4月
『サイドウェイ』
タイトルはずばり「脇道」。人生も半ばに差し掛かった男女が脇道で一休みするのか脇道に迷い込むのか。多分両方でしょう。監督・脚本は『アバウト・シュミット』が絶賛されたアレクサンダー・ペイン。映画のコピーによれば「人生が熟成していく贅沢な寄り道」だが、「なんかオシャレ映画?」と思うと肩透かしをくらうかもしれない。正直言って全くオシャレでもスマートでもない人達の物語だ。
マイルズ(ポール・ジアマッティ)は国語教師として働く傍ら、小説を執筆している。ようやく脱稿した原稿が出版社に採用されるかどうかの返事待ち中だ。マイルズの友人である俳優のジャック(トーマス・ヘーデン・チャーチ)は1週間後に結婚を控えている。2人はジャックの結婚前祝いの為、ワイナリー巡りに出かけた。しかしワイン通のマイルズと違って、ジャックの目的は独身最後のナンパ旅行。ジャックは前妻を諦めきれないマイルズに、顔なじみのウェイトレス・マヤ(ヴァージニア・マドセン)を誘うようけしかける。一方で自分はワイナリーで働くステファニー(サンドラ・オー)を口説き落とす。マヤとマイルズはお互いに好意を抱いているが、なかなか進展しないのだった。
この監督は、人間はいつまでもたっても成長しないんだよと考えているのかもしれない。前作「アバウト・シュミット」でも、ありがちな映画だったら主人公がちょっと成長して周囲との人間関係も修復されてめでたしめでたし、となるのに、主人公はさえない初老の男のままで、娘とも娘の夫の家族とも理解しあえたわけではない(若干歩み寄るが多分一時的なもの)というものだった。今作でも、マイルズは終始気弱な男だし、小説が出版されるかどうかも定かではない。映画の定石として主人公が何者かになるというパターンがあるが、マイルズは結局何もにもなれない(しかも40も越えているのに、何者かになれない自分に対してまだ踏ん切りがつかない=何者かになれるのではないかと思っている)。「人生が熟成」どころか全然熟成にたどり着けずにいるのだ。一方、ジャックは結婚前に女遊びをする気満々で実際よくモテ、ステファニーとの生活まで夢見てしまうのだが、いざそれがフィアンセにバレそうになると、「彼女を失ったらお終いだ」と泣き崩れる。・・・じゃあ浮気するなよ!というツッコミはさておき、2人とも人生に対して自信があるわけではなく、どこかしら迷っている。
ペイン監督の偉い所は、この迷える男達女達に、「諦めなければ成功するよ!いいことがあるよ!」とは言わない所だと思う。むしろ、時には諦めも大切とでもいわんばかりに突き放した演出をしている。しかし、マイルズが最後にある行動に出るように、ダメな自分を認めることで道が開けることもあるんでしょうね。
良作だということは理解できるのだ、その良さを実感できたかというと微妙な所だ。マイルズ達のやるせなさは、40、50歳を越えてから実感できる類のものではないかと思う。20年後にまた見てみたい映画だ。・・・でもね、マイルズにしろジャックにしろ、いい年して踏ん切りが悪すぎる。いいかげん見切りをつけてしまえ(笑)。 もっとも、なかなか踏ん切りをつけられないのが人間のかわいらしさなのかもしれないけれど。
『フレンチなしあわせのみつけ方』
端的に言うと浮気したりされたりの話です。それ以外のことは殆どしていません。フランス人ってこんなに恋愛ばっかりしていて大変ですねー。そのエネルギーはどこから生まれてくるのかと問いたい。配偶者に対して延々と恋愛感情を要求するのにはびっくりです。少なくとも私には無理です。
自動車会社に勤めるヴァンサン(イヴァン・アタル)と不動産会社に勤めるガブリエル(シャルロット・ゲンズブール)夫婦。小学生の息子とパリのアパルトマンで暮らしている。ホテルマンのジョルジュと独身のモテ男フレッドはヴァンサンの友人。3人集まると今でも女性の話ばかりだ。実はヴァンサンも浮気相手がいる。ガブリエルは薄々気づいているが口には出さない。果たして彼らの行き着く場所は?
