9月
『NIN×NIN 忍者ハットリ君THE MOVIE』
♪僕らの町にやってきたー、ハットリ君がーやってきたー♪・・・ハットリ君、でかっ!
あの「忍者ハットリ君」が何と実写映画化された。修行の為都会に出てきた服部カンゾウ(香取慎吾)は、なりゆきで小学3年生のケンイチ(知念侑李)を「主」として、彼の家でこっそり御世話になることに。その頃、巷では謎の連続暴行事件が起きていた。常人では不可能な犯罪に、顔の濃い警官コンビ・田原警部(宇梶剛士)と柏田刑事(東幹久)は頭を抱えていたのだった。ハットリ君は、ケンイチの学校に臨時教師として赴任してきた元・忍者で彼のライバルであったケムマキ(ゴリ)が怪しいと睨むのだが・・・
どう見てもマンガなハットリ君を実写化って無理だろ!と思っていたのだが、意外にも結構楽しめた。冒頭、CGの手裏剣が飛んでくるシーンからハットリ君のアクションシーンまでの流れは意外にもスマートだし、東京タワーのてっぺんに立つハットリ君の映像はキャッチーだし、マンガ好きにとっては色々と心つかまれるショットが多かった(と思っているのは私だけか)。
といっても、原作とは全然別物。ハットリ君はあんなにデカくないから!あんなにテンション高くないから!あんなにクネクネ動かないから!マヨネーズごはん食べないから!「おっはーV」って言わないから!ハットリ君のキャラというより、香取慎吾のキャラが色濃く出ている。が、それはそれで良いと思う。こういう現実離れしたキャラクターを演じてもOK、しかもほっぺに渦巻きを描いてもOKなアイドルは彼くらいでは(スマステ2で稲垣吾郎いわく「慎吾は何か超越してるから」)。
ストーリー的には特に捻りもなく、突っ込み所も満載(ハットリ君が新幹線よりも早く走るのはやりすぎだとか、金縛りの術って時間が止められるのかよとか、ミドリさんは盲目なのになんで山道をそんなにスタスタ走れるんですかとか、悪役なのにあっさり改心しすぎです、ていうかいい人だったの?とか)なのだが、それはそれとして個人的には結構楽しんでしまった。
メインキャストの他にも、色々な人がちょい役で出演している(SMAPからは草薙君が出演)。ちなみに、一番気になったのは、東幹久はいつの間にこんなに面白いキャラになってしまったのかということだ。かつての2枚目時代の片鱗も見えません。『華氏911』
ドキュメンタリー映画は実際の出来事を記録したものだが、それを監督がある意図の元に映像を選別し、編集している以上、それはそのまんまの現実ではなく、ある程度フィクションであるとも言える。ブッシュがマヌケなことをしている画面をつなげれば、当然ブッシュはマヌケな人物に見えるはずだ。もちろん、映画で何らかのメッセージを訴える為にはそれが悪いことであるとは思わない。しかしやっている行為自体は、映画の中でも指摘される「新聞やニュースは情報を操作している」という事と性質的には変わらない。何が真実なのか、見ている側が判断することは難しい。ムーア監督自身も記者会見等で認めている通り、この映画で提示されたものは事実の一部だ。触れられなかった部分がたくさんある。おそらく監督としては、映画を見たことで、見た人一人一人がもっと考えて欲しい、興味を持って調べてほしい、というつもりなのだろう。
しかし、この作品が映画として面白いかどうかというと、正直微妙。前作「ボーリング・フォー・コロンバイン」が何故面白く、かつ説得力があったかというと、ムーア監督自身が突撃レポーターとして映画に出演し、体を張って情報を得ていたからだと思う。彼の存在自体が映画にリアリティとユーモアを与えていたのだ。が、今作では監督自身は殆ど出演しておらず、収拾したデータや映像の切り貼りで構成されている。つまらないとは言わないが、「へ〜」の域を出ていないのだ(ブッシュ一族の石油ビジネスとの関わりや「テロリスト」から「イラク」への敵のすり替えなど、今更な指摘だという気もしなくもない)。
