2月

『トニー滝谷』
 「トニー滝谷の名前は、本当にトニー滝谷だった」。この一言から始まる静かな映画。村上春樹の短編小説を市川準が映像化した。村上春樹の小説としては、20年ぶりの映画化だそうだ。イラストレーターとして働いていたトニー滝谷(イッセー尾形)は孤独に生きてきた。しかしある時1人の女性(宮沢りえ)を好きでたまらなくなり、彼女にプロポーズする。結婚し幸せに暮らしていた2人だが、妻は突然交通事故で死亡する。トニーは妻と背格好が同じ女性をアルバイトとして雇い、妻の死に慣れる為に、妻が部屋一杯に残した洋服を着てもらおうとする。
 主演のイッセー尾形は、20代から中年までのトニーと、トニーの父親の二役を演じる。大学生役はさすがに厳しいんじゃないかと思ったが、見ているうちに違和感がなくなってくるのが流石だ。宮沢りえも、トニーの妻とアルバイトの女性の二役を演じている。佇まいが正に絵になるというか、しみじみときれいな人だなぁと思う。西島俊秀がナレーションをし、俳優が所々モノローグを口にする。映画というより演劇に近い演出だった。撮影はなんと全て野外ロケだそうだ。どのシーンも一箇所で撮影されており、トニーの自宅や仕事場、パーティー会場等、セットを組みなおして撮影したそうだ。元々は、広場の中心にカメラを置いて、360度回転すると主人公の一生が語られるという映画にしたかったのだとか。屋外だからか、光に独特の透明感があり、やさしい色合いだ。坂本龍一のシンプルな音楽が、その透明感をひきたてている。
 トニーは子供の頃から孤独で、それが普通のことだと思っていた。しかし妻と出会ったことで孤独ではなくなる。孤独ではない幸せを知った人は、もう孤独に慣れることはないのかもしれない。しかし、結婚して幸せでも、孤独がなくなることはない。トニーの妻は素敵な洋服を見ると買わずにはいられない質で、自分の中の空洞な部分を洋服で埋めている気がすると話す。結婚して幸せに暮らしていても、彼女は洋服を買わずにはいられない。そしてトニーもそれを止めることは出来ないし、買ってしまう妻の心理は理解できなかったのだろう。お互い一緒にいて満たされているのに、それでもなお孤独は残る。そんな免れ得ない孤独というべきものが映画全編に満ちていて、ひんやりとした手触りを残す。
 近しい人がもういないという状況になかなか慣れない感じ、そしてその状況にだんだん慣れていって、その人の持ち物が何ら意味を持たなくなって行く過程。トニーが雇った女性が、高価な洋服で一杯の部屋の中で泣き出してしまう場面。なんとも言えないさみしさに満ちている。映画のラストシーンは原作小説にはなかったそうだ。監督はインタビューで映画のラストを「僕の甘さ」と言っているが、孤独に慣れてもなお誰かに手を伸ばさずにはいられない、そんな人間のさみしさとある種の希望が感じられた。

『レイクサイド・マーダーケース』
  『ユリイカ』の青山真二による一見ベタなサスペンス。しかしこれがなかなか興味深い。原作小説は東野圭吾。
 湖のほとりの別荘で、名門中学「お受験」の為の合宿に参加している3組の親子。しかし後から合流した並木(役所広司)はその雰囲気に馴染めず、娘の受験にも懐疑的だ。そもそも並木は妻子とは既に別居中、娘の受験の為にしぶしぶ参加しているのだった。しかし突然、並木の愛人・英里子が別荘を訪れる。慌てつつもその晩ホテルで英里子と会うことにした並木だが、結局思い直して別荘に引き返した。するとそこには英里子の死体が。並木の妻・美菜子(薬師丸ひろ子)は自分が殺したと告げる・・・