ヴァンサン、ジョルジュ、フレッドの結婚生活(フレッドは未婚)が対照的だ。ヴァンサンは妻を愛しているが若干倦怠期。ジョルジュはフェミニズムかぶれの妻とケンカばかりで愛想もつきかけており、隣に住むインド系夫妻のしとやかな妻をうらやむ。ジョルジュは女性と見れば声をかけずにはいられず、2マタ3マタは当たり前。にもかかわらず、付き合っている女性に子供が出来るとあっさりと結婚を決めてしまう。ジョルジュに共感する既婚男性が多いのかなと思うが、幸せの形は人それぞれで、自分では不幸だと思い込んでいても結構幸せだったりするんだろうなぁ。ジョルジュが妻とケンカばかりしつつも、結局はかみ合っているように。終盤、念願の新車に乗っていつになくごきげんなジョルジュに対して、妻が「あなたが嬉しそうなら私も嬉しいわ」と柄にもなく優しく言うシーンには、やっぱり夫婦って悪くないものかしら、と思った。
主演の他に監督・脚本も手掛けたイヴァン・アタルとシャルロット・ゲンズブールは、私生活でもパートナーだ。気心が知れているからか、2人の掛け合いはぴったり。調味料掛け合い合戦などやりすぎなんじゃないかと思うくらいだ。夫婦の微妙な食い違いが見える演技の掛け合いもぴったりで、実際こんなやりとりしているんじゃないかと思ってしまった。シャルロット・ゲンズブールが大変かわいらしく、こんな奥さんだったら浮気しないんじゃないか(でもヴァンサンは浮気しているんだけど!)と思う。
2時間に渡って浮気したりされたりと大変忙しいのだが、泥沼化しないところが大人の国・フランスの恋愛・結婚映画かなという感じがする。結局最後まで浮気やめないしねー(笑)。なにはともあれ結果オーライ、という所も大変大人だと思う。ガブリエルだけが夫に誠実なのは都合よすぎ・・・と思っていたらラストにとんでもない伏兵が!某ハリウッドスターがゲスト出演しているので必見。そりゃあねーあの人相手だったら浮気でもなんでもするさ、するとも!『ブリジット・ジョ−ンズの日記 きれそうな私の12ヶ月』
むしろ切れそうなのは私だって話ですよジョーンズさん・・・。世間の若い女性の共感をよびまくっているらしいと評判のシリーズ第2作だが、本当に共感を呼んでいるのかなー。私はジョーンズさんのアホ子ぶりにストレスたまりまくりですよ・・・。彼女に共感できるところなんて、体脂肪率くらいだから!
そういうわけで、ドジ度もUP、体重もUPしてブリジット・ジョーンズ(レニー・ゼルヴィガー)が帰ってきた。敏腕弁護士のマーク(コリン・ファース)と熱愛中のはずだったが、マークの自宅に若く美しい同僚のジェニファーが出入りしているのを見て、彼が浮気しているのではないかと疑い始める。女たらしな元カレ・ダニエル(ヒュー・グラント)もからんで、ブリジットとマークの将来は前途多難?
女性からはともかく、男性から見てブリジットのような女性はどうなんだろうか。彼氏の職場に直接電話を掛けちゃったり、彼氏が浮気をしているのではと思い込んで自宅に乗り込んじゃったり(しかも天窓から墜落)、あまつさえ友人や同僚に「私のカレ敏腕弁護士なの」と触れ回ってしまう(おかげで職場中がマークの事を知っている)いうのは、相当イタいと思うのだが。私が男性だったらこんな彼女は勘弁してほしい。マークは人間が出来ているのね・・・。
今作では前作よりもコミカルさが強まって、ちょっと悪ノリがすぎたかなという気がした。タイでブリジットが投獄されてしまうくだりも、おかしいことはおかしいのだがマンガ的すぎた。この作品の強みだったエリートでもなんでもない、ごく普通の女性の等身大の悩みや困ったシュチュエーションに「あるある!」共感できるという部分が弱まってしまったと思う。登場人物のそれぞれも「キャラ」化されすぎたのでは。このあたりは、さじ具合が難しいんだろうなと思う。
レニー・ゼルヴィガーは今回も役作りのためでっぷりと肉をつけており、見事としか言いようがない。しかも前作よりも顎のあたりとかが更にたっぷり目に。これでちゃんと細身に戻るんだから、プロってすごい。上半身やお知りはでっぷりとしても、足は意外に細いままなのはアングロサクソン系の強みか?また今回、ダニエル役のヒュー・グラントがノリにノっている。ダニエルのセリフは、ヒュー本人が考えている部分も多いとか。演じるのが心底楽しそうだった。
でもやっぱりブリジットみたいな女性は好きになれそうもないわー。特にドスドスとした歩き方と、野太い喋り声が鼻についちゃって、もーう。『アビエイター』
アメリカの富豪ヒューズ家の跡取であるハワード(レオナルド・デカプリオ)の夢は、映画監督と航空家だった。彼は夢を実現するべく、1930年に巨額を投じた戦争映画『地獄の天使』を完成させる。次いで航空会社を買収し、軍用大型飛行挺の開発を始める。しかし1946年、テスト飛行中に大事故を起こしたヒューズは軍との契約を取り消され、ライバル社パンナムにも負けそうになる。更に軍用資金横領の疑いを掛けられ、公聴会に召還される。
