9月

『バリスティック』
 無敵の女テロリスト・シーバーV.S元FBIエージェント・エクス(アントニオ・バンデランス)の怒涛の戦い、かと思いきや、えっ何でタッグ組んでるの?つーか、お互いの情報が簡単に手に入りすぎだよ・・・
 全編に渡ってこんな感じで、要所要所での説明が不足しており、話の流れが不明瞭。更に話の展開にも無理がありすぎる。エクスとその妻は、ある人物の画策により、お互いに死んだと思い込んでいるのだが、共通の親族とか知人とかが気づくんじゃないのか?第一、そもそも何でエクスが生かされているのかが謎。その時に殺しておいた方が後々楽だったんじゃ・・・。更に心臓脇に弾撃ち込まれたら死なないにしても喋れねーよ!とかラストバトルの場所は、そもそも何の施設なんだ!とか、ラスボスの頭が悪いぞ!とか、突っ込み所満載。細部がユルユルで、脚本のずさんさが丸見えなのだ。
 火薬許可量すれすれの爆破総計60回がウリらしいが、確かに爆破シーンは大盤振る舞い。終盤は爆破に次ぐ爆破だ。ただ、その見せ方に意外性がなく、結局新鮮味が感じられない。それにしてもバンデランスは老けたな・・・。ルーシー・リューのアクションは「チャーリーズエンジェル」よりかっこいい。

『コンフェッション』(ネタバレ含みます)
 俳優ジョージ・クルーニーの初監督作品ということで、(製作総指揮がソダーバーグとはいえ)どうなることかと思っていたが、これが面白い面白い。大成功と言っていいのではないだろうか。脚本が『マルコビッチの穴』で一躍ブレイクした、妄想系鬼才チャーリー・ガウフマン。クルーニーはこの脚本に惚れ込み、資金難で立ち消えになっていた映画化の企画を実現させた。脚本の良さを活かした、良い演出だったと思う。偉い!
 TVプロデューサーのチャック・バリス(サム・ロックウェル)は、謎めいた男ジム・バード(ジョージ・クルーニー)にスカウトされ、何故かCIAの秘密工作員に。TV番組が成功し一躍有名プロデューサーとなったバリスは、CIAのヒットマンとしての生活との二重生活を送ることに。しかしやがて視聴率は低迷、バリスは二つの世界をコントロールしきれなくなる・・・
 原作者は「デート・ゲーム」「ゴングショー」等で有名な、実在のTVプロデューサー・チャック・バリス。彼によれば「実話」なのだが、それ本当?と言いたくなるようなすっとんきょうな話ではある。もっとも、二重生活というテーマ自体はそう珍しい題材ではないが。しかし表の世界が、番組出演もするTVプロデューサーという、普通よりも大分人目に触れる職業な所が面白い。
 TV番組製作という虚と実を行き来する職業と、表の世界と暗殺者としての裏の世界を行き来するバリスの生活があいまって、嘘とも本当ともつかない、不思議かつ軽妙な話になっている。後半、バリスが二重生活に疲れて錯乱してくるあたりでは、そもそも自分が暗殺者だということ自体がバリスの妄想だったのでは?ジムや同じく工作員の美女パトリシア(ジュリア・ロバーツ)は実在しないのでは?と疑問が沸いてくる。何と言っても、この話はバリスの主観でのみ進むのだ。しかしパトリシアの最後の姿は、妄想と言うには妙に生々しい。で、実際どうだったの?と映画を見終わった後も尾を引く。
 バリス役のサム・ロックウェルは、映画を良く見る人なら「どこかで見たよなこいつ」と必ず思うような名脇役だが、今回はめでたく主役に。TVが大好きで、「気分転換になる」と暗殺家業もこなすが、じつは小心者で、自分への批判には弱い。そんな決してかっこ良くはない男役にぴったり。バリスの恋人・ペニー役のドリュー・バリモアが可愛い。健気でしっかりした、バリスにとっては光のような(しかし彼の裏の姿は知らないし、告白しても信じない)存在だ。そして謎の美女パトリシア役のジュリアー・ロバーツ。この人、歩き方が美人じゃないな・・・と後姿を見ていて思った(笑)。結構ドスドス歩いてます。ちなみにカメオ出演で、ブラッド・ピットとマット・ディモンが出ている。「オーシャンズ11」つながりか。どうも「オーシャンズ12」が作られるらしいのだが。