 湖畔の別荘で起きた殺人事件、といえば謎解きミステリー映画か?!と思うのだが、まず最初は謎解きどころか死体隠蔽が行われる。お受験合宿で殺人事件が起きたということが知られれば大スキャンダル、受験どころではない。その為に親達は死体の身元が分からないようにし、見つからないように隠す。この過程がまずスリリングだ。しかし死体を始末した後、並木はあることに気づく。果たして真相は?
 ストーリーだけ見ると普通のミステリーのようだが、これがどうもそうではない。もちろんミステリーとしても一応のオチはある。しかしその謎解き部分を上回る得体の知れない気持ち悪さがあるのだ。これは一つには役者陣の熱演にあると思う。特に薬師丸ひろ子の何かを捨てたような怪演、柄本明の得体の知れなさは見物だ。そして主演の役所広司はさすがの安定感。他にも鶴見慎吾と杉田かおるが夫婦役だったり、豊川悦司が合宿の講師だったりと、面白い配置になっている。それぞれが濃い演技をぶつけていて(特に役所vs薬師丸、役所vs柄本)てらてら脂ぎっている。
 そしてもう一つの気持ち悪さは、端から見ていると異常な状況なのに、当事者にとってはそうではないという所だ。並木はお受験に対して違和感を感じ、他の親子と馴染めない、いわば映画の観客に近い立場のキャラクターだ(そもそも娘は妻の連れ子で実子ではない)。しかしだんだん事件の当事者として巻き込まれていかざるを得ない。しかし「外側」の人間として事件の真相に迫る並木も、最後のトドメの一発で「内側」に引き込まれてしまうのだ。終盤、事件の真相が明かされる時に柄本明がえらく陳腐なセリフを言うが、これは陳腐だからこそ反論しにくい。よしんば反論したとしても「当事者じゃないんだから」ということで却下されてしまいそうなことなのだ。この「当事者以外には分からない感情」という要素が、もう一つの気持ち悪さの原因ではないだろうか。
しかも最後は観客側までうっかり引き込まれそうになる。そしてひきこまれそうになった所で、最後の英里子の映像で客観的な視点に引き戻される。この映像は蛇足とも思えるが、青山監督はこれを付けずにはいられなかったのだろう。「絶対気持ち良く終わらせてやらねぇ!」という監督の気合を感じた。
 監督の狙いは、犯人当てや、お受験を巡る社会問題や家族の問題に焦点を当てることではないのだろう。安い2時間ドラマのような造りだが、その本質は登場人物お互いにお互いの気持ちが見えないという所にあるのではないか。青山真二は『ユリイカ』でも他人のことなど分からないという、他者理解の不可能性、しかしそれでも寄り添うくらいはできるだろう、というスタンスを見せていたのだが、今作ではそれを黒色で見せてきたような気がする。  

