2月

『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』(未見の方は読まない方が無難)
 作品としてどうとか感動云々という前に、「おっちゃんら、よく頑張ったねい」と、ねぎらいの言葉をかけてやりたくなる類の作品でありましたよ。
 監督を筆頭に、撮影も美術も脚本もそしてもちろん俳優も、本当によく頑張ったという感じがする。いわゆるスター俳優を使わずに大作感を出し、これだけ集客したというのは、全くお見事。普通3部作というと、(最近のマ●リックスの例を出すまでもなく)徐々に失速していく場合が多かった。しかしこの作品は、三部作モノとしては、異例の大成功。ラストまできちんと締めてくれ、ほぼ全てのキャラクターにちゃんとオチを付けている。単なるハッピーエンドでない所も素晴らしい。
 取上げたい場面は多々あるものの、きりがなくなるのでそれは止めておく。ただ、原作と比べると家族や恋人間の愛情に関わるエピソードが多くなっていると思う。アラゴルン(ヴィゴ・モーテンセン)とアルウィン(リヴ・タイラー)のロマンスはもちろん、セオデン王(バーナード・ヒル)とその姪エオウィン(ミランダ・オットー)との親子のような絆、エルロンド(ヒューゴ・ウィービング)が娘・エオウィンを思う気持ちなど、ファンタジー世界に不慣れな観客でも共感しやすそうだ。そして父の愛がかーなりハタ迷惑に突き抜けてしまった、ゴンドールの摂政デネソール(ジョン・ノーブル)。1作目で死んだボロミア(ショーン・ビーン)とファラミア(デヴィッド・ウェンハム)のパパなのだが、ボロミアの死に絶望、次男のファラミアには失望し、何と親子心中を図る。や、やりすぎですよ・・・原作ってこんなエピソードあったけ?
 そして世界の運命を賭けた、フロド(イライジャ・ウッド)・サム(ショーン・アスティン)・ゴラム(アンディ・サーキス)の怒涛の旅路。ゴラムの画策でフロドとサムは信頼関係を失いかける。そしてゴラムがこの終盤、どういう役割を果たすかもポイントだ。サムの忠義っぷりは見事。これはもうサムの物語なんじゃないの?と思ってしまうくらいだ。最後の最後までかっこいい所を見せてくれる。
 正直、勝ち目のない戦いや無謀な作戦を遂行する戦争映画は好みではないのだが、今作のように勧善懲悪ものだと、色々考え込まずに済んで気が楽。ただ、この映画から安易に寓意やメッセージが読み出されたり、現実と照らし合わせられたりすると嫌だなとは思う。お話はあくまでお話だから。