実在の実業家であったハワード・ヒューズの伝記映画だが、アメリカでこの人がどういう位置付けをされているのかを知っていないと、今ひとつぴんとこないかもしれない。映画の中では、非常な野心家で、自分の思い通りの飛行機を作る為には、会社の金だけではなくて自腹を切るくらいの情熱家、しかしその一方で極度な潔癖症であり、また女性関係は華やかだったが本当の愛情関係は築けなかった人物として描かれている。デカプリオが演じているせいもあるかもしれないが、野心的な実業家で先見の明もありながら、かなり子供っぽい(そして子供の頃のトラウマを抱え続けている人物に見えた。実際のヒューズもかなりエキセントリックな人物だったようだが、エキセントリックさをフィクションの中で描くと、それが典型としてのエキセントリックさになってしまい、かえって凡庸に見えるというのは不思議なものだ。彼が見る幻影にしろ、終盤で部屋に閉じこもってしまう様子にしろ、デカプリオが熱演しているのは分かるのだが、「まあこういうもんだろうなぁ」という程度の印象になってしまった。
ヒューズが付き合っており、後に破局した、キャサリン・ヘップバーン役のケイト・ブランシェットも、やたらとハイテンションな演技だった。テンションが高すぎて笑わせようとしているのかと思ってしまったくらい。実在のヘップバーンはこんなにベラベラ喋る人だったのかなー。正直、ちょっと鼻についてしまった。少なくともブランシェットにとってベストの演技ではなかったと思うが。エヴァ・ガードナー役のケイト・ベッキンセールも頑張っているのだが、今ひとつ存在感が薄い。
マーティン・スコセッシ監督がアカデミーを狙った渾身の新作であり、豪華キャストに豪華セットと制作費を惜しんでいないのはよくわかる。飛行機の航空シーンや舞台セット、出演者の衣装だけでも見ごたえがある。が、全体を通してみると何故か薄味であまり印象に残らない。上映時間も3時間と長すぎだったと思う。伝記映画としては直線的すぎて、見る側が引っかかる所がないのが難点だと思う。この作品でアカデミー賞は、やっぱり無理だったのではないかと。『バッド・エデュケーション』
愛はやっぱり惜しみなく奪うのか?『オールアバウト・マイ・マザー』『トーク・トゥ・ハー』が絶賛された、ペドロ・アルモドバル監督の最新作。監督らしい極彩色の、濃密な世界が展開される。『モーターサイクル・ダイアリーズ』で大ブレイクしたガエル・ガルシア・ベルナルは、女装を含め3役を演じるが、流石の美形っぷり。しかし個人的にはフェレ・マルチネスの方にセクシーさを感じた。今までではそんなにいいと思わなかったので、意外だった。
1980年のマドリッド。新進気鋭の映画監督エンリケ(フェレ・マルチネス)の元に、突然少年時代の同級生だったイグナシオ(ガエル・ガルシア・ベルナル)が訪ねてくる。彼は俳優になっており、自作の小説を持ち込み映画に出演したいと頼んできた。エンリケはしぶしぶ原稿を受け取るが、そこには少年時代の彼らをモデルにした事件が描かれており、イグナシオが寄宿学校の校長であった神父に性的虐待を受けていたことが臭わされていた。エンリケは小説の映画化とイグナシオの起用を決めるが、あまりにも変わってしまったイグナシオに戸惑いも覚える。彼は本当にイグナシオなのか?
自身がゲイであることを公表しているアルモドバル監督だが、本作では男同士の愛憎関係が二重三重に描かれる。現在進行のエンリケとイグナシオの関係に加え、イグナシオが書いた小説の中のストーリー、そしてエンリケが撮った映画の中のストーリーが劇中劇として展開され、物語の構成は重層的で結構トリッキーだ。徐々に真相に近づいていく過程がスリリングだった。そして真相にたどり着いても、それが本当に真実なのかというと、見ているうちに段々確信がもてなくなってきた。「何があったか」ということはわかっても、それに関わった人達の心の中は、どこかはぐらかされていたと思う。実際、イグナシオは本当の自分を隠し、周囲を何重にも欺いていくキャラクターだった。
映画の宣伝コピーは「究極の愛がほしいのか」だったが、皮肉なことにこの映画の中で双方向に通じ合っている愛は、少年時代のエンリケとイグナシオの間にあったものだけだ。あとは全て一方方向の愛、というより欲望だ。それぞれの俳優が相手に向けるまなざしが、非常にスリリングで演技に唸った。特に少年時代のイグナシオを気に入っており、エンリケと引き離した神父を演じたダニエル・ヒメネス・カチョの愛情と欲望の狭間で葛藤する演技は素晴らしい。