もっとも、この映画の目的はあくまでブッシュを蹴落とすことなので、映画としての完成度自体は二の次、これだけ話題を呼び、観客を動員した時点で勝ちなのだ。アメリカの有権者の約半数は選挙投票に行っていないと言う。この映画を見た人達が選挙に行こうかなという気になれば、この映画の役割は果たされたということになるのだろう。ムーア監督にとっては、映画はあくまで手段なのかもしれない。少なくとも、そのバイタリティには感服する。
私が興味を引かれたのは、ブッシュ政権へ批判よりも、イラクへの派遣で人材不足になったアメリカ軍が、兵を募集する時のやり方だ。兵の殆どが貧しい家庭の出身だそうだ。つまり、他に生活する手段、出世するチャンスがないから軍に入るのだと言う。兵のスカウトもあまり裕福でない地域のショッピングモールなどで行うという(このスカウトの様子を撮影しているのだが、よく撮影させてくれたなーと思う)。最前線へ派遣され死傷するのは、大抵そうやって入隊した、大して軍務経験もない若者達だという話を、以前聞いたことがある。貧富の地域差というのが歴然とあり、そこから抜け出すことが困難であるという状況。ムーア監督には、むしろこのあたりの事情をレポートしてほしかった。ミニマムな所から出発するテーマの方が、この人の作風には合っているのではないかと思う。
本作は2004年カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した。審査委員長であるタランティーノは「政治的な意図とは関係なく、面白い映画だったから選んだ」とコメントしたが、それは嘘だろう。あの受賞は、カンヌ審査委員の政治的立場を表明したものに他ならないのでは。タランティーノでさえも政事からは逃れられなかったのか。ただ、こういう映画を製作し、公開することが出来るという点では、アメリカという国の健全さはまだ保たれているのかなとも思った。『ソウル・オブ・マン』
1977年、宇宙探査船ボイジャーにはあるブルースのレコードが収められていた。それが「ダーク・ワズ・ザ・ナイト」。この曲を生み出したブラインド・ウィリー・ジョンソン、クリーム時代にエリック・クラプトンがカヴァーしてヒットを飛ばしたスキップ・ジェイムズ、派手な衣装とハイトーンの声で社会問題を歌い続けたJ.B.ルノアー。この3人のブルース歌手に焦点を当てた、ヴィム・ヴェンダース監督の音楽ドキュメンタリー。
ヴィム・ヴェンダースの音楽映画といえば「ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」だが、映画の雰囲気は随分違う。セッションが主体だった「ブエナ〜」と違い、ブルースは殆ど1人で歌い、演奏する。そして何より、ブルースの歌詞はファンキーであると同時に内省的だったり、社会的なメッセージが強かったりと、苦味を伴う。明るく楽しげだった「ブエナ〜」と比べると、「ソウル〜」では黒人である彼らが受けてきた差別を考えずにはいられない、影の部分を感じた。そしてそれが、たかだか50年程度前のことだというのがショックだった。
映画は、3人のブルースマンに扮した役者が演じる「なんちゃってドキュメント」部分と、彼らを知る人々へのインタビュー、そして現役のミュージシャン達による彼らの曲の演奏から成る。「なんちゃってドキュメント」は、ヴェンダースらしからぬベタでコント風の演出がされており、ちょっと意外だった。ドキュメンタリーというよりは、彼ら3人の伝記映画のような趣がある。
