6月

『デイ・アフター・トゥモロー』
 …そんな千代田区ねぇよ!…すいません、映画全編通して一番インパクトあったのがこれなんです…。一昔前の映画に出てくるような、中国やら韓国やらとごったまぜになった日本。監督の脳内ニッポンはこの位の時代で止まっているに違いない。…要するに、監督の関心のある所以外は極めておおざっぱな映画だということですよ。
 「NY凍らせてみたらどうよ」というワンアイデアで成立している映画。大寒波と洪水と吹雪きの描写に持てる力と予算の全てを注ぎ込んでいる感じで、人間関係やら情感の機微やらの演出にはあまり期待できない、というかそういう所を見る映画ではない。吹雪のNYに閉じ込められてしまった少年達、それを救出に向う気象学者の父親、何とか大作を捻り出す政府関係者達など、いくつかのエピソードが平行して進むのだが、特に意外性はなく「まあそうなるだろうなー」という感じだ。伏線の張り方もとってもわかりやすい。多分子供客が見ることも想定しているからだろうが、それ以前に、ストーリーにさほど重点を置いていないのではと思う。大洪水のNYに大型船が入港してきたら、とか自由の女神が半分雪に埋まっていたら、というような、絵の面白さはあるものの、それが客を引っ張るフックとして機能しているかというと、正直微妙。特殊効果に興味のある人には見ごたえがあるのだろうが、そうではない人にとってこのネタで2時間はキツいかな・・・
 所で、こういう危機的状況になった時には、人間はもっとパニック状態になると思うのだが、この映画の中では不思議なくらいそれはない。NY市立図書館に残った少年達グループの間で争いが起きてもおかしくないのだが、皆協力的だ。冒頭、ライバル役?と思った金持ちの少年も結局良い奴な役回りだった。また、研究所に取り残されて死を覚悟するイギリスの海洋学者とその助手達も、不思議なくらい冷静。そんなにすんなりと死を受け入れられるものだろうか。基本的に人間性善説に基づいたような、妙に楽観的なところがあった。
 ちなみに、最後のヘリコプターが救助に来るシーン。ジャックらの一行が一人増えているような気がするのだが…あんな小さい子はいなかったよね?

『パピヨンの贈り物』
 8歳の少女エルザ(クレール・ブアニッシュ)は、忙しくて自分と遊んでくれない母親に腹を立て、こっそりと同じアパートに住む老人ジュリアン(ミシェル・セロー)の車に身を隠し、幻の蝶・イザベルの採集旅行に同行してしまう。ジュリアンは腹を立てるものの追い返すわけにもいかず、仕方なく連れて行くのだった…。
 小さい女の子が近所のおじいちゃんと幻の蝶を追ってフランスの田舎を散策、というと何やら可愛らしい、ともすると子供向けの映画のように見える。もちろん子供も一緒に見ることが出来ると思うのだが、ジュリアンの息子は鬱病の為に自殺してたり(そもそもジュリアンがイザベルを捕まえようとするのは、蝶を集めて欲しいという息子との約束の為だ)、エルザの母親は16歳で妊娠して家を飛び出し、家族ともエルザの父親ともそれっきりだったりと、それぞれの背景は結構ハードだ。エルザがいつも一人きりなのも、看護士の母親は生活費を得る為に必死で、娘と一緒に過ごす時間すらままならないからだ。特にジュリアンの息子を死なせてしまったという悲しみと悔恨は、エルザに見せる影絵の物語の中にも滲み出ていて、ちょっと苦みを感じた。ジュリアンはエルザとの旅の中で、やっと息子の思い出から開放されたのかもしれない。
 エルザがとてもおしゃまで機転がきいて可愛い。口が達者でジュリアンにも負けないし、母親にバレることを恐れてジュリアンの携帯電話からメモリーカードを抜いてしまったりと、なかなかに小悪魔ちゃんである。おかげでジュリアンは辟易するだけでなく、警察に誘拐犯と間違われてしまったりするのだが・・・。しかしジュリアンも負けずにウィットに富んだ対応をする所が楽しい。ただし、2人の間にあるのは祖父と孫のような関係というよりも、同等な友人としての関係、友情に近かったと思う。このあたりがフランス的というか、大人な国だなーという印象。
 最後は「幸せは気付くとそばに」という「青い鳥」的ストーリーなのだが、それに気づくのには、やはりそれなりのプロセスが必要なのかもしれない。エルザとジュリアン、そしてエルザの母親にとっては、蝶を捜す旅(母親にとってはエルザの失踪)がそれだったのだ。エルザとジュリアンの関係だけに留まらず、そこにエルザの母親も交えた、新しい人間関係が予感できる所がよかったと思う。

