7月

『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』
 
今や世界一有名な眼鏡っ子となったハリー・ポッター(ダニエル・ラドクリフ)君の映画第3弾。みんな大きくなっちゃって・・・。おしんのようにおじさんの家で耐えるハリーは、もうどこにもいないよ!いきなりキレちゃったりするんだよ!正にティーンエイジャーという感じで、ロン(ルパート・グリント)とハーマイオニー(エマ・ワトソン)の関係も、お互いに異性であることを意識して微妙な感じになってきている。いやー、子供の成長は早いね〜。
 前2作に比べると、全体の雰囲気は暗めだ。ハリーの命が脱獄犯シリウス・ブラックに狙われているらしいという事情に加え、人の辛い思い出を呼び起こし魂を吸い取るという、アズカバン監獄の看守・ディメンター達の効果だろう。このディメンターという存在の設定は、なかなか良く出来ていると思う。こんな化け物が出てきたら、私なんて一発でやられちゃいます。また、今までのシリーズの中では、ミステリ的雰囲気が一番強く、ストーリーの整合性も一番だったのでは。今までのような思いつき的アイテムや設定が減り、伏線がちゃんと生きていたように思う。ほろ苦さを残したラストも、今までの大団円とはちょっと異なる。ハリーは結局まだ子供で、大人社会を動かせるほどの力はないのだ。
 それにしても、3作目になってもハリーがどういう性格で何を考えている子のなのか、よく見えてこない。セリフの中では「勇気がある」とか「才能がある」とか「規則に従わない」とか言われているけれど、それが行動に現れていない気が・・・。才能がある(という設定)なのにも関わらず、これほど没個性的、というかキャラが立っていない主人公も珍しいのでは。キャラ立ちに限って言えば、ロンやハーマイオニーの方がよっぽど立っている。うーん不思議なシリーズです。この映画に対する原作ファン以外からのニーズって、どのくらいあるのだろうか。
 ちなみに、なぜ世間のお嬢さんたちがルーピン先生やシリウスにきゃあきゃあ仰るのか、おぼろげながら理解しました・・・そうかーそういうことねー。

『スチームボーイ』
 集え全国の歯車&ネジ愛好家。●ピュタだロ●ッティアだなんて言わせない!アニメーションの面白い所は、監督のフェティシズムが如実に表れる所だと思う。巨大な歯車やらパイプやらで大ハッタリをかましてくれる「スチーム城」は、機械大好きな男の子心をくすぐるのでは。ただ、その分コアなアニメオタク受けはしなさそうだ。
 舞台は19世紀半ば、万国博覧会目前のイギリスだ。少年レイ(鈴木杏)のもとに、科学者である祖父ロイド(中村嘉葎雄)から「誰にも渡すな」というメッセージと共に謎の金属ボールが届く。ロイドとレイの父親であるエディ(津嘉山正種)は、研究の為アメリカへ渡ったのだ。更に、祖父をアメリカへ招いたというオハラ財団と名乗る男達が現れ、ボールを持っているレイは捉えられ、万国博覧会のパビリオンに閉じ込められてしまう。しかしそこで待っていたのは、エディだった。
 謎の蒸気機関「スチームボール」を巡る少年の冒険活劇という、全く奇をてらわない、悪く言えば新鮮味のないストーリーなのだが、19世紀イギリスの風景の造りこみの繊細さや、キャラクターの動きの細やかさ(普通カットしそうな動作まで映しているところがちょっと面白かった)など細部の面白さには魅せられた。
 それぞれのキャラクターの立ち位置が曖昧で、ストーリーのキレが悪くなっている部分があるのだが、すっきりとした勧善懲悪ものは、制作側の本意ではないのだろう。ロイドとエディは対立しているが、安易に善悪には割り切れず、両者とも、人類に国に良かれと思って科学を使う。その両者の間で子供であるレイが何を考え、何を選ぶかを描きたかったのだと思う。
 ちょっと面白いなと思ったのは、科学の力=悪という構造にはなっていない所。この手の作品の場合、やっぱり自然が一番だよ!大地に帰ろうよ!というエコロジー指向になりがちなのだが、主人公も祖父も父も、結局それぞれのやり方で科学の力を信じていて、科学の徒であることに誇りを持っている。「自然と共存」と安易に言わないところには好感を持った。その一方でエンドロールでは、レイがこれから見るであろう科学の負の面=第一次世界大戦を見せる。このあたりに監督のスタンスが見え隠れしているような気がする。
 レイの声をあてた鈴木杏は健闘。少年役としてはちょっと声が高すぎるかなーと思っていたが、気性のまっすぐな少年役ははまっていた。そして意外にも芸達者だった、スカーレット役の小西真奈美。プロの声優なみの上手さですよ・・・こんな声も出せたのね〜。
 大友克洋監督が9年をかけた新作なので、待っていたファン(私も含み)は多かったのでは。しかし9年は長すぎます監督・・・(しかも作品としては微妙に地味だし)。

