3月

『マスター・アンド・コマンダー』
 ドキッ☆男だらけの海上ドンパチ大会!・・・だって本当に男ばっかりだから。
1805年、英国海軍の帆船サプライズ号は、フランス海軍のアケロン号を追っていた。サプライズ号を率いるのは「ラッキー・ジャック」の異名をとるジャック・オーブリー(ラッセル・クロウ)船長。百戦錬磨の名将である。しかしアケロン号は最新式の軍船で明らかにサブプライズ号の戦力を上回る。奇襲をかけられ大ダメージを受けてしまったサプライズ号に勝機はあるのか?
 予告編では「子供が健気な感動巨編」的な売り方をしていたが、あれは嘘。確かに子供が健気だけれど、さほど感動作という印象は受けなかった。ラストは結構尾お茶目な感じで、ボロボロ人が死ぬわりに後味が悪くない。そして監督の視点が意外にクールで、登場人物の内面や人間関係をあまり突っ込んで描かず、それぞれへの観客の感情移入を防いでいるのだ。で、何がメインかというと、船である。サプライズ号の外観はもちろん、内部の構造や操縦の仕方、船員達がどういう仕事をしているか、航海中の生活はどういうものなのか、細部まで作りこんでいる感じで、見ていて面白い。このあたりは「タイタニック」の船の動力部分の情景に似た面白さがあった。そして特筆すべきは料理が非常にマズそうであること(笑)。当時の食料保存技術では新鮮な肉・野菜など食べられるはずもなく、虫がわいているのが当然。それでも仕官達の食事はまともなもので、下っ端の船員達の食事は得体の知れない物体だった。
 映像は大した物だが、逆に言うとドラマ部分は物足りない。戦闘モノとしては戦闘シーンが少なく、人間ドラマとしては彫り込みが浅く、群像劇としてはキャラが立っていなくてそれぞれのの識別が困難(特に下っ端)。全体的に淡々としていているのは監督の資質なのだろうが・・・。というわけで、大作感はあるものの中途半端。まあ、見ておいて損はしないという程度か。
 ただ、私にとっては主演・ラッセル・クロウというのが致命的な難点。ファンの方には申し訳ないのだが、「LAコンフィデンシャル」以外の彼には、全く魅力を感じない(むしろイヤ・・・)。好色なくまのプーさん(オヤジ顔&声なディズニー版。間違っても原作の愛くるしいプーではない)のような外見がちょっと・・・(しかも今作ではかなりでっぷり気味。海軍の制服姿が見苦しいよ!)。そのせいか、ドクター役のポール・ベタニーが今までにないくらいステキに見えましたよ。特にカッコイイ顔だとは思わないのに。このドクターは作品中唯一キャラが立っていた。ブラックジャックかよ!みたいな荒業も見せてくれる。そういえばベタニーは、「ビューティフルマインド」でもクロウと共演していた。で、その時も私はベタニーばっかり見ていた記憶が(笑)。

