3月

『タッチ・オブ・スパイス』
 気鋭の宇宙物理学者として大学で教鞭をとっていたファニス(ジョージ・コラフェイス)のもとへ、長年会うことがなかった祖父がギリシアを訪問するという連絡が入った。1960年代、トルコのイスタンブールでスパイス店を営む祖父と、ファニス、両親は一緒に暮らしていた。しかしキプロスを巡るトルコとギリシア間の紛争の影響で、ギリシア人のトルコからの強制退去が命じられ、ファニスと両親はアテネは移住することになった。おじいさんも後から追いかけると言うが、結局再会することがないまま、ファニスは成長していく。
 一つの街の存在が住民の心に深く結びつき、そこを離れることが出来ないということはあると思う。ファニスの祖父はギリシア人だが、イスタンブールから離れることは出来なかった。そしてアテネに移住せざるを得なかったファニスの両親も、「あの街は特別だ」とイスタンブールへの郷愁をふと口にする。ファニスも両親もギリシア人なのだが、アテネで暮らしていても、民族運動の高まるギリシアの中では「トルコからの移民」としか見られない。トルコとギリシアとの間の複雑な歴史を全く知らないと分かりにくいかもしれないが、どちらの国にしてもよそ者扱いされる悲しさ、2つの土地に寄せる感情というのは伝わると思う。
 もっとも、複雑な歴史的背景はあるものの、この映画は全く湿っぽいものではない。ビザンツ系ギリシア人の「磁力」や、おばさんの病気を巡るエピソードなど、反復ギャグ的なユーモアに笑わされた。そしてスパイスと料理を巡るエピソード。ファニスは子供の頃料理の天才と言われたくらいの料理上手で、台所に入り浸って母親に怒られたくらい。青年になってからは、知り合いの女性が結婚する前に料理を教えてあげたり、料理をさせてれたことがきっかけで売春宿のマダムと仲良くなってしまったりする。出てくる料理は日本では馴染みの薄いものだけれど、本当に美味しそうでいい匂いがしてきそうだ。映画の物語構成もオードル、メイン、デザートと食事のコースのように分かれていた。久しぶりにギリシア料理が食べたくなってしまった。
 終盤、成長したファニスと初恋の少女との顛末が描かれるのだが、なかなか良い終わり方だった。抱き続けてきた思いに決着をつけた上で、それぞれが歩んできた道を否定することなく、また新しく歩き始めようという、ノスタルジーに溢れるがそれに溺れない良さがあったと思う。正にスパイスのように、ふくよかな香り漂う映画だった。

『レオポルド・ブルームへの手紙』
 フライヤーも予告編も爽やかっぽいのに、観てみたらとんでもないじゃないですか。後味は悪くはないけれど、重い。
 ミシシッピー州の刑務所から18年間の刑期を終えて出所したスティーブン(ジョセフ・ファインズ)。彼はレオポルド・ブルーム(デイヴィス・スウェット)という少年からの手紙を心の支えにしてきた。レオポルドは誰かに手紙を書くという学校の授業で、囚人宛てに自分の生い立ちを書き綴ってきたのだ。レオポルドの母親・メアリー(エリザベス・シュー)は幼い娘と夫と暮らしていたが、留守がちな夫が浮気しているのではないかという疑いを消しきれず、寂しさのあまり家に出入りしていたペンキ職人と関係をもつ。しかし夫と娘が事故死した当日にレオポルドが誕生した。メアリーは彼を心から愛することが出来ず、辛くあたるのだった。そんなレオポルドの手紙に返事することで、スティーブンも新たな人生を歩みだす・・・。
 一度こじれた親子関係を修復するには、こんなにも大変なのだろうか。メアリーはレオポルドの存在に対して、自分の「罪」の印であるという意識を捨てられなかった。愛情がないわけではないが、どうしても子供に対して優しくできない。しかし、子供は辛くあたられても親の愛情を求めずにはいられなし、何とかして親の気に入るようにしようとする。が、愛情を求めてようやく起こした行動が、思いがけない悲劇を引き起こしてしまう。お互いにすれ違ってしまう親子や、子供にあまり愛情を持てない親というのは実際に多々いると思う。それはしょうがないことだとも思うが、子供はなかなか親の愛を諦められないだけに見ていて辛い。せめて子供を受け入れることさえできていれば、と。