そして彼らは、相手に対する欲望だけでなく、有名になりたい、金が欲しいという欲望に突き動かされていく。一部の人物達は欲望に取り付かれたゆえに破滅していく。エンリケだけがかろうじて無傷、むしろ仕事では成功していったのは、彼が映画監督=観察者だったからではないだろうか。自分達が置かれている状況を物語として客観視できる資質があったからこそ、相手に飲まれずにすんだのでは。それにしても、映画監督といい俳優といい、映画関係者はかくも貪欲な存在なのか。監督の実体験がベースになっているということだが。『サマリア』
ヨジン(クァク・チミン)は父(イ・オル)と2人で暮らしている。親友のチェヨン(ソ・ミンジュン)は援助交際をしており、ヨジンは客のリスト管理とホテルの見張りを担当していた。しかしある日、ヨジンが目を離したすきにホテルに警官が乗り込んできて、逃げようとしたチェヨンは窓から飛び降り、死んでしまう。ヨジンは死んだチェヨンの笑顔を見て、彼女の代わりに今まで稼いだ金を、罪滅ぼしの為に男達に返すことを決心する。チェヨンの客だった男達と寝て、金を返して回るヨジン。しかしそれを父親が見守っていることに彼女は気づいていなかった。
フライヤーや予告編を見ると、少女同士の関係の話のように解説されているが、主軸となるのはむしろ少女の一人とその父親の関係だったと思う。少女2人は、親友同士というよりも、一人の人間の2面性とでもいうような、同一性が高い存在だと思う。関係性という点では、父親と娘の過剰ともいえる親密さの方がひっかかった。娘を毎朝、ヘッドフォンでそっと音楽を聴かせることで起こしたり、手料理を手ずから食べさせたりというのは、高校生の娘に対する行為としてはやりすぎに見え、近親相姦的な匂いすらする。
父親は娘の援助交際を知って、徐々に常軌を越していく。娘が寝た男を次々に追い詰め、とうとう殺人まで犯してしまう。相手の男性は父親にとっては憎むべき存在であると同時に、明日の我が身でもある。自分もいつ娘と同じような少女に手を出してしまうとも限らない。援助交際相手の男に「娘よりも若い少女と寝て恥かしくないのか」となじるのは、自分に対する戒めのようにも見える。物語後半の父娘の旅行は、道行でもあるのではないか。少なくとも父親は心中を覚悟していたと思う。しかし自動車のタイヤに挟まった石を取り除こうと懸命な娘は、苦しみを抱えているが、少なくとも前に進む意志は持っている。その姿を見た瞬間、父親は娘を生かし自分は自主する気になったのではないか。最後、父親は娘に自動車の運転を教え、「ここから先は自分で走るんだ」と告げる。
少女2人を演じたクァク・チミンとソ・ミンジョンは新人だが、2人ともとても存在感があり、好演していた。2人とも共感できる役柄とは言いがたいが、この2人が演じたことで、存在に説得力が出たと思う。
心情的に感情移入できる作品ではない。しかし情感があり、華やかさはないのに見ていて退屈しなかった。特に終盤の旅行シーンはどれも美しい。キム・ギドク監督は新作を発表するたびに賛否両論が起こるが、今作も賛否が分かれそうだ。いかようにも解釈できそうで、コメントが大変難しい作品だと思う。『コーラス』
1949年、フランスの片田舎。親の都合等で一緒に暮らせない子供達が集まる寄宿舎「沼の底」に、新任の音楽教師マチュー(ジェラール・ジュニョ)がやってきた。乱暴で言う事を聞かない子供達相手に手を焼くマチューだったが、子供達の寂しさを紛らわす為に合唱を教えることにする。音楽の魅力に気づく子供達。その中には奇跡のような美しい歌声を持った少年・ピエール(ジャン=バティスト・モニエ)もいた。
新任の先生が子供達の心を掴んで、荒んでいた子供達が変化していくというストーリーは、ジャンルが音楽だったりスポーツだったりとありがちだ。この映画にも、正直言ってさほどの新鮮味はない。が、この作品は、ハリウッド映画のような盛りあげ方とは無縁だ。ハリウッド映画ならここで教師が金八先生ばりの説教を!とか、子供達が先生に駆け寄って!とかの劇的演出がされるんだろうなーと思う場面は多々あるのだが、あえて盛りあがりとは無縁。しかし、そのつつましさこそが、この映画を忘れがたいものにしているのだと思う。人によっては物足りないと思うかもしれないが、もしここぞとばかりに盛り上がったら、本当にありきたりな映画になってしまったのではないだろうか。ラストの先生の見送り方も、月並みな映画だったら生徒達が走り出てきて〜となるのだろうが、そうはしなかった所にセンスと品のよさを感じた。先生と生徒の間に一定の距離感があり、お互い過度に立ち入らないのは、フランスのお国柄なのだろうか。
出演している子供達が、いわゆる可愛い子供ではなく、すごく微妙な顔(笑)の子もいる。目玉の合唱も飛びぬけて上手いというわけではないが、そこがかえって嫌味でなくて良いと思う。しかしピエール役のジャン=バティスト・モニエはさすがの美声で、確かに天使の声と言われるだけのことはある。しかもルックスは憂いを含んだ美少年。そりゃー人気も出るわな(次回作へのオファーは200本近くだとか)。