しかし最大の見所は、現役ミュージシャン達によるカヴァーだろう。ルー・リード、カサンドラ・ウィルソン、ジョン・スペンサー・ブルース・エクスプローション、ボニー・レイット、ロス・ロボス、ベックらの豪華かつ渋いメンバーが、時にはオーソドックスに、時には自己の解釈で3人のブルースマンの曲をカヴァーしている。ルー・リードがいつになく機嫌よさそうなのが嬉しいし、ベックの演奏には鳥肌が立つ。最近音沙汰を聞かなかったイーグル・アイ・チェリーが好演をしているのも嬉しかった。
ヴィム・ヴェンダースの音楽に対する愛情がひしひしと伝わる作品だった。正直、前半は眠くなってしまった(すいません・・・)のだが、徐々に映画のエンジンがかかってくる感じだった。そういえば「ブエナ〜」の時も最初は睡魔に襲われたので、立ち上がりの遅い映画を作る監督なのかもしれない(笑)。
全編のナレーションは、ブラインド・ウィリー・ジョンソンに扮したローレンス・フィッシュバーンによるもの。彼は声だけの出演だったが、声に存在感がある。ブラインド・ウィリー=ローレンスの声は、宇宙を漂うボイジャーから届く。まるで彼がまだ生きているかのように。しかし少なくとも彼の音楽は今でも生き続けている。現代のミュージシャンだけでなく様々な人が彼の歌を聞き、演奏することで。そして多分、ヴィム・ヴェンダースもそのうちの一人なのだろう。『ヴァン・ヘルシング』
とりあえず派手で大雑把な娯楽映画を作る時は、@あえて突っ込ませて笑いを取る、A突っ込む余地を与えないくらいにテンポ良く話を進める、の2つの選択肢があると思う。この作品はA。・・・のはずなんだが@でも楽しめた(笑)。2度楽しめて、娯楽作品としては模範的と言えるのでは。
ゴーストバスターが王女様を助けて吸血鬼やら狼男やらと戦う・・というまるっきりマンガな世界設定だし、CGがモロにCGぽいのもマンガ的なのだが、あえてマンガ的にしたのが吉と出ていると思う。どうせ嘘っぽい設定ならとことん嘘っぽくしちゃえ、という作戦なのか。ヘルシングが所属するバチカン市国の地下で、世界中の宗教の修行僧が秘密兵器を開発しているという無茶苦茶さや、「あっ何か伏線張っておかなきゃ」的に無理矢理(そもそもその設定どこから持ってきたんだよ!)張られた伏線とか、この人達強いのか弱いのか分かりませんとか、設定上の突っ込み所は果てしなくある。が、それがこの映画の欠点かというとそうではない。テンポが速くてジェットコースターみたいに次々とイベントが起きるので見ていてテンションが下がらず、諸々の欠点はおおらかに見逃してあげたい、むしろその欠点が素敵!という悟りの境地にたどり着きそうだった。
モンスターのキャラクターも、異様にテンションの高いドラキュラ(あの前髪はほつれている状態が完成形なんでしょうか。何度蘇ってもほつれてるんだけど)を始め、頭半分が透明なフランケンシュタインやら元は結構イイ男なウルフマンやら感情表現がオーバーな女吸血鬼達やら、お前らエ●リアンか的な小さい方々とか、類型的ではあるものの愉快。
そして何より、主演のヒュー・ジャックマンがかっこいい。オーランド・ブルームがキラキラ系コスプレ俳優だとすると、ジャックマンはワイルド系コスプレ俳優。「Xメン」のウルヴァリンといい今回といい、本当にヒーローコスプレが似合う。普通の恰好の時より4割増くらいで恰好良く見えるのは何故。ヒロイン役のケイト・ベッキンセールもスタイル抜群でコスプレが似合うんだこれが。コスプレ映画としては素晴らしいんじゃないかと(あれ、本来の映画の趣旨とは違ってきているような・・)。
ちなみに私がこの映画を見に行った時、帰りのエレベーターの中で女子高生2人組が「ヒュー、超かっこよかった!コートがかっこよかった!」「ケイトってコルセットが超似合うんだけど!ヤバいんだけど!」とはしゃいでいました。この映画の楽しみ方としては極めて正しいと思う。『リブ・フォーエバー』