『カレンダー・ガールズ』
 イギリスであった実話を元にしてあるそうだが、本当にこんな話があったのか!だって50歳過ぎた女性たちが自らモデルとなってヌードカレンダーを作るって話ですよ。しかもそのカレンダーが実際に30万部のセールスを記録したというのだから、人生何が起こるかわかりませんね。  
 彼女達は、ヨークシャーの田舎町ネイプリーに住む、ごく普通の女性達。自営業をしている人もいわゆる主婦もいる。地元の婦人会が社交場だが、変わり映えのしない退屈な内容に、皆うんざり気味だ。そんな中、アニー(ヘレン・ミレン)の夫がガンで急死した。悲しみに暮れる彼女を励まそうと、友人クリス(ジュリー・ウォルターズ)は「ヌードカレンダーを作って、その売上金で病院にソファーを寄付しましょうよ」と思い付く。ただし、モデルは彼女ら自身なのだが・・・
 
 熟女のヌードってどうよ、と思う方も多いと思うのだが、キワモノ的な感じはしない。ヌードになっている女性達にはスタイルは良くない人もいるし、そう美人でもないのだが、なんだか皆キュートなのだ。ヌードというキワいネタを、彼女らが、そしてカメラマンが持っているユーモアが魅力的に見せているのだと思う。最初はあたふたとしていた彼女たちだが、だんだんと「私、もう50代なのよ。今脱がないでいつ脱ぐの?!」と自分達を茶化すような余裕が出てくる。そして自分達は今カレンダーつくりを楽しんでいる、誰にも邪魔させないというガッツが沸いてくる。すると不思議なもので、本当に魅力的な写真になってくるのだ。

 そもそもこのカレンダーを作ろうと思った理由は、何か面白いことをして友人を励ましたいという、極めて個人的な思いからだった。カレンはカレンダーが売れて有名になるにつれて、浮き足立ってしまい、夫を亡くした傷から立ち直ってはいないアニーとケンカになったりもするのだが、最後はやはり「友人のため」という初心を取り戻す。女の友情がなかなか良いのですよ。 
 本当に、良い意味でも悪い意味でも、人生何が起こるか分からない。でもその気になれば誰もが人生の主役になれるのよ、たとえ50、60歳になっても!とオバサマ達から励まされるような、元気の出る作品だった。

 『家族のかたち』
  選択して下さい。A:気は優しくて子供好き、でもルックスは珍獣系で臆病者かつドジで頼りない。B:ちょいワル風でセクシーなモテ男、ケンカは強いが自分勝手で生活力なし。さああなたはどっち!・・・どっちもいやでーす。
 ノッティンガムでガソリンスタンドを経営するデック(リス・エヴァンス)は、TVの素人参加公開番組で、シャーリー(シャーリー・ヘンダーソン)にプロポーズするが、動揺したシャーリーは「NO」と断ってしまう。デックが落ち込む中、番組を見たシャーリーの元夫・ジミー(ロバート・カーライル)が、グラスゴーからノッティンガムに戻ってきた。ジミーはシャーリーとよりを戻したがっており、シャーリーも心揺れている。デックは気がきでないのだが・・・

