12月

『ハウルの動く城』
 宮崎駿待望の新作。原作はファンタジー作家ダイアナ・ウィン・ジョーンズの『魔法使いハウルと火の悪魔』だが、とりあえず原作は忘れて見ることをお勧めする。
 荒れ地の魔女(美輪明宏)によって90歳の老婆に変えられてしまった18歳の少女ソフィー(倍賞千恵子)は、悪名高い魔法使いハウル(木村拓哉)の動く城に転がり込み、家政婦として働くことになる。実際のハウルは優しい所もある美青年だった。彼女はハウルに思いを寄せつつ、ハウルの弟子である少年マルクルや火の悪魔カルシファーと共同生活を始める。
 公開前から「木村拓哉ってのはどうよ」と各所で話題騒然(笑)だったが、危惧したほどのことはなかった。ハウルの造型には、宮崎監督が美青年を描こうと四苦八苦している様子が窺われる。監督が美青年キャラクターをちゃんと描いたのは初めてではなかろうか。18歳の少女役に倍賞千恵子ってのはどうなのかという声も聞かれたが、私はそれほど違和感はなかったと思う。むしろ、宮崎駿はこういうタイプの声(ナウシカとかラナとかと似た感じですよ)が好きなのねーと、監督の業を垣間見てしまった気がした。
 登場人物達が皆、姿をコロコロと変えるのが面白い。ハウルは魔法使いだから当然変わるんだけど(髪の毛の色だけではなく、顔形も微妙に変わる・・・のは作画が均一でないのか意図的なのか?多分に無意識に変えてしまっているところもありそうだが)、ソフィーのおばあさん加減が、シワシワになったりシワが少なくなって60歳くらい?になったり、時には18歳に戻ったりとかなり頻繁に変わる。ソフィーの内面の変化が外面の変化と連動しているのが面白い。
 ソフィーはおばあさんになった方が元気になってしまうのだが、これは何かがふっきれたというより、外的年齢と内的年齢が一致したからだと思う。多分の18歳のソフィーは同年代の女の子とは馴染めなくて、居心地が悪かったのだろう。でもおばあさんになっちゃえば同年代の子なんて気にしなくていいわけで、かえって楽だと思う。ハウルと一緒に花畑にいるソフィーがはしゃいでどんどん少女の姿になるのだが、ハウルに「ソフィーはきれいだよ」と外見るを誉められた拍子におばあさんの姿に戻ってしまうシーンには、ソフィーのコンプレックスが如実に表れていて、何かわかるなぁと共感してしまった。年とった方が楽になるタイプの人も多々いると思うので。ソフィーの内面年齢と外面年齢がちゃんと擦り合わされるまでの物語とも言えなくない。
 まあ普通に面白いし十分に楽しんだのだが、『千と千尋〜』に比べるとちと物足りない。監督も年をとったしなー。体力の限界か。あと、反戦メッセージのようなものを無理矢理入れているので、お話としてはかなり収まりが悪くなっている。作品にメッセージ性を持たせるのがもう面倒くさくなったんじゃないかと思う。でも「まあ宣伝しなきゃなんないし何か入れとくか」くらいのやっつけ仕事臭さがある。

『コニー&カーラ』  
 ギャングの殺人現場を目撃してしまった男二人が、女装して女性ばかりのバンドにもぐりこみ、追手の目をくらます、というのはマリリリン・モンロー主演の『お熱いのがお好き』だが、本作はその男女逆転バージョン。もぐりこむのは何とゲイ・バーの舞台!