子供達それぞれのキャラクター付けや、内面の描写はそれほどされていない。この映画はむしろ、子供達の物語ではなく、教師のマチューの物語だ。彼は特に才能があるわけでもないし、見た目もぱっとしない。教師としての使命感に燃えているわけでもないし、教師としての資質にも自信がない。しかし子供達に合唱を教えることで、彼は音楽を愛した自分の人生は間違いではないと確認できたのではないかと思う。だから、成長したかつての生徒がマチューの日記を読むという形の導入になったのだろう。『KAKURENBO』
廃墟のような街で行われる子供達の秘密の遊び「オトコヨ様のお遊戯」。しかしこの遊びに参加した子供は、皆姿を消すと言う。今日もまた8人の子供達が遊びを始める・・・
若手コンビYAMATOWORKSが制作した短編アニメーション。第8回文化庁メディア芸術祭2004で審査委員会推薦作品に選定された。YAMATOWORKSは森田修平と桟敷大祐による映像制作ユニットで、スタジオ4℃でも活動していた。本作では、監督・絵コンテ・CGIを森田が、キャラクターデザイン・美術・世界観設定を桟敷が担当している。
24分の短編なので、物語自体は単純なものだ。しかし、ほの暗い街の風景には引き込まれる。ダークな「千と千尋の神隠し」みたいな感じか?一昔前の日本のような、細く暗く入り組んだ路地や、天守閣のようにそびえ立つ迷宮の奥行きに引き込まれる。和風レトロな世界観には特に目新しさはないし、レトロな建物と機械という組み合わせも珍しいものではないものの、丁寧に作りこまれているので思わず目が細部を追ってしまう。路地好き・廃墟好きとしてはたまらないものがある。映像にはかなり奥行きがあり、いかにもCG使っていますーという雰囲気。
子供達は全員キツネのお面を被っており、表情は目の動きしかない。これも作品の雰囲気にはあっていた(作画も楽なのかもしれない・・・)。お面のデザインのみでも、キャラクターはきちんと表現できていたと思う。子供達を追いかける鬼が和風な造型ではなく、インドネシアの伝統的なお面みたいなのも面白い。
物語としては、ラストのオチがかっちりと決まりすぎな気がした。もっとわけわからない、混沌とした終わり方の方が恐くて面白かったんじゃないかなと。オチに整合性があると、ホラーとしてはかえって恐くなくなってしまう。でも、私の後ろの座席に座っていた女の子は、本気で恐がっていましたが。『カナリア』(一部映画の結末に触れています)
12歳の少年・岩瀬光一(石田法嗣)は、妹と共に母・道子(甲田益也子)に連れられ、カルト教団の施設で数年を過ごした。しかしカルトが起こしたテロ事件がきっかけで警察に保護され、関西の児童相談所に預けられた。妹の朝子は祖父の元に引き取られたが、祖父(品川徹)は光一の引き取りは拒否したのだった。そしてテロに関わった母の行方はわからないまま。光一は施設を脱走し、その途中で援助交際相手から逃げようとしていた少女・由希(谷村美月)と出会う。2人は光一の妹と取り戻そうと、光一の祖父が住む東京を目指す。
カルトの子供達のその後というテーマを扱った、塩田明彦監督の意欲作。映画に出てくるカルト教団と教団が起こしたテロは、オウム真理教と地下鉄サリン事件がモデルだ。監督は事件以来、いつかはこれを題材に撮らなくてはと思っていたそうだ。事件から10年以内に何とか形にしなければと思いつつも上手く纏まらず、今回やっと形になったとのことだ。
監督入魂の作品なだけはある。主演の少年少女の表情を余す所なく捉えようとしている。少年と少女のロードムービーでもあるのだが、この2人がとても存在感がある。光一役の石田はセリフ数は少ないのだが、カルトをまだ拠り所にしつつも、それを完全に信じることはできないというゆらぎや不安定さを感じさせた。援助交際相手と車に乗っている由希を追いかけて、車に飛び乗りフロントガラスをバットで叩き割るシーンは、スピード感のある名シーンだったと思う。由希役の谷村も良い。両親との関係で傷ついている少女の役だが、同時にタフさを感じさせる。また、カルト内(この描写がまたリアル)で光一の教育係だった伊沢役の西島秀俊は、流石の上手さ。強い色のない役者なので、どんな役でもすんなりと馴染みそうだ。彼が演じる伊沢が、カルト脱退後に元信者の仲間たちと協力して、何とか生活を再建している様子には、辛いシーンの多い映画の中でちょっとほっとした。
