1月
『五線譜のラブレター』
870曲にのぼるミュージカルや映画音楽を作曲したコール・ポーター。この映画は、彼の人生を、彼が生み出した名曲の数々を使って綴ったミュージカル映画だ。
1964年、コール・ポーター(ケビン・クライン)はニューヨークの自宅で孤独な人生の幕切れを迎えようとしていた。そこにゲイブ(ジョナサン・プライス)と名乗る演出家が現れ、彼を古い劇場へといざなう。そこで上演されていたのは、ポーターの半生だった。
舞台上のミュージカルから若き日のポーターの人生へといざなわれ、またそれを見ている老いたポーターへと引き戻される。物語に没入しそうになると、その物語を見ている老人のポーターが出てくるので、最初のうちはそれが話の腰を折ってうっとおしいなと思っていた。しかし、最後にそうかこの為だったのか!と納得した。この映画はコール・ポーターへの鎮魂の作品だったのだと。「ブロウ、ガブリエル、ブロウ」では思わず涙が出た。
この映画の中では、ポーターと彼の妻・リンダ(アシュレイ・ジャッド)との関係に焦点が当てられている。ポーターとリンダは強く惹かれあって結婚したのが、実はポーターは同性愛者だった。結婚してからも同性の恋人と次々と付き合っていたらしい。それでもリンダはポーターを愛し、彼を支え続けた。ハリウッドに出てきたポーターが羽目を外しすぎて、一旦は別居するものの、ポーターが落馬で足を大怪我すると、リンダは彼のもとに戻り、献身的に看護した。足を切断した方がいいという医者に対して、リンダは「足を失ったら彼は誇りを失い、二度と立ち直れない」と主張し、止めさせる。リンダはポーターにとって最大の理解者でありミューズだったのだ。ただ、この事故によってポーターがリンダだけのものになったんじゃないかという皮肉な見方も出来るのだが。
ポーターとリンダの愛情関係は、なんとも言い難いものだ。良き伴侶、戦友ではあっても、ポーターにとっては恋愛感情とは異なるものだったろう。リンダも前夫とのいざこざで男には懲りており、「独立したカップル」になろうとポーターに話す。が、リンダの方はポーターに対して、恋愛感情が全く無かったとは考えにくい。ポーターは結構遊び人だったそうだから、やはりストレスも受けただろう。それでも彼を支え続けたエネルギーはどこからくるのだろうと思った。よっぽど好きだったのか彼の才能を信じていたのか。両方なんだろうが、リンダ自身がとても強い人だったのだろう。ポーターとリンダのような関係にはちょっと憧れるが、相当しんどいんじゃないかと思う。
ポーターの作った曲が、映画の中では彼の心情に合わせて使われる。その名曲の数々を映画に歌うのは、早々たるミュージシャン達だ。ミュージシャン本人がちゃんと映画の中の人物として登場して歌ってくれる。特にエルヴィス・コステロの「レッツ・ミスビヘイブ」、シェリル・クロウの「ビギン・ザ・ビギン」、ヴィヴィアン・グリーンの「恋の売り物」が気に入った。主演のケビン・クラインも歌い踊っているのだが、これが上手くてびっくり。音楽映画の醍醐味を目一杯味わった。『ほら男爵の冒険』
チェコのアニメーションの巨匠カレル・ゼマンによる、実写とアニメーションとの合成映画。日本ではTVでしか放映されたことがない、幻の作品だとか。私はカレル・ゼマンの映画とは、2004年の夏に上映された特集「カレル・ゼマン レトロスペクティブ」で出会ったのだが、ジューヌ・ベルヌの小説のような、レトロSF冒険映画や、絵本風の美しいファンタジーアニメが忘れがたかった。今作は、俳優を使った実写とアニメーションとの合成で、今で言うなら特撮やSFXのはしりのような作品なのだろうが、ゼマンの場合、SFXと言っても、本物のようにリアルに見せようという気はあんまりないみたいだ。エッチング風なコラージュの中で役者が演技しているという、作り物めいた雰囲気をむしろ強調しようとしている感じがする。しかしそれがチープだということはなく、むしろよりファンタジックに、絵本の中の場面のように見せている。アニメーション(アニメという言葉から連想されるようなセルアニメではなく、ペン画風のイラストを使用したもの)部分との組合わせの妙みたいなものがある。リアルに見せるだけが映画ではない、作り物だからこそ楽しいという、特撮の醍醐味を熟知していた監督なのだと思う。
