていた」と話す。そしてそのスクラップにも、僅かばかりではあるが輝かしい瞬間が訪れる。終始静謐でダークな雰囲気の中、この瞬間は救いになった。
 
 画面の陰影は深く、セリフも演出も饒舌ではなく淡々としている。物語に斬新さがあるわけでもない。結末に釈然としない人も大勢いるだろう。しかしそういう要素も含めて傑出していると思う。久しぶりに心底感動したと言える映画だった。

 『機動戦士Zガンダム 星を継ぐもの』
 あれっ、カミーユもクワトロ大尉もまともだよ!てゆうかカミーユって良い子だったんだ!
 TVシリーズ「機動戦士Zガンダム」を、新たに制作した映像を加えて、再編集した本作。3部作構成の1作目だ。ラストはTVシリーズとは違った形になるとのことだ。正直、見る前は「なんだよー再編集でお茶を濁す気かよー」と思っていたのだが、撤回します。富野監督の本気を感じた。
 まず思ったのは「TVシリーズ見といてよかった・・・」ということ。2時間弱に纏めてあるので、さすがに話をかいつまみすぎだ。特に最初の30分は、話の細部やら組織相関図やらがさっぱり。Zはこの映画が初見という方は、ぜひとも基本的なキャラクターと組織名、話の流れを予習したほうがいい。脇キャラが顔見せ程度にちょろちょろと出ていて勿体無いので、知っていた方が楽しめる。
 しかし、話がめちゃめちゃ省略されているにもかかわらず、キャラクターの性格や全体的な流れはTVシリーズよりもわかりやすくなっている。TVシリーズは、出るキャラ出るキャラもれなく言動が狂っていて(ごめんねZファンの皆様・・・でもみんなヒステリックだしすぐ殴るし殴られるしさー)おかしくてたまらなかったのだが、再編集によってちゃんとキャラクターの性格付けが首尾一貫したものになっている(・・・てことは、おかしなことになっているって自覚はあったんだ富野監督・・・)。とりあえず、TVシリーズのように、見ていてこめかみの血管がプチっとちぎれそうになることはなかった。少なくともイライラしないよ!
 カミーユは、TVシリーズよりも優等生(頭良い)キャラの側面が際立っている。TVシリーズでも成績優秀でスポーツも得意だというコメントはあったのだが、すぐ怒るしわめくしで、単に情緒不安定な人にしか見えなかったのですっかり忘れていた。
 新しく加えられた映像はさすがにきれいだ。特に終盤の空中戦は気合が入りまくっていてモビルスーツが動く動く!しかし新しい部分の出来が良いだけに、元の映像の古さが目立つ。画面処理によって新しい部分と古い部分がちゃんと馴染むようにしてあるものの、やっぱり違和感が残る。そういうことやるくらいだったら全部書き下ろしにしてよ!と心の中で叫んだが、それだと多分実現しなかったんだろうなこの映画・・・。
 今作のストーリーは、シャアとアムロの再会まで。次回のサブタイトルは「恋人たち」なので、Z内でおそらくもっともウザい女であろうベルトーチカ嬢と「記憶なんて・・・!」のフォオにスポットが当たるに違いない。公開は2005年10月。皆、秋を待て!

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