登場する大人達の言動からは、子供に対する勝手さを感じた。母親は光一と妹の意思には関係なくカルトに入信させ、体罰に苦しむ光一に「お母さんと一緒に暮らしたいなら(しかも来世で)我慢して」と言う。子供は自分の生活に対する決定権というのは持っていないのだなぁとつくづく思う。光一は母親の言うとおりにするしかない。また、光一の祖父は光一の妹を引き取り、今度は(光一の母親の時のような)失敗はしないと言う。子供の成長を自分の成功だとか失敗だとかいうのは傲慢だと思うのだが。この祖父は、自分の娘(光一の母親)を、自分の持ち物のような気持ちで見ていたのではないだろうか。また、光一と由希が旅の途中で会う女性(りょう)は、別居している自分の子供への電話で「どうしてお母さんのことわかってくれないの」となじるのだが、子供(まして小学生だし)には親のことなんて多分分からない。分かれと言われても困ると思う。
力作なのは分かるのだが、惜しいと思うところも多い映画だった。ここぞという大切な場面で、いきなりベタな演出になるのだ。他はすごくいいのに一気に冷めてしまった。例えば、伊沢が光一に「お前はお前でしかない」と言い聞かせる説教や、ラストの光一と祖父との対峙など。何よりエンドロ−ル中に挿入される子供達3人の姿はあまりにも陳腐だ。地に足の付いたストーリーが、あれでいきなり浮いたものになってしまった。
特にいただけないと思ったのはラストの光一の変貌だ。光一を、伊沢言うところの「もう神の子ではない」普通の子供、ただの子供として描こうとしていたはずなのに、白髪にしたことでそれがスティグマとでも言えるような、「選ばれた子供」のように見えてしまう。また、祖父に対して「許す」というのも、唐突だと思う。むしろここから光一と祖父との葛藤が始まるのではないかと思うのだが。監督自身がこの題材に対して、迷いがあったのではないか。それが反映されてしまったのかもしれない。『ライトニング・イン・ア・ボトル』
2003年2月7日、ジャンルとしてのブルース生誕100年を記念して、ニューヨークのラジオシティ・ミュージックホールで開催されたコンサート「サルート・トゥ・ザ・ブルース」を撮影したドキュメンタリー。総勢50名のミュージシャンのパフォーマンスだけではなく、舞台裏での彼らの挿話や、ブルースの歴史も挿入される。アフリカの民俗音楽から、ジミヘンの『ブードゥーチャイルド』まで、ブルースの歴史をたどるという側面もある。
私はブルースには全く詳しくないし、この映画に出演しているニュージシャンも殆ど知らないのだが、それでも彼らの音楽を聴くと体が動き出す。音楽には、詳しい詳しくないの関係なしに、問答無用の力がある。このコンサートにきている客も、最初は大人しく席に座って聞いているのだが、ベテランミュージシャンが客席を煽り始めると、次々に立ち上がって踊り始めるのだ。さすがに年の功というか、客をノせていくのが上手いのだ。ミュージシャンの格を見た感があった。
映画としては特に捻りはなく、ストレートな音楽ドキュメンタリーだ。しかしストレートだからこそ、音楽をお腹いっぱい楽しめる。ブルースに限らず、音楽好きな人は見て損はないかも。
ベテランミュージシャンが大勢出ているので、出演者の平均年齢はかなり高い。見た目ははっきり言っておじいちゃんおばあちゃんな方達もいる。健康面にも不安があるという方も。しかし一度ステージに立つと、たちまち生き生きと輝きだす。全然枯れていないのだ。そして、全ての出演ミュージシャンをカバーするバックミュージシャンがまた素晴らしい。『隣人13号』
小学生の頃いじめられっ子だった村崎十三(小栗旬)。彼の中には、いじめられたことがきっかけで、全く別の凶暴な人格である「13号」(中村獅童)が誕生していた。十三は新しい職場で、かつて自分をいじめていた張本人である赤井トール(新井浩文)に会う。赤井はかつてと同じように職場の後輩をいじめていた。そして十三もその標的となる。十三の中の13号は目覚め、赤井への壮絶な復讐を開始する・・・
原作は、『TOKYO TRIBE』等が有名な漫画家・井上三太の同名作品。監督はRIZEやLOVE PSYCHEDELICOのPVを手がけた井上靖雄。映画監督としては、本作が初作品になる。PV出身の映像作家のデビュー映画というと、スタイリッシュな映像や奇抜さばかりが先立ち、肝心の映画の骨組みがおろそかになるという先入観があった。しかも本作は原作漫画もいわゆる「オシャレ系」、内容はサイコサスペンスというので、例によって例のごとく、映像の面白さのみを追求して奇をてらいすぎているのではないかと、見る前には危惧していた。しかし実際に見てみたら、これが初監督作品とは思えないほど上手い。しかも映画としては極めてオーソドックスでストーリーテリングがしっかりとしており、必要以上に奇をてらった所がない。井上監督は、実は普段はあまり映画は見ないのだとか。最初から映画作りを目指していた人にとっては、ちょっとやりきれないような話だ(笑)。