『レイ』
 昨年6月に亡くなったミュージシャン、レイ・チャールズの伝記映画。レイ・チャールズ・ロビンソンは幼い頃に視力を失ったが、母親は彼を甘やかさず、一人で生活できるように鍛えた。1948年、単身シアトルに出たレイはミュージシャンとして成功への階段を上り始める。しかし次第に麻薬に溺れ、女性関係も派手になり、生活は荒んでいく。
 才気溢れる新進ミュージシャンとして成り上がり、成功を手にし、しかし女関係は派手で麻薬にも溺れ、果ては麻薬所持で逮捕、ついに麻薬を絶つことを決意・・・という、ある意味王道とも言える絵に描いたようなスター街道まっしぐらだったレイ・チャールズ。彼の私生活のスキャンダルについてはかなり知られているので、この映画のストーリーには特に意外性はないだろう。実際は「噂の真相」や「フライデー」並にもっと愉快なエピソード満載な人生だったと思うのだが、製作中はご本人健在だった為か、映画の中ではあまりえげつない所は見せず、比較的きれいに纏めていると思う。とは言っても、本妻の他に常に愛人が複数いて職場が修羅場と化していたりと、相当なものだが。愛想をつかして出て行こうとする愛人に向かって、「その怒りを歌にしろ」と言って新曲の為に歌わせるなど、あんまりといえばあんまりでつい笑ってしまったくらいだ。
 しかしこの映画、映画本体としてはそれほど突出していない。むしろ、時系列も(時々子供のときの思い出が挿入されるが)そのままで、素直に起承転結のあるごくオーソドックスなもの、凡庸といってもいい。ラストの無難さなど拍子抜けするくらいだ。しかしその凡庸な映画が、レイの歌声が流れるやいなや、輝きだす。正直、歌の使い方は、同じ音楽家の伝記映画でも『五線譜のラブレター』の方がストーリーと巧みに絡み合っており、上手かったと思う。しかしそれでも、レイの歌の力が映画を輝かせている。
 この映画の主役は、レイ・チャールズの歌そのもので、歌を引き立てるために映画が作られたと言ってもいいと思う。レイ役のジェイミー・フォックスの、何かが憑依しているとしか思えないそっくりな熱演ぶりも、映画の為というよりはレイ・チャールズの為という気がしてしまう。フォックスは映画の中でのピアノ演奏シーンは、吹替えなしでやっているそうだ。彼自身3歳からピアノを習っていて、元々はクラシックピアノの奨学生として学校に入ったのだとか。オーディションの時にはレイ本人も同席していて、散々ダメ出しされた為に、フォックスも監督ももう駄目なんじゃないかと思ったくらいだという。しかしその甲斐あって、この映画では素晴らしい演技を見せている。
 映画のストーリーや生前のエピソードからすると、レイ・チャールズは夫として、父親としては決して出来た人物ではなかったのだろう。また、麻薬に溺れたり、世話になったレコード会社をあっさり見切ったり(まあビジネスとしては正しいが)と、人間としては相当に欠点のある人だったのだと思う。しかしそれを上回る人間的な魅力(とにかくモテるし)、そして圧倒的な音楽の才能を持っている人だったのだろう。彼の歌だけで凡庸な映画を最後まで持たせるのだから。・・・でもね、子供12人はやりすぎ(笑)!

『ソン・フレール 兄との約束』
 死にゆく兄を見守る弟。冒頭、2人が地元の老人と一緒に海を眺めるシーンは穏やかそのものだ。しかしそこにたどり着くまでには長い葛藤があった。兄・トマ(ブリュノ・トデスキーニ)は血液の病気が再発すると、弟・リュック(エリック・カラヴァカ)に連絡をとる。しかし、この2人は実は仲が良くなく疎遠だった。元々性格が合わない上、リュックは同性愛者であり、トマはそれを理解できないのだった。しかしリュックはトマの看護を引き受け、2人の関係は徐々に変化していく。
 身近な人が病気で倒れるというのは、身近な人が急死することとはまた別種の辛さがある。徐々に弱って体が動かなくなり、死に向かっていく様を見続けなくてはならないのは、ひょっとすると急にいなくなられるのよりもしんどいかもしれない。トマの恋人は彼の看護に耐え切れず、離れていく。そしてもちろん、トマとリュックの両親は平常心ではいられない。父親はトマの病状が好転しないのを彼の意思の弱さのせいにし、思わず「リュックが病気だったらよかったんだ。リュックの方が頑丈だから。お前(トマ)はいつも意志が弱い」とぶちまけてしまう。ある程度病状が進行した患者に対して、意思の強さ云々というのは相手を傷つけることに他ならないし全くのナンセンスだというのに。父親の方が息子達よりも先にパニックに陥ってしまっているのだ。そして母親はおろおろとするばかり。このシーン以降父親は画面に姿を見せない。結局、父親は息子が死に向かっているということを受け入れられなかったのかもしれない。
 比較的冷静に対処しているのは、兄とは疎遠だったはずの弟だけだ。このある程度距離があったということが、弟が兄を看護し続けることが出来た理由の一つではないかと思う。そしてお互いに今まで知らなかったからこそ、最後に相手のことを知りたいと思うことが出来たのではないか。ただ、この2人は結局、最後まで理解しあうことはできなかったのだと思う。終盤、兄が弟に「愛している」と告げる。が、その言葉も背中を向けての言葉であり、2人が向き合うことはない。家族の間の蟠りはそう簡単には解けないし、弟も兄を正面から受容することは出来ない。でもそれで良いのだと思う。それがこの兄弟の間の関係なのだろうから。完全に理解しあうことがなくても、ただ寄り添うだけでもいいと思うし、死んでいく人に対して出来ることはそのくらいしかないのかもしれない。映画のラストについては賛否両論ありそうだが、あれも一つの選択ではあると思う。少なくとも私には否定できない。その後のリュックの気持ちが気になる終わり方だった。
 トニ役のブリュノ・トデスキーニはこの役の為、12キロの減量をしたそうだ。肉体的にも精神的にも追い詰められ、ぎりぎりの状態だったそうだ。パトリス・シェロー監督は前作『インティマシー/親密』でも人間の肉体に対して執拗な目線を示していたが、今作でも衰えていく体を残酷なくらいに直視しており、肉体に対する拘りを感じた。肉体があまりにも肉体のまんまというか、画面を見てうろたえそうになる時もあった。音楽も殆どなく、大きなストーリーの展開もないのに劇的なものを感じるのは、俳優トデスキーニの肉体の説得力と、トマとリュックの間の感情の表面には出ない内圧によるものだったのかと思う。

