7月
『チャーリンズエンジェル・フルスロットル』
カリフォルニア・ガールズ・ブラボー!ってな感じで、チャーリー率いる探偵・エンジェルたちが暴れる暴れる!冒頭からいきなり、モンゴル北部(には見えないんだけど・・・)の安宿からのCIA長官救出に始まる今回のストーリー。タイトル通りのフルスロットルで、展開の早いこと。ストーリーにはかなりの無理もあるが、勢いで押し切っている。
何よりこの映画の見所は、エンジェルたちのキュートな衣装とノリの良さにある。お約束のコスプレ系から普段着のファッションまで、お召し替えしまくりのサービス。私服にも3人のキャラクターの違いが出ていて楽しい。ナタリー(キャメロン・ディアス)はカジュアル・フェミニン系、ディラン(ドリュー・バリモア)はちょいロック風、アレックス(ルーシー・リュー)はややコンサバなお嬢様系。個人的にはディランの衣装が好みで、ちょっと真似してみたくなった。衣装はエンジェル3人だけでも一人につき約50着、敵役のデミ・ムーアにも30着、全体では何と1000着以上!
そしてナタリーのセンスがイマイチ(でもノリは良すぎるくらいに良い)なダンスも健在。キャメロン・ディアスがここまで腰を振っている映画はないのでは。しかも今更ハマーダンスとは・・・。しかも3人で踊るのだ。うーん、楽しい。前作同様、セクシー系ジョークも満載。ただこのジョーク、日本ではちょっとウケないかもしれないが。
更に今回の敵、元エンジェルのマディソン(デミ・ムーア)。ランジェリーの上に毛皮のコート、ゴージャスな二丁拳銃など、悪趣味スレスレのゴージャスさだ。「女の子」であるエンジェル3人に対して、マディソンは「大人の女」。悪役ではあるが、「家族」のようであったエンジェル、「保護者」であったチャーリーに背を向け、野心に燃えて一人戦う彼女の姿には、共感する女性も多いのでは。それにしても、「I was gerat」というセリフをデミ・ムーアに言わせてしまう製作サイドは、結構意地悪だなぁ・・・。
元気かつセクシーな女性陣に比べて、男性陣はパッとしない。エンジェル達の新しいサポーター・ボスレー(バイーニー・マック)がコミカルに頑張っているが(しっかり役に立っているしね!)、ナタリーやアレックスのBFは、何でこいつ?という感じだ。今回は、ナタリーがBFと同棲を始めたことで、「結婚してチームは解散してしまうのでは?」とディランが心配しているが、ラストでは「やっぱり仲間が一番!」。あくまで女の子映画、女の子同士でわいわい騒ぐ映画なのだ。エンドロールのオマケ映像も、ガールズ・ムービー風でかわいい。ちなみに、TVシリーズでエンジェル・ケリー役だったジャクリン・スミスがゲスト出演している。更に、なんとデミ・ムアに殺される男役で、元夫のブルース・ウィリスが出ているそうだ!全然気付かなかった・・・『トーク・トゥー・ハー』
映画ポスターのコピーは「深い眠りの底でも、女は女であり続ける」だった。しかしこれは女の映画ではない。これはそれぞれの形で女に愛を捧げる(もしくは捧げるかのように見える)、孤独な男達の物語だ。コピーや、監督の前作『オールアバウト・マイマザー』をイメージして見ると、裏切られるだろう。
バレエ学生のアリシア(レオノール・ワトリング)は交通事故で昏睡状態になり、4年間植物状態が続いている。彼女専任の介護士ベニグノ(ハビエル・カラマ)は献身的に彼女の体のケアをし、彼女が好きな映画や舞台を彼女の代わりに見て、その内容を話し掛ける。ある日アリシアが入院している病院に、女闘牛士リディア(ロサリオ・フローレス)が運び込まれる。彼女もまた、試合中の怪我で植物状態になっていた。リディアの恋人マルコ(ダリオ・グランディネッティ)は、ベニグノに「彼女に触れないんだ」と話す・・・
二組の男女は、女性達が昏睡状態にあることでディスコミュニケーション状態となる。ベニグノはアリシアと心が通っていると信じているが、それは彼の考えでしかない。アリシアの意志は確認しようがないのだから。実はベニグノは、アリシアが健康だった頃から盲目的な(早い話がストーカー)愛を捧げており、彼女に近づきたい一身で看護士になったのだ。そしてマルコは、リディアとの仲は順調なように見えた。が、実はすれ違いが。「話があるの」「話ならずっとしている」「あなたがでしょう。私は喋っていない」という二人が交わした最後の会話が象徴的だ。一方通行のベニグノと、すれ違っていくマルコ。実は二人とも相手の女性とコミュニケートできていない。
