5月

『ピーター・パン』
 誰もが知っている児童文学「ピーター・パン」。原作は劇作家バリ。舞台劇として「ピーター・パン」が初めて上演されたのは、1904年12月27日。今年2004年は丁度100周年になり、100周年記念として実写映画化された。そして、これまでは女性が演じることが殆どだったピーター・パンを、史上初めて少年が演じた。
 私もピーター・パンのお話が大好きだった。家出して冒険、というシュチュエーションは当然楽しい。また、フック船長はもちろん、ピーターにはある種のいかがわしさというか、セクシャルなものがあって何となくドキドキしたものだった。ウェンディをそそのかすあたり、結構悪っぽいもんなー。今作でピーターを演じるジェレミー・サンプターは野性味のある美少年で、なかなかハマり役だったのでは。ウェンディ(レイチェル・ハード=ウッド)を小説家に憧れる活発な少女にするなど、現代的な風味も加えている。
 子供の頃はピーターに憧れるけれど、今愛着を感じるのはフックだ。ピーター・パンの劇では、フック役の役者はウェンディ達の父親・ダーリング氏役と兼任するのが慣例だ。今作品でもジェイソン・アイザックスが二役を演じている。つまりフックはおとぎの世界での父的なるもの見なすのが一般的なのだろう。が、この映画では、フックは父的なるものというより、ピーター・パンにも大人にもなりそこねた、大人でありながら中身は子供な人物という印象を受ける。そこはかとない悲哀が漂っているのだ。
 また、ダーリング氏はケチで真面目な堅物というだけでなく、非常にシャイで不器用な人物として描かれている。上司に上手く話し掛けることもできない位なのだが、ダーリング夫人は子供達に「お父さんは勇気のある人なのよ、家族の為に自分の夢を引き出しにしまうのも勇気」だと言う。このあたり、大人に対する視線が優しくて、家族連れのお客さんに対するフォローか?!と思ってしまった。
 これまで有名だったディズニーのアニメ映画に比べると、ピーターとウェンディの恋がクローズアップされているが、映画全体はあくまで子供向けな感じ。ストーリーは原作をかなりかいつまんで、オリジナルのシーンを付け加えたような感じで散漫になってしまっているので、オリジナル要素はなくてもいいから重点を絞って欲しかった。絵本をそのまま映像化したようなメルヘンチックな風景が描かれており、ネバーランドを実写で映像化できるくらいに特殊効果が発達したんだなぁと思うと感慨深いものがある。

『ホーンテッドマンション』
 お父さんもお母さんもお兄さんもお姉さんも坊ちゃんもお嬢ちゃんもおじいちゃんもおばあちゃんも楽しめる、最大公約数的エンターテイメントを造ろうとするとどうなるか。必然的に大味になってくる。ファミリー向け映画の宿命と言ってもいいだろう。それでもそこそこ面白いあたりはディズニーの底力か。
 2003年夏の「パイレーツ・オブ・カリビアン」に続く、ディズニーランドのアトラクションの映画化第2弾。今回はアトラクション「ホーンテッドマンション」を映画化した。ディズニーランドに行ったことがある方ならお分かりだろうが、このアトラクションはお化け屋敷でありながら全く恐くない。映画の方も幽霊達は大勢出てくるが、怖がらせようと言う意図はなく、むしろコミカル。小さいお子さんでもOKだ。
 夫婦で不動産業を営むジム・エヴァース(エディ・マーフィー)は仕事中毒で、妻との結婚記念日のデートもすっぽかす始末。埋め合わせに週末に家族旅行に行こうと約束を交わす。ところが、旅行前日になって、豪華な屋敷を売りに出したいという依頼。ジムは旅行の途中、一家でその屋敷に立ち寄ることに。しかし、いざ屋敷に着いた途端一家は突然の嵐に見舞われてしまう。そこで彼らは、不気味な執事と屋敷の主人に促されるまま、一晩をその屋敷で過ごすことにするのだったが…。
 主演は何だか久々に見た感のあるエディ・マーフィー。マシンガントークは相変わらずだが、今回は残念ながら、彼の持ち味が活かされきったとは言い難い。子供向け映画ということを念頭に置いているからか、やや抑え目なのだ。彼の持ち味は下品スレスレのどぎついジョークにあると思うのだが・・・ちょっとお上品すぎたかな〜。ストーリーがお約束的なものである分、ジョークで笑わせてほしかったのだが。
 もっとも、小ネタ一つ一つは結構楽しい。クールでティーンエイジャーらしく不機嫌な娘と、気弱な息子のコントラストもおかしかった。冒頭、息子役のクモの恐がり方は気合が入っているので必見だ。ちなみにギャグは吹替え版の方が冴えている気がする(エディ・マーフィー役の声優・山寺宏一の上手さもある)。やはり声で聞くのと文字で読むのとだと、見る側のリアクションが違うのだろうか。「巧が華麗にリフォーム」には笑った。(でもこの手のネタはタイムリーさがあるだけに、DVDでは差し替えられちゃうのかも) 
 執事のラムズリー役がテレンス・スタンプなのだが、ごっそり老け込んでいてちょっとショック・・・役作りのためだと思いたい・・・

