8月
『スパイダーマン2』
街でヒーローを見かけたらそっと応援してあげて下さい。彼らにも愛が必要なんです。世界一薄幸なヒーロー、ピーター・パーカー=スパイダーマン(トビー・マグワイア)が帰ってきた!遅刻にも貧乏にも家賃滞納にも負けるな、僕らのスパイダーマン!今回の敵は科学者Dr.オクトパスだ。街中で核融合実験なんて良い子は真似しちゃダメだよ(このあたりものすごくアバウトで笑える)!
1作目に引き続きサム・ライミ監督によるシリーズ2作目だが、娯楽映画のお手本のようなアクションあり、愛あり、涙ありの好作品になったと思う。宙を舞うアクションシーンは前作にも増して爽快だ。特に今回はサム・ライミの趣味が色濃く出たのか、微妙な笑い要素が増えた所に注目。ピーターがスパイダーマンのスーツをコインランドリーで洗濯して色落ちしちゃう所とか、スパイダーマン姿のままエレベーターで一般人と乗り合わせちゃう所とか、「雨に歌えば」に合わせたピーターのスキップとか、間の抜けたシーンが笑いを誘う。個人的には、笑うシーンではないのだろうが、ピーターがスパイダーマンのスーツをゴミ箱に捨てる所に妙にウケてしまった。路地裏のゴミ箱からだらんとはみ出るスーツ・・・あああ哀しい!(でも微妙!)。
そして今回は、スパイダーマンがマスクなしで戦うシーンが増えた。つまり、スパイダーマンというヒーローの物語というよりも、ピーター・パーカーという一人の青年の成長物語としての側面が強まったのだと思う。マスクが取れてしまったスパイダーマン=ピーターを見た町の人達は「まだ子供じゃないか」と言う。彼はまだ未熟で成長している途中なのだ。また、ピーターは誰かに命令されて正義の味方になったわけではない。スパイダーマンを辞めようと思えば辞められるのだ。じゃあ何故続けているのか、辞めちゃってもいいんじゃないか、というピーターの葛藤は、成長物語ならではだろう。マグワイアの童顔というか情けないというかほにゃっと系というか・・・な不思議なキャラクターがまた良い味わいだ。
ガールフレンドであるメリー・ジェーン(キルスティン・ダンスト)や親友・ハリー(ジェームズ・フランコ)との微妙な関係も変化しつつあり、3作目への伏線も示される。特にハリーは1作目で父親(実はグリーン・ゴブリン)をスパイダーマンに殺されたと思い込んでいるので、次回では友情愛憎入りまじったドロドロ親友対決が期待される。お願いライミ監督、早く続編を見せて!2007年までなんて待てません!『マッハ!!!!!!!!』
1.CGを使いません、2.ワイヤーは使いません、3.スタントマンを使いません、4.早回しを使いません、5.最強の格闘技ムエタイを使います。
どこぞの政治家とは異なり公約は守られました!正にアクション映画の原点。断言しましょう傑作です!
田舎の素朴な青年ティン(トニー・ジャー)が村から盗まれた仏像の首を取り戻しに行く、という単純極まりないお話なのだが、それは問題ではない。この映画の醍醐味はトニー・ジャーの離れ業としか言いようのないアクションにつきる。しかもワイヤーなし、スタントなしの正に生身での勝負。自動車を飛び越えるわ下をくぐるわ、火の輪をくぐるわガラスの間をすり抜けるわ、挙句の果てに本当に足が燃えているわ、文章だけ読んでいたら何のことやらさっぱりだろうが、本当にすごいんですって!エンドロールのおまけ映像を見ると、確実に皆怪我をしていそうなのだ。冒頭の木登りのシーンにしてから、相当痛そうだ。久々に痛そうなアクションを見た気がする。
ストーリーの運び方は正直あまり上手くなく、普通だったら入っているだろう過程がすっぽり抜けていたり、なんでこんなに時間がかかるの?というようなまだるっこしいシーンがあったりして、アクションシーンの少ない前半はちょっと退屈してしまった。しかし一度ティンのアクションが始まると、画面がぴりりと締まる。アクションシーンは、不器用さの感じられる他の部分と比べると洗練されている。見せ場は1カメ、2カメ、3カメというように見せる角度を変えてリプレイしたり、ティンは仏教の教えにより無益な戦いは禁じられている為最初のうちは積極的な戦い=アクションが出来ず強さにストッパーがかかっており、徐々にアクセル全開になっていくという段階的な楽しみ方が出来るなど、かなり見せなれている感じがした。何と言うか、週刊少年ジャ●プ的な喜びに満ち溢れている。