 おさななじみのコニー(ニア・ヴァルダロス)とカーラ(トニ・コレット)は、空港のラウンジで歌と踊りのショーを見せているが、さっぱりぱっとしない。ある時二人は、ラウンジのオーナーが麻薬絡みのトラブルでギャングに殺される所を目撃してしまい、しかもそのことに気づかれてしまう。慌てて逃げ出した二人は車でロスに。お金を稼ぎ、かつ隠れる為にコニーが思い付いたのは、ドラッグクイーンとしてショーに出ることだった。
 コニーとカーラの歌はそれほど上手くないんじゃないか(とりあえず最初は)・・・という疑問はさておき、楽しい映画である。脚本と主演は『マイ・ビッグファット・ウェディング』で同じく主演脚本を手がけたニア・ヴァルダロス。今作もにぎやかな王道ドタバタコメディだ。斬新さはないが、きちんと笑わせてくれる。共演のトニ・コレットは何と『シックス・センス』でオスメント少年の母親役を演じていた人。全然気づかなかった・・・。二人とも結構骨っぽい骨格で、特にヴァルダロスはがっしりとした華やかな顔立ちなので、フルメイクすると本当にドラッグクイーンに見える。その飽満なボディじゃすぐにバレちゃうんじゃ・・・と思ったが、それを逆手にとって「何をつめているのよ!」とゲイの仲間に胸を揉まれるシーンで笑いを誘っていた。
 2人のショーは、最初は涙が出てくるほどお寒いものなのだが、ドラッグクイーンとして振る舞ううちに、どんどん歌もパフォーマンスもショーの合間のトークも上手くなっていく。彼女らの選曲やパフォーマンスは、名作ミュージカルのナンバーを使った、ちょっとセンスの古いものなのだが、むしろベタな選曲だから盛り上がるのだ。お客さん総立ちで大合唱になるシーンには笑いを誘われると同時に爽快感がある。ミュージカルにはやはり魔力があるらしく、2人を探して各地でミュージカルショーを見まくっていたギャングの手下が、ついにはミュージカルの大ファンになってしまったというオチも可愛い。そして『雨に歌えば』のデビー・レイノルズが本人役で出演しているのも嬉しい。さすがにもうおばあちゃんなのだが、良いキャラ演を演じている。
 ただ、楽しい映画ではあるのだが、コニーとカーラがドラッグ・クイーンの振りをしていたことの顛末はちょっと安易だと思う。ゲイの人が見たらどう思うのかと気になってしまった。また、コニーが好きになった男性がそんなに素敵な人に見えなかったのも難点。最後に改心(笑)するとは言え、ゲイへの偏見に満ちた退屈な男にしか見えなかったのだが・・・。それに女性だとカミングアウトしたコニーと結ばれる、というのも、本当に好きならドラッグクイーンでもいいんじゃないの?!そんなにころっと態度がかわる男なんてろくなもんじゃないぞ!とコニーに突っ込みを入れたくなった。娯楽映画だからハッピーエンドでいいのだが、主人公以外のキャラクターに対してちょっと無神経な所が気になるなぁ。そういえば『マイ・ビッグファットウェディング』でも、結局主人公の女性は家のしがらみから抜け出せず、男性側が妥協することで結婚へとこぎつけるという、納得のいかない所があった。何と言うか、ある方向に鈍いというか鈍感というか・・・。

『犬猫』
 今年は日本映画が豊作だと思っていたのだが、年の瀬にまた名作に巡り合ってしまった。大々的な「名作!」「傑作!」というのではなく、自分の引き出しの奥の方にそっと大切にしておきたい、とても愛しく思える映画だった。なんということのない日常を繋ぎ合わせることで、ささやかな幸せが見えてくる。井口奈己監督、快心の1作だ。
 友人アベちゃんが中国に留学するというので、ヨーコ(榎本加奈子)は留守をあずかることになった。所がアベちゃんが旅立つ前日、彼氏の古田(西島秀明)と別れたスズ(藤田陽子)が転がり込んでくる。アベちゃんの手前、ヨーコは不承不承スズと同居する羽目に。実はヨーコとスズは幼なじみだったのだが、性格も好みも全然違うくせに、いつも同じ男性を好きになってしまうのだ。スズが別れた古田はヨーコの元カレ。ともかく何とか平穏な日々を過ごしていた二人だったが・・・