 デックは誠実でやさしいのだが、見ていてイライラするくらいにそそっかしくて冴えない男だ。一方、ジミーは少なくとも見た目はデックより良いし、恋人としては刺激的だろう。問題はシャーリーには娘・マーリーンがいるということだ。マーリーンはジミーの娘なのだが、ジミーが家を飛び出してしまったため、お互いに全く面識がない。一方、マーリーンはデックに懐いており、デックもマーリーンのことを可愛がっている。ここはやっぱりデックと結婚しておいた方が・・・と思うのだが、そう割り切れないのが人情というもので昔の男にも未練が・・・ああーっ、面倒くさーいっ!割り切れよ!そもそも一度出て行った男はまた出て行くに決まっているよ!懲りようよ!
 大人3人(プラスその周辺の大人)はどうもフラフラフラフラと頼りない。いいかげんに腹をくくってしまえ!と言いたくなる。人間としてダメな部分が結構出てしまっているので、おかしいんだけどイタい。一番しっかりしているのは、マーリーンだったと思う。マーリーンはある意味、シャーリーンの親的な部分があったのでは、と思ってしまった。家族という形は、それなりに努力しないと維持できないと思うのだが、シャーリーはデックとマーリーンにちょっと甘えていたのかもしれない。
 それにしてもロバート・カーライルってしょっちゅうこんな役やってるな・・・ダメ男(大抵貧乏)役が異様に似合う・・・。

『ラブドガン』
 殺し屋とその師匠と少女。うーんどこかのマンガかアニメに出てきそうなベタな組み合わせですな。
 女子高生・観幸(宮崎あおい)の両親は、父親が起こした無理心中で死んだ。父親の浮気がバレた為だった。そんな時観幸は、殺し屋・葉山田(永瀬正敏)と出くわす。「父の愛人を殺して」と依頼する観幸。一方葉山田の師匠である丸山(岸辺一徳)と若いチンピラ・種田(新井浩文)は葉山田を追っていた。丸山は、息子同然である葉山田を殺す任務を負っていたのだった。
 基本的には葉山田、丸山、種田という3人の男の関係が中心にある。教師・生徒という関係に加え、父子的な愛情のある葉山田と丸山、そして丸山の新しい弟子であり、新しい息子的な存在となっていく種田。極端な話、この3人がいれば話は成立するのだが、そこに女の子がからんでくる。・・・といっても、彼女がからむのは葉山田だけなので、ストーリー的に必要な存在だったのか、正直微妙だ。
 設定はありがち、セリフは陳腐なのに加え、笑いとシリアスのバランスも時々見失っている感じがするのだが、役者の力にかなり助けられていると思う。私は基本的に「役者が良くても監督がマズければ映画は失敗する」と考えているのだが、今作はそれが当てはまらない。画面の中にいるだけで、とりあえず映画の締まりが良くなる岸辺一徳はえらい。また、新井浩文がなかなか好演だった。つっぱっているが根が素直で、だんだん丸山を慕うようになる青年役は、案外地に近いのではないか。宮崎あおいは言うまでもなくかわいい。勘の良い女優だと思う。また、ちょい役なのだが、あの野村宏伸が変態医師役で名演技をしているので注目。
 監督の渡辺謙作は、今作が監督3作目。鈴木清順監督の下で修行した経験があるそうだが、作風にはそれほど影響はないと思う。今作はお世辞にも傑作とはいえないのだが、何かのセンスは感じる。重苦しいサントラは好みだった。