『リアリズムの宿』
 映画全編にわたって居心地の悪さが絶妙だった。殆ど初対面の自主映画監督・木下(山本浩司)と脚本化の坪井(長塚圭史)は、共通の友人・船木(山本剛史)に誘われてひなびた駅に到着したものの、肝心の船木は一向に姿を見せない。仕方なく2人で宿に泊り、ふらふらとうろつく。海岸を裸で走っていた若い女・敦子(尾野真千子)も加わり、奇妙な旅行は続く。
 私が愛するバンド「くるり」が手掛けたサントラと主題歌「家出娘」を聴く為だけに見に行った…のだが、なかなか味わい深かった。木下と坪井はほとんど初対面(お互い名前くらいしかしらない)だし性格的な接点もないので、会話があまり噛み合わない。この何ともいえない気まずさに「あるある!」と肯いた。こういう「これってあるよな〜」というシュチュエーションの描き方が上手い。冒頭、携帯電話で船木と話す木下が、坪井が自分より年下だということを確認して安心する所とか、お互い気を遣って相手の映画を誉めようとするんだけど解釈が食い違っていて、から回っちゃう所とか。ちっぽけな意地を張り合って微妙に牽制する2人とか。さして親しくない2人の微妙な距離感が上手い。
 そしてリアルと言えば、全編に漂う侘しさが尋常ではない。ひなびた町の風景や、冴えない旅館。汚い風呂場や石鹸にヘコんだり、臭い布団に思わず笑ってしまったり。目の良い監督なのだと思う。ロケ地は鳥取県だそうだ。鳥取県側としては村興し的目的もあったようだが、これ見て鳥取に行きたくなるかな・・・何か逆効果のような・・・。
 木下という男は子供っぽい所があり、雰囲気が読めないし意固地で理屈っぽい。女の子が現れるとはしゃいじゃうし、「6年同棲してたから恋愛映画撮る資格があるっていうの」と坪井に絡むし、かと思うと妙に気が弱い。見ていてイライラする人物なのだが、イライラするというのは多分自分の中にもこういう部分があるからなんじゃないかなーと、微妙にいたたまれない気持ちになったりもした。対する坪井は一見クールだが、敦子に靴を買ってあげたりする優しさも見せる。木下よりは気のきく性格らしい。が、どっちにしろ2人とも冴えないことに変わりはない。そんな2人なのに、見ているうちになんとなくかわいいかも・・・と思えてきた。雪原で敦子を眺めながら彼女に関する想像をやりとりするシーンや、最後に一緒に作品を作ろうと言うシーンは、ぎこちなかった2人の距離がその時だけ接近していて、少しほっとする。見ている間はちょっと退屈もしてしまったのだが、見終わった後にずっと尾を引く感じがした。
 ちなみに、主題歌の『家出娘』(くるり)はCD化されていません。サントラが出るのを舞っていたのですが、どうもでないらしい・・・(というか、サントラ作れるほど音が入ってないのね)。「家出娘」はライブでも聴いたのですが、侘びしくて良い曲です。コーラス部分がすごく好き。