お話はあの「ほら吹き男爵」をベースにしていて、有名な大砲の玉に乗っかるシーンや怪鳥にさらわれるシーンがちゃんとある。そしてオリジナル要素として、月から来た飛行士と姫君のロマンスが絡む。ゼマン映画のヒロインは皆ちょっとふっくらしていて可愛い女性だ。これはゼマンの好みなのだろうか。この映画の姫君も、ものすごく美人というわけではないが、可愛らしかった。
ただ、昔の映画だからか監督の構成力の問題なのか、どの作品もテンポがとてもゆっくり。この映画もその例にもれず、その為見ているとやたらと眠くなる。そういえば「カレル・ゼマン レトロスペクティブ」も眠気と戦いながら見たんだった・・・。正直言って3割ほど寝てました。『マイ・ボディガード』
第二の『レオン』と唄われていた、屈強だけどナイーブな男&美少女子役映画。確かに子役のダコタ・ファニングは可愛くて演技も上手く、その時点でこの手の映画は7割方成功と言ってもいいのだろうが、『レオン』とはその物語の核が大分違う。切なさや感動の涙を期待すると肩透かしに終わるだろう。
元CIAの特殊部隊員ジョン・クリーシィ(デンゼル・ワシントン)は、メキシコ・シティに住む若い実業家の娘のボディガードに雇われる。小学生の娘・ピタとの交流の中で、クリーシィは生きる希望を再び見出していく。しかしピタが誘拐され、クリーシィも重傷を負うのだった・・・
荒んだ生活をしてきた男と無垢な少女との交情というのは、確かにこの映画の一つの要素ではあるし、予告編などではそのあたりを前面に出していた。が、この映画のメインはそこではない。むしろ、後半のクリーシィの超直球な復讐劇がメインなのだ。昔のコネやら警察内部のスキャンダルを掴みたい新聞記者やら、持てる手段は全て使って犯人を追い詰めていくのだが、このやり口が容赦ない(何しろ元特殊部隊なので拷問なんて得意技である)。目には目をという感じでばんばん血祭りに挙げていく。重傷をものともせずに復讐をとげていく姿は爽快でもあるのだが、アクションは少なめなものの結構血なまぐさい展開なことに加え、私的正義による復讐という行為は、人によっては抵抗を感じるかもしれない。
主演のデンゼル・ワシントンとダコタ・ファニングは流石に芸達者なので、それだけで映画に引き込まれるが、話の展開としては、特に後半の犯人を特定していく過程はちょっと強引だ。あんなに簡単に警察内部の情報がつかめたり、銀行口座の持ち主がわかったりするというのは、ちょっとご都合主義かもしれない。
他に不満に思ったのは、クリーシィがなぜ心を閉ざし、酒におぼれているのかの説明があまりなかったこと。CIA時代が原因なのだとはわかるものの、具体的な事情がわからないので、何故そんなに苦悩しているのか説得力がない。また、ピタとの触れ合いももっと描いて欲しかった。復讐に至るまでのテンションが、前半では感じられないのだ。ついでに、ちょっと昔のMTV風なフラッシュバックや手ブレカメラ風の荒い映像が多用されるのだが、これは正直言ってうっとおしかった。スタイリッシュを目指しているのだろうがかえって野暮ったい。そんな小細工する必要ないのに。『悪魔の発明』
チェコのアニメーション作家カレル・ゼマンの代表作。原作はゼマンが愛好するジュール・ベルヌの小説だ。ゼマンお得意の、ノスタルジックなレトロSFの世界が展開される。いつも通り、物語の語り口が冗長なのはご愛嬌だ。物語上不必要と思われるシーンも延々と続くんだよなー。正直、物語の構成はあまり上手くないと思う。多分、撮影したシーンをカットするのがもったいなくなってしまったのでは・・・。