『猟人日記』
 伝説のビート作家と言われるトロッキの小説『YOUNG ADAM』を、新鋭監督デヴィッド・マッケンジーが映画化した本作。主演は文芸作品は久々となるユアン・マクレガー。また、デレク・ジャーマンの映画に頻繁に出演していたティルダ・スウィントンが存在感を示している。
 ’50年代のグラスゴー。運送船で働くジョー(ユアン・マクレガー)は運河で若い女の水死体を引き上げる。彼の回想と現在とが交錯し、死体にまつわる真相が徐々に明かされていく。
 イギリスの曇り空の下、映画は一貫して陰鬱だ。フィルム自体が青っぽい色合いに加工されているのか、頻繁に出てくる水のイメージと相俟って、寒々とした印象を与える。所々緑の芝生や青空も見えるものの、温かみは感じられず、冷えびえとしてる。
 主人公であるジョーは、何を考えているのかよくわからないし、何をしたいのかおそらく自分でもよくわかっていないような若者だ。元恋人の会話からは、ジョーは元々労働者階級ではないらしい、そこそこ学があるらしい、作家志望であったということが窺われる。しかし「中国に行く」といいながら結局運河で働き、船主の妻エラ(ティルダ・スウィントン)との情事に耽る。彼の乗り込んでいるのが運河を行き来する小さな貨物船というのも象徴的だ。一箇所に留まらず、流れのままに行ったり来たりとふらふらしている。船の上のシーンが多く、常に背景が流れていたり足場が揺れていたりするのも、ジョーの根無し草な無軌道さを反映しているかの様だ。女性関係もいきあたりばったりで、夫が死に、船に転がり込んできたエラの妹や、下宿先の家主の妻など、次々に関係をもっていく。それも特に嬉しそうではなく、なんとなくとだ。ジョーは結局何もなしとげられない、自分の責任をまっとう出来ずどこにもたどり着けない、おそらく延々とうろうろとしているであろう人間として描かれている。その胡乱さは現代に通じるものがあるかもしれない。
 実は見ている間かなり眠かったのだが、ユアン・マクレガーが主演でなかったらさらに退屈な映画になっただろう。スターウォーズに主演している俳優がこういった小規模な作品に主演しているというのは、冷静に考えるとすごい。そして英雄役も、ごく普通の労働者役も難なくこなせるユアン・マクレガーは、やはり使い勝手の良い役者だと思う。結構いい年なのにこの映画の中では青年にしか見えないというのも、流石だと思う。また、デヴィッド・バーンの主題歌が気だるくて良い。他にも参加ミュージシャンは結構豪華。

『パッチギ!』
 井筒和幸監督の前作『ゲロッパ!』は正直駄作だと思ったのだが、今回はもっと本腰入れて撮っている感じがする。
 グループ・サウンズ全盛の1968年。京都の高校生松山康介(塩谷瞬)は、朝鮮高校の番長・アンソン(高岡蒼佑)の妹で、フルートが得意なキョンジャ(沢尻エリカ)に一目ぼれした。彼女がフルートで演奏していた曲が「イムジン河」という南北に分かたれた朝鮮半島を歌った曲だと、音楽に詳しい青年坂崎(オダギリジョー)に教えられる。キョンジャと親しくなりたい一心で、康介は、ギターの弾き語りで「イムジン河」を練習し、朝鮮語を独学し始める。

