11月

『みんな誰かの愛しい人』
 ロリータ(マルリー・ベル)の父親エティエンヌは高名な作家。昔から彼女に近づいてくる人たちは、父親目当てのファンばかり。肝心のエティエンヌは娘に対して全く興味がなく、彼女が自分が歌った歌のテープを渡しても半年間放置しておく始末。更に、エティエンヌの若い後妻はスリムな美人で、太めなロリータのコンプレックスは深まるばかりだ。一方、ロリータの歌の教師であるシルヴィア(アニエス・ジャウイ)は、作家として延々と芽が出なかった夫・ピエールの作品がいきなり評価されたことに大喜び。更にロリータがファンの作家の娘であることを知り、彼女への態度も微妙に変わっていくのだが・・・
 監督であるアニエス・ジャウイとジャン=ピエール・バクリのことは「ムッシュ・カステラの恋」という映画で知ったのだが、辛口のユーモアがありシニカル、群像劇が上手い監督として印象に残っていた。そのコンビの新作なので、かなり期待していた。今作も映画としては面白いのだが・・・
 主人公であるロリータは父親が気に掛けてくれないことで、恨みつらみがある。また、それだけではなく、美人ではなく太めな自分のルックスにもコンプレックスがある。父親に言わせると「彼女は常に怒っている。私と世界に対して」というわけなのだ。父親の無関心っぷりがまた同に入ったものなので、彼女は被害者意識満々である。彼女の境遇や外見のせいだけでなく、彼女自身がないがしろにされがちなキャラクターなのだ。タクシーの運転手には邪険にされるし、パーティー会場ではドアマンに入場拒否されるし、一応付き合っている彼はいるが彼の方はあまり彼女に関心がなさそう。しかし彼女自身も、結構無神経かつシビアな所がある。彼女に好意を寄せる青年が登場するのだが、彼女は本命の彼の代わりに青年を別荘に招き、しかし本命から電話が来るとそっちとパーティーに行っちゃったりする。しかも自分が泣きたいときだけ彼によりかかっちゃったりする。自分の感情でいっぱいいっぱいで、周囲の気持ちに対しては鈍感だ。
 こういう所まで描かれているので、無条件で彼女に同情することができないのだ。それは他のキャラクターについても同様で、どの人物も結構嫌な面を見せる。それは人間だれしもが(こんな極端ではなくても)持っているいやらしさである為、見ていて居心地が悪くなる。
 人間関係の描き方が非常にシビアで、仕事の成功によって立場が逆転したり、傷つけられた人がまた別の人を傷付けていたりというパワーゲームをシニカルに描いている。邦題から連想されるようなほのぼのした映画ではない。ロリータは父親の関心を引こうと一生懸命すぎて、他の誰かの自分に対する好意には気付かない。しかし少なくとも誰かの「愛しい人」ではあるのだから、父親からも好かれようというのは諦めようねということか。何がすごいって、普通こういう話だったら、ラストは父娘の和解でハッピーエンドというのが定石だろう。が、この映画では2人が全く歩み寄っていないのよ。相性が悪い人たちはどう転んでも相性が悪いのね。いやー、シビアだ。

『コラテラル』  
 トム・クルーズ主演の新作映画。何と初の悪役に挑戦! というわけで髪の毛もシルバーになって気張ってますよトム様。
 ロサンゼルスでタクシー・ドライバーをしているマックス(ジェイミー・フォックス)は、ある夜ヴィンセント(トム・クルーズ)と名乗るビジネスマン風の男を乗せる。不動産業者だというヴィンセントは多額のチップを示し、夜明けまでに5人の客の所を回らなくてはいけないから一緒に回ってくれと言う。チップに気をよくしたマックスはひきうけるが、ヴィンセントが入ったアパートから、タクシーの上に死体が落ちてきた!ヴィンセントは実は殺し屋だったのだ。脅されたマックスは、次のターゲットの元へヴィンセントを送る羽目になってしまう・・・
 トム・クルーズ主演作として、公開よりもかなり先立って宣伝がされていた。しかし、この映画はトム・クルーズ主演ではあるがトム・クルーズ演じるヴィンセントが主役なのではない。主役はむしろ、マックスである。古今東西、巻き込まれ型ヒーローは愚痴を言いつつもタフに活躍するものだ(マクマーレン刑事のように)。しかし、マックスは巻き込まれているがさっぱり強くないし正義の味方でもない。いたって普通の人だ。映画終盤になってようやく、ヴィンセントの煽りによって彼の中でスイッチが入り、かろうじてヒーローらしくなるのだ。そのスイッチが入る瞬間、見ている側は「おっ」と思うのではないか。