背景は銅版画風のイラスト。屋内や外壁のセットにも、ご丁寧に銅版画風の細い黒線が入っているのには感心したというかあきれたというか。その風景の中で、生身の俳優が演技し、銅版画風イラストを使ったアニメーションの汽車や飛行船がコラージュ風にちりばめられ、またプラモデルの潜水艦が動くのだが、段々どこまでがアニメーションでどこまでが実写なのかわからなくなってくる。遠近感も、絵画の中っぽく微妙にフラットな感じがして、不思議な雰囲気を醸し出している。この監督はやはり、まるで本物のように見えるセットを用いた映像ではなく、精緻に作られているが明らかに作り物と分かる、「うそ臭さ」を残した映像を目指していたのだと思う。
ゼマン映画ではお馴染みの、空飛ぶ羽根付き自転車のような乗り物や、様々な飛行船、潜水艦、大型船などが続々出てくるのが楽しい。また、今回は水中のシーンが多いのだが、妙な潜水服と水中を走る自転車みたいな乗り物がユーモラス。水中で潜水服を着た人同士が剣を抜いてケンカをしたり、サメと格闘したりする。こういう小技をいちいちやるから、映画が冗長になると思うのだが、その冗長さこそが楽しいのかもしれない。
無邪気な科学者が研究に夢中になった結果、その開発した技術が悪者に悪用されて恐ろしい兵器が誕生してしまう、というパターンは、SFの王道なのか。
王道といえば、悪役のアジトが火山島にあるのや、アジトには水中トンネルを通って入るのは『Mr.インクレディブル』と同じだった。これもやはり王道なのか。『ベルヴィル・ランデヴー』
2003年度アカデミー賞で、長編アニメーション映画賞と歌曲賞の2部門でノミネートされたのをはじめ、各国の映画祭でノミネート、受賞されまくったフランスのアニメーション。舞台は戦後間もないフランス。おばあちゃんは自転車選手の孫シャンピオンと犬のブルーノと暮らしている。しかしツール・ド・フランスの真っ最中、シャンピオンが謎のマフィアに誘拐されてしまったのだ!おばあちゃんはブルーノと共にマフィアの船を追い、とうとう「ベルヴィル」という都市にたどり着くのだった。「ベルヴィルのトリプレット(3つ子)」と呼ばれる歌手の老婆3姉妹の助けを借り、おばあちゃんはシャンピオンを捜すのだった。
予告編を見た段階で、「何何これはーっ!!」と私の心をわし掴みにしてしまったこの作品。グロテスク直前くらいまでデフォルメされたキャラクター(特にマフィアの黒服のデフォルメ加減はすごい。四角いよ。)に、ペン書きの線に水彩絵の具で色付けされたような渋い背景。実際に見てみたら、シュールかつノスタルジックな世界が展開されていた。おばあちゃんが孫を助けに行くという基本的なストーリーはあるものの、細かな設定は説明されない。そもそもセリフが殆どないので、キャラクター達が何を考えているのかは推測するしかない。よく見ていないと何が起こったのか見落としてしまいそうになることも。
そもそも監督のシルヴァン・ショメは、ストーリーの細部は気にしていないんじゃないかと思う。実際には細かい設定があるのかもしれないが、それはわざわざ語ることだとは考えていないのでは。これはあくまでナンセンス、シュールなジョークの世界だ。冒頭のレトロ風な白黒アニメーションの内容からして、トリプレットの歌の魔力によって観客が猿になり踊り子の衣装をむしりとったり、タップダンサーの靴に歯が生えてダンサーを食べてしまったりと、かなりブラックなジョ−クになっている。正直、どういう映画かと説明しようとすると「・・・どういう映画だっけ・・・」と説明に困るような、何か意味付けをしようとすると、それが即座にエンドクレジットでも流れる主題歌「BELLEVILLE RENDEZ-VOUS」によって打ち消されてしまうような、解釈を拒むような所があると思う。それはこの作品にとって全くマイナスなことではなく、ただただスクリーン上の映像に見ている側を埋没させるような効果があったと思う。