主演のトニー・ジャーはスタントマン出身で、古式ムエタイを始めテコンドーや剣術なども習得しているそうだ。止まるべきところでぴたっと止まる動きのキレは見とれるほどだ。人間の身体能力はここまで進化するのか!と思わず唸ってしまった。
もちろんラストは大団円なのだが、仏教説話的なオチがついているあたり、(そもそも主人公の目的が仏像を取り戻すことだし)お国柄を感じさせて面白い。主人公のために村人が少しずつお金を出し合うシーンなど、思わず目頭が熱くなります(笑)。『子猫をお願い』
監督のチョン・ジェウンは本作が初長編作だが、かなり手馴れた印象を受けた。これは良いです。光っています。
ヘジュ(イ・ヨウォン)、テヒ(ペ・ドゥナ)、ジヨン(オク・ジヨン)、ピリュ(イ・ウンシル)、オンジュ(イ・ウンジュ)は高校の同級生。卒業後、キャリア指向のヘジュはソウルの証券会社に就職。ジヨンはバラック街で祖父母と共に暮らしているが失職しており、就職活動に苦労している。テヒは家業の手伝いをしているが夢見がちで、広い世界に出たいと願っている。双子のピリュとオンジュはアクセサリーの露店を出して商売をしている。ヘジュの20歳の誕生日に、お金のないジヨンは近所で拾った子猫をプレゼントした。しかしヘジュは程なくして世話できないからと子猫を返してしまう。5人は集まって大騒ぎしたり、携帯電話でしょっちゅうお喋りしているが、徐々に距離が生じていた。
ルックスが良くオシャレで、男性上司にも気に入られているヘジュは、他の4人に対してつい優越感を持ってしまい、経済的には苦しいジヨンとの衝突が増える。人の良いテヒは何とか5人を結び付けようと奔走するが、彼女自身も家族とウマが合わず、かといって具体的にやりたいこともなく、それをヘジュに揶揄されたりもする。ストーリーの前半はコミカルで軽やかだが、彼女らが動き回る町並みは殺風景で、いわゆるガールズムービーぽさはない。徐々に、ヘジュが仕事で行き詰まったり、ジヨンの自宅が倒壊し祖父母が亡くなって天涯孤独の身になってしまったりと、シリアス色が強まる。ジヨンが拾った子猫がたらいまわしにされていくのと相俟って、5人を次々に不運が襲うかのようだ。
5人の女性は19歳から20歳くらい、社会に出たばかりか、これから出ようとしているくらいの年齢だ。大人になっていく過程の不安やもやもや感、こんなはずじゃなかったのにという思いなどが生生しくて身につまされた。このあたりの捉え方がとても的を得ていて、頷きっぱなしだった。とても目の良い監督だと思う。友人同士のバカ騒ぎや携帯電話でのやりとりは日本と同じ。そして、高校ではあんなに仲がよくていつもつるんでいたのに、いざ離れてみると「私たちって本当に親友だったの?」という微妙な距離感が生じてくる所も共通だと思う。友情だと信じていたものが少しずつ崩れていく感じ、自分達にあると信じていた将来の可能性がどんどん失われていく感じには、ああそうなんだよなあという実感がこもっていてやるせなくなった。学校のクラスに実際にいそうな5人の女の子達が身近に感じられて、時に軽やかに時にかっこ悪く闘う彼女らを応援したくなってしまう。
現実をあっさりと突破してしまうラストシーンには、それがおとぎ話かもしれないとしても、ぐっとくるものがあった。私たちってもう終っちゃうのかな、という感じをもちつつも、それでもこの先まだなにかあるんじゃないか、という気持ちを信じたくなる。『炎のジプシー・ブラス』
ルーマニアの北東の小さな村ゼチェ・プラジーニ。地図にも載っておらず、鉄道は通っているが駅はない。適当な所で電車が止まるのだ。泥の道とゆるやかな丘と井戸と畑があり、電柱は立っているがしょっちゅう停電する。犬、鶏、豚や馬と約400人の村人が生活する、何もないが長閑な村だ。しかしこの村、村内の成人男性100人のうち85%がブラス吹きだったのだ!おとぎ話の中のような村から世界へと飛び立ったブラスバンド、というとまるで作り話のようだがこの映画はドキュメンタリー、正真正銘実話だ(冒頭、少年が凍った湖の中から古びたホルンを拾い上げるシーンは創作だが)。