 対して、ヴィンセントの内面は一貫して描かれない。クールな殺し屋だから、というのではなく、この映画においてヴィンセントの内面というものは必要ないのだ。そして、内面などない「クールで強い」存在は、全く皮肉ではなくトム・クルーズに適役だったと思う。彼のスター性というのは、人間臭い役ではなく、こういったヒーロー、アンチヒーロー的な、ある意味戯画的な役柄でこそ十分に発揮されるのではないか。本人は演技派になりたいのだろうが、こういうタイプの「スター」は現代では希少価値があるので、この路線を貫いて欲しい。
 監督は男くさ〜い映画を作りつづけているマイケル・マン。非常にオーソドックスな作り方をしていると思う。「ここは覚えておいてね」と伏線を分かりやすく客に呈示したり(だから意外性がないのは当然なのだ)、ヴィンセントがご神託のようにマックスに語る事々を最終的にはマックスが実行する羽目になるなど、律義なのだ。ヴィンセントの強さにムラがありすぎるんじゃないかとか、マックスが局地的に視力がよくなっていないかという突っ込みはしたくなるものの、映画としてはお手本的である。
 ただ、スターを起用した娯楽映画としては異例の地味さだと思う。派手なアクションやカーチェイスは殆どないし、出演者もトム・クルーズ以外はスター役者はいない。大作規模で宣伝されていながら、実際に見ると大作感が薄いのだ。「トム・クルーズ主演最新作」とやたらと宣伝されていたのは、それ以外にキャッチーな要素がなかったからか。
 ラストで拍子抜けしたという感想を目にしたが、私はあの終わり方は好きだ。他の映画がひっぱりすぎなんで、あのくらいの方が潔いと思う。逆に言うと、見る側がこれでもかというてんこ盛りなエンターテイメントに慣れきっているということなのだろう。

『ソウ』
 廃虚の密室に閉じ込められた2人の男。片足を鎖で壁に繋がれており、2人とも身動きできない。部屋の中央には頭を銃で撃ちぬいた男の死体。2人のポケットにはカセットテープが。そのテープには、「6時間以内に相手を殺せ」というメッセージが吹き込まれていた。果たして何が起こったのか?
 予告編等から、密室状態でのサスペンスなのかと思っていたら、あっさりと場面転換されて、彼らが閉じ込めるまでの経緯や、ある事件を追う刑事等、時制も視点も入り乱れる。予想ほど閉塞感は感じなかった。また、視点が複数になることでミスリードさせやすくなっていたし、展開が次々に変わって飽きなかった。2004年サンダンス映画祭での上映後、バイヤーの争奪戦となったというのも納得。確かに話題性はあると思う。
 前評では「『セブン』+『CUBE』」などと言われていたが、それはちょっと違う。『セブン』ほど雰囲気重視ではないし、『CUBE』ほどパズル的ではない。何より、『セブン』も『CUBE』も「私頭いいです」映画というか、インテリ臭い所がある映画だったと思うのだが、本作はもっと泥臭い、洗練されていない感じがする。フラッシュバックや映像のシャッフルを多用する手法や、ある意味サービス精神にあふれたえげつなさは、堤幸彦と似通った匂いがあると思う。もっとも、本作の監督ジェームズ・ワンと脚本・主演リー・ワネルの方が構成は上手いと思うが(笑)。
 実はストーリー展開には結構粗もあるのだが、それを勢いでのりきってしまっている。個人的にはその勢いが最大の評価ポイントになった。とにかく観客を怖がらせることに全身全霊を注いでいる感じで、「くるぞくるぞくるぞ・・・キターッ!!」というホラー映画の醍醐味をお腹いっぱい味わった。私はこういうジャンルの映画はあまり好まないのだが、本作はオチが「それはないだろうそれは!」と言いたくなるバカミス的なものであることも含めて、結構面白いと思った。すごく嫌〜な気分になる映画ではあるが。
 レディースデーに見にいったのだが、劇場内はほぼ満席。見ている間中、客席から小声の「あああっ」とか「〜っ」など声にならない声が聞こえた。後ろの席に座っている人がビクッとした拍子に、私が座っている座席の背もたれを蹴っていたりしたので、とても緊張を強いられる映画だったのは確か。心臓の弱い方、高血圧の方、妊娠している方にはお勧めしない。かなりストレスのかかる映画なので、鬱状態の方や落ち込み気味の方にも薦められない。