画面を見ているだけで実に楽しい。背景(ベルヴィルの町並みが素晴らしい!大友克洋絶賛というのも納得)や室内の細かい所まで書き込んであるというのはもちろん、アニメーションのアニメーションたるゆえんをとっくり味わわせてくれた。ツール・ド・フランスのシーンの自転車の動きや終盤のカーチェイス等、見ているだけでわくわくする。そしてサウンドトラックが秀越。主題歌には魔力がある。ノスタルジックで怪しくて猥雑。大好きです。『ネバーランド』
あの「ピーターパン」の原作者であるジェームズ・バリと、ピーターのモデルとなったと言われる4人の子供達を巡る、史実を基にした映画。監督は『チョコレート』のマーク・フォスター。
20世紀初頭のロンドン。劇作家ジェームズ・バリ(ジョニー・デップ)の新作の評判は散々なものだった。そんな中、バリは公園でシルヴィア(ケイト・ウィンスレット)と4人の息子達に出会い、仲良くなる。
物語の主軸は2本ある。1本はバリとシルヴィア、その息子達との交流。バリは妻と過ごす時間よりも、シルヴィアと子供達と過ごす時間の方が長くなる。そして子供達との遊びの中から創作のヒントを得、徐々にスランプから脱していく。特に父親の死を見てから、早く大人になろうとする三男ピーターの姿には、兄を亡くした時に母親を慰めようと兄の真似をした自分を思い起こし、彼の心をほぐそうと尽力する。そしてピーターも徐々に心を開いていく。またシルヴィアは病にかかっており、未亡人である為経済的にも苦しい。バリは出来る限り彼女をサポートするが、社交界にあらぬ噂をたてられてしまう。この2人に恋愛感情があったのかどうかは微妙な所だと思う。お互いに信頼しあい、愛情はあったと思うが、いわゆる男女の恋愛ではなく、子供達をひっくるめて、むしろ子供達を第一においた家族愛に似たものではなかったかと思う。少なくとも映画の中では、直接的な恋愛感情は示されないのだ。これは、バリ自身が大人になりきれていない、子供の部分を多く残した人であったことと無関係ではないと思う。
そしてもう1本は、バリと妻との関係だ。子供達と仲良くなるほど、元々仲が冷めていた妻との距離は開く。妻メアリーはごく普通の女性。バリを社交界に出そうとするものの、バリ本人には全くその気がない。彼女は作家であるバリが自分に見たことのないような世界を見せてくれるのではないかと期待していた。しかし、彼が異世界への同行者に選んだのは赤の他人の子供達とその母親だった。メアリーは「ピーターパン」を良い作品だと誉める。そしてシルヴィア一家のことも、最後には「あなたにとって必要な存在」であると理解する。メアリーはバリのことを全く理解していなかったわけではないのだろう。バリの方が、夫婦関係を維持できなかったのかもしれない。そういう点でも、やはりバリは立派な大人とは言いがたい人として描かれている。
バリは大人になりきれない人、そしてピーターパンは永遠の少年だ。予告編では少年との触れ合いが強調され、これはメロドラマ風に盛りあげるのか、「永遠に子供であれ」的なテーマが出てくるのかと危惧していたが、そうではないので安心した。シルヴィアの長男は、母が病気であることを知り、彼女の為に何が出来るかと思い悩む。それを見たバリは「少年が大人になった」と微笑む。大人になるのは忌むべきことではない、ただ、急いでならなくてもいい、なるべき時にちゃんと大人になればいいのということをきちんと踏まえているのには好感が持てた。バリは兄の死という事件により、大人になることを早くに強いられた。自然に大人になることができなかった。だからこそ、きちんと段階を踏んで成長していく大切さを分かっていたのだろう。