主演の小栗と中村は気合が入った演技。特に13号役の中村の怪演は見もの。最後の赤井との対決は、ナチュラルに狂っている感じで恐い。小栗は普段の美形っぷりが影を潜めていて、冴えない青年役に意外にもはまっている。素っ裸で中村と一緒に延々とトランスを踊らされたりしていて、かなりかわいそう(笑)。インタビューによれば、このシーンは相当恥かしかったとか。また、赤井の妻役でパフィーの吉村由美が出演している。元ヤン妻があまりにもハマっていますよ由美ちゃん。更に十三の隣人・金田役はなんと三池崇史。ライトに気持ち悪いです(それだけかよ)。
この映画を見る人は、十三・13号と赤井との、どちらに感情移入するのだろうか。小学生の赤井がやっていたいじめは、ありきたりではあるがかなり陰湿で、見ていて気持ち悪い。しかし13号の復讐はそれに輪を掛けてエグい。相当ひどいことをやっているのだが、どうも13号の方を応援したくなってしまった・・・。ラストは観客に解釈を委ねるような、複数の解釈ができるものだ。ただ、13号は消え去ることがなく、誰の中にでも存在するのだろう。ま、いじめをやる時は、思い切り報復されるのを覚悟でやれという話だということで(あれ?)。『コンスタンティン』
キアヌ君、悪魔と戦うの巻〜。キアヌが黒スーツで活躍というと、どうしても『マトリックス』を連想してしまう。一見オカルト版マトリックスのような本作だが、私はこっちの方がうさんくさくて(いやマトリックスも十分うさんくさいけど)好き。コンスタンティンの腕の刺青の役割とか、疑問のまま残った所も多々あったものの、アニメ感覚で大いに楽しんだ。
幼い頃から、人間界に紛れ込んだ悪魔や天使を見わけることができたジョン・コンスタンティン(キアヌ・リーブス)は、タバコの吸い過ぎで肺ガンになり、余命いくばくもない。彼は悪魔払いを仕事にしているのだが、最近現世に出てくる悪魔の数が増えてきていることが気になっている。そんな折、女性刑事アンジェラ(レイチェル・ワイズ)の双子の妹が病院の屋上から転落死するという事件が起きる。アンジェラの妹は霊能力者で、その能力ゆえに精神のバランスを崩し、入退院を繰り返していたのだった。自殺と判断された事件だったがアンジェラは納得いかず、真相を探るべく妹と同じく霊能力者であるコンスタンティンのもとを訪れる。妹の死の背後には、人間界を巻き込んだ天国と地獄の陰謀が隠されていたのだった。
キャリアは長いのに演技はさっぱりだとか、気を抜くとすぐにぷにぷにになるとか今まで散々言ってきたが、何だかんだ言ってもやっぱりキアヌ・リーブスはかっこいいと再認識した。「マトリックス」での貯金なのか体型はスリムなままだし、何と言ってもお肌がつるつる!元々童顔ではあるが、とても40過ぎとは思えない。お肌の張りなど、共演のレイチェル・ワイズに勝っているんじゃないかという感じだ。やっぱりスターなのね〜。レイチェル・ワイズは、私は好きな女優なのだが、今作ではいつもよりもちょっと野太い感じが。彼女よりも、マニッシュな服に身を包んだ、天使ガブリエル役のティルダ・スウィントンが中性的で魅力的だった。
コンスタンティンは肺がんで寿命が尽きようとしているが、過去に自殺未遂を起こした為、死後は地獄に落ちることが決まっている。彼はなんとか地獄落ちを防ごうとして、神との取引材料となる「善行」の一貫として悪魔退治を行っている。正義感や善意から行動しているのではないのだ。言動はニヒルで皮肉屋。こういうダークヒーロー的なキャラクターは、キアヌには似合わないんじゃないかと思っていたが、そうでもなかった。彼自身の個性はあまり強くないので、陰性にしろ陽性にしろ、アイコン的なヒーローキャラクターがすんなりとはまるのではないか(でも、どっちかというと『スピード』みたいなあっけらかんとしたヒーローの方がより似合う気がするが)。書き割りのようなぺらっとしたキャラクターを魅力的に演じることができるのがキアヌの強みだと思う。本作の原作はアメコミだそうだが、アメコミというよりもむしろ日本のマンガに近い感覚があった。こういうマンガがジャンプやサンデーに連載されていても不自然ではないと思う。コンスタンティンが使う武器もマンガ的で楽しい。特に十字架型の銃(火炎放射器?)はこんなのどこかで見た見た!という感じ。
アメリカは多民族・多宗教国家のはずだが、この映画の背景は完全にキリスト教の世界観だ。やはりキリスト教強し。ちょっと複雑・・・。『エレニの旅』
ギリシャの巨匠、テオ・アンゲロプロス監督の6年ぶりの新作。ヒロインの名前エレニは、ギリシャ女性には一般的な名前であり、ギリシャの愛称でもあるそうだ。難民としてギリシャに流れ着いたエレニという一人の女性の半生に、近代ギリシャがたどった歴史が投影されている。