『ゼブラーマン』
 監督に三池崇史、脚本に宮藤官九郎を起用した、Vシネの帝王・哀川翔のなんと主演100本目の映画。すごい!すごいよアニキ!でも100本目でこんなの選んじゃっていいんですか〜。特撮&ヒーローものに思い入れのある方には、むしろお勧めしません。あえて言うならダメ人間再生映画かな・・・?
 小学校の教師・市川新市(哀川翔)は、生徒からは舐められ家族からも省みられない冴えない中年男。彼の唯一の楽しみは、7話だけ放送されたものの、打ち切りになってしまった特撮ヒーロー番組「ゼブラーマン」の手製コスプレをすること。ある夜、コスプレしたまま外出した新市は、女性を襲おうとしていた妙な男と乱闘になる。そして、自分に本物のゼブラーマンのような力が宿っているのに気付くのだった。さらにその頃、防衛庁の捜査官・及川(渡部篤郎)が人間に寄生した宇宙人を追っていたのだった・・・
 冴えない男がヒーローに・・っていうとよくある話のようだが、この冴えなささが妙に具体的で、居心地が悪くなる。市川は気弱で頼りない。まあ、甲斐性のない男である。息子が学校でいじめられているのに何も出来なかったり(何とかしろよ!)、娘に言い負かされてしまったり、しっかりしろよおいおい〜、と言いたくなってしまう。
 この映画の妙な所は、なぜ市川に本物のゼブラーマンのような能力が備わったのかという説明が全然ないところ。また宇宙人が具体的にどういう存在なのか、何故地球にやってきたのかという所の説明も相当いいかげん。あの程度で根絶できるの?と思ってしまう。説明なしで話が展開すること自体は悪いとは言わない。ただ、それで通すには有無を言わせないテンションが必要なのだ。しかしこの作品にはそれが足りないと思う。小ネタは細かく使ってくるのだが、大ネタは寸止め状態。温い笑いだけで2時間は辛い。加えて、冴えない男(実はヒーロー)の日常を描く前半に比べると、後半の展開のもたつきも気になる。「木更津キャッツアイ日本シリーズ」の時も感じたのだが、クドカン(脚本)の才能は、やはり連続ドラマで最大に発揮されると思うのだが・・・。
 父親としても教師としてもダメだった主人公が、最後は子供や生徒の為に敵と戦う決意をするというのは悪くはないと思う。が、ラストはあれで良かったのか。「信じれば夢はかなう」ってヒーローとしての使命をまっとうするのはいい。が、その後飛んでっちゃっていいの?父親として、教師として戻ってくるのが筋じゃないの?父親も仕事人も辞めて、おじさんたちは本当はどこかへ行っちゃいたいのかなぁ?
 ちなみに、哀川翔を始めとする役者陣が奮闘している。特に鈴木京香の役者魂にひれ伏しました。各所を騒然とさせたゼブラナースコスはもちろん、「驚きのポーズ」は必見。姐さんと呼ばせて下さい。

『レジェンド・オブ・メキシコ/デスペラード』
 出演者の顔が全員濃いです。見せたいものがはっきりとしている好作。
CIA捜査官サンズ(ジョニー・デップ)は凄腕の殺し屋エル・マリアッチ(アントニオ・バンデラス)に、マルケス将軍の暗殺を依頼する。マルケスはマリアッチの恋人(サルマ・ハエック)を殺した宿敵。しかし一方ではマフィアのボス・バリーリョ(ウィリアム・デフォー)がマルケスに大統領を殺させて権力をモノにしようと企んでいた・・・
 バロバート・ロドリゲス監督の出世作である「エル・マリアッチ」「デスペラード」に続くシリーズ第3弾。でも他の2作をみていない人でも充分に堪能できる。まずは「何故ギター?!」と叫んで下さい。今回は火炎放射器もご用意しております。「いやその格好では無理だろ」と言いたくなるような銃撃スタイルも素晴らしい。とにかく見た目のかっこ良さに特化し、リアリティは無視している作品なので、その無茶さを堪能してほしい。文字通り血沸き肉踊っているが、派手すぎて逆に怖くない。
 そして役者陣の奮闘も良い。無敵の殺し屋(顔は濃口)なバンデラスは若干老けたものの健在。そしてバンデラスを食いかねないのがジョニー・デップ。「パイレーツオブカリビアン」のジャック船長といい、娯楽大作の出演が続いている彼だが、今回の役はかなり腹黒かつクレイジー。「料理が美味すぎるからコックを殺す」と言って本当に殺してしまう。く、狂ってるよ!(笑)の割にはヌケていところがあるんだけど・・・。堂々と「CIA」と書いてあるTシャツを着ていたり、ベルトのバックルがマリファナ葉っぱ(いいのかよ・・・)の模様だったりと、衣装にも遊び心がある。そして何より、それ役に立つの?的な「腕」。最後まで目を離さないように。
 ウィリアム・デフォーが当然の様に悪人役だったり、サルマ・ハエックが死人役のくせに妙に出張っていたりと、中々楽しい。そして最近姿を見なかったミッキー・ロークが好演しているのも見所。役者が皆役どころにハマっていて楽しめた。ちなみにエンドロールを見た限りでは、バンデラスは自分でギター演奏しているらしい。そしてジョニー・デップは自分の役であるサンズのテーマ曲プロデュースに参加している。更にサルマ・ハエックにいたっては、テーマソングを歌っていました。皆様、ごくろうさまです。