ピーターは最初、バリの話を「嘘だ」と嫌がる。が、最後にはバリの「想像してごらん、信じてごらん」という言葉に応じることで母親を失った悲しみと向き合うことができる。想像力が人を救うこともあるのだというのが、バリと同じく「嘘話」を作りつづける監督の気持ちだったのかもしれない。華やかさはないが丁寧に、品良く作られた秀作だと思う。『モーターサイクル・ダイアリーズ』
23歳の医学生エルネスト(ガエル・ガルシア・ベルナル)は、同じく医大の研究生である友人アルベルト(ロドリゴ・デ・ラ・セルナ)と共におんぼろバイクで南米大陸横断の旅に出る。純真で人懐こいエルネストと口の上手いアルベルトは、様々な人と出会い、見知らぬ世界を目にしていく。
エルネストは後のチェ・ゲバラ。いまだ世界中で愛される革命家だ。この若き日のチェ・ゲバラを主人公とした、実話を元にした映画であるものの、若き日の英雄の物語という感じは全くなく、ごく普通の青年の青春映画として作られていた。私は恥ずかしながらチェ・ゲバラについては殆ど知らないのだが、青春ロードムービーとでもいうべき楽しさがあった。下手に伝記映画のようにしなかったことで、映画としての間口が広がったのではないかと思う。監督のウォルター・サレスは、「セントラル・ステーション」でも老人と子供の交流をロードムービーの形で描いていたが、旅の映画が好きな監督なのかもしれない。
とりたてて盛り上がるようなストーリーはなく、むしろびっくりするくらい平坦・直線的な映画だ。見ている間はちょっと冗長ささえ感じたのだが、見終わった後には、何か結構いい映画だったんじゃないかなーという気持ちになるのが不思議だ。これは多分に映画のロケ地である南米の風景の力によるところが大きく、役者や物語の力ではないような気がする。エルネストがハンセン病療養施設でボランティアをし、いわれのない差別をなくしたいと考えるようになる過程がクライマックスなのだろうが、それまでの流れが平坦だし、エルネストの心情が具体的にセリフによって表されるような演出はされていないので、あくまで淡々としている。でもその淡々さ加減によって、映画を見ている間は特に思うところがなくても、後からじわじわと感慨が沸いてくるような味わいがあった。
エルネスト役のガエル・ガルシア・ベルナルは「ラテンのブラピ」などといわれるだけあって、確かにハンサムだ。正直、ブラピよりかっこいいと思う。育ちが良くて気持ちの真っ直ぐなエルネスト役にははまっていた。「この人だったら周りから好かれるだろうな」という雰囲気が出ていたと思う。また、友人アルベルト役のロドリゴ・デ・ラ・セルナも頼もしくひょうきんなキャラクターにはまっていた。ただ、このアルベルトというキャラクター、口が達者で(要するにうるさくて)調子に乗りすぎる所が、見ていてちょっとイライラしてしまった。
マチュピチュ行きにしろ、泳いで川を横断するシーンにしろ、エルネストは喘息もちのくせにやっていることが無茶すぎる。そもそも呼吸器官が弱いならマチュピチュに登るな!標高高いから!空気薄いから!若さゆえの無鉄砲さなのだろうが、いくらなんでも無鉄砲すぎる気がする。ところで、最後の川を泳いで渡るシーンだが、あれは実話なのだろうか。あの場で泳いで渡る意義はなかったと思うのだが・・・。実際の話なのだとしたら、エルネストは結構芝居がかった人だったのかもしれないなと思った。『岸辺のふたり』
アカデミー賞短編アニメーション賞受賞をはじめ、各国の映画祭で賞を総なめにした短編アニメーション。わずか8分のアニメーションが(DVD発売されたにも関わらず!)大スクリーンでロードショー公開されたことは、世界でも異例の事態だそうだ。モーニング・レイトショーのみとはいえ映画館公開に踏み切ったテアトルに感謝。