 同性から見ると、スズはあまり虫の好かない、身近にはいてほしくないタイプの人だと思う。細かいところまで気がついて料理が上手くて、あっけらかんとしていて要領が良くて・・・と(私的に)ムカつく要素満載だ。冒頭、アベちゃんの家で布団を敷くシーンや、アベちゃんの荷物を持って坂を上がるシーンでその要領の良さが如実に表れている。・・・ろくに働いとらんじゃねーの!私はヨーコの方が断然好感が持てる。無愛想でクール、好きな男の子とはどこかぎこちなくなってしまう奥手な面もある。演じている榎本加奈子がまた良い。彼女にとっては初めて演じるタイプのキャラクターだったそうだが、その不愛想加減が絶妙で、見直してしまった。通り一遍の映画だったら、これまで定着していたキャラクターから、榎本=スズ、藤田=ヨーコにするところだろう。そこをそうしなかったのが監督のえらい所(でも当初のプランでは榎本がスズ役だったらしい(苦笑))。スズをショートカット+ワンピースにしたところも上手い。この服装や小道具のセンスは、同性ならではのチョイスだと思う。
 
これぞ等身大女の子映画だ!と言いきってしまいたくなるくらい、女の子の生活感に満ちている。スズがヨーコにワンピースをあげるくだりや、ふてくされたヨーコが寝そべって落花生を食べまくっているシーン、ふて寝しているスズのご機嫌をとろうと、ヨーコがスズのケーキをぎこちなく誉める所とか。特にああこれってあるある!と痛快だったのが、冒頭、スズが「スプーンは?」「アイス食べたくない?」と言うだけで動かない古田にキレて、アイスを買ってきたもののそのまま家出してしまうシーン。これ(特に「スプーンは?」)、本っ当 に腹が立つんですよ!にえくりかえるんですよ!自分で取った方がはやいっつーの!
 仲があまり良くない女の子2人、というと、ともするとドロドロとした後味悪いドラマが展開しそうだが、そうはならない。映画の後味が良いのは、2人は仲が良いわけではないが、お互いに相手をおとしめるようなことはしないからだ。相手の嫌なところも、それはそれとして容認しているんだと思う。これは大事なことではないだろうか。つかず離れずの、決して「親しい」「仲良し」とは言えない関係だからこそ、ある種の友情(のようなもの)が成立するのだと思う。何でも分かち合うことが友情とは限らないし、相手が虫の好かない奴であっても、敬意をもつことは出来るのだから。

『ヴィタール』
 交通事故で全ての記憶を無くした博史(浅野忠信)は医学書にだけは関心を示し、医学部に入学する。解剖実習の時に彼の班に回ってきた遺体は、何と彼と一緒に事故に遭って死亡した恋人・涼子(柄本奈美)のものだった。解剖実習にのめり込んでいくうちに、博史は失った記憶を取り戻していく。しかし恋人の記憶だけは、現実のものと違っていた。博史は徐々に涼子との幻想の世界に生きるようになっていく。博史に思いを寄せる同級生の郁美(KIKI)は、そんな彼に詰め寄っていく・・・。
 『鉄男』『六月の蛇』等の塚本晋也監督の新作。公開前にはリアルな解剖シーンが話題になっていたが、確かに解剖された人体は非常にリアル。しかし、危惧していたような生々しさはなく、むしろ乾いた印象を受けた。肉体の内部がさらけ出されるほど、肉体のリアリティがなくなっていくのが不思議だ。
 塚本監督は肉体の変質に強い関心があるのだと思うが、今回は解剖=肉体はどうなっていくのかというテーマよりも、身近な人の死をいかに受容していくのかというテーマの方が、結果として前面に出ていたと思う。博史の場合は、過去の記憶を一切なくしているので、恋人の身体を解剖することによって、彼女の死を消化すると同時に、彼女との思い出を自分の夢の中で再構築するという、相反するような行為を同時に行っている。