『アドルフの画集』
 1918年、ドイツ・ミュンヘン。画商マックス・ロスマン(ジョン・キューザック)は、画家志望の青年アドルフ・ヒトラー(ノア・テイラー)と出会う。ヒトラーに内面を絵画に注ぎ込めと示唆するマックス。しかし、運命は皮肉な方向へと転がっていく。
 かのアドルフ・ヒトラーが、若い頃は画家を目指していたという話は有名である。この映画では、画家を目指していた若きヒトラーと、ユダヤ人の画商(これは架空の人物)との交流を描いた。当時、ドイツは第一次世界大戦に負け、国民の大半は貧困に喘いでいた。ヒトラーは兵隊として戦場に赴き、何とか無事帰国したものの、金も家族もなく、生活の為に軍を辞めるわけにもいかない。一方ロスマンは裕福なユダヤ系の家庭に生まれ、画商としての事業も軌道にのってきていた。バレリーナである美しい妻、可愛い子供達、そして芸術家の愛人までいる。ないものづくしのヒトラーと恵まれたロスマンは対照的である。ヒトラーはロスマンに頼る一方で彼の富に嫉妬し、ロスマンは粘着気質のヒトラーをうっとおしく思いつつも、彼の絵を何とか売りこもうと尽力する。
 彼らを結び付けるものは芸術への愛であったはずだ。が、ちょっとしたすれ違いで悲劇的な結末を迎える。歴史に「もし」はないが、その後のヒトラーの変遷を思うと、「もしも・・・」と思わずにはいられない。若きヒトラーはキャンバスに向うが、自分の内面を曝け出すには自意識が強すぎたのかもしれない。ヒトラーを、自意識過剰だが普通の青年として描くことで、彼の後の行為を正当化してしまうのではという懸念の声もあったそうだが、映画としては中々良く出来ている秀作だと思う。
 映画化実現には、主演のジョン・キューザックの尽力があってこそ。彼は脚本に惚れ込み、自分はノーギャラでもいいとまで言って資金集めに奔走したそうだ。

『イノセンス』(ややネタバレです)
 ・・・どのあたりがイノセントなのかな。押井守監督が血と涙と煩悩を絞り込んだ(であろう)渾身の新作。映像美は国産アニメーションの最高峰と言ってもいいだろう。「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」の実質上の続編となる。
 西暦2032年。愛玩用アンドロイドが暴走し、所有者を殺害後に自壊するという事件が相次いでいた。公安9課のバトーは、相棒トグサと共に捜査を開始する。
 聖書やミルトンからの引用、蘊蓄がやたらと出てくるので「難しい」「分からない」という感想も聞くが、引用・蘊蓄等の枝葉を取ってしまうと、ストーリーは至ってシンプル。SF的な設定や蘊蓄云々を取ってしまうと、コンビが犯罪を追うというストレートなハードボイルドと言ってもいい。もしくはバトーとトグサの地獄巡りか。2人はこの世界を見せる為の目だと言ってもいいだろう。まずは隅々まで書き込まれた世界に浸って欲しい。
 宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」の時にも思ったのだが、人間年を取ると己の欲望に素直になるんですかね。というわけで、押井作品にしては珍しく、煩悩垂れ流し状態である。愛玩用ロボットを始め、監督が見せたいもの、自分が見たいものがぎゅうぎゅうに詰め込まれていて、過剰に過剰を重ねた美術が川井憲次の音楽と相俟り、かなり狂っていて素晴らしい。特に択捉の町の情景やキムの館あたりは悪趣味一歩手前だが、今までにない密度と画面上の情報量の多さで、見ていて目眩がした。しかもいつになく情緒に流れ気味で、この点は意外だった。本当に切ないとは思わなかったので(笑)
 映画の予告編によれば、バトーは「人間であり続けたいと願った男」である。しかし、ラストの少女とバトーのやりとりであれ?と思ってしまった。バトーはサイボーグであるが、意識としては人間である。しかし少女に向けて発せられた言葉は、明らかに人形側の立場に立ったものだ。キムいわく「人形に魂を吹き込むなど無粋だ」。ではゴーストダビングされた人形達は何なのか。人形としての意義はなくなり、しかし人でもない、中途半端なものだ。そしてバトーも自分が人間なのか人形なのか、そのボーダーラインをふらついている。魂を持った人形、という立場に共感したのか。
 当初の「人間はなぜ人形を作るのか」ひいては「何をもって人間となすか」というテーマと内容とがミスマッチを起こし、テーマ棚上げ状態になってしまっていると思う。テーマと映像との結びつきがもっと濃密に感じられたら・・・と思うと惜しい。
 で、結局何が残るのかというと、「何をもって自分となすか」という所だと思う。前作で少佐は、体を捨て情報のみの存在となった。彼女は自分の拠り所は記憶であると、つまりそれさえあれば体はどうでも良いとしていた。今作ではどうなのかというと、人間と他者(犬でも人形でも)との関係性という所に焦点が寄ってきている気がする。つまりバトーにとっては、犬やトグサとの関わり、そして少佐との関係が保たれていると認識できることに、拠り所を見出すことが出来たのではないかと思う。予告編ではバトーの身体は機械で「残されているのはわずかな脳と、1人の女性の記憶だけ」とされていたが、それだけではないよねと。
 映像クオリティは間違いなく高いが、前作「攻殻機動隊」を見ていることが前提の話なので、広くはお勧めできない。ついでに、原作とはかなり雰囲気が変わっている(タチコマもフチコマもでないし、何よりバトーのキャラが違う)ので、原作に思い入れの強い方にもオススメしません。