『ビッグフィッシュ』
 エドワード(アルバート・フィニ/ユアン・マクレガー)は、自分が若い頃の話をおとぎ話のように語る。魔女や巨人、サーカスでの活躍、そして村の池の主である大魚。「単純でつまらない事実より、楽しいお話の方がいい」。しかし彼の息子ウィル(ビリー・クラダップ)は、子供の頃は父親のホラ話を楽しんでいたが、やがて事実を頑として語らない彼にいらだちを感じるようになる。そんな中、エドワードは病に倒れ、ウィルは父親の過去を探り始める。
 父親はよかれと思って息子におとぎ話仕立ての話をする。父親にしてみれば、事実よりもおとぎ話の中の真実を大切にして欲しかったのだろう。それもまた正論だ。しかし、息子にとって大切なのは何があったのかという事実であって、おとぎ話ではない。物語では救い上げられないものもあると思う。実際にあったことがつまらない事実(例えば息子が生まれた時の話のように)であっても、それを知らないと息子は救われない。この父子はそれぞれ違う価値観を持っているのだ。
 ラスト、息子は父親に請われ、父親についての物語を作る。それは父を死へ送り出すためのものだ。その行為は父を許容するものではあるが、和解し、自分が救われるものではない。父は息子を愛し、息子も父を愛しているが、結局2人は理解しあえなかったのだという諦め(父さんは魚だったのだから仕方ない)の行為だったのではないか。
 映画の予告では「愛の物語」というふうに言われているが、愛はあっても理解はし合えなかった父子の物語にしか見えなかった。特に父親の方は、息子を理解しようとさえしなかったのでは、息子は自分とは違う人間だということを最後まで認められなかったのではないかとさえ思う。彼は結局、自分に都合の良いもの(おとぎ話)しか見えてなく、それ以外のものは、本当には受け入れなかったのではないか。ティム・バートン監督らしく、映像は美しいし楽しい話なのだが、父親の態度がずっとひっかかってしまい、最後までノれなかった。

『エレファント』
 『グッド・ウィル・ハンティング』、『小説家を見つけたら』など、青春映画を撮り続けているガス・ヴァン・サントの新作。2003年のカンヌ国際映画祭で、パルムドール&監督賞のW受賞を果たした。1999年に起きた、コロラド州コロンバイン高校における、高校生による銃乱射事件をモチーフにしているが、同じ事件をスタート地点にしていても、銃社会を告発する『ボウリング・フォー・コロンバイン』を制作したマイケル・ムーアとは、全くアプローチの仕方が異なる。
 ガス・ヴァン・サントは声高に問題提起することも、何かを糾弾することもない。カメラはそれぞれの少年少女たちの背後にはりつき、ただ彼らを追い、「何故?」と問い続ける。『グッド・ウィル・ハンティング』、『小説家を見つけたら』でも感じたのだが、この監督の目線は少年少女のラインぎりぎりまで下がっている感じがする。子供を描くのが上手く、今作でもそれぞれの高校生たちがどんなキャラクターであるのか、それぞれに割り当てられた時間はすくないのに、分かるようになっている。アル中らしい父親の代わりに車を運転してきたせいで遅刻してしまい、校長先生に怒られ、一人になった時につい泣いてしまう少年。他の子とは違って、体育の時間にショートパンツを履かなかったことを先生に注意され、ロッカールームで同級生に「ダサイ」と言われているのを耳にしてしまう少女。学校でも休日でも一緒につるんでいる少女3人組。そして、内気ないじめられっ子の少年。皆、そのへんにいそうな子たちだ。カメラは彼らにただよりそい、それぞれの日常を綴る。1つの日常ともう1つの日常が時に交差し、やがてそれが事件のあった1日全体となる。しかし、やはり全体を見ること、あの事件が何であったのかを説明することは出来ない。「エレファント」とは、「盲目の僧侶たちには、象の全体像が見えていない」という例え話に由来するもの。事件がなぜ起きたのかを理解するには、彼らそれぞれを見つめるしかないのか。しかし、それでもなお理解はできないのだろう。
 久しぶりにスタンダードサイズの映画を見た。ワイドに慣れている目には、若干息苦しさを感じる。その息苦しさは、高校生活の息苦しさと少し似ているのかもしれない。出演している若者達は皆素人。実際の高校生3000人からオーディションで選んだそうだ。そして彼らは実名で登場し、それぞれのキャラクターには演じた少年少女自身の背景が投影されていると言う。特にジョン役のジョン・ロビンソンはフォトジェニックなルックスで、今後ブレイクしそう。