 実は博史と恋人の関係は、現実には上手くいっておらず、交通事故自体も精神的に不安定になった恋人が起こしたものだった。しかし博史の夢の中では、彼女は幸せそうだった。博史が彼女が出てくる夢の話を彼女の父親にすると、父親は「娘はおまえのせいで死んだ」と激怒するのだが、彼の夢の話を聞くうちに、夢の中の幸せそうな娘の話に引き込まれていく。このあたりのくだりには、妄想の持つ引力の危うさを感じてひやりとした。
 結局、夢とはいえ娘の話を聞くことで、父親は娘の死を受容することが出来たのだと思う。しかし博史は「もう話をしにこなくてもいい」と言う彼女の父親に対して「何いってんですか、これからですよ」と微笑む。彼女との幻想の世界は益々リアリティを増し、逆に現実の世界は空虚になっていく。死んだ人と向き合うことは、時にぎりぎりまで、生きている人が手出しできない所まで人を追い込むのかもしれない。
 題材の強さはあるものの(東京国際フォーラムで「人体の不思議展」が開催されるというタイムリーさもあったし)、監督が自分の趣味に溺れてしまったかなと感じる部分も少なくなかった。特に夢の中のシーンは、涼子のダンスシーンなど、ちょっとイタいな・・・と思うところも。監督の思い入れがちょっと空回り気味な気がする。もうちょっと映画との距離感がある方が見やすい。エンディングテーマ「blue bird」を活動休止中のCoccoが歌っているが、広がりのある美しい曲だった。

『オールド・ボーイ』(ネタバレではないですが、これから本作を見る予定のある方は、なるべく読まない方がいいと思います)
 妻と子供待つ家に帰る途中だった平凡な男オ・デス(チェ・ミンスク)は、突然攫われ、気付くと密室に監禁されていた。15年後、またしても突然彼は解放される。誰がこんなことをしたのか?そして何故?彼は知合った若い女性ミド(カン・ヘジュン)の助けを借りて、復讐に乗り出すのだが・・・
 実に実に面白い。冒頭からラストまで、ジェットコースターのように次から次へと展開される出来事に引っ張られて目が離せなかった。いくら鍛えていたからって、狭い部屋に監禁されてたら運動神経鈍ってあんなにケンカに強いはずないのでは、等と細かい所は突っ込めるものの、そんなことものともしない勢いがある。実は犯人が誰であるかは割と早い時点で明かされてしまうのだが、それもマイナス要素にはなっていない。一番問題なのは、何故犯人は15年間も彼を監禁したのかだ。犯人はオ・デスが真相にたどり着くように、わざわざ布石を置いている。つまり、これはオ・デスの復讐話であると同時に犯人の復讐話でもあり、犯人がもう一人の主人公とも言える。
 で、肝心の「何故」なのだが、これは犯人の逆恨みと言ってもいいと思う。やった方は忘れていてもやられた方は忘れないものだが、この場合、あんな所であんなことしてたらそりゃあバレるさ!というレベルのことだ。しかもその後の犯人の行動は、情けなくって言い訳の仕様がない。要するに犯人にとっては自業自得だ。そんなことで、あんな目には目を的にエグい復讐されちゃあ堪らないよな・・・。
 犯人は悲劇を防げなかった自分を認めたくないから、オ・デスに責任をなすりつけて復讐をしたのではないかと思う。終盤、真相を知ったオ・デスは、ある人物を守る為に、意地もプライドも捨てて犯人に縋る。それを犯人は冷笑するが、実は犯人は勝利したように見えて、この時点で負けている。オ・デスがとったみっともない態度は、犯人がかつて出来なかったことだ。誰かを守る為なら恥も外聞もなく自分をさらす、そういう勇気がなかった犯人は、最初から負けていたのだと思う。
 結末は確かに衝撃的だ。バイオレンスな描写も多い(痛めつける&痛めつけられる場面がすごく具体的。その痛さが想像の及ぶ範囲な所がすごく緊張感を強いる)ので、そういうものが苦手な方にはお勧めできない。しかしそのバイオレンスを上回る圧倒的な情感の盛り上がりがあった。この情感が、この映画を共感できうるものにしていると思う。