『座頭市』
 いわずと知れた、北野武監督の新作。またしてもベネチア国際映画祭で監督賞を受賞してしまった。賞の効果で、日本でも今までの北野映画では一番の客入りの良さになっている。座頭市と言えば勝新太郎のシリーズが定番となっているが、北野版座頭市は、商業映画として成立させつつ、勝新と違うテイストを出すにはどうすればいいか、考えた結果のように思う。
 実はこの映画の中では、映画として新しいことは何一つ行われていない。町を仕切っている悪党一家や、その片棒をかつぐ商人。厳しい取立てに苦しめられている町の人々。両親の敵討ちの為、芸者に身をやつして旅する姉弟(弟は女装している)。どれもどこかで見たような設定だ。また、音楽のリズムに乗った動きも、さほど目新しいものではない(実は動きとリズムが微妙にズレている所があって、ちょっと気持ち悪かったのだが・・・)。作品を構成する要素それぞれは、極めてオーソドックスなものだと言えるだろう。
 では勝新の座頭市と何が違うのか。北野版座頭市には、時代劇ではお約束な、人情がないのである。もちろん、芸者姉弟の仇討ちという「泣かせ」にもなりうるエピソードはあるが、そこにさほどの重点は置かれていない。「泣き」方向に進みそうになると、ベタなギャグを入れて回避する。町の人々の苦しみも特に見せるわけではない。悪党にしても、どのくらい悪くて強いのか今ひとつはっきりせず、巨大な悪をやっつけるカタルシスもない。
 何より、肝心の座頭市の内面が全く描かれないのである。なぜこの町に来て、なぜ姉弟を助けるのか、悪党たちとの因縁はあるのかないのか。彼の過去についても、心理についても、映画の中では全く語られない。彼はただそこに来て、通り過ぎていくだけだ。
 では何があるのかというと、殺陣である。映画がいきなり殺陣から始まり、その後も切って切って切りまくる。殺陣映画と言っていいくらいの充実っぷりだ。座頭市は、切ること以外は殆どしていない。時代考証も人情話もっすっぱりと切り捨て、体の動きを見せることに徹している。
 一見時代劇なのだが、実際に見てみるとあまり時代劇っぽくなく、ひたすら乾いている。監督は意識的にそうしたのだろう。衣装等は、一応その時代のものらしく見えるが、セリフは現代劇と同じ言い回しで、いわゆる時代劇的な言葉使いはしていない。そもそもたけし演じる座頭市が金髪ということ自体が、時代劇ではありえない。
 元々北野監督は、ストーリーテリングが得意なタイプではなく、断片的なエピソードやイメージの積み重ねにより、映画が構成されている。だから今作のようにはっきりとしたストーリーがある映画では、散漫な印象を与えるかもしれない。が、娯楽作としてはこの程度のさっぱりさが好ましいのでは。

『フリーダ』
 実在したメキシコの画家フリーダ・カーロの半生を描いた映画。監督は『ライオンキング』の美術で知られるジュリー・テイモア。テイモアの前作『タイタス』は、シェイクスピアの戯曲「タイタス・アンドロニカス」を映画化したものだが、悪趣味ぎりぎりの派手かつ劇的な演出が強烈だった。今作はいわゆる伝記映画であるが、何より、画家フリーダ・カーロの絵画のイメージを尊重しており、ヴィヴィッドかつエネルギッシュな映画になった。
  フリーダ(サルマ・ハエック)は、18歳の時に交通事故で脊髄、子宮を損傷する大怪我をおったが奇跡的に回復する。ベッドに寝ている間の退屈しのぎに絵画を始めた彼女は、画家ディエゴ・リベラ(アルフレッド・モリーナ)に認められ、やがて彼と結婚する。
 関連企画として、「フリーダ・カーロとその時代」という絵画展が開催されていた。私はこの絵画展を見てから映画を見たのだが、フリーダの絵が映画のシーンとしてそのまま再現されており、不思議な感じだった。彼女の絵を見て感じたのは、自分のの苦悩や怒りに対してとても率直な人だということだ。その時々の心情が絵の中にストレートすぎるくらいに現れている。この映画では、フリーダの率直な所、行動的で奔放な所を前面に出しており、吸引力のある人物として描いている。フリーダのキャラクターによってこの映画が成功していると言ってもいいくらいだ。
 彼女は、怪我による肉体的な苦しみ、夫・ディエゴの浮気による精神的な苦しみの両方に耐えなければならなかった。ディエゴは「友人としては最高、夫としては最悪」な人物で、あらゆる女性に手を出し、なおかつ何故か(ブ男なのに)モテる。とうとうフリーダの実の妹にまで手を出し、彼女の逆鱗に触れるのだった。思想的、芸術的には良き伴侶であったのに(1回離婚したものの、再婚している)、2人とも奔放で、結婚というシステムには不向きだったというのは皮肉でもある。ディエゴの浮気癖はもちろん、フリーダ自身もバイセクシャルで、映画の中でも美女とのラブシーンがある。更に肉体的には、怪我の後遺症の為、40数年の人生で30回以上の手術を受けたと言う。まさに満身創痍人生。しかし満身創痍でなければ、彼女の絵画は誕生しなかっただろう。優れた芸術家であるには、何かを捨てなければならないのか。キツい人生だ。晩年(といっても40代だが)の彼女は、自分の肉体から離れたくてしかたなかったようで、葬儀も「火葬にして」と話している。
 フリーダを演じたサルマ・ハエックは、この役柄に惚れ込んでおり、どうしても演じたかったそうだ。プロデューサーとしても名を連ねている。最初はジェニファー・ロペスが主演するという話もあったそうだが、ハエックで正解だったと思う。