『スパニッシュ・アパートメント』
 『猫が行方不明』『百貨店大百科』などのキュートな映画を撮ってきたセドリック・クラピシュ監督作品。今までの作品では笑い要素がちょっと中途半端だったのだが、今作はしっかりと笑えるシーンがいくつもあって、上達したな〜という印象を受けた。ルームメイトの浮気を庇うため、仲間たちが一致団結して策を労するあたりはおかしい。そしてサウンドトラックが秀越。
 フランスの大学生グザヴィエ(ロマン・デュリス)は、就職予定先の役所に勤める父親の友人の勧めで、スペイン・バルセロナに留学する。彼の新しい住まいは、国籍も性別もバラバラな若者たちが部屋をシェアしているアパート。好みも習慣も違う彼らとの生活は騒々しくも楽しいものだった。
 国籍がバラバラな同居人達だが、国の違いによるギャップというものは、この映画の中ではあまり感じられなかった。むしろどの国であっても若者は若者だという面がクローズアップされていたように思う。部屋をシェアしているメンバーであるイギリス人の女の子の弟が遊びに来て、「ドイツ人だから部屋が片付いている、イタリア人の部屋は散らかっている」という風に住民をステレオタイプに当てはめてベラベラと喋るのだが、これに皆はうんざりする。それは国籍ではなく、個人の嗜好に左右される事柄だから。もっとも、EU内の人たちばかりだからそんなに違いはないだけで、アジア圏などからの留学生がいたらまた違ってくるのだろうが。
 主人公のグザヴィエはなんとなく情けない青年だ。これまたステレオタイプだが、フランス人というと自己がしっかりと確立されていてオシャレで・・・というイメージがあるが、グザヴィエは何だかフラフラとしているし、服装も野暮ったい。留学する時のノリもいいかげんで、日本の大学生とあんまり変わらない感じなのだ。ちょっと安心する(笑)。国に可愛い彼女(「アメリ」のオドレイ・トゥトゥ)がいるにも関わらず、若い人妻と不倫(レズビアンの友達から必勝法を伝授される!これがまたおかしい)しちゃうのだが、結局虻蜂取らずに。・・・フォローできないなら手出すなよ・・・。
 グザヴィエは帰国後、両親のひいたレールを外れ、自分の夢を追いかけることを決意する。・・・と書くと良い話そうなんだけど、彼も仲間たちもどう見ても甘ちゃんなので、おいおいまたモラトリアム期間突入かよ〜と突っ込みたくなってしまう。