『ベルリン・フィルと子どもたち』
 世界的なオーケストラであるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者・芸術監督であるサー・サイモン・ラトルが発足した「教育プロジェクト」。その一環で子どもたちがバレエ曲を踊る「ダンス・プロジェクト」がある。年齢や出身国の異なる250人の子供たちが、振付師ロイストン・マルドゥールの指揮の元、6週間の猛練習を経て、ベルリン・アリーナでストラヴィンスキーの「春の祭典」を踊った。この映画はそのプロジェクトを追ったドキュメンタリーフィルムだ。
 参加している子供たちは小学校低学年くらいから大学生くらいまでと幅広い。その中でも主に中学生グループに焦点が当てられるのだが、彼らのやる気は薄い。このあたりは日本と似ていて、皆めんどうくさがったり恥かしがったりで、ダンスのレッスンに真面目に取り組まない。ティーンエイジャーの集団はどこの国でも全く手におえないね!と普通ならうんざりしそうなのだが、振付師ロイストン・マルドゥールはへこたれない。あくまで本気で指導する。彼の指導は、素人のダンスを人前に出せる水準にしようとする厳しいものだ。彼のやり方に対して生徒や教師から、「厳しすぎる」「もっと楽しくやりたい」と反論の声があがる。しかし彼は、笑って踊るのが楽しいのではない、ダンスに集中することが楽しいのだと説明する。教師が「あなたの芸術家としてのポリシーはわかるが・・・」と言うと、彼は「私は芸術の話をしているのではない、教育の話をしているのだ」と言う。教育に対する考え方の違いが興味深かった。マルドゥールの態度は厳しすぎるようにも見えるが、それは子供たちを舐めていない、対等になりうる存在として扱っているということでもあると思う。そして、彼の本気はやがて子どもたちに伝わっていく。
 中学生グループの生徒達は、おそらく公立中学校から参加していて、その多くが他国からの移民や亡命者の子どもたちで、親たちは生活に必死な為、子供を顧みる余裕がないものが殆どだそうだ。その省みられない状態が、彼らから自信を奪っているのだという。その自信のなさが体の動きに顕著に表れているのがダンスの指導をする側にはわかるのだそうだ。更に、ダンスに打ち込むことで、徐々に子どもたちに自信が生まれていくというのが面白い。今まで勉強をやる気が薄かった少女が、少なくとも卒業はして社会に出られる技術を身につけたいと考えるようになったり、周囲と上手く馴染めなかった青年が少し砕けた態度をとれるようになったりと(この青年の突っ張り方というかぎこちのなさは、何となく他人事とは思えなかった)、成長ぶりが窺える。もちろん、映画の中では上手いこと成長したケースを提示していて、実際には変化していない生徒もいるんだろうけど。
 ともあれ、サー・サイモン・ラトルの、芸術は実生活に必要なもの、役に立つことが出来るという言葉には共感した。

『ターミナル』
 アメリカにやってきたものの、革命によって祖国が消滅しパスポートが無効になってしまった東ヨーロッパのクラコウジア人、ビクター・ナボルスキー(トム・ハンクス)は、到着した空港でアメリカへの門戸を閉ざされてしまう。しかも革命は長引き、彼は空港ターミナル内だけで生活せざるを得なくなってしまうのだ・・・
 スティーブン・スピルバーグの新作。私はスピルバーグの映画はそれほど好きではないのだが、前作『キャッチミー・イフユーキャン』が軽快で楽しかったので、今回も期待していた。しかし本作は率直に言って期待はずれだった。大外れではないのだが、当たりともいえないなぁという感じだ。