彼ら「ファンファーレ・チォカリーア」の音楽は、バルカン伝統曲や大衆音楽を猛スピードで演奏するものだ。近年は日本でも、映画『アンダーグラウンド』や『黒猫白猫』などのサウンドトラックとして知られているのでは。そして生活と密着した音楽でもある。地元の結婚式や出産記念、誕生日などの演奏はもちろんなのだが、村中で楽器の練習をしているので至る所でラッパの音が鳴り響き、お互いに演奏の腕をけなしあったりするのには笑った。決して洗練された音ではないのだが、心が騒ぐ、体が思わず踊りだすような音楽だ。
たまたま村にやってきたドイツ人が彼らの音楽に惚れ込み、ブラスバンドのCDを出し、海外での演奏(基本的に民俗音楽なので国内では需要がないのだ)を実現する為に奔走。とうとう彼らをプロデュースするためだけに友人と会社を立ち上げてしまう。これだけでも出来すぎた話なのだが、何とこのドイツ人2人は村の女性と結婚し、本当に彼らの「ファミリー」になってしまったのだ。正にファミリービジネス。自分達でバスを運転して、一族大移動よろしく4大陸34ヶ国のツアーを敢行、毎年平均120本以上の公演を行っていると言う。そして映画のラストは何と東京でのライブ。彼らにとって東京はうるさくて奇妙な都市みたいだが、会場は超満員で熱気に満ちていた。警察官を説得しての渋谷ハチ公前でのライブは、実際に見られた人はかなりラッキーなのでは。全編、音楽の楽しさに溢れた血沸き肉踊るドキュメンタリー。『サンダーバード』
元宇宙飛行士のジェフ・トレイシー(ビル・パクストン)と息子たちは、トレイシー・アイランド島を拠点に最新鋭メカ・サンダーバードによる災害救助活動に励んでいる。しかし兄弟の末っ子アランはまだ高校生。救助活動にあこがれているが学校優先!とのけものに。そんな中、過去の災害で救出されなかったことを逆恨みするフッド一味が、宇宙ステーションであるサンダーバード5号をミサイル攻撃。隊員たちが救助に向かった隙にトレーシー・アイランドを乗っ取ってしまった。島に残されたアラン(ブラディ・コルベット)、ファーマット(ソーレン・フルトン)、ティンティン(ヴァネッサ・アン・ハジンズ)に運命は委ねられた!
現在も根強いファンがいるTVシリーズ「サンダーバード」の映画化リメイク作品。しかし残念ながら、今作はファンの期待に沿えるものではなさそうだ。何しろ原作TVシリーズは、本国アメリカでは知名度が低い。極東の島国に大きいお友達がわらわらといらっしゃることなど、思いもよらなかったのだろう。「まーメカ出てるし子供映画にしとくか」程度のノリで作られたのが見え見えだ。制作側が想定した客層と実際の客層が完全にミスマッチしている(日本では)。
ストーリーは日曜朝の特撮なみに突っ込み所満載。キャラが立ててある分特撮の方が面白いくらいだ。更に、ストーリーの焦点が末っ子アランに絞られているので、他の隊員の活躍が全くない。せっかく大所帯なんだからもうちょっとそれぞれのキャラを動かせばいいのにー。アメリカには戦隊モノのノウハウはないのか・・。
国際救助隊の活躍というより、「アラン君初めてのお留守番」。子供客が共感しやすいようにアラン、ファーマット、ティンティンという子供3人を活躍させたのだが、これじゃあ単なるぬるーい冒険映画だ。肝心のメカの活躍もあまりなく、何の為のサンダーバードなの〜?と拍子抜け。子供向けの映画としても、あまりにお粗末ではなかろうか。ちなみに日本語吹替え版ではジャニーズアイドルV6が全員参加している。吹替えの出来は、まあ想像通りなのだが(演技力がアレだとか誰が誰だかわからないとか)、これだったらV6が実際に出演してアイドル映画にしちゃえばいいじゃん!と思ってしまった。『16歳の合衆国』
アメリカで高校生が起こした殺人事件を題材にした映画というと、最近の作品では『エレファント』が思い浮かぶ。『エレファント』はことが起こるまでを追った作品だが、この『16歳の合衆国』は、ことが起きた後を描いた作品だ。