デザイン、ストーリー、監督をつとめたマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィットはオランダ(アニメーション大国のひとつなんだとか)の人。今作を制作するには、シナリオ段階からおおよそ4年かかったそうだ。音楽監督は『老人と海』『木を植えた男』のノルマン・ロジェと『大いなる河の流れ』のドゥニ・シャルラン。「ドナウ川のさざ波」という曲を使っている。決して華やかな音楽ではないが、アコーディオンの音色に哀愁が漂い、映画の陰影を深めている。
幼い頃に別れた父親を待ち続ける女性の物語だ。セリフもナレーションも一切ない。絵と音楽だけの映画だ。それなのに、この画面の強さというか、説得力は何だろう。冒頭、少女と父親が自転車で走ってくるシーンで既に心を掴まれた。娘と別れるシーン、船に乗ろうとした父親が突然引き返して娘を抱き上げる場面。引き返すタイミングのリアリティに泣けてきた。そして最後のある奇跡には涙、涙。私にとっては異例の「泣ける映画」となってしまった。誰かを待つ、愛し慕うという行為の切実さを、こんなにシンプルな形で表した映画が今まであったろうかと思う。
逆光を浴びたような、光と影のコントラストの強いシンプルな画風だ。色彩もモノトーンだ。しかし細部まできっちりと計算された構図で、あるべき場所にあるべき物を配置した絵の美しさがある。わずか8分の傑作。『ビューティフル・デイズ』
うわーなんですかこの甘酸っぱい世界はー。80年代アイドル映画ですかー。ときめきメモリアルですかー。・・・かつてのアイドル歌謡曲を思わせる(おそらく現地では流行なのであろう)音楽に乗ってときめいてみようと思ったのに何かが、何かが、何かがずれている・・・。これは果たしてお国柄なのか?それともそういう狙いなのか?日本で公開されるのは珍しいインドネシアの映画。
女子高校生チンタ(ディアン・サストロワルドヨ)は詩を書くのが大好きな、明るく元気な17歳。4人の友達といつも一緒だ。学校主催の詩のコンクールで優勝間違いなしとされて張り切っていたのだが、受賞したのはクールな少年ランガ(ニコラス・サプトラ)だった。ランガが気になるチンタは新聞部としてインタビューを申し込むが、あっさり断られてしまう。お互いに相手が気に入らない2人だが、ある詩集をきっかけに親しくなっていく。しかし反対に友人たちとの関係はギクシャクしていった。ある夜、父親の家庭内暴力に悩む友人からチンタに会って話がしたいという電話が入る。しかしチンタはランガとのデートに夢中。その間に取り返しのつかない事件が起きていたのだった・・。
物語としては本当に他愛ない、古今東西の少女漫画にわんさかありそうなイベント満載だ。しかしどこか奇妙な、ぎくしゃくした味わいがある。というのも、このイベント発生の順番が普通の少女漫画だったらありえなさそうな順番だったり、イベントのペース配分がかなり微妙だったりするのだ。そろそろちゅーくらいするのでは・・・と思っていたら延々何にもしないし、でも手は結構早い段階で繋ぐんだよな・・・ともあれインドネシアの10代は、日本よりは確実に純情ぽい。
映画をぎくしゃくさせているもう一つの要因は、主人公2人のキャラクターが一貫していない所にあると思う。2人ともさっきと言ってることとやってることが違うよ!とか、何でそんなにすぐ怒るんだよ!とか、お話を面白くするためだけにキャラクターが泣いたり怒ったりしている感じがした。チンタの友人達にしても、恋愛に夢中なチンタを責めたと思ったら応援するし、どっちなんだよ!と叫びたくなる。これは映画の作り方がつたないせいなのか、この2人がそういう大人気ないキャラクターなのか、微妙な感じなのだが、まあ十中八九映画の作り方がマズいせいだろう。高校の映研が作った自主制作映画ような恥かしさがある。