『殺人の追憶』(ネタバレです<まあバレても映画の面白さに変わりはないと思いますが)
 1986年から6年連続で10人の女性が犠牲者となった、実際の連続殺人事件を題材とした映画。動員された警官180万人、取り調べを受けた容疑者3000人以上。しかし現在に至るまで真相は解明されていない。
 ソウル近郊の小さな村で、手足を縛られた女性の変死体が発見される。地元の刑事パク(ソン・ガンホ)とソウル市警のソ(キム・サンギョン)は捜査を開始するが、お互い性格も捜査方法も違い、険悪な空気が漂う。それでも懸命に捜査し、徐々にチームワークも生まれてくる2人だったが、次々と新たな犠牲者が発見されるのだった。
 犯人らしき人物は数名に絞りこまれている、が、決定打がなく、こいつかと思ったらあいつがよけいに怪しくなってくる。一つまた一つと手がかりが現れるが、どれも真相には届かない。謎が解けそうになる瞬間はスリリングだが、それら全てが肩透かしに終わってしまう奇妙なミステリー。
 足と腕力で情報をかせぐ田舎と、頭脳で勝負する都会の刑事という対比はお約束的パターンだが、行き詰まった捜査と事件のプレッシャーが、やがて刑事2人の立場を逆転させ、彼らの人生さえ変えてしまう所が怖い。結局あの事件は何だったのか。ラストのパクの表情には、その謎を抱えて生きていかなければならない苦さが滲み出ている。主演男優2人の顔に力があった。存在感がしっかりとしているというか、役柄のキャラクターにぴったりとはまっている感じがする。
 それにしても、韓国の警察の初動捜査って、あんなにいい加減なのかなー。デフォルメはされているのだろうが、ちょっと酷い(笑)。初動捜査がちゃんとしていれば、解決できた事件のような気がするのだが・・・。2時間強いと、ちょっと長い作品で、なおかつ作風は地味なのだが、最後まで飽きずに見させられた。これは面白いですよ。

『CASSHERN/キャシャーン』
 結局あの決めゼリフは言ってくれないのね・・・
 世間様では滅多やたらに評判が悪いキャシャーンだが、どの程度のものなのかドッキドキしつつ見にいった。結論から言うと、危惧していたほどひどくはないが、ひどいかひどくないかで言えばひどい(どのくらいかと言うと、あらすじを説明する意欲が沸かない位)。紀里谷和明監督の熱意は伝わるが、悲しいかな映画作りの才能は全く感じられなかった。
 私はこの監督の映像世界は、嫌いではない。むしろ好きな方だ。手がけたPVなどがTVで放送されていると、つい見入ってしまう。「キャシャーン」も映像自体は、うすっぺらくはあるがそれほど悪いとは思わない。一つ一つのシーンにはそれなりに魅力がある。が、その繋げ方がいただけない。シーンを繋げれば映画になるわけではないのだが。また、場所と場所の位置関係、時間軸などが上手く処理されておらず、「えっ何でこの人がここに?」「ていうかここ何処?」みたいな部分が多多見られた。つまりはストーリーテリングがお粗末なのだ。クライマックスに向けて伏線はいくつか張ってあるものの、もっと基本的な所をこう〜ね!とやきもきしてしまう。映画の作法が身に付いていないのがバレバレなのだ。
 そしてフルCGの映像世界も、ゲームやアニメーション、ましては「マトリックス」を体験してしまった観客には特に目新しいものはないだろう。荒れ果てた町並みにしても大量のロボットや飛行機にしても、「どこかで見たな〜」感がぬぐえない。「あの映画が好きなんだろうな〜」とか「このマンガ・アニメを見ていたんだろうな〜」ということがバレてしまったような感があって、見ていていたたまれなかった。
 更に致命的なことに、アクションシーンに全く魅力がない。というより、アクションをしていない(笑)。連続した動きではなく、決めシーンを繋いだだけみたい。これでは映画としての醍醐味は半減していると思うのだが・・・正直、2時間強のこの映画全編を見るよりも、5分程度の「SAKURAドロップス」のプロモを見る方が、よっぽど作品内世界の広がりを感じるのだ。無駄に映像を作りこむよりも、きちんとした脚本(他の人に任せればいいのに・・・)を作って、ある程度SF考証もやっておくべきだったと思う(そもそも何故キャシャーンが誕生したのか、全く説明されてないし)。キャシャーン=テツヤ役の伊勢谷友介がとんでもなく大根なのもイタかった。唐沢寿明と及川光博はベタな演技で良い味出していたが。
 「人は何故争うのか」という大々的なテーマを掲げながらも、結局は母親の取り合い話であったというのはある意味グロテスク。そしてルナ(麻生久美子)は何のために出ていたんだろうね・・・。