 この映画の主人公の場合、親子関係を修復することも出来ず、お互い生きていく為には切り離すしかなかった。裁判のシーンでは、そんなに息子のことが許せなかったのかと背筋が寒くなった。その後の面会シーンも、もうそれしか選択肢はなかったのかと見ていて辛かった。その苦しみから回復し、再び歩みだすにはどれほどの年月が必要なのかと思う。
 レオポルド、スティーブンという名前は、ジェイムズ・ジョイスの小説『ユリシーズ』の登場人物から取られたものだ。実はこの名前の使い方が、『ユリシーズ』に対する一つの解釈になっている。『ユリシーズ』を読んでいるとより楽しめると思う(読んでいなくても映画を見るうえでは問題ないが)。
 自分の体験、思いを文章化していく作業というのは、自分と向き合わざるを得ない為、時にしんどいことだと思う。しかしちゃんと言語化していく過程で、その人の中の苦しみが浄化された、とは言えないまでも、整理され受容されていくことになるのだろう。書くことの切実さを考えさせられた。

『ビヨンドtheシー 夢見るように歌えば』
 1950年代、60年代にアメリカで一世を風靡した実在の天才シンガー、ボビー・ダーリン。彼の大ファンであるケビン・スペイシーが、彼の人生を10年以上かけて映画化、制作・主演・監督した。
 心臓病があり15歳までしか生きられないと診断されたボビー少年。しかし彼は家族の愛につつまれ、音楽という心の支えを得る。歌手として成功したボビーは、女優のサンドラ・ディー(ケイト・ボスワース)と結婚し、グラミー賞受賞、アカデミー賞ノミネート等正に時の人だった。しかし彼の音楽は徐々に時代遅れになっていくのだった。それでも彼は再起をかけ、健康の不安をかかえながらラスベガスのステージに立つ。
 スペイシーは吹替えなしで歌をこなす為、4年間のレッスンを受けたそうだ。その甲斐あってミュージカルシーンは見事。晩年のボビーが制作主演している自伝映画という設定が言い訳にはなるものの、40代のスペイシーが20代から37歳までのボビーを演じるのはちょっと無理があるんじゃないかと思ったが、見ているうちにだんだん平気になってくる。映画を見終わった後、年輩の女性客が「(スペイシーは)顔は全然ボビーと似ていないんだけど、歌声はそっくり!」と言っていた。私はボビーの歌とスペイシーの歌との比較をするというラジオの企画を聴いたのだが、確かに似ている。ボビーの歌声の方がよりまろやかだが、スペイシーの歌唱力は本物だ。彼は心底ボビーの音楽が好きで、その再現の為に必死だったのだろう。ミュージカルシーンではダンスもしっかりと踊っている。あの年齢で、足がちゃんと上がってるんだもんなぁ。スペイシーの情熱があってこその映画だったと思う。ボビー=スペイシーが歌うシーンは、「俳優が歌う」というような危なげがなく実に気持ちが良い。
 映画の中で映画を作っているという入れ子構造なのだが、こういう構造の方がミュージカルシーンを入れやすいからだろう。そういえば、同じく実在のミュージシャンを主人公とした『五線譜のラブレター』も、映画内ミュージカル舞台という入れ子構造だった。ただ、こういう構造の場合、途中で入れ子構造である必然性が薄れてしまう(普通のストーリーテリングになってしまう)ことが多々あると思う。本作でも、ボビーが時代に取り残されていくあたりでは、映画内映画であることを忘れてしまったくらいだった。最後はどう纏めるのかと心配だったが、きちんとフィナーレが訪れた。この終わり方なら、冒頭から少年時代のボビーがちょこちょこ出ていたのにも納得がいく。「ボビー・ダーリンはスウィングし続けている」、つまり、優れた音楽とはそういうものであるのだと思う。「マック・ザ・ナイフ」の軽やかなかっこよさ、「ビヨンド・ザ・シー」(『ファインディング・ニモ』のエンドロールに使われていたのが記憶に新しい)のまろやかなメロディーは今でも色あせていない。