 空港に閉じ込められる、というネタを使った映画といえば、フィリップ・リオレ監督『パリ空港の人々』が思い起こされる。空港の中という限定された空間でスト−リーを展開するというアイディアの使いかた自体としては、『パリ空港〜』の方が面白かったと思う。『ターミナル』は、確かに空港を舞台とした「ちょっといい話」ではあるし、空港のセットは大々的でスケールがある。が、この話だったら別に空港が舞台でなくてもいいんじゃないかと思えてくる。ナボルスキーはある約束を果たす為にアメリカにきたのだが、この「約束」の要素と空港内での生活という要素がうまくかみ合っていなかったように思う。そもそも、約束の為に空港に留まるという必然性がない。本当にこの「約束」を守りたいなら、違法ではあってもさっさと空港を出て目的を果たした方が早いと思うのだが・・・。
 予告編では大感動作とされていたが、実際にはちょっと良い話という程度だろう。でも私はあんまり良い話だとも思わなかった。大人のおとぎ話としてみればよかったのだろうが、空港の警備主任を安易に悪役にしているのが気になった。警備主任にしてみれば、(確かに頭が固くて感情の機微に乏しい所はあるが)自分の仕事をしているだけで、空港内で好き勝手やっているナボルスキーに振り回されているとも見える。ナボルスキーが空港内を勝手に改造しているのは違法なんじゃないか?(だって噴水まで作ってるし)等とやたらと気になって、警備主任がだんだん気の毒になってしまった。そもそも私はトム・ハンクスのとっぁん坊や顔とこなれきった熱演が苦手なので、ナボルスキーの純朴ぶりも鼻についてしょうがなかった。こういう主人公、苦手なんだよなー。
 私が本当に良い話だなと思ったのは、ナボルスキーが大事に持っている缶の中身。アメリカの良心というか、これこそがこの映画のファンタジー的な部分だと思った。あと、キャサリン・ゼタ・ジョーンズが久しぶりにビッチでない、弱い所もある女性を演じているのには好感が持てた。

『Mr.インクレディブル』
 お父さんもお母さんも、お兄さんもお姉さんも、嬢ちゃんも坊ちゃんも、お爺さんもお婆さんも、みんな一挙に引き受けます!全方向対応な良作娯楽映画。ピクサーの底力を見た感がある。
 かつてスーパーヒーロー達が正義のために日夜戦っていた時代があった。しかし、彼らのスーパーパワーは社会に弊害をもたらすことも多く、ついにはスーパーヒーロー制度は廃止される。それから15年。かつてのヒーロー「Mr.インクレディブル」(クレイグ・T・ネルソン/三浦友和)も、今では妻と3人の子供のいるしがない保険会社勤務のサラリーマン。気晴らしといえば、昔のヒーロー仲間と昔話に興じ、こっそりとヒーロ−活動を行うくらいだ。そんな時、彼のもとに謎の女・ミラージュからスーパーヒーローとして秘密の仕事の依頼が来た。スーパーヒーローとしての栄光を取り戻したくて、Mr.インクレディブルはその仕事を受ける。その頃巷では、元スーパーヒーロー達が次々と失踪するという事件が起きていた。
 CGアニメーションでは造型が難しいとされていた人間キャラクターを主人公に据えたあたりに、ピクサーの技術力に対する自信のほどが窺える。映像は実際これまでのピクサー映画の中でも最高と言っていいくらいにレベルが高い。Mr.インクレディブルのヒーロースーツがアップになったとき、生地の織り目まで見えるのには恐れ入った。ストーリーもしっかりとしていて、エドナのあるセリフがラストへの伏線になっているなど、ニヤリとさせられた。いかにも「秘密基地」的な施設やレトロ風味なロボット等、遊び心に満ちていると思う。そしてやっていることはヒーロー活動なのに、インクレディブル一家が交わしている会話は、典型的な夫婦・親子・姉弟のそれな所のギャップがおかしい。特に長女・バイオレットと長男・ダッシュがど、どうでもいいことですぐにケンカするリアリティ。私と弟も実際こんなケンカばっかりしていたと思う。