 日本版ロミオとジュリエットであり、ウエストサイドストーリーであるわけだ。若い男女が惹かれあうが、彼らの間には民族の違いという深い川がある。が、その川は本当に越えられないほど深いのか?
 康介が葬式で在日朝鮮人の老人に「お前にわかるか」と言われ、何も言えなくなるシーンがあったが、そりゃわかれって方が無理だろうなと思う。こういうのは、仮に背景の歴史を知っていたとしても、その苦しみは当事者以外にはわからないだろう。康介もそれは承知で、だからこそくやしくて悲しくて、ギターを川に投げ捨ててしまったりする。しかしキョンジャのことはやっぱり好きだし、「イムジン河」は名曲だと思っている。だから思い直してラジオの歌番組に出演し、「イムジン河」を歌うのだ。まずは好きになることから、ちょっとづつ歩み寄ることから始めようという事か。
 「イムジン河」はザ・フォーク・クルセイダーズが日本語訳で歌ってレコードを発売しようとしたが、放送禁止歌になり発売も中止された。2000年の南北首脳会議を機に、南北統一を願う歌として再び脚光を浴び、2002年にザ・フォーク・クルセイダーズのオリジナル版が発売されたそうだ。「歌ってはいけない歌などない」というラジオ番組のディレクターの言葉が良い。ちなみに、オダギリジョーが演じる坂崎の名前は、復活したザ・フォーク・クルセイダーズに参加していたアルフィーの坂崎幸之助から拝借したのだろう。エンドロールでも坂崎に謝辞が寄せられていたし。
 主人公があまりにイノセントすぎるとか、関西人にしてはちょっと在日のことを知らなすぎるんじゃないかとかいう所が気になったが、青春映画としては悪くないと思う。が、井筒監督のセンスは私には合わないみたいだ。とりあえず会ったらケンカという発想がそもそも分からない。バスをひっくり返すセンスって理解不能だわ・・・。何か意味あるんですか。そんな労力あるんだったらちょっと話し合ってみろと。「本当は恐い」とか言うならケンカしなけりゃいいんじゃないかと。あまりにも泥臭くてついていけない。この監督は一生洗練された映画は撮らないんだろうな。ちなみに関西芸能界の大御所らしき方々(すいません詳しくないんで)が多数出演されているが、こういう「ゲスト多数」的な出演は、映画がいやらしくなるのであんまり感心しないなー。