『ワンピース 呪われた聖剣』
 原作マンガは週間少年ジャンプで連載中、TVアニメも放映中な人気作品の劇場版。劇場版としては5作目。併映なしの単独上映作品映画となってからは2作目だ。宝を求めてアスカ島へやってきたルフィ(田中真弓)海賊団は、美少女・マヤ(柚木涼香)と出会う。一方仲間とはぐれたゾロ(中井和哉)は、かつての親友・サガ(中村獅童)と再会していた。この島にはかつてアスカの国を滅ぼした七星剣が、3つの宝玉により封印されているというのだが・・・
 私、実は前作の「デッドエンドの冒険」も見ている。「デッドエンド〜」は初のピン上映(それまでは東映アニメフェアとして、他作品とセットだった)だからか、作画・脚本ともに結構しっかりしており、意外に良くできていた。何より、この手のアニメではキャラクターそれぞれの見せ場を作る為「ここはオレに任せてお前は先にいけ!」的展開になるのが常だったのが、あくまで主人公を立てるという思い切りの良さがあり、ほうほう〜と感心したのだ。
 が、今作は子供はともかく大人には厳しい。セリフがちょっと安易すぎて、キャラクターに思い入れのあるファンからは「え〜?」と言われてしまいそう。ストーリーに捻りがないのは必ずしも悪いことではないと思う。が、そういう直球ストーリーを語るなら、セリフや心理描写の演出にもっと丁寧さがないと苦しいのでは。更に、ルフィとウソップの地下迷宮の冒険、今回のメインであるゾロとサガとの絆等、いくつかのエピソードが平行して進んでいるので、ストーリーの焦点がぼけてしまったというか、あれもこれもと詰め込み過ぎてしまったというか・・・。レギュラーキャラクターが多いと言うのも大変である。いっそ、今回のメインキャラクターはゾロなので、いっそゾロのエピソード1本に絞ってみた方がおさまりは良かったと思う。

『ブラザー・ベア』
 これぞディズニー!な、親子が安心して一緒に見られる、安全パイ的映画。派手さはないが良心的だ。ディズニー映画を見るたび思うのだが、ちゃんと子供の為に作られているなぁという感じがする。製作者側の煩悩(笑)というか、作家性みたいなものが希薄で、ブランド商品として上手く出来ていると思う。日本ではこういうタイプのアニメーションは、段々減ってきている気がするのだが。
 成人の儀式を終えた少年・キナイは、魚を盗られた腹いせに熊を挑発し、その結果兄を死なせてしまう。キナイは熊を恨みに思い、復讐心に駆られてその熊を殺した。ところがその時、キナイは精霊の力によって熊の姿に変えられてしまうのだった。熊となったキナイは仔熊のコーダと知り合い、行動を共にするようになる・・・
 熊と人間という種族の違いを、民族や国家、宗教の違いに置き換えてみることもできるだろう。映画のように簡単に憎しみを乗り越えることは難しいが(このあたりの話の流れはちょっと安易だし)、恨み・憎しみは悲劇の連鎖しか呼ばないということが、やんわりとではあるが描かれていると思う。あくまでやんわりとで、説教臭くなっていないところがポイントかと。まあ甘いといえば甘いのだが、基本的に小さいお子さんの為の作品だと思うので、そのあたりはまあいいかな〜。キナイが最後にした選択には、結構驚愕した。あのロゴマーク(熊の手形と人間の手形が重なっている)とタイトルは、そういう意味だったのねと。
 都合により吹替え版で見たのだが、キナイの声が少年隊のヒガシ、一族の巫女が森光子で、まあ仲のよろしいこと。挿入唄が天童よしみなのだが、これはちょっとスベった感じが。英語詞の日本語訳は難しい。更に、吹替え版では楽曲担当のフィル・コリンズが日本語で歌うという荒業に挑戦している。