『故郷の香り』
 北京で役人をしているジンハー(郭小冬)は、10年ぶりに山間にある郷里に帰り、初恋の女性ヌアン(李佳)と再会する。ヌアンは耳と口が不自由な男・ヤーバ(香川照之)と結婚し、子供ももうけていた。ジンハーはヌアンと過ごした日々を思い出す。
 客観的に見れば多分良い映画なのだろうが、故郷を離れた経験がある人かどうかで、感じ方が随分変わるのではないかと思う。私は子供の頃は引越しが多く、生まれた土地と育った土地とがばらばらだし、今住んでいる所は出身地ではあるものの、故郷という感じは今ひとつない。なので、ジンハーが故郷に対して抱いている郷愁や鬱屈のようなものは、どうもよく分からないのだ。自分の中に、この映画を理解する為の要素があまりないんじゃないかと思った。
 ただ、かつて好きだったはずの人とも、別々の生活をしているうちに段々心が離れて、その繋がりがちょっと疎ましくなってくる感じというのは分かる。やっぱり物理的に離れてしまうと、関係を保つのは難しいよなぁと(中学高校の時、「卒業しても友達だよね!」と言い合っていた友達とはいつの間にか疎遠になっているように)。そしてそれぞれ別の人生を歩んでいて、これからまた一緒に歩むということはありえないとわかっていても、再会すると気持ちが揺らいでしまう、もう一度やり直せるかもしれないという幻想を抱いてしまうんだろうなと。実際はお互いに変わっているのだから、あの頃と同じように接することは出来ないのだろうけど。
 ジンハーとヌアンが変わっていく一方で、変わらずにヌアンに思いを寄せ続けるのがヤーバだ。スマートさとは程遠い彼の行動が、いじましい(香川照之の名演によるところも大きい)。ヌアンに対して小学生男子のようにちょっかいを出したり、ジンハーにつかみかかったりと、行動は見ていて悲しくなってくるほど愚直で不器用だ。ヌアンはヤーバと自分のことを「割れ鍋に閉じ蓋と言うでしょ」と自嘲する。しかし、こういう愛情の形もあるのだろう。実は映画の3人の関係は、原作小説とはかなり違うらしい。監督は、ヌアンは必ずしも不幸ということはなかったんじゃないかということを描きたかったのではないかと思う。それぞれが積み重ねてきた時間には、ちゃんとそれなりの意味があるんだ、戻ることは出来ないが間違っていたわけではないんだと言われているようで、映画の終わり方は、納得のいくものだった。
 舞台となる田園の風景がとても美しい。中国の中でも、南部の地方なのではないかと思う。水が豊かな土地で、水際にヌアンの家が建っているところなど、いい風景だと思う。ジンハーの恩師の家の中の雰囲気も、決して裕福ではないけれど居心地良さそうだった。あと、水につけられた野菜がやたらと美味しそうだった(笑)。ヤーバが生のキュウリに味噌をつけてかじりつく所、思わず唾を飲んでしまった。

『セルラー』
 ごく普通の生物教師ジェシカ・マーティンは、ある朝突然謎の男達に誘拐され、古い家屋の屋根裏に監禁される。ジェシカ(キム・ベイシンガー)には何故誘拐されたのか全く分からないのだが、彼らは息子や夫にまで危害を与えようとしていた。ジェシカは壊された電話を必死で修理し、たまたま通話できた男に助けを求める。そのたまたまジェシカと電話が通じた男・ライアン(クリス・エバンス)はお気楽な青年。ジェシカの助けも本気にしていなかった。しかし通話しているうちに男達の脅迫する声やジェシカの悲鳴が聞こえ始め、ことの重大さに気付く。果たして2人は事態を解決できるのか?