『オーシャンズ12』
 オーシャンと仲間達が帰ってきた!そして12人目とは?今回は世界が舞台だ!そしてライバル登場だ!全く良い評を目にしない今作だが、個人的には大変楽しんだ。
 前作で盗んだ金でカタギの生活をしていたダニー・オーシャン(ジョージ・クルーニー)とテス(ジュリア・ロバーツ)だが、ベガスのボス・ベネディクト(アンディ・ガルシア)に居所がバレてしまう。他の仲間達のもとへも次々とベネディクトからの脅迫が。助かるにはベネディクトから盗んだ金に利子をつけて返済するしかない。オーシャンと仲間達は海外出張して盗みの計画を実行するのだが、彼らの前にヨーロッパ最強の強盗・ナイト・フォックスことフランソワ・テュルアー(ヴァンサン・カッセル)が立ちはだかる。
 ・・・と基本設定を説明すると前作以上にマンガ的で、ストーリーも見ているうちに段々どうでもよくなってきた。そもそも冷静に考えると、最後に明らかにされる計画ならば、ライナス(マット・ディモン)、バシャー(ドン・チードル)、リビングストン(エディー・ジェイミソン)らがテスを巻き込んでリトライする必要はないのだ。それでもわざわざそういう展開にしたのは、「おミソな子3人が頑張ってたらかわいくない?」「テスにあの人の真似させたら面白くない?」というソダーバーグ監督の単なる思いつきだったのでは。ストーリーの整合性というよりは、それぞれのキャラクターをいかに立てていくかという所に重点を置いているように見える。そういう意味では、もはやスター映画でもなくキャラクター映画と言った方がいいかもしれない。細かいことはゴチャゴチャ言わず、オーシャンとラスティ(ブラッド・ピット)が並んでTVを見ている場面や、暗号だらけの商談の内容が全くわからないライナスがオーシャンに目で助けを求めるシーンを、「このキャラのこういうところがかわいい」「このキャラとこのキャラの絡みがおいしい」という見方で楽しむのが正解なのでは。ソダーバーグ監督は、案外キャラ萌えを理解しているかもしれない(笑)。
 ちなみに
あるハリウッドスターが本人役で出演しているので注目。そしてジュリア・ロバーツが全く美人に見えない(スターのオーラが出ていない!役作りなのかどうか微妙な感じ)のにも注目。華やかさではキャサリン・ゼタ・ジョーンズに完全に負けていて、なんだか気の毒になってくる。そもそもソダーバーグは女性をあんまりセクシーには撮らないのかもしれないが。ついでにすっかり老け顔になったヴァンサン・カッセルの怪しい動きに注目。いや、鍛えているのはわかるんですが・・・
 キャストが全員すごく楽しそうで、見ていて気分が良い。現場の雰囲気が良かったんだろうなと思う。これもソダーバーグとクルーニーの人徳か。特にクルーニーは本当にサービス精神が旺盛で、映画のプロモーションのために日本でのインタビューに応じていた時も、マット・ディモンと抜群のかけあいを見せてくれていた。

『ダブリン上等!』
 アイルランドの首都ダブリンを舞台に、いまいち冴えない人達が回り道を全力疾走!スーパーマーケットでバイトするジョン(キリアン・マーフィ)は恋人デイドラ(ケリー・マクドナルド)の気持ちを確かめようと別れ話を持ち出す。ところがデイドラは本気で怒ってしまい、ジョンと別れ妻帯者の銀行員サム(マイケル・マケルハットン)と付き合い始めた。ジョンの友人オスカーは延々と彼女が出来ずAVの御世話になる日々だが、今やAVにも食傷気味。デイドラの妹サリー(シャーリー・ヘンダーソン)は男に裏切られて以来、世の中を呪っていた。そしてチンピラのレイフ(コリン・ファレル)は明るい家庭を手に入れるべく、資金確保の為銀行強盗を企てるのだった。ジョンとレイフの友人のバス運転手ミック(ブライアン・F・オバーン)は、子供のいたずらのせいで交通事故を起こしてしまいピンチに。一方レイフの天敵である刑事ジェリー(コルム・ミーニイ)は自分を主人公にしたドキュメンタリーを撮らせるべく、TVディレクターのベン(トマス・オサリバン)をひきまわしていた。
 大勢の登場人物がちょっとづつ係わり合い、事態はジェットコースターのように展開していく。皆そんなに不幸ではないはずなのに、そのことに気付かない。ささやかな幸せが欲しいだけなのに、やっていることが押しなべてとんちんかん。でもそのとんちんかん加減故に憎めない。ジョンにしてもサリーにしても、実際はそんなに不幸なわけじゃない。でもそれに気付くにはちょっと時間が必要なのだろう。そいういう意味では原題の「インターミッション」はぴったりだ。
 大勢のキャラクターが、右往左往しながら、無駄なあがきを延々と続けつつ、なんとかハッピーエンドを目指している。どうしようもない人達なのだが、それを描く視点は辛辣なものではなく、どこか優しい。若い女と浮気した挙句に妻にボコボコにされる銀行の支店長にしろ、アメリカ流の社員教育を目指しながらもどこかしまらないスーパーの店長も、タフガイを気取っているが実は大したことない刑事にも、それなりに作り手側の愛情が感じられるのだ。特に美人の姉に対してコンプレックスを持っている(そして何故かヒゲがある)サリーに対する視線は暖かい。

 

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