『花とアリス』
 嘘から出たマコトの嘘話。岩井俊二監督の新作(しかも主演は女子高校生2人組)なので、またこじゃれたリリカル映画なんでないのーと割とナメて見てみたら、予想とは違う方向で結構面白いんだわこれが。
 最初の数分間、中学生のハナ(鈴木杏)とアリス(蒼井優)のやりとりにいきなり引き込まれた。駅であこがれの少年(しかもアリスの趣味は微妙だ・・・)を巡るやりとり等、他愛ない言動が「女子!」な感じで、ああこういう子っていたなーと(いや実際にはいないと思うけど)。いわゆるグラビア美少女的に可愛い女の子ではなく、生々しい可愛さというか、具体性のある可愛さを感じる。
 でもストーリーの方は、マンガ的な奇妙な三角関係。高校に入学したハナは、あこがれていた宮本先輩(郭智博)に出会う。落語の文庫本に夢中で壁に頭をぶつけた宮本に「先輩、記憶喪失じゃありません?」「私に好きだって言ったの覚えてます?」。ちゃっかりとお付き合いを始めてしまう。共犯者としてアリスも「先輩の元カノ」として巻き込まれるが、宮本はむしろアリスに惹かれているみたいで・・・
 この宮本先輩は花とアリスに翻弄されまくりでちょっと可哀想なのだが、ハナとアリスのコミカルなやりとりが楽しい。間合いの取り方がうまいなぁと思う。これは主演2人の力による所が大きいのだろうか。女子2人のやりとりは自然体なのに、起きている事態はとっても不自然(笑)という奇妙さ。
 そして更に不自然なのが駅名や学校名等のネーミング。殆どが某有名マンガ家たちやマンガのキャラクターに由来しているので、分かる人には分かるギャグになっている。そして更に更にリアリティを欠いているのが、豪華有名人エキストラの皆様。終盤出てくる写真家に大沢たかお、雑誌編集者に広末涼子、その他にも「あっ見たことある」な人たちがぞろぞろ出てくる。
 しかし、この豪華ゲストが正直邪魔。サービス精神も遊び心も、度が過ぎると下品になってしまうと思う。ハナとアリスの本宮をはさんでの微妙な関係の変化や、アリスと離婚した父親との交流など、なかなか良いエピソードがあるのに、余計な遊びの部分が興を削いでいた。本筋だけで十分面白いのに、惜しい。