 うーん面白い!無駄なところが全然ない、骨組みのみの潔い娯楽サスペンス。始まって5分でヒロインが埒監禁され、監禁された部屋の窓もドアも開かず、周囲は森林で車なしでは逃げ出せないということを完結に説明してみせる。この時点で、かなり上手く作っているなということがわかる。
 スターと言える出演者はキム・ベイシンガーのみだし、そのベイシンガーも今作では地味な女性役だ。特に派手なカーチェイスがあるわけでも、豪快なアクションがあるわけでもない。しかし次々に事件が起き観客を飽きさせない。これは脚本の勝利と言ってもいいだろう。原案は「フォーンブース」の脚本家ラリー・コーエン。今回も電話を使った話だが、携帯電話というアイテムの性質上、登場人物があちらこちらへ飛び回るのが面白い。そして携帯電話というアイテムを導入することで、通話が切れてはいけない(ジェシカが使っている電話は無理矢理修理したもので、一度切れると繋がる保障はない)、電波の圏外には行けない、バッテリーが切れてはいけないというしばりが生まれ、より物語がスリリングになった。ライアンとジェシカと双方が何とか助けよう、助かろうとチャレンジを繰り返すが、毎回失敗して終盤になだれこむ展開も上手い。無茶といえば無茶なのだが、テンポがいいので見ている間は気にならないのだ。
 最初は軽いいいかげんな青年だったライアンが、体をはってジェシカとその家族を助けようとする姿にはワクワクするし、ショボくれた定年退職間近の刑事が徐々に事件の真相に近づき、刑事としての使命を果たそうとする姿は、最初はコミカルなのだが段々かっこよく見えてくる。そしてジェシカもただ助けを待っているだけでなく、夫と息子を助ける為に反撃を開始する。全く普通な、特殊な能力を持たない人達が、知恵と勇気で危機を乗り越えようとする所が、やはり魅力なのかもしれない。思わず拳を握って応援したくなった。そしておそらく低予算の中、大健闘した監督初めスタッフ一同にも拍手を送りたい。決して傑作名作というわけではないが、一流のB級サスペンスという感じがする。

『ワンピース オマツリ男爵と秘密の島』
 TVシリーズから派生した劇場版も早6作目。原作は言わずと知れた週刊少年ジャンプの看板的人気漫画だ。“偉大なる航路(グランドライン)”を航海中のルフィ(田中真弓)海賊団は、ある日瓶に入れられた「オマツリ島」の宝の地図を発見する。喜び勇んで島へとやってきたルフィ達だが、一見どうということのない無人島で拍子抜け。すると突然きらびやかなテーマパークとオマツリ男爵(大塚明夫)なる男が現れ、「試練」を乗り越えれば宝をやろうと告げる。やる気満々の一行だったが・・・
 今回は監督に「デジモンアドベンチャー」シリーズで知られる細田守を起用。今までの劇場版ワンピースシリーズの中では、作画にしろストーリーにしろ、一番監督の色が濃く出たと思う。終盤のルフィなんて、もはや原作ともTVアニメとも別物(笑)。特に咲作画のクセはかなり強いし彩色の色合いもTVシリーズと異なるので、小さいお子さんはちょっと戸惑ってしまうかもしれない。ただ、個人的にはこの作画の手癖はむしろ好きなので、結構楽しませて頂いた。各キャラの衣装がTVシリーズとは別バージョンになっている、しかもルフィ以外はお召し替えがあるのも大きいお友達(笑)としては嬉しい。ストーリーもシリアス寄りで、冷静に考えるとかなり悲しい、はたまたエグい話かもしれない。