『アダプテーション』
 『マルコビッチの穴』の珍妙さで、一躍有名になった監督スパイク・リー&脚本家チャーリー・カウフマンのコンビ。再びタッグを組んだ今作も、やはり珍妙な映画である。スパイク・リーの作品というよりも、カウフマンの作品といわせてしまう所が、この脚本家のすごい所だと思う。本作ではノンフィクション「蘭に魅せられた男 驚くべき蘭コレクターの世界」を原作にしているが、相当ヘンな方向に曲がっている。
 映画は『マルコビッチの穴』撮影現場から始まる。ジョン・マルコビッチを始めとした出演者達と、監督、AD、メイクらスタッフ。スタジオの片隅にいる冴えない男が画面に登場する。テロップを見ると「脚本家チャーリー・カウフマン」(ニコラス・ケイジ)。で、その映画の中のチャーリーが執筆中の脚本が、「蘭に魅せられた男 驚くべき蘭コレクターの世界」という、実在のノンフィクション本を脚色したもの。つまり実在のチャーリー・カウフマンが実在のノンフィクションを脚本化した映画の中で、映画登場人物としてのチャーリー・カウフマンが実在するノンフィクション本を脚本化しようと悪戦苦闘しており、更に「今から3年前」として、本の著者であるスーザン・オーリアン(メリル・ストリープ)まで登場する。あーっ、言葉で説明するとややこしい!つまり映画が入れ子状になったメタ映画なわけなのだ。実際に映画本編を見てみると、このあたりは意外に見やすくなっており、混乱はしないと思う。
 カウフマン作品の主人公は、大抵コンプレックスに悩まされており自分に自信がない。そして時に、別の人物になりたいと願う。『マルコビッチの穴』ではジョン・マルコビッチに、『コンフェッション』では殺し屋に。しかし『アダプテーション』では、もう一人の自分が常に目の前にいるのだ。チャーリーには何と双子の弟がいる!この弟は俗物だが社交的で冗談好き。女性にも結構モテる。しかもコテコテの脚本を執筆したら、エージェントに「傑作」と言われてしまうのだ。チャーリーかたなしである。兄役兼弟役のニコラス・ケイジが、でっぷりとした体をさらして頑張っている。絵ヅラ的にはかなり変ではあるが。
 別人になれないチャーリーに出来るのは、せいぜい妄想に耽ることくらいだ。スランプになるごとに、身近な女性とのセックスを妄想。実際のナンパは全く成功しない所が、情けないことこの上ない。セックスがらみの妄想に満ちている所は、『マルコビッチの穴』と同じだ。チャーリーは、自分が何を書きたいのか、どう書けばいいのかも見失っている。とうとう脚本セミナーに参加してみたり、オーリアンを覗き見してみたりさえするのだが、やがて事態はとんでもない方向に転がる。
 チャーリーは「アクションやセックスや主人公の改心みたいなハリウッド的なことはしたくない」というのだが、後半ではそれが全部起こる。大笑いだ。もちろんこれは確信的なもので、チャーリー≠カウフマンなのだけれど。これは何処まで本気なのか?メタフィクションかセルフパロディか単なる自虐ネタか?エンドロールは必ず最後まで見るように。

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