『息子のまなざし』(ネタバレです)
 オリヴィエ(オリヴィエ・グルメ)は、職業訓練所で木工の大工仕事を教えている。ある日、フランシス(モルガン・マリンヌ)という少年が入所してくる。オリヴィエは一旦はフランシスの担当を断るものの、後から受け入れる。しかし少年は、彼の幼い息子を殺した犯人だった・・・
 オリヴィエの行動は、フランシスを執拗に目で追ったり、自室に忍び込んでベッドに寝転がってみたりする奇妙なものなのだが、それは息子を殺した犯人が何を考えているのか知りたいという、切実な思いからだろう。そこを理解しないと、彼にとっての事件は終わらない。犯人が憎むべき悪人だったら話は簡単。純粋に憎み、復讐すればいい。しかし犯人はただの少年、しかも自分の生徒で勉強する意欲もある。彼は死んだ息子の父親である自分と、教師としての自分の間で引き裂かれる。だから心を静める為に腹筋をし、作業用のベルトを締め直して、教師としての自分を再確認したりする。
 「息子のまなざし」という題名ではあるが、この作品の全編に満ちているのは、むしろ「父のまなざし」である。父的なるもの、息子的なるものとはどういうものなのかということを考えさせられた。父親とは、自分の持つ技能を後継者に伝えたいという欲求があるのかもしれない。そして、技能を受け継ぎうるというその部分にこそ、息子的なるものを見出すこともあるのではないだろうか。たとえそれが実の息子の敵だとしてもだ。もちろん、死んだ息子の母親・彼の元妻はそれを理解できない。フランシスと一緒に車に乗っているオリヴィエを見て、彼の元妻は失神しそうになる。「正気じゃないわ。何故そんなことを?」。しかしオリヴィエ本人にも、何故だかはわからない。
 そしてフランシスの側も、技術を持っているオリヴィエに尊敬を示し、彼の庇護を求めるようになる。彼もまた、オリヴィエの中に父的なものを見出したのだろう。「息子のまなざし」とは、フランシスのオリヴィエに対するまなざしとも取れるのではないだろうか。
 擬似的な父子になれたかもしれない2人が被害者と加害者だとは、なんとも皮肉だ。最後、ある事件の後、唐突に映画は終わる。しかしこの唐突さこそがこの作品の誠実さであると思う。これ以上やるとう出来すぎな話になってしまう。結局、この映画の中で何かが解決するわけではないし、ラストはおそらく和解でも許しでもないだろう。フランシスが自分が犯したことについてどう思っているのかは、結局映画の中では語られない。「5年も(少年院に)入ったんだ」と漏らすものの、それが彼の思いの全てではないのだろう。オリヴィエが息子の死を受け入れられずにいるように、フランシスもおそらく、自分がしたことを受け入れられない・上手く言葉に出来なかったのではないか。フランシスもオリヴィエも、ここから更に変わっていかなければならない。彼らがお互いに、不可能であっても理解しよう・歩み寄ろうとする姿には、希望が見出せるのではないか。
 地味で、正直途中で眠くなってしまいそうな作品だ。手持ちカメラでの撮影なので、カメラがまるで第三者の視点のように不安定に感じられる。登場人物の行動について全く説明がなされないので、観客にとっては不親切かもしれない。劇的な事件が起こるわけでもなく、徐々に事実関係が分かってくる。見ている最中よりも、見た後しばらくしてから、じわじわと染みてくるものがあった。見た人同士で、色々と話し合いたくなる作品かもしれない。主演のオリヴィエ・グルメが素晴らしく、’02年カンヌ映画祭の主演男優賞を受賞している。

『ふくろう』
 大竹しのぶは妖怪である。柄本明や原田大二郎、田口トモロヲら豪華な男優陣も、結局彼女に喰われてしまった。
 1980年頃。森の中にある古い家に、母親(大竹しのぶ)と娘(伊藤歩)がいる。餓死寸前の2人は身なりを整え、最後の金で酒を買い、家に次々と男を招く。
 リアリズムはあまり重視していない。大竹しのぶも伊藤歩も、餓えているはずなのに手足はむっちりと健康的だ。第一、餓死寸前の人があんなに動けるわけない。金の為に男を次々と招くのは割に合わないし、周囲が気付きそうなものだ。ので、これは一つの寓話である。そして映画というよりは演劇の手法に近い。舞台が屋内に限られていること、登場人物の喋り方や動き方が、いわゆるリアルなものとは異質であること。男達の死に際の、動物を模したような動きは、映画の画面で見ていると、ちょっとこそばゆくなるようなオーバーアクションだ。大竹しのぶの媚態も、あまりにもベタでちょっと笑ってしまいそうになる。最初違和感を持つかもしれないが、これは舞台なんだと思って見るとそうでもなかった。
 そして大竹しのぶの為に作られたような映画である。’03年のモスクワ映画祭で主演女優賞を取っただけのことはある。女の怖さを演じさせると上手い上手い。あっけらかんと恐ろしいことを次々やってのける、たくましい女を演じている。ただ、大竹しのぶが嫌いな人にはお勧めできないが。泥臭い映画であるが、怪作である。91歳でなおこういうものを作ってしまう新藤兼人もまた、妖怪の域に入りつつあるのか。前半はコメディタッチだったが、後半ちょっと社会派(というより反権力的)になってしまったのが勢いを削いだと思う。時代背景は語らない方がよかった気がする。