16歳の少年リーランド(ライアン・ゴズリング)はガールフレンド・ベッキー(ジェナ・マローン)の弟ライアンを殺してしまう。矯正施設に入れられたリーランドだが、何も語ろうとしない。ただ教官パール(ドン・チードル)にだけは少しずつ心の内を語り始める。一方、ライアンとベッキーの家族は悲嘆に暮れていた。姉の婚約者アレン(クリス・クライン)は彼らを守ろうと努力するが、空回りしてしまう・・・。
少年犯罪の動機に対して「心の闇」やら「社会の病」やら、もっともらしい理由を付ける解説は多々ある。が、それは本当に的を得ているのか。とりあえずレッテルを貼って安心したいだけではないのか。監督のマシュー・ライアン・ホークは少年院で教師をしていた経験があり、その時の体験をもとにこの映画を作ったそうだ。少年院に入っている少年達は、実際にはそのへんにいる子供たちと何ら変わらない、普通の子供たちだった為、感監督はショックを受けたという。では何故彼らは犯罪者になったのか。学校、家庭、経済状態と色々と挙げられるが、必ずしもそれだけではない。映画の中でも、リーランドは自分が何故ライアンを殺したか説明できない。彼はむしろ、ライアンを可愛がっていたのだ。ベッキーに対して言えなかった「大丈夫、心配ないよ」という言葉もライアンに対してなら言うことができた。
ライアンの犯行動機は具体的には説明されない(出来ない)が、パールは彼が世界に対して抱いている哀しみには迫ることができた。教官のパールというキャラクターには監督自身が投影されているのだろう。パールは売れない小説家でもある。殺人者とは思えぬ知的で「良い子」であるリーランドに興味を持つと同時に、この事件を小説化すればベストセラーを狙えるという下心もあり、この事件を追及しようとリーランドとの対話を続ける。しかしリーランドが抱える哀しみに触れた彼は最後、自分の為ではなくリーランドの為に何かしようとする。この映画は、少年犯罪者となってしまったリーランドの物語であると同時に、彼を理解しようと努力し、その家庭で自分も何かを得る大人・パールの物語であったと思う。
リーランドがしたことは正当化できない。しかし彼を断罪するだけで問題は解決するのか。少年院に勤めていた頃から抱えていた思い、少年犯罪を廻る問題と、監督が必死で格闘しているような作品だった。作り手の葛藤や少年少女たちに対する思いが見える。『誰も知らない』
手が言葉よりも雄弁に心情を語る。長男がスーツケースを妹弟に触れるように撫でる手、母親がマニュキュアしてくれた長女の手、そしてそのマニュキュアが剥げてしまった手、少し汚れた次男の手、そして終盤、次女の手に触れる長男の手。大切なシーンでは顔よりも手のUPが多かったように思う。
母・けい子(YOU)とアパートで暮らす明(柳楽優弥)、京子(北浦愛)、茂(木村飛影<お母さんが「幽遊白書」のファンだったに10万ゼニー)、ゆき(清水萌々子)。しかし明以外の存在は他の住民には秘密だった。子供たちは全員父親が違い、戸籍がなく学校にも行っていない。けい子が仕事に行っている間は明が弟妹の面倒を見ていた。しかしある日、母親がわずかな金を残して家を出て行ってしまう。子供たちだけの生活が始まる。
「誰も知らない」とは、子供たちの存在が世間には秘密である、戸籍がない為社会的には存在しない=知られていないということだろう。しかし、同時に彼らがどんな生活をしていたのか、何を思って生きたのか誰も知らないということでもある。母親が失踪する、経済的に段々困窮していくという過酷な状況ではあるのだが、子供たち自身にはあまり悲壮感はない。彼らの生活はハードであると同時に子供としての楽しみにも満ちていた。その「誰も知らない」子供の世界を、この映画は非常に巧みに捉えていると思う。
兄弟だけの世界は脆く、外部との繋がりは買い物に外出する明の存在だけ。わずかに彼らの内面と関わることが出来た少女・紗希(韓英恵)も、学校でいじめられ、いないこと(誰も知らないこと)にされている、居場所がない存在だったからこそ、兄弟の中に入っていくことが出来たのだろう(アパートにたむろっていた明の友人たちは、兄弟の内部には入れなかったし入ろうともしなかった。彼らは学校にも家庭にも居場所があるのだから。彼らが醸し出した不穏さと、紗希がもたらした穏やかさは対照的だ)。しかし楽しそうなシーンがあるだけに、後半の徐々にお金がなくなり生活が苦しくなっていく過程は切実で、見ているのが辛かった。精神的に落込んでいる時とか生活が苦しい時(笑)には、あまり見ない方がいい映画だと思う。