 老若男女が楽しめるように作ってあるのだが、実はこの映画が一番心に染みるのは、お父さん達かもしれない。かつての輝かしい日々は過ぎ去り、妻も子供もいてそれなりの幸せはあるけれど、本当の自分はもっと輝ける、こんなはずじゃなかったという気持ちがどこかにある。これは中年男性に限らず、ある程度の年齢になると誰しも一度は感じることではないだろうか。かつての仲間と昔話に興じるMr.インクレディブルの姿は正直わびしい。過去の栄光にすがってもどうしようもないのに・・・。それでも「かっこよかった自分」を捨てられないのかなと。Mr.インクレディブルは家族と一緒にヒーローだった自分を取り戻すことができた。でもヒーローではない普通の人達はそうはいかない。やはりうだつの上がらない日々を続けていくしかないだろう。そう思うと、何か苦いものも残るのだ。

『僕の彼女を紹介します』
 『猟奇的な彼女』が大ヒットした、クァク・ジェヨン監督と主演女優チョン・ジヒョンが組んだ新作。私は『猟奇〜』にはどうものれなかったのだが、まあ話題作だし、もうちょっと洗練されてるんではないかとと見てみた。・・・前作よりひどくなってんじゃねーか!これのどこで笑ってどこで泣けばいいのかさっぱりわからなかった。何かもう極寒ですよ。色々寒いですよ。
 ヒロインはドジばっかり踏む熱血巡査(チョン・ジヒョン)。ある日引ったくりと間違えて真面目な高校教師(チャン・ヒョク)を逮捕してしまう。これが縁で2人は恋仲に。一緒に旅行にも行って、幸せいっぱいな2人だったが・・・
 私にとってこの映画のどこが駄目だったかというと、まず何をやりたいのかさっぱりわからないところ。いや、やりたいことはいっぱいあるのだが、それが絞りきれていなくて、どれもとっ散らかっていると言った方がいいか。主軸がラブストーリーなのはまあ良い。しかしそれに『ゴースト』が入っていたり『あぶない刑事』が入っていたりと、ファンタジーをやりたいのかアクション(しかも不出来)をやりたいのか、映画の雰囲気がころころ変わるのだ。ヒロインの双子の姉のエピソードやカーチェイス等、不必要に思える要素も多い。ストーリーもご都合主義を極めていて、正直つじつまを合わせる意欲はなかったのではないかと思う。監督は少女マンガ的なつもりで作ったのかとも思ったのだが、マンガであってもマンガとしてのつじつまは必要だろう。この映画には映画を成り立たせる最低限のつじつまも見えなかった。
 次に、ヒロインのキャラクターに好感が持てない。『猟奇〜』でもそうだったのだが、自分の分を知らないというか、相手に対して横暴すぎる。「ごめんという言葉は私の辞書にない」って何様だよ!いくら顔がかわいくても、ただの勘違い女にしか見えないよ!正義感が強いのは分かるが、思い込みが激しくて周囲は大迷惑だ。
 しかしやはり極めつけは、音楽のセンスが皆無だということだろう。節操なく色々な音楽を使っているのだが、野暮ったい。何故そこでX−JAPANが!?いや悪い曲だとは思わないけど、何故今更!?

『エイリアンvsプレデター』
 もう何でもありですね20世紀FOX。SFホラーのシンボルとも言える野獣・エイリアンと、SFアクションの代表バーサーカー・プレデターの対決だ。対決の舞台は地球。人類にとっては大迷惑だ!
 南極の地下に謎の熱源があることが、衛星により判明した。富豪の実業家・ウェンランド(ランス・ヘンリクセン)は、考古学者、科学者、セキュリティのプロによるチームを編成、環境学者のレックス(サナ・レイサン)をガイドに南極へと乗り込む。南極の600m地下には何と、エジプト、アステカ、カンボジア文明の要素が入りまじった、巨大なピラミッドがあったのだ。一行はピラミッドの中を探索するが、突然内部の壁が動き、メンバーは離れ離れになってしまう。一方その頃、プレデター達は地球を目指していた。実はピラミッドはプレデター成人の儀式の為の設備で、その内部ではエイリアンが飼育されていたのだ!