『キルビルVol2』
 待望の「キルビル」続編。誰かがタランティーノの尻を叩いて1本に纏めさせるべきだったと思う。野放しにするなよ〜。
 1でオーレン・イシイ(ルーシー・リュー)への復讐を果たしたザ・ブライド(ユマ・サーマン)の復讐は続く。テキサスの荒野を旅し、次なる目的はビルの弟・バド(マイケル・マドセン)。しかし彼の計略に嵌まり、地中に生き埋めにされてしまう・・・
 「北斗の拳」ばりの地中からの脱出方法、拳法の達人であるパイ・メイとの修行など、多分笑う所なんだろうな〜という所は随所にあったものの、結局笑えず。特に修行シーンは何かもう寒い!寒いよ!凍えちゃうよ!って感じで正視できなかった。この部分だけが復讐話としての色を強めたストーリーから浮いているのだ(土まみれでダイナーに入るユマの姿はおかしかったけど)。エル・ドライバー(ダリル・ハンナ<ユマよりかっこよかったと思う)との決闘も、1でのなんちゃってアクロバティックなアクションシーンと比べると、正にどつきあいな感じで随分とシンプル。しかも、えっそんなオチ?っていう感じで終わっちゃうし(ビル(デビッド・キャラダイン)との対決もそうだった)、何だかな〜。正直、見ている間全くテンションが上がらず、かなり我慢して見ていた。
 タランティーノの脳内ニッポンが延々と繰り広げられたVol1と比べると、随分とオーソドックスというか普通な感じになっている。実は映画としての本筋は2の方にあると思う。1でのクライマックスである青葉屋での立ち回りやオーレン・イシイとの対決は、ストーリーの展開上は別に無くても(復讐相手はビルとエルだけでも話は成立するわけだから)よかった。タランティーノが「こんなシーン入れたいぜ〜!」とやりたい放題やった結果、1本の映画では収まりきらない余剰=過剰な部分が1に凝縮されていたのだろう。そして皮肉なことに余剰部分の方が面白かった。本筋というべき2は、西部劇を踏まえたモノクロシーンの美しさはあるものの、1の過剰な部分にはかなわなかった感がある。
 私はタランティーノ監督の映画は好きだったのだが、この作品で素直に好きと言えなくなってしまったのがちょっと寂しい。何というか、監督の「好きなこと全部やりたい」という子供っぽい部分が出すぎていて、映画を見ていても全面的にノることが出来なかったのだ。今作の場合、彼をある程度押さえる役割の人材が必要だったんじゃないかと思う。1と2をあわせると、1つの作品としてはバランスが悪すぎるのでは。

『コールドマウンテン』
 ニコール・キッドマンとジュード・ロウという超分かりやすい美形2人が繰り広げるメロドラマ。・・と言っても2人が一緒に画面に映っている時間は短いんだけど・・・
 時代は南北戦争末期の1864年。一度だけキスを交わしたインマン(ジュード・ロウ)とエイダ(ニコール・キッドマン)は、インマンが南軍兵士として出征した為離れ離れになる。重傷を負ったインマンは、脱走兵として処刑されるのを覚悟でエイダが待つコールドマウンテンを目指す。一方エイダは父を亡くし、蓄えもなくなって生活の危機に。しかし流れ者の女性・ルビーの助けを得、逞しさを得ていく。
 一度のキスで死を覚悟するほど愛し合えるかというツッコミはあるものの、それでこそのメロドラマ。むしろキスしかなかったからこそ盛り上がるというものだ。加えて主演の2人がどう見ても美形なので、まるで一昔前の少女マンガの様。特にジュード・ロウは背中にお花、瞳にお星様が輝きそうな勢い。ニコールはきれいはきれいなのだが、元々骨太系なことに加え、段々とたくましく成長していく役柄なのでちょっと損をしていたような気がする。そしてこの作品でアカデミー助演女優賞を受賞した、ルビー役のレニー・ゼルウィガー。美人に見せることを完全に捨てている感じで、女優の根性を見せてくれる。野性味のある逞しい女を熱演していて、これは受賞も納得。
 インマンは旅の中で出会う人たちに裏切られつつも、希望を捨てず、どこかイノセンスを残している。また、世間知らずのお嬢さんだったエイダは、生活していく為にルビーの助けをかりつつも、次第に自立した女性に成長していく。ルビーとの友情が芽生えていく様子も小気味良い。メロドラマである反面、インマンの地獄巡り物語、お嬢さんだったエイダの成長物語としての側面もある。
 しかし全編を見て強く心に残るのは、戦争の醜さだった。戦争が激化する中、普通の人たち、特に悪人でも善人でもなく、そこそこ気のいいはずだった人たちが、平気で残酷な行為をするようになっていく恐さ。特に義勇軍と称してやりたい放題な男達には腹が立ってしょうがなかった。
 監督は『イングリッシュ・ペイシェント』でアカデミー賞を受賞したアンソニー・ミンゲラ。下手にアートよりの映画にせず、王道メロドラマとして構成したのが吉と出たか。そして映画のメッセージは一つ。戦争はろくでもないということだ。メロドラマと見せかけて反戦映画。この時期にこういう作品を製作したところに、監督の心意気を感じる。