個人的にはとうとう「我ら(の音楽)の時代」の映画が出てきたなという感があり、実に感慨深い。さらば青春の日々。あの頃君らは若かった(本当にな!)。
1990年代後期のイギリス音楽シーンで一世を風靡した2つのバンド、OASISとBLUR。OASISのギャラガー兄弟に対する奇跡的(笑)なインタビューや、BLURのデーモン・アルバーン、PLUPのジャービス・コッカーら、当時の「ブリットポップ(ああこの懐かしい響き・・・)」立役者達へのインタビュー、音楽評論家やデザイナーらのコメントでつづられる、イギリスが輝いていた時代とその終焉。
1995年8月の両バンドがアルバムを同日に発売するという事件で、OASISとBLURの敵対関係は決定的となる。イギリス国内ではこんなにすごいことになっていたとは知らなかった。アルバム発売当日の売上状況をBBCが中継するなんて前代未聞では。
音楽と社会背景とがかなり密接に結びついているというのが、日本とは違う所(いや日本でも影響は与えあっているが、あまり顕著に出ないと思うので)だと思う。そして、イギリスには歴然と階級社会が残っているおり、どん底にうまれると、そこから抜け出すのは無理だという意識が浸透しているのには、知識として知ってはいても、改めて聞くとうーむと唸ってしまう。そのあたりの希望のなさというか八方塞感は、日本ではちょっとイメージしにくいかもしれない。OASISがBLURに対して「このお坊ちゃんめ!」みたいに敵視するのはそのあたりの事情もある(労働者階級出身のOASISに対して、BLURは中産階級出身。当時の「OASIS v.s. BLUR」という構図には、労働階級vs中産階級という構図が投影されていたというのが定説になっている。)のだが、聞き手としては全く別のタイプの音楽と見なしていたので、そのあたりの葛藤はあまりよくわからないのだが。もっとも、敵対関係自体はレコード会社やマスコミがあおったところが多々あるのだろう。放っておけば、本人らはそんなに意識しなかったかもしれないなーとも思った。
「ブリットポップ」の台頭を政治的に利用した(というよりも 上手いこと波に乗った)のがトニー・ブレア。当時ブレアの選挙参謀を務めたアレスター・キャンベルは、「何かが変わり、ストリートには新たな感覚が生まれている。変化への欲求なのだ。イギリスはポップ・ミュージックを再び捜し求めているのだ。今や我々に必要なのは、新たな政府である」とPRした。ブレアの就任記念パーティーには、何とOASISのノエル・ギャラガーが出席している。サッチャー政権下で抑圧されていたものが噴出し始めた時代、音楽シーンの動きと政治の動きがリンクしていく様は興味深かった。今やブッシュの犬扱いの彼だが、当時はものすごく期待されていたのねー。イギリスが「これから何かおきるぞ」という期待感に満ちていた時代だったんだと思う。
とりあえずギャラガー兄弟(特にリアム)が面白すぎる。正に生きた伝説状態。そりゃー解散説が絶えないよな!(でもそのままでいてねリアム)。知らない人にはどうでもいい話だが、同時代を体験した人なら一見の価値あり。私自身、リアルタイムで彼らのアルバムを聞いて、友人とOASIS派かBLUR派か云々と話していたし、ちょっと冷静に見られないところがあった。デーモン・アルバーンがすっかりやさぐれているのが、おかしくもかなしい。あの頃はルックスもキラキラしていて本当にアイドルみたいだったのに・・・。でも今の方が好きよ、デーモン。復活してくれて本当〜によかったです!『アイ、ロボット』
二足歩行ロボットが普及した2035年。ロボットの父的存在である開発者が、ロボット開発会社ビルから転落死した。自殺かロボットによる殺人か?その秘密は発売間近に控えた新型ロボット・NS5にあるらしい。ロボット嫌いの刑事・スプーナー(ウィル・スミス)は謎の妨害にあいながらも真相を探る。