『スイミング・プール』
 プールの水面に映し出される「あなた」「私」とは一体何者なのか。フランソワ・オゾンの仕掛けるミステリー・・・と思ったら大間違いですよ。ストーリーの整合性ばかり追うと損をする。
 イギリス人のミステリー作家サラ(シャーロット・ランプリング)は、編集者の別荘に招かれる。しかし編集者は来られず、彼の娘ジュリー(リュディヴィーヌ・サニエ)が転がり込んでくる。生真面目なサラと奔放なジュリーはそりが合わないが、サラは次第にジュリーに興味を持ち、彼女と積極的に話すようになる。そしてある日、サラはプールサイドに血痕を見つける・・・。
 熟年の女と若い女。相対しながらも、相手の中に「こうでありたい自分」「こうであるべきあなた(私)」を見出し、変貌していく。一見二人のパワーゲームのようであるのだが、実は二人の化学変化的な絡み合いであった。やがて2人の間には一種の共犯関係・絆のようなものが芽生えたかに見える。が、しかし。しかしである。最後のある仕掛けにより、実は鏡に映った自分を見ていた、そしてそれを意識的に美化していたのではないかという可能性が明かされるのだ。結局見ている主体も自分、客体も自分であるのだ。女性が同性を見るときの意識には多かれ少なかれこういう面があると思うのだが、監督が男性であるというのがつくづく不思議だ。そういえば前作『まぼろし』でも同じことを思ったなぁ。
 オゾン監督も作風が随分と洗練されてしまって、ちょっとものたりないかも・・・と思っていたのだが、意地の悪さは相変わらずだった。それにしても、作家の脳とは何ともエゴイスティックで残酷なものだ。「彼女」の素顔が明かされるラストには「ここまでやるか〜」的なものを感じなくもない。
 女優二人が見事。正直、ランプリングはよくここまでやってくれたと思う。だって普通断りそうな演出だよ(笑)。サニエはこの撮影の為に肉体改造したそうで、見事なプロポーション。妙な言い方だが見ごたえのある体だ。そのサニエとランプリングを並べて撮ってしまうあたりにまた、オゾンの意地の悪さを感じる。もっとも、ランプリングは貫禄では余裕で勝っているんですけど(笑)。

『白いカラス』
 クリントン大統領の不倫問題で世間が沸いていた頃のアメリカ。ユダヤ人で初めての古典文学教授であるコールマン・シルク(アンソニー・ホプキンス)は、講義中に欠席続きの学生を「スプーク」だと発言する。しかしこの言葉には「亡霊」という意味の他、黒人を差別的に称する意味もあったのだ。人種差別だと批判され、元々敵の多かった彼は辞職に追い込まれてしまう。しばらくして、コールマンにはフォーニア(ニコール・キッドマン)という若い恋人が出来る。フォーニアは子供時代に虐待を受け、心の傷を抱えていた。そしてコールマンにも誰にも明かせない秘密があった・・・。
 アンソニー・ホプキンスとニコール・キッドマンという豪華キャスト。確かに主演2人の演技は高レベルだった。特にキッドマンは、影のある女性を熱演しており、役柄としては汚れた感じなのに却って美しく見えるところがすごかった。
 しかし、映画としては今ひとつな感が否めない。「原作小説(フィリップ・ロス「ヒューマン・ステイン」)はさぞや名作なんでしょうね・・」と思ってしまうのだ。つまり、素材は良いのだと推測できるのだが、料理の仕方がまずい。映画の冒頭は、コールマンの友人である小説家ネイサン・ザッカー(ゲイリー・シニーズ)の視点で語られるのだが、その後はコールマンの視点となり、最後にまたネイサンの視点に戻る。ストーリーの盛り上がりが分断されて、上手く機能していたとはいえなかったと思う。
 何よりコールマンとフォーニアが何故惹かれあったのかという説得力が感じられない。私にはコールマンは浅はかな、(「秘密」に関する所は別としても)自分の手にあまるようなことに手をだすような人物に見えてしまった。人種差別発言で糾弾された時にも、かっとせずにすぐに弁護士を立てて交渉すればいいの(小説家の所に「事件を本にしてくれ」と駆け込むよりも先にやることがあるだろうが!)に、と思ってしまった。フォーニアとの付き合いにしても、彼女を前夫から守りきることもできないくせに・・・と冷めた目になってしまう。何より冒頭の講義内容がお粗末で、「こんな名教授いねぇよ!」と思わず突っ込みたくなった。
 人種差別、ドメスティックバイオレンス等テーマは重い。が、どれも上滑りしてしまっていた気がする。監督は『クレイマー・クレイマー』のロバート・ベントンだが、今作はなんだかもったいない映画だった。