 ファンイベント的な企画モノで、いわゆる名作傑作では決してない。そこの所はポール.W.S.アンダーソン監督も重々分かっているのだろう。しかしB級にはB級のプライドがあるということを見せてくれた映画だと思う。さほど期待していなかったのだが、これが面白い!エイリアンのえげつない繁殖方法や強力な跳躍力、プレデターのもっさりとしつつも力強いアクションなど、両者のキャラを上手く立てている。更にこの手のSFホラーではお約束な、メンバーが次々に死んでいくというお約束もきちんと踏まえている。ちゃんと「あ、こいつ死にキャラ」という顔の人から死んでいくので安心だ!しかも後半では3つ巴ではない意外なドラマを展開してくれる。これには正直驚いた。うーんそうきたか!無茶だけど!
 監督は多分、エイリアンもプレデターも大好きなんだと思う。映画全編から両者に対する愛がひしひしと伝わってくるのだ。その愛は、CG全盛のこのご時世に、CGの使用は極力控え、わざわざエイリアンの人形をリモコンで操作したという凝り様にも垣間見える。エイリアンとプレデターがタイマン勝負をする数分間のシーンだけで、1ヶ月費やしたとか。私はエイリアンシリーズはTVで見た程度だし、プレデターに関しては恥ずかしながら一度も見たことがないのだが、2作のファンならもっと楽しめるのではないだろうか。
 正直、プレデターのデザインはエイリアンに比べると野暮ったい。造型だけなら、エイリアンの方が数段洗練されていると思う。しかし、映画が終盤に向かうにつれ、何とあのぶっさいくなプレデターがかっこ良く見えてくるのだ。最後にはプレデターを応援してくなってしまう。これこそ映画のマジック。

『ふたりにクギづけ』
 方や内気でオクテ、方や陽気で楽天的なボブ(マット・デイモン)とウォルト(グレッグ・キニア)は、お互いが腰の部分でくっついている結合性双生児だった。性格は正反対でも2人はとても仲が良い。町でも人気者で、働いているバーガーショップはいつもにぎやかだった。しかし俳優志望のウォルトの頼みで、2人はハリウッドに行くことに。ひょんなことから、ウォルトは有名女優シェール(シェール)にTVドラマの相手役として抜擢された。実はシェールはドラマに乗り気ではなく、ドラマの企画を潰そうとウォルトを指名したのだ。しかし意外にもドラマは大ヒットして・・・
 『メリーにくびったけ』『いとしのローズマリー』など、ブラックなのにあっけらかんとした笑いが売りのファレリー兄弟監督による新作。今作では主人公2人が結合性双生児という、かなりきわどい設定だ。料理の仕方によっては後味の悪いものになりかねない。しかし、今作は愉快で楽しいコメディになっている。これは監督の力量に他ならないだろう。監督にってもかなりの自信作だったらしく、ネタがきわどいと難色を示す周囲を10年かけて説得したとか。
 大笑いしたが、ただのおバカ映画ではない。映画の底辺に流れているのは、実に真っ当な兄弟愛というテーマだ。ボブとウォルトは常に一緒にいざるを得ない。しかしそれをうっとおしく思うのではなく、相手の為に何が出来るか、常に真剣に考えているのだ。ボブとメールフレンドのメイをくっつけようとウォルトが奮闘する姿、俳優になるというウォルトのために一生懸命なボブの姿には、その頑張り方のズレに笑うと同時にホロリとさせられる。やっぱり愛だよ愛!
 主演のマット・デイモンはいまやドル箱スターなのに、こういう作品にも出ちゃう(そして熱演しちゃう)所がえらい。グレッグ・キニアとは5時間もかかる特殊メイクでくっついていたらしい。2人とも覚悟の上の出演だ。それをさせるだけの力がファレリー兄弟にはあるのだろう。そしてシェールが本人役で出ているのだが、本当に自分のキャラクターをよくわかっていらっしゃる!と嬉しくなってしまう。更にメリル・ストリープもちょこっとだけ本人役で出演している。大作ではない(日本ではミニシアターでの公開)なのにこれだけのキャストを集められたのは、ファレリー兄弟の人徳か?年の瀬に思いがけず良い映画を見た感がある。

 映画日和TOP HOME