『グッバイ!レーニン』
 1989年、東西ドイツを隔てていたベルリンの壁が崩壊した時のことは、おぼろげには覚えている。私は当時まだ子供で、それがどういうことだったのか理解していなかったが、何か大きなことが起きているというのは感じていた。その東ドイツ側では、もしかしたらこんなストーリーが展開されていたのかもしれない。
 東ドイツで母クリスティーネ(カトリーン・ザース)と姉と暮らす青年アレックス(ダニエル・ブリュール)。父親は10年前に家族を捨てて西ドイツに亡命してしまった。その為か、クリスティーネは必要以上に社会主義に固執して活動に励んでいた。ある時、反社会主義運動に参加していて逮捕されたアレックスを見て、クリスティーネは発作を起こして意識を無くし、昏睡状態になってしまう。8年ぶりにクリスティーネは意識を取り戻すが、その時には既にベルリンの壁は崩壊し、東西ドイツは統一されていた。「次にショックを受けると命に関わる」と医者に宣告された母を守る為、アレックスは東ドイツが存続しているようなふりを続けるのだが・・・
 東西ドイツが統一されたせいで、東側の商品は西側の商品に一掃されてしまった。アレックスはゴミ捨て場をあさって東側商品の古い空き瓶を集め、新しい瓶詰めの中身を入れ替えたり、昔の服を引っ張り出して姉や近所の人たちに芝居をさせたり、友人に東側のニュース番組を作ってもらったりと一生懸命だ。母親は部屋で寝込んでいるものの、部屋の窓からはコカコーラの看板は見えるし広告用の飛行船は飛んでいるしで、母の目をそらしてごまかすのに四苦八苦だ。しかし、彼の恋人は「それが本当にお母さんの為なの?」と不満げ。彼がやっていることは現実逃避に過ぎないとも言える。本当に東ドイツを懐かしんでいるのはアレックス自身だ。そして彼の近所の人たちも、「お母さんと話していると昔に戻ったみたい」と涙ぐむ。もちろん、東西ドイツが統一されたことは喜ばしい。しかし皆、あまりにも急激な環境の変化についていけず、どうすればいいのか分からないのだ。
 彼が友人と作る架空のニュースの内容が、東ドイツというよりも、徐々に彼が理想とする社会主義世界のものへと変化していくのが面白い。クリスティーネは、最後にはアレックスの嘘に気づいていたのではないだろうか。最後の架空のニュースを見ているとき、クリスティーネの目はTV画面よりもアレックスに向けられている。彼女が安心できたのは、アレックスが作ったニュースを見て、彼の中に彼が理想としている世界がちゃんとあるんだということが分かったからなのかと、ちょっと思った。
 アレックス役のダニエル・ブリュールが、表情豊かでとても良い。結構かわいい(笑)顔なのだが、母親のために(ちょっと見当違いな方向ではあるが)奮闘する姿にはニコニコしてしまう。楽しく、ちょっとほろ苦い映画だった。

『ドッグヴィル』
 人間は結局腐る。もしくは、馬鹿は死ななきゃ治らない。
 私にとって不愉快な映画を撮らせたら並ぶものがないラース・フォン・トリアー監督の新作。前作『ダンサー・イン・ザ・ダーク』では、ストーリーは不愉快極まりないのに映画という形式としての完成度は異様に高いという怪作っぷりを見せてくれた。好きか嫌いかで言ったらはっきりと嫌いな作風の監督だが、新作はチェックせねばと思わせる力はある。今作はどうか。
 大恐慌時代のアメリカ。貧しく小さな村ドッグヴィルに、美しい逃亡者グレース(ニコール・キッドマン)がやってきた。ドッグヴィルの住民は彼女をかくまうことにする。村に感謝し、人々の為に 尽くすグレース。しかし村人達の欲望は留まる所を知らず、最初は円満だった彼女とドッグ・ヴィルの関係は、徐々に歪んでいくのだった・・・
 この映画最大の見所は、床に白い線が書かれただけのセットだろう。役者達は見えないドアを開け閉めし、見えない壁に遮られ、見えない犬に餌をやる。「見えるはずなのに見えない(フリをする)」のだ。隣の家でグレースがレイプされていても誰も気付かない(フリをする)。だからそれが、本当に気付かないのか周知の事実なのか分からない。映画全編にこの「フリをする」という動作が満ち溢れている。自分が欲望に突き動かされているのに正当な理由があるような「フリをする」、正直であるような「フリをする」、誠実であるような「フリをする」、頭がいいような「フリをする」、全員が全員、グレースを自分の好きなようにしたい、虐げたいと思っているのに、それに正当な理由があり、彼女に悪意があるわけではないような「フリをする」。 そしてラスト、グレースさえある「フリ」をしていたことが判明する。戯画的なこの情景は、実は私たちの日常で繰り広げられている光景とそう違わないのかもしれない。
 演技とはもともと「フリをする」ものだが、この映画の中ではセットが取り払われていることで、役者が演技として「フリをする」行為と、役者が演じる人物が物語の中で行う「フリをする」行為が段々ボーダレス化していく。しかし、この面白さを発揮するまでの域には作品が達していない気がする。何より、この演出を映画でやる必要があったのだろうか。こういう形式だったら舞台演劇でやってもよかった、むしろその方が効果的だった気がするのだが。斬新な演出に溺れたか、という感じがする。何よりこのネタで3時間は長すぎる。特に意外性はない話なので、もっと切れ味がよくないと辛い。
 それにしてもグレースよ、学習するのが遅すぎるぜ。

 

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