1919年頃、ギリシャのテサロニキ湾岸に、一群の人々がやってきた。ロシアのオデッサに移民として暮らしていた人々が、革命の勃発と赤軍のオデッサ入城から逃げてきたのだ。その中にいた幼い孤児の少女がエレニだった。成長して娘となったエレニは義兄のアレクシスの子供を秘密裏に出産する。義父スピロス(ヴァシリス・コロヴォス) に知れたらただではすまないだろうという義母ダナエやスピロスの姉カッサンドラ(エヴァ・コタマニドゥ)の配慮だった。やがてダナエが死ぬと、スピロスはエレニ(アレクサンドラ・アイディニ)を妻にしようとする。エレニは我慢できずアレクシス(ニコス・プルサニディス)と駆け落ちし、テサロニキの劇場に身を隠すが、スピロスが彼らを追ってきたのに気付き、更に田舎町に逃げていくのだった・・・。
エレニにはあまりセリフがない。彼女が大きな声を出すのは、いつも泣く時、慟哭する時のようだった。エレニは故郷も、子供達も、夫も知人達も、住むべき場所さえ失っていく。言葉少ない中の泣声なだけに、より悲痛さが際立つ。
全く派手さはない映画だし、セリフも少ない。物語の流れやその背景の説明もごく少ないので、その時見ただけでは何が起こったのかよくわからず、後からそういうことだったのかと再認識する所があった。静かな映画ではあるのに、何故かドラマティックだ。物語の背景にはファシズムへと傾く軍事政権の抬頭や、その中での対抗組織の活動、ドイツ軍の侵攻などの現実の歴史があるが、具体的な説明は殆どないので、ギリシャの歴史を知らないと分かりにくいかもしれない。映画を見てからパンフレット等の解説を読んで確認したところが色々とあった。現実の歴史を背景にしているのに、主人公の周囲の出来事の描かれ方、いわば遠景に対する前景の描かれ方は幻想的という不思議な映画だ。この構造により、より神話的な物語となっている。
ギリシャの歴史を背景とした映画だが、歴史を知らないとこの映画を味わえないということはないと思う。役者の演技だけでなく、映像の冷えた美しさや音楽で、時代に翻弄される人と国の哀しみが伝わってくる。色彩の押さえられた映像の美しさは圧倒的だった。特に、水の上での葬儀のシーンや、水没した村をボートで移動するシーンは非現実的なほどだ。CGは全く使っていないそうで、どうやって撮影したのか話題になったとか。『ウィスキー』
さびれた靴下工場を経営している無口な男・ハコボ(アンドレス・パソス)。中年女性マルタ(ミレージャ・パスクアル)が事務や機械操作の助手として働いている。2人は必要以上の会話を交わすことはなく、お互いの個人的なことは何も知らない。ある日、ハコボの陽気な弟・エルマン(ホルヘ・ボラーニ)が久しぶりにブラジルから帰国することになった。ハコボはマルタに、自分の妻の振りをしてほしいと頼む。そしてエルマンを交えて奇妙な共同生活が始まる・・・
南米の小国であるウルグアイの映画。今までに国内では60本しか映画が作られていないそうだ。そんな国からとてもチャーミングな映画が誕生した。南米版アキ・カウリスマキと称されたのにも納得。監督は30歳の若手コンビ、フアン・パブロ・レベージャとパブロ・ストール。本作でいきなり2004年東京国際映画祭グランプリ・主演女優賞、2004年カンヌ国際映画祭でオリジナル視点賞・国際批評家連盟賞を受賞した。
ハコボは仕事の前にカフェによって朝食を取り、売店の店主にからかわれる。マルタはハコボよりも先に工場に着き、ハコボが後から来て工場を開ける。電気をつけ、機械のスイッチを入れ、マルタがハコボにお茶を入れる。終業時間になるとマルタが女性職員たちの荷物をチェックし、ハコボが工場を閉める。このような同じ流れのシーンが、意図的に繰り返される。ハコボとマルタの日常はこれくらい変わり映えのない日々だった。ところが、陽気な弟・エルマンが現れることによって2人の心境には微妙な変化が生じてくる。地味な中年女性だったマルタは、ハコボとの偽夫婦を何とか演じる為に知恵を発揮し、少しずつ可愛らしい面が見えてくる。一方、ハコボは今までマルタのことを何とも思っていなかったはずなのに、エルマンと仲良くなっていくマルタを見ていると何となく面白くない。
ハコボとマルタ、エルマンの微妙すぎる三角関係は、いい大人にしてはあまりにも純情すぎる。そのくっつきそうでくっつかない微妙さが可愛くてしょうがない。特にマルタは全く美人でもないのにめきめきと可愛く見えてくるのが不思議だ。マルタを演じたミレージャ・パスクアルの演技力も素晴らしい。マルタ役は彼女以外には考えられないと思う。
ハコボとマルタの関係に何か変化が生じたのかは、結局分からない。観客の想像に全て委ねている。しかしはっきりとした結果を描いていなくても、この映画はハッピーエンドだ。エルマンを交えて偽の夫婦を演じた時間は、2人にとっては非日常だった。でも日常に戻っても、きっと2人にとってほんの少し世界は変わったのだと思う。つつましやかな幸せ感がある映画。ちなみに「ウィスキー」とは、写真を撮る時の「チーズ」と同じような合図。