 『笑いの大学』
 1996年に初演された三谷幸喜脚本の舞台を、「古畑任三郎」シリーズを手がけた星護監督が映画化。監督にとっては映画初作品だ。脚本は映画の為に書き直されているとのこと。
 第二次世界大戦中の昭和15年。日本にも戦争の影が色濃くなり、大衆娯楽の演劇脚本も検閲をうけるようになった。喜劇作家・椿一(稲垣吾郎)は、新しい台本の検閲を受ける為、警視庁へ。担当検閲官・向坂(役所広司)は喜劇を軽蔑している堅物。上演を中止させようと無理難題を吹っかける向坂と何とか注文をクリアして上演にこぎつけたい椿。脚本に手が加わるうちに、何故か脚本はより面白くなっていくのだった・・・。
 喜劇に縁のなかった人の方が、かえって笑いのセンスがある、もしくはくそ真面目な指摘こそが笑いを生むという展開は、ウッディ・アレンの『ブロードウェイと銃弾』を思わせる。『ブロードウェイ〜』でも喜劇とは縁のなかったギャングが面白い脚本を作っていく。「笑いの〜」では、脚本家が上手いこと検閲管をころがしている感じもするのだが。ただウッディ・アレンとは異なり、三谷幸喜の笑いはあくまで直球、要するにベタだ。おやじギャグすれすれなダジャレの数々、一歩間違えばコントな展開。しかしベタだからこそ、年代を越えた幅広い客層に訴えるものがある。私が劇場に行った時にも、大人から子供まで客層が幅広かった。そして皆けっこう良く笑っていた。こういうオーソドックスな娯楽映画の需要は一定数あるのではないかと思うので、ミニシアター寄りの傾向がある最近の邦画の中では貴重な作品だと思う。
 監督の星護は「古畑」を手がけていただけあって、三谷の脚本の特性をよくわかっていると思う。映画としてもオーソドックスな、ちょっと昔のコメディのような懐かしさを醸し出している。決して洗練された作風ではないし、笑いの間がやや緩慢になる傾向があるが、映画監督デビュー作品でこの水準なら上出来だろう。正直、原作は完全に二人芝居だし、場面変更がないし、映画としてのダイナミズムが出せるのか心配だった。極端に言うなら、映画化する必然性はないんじゃないかと。しかし映画としても十分楽しい作品になっていた。
 主演の役所広司は元々シリアスからコメディまでオールマイティにこなす役者だが、今作では演技自体はシリアスなのに総体としては可笑しいという、演技見本市状態で大活躍している。稲垣吾郎は役所と比べるとどうしても見劣りしてしまうが、奮闘していたと思う。この人はもっとコメディをやるといいのではないか。結構合っていると思うのだが。
 この脚本は、喜劇作家三谷幸喜の宣誓のようなものだったと思う。三谷は何かのインタビューで、「制約が多いほど燃える」と言っていた。TVの仕事は、スポンサーの商品を出さなければならないとか、どこで何分CMが入るとか、この役者とこの役者は仲が悪いからあまり一緒のシーンを入れないでとか、とにかく制約が多い。しかしそれをマイナスのこととは考えず、条件をクリアした上でいかにより面白いものを作るかが楽しいのだとか。「これは僕の戦いなんです」という椿の言葉は正に三谷の言葉だったのではないかと思う。
 ラストの泣かせ所は、舞台版よりもやや引っ張っている(多分。舞台版の記憶が曖昧なので)。これをやりすぎ、うっとおしいと思う人もいるだろうが、多分あえて引っ張ったのではないだろうか。こんな時代だからこそ、「お肉のためだ!」と言わせたかったのではないかと。

『やさしい嘘』  
 グルジアに住む祖母、母、娘の3世代女家族。エカおばあちゃん(エステール・ゴランタン)は、パリで働く息子オタールから届く手紙を毎日楽しみにしている。しかしある日、オタールが事故で死んだという知らせが入る。エカおばあちゃんの娘マリーナと、孫娘アダは、おばあちゃんが悲しむと思って本当のことを言えなかった。2人はオタールが生きているかのように、自分達で手紙を書きつづけるのだが。