 このように、どうも今までの劇場版シリーズよりは、対象年齢をちょっと上にしている感じがする。ギャグが今までよりも少なめなのもだが、何よりオ、オマツリ島のキモである「花」のシステムがどういうものであるのか、直接的に言葉で説明することが最後までなかった。物語内で起こっている現象を見て察知してくれということなのだろうが、幼稚園児や小学校低学年にはちょっと酷な要求じゃないだろうか。でも、今まで劇場に見に行った感じだと(少なくともピン上映になってからは)、どうもお客さんの年齢層が予想よりも高いのよねー。普通に10代20代のカップル客がいるのには驚きました。しかも大人客のオタク臭が大変薄い。今作でも、私が見に行った時も、時間帯のせいもあるだろうが小学生以下の子供客が1名しかいなかった。メインは10代から20代前半で普通に映画を見に来た客という感じ。そういう事情を考慮して路線をちょっと変更したのなら、まあ成功と言えるのではないだろうか。

『ナショナルトレジャー』
  4000年の歴史を誇るというフリーメーソンの秘宝は、1779年、アメリカ独立戦争の最中に忽然と姿を消した。その秘宝を追い続けてきたゲイツ家の末裔ベン・ゲイツ(ニコラス・ケイジ)は、その宝のありかの鍵がアメリカ独立宣言書にあることを突き止める。しかし独立宣言書は超重要文書。手に取って調べられるわけがない。しかも同じく秘宝を狙うイアン(ショーン・ビーン)一味の手が迫っている。宣言書と秘宝の両方を守る為、何とベンは宣言書を盗み出すことに!
 どう見ても考古学者に見えないニコラス・ケイジ主演の宝捜し映画。製作担当ジェリー・ブラッカイマーとのコンビは『コンエアー』『ザ・ロック』以来。フリーメーソンで秘法で独立宣言ってどこのトンデモ映画だよ!と舐めて掛かっていたが、意外に手堅く攻めてきました。さすがブラッカイマー&ディズニー。終盤の地下の宝庫は、そのままディズニーランドのアトラクションになりそうだ。
 異端の考古学者が宝捜し(しかも不仲のパパまで出演)、というとあの「インディー・ジョーンズ」シリーズを思い起こすが、ベンは拳銃も使いなれていないし、トロッコに乗って爆走しないし、吊り橋からダイブしたりもしない。実はアクション映画としては結構地味なのだ。お約束的なカーチェイスや、よじ登ったり飛び降りたり(といっても、2階の屋根や桟橋から飛び降りるくらいなんだけど・・・)という動きはあるものの、基本的に普通の人間がまあ出来るだろうなぁという範囲のアクションに留まっている。少なくともジョーンズ博士のようなスーパーマンではない。
 では彼が何で勝負するかというと、あくまで知恵と勇気(そしてハイテク)。彼らと同じ宝を狙う敵イアンにしても、ベン自ら「頭が良くて金がある」から手強いと評している。このイアンという悪党、LOTRですっかりメジャーとなった(はず)ショーン・ビーンが演じているだけあって、結構渋くてかっこよかった。正直ニコラス・ケイジより全然かっこよかった・・・いやいやそれはさておき、物語の主軸はあくまで謎解きで、ベンとイアンが暗号を奪い合い、どちらが先に秘宝を手にするかという追いかけっこになっているのだ。ベンの謎の解き方は直感に頼っていてちょっと無理無理だなーという気はするものの、次々と謎が提示されストーリーの展開が早いので、飽きずにラストまで引っ張られた。
 難点は肝心のお宝がショボい、というか絵に描いたような宝物で捻りがない所。結局この宝って、世界各地からかっぱらってきたんだよね・・・。それはともかく、老若男女が楽しめる、なかなか楽しい娯楽作品だと思う。

『エターナル・サンシャイン』(ラストややネタバレかもしれないです)
 通勤途中のジム・キャリーがふと思い立って海に向かう。浜辺で見かけた髪を青く染めたケイト・ウィンスレットが何となく気になった。帰りの電車の中、ケイト・ウィンスレットがジム・キャリーに声を掛けてくる。そして2人は恋に落ちたらしい・・・が、そもそもこの人達何者?