『アメリカン・スプレンダー』
 退屈で全くぱっとしない、冴えない毎日。しかしそんな日々も、一歩離れて見てみると妙に面白いのだ。
 オハイオ州クリーブランドの病院で事務員として働くハービー・パーカー(ポール・ジアマッティ)は、冴えない中年男。彼の唯一の趣味はジャズ・レコードのコレクションだ。ある日ガレージセールでレアなレコードを漁っていたハービーは、アングラ・コミック作家ロバート・クラム(ジェームズ・アーバニアク)と出会い、意気投合する。そしてクラムのコミックに感銘を受けたハービーは、自分の日常をコミック化してくれるよう頼むのだった。それが70年代から年に1冊のペースで出版され続け、クラム以後も様々なアーティストが作画を担当した『アメリカン・スプレンダー』だ。そしてとうとう映画化までされてしまい、’03年サンダンス映画祭では審査員大賞を受賞した。
 映画には実在のハービー・パーカー本人、ポール・ジアマッティが演じるドラマ内のハービー・パーカー、そしてコミック『アメリカン・スプレンダー』のキャラクターとしてのイラストのハービー・パーカーという、3層に分かれたハービー・パーカーが登場する。複雑そうな構成なのだが、実際に見てみるとこれが上手く絡み合っていて、「嘘だけど本当っぽい」「本当だけど嘘っぽい」という微妙な味わいを醸し出している。監督のシャリ・スプリンガー・バーマン&ロバート・ブルチーニの編集センスの良さを感じた。
 ハービーはいわゆる「オタク」。お金もないしルックスも冴えない。自分の趣味や薀蓄を理解してくれる人もいない。そんな彼の日常は、冷静に考えれば面白くはなさそうだし、そもそも彼自身が愉快そうではない。なのにそれが面白く見えてしまうのは、おそらくコミック原作者であるハービーの客観性にあると思う。冴えない自分、何をやっても上手くいかない自分を冷静に見つめる視点があったからこそ、夫婦関係のごたごたやガンによる闘病生活といったヘビーなネタもコミック化でき、コミック化することでまた、辛い状況の中でも自分を保つことができたのだと思う。正に人生これ全てネタ。見上げた根性だ。
 スプレンダーとは「輝き」のこと。平々凡々、ぱっとしない人生に輝きなんてあるわけねーよ!という皮肉として付けられたタイトルなのだろうが、やがてやっぱり人生には輝ける瞬間があるんじゃないかという意味に反転してしまう。これは意図されたものなのか、結果的にそうなってしまったのか・・・。

『ペジャール、バレエ、リュミエール』
 バレエ振付家であるモーリス・ペジャールを追ったドキュメンタリー。彼は革新的な創作により天才と称され、センセーショナルを巻き起こしてきた。映画『愛と哀しみのボレロ』で踊られる「ボレロ」の振り付けでも有名だ。このドキュメンタリーでは、彼の舞台「リュミエール」公開初日までの半年間を追っている。
 ペジャールは一見小太りのおじさんなのだが、ひとたび振り付けをしだすと、手先指先の繊細な動きに目を奪われる。そして自分の仕事に対しては非常に厳格で神経質だという印象を受けた。全く妥協しない人で、自分にも相手にも厳しい。ダンサーに指導している時に何度もダメ出しし、とうとうダンサーが「無理です」と漏らすシーンもあった。
 また、そのダメ出しはダンサーに留まらず、衣装担当や舞台装置担当、映像編集者にまで及ぶ。衣装チェックを何度も重ねるうちに、衣装担当者がうんざりとした表情を浮かべるのには笑ってしまったが、同情もする。こういう完璧主義な人と一緒に仕事をするのは、本当に大変だと思う。しかし、その完璧主義があってこそ、美しく完成度の高い舞台が実現するのだろうが。
 ダンサーやスタッフも、ペジャールの要求に出来る限りこたえようとしている。皆、非常にストイックな印象で、バレエを愛し、バレエに人生を捧げているような感じだった。「リュミエール」の初日公演は野外舞台で行われたのだが、直前まで雨にみまわれ、リハーサルもままならない。でもそんな中でもダンサー達は結構その状況を楽しんでいる感じがするのが印象的だった。むしろペジャールの方がナイーブになっていた気がした。
 ペジャールの振り付けは斬新なもので、いわゆる古典的なバレエのイメージとはかなり違う。が、ダンサーの動きの美しさには魅せられた。実際にペジャールの舞台を見たくなるドキュメンタリーだった。