 グルジアは旧ソ連の小さな国で、国土は日本の約5分の1。ソビエト時代は農業国だったが、ソ連崩壊後は行政の混乱が続き、水道や電気も頻繁に不通になる。映画の中でも毎晩のように停電したり、シャワーがいきなり出なくなったりしていた。映画の中に出てくる団地やマンション等も相当荒廃していて、少なくとも裕福には見えない(でも、借金だらけだというわりには、マリーナ一家の生活はそんなに悪いようには見えないのだが・・・)。経済的に成功できる可能性が低い国内に見切りをつけて、海外に出稼ぎに行く若者も多く、オタールも不法滞在して働いていたのだ。不法滞在だったので、パリで死んでも遺体の引き取り手がなく、現地の共同墓地に埋葬されてしまったりする。グルジアの国内事情がかいまみえて興味深かった。
 母親と娘の関係というのは、難しいものだと思う。エカおばあちゃんとマリーナはケンカばかりで、あまり仲が良くない。マリーナは、弟のオタールばかり可愛がる母親が不満なのだ。オタールの死を隠していたのも、マリーナ自身は母親を悲しませたくないという一心なのだが、立腹したエダに「叔父さんが死んでしまったら、おばあちゃんの中で叔父さんはそれこそ聖人のようになってしまって、絶対に勝てないからでしょ」と痛い所を突かれてしまう。マリーナとエダにしても、エダは気の強い母親とは何となく相性が良くなく、むしろおばあちゃんの方にシンパシーを感じている。でもマリーナは彼女なりに一生懸命気をはって生活を支えているので、責められない。多分マリーナは強すぎるし正しすぎるのだろう。
 一見地味なのだが、意外に飽きさせない。映画としての背骨の部分がしっかりしている感じだ。冒頭、3人が喫茶店に座っているシーンだけで、それとなくそれぞれの性格と関係を示すあたりなど、上手いなと思った。そして終盤。何か妙だと気づき始めたエダおばあちゃんは、とうとうパリに行くことを決める。そして終盤、なぜこの邦題なのか、なるほど!と二重に納得。嘘はできればつかないほうがいいと思うし、嘘を付き続けるのも難しいと思うのだが、こういう嘘ならまあ許せるかなー。そしてラスト。淡々と終わっていくのかと思いきや、鮮やかな展開を見せる。映画の醍醐味はこういう所にあると思う。

『雲のむこう、約束の場所』
 自主制作アニメ『ほしのこえ』で一躍有名になった新海誠。今作は彼の初の長編映像作品となる。『ほしのこえ』はほぼ単独作業で制作されていたが、今回はスタッフも加わり、本格的な劇場作品となっている・・・はずだった。あらゆる意味で青々しい。せめて脚本は他の人に任せた方がよかったのでは。
 日本が南北に分断されたある時代。米軍統治下の青森に住む少年ヒロキ(吉岡秀隆)とタクヤ(萩原聖人)は、国境の向こうに見える「塔」に行く飛行機を作っていた。彼らは憧れていた同級生の少女・サユリ(南里侑香)と、あの塔まで連れて行くと約束する。しかりサユリは突然彼らの前から姿を消す。彼女は眠り続ける奇病にかかっていたのだ。
 率直に言ってしまうと、技術的なレベルと資本金が上がったくらいで、作風とやっていることは前作と驚くほど変わらない。男の子がいて女の子がいて、2人は何か大きな力に隔てられていて・・・と、まあよくあるSF風味ボーイミーツガールなのだ。「よくある」話というのは、映画において決してマイナスではない。「よくある」ということは普遍性がある、浸透しやすいということでもある。それを陳腐にするかレディメイドにするかは作り手の腕次第だ。この映画に関しては、やりたいことがあるのは分かるのだが、それを商品レベルまで引っ張り上げられていないというか、表現がつたないというか・・・「あーどこかで見たわこれ」という印象に止まってしまう。何より、作り手の背後にある世界があまりにも狭いのではないかという、キャパシティの限界を感じてしまった。
 新海は、多分人間のキャラクターを動かすことにはあまり関心がないのではないだろうか。キャラクターデザインには全然思い入れを感じない。 この監督が一番拘りがあるのはやはり背景とか小道具とか乗り物とかの美術面なのだろう。特に電車の駅と車内の描写は
細かいこと細かいこと! 風景フェチと言っていいくらいだと思う。
 ストーリー的には突っ込みし放題で、多分つじつまをきちんと合わせるつもりもなかったのだと思う。私はSFに詳しくないので、「塔」の構造がSF的に論理的なのかどうかわからないのだが、なぜ塔が作られたのか、塔の機能は何なのか、殆ど説明されない。ストーリーを組み立てるというよりも、最初に「草原があって、遠くにやたら高い塔があって〜」という風景があり、その風景に合致するストーリーをひねり出したという感がある。でもこのお話だったら、わざわざ南北分断とか戦時下とかにしなくてもよかったんじゃ・・・戦争が出てくる必要性というのが感じられない。あえていうなら、状況が困難な方が恋愛は盛り上がるってことか。それにしても主人公たちの行動は無謀すぎると思うのだが。