娯楽映画としては手堅く出来ていると思う。スター俳優が主演で、美人女優が共演で、アクション満載で、CGのクオリティは高い。まあそつなく造ってあると言えると思う。しかし、決して不出来な映画ではないのに、この退屈さと風景の薄っぺらさは何だ。一番見ごたえがあったのはウィル・スミスのナイスバディ<そこか。
ロボットの反乱というと、SFの世界ではもうやりつくされた題材だろう。何故いまさらこれなのか疑問。オーソドックスであること自体は悪いことではない。しかし、正直、退屈してしまった。ストーリーはともかく、その運び方や盛りあげ方があまり上手くなかったのだと思う。話の運びが緩慢で、メリハリにかけるのだ。そしてアクションシーンの見せ方もあまり上手くなかったと思う。ストーリー上必要ない所をむりやりアクションさせている感じだったし、スローモーションの多用は正直野暮ったかった。この題材で、この話で映画が造りたいというより、「人型ロボットがわらわら襲ってきたら気持ち悪くない?」という発想が先行していたように思う(ちなみにロボットが天井からボトボト落ちてきて大バトルを繰り広げる様は、押井守の「イノセンス」のようだった。)。また、CG自体はよくできているのに、そのCGで造った町並みが妙に薄っぺら汲みえるのが不思議だった。
主人公の行動にはもっと説得力が欲しかった。ノリで乗り切れる映画ならこれでもいいのだが、シリアスかつストーリー運びが緩慢な映画でこれはキツい。警察官としてその行動はどうよ、というのはもちろん、ロボット嫌いな理由が安易ではないか。このキャラクターのキモとなる部分なので、もうちょっと丁寧に作ってもよかったのでは。コンバースマニアな所とか甘い物好きな設定がもっと活かされてもいいのに。左腕の設定が伏線になっていたのには納得したが。また、ウィル・スミスが演じるというのもちょっと違和感。彼にはやはり、もっとコミカルな役の方が似合うと思う。
ただ、ロボットの造型はすごくよくできていると思う。もちろん殆どCGなのだろうが、ロボット同士の格闘シーンなど、CGぽさを全く感じなかった。事件のかぎをにぎるロボット「サニー」が徐々に表情や信頼感等を獲得していく過程は心温まるものがある。「私はユニーク(特別)」と自らに言い聞かす様や「痛まないですか?」等のセリフは泣ける(多分)のに・・・もったいないなー。『珈琲時光』
これは素晴らしいのではないか。素晴らしいといってもきらびやかな、圧倒されるような素晴らしさではなく、ひっそりと心に染み渡るような、後からふと思い出して微笑むような素晴らしさだ。
特に具体的なストーリーがあるわけではない。東京で一人暮らしをしている陽子(一青窈)はフリーのライターで、妊娠しているが結婚する気はないということ、彼女の友人である肇(浅野忠信)は彼女に好意を持っていること、陽子の両親(小林稔侍、余貴美子)が娘の妊娠を知って戸惑うが、それに対して特に意見はしないこと、などがドラマといえばドラマである。淡々と風景と会話が積み重さなっていく。
しかし、見ていて全く退屈しなかった。どのカットもぴたり、ぴたりと的確で、無駄を感じない。物語に大袈裟な起承転結がなくても、気の利いた会話がなくても、あるべきところにある絵があれば、面白い映画になるのではないか。陽子と父が黙って肉じゃがをたべる、陽子と肇が街を歩き回り、中央線や山手線が交差する。また、具合が悪くて寝込んでいる陽子の元に肇が来て、肉じゃがを作ってくれる。一つ一つのシーンが印象深い。情景には透明感があって光に満ちている。