『アリス』
 チェコの奇才アニメーション作家であるヤン・シュヴァンクマイエルの代表作。ルイス・キャロル「不思議の国のアリス」を下敷きにしているが、かなりオリジナリティの強いものになっている。
 私はシュヴァンクマイエルの作品は割と見ている方だと思うのだが、代表作である本作は、何故か見たことがなかった。評判だけは前々から聞いていたのだが、確かに代表作に相応しい濃密な作品だったと思う。この人の作品は基本的に人形を使ったアニメーションなのだが、本作ではアリス役として生身の少女が出演している。そして前編通して「かわいい」と言える存在がこの少女しかいない。他はおがくずの血を流す剥製の白ウサギや、靴下のイモムシ、ドクロ標本の化け物たちなどグロテスクなものオンパレード。そもそも出てくるもの全てが死体や廃物を思わせる。原作のダークな部分、シュールレアリズム的な部分だけを抽出したような作品だと思う。
 シュヴァンクマイエルは「舌」に異様にこだわりがあるらしく、他の映画でもたびたび「舌」の映像が使われるのだが、本作でも巨大な舌がうごめいていた。監督の脳内をぶちまけたような、妄想的な悪夢の世界なのだが、気持ち悪いと思う反面、異様なエネルギーで惹きつけられて目が離せない。ここまで個人の妄想を大展開されると、嫌がる人も多いだろうと思うのだが・・・。ちなみにこんなにマジョリティーのない作風にも関わらず、東京では数年に1度はシュヴァンクマイエル特集が開催されているような気がする。本作も過去何度も上映されていたはず。しかも私が見に行った時にも、かなり客が入っていたんですが。日本での需要が結構あるのだろうか。

『シュレック2』
 前作の説明は全くない『シュレック』の完全なる続編。今回は新婚さんのシュレック(マイク・マイヤーズ/
M田雅功)とフィオナ姫(キャメロン・ディアス/藤原紀香)の、フィオナの故郷である「遠い遠い国」への里帰りから始まる。フィオナの両親である王様とお后様は、彼女はハンサムな「チャーミング王子」と結婚して呪い(彼女には怪物の姿になる呪いがかけられている)が解けたものと思い込んでいる。しかし現れたのは怪物のままのフィオナと、まんま怪物なシュレック。しかも王様には、何がなんでもフィオナとチャーミングを結婚させなければならない事情があったのだ。
 前作は●ィズニーに対する呪詛に満ち満ちていて大変愉快だったのだが、今作では毒は控えめ。普通に「ええ話」だった。そのかわりと言ってはなんだが、過去の様々なハリウッド映画のパロディが入っている。大人客と子供客では笑うシーンがちょっと違う所が面白かった。子供はリアクションギャグや反復ギャグ等で笑うのだが、大人はいわゆる「元ネタ」付きギャグで笑う。まあ子供には分からない元ネタが多いだろうなぁ、多分生まれてないもん。
 新キャラとして刺客「長靴をはいた猫」(アントニオ・バンデラス/竹中直人)。必殺技は●イフル犬顔負けのうるうる目。根性のねじれたシュレックでさえその虜になってしまうのだ!このうるうる攻撃が伏線になっていて後で敵側に寝返るんだわ!ワックワク!とか思っていたのだが、普通に良い奴でがっかり。もうちょっとひねりが欲しいなー。あと、前作でも登場した童話の世界の登場人物達が活躍するので注目。特に皮肉屋のクッキーマンがお気に入りだ。
 前作に引き続き、最後が「めでたしめでたし」という定番であるにも関わらず、ヒーローはともかくヒロインが造形的に全く可愛くない所はえらいと思う。怪物といっても普通はちょと可愛くすると思うのだが、どう見てもブサイク。だからこそ「見た目じゃないよ中身さ!」というメッセージがうそ臭くならないのだろうが。
 ちなみにギャグの切れは、ドンキー役の山寺宏一が飛ばしまくっている吹き替え版の方が良いと思う。ただ、最大の見所と思われるミュージカルシーンは字幕版で英語で聞く方が楽しかった(というより自然)。ラストにあの曲を持ってくるなら、吹替え版ではヒロミGOに登場してほしかったなー。


 

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