『みなさん、さようなら』
 第76回アカデミー賞外国語映画賞受賞、2003年カンヌ映画祭での脚本賞、主演女優賞受賞は納得の秀作。ドゥニ・アルカン監督の脚本は見事。小振りながら、会話のキレの良い作品だった。原題は「蛮族の侵入」なので、日本語タイトルはちょっと情緒的すぎると思う。
  ロンドンでやり手の証券マンとして働くセバスチャン(ステファン・ルソー)の元へ、父・レミ(レミ・ジラール)の病状悪化の知らせが入る。レミは末期癌だったのだ。セバスチャンは故郷カナダへ帰国するものの、実は父との折り合いは悪い。それでも母親の立っての願いで、父の最期を幸せなものにする為に奔走することになる。
  大学教授のレミは女たらしで、セバスチャンの母親とは離婚していた。セバスチャンはそのことでレミを怨んでいる。レミの方も、自分の研究分野には全く関心を見せず、自分の仕事(つまりは金もうけ)に邁進する生真面目なセバスチャンを「本も読まない奴だぞ!」と気に入らない。つまりそりの合わない親子で、お互いを「野蛮」だと思っているわけだ。
 それでもセバスチャンはレミの為、もうけた金にモノを言わせて個人用の病室を手に入れて改装し、かつての友人達を呼び寄せ、レミの苦痛を和らげる為にヘロインまで手に入れる。このあたりの手段を選ばぬやり手っぷりと行動力が、ディーラーらしくて可笑しい。家族や友人達の協力によって、レミは幸せとも言える最後の日々を過ごすのだが、それで死を受けいれられるようになるわけではない。レミは「怖いんだ」と漏らすし、全然平気ではいられない。でもそれでいいのだと思う。
  終盤、レミはセバスチャンのことを「資本主義の蛮族(日本語字幕では「申し子」)の登場だ」と言う。蛮族という言葉は悪い意味で使われているわけではない。レミ自身は若い頃学生運動を体験しており、共産主義寄り。全く立場や主義主張の異なる親子であるが、それを認めた上でも愛情があるということにお互いに気づく。だからレミはセバスチャンに「おまえはおまえに似た子供を作れ」と言うことが出来た。また、レミは無神論者だが、自分を担当してくれるシスターに「信仰のある君が羨ましい」と言い感謝する。このあたりの蛮族=他者の受容の仕方が、同じ父と息子の和解というテーマを扱った『ビッグフィッシュ』よりもクールで大人な感じだったと思う。そしてレミを蝕む病気もまた「蛮族」である。レミが最後に選んだ方法には賛否が分かれるだろうが、一つの道ではあると思う。
 でも、幸せな最後を迎えるにはやっぱりお金が必要だよ!世の中金だよ!というメッセージを何故か感じました・・・

『下妻物語』
 高く孤独な道を行け!でも時には一緒に歩く人がいてもいいじゃないね。ロリータファッションに命をかけて、茨城県は下妻から3時間かけて代官山のメゾンに通う桃子。お洋服代捻出の為、海外の某ブランドのバッタもんを売ろうとした所、それを買いたいというヤンキー少女・イチゴと知り合う。超クールな桃子と超ホットなイチゴはさっぱりかみ合わないのだが・・・
 冒頭、桃子が空中にキャベツと共に投げ出されるシーンからいきなり捉まれる。とにかく見ている側を飽きさせない。最後まで引き付けようという意図が明確で、特に前半はテンポが良くポンポンとネタが提示される感じ。このあたりは、CM経験の長い中島哲也監督の経験の賜物という感じだ。後半若干ダレるのだが、冒頭に提示されていたエピソードがちゃんと伏線として活かされていて安心した。
 そしてこの映画を映画として成立させているのは、主演の深田恭子の存在だと言っても過言ではないと思う。深田のルックス(ロリータ服を着こなせる芸能人ってあまりいないと思う)と声でこそ桃子というキャラクターが生きたのだと思う。ラスト、原付でイチゴを救いに駆けつけタンカを切る姿にはしびれた。正直ここまでポテンシャルがあるとは思わなかったのでびっくり(そしてちゃんときびきびした喋りも出来るのだということにびっくり)。
 ロリータファッションの桃子、ヤンキーファンッションのいちご。2人とも要するに服装で武装し、自分を守っているわけだ。普通、友人になる=歩み寄る、というパターンが多いと思うのだが、この作品最後まで2人が自分のスタイルを変えない所が面白い。武装は解かない、ポリシーは曲げないけれど、お互いそのままでも友達になれるじゃん、というかむしろ異文化理解の話だったのでは。
 桃子は「一人でも全然平気」とうそぶくし、現に学校でも全然友達いなさそうだし、本当に平気なんだと思う。が、刺繍をしてあげた特攻服を喜ぶいちごを見ているうちに「泣きそうになった」というのも嘘じゃない。女の友情は壊れやすい、とは限らないですよ。
 メゾンの社長が良い人すぎたり、桃子にもイチゴにも実はある才能があったりするところだけちょっと甘すぎかなと思ったが、良く出来た娯楽映画だと思う。私は母と一緒に見に行ったのだが、2人で大笑いし、ちょっとホロリとさせられた。監督の次回作にも期待したい。このくらいのレベルの娯楽作品邦画がもっと出てくると良いのだが。