 ちょっと気になったのだが、特にヒロインの動きと声はもろに「アニメの女の子」の動きだ。それに対して男の子キャラクターは、俳優が声を当てているということもあってか、そこそこ生っぽい動きをしている。だから彼女と彼らが同一画面上にいると、妙な違和感を感じた。サユリだけ別のアニメの世界の人みたいだ。観念上の女の子というか、それこそ「幻想の普通少女」というか。意図的にそうしているのかどうか分からないが、多分天然なんだろうな・・・
何ともイタイタしいです。

『ポーラーエクスプレス』
 クリス・ヴァン・ウォールズバーグの絵本『急行「北極号」』を原作とした、フルデジタルのアニメーション映画。サンタクロースの存在を疑い始めた少年のもとに、クリスマスイブの夜、サンタの国である北極点を目指す機関車が訪れるというストーリーだ。監督はあのロバート・ゼメキス。アニメーションとの合成映画である「ロジャー・ラビット」を監督した経験はあるものの、全編アニメーションは今作が初めてとなる。
 今作の目玉の一つは、モーションキャプチャーという技術を全面的に取り入れたことだ。モーションキャプチャーとは、役者にセンサーを取り付け、その動きをそのままアニメーション化する技術だ。今作では主人公である少年、汽車の車掌、汽車に無銭乗車している謎の男、サンタクロース、少年の父親の5役をトム・ハンクスが演じている。元となる動きがあれば、老若男女に姿を変えられるというわけだ。
 しかし、この技法がこの映画を生かしているかというと、そうは思えない。確かに人間の動きや表情は細かい所まで(少年の顔のほくろまで!)再現している。が、リアルであればあるほど気持ち悪いのだ。不思議なもので、人間は人間の姿に限りなく近づいたものを気持ち悪いと感じる傾向があるらしい。最近の作品では「LOTR」のゴクリがモーションキャプチャーによるCGで作られているのが話題になったが、あれは人外の形状だからこそよく出来ていると思えたのだ。リアルな人間の形だと、キャラクターの表情がどこか乏しくなった(多分目元の細かい動きは表現できないからだと思う)。これだったら、苦労してアニメーションにしなくても、『スカイキャプテン』みたいに人物だけ実写でアニメーションと合成してブルーフィルム加工して・・・という方が、生き生きとして見えたのでは。
 逆に、人間以外は非常によく作られていると思う。特に少年の手から切符が飛ばされて、狼達の間を吹き抜けたり鷲に咥えられたり雪山をおっこちたりして、最後にはまた汽車の中に・・・という流れでは、アニメーションならではのアクロバティックなカメラの動きで見ごたえがあった。配給側はモーションキャプチャーという技術を宣伝に使いたかったのだろうが、図らずもこの技術の適性と(現時点での)限界が見えてしまうことになったと思う。モーションキャプチャーによって特殊メイクはすたれていくだろうが、生身の役者の代わりになるのは、もう少し先のことになりそうだ。
 映像は確かによく出来ていたが、映画としては退屈だった。ロバート・ゼメキスの映画は私はあまり好きではないのだが、上手い監督だとは思っていた。が、これはちょっとひどい。子供向け作品とはいえ、セリフが陳腐すぎないか。また、最新技術を使った映像を見せる為だけの映画になってしまっていて、肝心の脚本に無理がある。席を立った女の子に乗車券を届けようとする場面や汽車の屋根を歩く場面は話の流れ上不自然で気になってしまった(普通、席を立ったらその座席に戻ってくるんだから、切符を届ける必要はないでしょう)。ジェットコースター風のシーンがやたらと出てくるのにも、「子供はこういうのが好きなんだよね」と舐めてかかっている感じがして閉口した。唯一得した感があったのは、スティーブン・タイラーがちょこっと出ていること。ちゃんとあの顔で出て歌っている。

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