『永遠のモータウン』
 「モータウン」と言えば言うまでもなく「モータウン・レコード」というレコード会社、もしくはそこの所属アーティストと彼らが放ったヒット曲を指す。モータウン・レコードは、アメリカ北部デトロイトの実業家・ベリー・ゴーディーが1959年に設立した、ソウル、R&Bなどの黒人音楽を扱うレコード会社。スティービー・ワンダー、ダイアナ・ロス、マーヴィン・ゲイ、マイケル・ジャクソンなどを送り出し、60〜70年代初頭まで一世を風靡した。モータウンのヒット曲には独特のサウンドの共通点があり、それを総称して「モータウン・サウンド」と呼ぶ。最も勢いがあった1959〜1972年にモータウンが放ったヒット曲は200曲以上。しかしこれらを送り出した演奏者のクレジットは、初期のレコードには載せられていなかった為、スター達の影で名曲を生み出していった「ファンク・ブラザーズ」が得た名声はわずかなものだった。そんな彼らを追ったドキュメンタリー。原作は89年にラルフ・J・グリーソン賞を受賞したアラン・スラツキーの著書『Standing in Shadows of Motown』。
 モータウンのヒット曲作りは(何しろあまりにも数が多く完成度が高いので)もっとシスティマティックなものかと思っていたが、作り手は「良い音楽を」という一念で演奏していたのが分かる。名物ミュージシャンやカリスマ的な演奏をしていたミュージシャンのエピソードも豊富で、思わずニコニコ、時にホロリとさせられた。「MY GIRL」の世界一有名なイントロ部分を生み出したミュージシャンが、入ったお店でこの曲がかかっているのを聞いて「この曲・・・」と口にしかけたものの、結局口を噤んでしまうエピソードなど、裏方であった彼らの悲哀を感じる。しかし、偉業を成しつつも名声を得られなかったことに対するうらみつらみは、意外なほど聞かれない(もちろん映画演出上のことでもあるのだろうが)。やはり音楽が好きだと言うことが一番の原動力だったのだろう。そして世界中が彼らに影響を受けた。すごいね。ライブシーンには背筋がぞくぞくする。

『スクール・オブ・ロック』
 こんな先生いたらいいのに!(いたらいたで迷惑かもしれないけど・・・)何はともあれジャック・ブラックが大好きだ!
 ロックンロールを愛するバンドマン・デューイ(ジャック・ブラック)は、熱血ぶりが過ぎて客からもバンドのメンバーからもあきれられ、とうとうメジャーを狙うバンドからはクビにされてしまう。更に、彼は友人・ネッド(マイク・ホワイト)の家に居候しているのだが、滞納した家賃を払わないなら出て行けと通告される。金に困ったデューイは、代用教員であるネッドになりすまして、経験も無いのに小学校の教員に。しかし子供達が楽器演奏を出来ることに気づいたデューイは、彼らをロックバンドに仕立て、バンド・バトルで優勝して賞金を手に入れることを思いつくのだった・・・!
 ロックは反体制だ!と叫ぶわりには、子供にロックを仕込んで金を手に入れちゃおうという「それ全然反体制じゃないし!」的発想を平気でやっちゃう困った男・デューイ。傍若無人な振る舞いには、最初は見ていてイライラするのだが、段々かわいく見えてくる。ストーリーはオーソドックスなものだし、子供達が演奏するロックも特に新鮮味のあるものではない(上手だしかわいいけどね)。それなのになんでこんなに楽しいのか。やっぱり好きなことをやるのは(やっている人を見るのも)楽しいんだよなぁ、という素朴な喜びを感じた。全編ニコニコしっぱなし。ロックは、音楽は、反体制とか商業だとか以前に楽しいもの、心騒ぐものなのだから。ワンマンだったデューイが「ロックの授業」に段々のめりこんでいくのも、誰かと一緒に音楽をやる楽しさを実感していったからだ。
 主演のジャック・ブラックは自分でもバンドを組んでいたほどのロック好き。今回もオーバーアクションの連発で怪優ぶりを発揮している。自己陶酔気味のギター演奏は見ものだ。そしてデューイの友人・ネッド役のマイク・ホワイトは脚本も担当。脚本担当した作品には出演する主義なんだとか。ジャック・ブラックとは、これまでもいくつかの作品で組んできた正に白黒コンビ。実際にブラックの隣に住んでいたこともあったとか(ブラックは本当にトラブルメーカーだそうです・・・)。ブラックの個性をよくわかっているからこその、この脚本なんだろう。監督は『恋人までの距離』『ウェイキングライフ』のリチャード・リンクレイター。こんな映画も撮れるのか〜。そして音楽コンサルタントは何と鬼才・ジム・オルーク。
 エンドロールがかわいいので、ぜひ最後まで!