この映画は小津安二郎の生誕百周年記念映画でもあり、随所に小津的なカット(茶の間からお勝手までがぶちぬきで1シーンに収まっている。カメラは低めの位置に固定され、人物が画面内を出たり入ったりする)が見られる。そして描かれている町並みも、現代の町並みではあるが、下町を選んで撮影されている。監督である侯孝賢は台湾人であるが、彼が見た「小津的日本」の情景なのだろう。ただし、ここには例えば「ロスト・イン・トランスレーション」のような、異邦人が見たフシギの国ニッポン、という雰囲気は皆無だ。登場人物が皆日本人(陽子の生みの親は台湾人なのだが)で、日本語を喋り、日本で生活しているというのが「ロスト〜」との最大の違いで、もっと東京という街に根づいた、地に足のついた東京の情景であると思う。東京在住者としても、違和感なく見ることが出来た。
それぞれのエピソード(の断片)には何ら決着がつくわけではなく、宙に浮いたままだ。しかしそれで良いのだと思う。実際の人生では辻褄が合ったことは僅かで、殆どのことは宙に浮いたままだから。『父、帰る』
説明を極力削ぎ落とした映画である。殺ぎ落としたというより、説明を拒んでいると言った方がいいかもしれない。わずかに呈示された情報も結論づけられることはない。弟イワン(イワン・ドブロヌラヴォフ)、兄アンドレイ(ウラジミール・ガーリン)兄弟に、ある日突然母親が「父さんが帰ってきたのよ」と告げる。父親(コンスタンチン・ラヴロネンコ)は兄弟が幼い頃に姿を消していた。父親は兄弟を孤島にキャンプに連れて行く。が、何故帰ってきたのか、父親はどこで何をしていたのか、何のためにキャンプに出たのか等、一切提示されない。
大掛かりなセットや華やかなサウンドトラック等が全くないミニマムな映画である。ミニマムな映画というと、得てしてリアリスティックな映画を思い起こしがちだが、この作品のミニマムさはリアリズムを指向するものではなく、むしろより象徴的、神話的な方向に働いていると思う。
キリスト教的なシンボルもそこかしこに窺われる。冒頭とラストに同じような姿勢で横たわる父親の姿が映されるが、これは磔刑にされたキリストと同じ姿勢だ。また、父親は食卓ではパンをちぎって家族に分け与え、ワインをグラスに注ぐ。しかし、この父親は聖性を感じさせながらも、粗暴な一面を見せる。自分流の躾を実行し、息子達の反論は許さない。チンピラをあっという間に捕まえる等、場合によっては暴力の行使もいとわない。
父親と息子達の関係は、人間ドラマ的な描かれ方ではなく、映画全体のトーンと同様、父殺しというモチーフも含めて神話的な、普遍的な描かれ方をしていると思う。兄は力強い父親に惹かれ、弟は反発する。弟は終盤ある無茶な行動を起こすが、父親が期待する強さとは、そのような危険性を常に孕んでいる類のものなのではないか。
リアルに感じるのは父と子よりも、むしろ兄弟間の関係である。冒頭の弟が弱虫だとなじられる時の兄の態度や、その翌日の兄と弟の喧嘩等、瞬間的に殺意にも似た感情がばっと湧きあがり、しかし1時間後にはまた一緒に遊んでいるというような、あの突発的な憎悪は自分の身にも覚えがあって非常に生々しかった。兄弟役の少年達の演技も素晴らしい。冒頭と終盤とでは2人の顔つきが全く違っている。その表情からは、様々な解釈が可能な映画であるが、少年が何かを失いまた何かを得て、決定的に変化してしまう瞬間を描いた映画でもあったのだと感じた。
映像がとにかく美しい。全く無駄がなく、これしかないだろうという構図で画面に収まっている。この監督は絵画の才能があるのではないかと思う位、1つ1つのシーンが絵画的だ。2003年ヴェネチア国際映画祭グランプリ金獅子賞受賞及び新人監督賞。アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の映画監督デビュー作である。