 恋人同士だったジョエル(ジム・キャリー)とクレメンタイン(ケイト・ウィンスレット)は、バレンタインデーの直前に喧嘩別れしてしまう。そんなある日、ジョエルのもとに「クレメンタインはあなたの記憶を全て消しました」という手紙が。ショックを受けたジョエルは、差出人であるラクーナ医院を訪ねる。この医院では、辛い記憶を消去するという措置を行っていたのだ。ジョエルは自分もクレメンタインの記憶を消そうと決意するのだが・・・
 この記憶さえなければ、もっと自分は楽に楽しく生きられるはずなのに、と思ったことは私も何度もある。しかしその記憶を消すことで本当に楽になれるのか?その記憶ひっくるめての自分ではないのか?奇想の脚本家チャーリー・カウフマンの新作は、そんな誰しもがちょっと考えつくようなアイデアを、彼の手癖を存分に生かしてこねくり回したような映画だ。しかし、これまでの作品のようなシニカルさは影を潜め、人と人との関係性、相手とどう関わっていくかという点により焦点が当てられていると思う。これまでの『マルコビッチの穴』や『ヒューマンネイチュア』でも、最終的には人と人との関係性がテーマになっていたと思うが、構成がテクニカルでそちらに目が向いてしまいがちだった。今作は、カウフマン渾身の直球という感じがする。
 カウフマン作品らしく、時系列が進んだり戻ったり(クレメンタインが髪の毛の色をころころ変えるのは、この構造を分かりやすくする為か)、記憶の中をジョエルがクレメンタインを連れて逃げまわり、幼児期の記憶の中ではジムl・キャリーがそのまま幼児の恰好をウィンスレットがヒッピー風ベビーシッターになったりというシュールな光景も繰り広げられる。正直、ジム・キャリーがこんなに魅力的に見えるとは驚いた。私は彼は顔と演技がくどすぎてあまり好きではなかったのだが、ちょっと名避けない普通の男役を好演していた。そしてケイト・ウィンスレットが可愛い!たくましすぎると巷では不評な彼女だが、私は前々から結構好きだ。今作の彼女は、今までの出演作の中では最もキュートかもしれない。他にも、これまたオバさん顔だと巷では不評なキルスティン・ダンストがいつになく可愛かったり(しかも切なーい役所)、LOTRのイライジャ・ウッドが胡散臭い青年を熱演していたりと周囲もにぎやかだ。
 ジョエルとクレメンタインは、記憶をなくしても再会し、また惹かれあった。しかし過去にケンカ別れした2人は、また同じことを繰り返してしまう可能性が高い。しかしそうじゃない可能性もある。再会したとき、彼女のことは覚えていないにも関わらず、ジョエルはクレメンタインが嫌がるある事をやらなかった。記憶を消しても何かが残っているのではないか、体に染み付いたものがあるのではないか。よしんばそんなものなくて、単に偶然だったとしても、もう一度やり直してみる価値はあるのではないか。結局失敗するとしても。カウフマンがいつになく人間関係についてポジティブになっている気がするぞ。なんなのこの切なさとハッピー感は。

『ハサミ男』
 都内で女子高生2人が連続して殺されるという事件が起きた。被害者の首にハサミがつきたてられていたことから、犯人は「ハサミ男」と呼ばれていた。そして第3の事件が起きる。遺体発見者となった知夏(麻生久美子)と安永(豊川悦司)は、独自に犯人を捜し始める。一方警察の捜査本部では、サイコアナリスト堀之内(阿部寛)が目黒所の刑事たちと共に捜査を開始していた。
 ミステリ界を騒然とさせた、殊能将之による第13回メフィスト賞受賞作が映画化された。「あの」トリックをいかに映像化するのか?と原作ファンとしてはずっと心配だった。映画では、なんとトリックを映像化することを半分放棄し、謎のベクトルを別の方向に持って行った。映画としてはまずまず成功していると思う。といっても、ちゃんとキモの部分は押さえてあり、よくよく見るとちゃんとあの設定に沿った映像になっている。このあたりは、映像化が困難な部分を良くがんばったなぁという感じだ。事件の真相は割と早い段階で読めてしまうだろうが、他の部分で最後まで引っ張る。