もっとも、インドネシア文化を垣間見ることができたという意味では面白かった。そこそこ裕福な家には普通にメイドさんがいるんだなとか、政治的な問題が身近にあるんだなとか。女の子達のノリが日本と基本的に同じなのも可笑しかった。そうそう、女の子ってこういう感じにつるむよね!仲間の一人がフラれたりするとフッた男の子は即悪者だよね!とか。あと、チンタの親友の少女(チンタ役の子よりも日本的には美少女。しかも眼鏡っ子!)が父親のDVに悩む様が妙に生生しい所は、インドネシアの社会問題が反映されているのだろうか(詳しい方いらしたら教えてください)。
しかし最も気になったのは、チンタの部屋に「カードキャプターさくら」のポスターが貼ってあったということですよぉっ!ええっそれってどういう文脈で貼ってあるの?!パワーパフガールズとかディズニーとかと同じノリなの?!と異様に気になってしまった。詳しい方いらしたら教えてください、いやマジで。『カンフーハッスル』
チャウ・シンチーが大好きだ!・・・この一言で感想を終わらせていただきたいくらいだが、そうもいかないので無理矢理感想をひねり出そうかと。でも感想書くのがアホらしくなる素敵な映画ですよー。
文化革命前の中国。貧富の差は広がり、街にはギャング団が横行し、抗争が相次いでいた。金と権力を手にするべくこすっからい悪事に励むチンピラ・シン(チャウ・シンチー)は、ひょんなことからギャング団「斧頭団」と「豚小屋」と呼ばれるアパートの住民たちとの抗争に加担することになる。「豚小屋」には、実はカンフーの達人達が暮らしていたのだ。そしてシンの体にも秘密が・・・!
「ありえねー」というコピーが先行していたこの作品だが、実際に見てみると「ありえねー」よりも「こんなのどこかで見た見た!」というヨロコビを強く感じた。今まで見たアクション映画やらマンガやらアニメやらゲームやらの格闘シーンがよりパワーアップして再現されたような映画だ。わらわらと現れる黒服の男たちがちぎっては投げ、ちぎっては投げられるのはまるで「マトリックス・リローテッド」。しかし主要な役者が皆アクション俳優なだけあって、ワイヤーアクションを使っても動きが空々しくない。アクションがエグい、残酷だ(まあいきなり人の足が斧ですっ飛ばされたりするし)という感想も聞くが、私はそれほどエグいとは思わなかった。それよりも、女性が倒れるシーンが全く美しくない(スカートまくれあがってるしパンツ見えてるし)ことの方がある意味エグいと思う。チャウ・シンチーは前作『少林サッカー』でも美女に変な扮装ばかりさせて、女優いじり大好きっぷりを発揮していたが、今作はヒロインのみはかろうじて清楚だ。もっとも、そのヒロインの可憐さも、大家の奥さん(超かっこいい)とアパートの入居者のファニーフェイス娘のインパクトで帳消し(いやむしろヒロイン負けてる)になっている。
チャウ・シンチーの前作『少林サッカー』よりもギャグは減っていて、刺客達とカンフーの達人達の戦いなどは結構シリアスだ。これはかつてのカンフー映画、そしてアクションスター達への敬意の表れだろうか。また、前作よりもアクが薄い。ギャグの入れ方が洗練された感じがする。例えば、カメラが横移動してアパートの中を映すシーンの中に、部屋の奥の方でさりげなくウンコしている(笑)人がいる。前作だったらこういうネタはばっちりアップで撮ったんじゃないかと思う。前作でも、この手の小学校低学年男子が喜びそうなネタ満載だったから(確かパンツ被るシーンとかあったと思う)。どうやらチャウ・シンチーは本気でハリウッドを目指しているようなので、そういうネタは控えめにしたのだろうか。それでも冒頭半ケツになっていた床屋が最後のシーンで半ケツのままナンパしていたりして、監督にも譲れないラインはあるらしい(笑)。
主人公が何故強かったのか結局解明されないというストーリー上の難点はあるものの(他にも色々とあるものの)、見終わった後はそういうことは全く気にならなかった。見ている間中口が半笑いの状態になりっぱなしなくらい、目に気持ちいいですよこれは。