『ロスト・イン・トランスレーション』
 思わずにやりとしてしまう意外なサービスショット(なのか?)から始まり、スカーレット・ヨハンソンが室内ではいつも下着(と言ってもショーツとTシャツだけど)だったり、そのかわいいスカーレットちゃんが冴えないおっさん(ごめんねビル・マーレー)に好意を寄せてくれたりと、まるでおっさんドリーム映画のようなのだが、これを女性監督が撮っているというのがミソだ。
 ソフィア・コッポラがおっさんにサービスしようと思ってこの映画を撮ったわけでは、もちろんない。この映画はおじさんにとって(多分)ドリームなのだが、女性側にとっても一種のドリームなのだと思う。異郷の地で出会った同郷の人との、逃避行とも言えないような逃避行。一つのベットに横になっていてもセックスはしない、ほどほどに親密な関係。このセックスしない(実際、ホテルの部屋でしてもよさそうな雰囲気にはなるのだが、ビル・マーレーはそっと退出する)という所がおそらくポイントで、ここでやっちゃったら、この映画の魅力はなくなってしまうと思う。異郷で2人きりというシュチュエーションにも関わらず、ビル・マーレーとスカーレット・ヨハンソンの会話量は案外少ないのだが、そのお互い踏み込まず、何となく並んで立ってみる、そういう関係が欲しいなぁという思っている女性は、案外多いんじゃないかと思う。
 映画としては直線的で全く捻りのない構成だし、正直、何故今これなのかと思わないでもない。それでもラストシーンで不思議と幸福感を感じるのは、このそこはかとないドリーム感のせいではなかろうか。たまには夢見させてよねー。
 所で、舞台は主に新宿なわけだが、新宿内の位置関係が実際のものとは違っている所が気になってしょうがなかった。パークハイアットを出ると歌舞伎町って、ありえないでしょう。もちろんこれはアメリカの映画でありアメリカ人が見る分には全く支障がないのだが。異郷を舞台として映画であるのに、見ている側には異郷ではなく故郷であるという不思議(でも世間でいわれているほどの不思議の町トーキョーという感じではなかったな。わりとそのまんまかと。日本語がわかってしまうことによる弊害も、思ったほどではなかった)。日本の芸能人としてマシューをもってきちゃうあたり、ソフィアってば・・・と思わず脱力する。
 音楽のセンスは相変わらず秀越。思わずサントラCD買っちゃいました。しかし「風を集めて」があんな所で使われるとは・・・。