『キューティーハニー』
永井豪原作マンガの実写映画化、というよりリメイク版のアニメ『キューティーハニー』に近い感じがした。オタク寄りとも一般寄りともつかない、微妙な立ち位置になってしまった。あえて言うなら、女の子向け特撮みたいな・・・。ハニーが大変頭の悪い子になっている。テンションが妙なので、見る側もそのつもりで見ないと置いていかれる。リアリティ皆無なので、うそ臭い世界を楽しめる人のみどうぞ。
 そして庵野秀明の映像作家としての才能の偏り加減(悪い意味ではなく)が、明確に現れた作品でもあると思う。監督としては「若い女の子やカップルで見られる、ちょいオシャレな爽快娯楽映画」を作ろうとしたのだろう。が、いかんせん彼のセンスは「ちょいオシャレで爽快」とは違うのね…。オシャレっぽくしようとがんばっているのはわかるんだけど、それが素人ぽくて少々寒い。いや無理しなくていいですから…と思わず声をかけそうになった。
 しかしストーリー前半のアクションシーンや新技法「ハニメーション」(アニメのモーション原理を実写に応用したもの)を使用した部分になると切れ味が良くなる。ミサイルが乱射されるシーンでは、「おお庵野な動きだ!」と思わず見入った。アクションシーンを作る才能に特化した映像作家ということだろうか。
 正直、話は安易だしギャグもゆるーい感じだし、色々とキビしいところも多い。それを映画として何とか成立させているのは、主演のサトエリこと佐藤江梨子のプロポーションだと思う。演技力以上に説得力のある体ってのがあるんですね。あのプロポーションで「愛の戦士、キューティーハニーさ!」と決めポーズをとられると、思わず納得してしまう(何を)。サトエリは演技がどんなに大根でも、あのボディがあればOKだと思う。冒頭の入浴シーンや下着姿で町を疾走する姿を始め、あざといサービスショット満載(下着で開脚にはびびりました)だが、健康的で非常にバランスがとれているサウタイルなので、案外いやらしくない。
 敵キャラの皆さんも健闘していたのでは。特に及川光博のプロ加減には頭が下がります。自演ナルシズムの醍醐味を見せてくれる。残念なのはボスキャラであるシスター・ジル(篠井英介)があっさり愛に目覚めてしまうこと。ボスキャラはボスキャラらしく、華々しく戦って散れ!

『心の羽』
 幼い息子を突然失ってしまったブランシュ(ソフィー・ミュズール)。しかし死を受け入れることが出来ず、夫とも心が通わなくなり、孤立していく。ブランシェは息子の幻影を探し回り、丘をさ迷い、沼にはった氷を割って、水底に沈んだ息子の声に耳を澄ます。沼のほとりで「寒いよ、ママ」と呟く息子(の幻影)を見つけ、ブランシュは本当に自分と息子だけの世界に没入していく。この過程は息苦しくなるくらいに静かで密やかだ。
 映画の随所に水のイメージ、そして小鳥のイメージが挿入されている。映像は美しいのだが、見ている側の不安を増幅させ、この後起こる悲劇を予感させる。ベルギーの郊外の町が舞台なのだが、都市部や本当の田舎だったら、また違った雰囲気が出たと思う。そこそこ田舎で丘や沼地、林といった自然に囲まれているのだが、それと同時に工場地帯でもある。ブランシェの夫は工場に勤めているが、リストラされるのではないかという噂もあり、どことなく不安感が漂う。全体にうら寂れた雰囲気なのだ。また、沼地には野鳥が集まる一方で、工場からの排水が泡となって沼に溜まっている。排水の泡と戯れるブランシェの姿にはちょっとどきりとした。
 ブランシュの精神が狂い、そしてある青年との出会いによって回復していくまでの物語なのだが、どちらかというと彼女が悲しみの余り狂っていく過程の方がよく描けていたと思う。彼女が自分と息子のことしか考えられなくて、夫や姑が不安がり苛立っていく感じが、双方痛々しい。肉親を失うということは、自分の中の一部も同時になくしてしまうものなのかもしれない。
 透明感のある作風なだけに、この悲しみの部分は鋭く感じられた。ブランシュは沼地で知り合った内気な青年との交流の中で、現実に立ち返ってくるのだが、そんなに急に回復するものなのかな、本当に回復するということがあるのかなーと疑問だった。第三者との出会いの中で、肉親を失くした悲しみから立ち直っていく映画としては『息子の部屋』などがあったが、今作ではその回復の過程にちょっと無理があったと思う。『息子の部屋』のように、もっとささやかなものの方が説得力があったかもしれない。