出演している子供たちは皆素晴らしい。本作でカンヌ主演男優賞を受賞した柳楽は、強い目の力が印象的だった。いわゆる上手い演技ではないのだが、存在感が強い。監督の演出や指導の上手さもあるのだろう。今後TVドラマ出演などが増えそうだが、TVの世界でこの存在感を発揮できるかどうかは疑問だ。あくまでスクリーンで活きるタイプではないかと思うのだが。
そして母親役のYOUは、この役をより味わい深いキャラクターにしていたと思う。子供を置いて失踪する母親というと、酷い女だという言われ方をされそうだが、彼女が演じることで、可愛い面のある憎めないキャラクターになったと思う。何より、子供達との息がぴったりだった。母親と子供たちとの楽しそうなシーンがあるからこそ、その後何故子供たちが家族での生活を守ろうとしたかということに納得がいくと思う。
「ドキュメンタリー風」と前評では聞いていたのだが、実際にはかなり細かい演出、むしろあざとい位の演出がされていたと思う。もっとも、そのくらいのフックがないと客が退いてしまいそうな話ではある。是枝監督は、この作品である地点に達した感がある。本当に、よくここまで役者と監督とが向き合ったものだと思う。『歌え!ジャニス・ジョプリンのように』
冴えない日々を送っていた主婦ブリジット(マリー・トランティニャン)。しかしある日、保険会社勤務の夫が客の保険金を横領していたことが発覚。会社にも客にもバレないように、最近遺産相続をしたいとこ・レオンの遺産を狙うことに。実はレオンはジョン・レノンとジャニス・ジョプリンの熱狂的なファンだった。何とブリジットは伝説のロッカー・ジャニスになりすまして、レオンの遺産を巻き上げるハメに!ジャニスのファンでもそうでなくても楽しめる映画だと思う。
自分以外の人物になりきることで自分を解放するというのはよくある話だが、ブリジットもジャニスとして振舞うことにハマってしまう。それまでの彼女は地味すぎるほど地味で引っ込み思案。内気すぎて姑ともうまくいっていなかった。しかしレインボーカラーの髪飾りにピンクのサングラスをかけて70年代ファッションを身にまとうと、堂々と物怖じせずに振舞える。ジャニスの歌から強さや勇気をもらったかのようだ。そしてそれは単なる「フリ」ではなく、彼女の中に本来あった強さを呼び起こしていく。
しかし彼女の夫は、自分が立てたサギ計画であるものの、妻の変貌振りに戸惑い気味だ。妻は生き生きとして急に魅力的に見えるし、ジョン・レノン役に雇った俳優とも仲良くしているし、長らく感じていなかった嫉妬でいっぱいだ。ストーリー前半では、夫の計画に妻が振り回されていたのに、段々妻が主導権を握り独走状態で家庭崩壊。この過程がおかしい。サギ計画を通して、夫も妻も今までの人生に「これでよかったのか?」という疑問を持つ。そして新しい人生にさっさと踏み出す妻と、妻を侮っていたばかりに右往左往する夫。やっぱり女性は踏ん切りが早いのか(笑)。
ブリジットは最初、ジャニスのまねをしているだけだった。しかし彼女が得た歌う喜びは本物だ。最後、彼女は彼女自身としてステージに立ち、ジャニスの歌を歌う。ブリジットを演じたマリー・トランティニニャンの歌声は力強く、本当にジャニスが乗り移ったかのよう。この映画はこのシーンの為にあったのだと思う。
マリー・トランティニャンはこの作品のフランス公開を控えた2003年8月1日、恋人に殴られ不慮の死をとげた。彼女の元・夫であるサミュエル・ベンシェトリは公開中止も検討したが、娘と本作で最後の共演を果たしたジャン=ルイ・トランティニャンに励まされ公開にこぎつけた。マリー自身も、はからずもジャニスのような人生を送ってしまったのだ。『地球で最後の二人』
バンコクの日本文化センターに務めるケンジ(浅野忠信)は自殺することばかりを考えている。しかしある日、自宅のマンションに日本でヤクザになっていたはずの兄とその子分が押しかけてくる。ひょんなことから二人を殺してしまったケンジ。一方、タイ人女性ノイ(シニター・ブンヤサック)は男がらみで妹ニッドと喧嘩していた。乗っていた車から飛び出したニッドは、交通事故で死んでしまう。それを目撃していたのは、橋から飛び降り自殺しようとしていたケンジだった。なりゆきでケンジはノイの家に転がり込むことになる。