『アップルシード』
『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』『イノセンス』に続いての士郎正宗原作アニメーションの公開となった。じゃあそのうち『ドミニオン』もやるんだろうか・・・
 時は2131年。世界を壊滅させた大戦が終結し、生き残った人類は新都市「オリュンポス」を創設する。そこでは人口の50%を、ヒト社会の安定を目的に感情を抑制させられたクローン人間・バイオロイドが占めていた。女戦士・デュナンは、現在は全身サイボーク化されたかつての恋人・ブリアレオスにオリュンポスに連れてこられる。しかしそこでは、バイオロイド撲滅を狙うクーデターが企てられており、デュナンも巻き込まれていく。
 『ファインディングニモ』や『シュレック』など、アメリカでは既にポピュラーなフルCGアニメは、日本ではまだ馴染みが薄い。今回採用されたのは「3Dライブアニメ」なる新機軸だ。フルCGのキャラクターは、日本の2Dアニメキャラを見慣れた目には、感情移入がしにくい。そこで全編をCGで作りながら、キャラクター描写にのみセルアニメのノウハウを取り入れている。つまり立体的な映像でありながら、キャラクターの顔はセルアニメ的なかわいらしいものになっているのだ。しかし結論から言うと、これは成功しているとは言い難い。どうしても「顔に絵がはりついている」感じが否めなかった。CGが得意とする部分と苦手とする部分がはっきりと現れてしまったなーという感じがする。メカの動きもフォルムもスムーズで美しいのだが、人間の動きが不自然に見える。実際の人間の動きをトレースして制作しているので自然なはずなのだが、不思議なもので、動き過ぎに見えるのだ。人間の目が処理できる情報量は限られていると言うが、背景にもキャラクターにも情報量が多すぎるのかもしれない。
 ストーリーの展開も慌ただしく、1クールで放映するTVアニメーションを2時間に無理矢理まとめたような感じ。続編制作も決定しているそうだが、大丈夫かなー。それにしても原作者が同じでも『イノセンス』とはこうも雰囲気が違うとは・・・この映画、何か健やかだよ(笑)

『トロイ』
 ドキッ☆男だらけの大運動会!露出度高いよ!生足だよ!<結局それか。とにもかくにも、出てくる人たちが皆びっくりするくらい外交センスがない。そりゃあ戦争も起きるさ!
 古代ギリシアの有名な「トロイの木馬」伝説の映画化ということで、これはキワモノか?と思っていたのだが、案外まっとうな娯楽大作になっていた。最大の見所は、ズバリ古代の白兵戦。火器がない時代の戦争はこういうふうだったのか〜、と妙に納得させられた。博物館で古代ギリシアの壷を見ると、武具を身につけた兵士の姿がよく描かれているのだが、あの盾はこういう使い方をしたのか!と目からウロコ。奇襲をかける時の焼き討ちの仕方もなるほどな〜、という感じで、トリビアボタンがあったら押しまくっていたことだろう。
 数量で勝負!的戦闘シーンと言えばLOTRが記憶に新しいが、個人的には(戦闘シーンに限って言えば)「トロイ」の方が面白かった。LOTRは人外ぞろぞろ出てくるし、皆強すぎて面白みに欠けるんだよね・・・(ちなみに「トロイ」では遺体の回収の仕方も出てきた。なるほどー。)
 しかし女性客にとっての目玉は、アキレウス役のブラッド・ピットなのだろう。今回は体を鍛えまくっていて、正に逆三角形の体格(顔がいつにも増してサル顔に見えるのは気のせいか・・・)。ただ、努力しているのはわかるのだが、正直ミスキャストだと思う。古代ギリシアの衣装がどうも似合わないのだ。ブラピの最大の魅力は「アメリカに普通にいそうな兄さん」という感じの、普通っぽいかっこ良さだと思うので、伝説の英雄向きではないと思う。実際、映画の中のブラピよりも、映画の前に上映された「EDWIN」のCMのブラピの方が、ずっとキュートでかっこよかった。
 反対にコスプレで男を上げた(・・・)のがトロイの王子・ヘクトル役のエリック・バナ。『ハルク』に主演していた時には何だこの冴えない兄ちゃんは〜と思ったのだが、今回はハマり役。本人も役所も大変かっこいい。トロイ勢では唯一のしっかりした常識人だと思うのだが、その責任感ゆえ悲劇的な最後を遂げることになる。そしてブレイク以降コスプレしかしていないオーランド・ブルーム。今回はトロイ戦争の元凶とでも言うべきトロイの王子(二男)パリスを演じているのだが、見事なへたれっぷり。冒頭から兄ちゃんに「僕のこと愛してる?」と聞いてみたり、決闘に負けそうになると兄ちゃんの足にすがりついてみたり、飛び道具的言動を披露してくれる。正直ここまでやってくれるとは思わなかったので、感心した(笑)。
 有名な話なので特に伏せる必要もないと思うが、トロイは滅びアキレウスも死ぬ。トロイの王は信心深かったが為に国を破滅させ、アキレウスはトロイの少女への愛ゆえに命を落とす。そもそもパリスとヘレネが駆け落ちしなければ(少なくともこの時点では)戦争は起こらなかったし、ヘクトルがパリス共々ヘレネをスパルタ側に突き出していれば最悪の事態は免れたかもしれない。信仰や愛では国を維持できないということですか?何だかな〜。
 

 

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