『ラブ・アクチュアリー』
 醜い現実なんて見たくない。甘いお菓子で両手をべとべとにしたい時もあるの!(マシュマロとチョコレートを口いっぱいに頬張りつつ)というわけで、ベタです。ベタベタラブコメです。サントラの選曲もベッタベタ。でも楽し〜い!
 秘書に恋しちゃったイギリス首相、妻を亡くした痛みに耐える男、外国人メイドが気になる小説家、延々と告白できないOL、夫の浮気に気付いてしまった妻、片思いに悩む少年など、何と19人が織り成す恋愛模様。複数のエピソードが錯綜し、この人が実はあの人の兄弟、など、人間関係が入り組んでいるので、覚えきれる自信のない方は、出演者を確認してから見に行くことをお勧めする。監督は『フォーウェディング』、『ノッティングヒルの恋人』、『ブリジット・ジョーンズの日記』等の脚本を手がけたリチャード・カーティス。初監督ながらさすがに手堅い。
 出演者の中でも好演を見せているのが、イギリス首相役のヒュー・グラント。最近はどんどんコメディが板についてきている感がある。彼のマヌケなダンスは必見だ(アドリブで一発撮りしたとの話。リハが恥ずかしくてしょうがなかったからだとか)。アメリカ大統領(ビリー・ボブ・ソーントンという悪夢のようなキャスティング)が訪問してきた時、大統領がやらかしたある事にキレて、記者会見で思わず「いじめっこの友達はいらない!イギリスにはハリー・ポッターとベッカムの右足がある!」と演説し、喝采を浴びてしまう。喝采されちゃう所が大変イギリス的であります(笑)。
 それほど出番は多くないが、ポルノビデオに代役出演する男優と女優が可愛い。この2人、撮影しているうちに、お互いに好感を抱いていく。ポルノ撮影の現場なのでやっていることは生々しい(笑)のに、2人のやりとりはシャイ。最後、ガッツポーズで階段から飛び降りる男の姿には、ついよかったね!と言ってやりたくなる。そして個人的に大好きなのは、自分でも嫌になるくらいダサいクリスマスソングを歌う羽目になるおいぼれロック歌手。いやあ、ジイさん最高だ!
 特に深みや捻りのある映画ではないが、(正直、もっと捻ってくるのかと思っていたが)普通に楽しい。女性同士やカップルで見るのには最適かと。ただし、これでもかというほど愛てんこもり状態なので、失恋直後の人や、ラブなんてやってられっかよ!というヒネた方にはお勧めしません。正直言って安直なエピソードも多いし、かなり御都合主義ではあるのだが、それを指摘するのは野暮というもの。だってケーキバイキングで激辛インドカレーは注文しないでしょう?つまりそういう映画です。そういう意味で、冒頭のモノローグとエンドロールの映像は余計だったと思う。ウソ話に徹すればいいのになー。