『21g』
 神はいずこにおわします。
時系列も場面も、バラバラにスラッシュされ再構築されている。なので、映画を見る観客には、最後に何が起きるのかが(漠然とは言え)わかっているし、3人がどういう関係にあるのかも大体わかる。なぜわざわざこういう手法をとったのかという疑問もなくはないが、観客に心の準備をさせる為だとも考えられる。そのくらいの重さがある映画だった。名優3人の渾身の演技合戦も、言うまでも無く必見。
 突然の事故で夫と子供を亡くしたクリスティーン(ナオミ・ワッツ)、クリスティーンの夫の心臓を移植されたお陰で生き長らえたポール(ショーン・ペン)、クリスティーンの夫と子供をひき逃げしてしまったジャック(ベニチオ・デル・トロ)。一つの心臓が全く接点のなかった彼らを結びつける。その先にあるのは更なる苦しみか救済か。
 3人の中でも特に印象に残った人物がジャックだ。彼は犯罪を起こしたこともあるが、今は非常に信心深いクリスチャンだ。「神は髪の毛が動いたこともご存知だ」と言う。しかし神は彼に関係のない人を殺させた。神は何でもご存知なのではなかったか?彼の信仰に意味はあったのか?彼はそれまで信じていたものを一瞬にして壊されてしまう。彼は「なぜ俺にこんなことをさせたのか」と問い掛ける。が、当然のように答えはない。教会の神父ももはや彼を支えることは出来ない。神の意志は本当にあるのか、神は自分達に対して本当は無関心なのではないか、(こういう事件が起きたのが)何故自分なのかというジャックの苦しみは、家族を亡くしたクリスティーンにも病魔に翻弄されるポールにも共通した、この映画の根底に流れる感情なのではないだろうか。ちょっと質は違うのだが、ジャックの信仰に対する葛藤からは、遠藤周作の小説「沈黙」を思い出した。もっとも、ジャックの信仰はちょっと偏った、未熟なものではあると思うのだが。
 ストーリーの中で、「それでも人生は続く」という言葉が、3人に対して、あるいは3人の口から繰り返される。しかしクリスティーンは、そう言って彼女を慰めようとする父親に対して「嘘よ」と言う。夫と子供を亡くした時、クリスティーンの人生の一部は終わってしまったのと同然だった。そういう人に対して「人生は続く」という言葉はどれだけの意味を持てるのだろう。そして、それでも日々は否応なしに続いてしまうというのは何と理不尽なことか。クリスティーンはポールと惹かれあい日常を取り戻しそうになるが、ポールに夫の心臓が移殖されたと知り、下火になっていた復讐心がまた燃え上がるというのが皮肉だ。
 そんなクリスティーンの苦しみには思いが至らず、探偵に自分の心臓の移殖主の家族を探させ、彼女と関わりあってしまったポールの愚かさ。3人ともがある意味愚かな面があってやりきれない。しかし、最後にはほのかな希望、いや希望とも言えない様なわずかな光が見え、少しほっとした。やはり「それでも人生は続く」のだと。
 

映画日和TOP  HOME