 また映画では、小説ではあまり触れられていなかったハサミ男の過去に関わる部分が増え、ハサミ男事件の解明というよりも、ハサミ男という人物の物語という側面が大きくなったと思う。トリックによってびっくりさせられる要素は小説に比べて半減する為、これは仕方ない方向転換だろう。この路線を踏まえたラストは、原作者・殊能の作風ではまずありえない。過去にまつわる部分は、興ざめで蛇足とも見られるだろうが、映画としての収まりは悪くはないとは思う。
 主演の麻生久美子は、どの作品を見ても演技が上手いのか下手なのかとっても微妙なのだが、今回は(自殺願望者なので)喘いだり悶えたり吐いたりのたうちまわったり女子高生コスプレをしたりと大活躍。これは監督の趣味でやらせているんじゃ・・・という場面もあり、ファンは必見だろう。対する豊川悦司は、「とりあえずいるだけでいい俳優」としてのポジションを着実に固めつつある気がする。立ち姿が絵になるので、いるととりあえず画面が締まるのだ。安永という不思議な男の役は、この人以外ではちょっと考えにくい。正直、豊川を見ているだけでも結構得した気分に。
 個人的には、ロケ地が知っている場所ばかりで楽しかった。明らかにお金がかかっていない感じの映像なのだが、原作の冷たい雰囲気には近いと思う。傑作とはいえないが、良いB級という感じで多いに楽しんだ。ちなみに一番感慨深かったのは、スクリーンに「原作・殊能将之」という文字が映し出されたこと。多分もう二度とないから(笑)。

『鉄人28号』
 あの「鉄人28号」が実写映画化。鉄人のデザインは原作に忠実で、例のころんとした体型。多分、当初はマンガ活劇的な作品にしようとしたのだと思う。人間のキャラクターもマンガ的な立て方にしようとしていたのだろう。しかし冨樫森監督はそういった描き方には、最初から違和感を持っていたのではないだろうか。多分監督の中では、少年主人公が最初からかっこよくスマートに活躍するなんてありえないことなのだ。だからこの映画の中の正太郎は、ごく普通の、対してかっこよくもかわいくもない少年だ。原作ファンの皆様にはそのあたりも納得いかない所なのだろうが・・・
 この映画の中で正太郎少年(池松壮亮)とその母親(薬師丸ひろ子)だけが陰影が深い。主役級の2人についてはつい掘り下げたくなってしまったのだろう。他の登場人物はいわゆるマンガのキャラクターだ。演技もおそらく意図的に類型的だし、衣装もデフォルトで決まっている。例えば、正太郎の同級生にしても、正太郎の私服衣装は毎回変わっているのだが、同級生の衣装は同じままだ。少女科学者役の蒼井優の衣装は何パターンかあるが、これは着替えというよりコスプレ感覚だろう。正太郎がいかにも小学生が着そうな服を着ているのとは対照的で、日常ではありえなさそうな服だ(かわいいけどね)。
 正太郎母子にだけ妙に生活感があるのも、監督のこだわりどころが鉄人そのものとは乖離していることの現われだろう。このあたりの、室内や食事風景の描写は相当上手く、この2人が多分こういう生活をしているんだろうな、という雰囲気がある。母子家庭でそだった正太郎の母親に対する気遣いや、転校してきた学校で浮いてしまう感じ、母親が息子に対して漠然と抱く不安感等、いちいち上手い。
 それに比べると鉄人そのものが登場するシーンは、全くと言っていいほど面白みがない。そもそも鉄人は関節が少ないロボットなので、3Dで動かしてもアクションに迫力がないのだ。しかも基本的にスピードが遅い。よっぽどアクションのセンスのある映像作家でないと、かっこよく動かすのは至難の業だと思う。そして悲しいかなアクションは明らかに冨樫森の得意分野ではない。やはりこれは平面画でこそ面白いものなのだ。エンドロールで原作の絵の一部が挿入されるのだが、おそらくそこそこの予算をつぎ込んだであろうCGの鉄人&ブラックオックスより、横山光輝の絵一枚の方が圧倒的にかっこよく洗練されている。