『幸せになるためのイタリア語講座』
 別にイタリア語である必要はないんだけど。
 初冬のデンマークはコペンハーゲン。妻を亡くした代理牧師アンドレアス(アンダース・W・ベアテルセン)、ドジなパン屋の店員オリンピア(アネッテ・ストゥーベルベック)、レストランの雇われ店長ハル・フィン(ラース・コールンド)、ホテルのフロント係ヨーゲン(ピーター・ガンツェラー)など、色々な仕事をし、いろいろな悩みを持った人達がイタリア語教室でひと時を共にする。
 恋愛がらみの群像劇というと『ラブ・アクチュアリー』を思い出す。ウェルメイドな人情コメディであるという所も共通だ。ただし、『ラブ〜』には恋愛以外のことは殆ど出てこなかったが、本作には恋愛以外のことも色々出てくる。人生、恋愛ばかりにかまけているわけにはいかないのだ。家族の死、失業、そして自分の人生に対する不安。特にオリンピアの傍若無人な父親と、美容師カーレン(アン・エレオノーラ・ヨーゲンセン)のアル中の母親は難物。彼らの死によって2人がやっと自由になり、しかも新しい家族を得るというのは何とも皮肉だ。
 本作では、殆どの登場人物が30代〜40代。もう若者とは言えないけれど、器用に世渡りできるほど人間が出来ているわけでもない(笑)。皆不器用で引っ込み思案なのだ。そんな人たちが、ちょっとづつ前に踏み出していく様子は微笑ましい。別にイタリア語を学んだことで、彼らの悩みが解決されたり、人生が変わったりしたわけではない。彼らにとってイタリア語講座は、ちょっとした息抜き・ささやかな非日常なのだ。でもそのささやかな非日常によって救われることもある。非日常の中だからこそ、彼らはお互いに手を差し伸べあい、思い切って歩み寄ることもできたのではないかと思う。最後のある奇跡はご都合主義でもあるが、幸せなんだからこれくらいはいいじゃない、と思わせられた。
 ルールを守ると必ず地味な作品になるドクマ95(映画制作の為の一種のルール。ラース・フォン・トリアーが提唱)を踏まえているにも関わらず、堅苦しさはなくキュートである。古典的ウェルメイドであることにびっくりした。ドグマ初のラブコメ。しかも初の女性監督(ロネ・シェルフィグ)である。淡々とした中にもすっとぼけた味わいがあり、心がほっこりとする作品だった。
 イタリアの国民性といえば、人懐こさが挙げられる。内気な人達がちょっと積極的になるのには、やはりイタリア語教室でよかったのかもしれな
い。エンドロールも気が利いている(ドグマでは、監督はクレジットに出てはいけないことになっているので、代わりにあるものが映される)。

『ションヤンの酒屋』
 「山の郵便配達」の霍建起(フォ・ジュンチイ)監督の新作。今回は都市を舞台とした、1人の女性の物語だ。重慶の旧市街で屋台を出している女性ションヤン。名物の「鴨の首」の味と、美人で気の強いションヤン目当ての客で賑わっている。しかし、しっかり者のションヤンにも悩みはつきない。頼りない兄や弟、離婚して家を出て行った父に代わって、彼女が家族と財産を守ってきたのだ。
 ションヤンのやることは結構えげつない。幸せを掴む為に必死なのだ。金持ちの客にはそれとなく気を持たせてキープする。兄嫁とはつかみあいの喧嘩もする。家を自分の名義にする為に「所長」に色目を使ったり、障害のある所長の息子と、自分の店で働いている弟の元カノ(弟はヤク中で入院中)との結婚話を勧めたりする。元カノを結婚させてしまえば、弟から邪魔な女を遠ざけることもできて一石二鳥。ションヤンは手のかかる弟をとても可愛がっており、彼を独り占めしたいという、ちょっとドロっとした感情も見え隠れする。朴訥とした少女である元カノを高級レストランに連れて行ってどぎまぎさせるあたり、かなり意地悪だ。でも、彼女が憎いわけではない。彼女の仕事の腕は認めているし、結婚した彼女の新居に遊びに行き、彼女の手を握り締める仕草に嘘はなかったと思う。ションヤン自身も結婚に憧れ、幸せになりたいという気持ちがある。
 ションヤンには兄弟も父もいるが、バラバラに暮らしているし仲が良いとも言いがたい。父とその再婚相手の家庭にションヤンが遊びに行った時の、ぎこちない雰囲気がリアルだ。彼女は「私が一族を支えてきたのよ」というが、自分自身は離婚しているし、子供も流産しており、家庭運には恵まれない。彼女は気丈に生活しているが、家族を欲している。結婚にも憧れている。だから付き合っていた男性ともあのような決着を付けたのだろう。個人的にはあまり納得いかないんだけど・・・。
 何より、ションヤンは自分の店と暮らしている町を愛している。彼女が付き合っていた男は、彼女がいる場所までは愛してくれなかった。最後彼女は「私はいつでもここにいるわ」と告げる。しかしそれは、他に行き場所がないということと同義だ。その場所でしか生きられないから、それを守る為には多少えげつないことでもやる。腹をくくっている感じで、辟易すると同時に、いっそ清清しくもある。
 かなり演歌な世界なのだが、あまりうっとおしくならないのは、ションヤンを演じる陶紅(タオ・ホン)の魅力によるところが大きいと思う。特に猫のような目が魅惑的だ。

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