潔癖症で整理魔なケンジは、本は読んだ順番に積み重ね、服や靴はそれを着る曜日毎にきちんと掛けている。部屋には塵一つなく、食事をするときは常に持参の割り箸を使っている。一方ノイはおおざっぱで部屋もごちゃごちゃ、シンクには汚れた食器が山となっている(他人事とは思えない)。こんな2人がなりゆき同居するうち、徐々に愛情のようなものが芽生えてくる。ケンジは片言のタイ語しか喋れず、ノイは片言の日本語しか喋れない。会話は主に英語で交わされるが、それもたどたどしいものだ。ちょっと浮遊感のあるような曖昧な関係は、言葉が上手く通じないからという要素も大きいだろう。
非日常の中でそっと寄り添う、ともするとメルヘン的でもある男女の関係は、『ロストイントランスレーション』のビル・マーレーとスカーレット・ヨハンソンを彷彿とさせる。が、共通の言語を使うがあえて曖昧な関係のまま別れた二人に対して、ケンジとノイは使う言語は違うものの、お互いに歩み寄ろうとし(ケンジはノイと食べ物を分け合えるようになり、自分用意外の食器も使えるようになる)、セクシャルな気配も漂う。
ストーリー上、ノイの妹の死はともかく、ケンジが部屋を出る理由が兄の死ではなくてもいいような気がするが、あっさりと死体を出してしまう所は『6sixtynine9』の監督ペンエーグ・ラッタナルアーンらしい唐突さだ。ハードな事件が起きているのに妙に牧歌的なのや、ケンジの兄やその上司(ベタなヤクザ)がコミカルなのも、この監督の特徴だろう。映像の美しさは、撮影のクリストファー・ドイルの手癖が色濃く出たもの。特にノイの自宅の水が淀んだプールや、乱雑な部屋の色合いにそれを強く感じた。ちなみに、浅野の衣装はすべてアニエス・ベーのものだそうだ。★『カーサ・エスペランサ 赤ちゃんたちの家』
南米のとある国、優雅にバカンスを楽しんでいるかのような6人のアメリカ人女性達がいた。彼女たちは年齢も職業も育った環境もバラバラだが、ただ一つ共通点があった。彼女達は、この国で養子となる赤ん坊をもらうのを待っていたのだった。しかし政府はのんきなもので、一向に養子縁組の申請書を受理してくれない。延々と待ち続けるばかりの彼女達はいらだちを覚えながらも、一緒に食事や買い物をし、お互いの人生を垣間見る。
6人の女性はそれぞれに問題を抱えている。裕福だが夫とは離婚寸前だったり、流産を繰り返していたり、盗癖があったり、経済的に苦しかったり。しかしそれらの問題は、あからさまには提示されない。彼女らが交わす会話の内容、仲間内での噂話、ちょっとした言動からそれが窺われるのだ。彼女達は「子供をもらえる」というイベントを待つのみで、映画の中でははっきりとしたストーリーはない。いわばストーリーが本格的に始まるまでのストーリーなのだ。6人の中には、口が悪くてずうずうしい、ちょっと迷惑な人もいる。しかし、ジョン・セイルズ監督は、彼女をことさら嫌な女には描いていない。どの人物に対しても、同じくらいの距離をとって、さりげなく描いている感じがする。
彼女達は子供をもらうことで、今抱えている問題に突破口が出来るのではと期待している。しかし、子供が出来たからって問題が解決するわけではないと思うが。切々と子供が出来てからの生活に対する夢を語る女性を見ていると、そんなに子供って欲しいものなの?他に自分を満たしてくれるものはないの?と思ってしまう。映画の中では南米とアメリカの貧富の差もさりげなく描かれており、彼女達の行動はある意味傲慢にも見える。が、監督の視線は辛辣なものではない。淡々と彼女らの動きを追うだけで、彼女らを擁護も糾弾もしない。観客に委ねるところの大きい作品かと思う。
6人の女性達を演じるのは、マギー・ギレンホール、ダリル・ハンナ、マーシャ・ゲイ・ハーデン、スーザン・リンチ、メアリー・スティーンバーゲン、リリ・テイラー。皆演技派で、それぞれが演じるキャラクターにぴったりとはまっている。監督はキャスティングが決まった時点で、「これで映画は95%出来上がった」と豪語したそうだ。