 鉄人そのものに対する監督の愛情は微塵も感じられないのだが、子供と親の描き方がなまじいい感じなので、下手にけなせないというものすごく微妙な映画。この際、鉄人は正太郎の脳内だけの存在で(だったら周りの人達があんなにマンガ的なのも納得がいく)、転校の不安感や、一人で頑張る母親を支えなければというプレッシャーに耐えざるを得ない少年が、日常に耐え成長していく為に必要とした「強い自分」の幻想が鉄人とも考えられないだろうか。だからラストシーンに鉄人は出てこない=必要なくなったのでは。・・・なんて、こじつけですよ。

『ロング・エンゲージメント』
 第一次世界大戦中のフランス。戦場を抜け出すため自らの手を撃った5人のフランス兵が、死刑を宣告された。5人の中で一番若いマネクの婚約者だったマチルド(オドレイ・トゥトゥ)は、彼を見たという元伍長の話を聞く。マネクは生きているという直感を頼りに、私立探偵のピールを雇い、マチルドはマネクを捜し続ける。
 フランスのミステリ小説「長い日曜日」を原作とした、ジャン=ピエール・ジュネ監督の新作。意外にも時代劇だが、監督独自の映像美は健在だ。特にヒロインが暮らす農場やヒロインの部屋の様子は、「アメリ」を彷彿とさせる、温かみのあるファンタジックな映像だ。色調は黄色味がかってあたたかく、ブルーを基調とした戦場の冷たい映像とは対照的だった。「アメリ」でもアメリの部屋の内装がとても魅力的で、こんな部屋に住みたい!とわくわくしたが、今作のマチルドの部屋も温かみがあって、居心地が良さそうだ。こういう「好きな人にはたまりません」的な細かいツボを押さえているのは、ジュネ監督ならではだと思う。また、マチルドの伯父夫婦を始め、郵便配達夫や元兵士達や探偵、さらには犬や猫など、脇を固めるキャラクターが大変魅力的。メインキャラクターよりも遊び心ある造型になっている。このあたりもジュネ監督ならではだと思う。
 マチルドの癖や習慣の説明、彼女の心理描写などちょっとコミカルなシーンが多いのは映画オリジナルなのかと思っていたら、原作小説も同じようなノリでちょっと意外だった。マチルドの生い立ちや体の障害などに若干アレンジはあるものの、ストーリーはほぼ原作通り。しかも原作の文体の雰囲気までかなり忠実に再現されていたと思う。正直、もっと監督の持ち味が色濃く出た映画なのだと思っていたので、これには驚いた。この原作にはこの監督で正解だったということだろうか。
 「アメリ」では一目ぼれという一種の思い込み=妄想を現実にしようと勇気を振り絞る女性が主人公だったが、本作では自分の直感=妄想が現実であると証明しようと奮闘する女性が主人公だ。どちらも意志の強さでは共通しているが、本作のマチルダの方がずっと強か。自分の身体障害さえ武器にして婚約者を捜し続ける姿は野太くさえ見える。演じるオドレイ・トゥトゥは、姿は可憐で愛らしいのだが、なぜかやっていることはたくましいという役柄が多いなぁ(笑)。
 2時間以上の結構長い映画なのだが、物語はスピーディーで、最後まで飽きなかった。この手のミステリ作品というと、多分あのネタだろうなと大体見当はつくのだが、パズルのどの部分にどのキャラクターが当てはまっていくのかという面白さがあった。ただ、登場人物が多いので、それぞれの名前と顔を冒頭で必ず覚えておかないと話についていけない。名前と役職が字幕に出た人は必ず終盤まで絡んでくるので要注意。

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