男女間のディスコミュニケーションに対し、ベニグノとマルコの間にはある種の友情、絆が生まれる。彼らは2人とも、自覚のあるなしに関わらず、孤独な人間に見える。『オール・アバウト・マイマザー』では、女たちは手を取り合い、緩やかな輪によって共同体を作ることが出来た。しかし今作では、男たちはガラスの壁越しに手のひらを重ねあうことしか出来ない。もっとも、この孤独さは男性に限ったことではなく、全ての人間に言えることなのかもしれないが。
ベニグノのアリシアに対する愛は、致命的な事件を起こす。動機がなんであろうと犯罪は犯罪。しかし、その行為によって、ある奇跡も生じる。観客の価値・倫理観は繰り返しひっくり返される。愛による行為はどこまで許容されるのか。監督はかなり際どいボールを投げてきている。見た後、時間がたつ程にじわじわと効いて来る作品。『人生は、時々晴れ』
時々晴れ、って嘘。晴れ間が見えるのは一瞬程度だ。『秘密と嘘』がカンヌでパルムドールを受賞した、マイク・リー監督の新作。今回も、イギリスの中流(よりやや下)家族、ごく普通の人々の日々を描く。
タクシー運転手のフィル(ティモシー・スポール)とスーパーのレジ係のペニー(レスリー・マンヴィル)夫妻は、低所得者向け公営アパートに暮らしている。老人ホームで清掃業をしている長女レイチェル(アリソン・ガーランド)と、いつもブラブラしている長男ローリー(ジェームズ・ゴーデン)がいる。近所にはフィルの同僚ロン(ポール・ジェッソン)一家や、ペニーの同僚モーリン(ルース・シーン)母娘も住んでいる。
この映画に出てくる人たちは、皆ぱっとしない。フィルは朝寝坊ばかりで稼ぎが悪いし、ローリーは学校にも仕事にも行かず文句ばかり。ペニーは2人にイライラしている。レイチェルはそんな家族と距離を置き、自分の世界にこもりがちだ。家族の間で会話が成立しておらず、お互いに相手が何を感じ何を考えているのか全く分からないし、分かろうという努力もしていない。繋がりが最初から壊れているのだ。こんな家族、結構多いのではないか。普通の家族、普通の生活のかっこ悪さ、侘しさが、全編に渡って嫌というほど漂っている。見ていて凹むことこの上ない。
彼らは皆、自分は大切にされていない、自分に価値がないと感じている。フィルはペニーに対して、「俺のことを蔑ろにしているだろう」「もう愛していないんだろう」と泣く。ずっと溜めていたものが溢れ出したように。一番心にささったのは、レイチェルが職場で老人からナンパされた後に見せた表情と、その後海辺を歩き回る様子。悔しいような悲しいような、きっと自分が貶められたような気持ちになったんだろうなぁと。家庭の中でも、母親の目は手のかかるローリーにばかり向けられていて、彼女はいつも放っておかれている感じだ。
ローリーの病気をきっかけに、家族それぞれが自分の思いを吐露し、家族が再生していくきっかけが見える。しかしそれはあくまできっかけ。自体が収まれば元に戻り、何も変わらないということも大いにありうるのだ。しかし、ラストでのフィルとペニーの表情は明るく、いつもよりもこざっぱりとした格好をしている。ほんの少しの晴れ間でも、ないよりはましではないか。『マイビッグファットウェディング』
多民族国家であるアメリカだが、映画の中でギリシア系にスポットが当てられることはあまりなかったのでは。小説では、ペレケーノスのハードボイルドの中で、ギリシア系コミュニティが舞台となっているが、やはり独特の雰囲気があるようだ。
主人公トゥーラ(ニア・ヴァルダロス)は両親が経営するレストランで働く女性。美人ではなく、地味で未だ独身。父親には早くギリシャ系の夫をつくれとせっつかれている。一念発起したトゥーラに恋人ができたが、彼はギリシア系ではない!家族は結婚に大反対だ。それでも2人は何とか結婚に漕ぎ着けようとする。
ギリシア系家族とはこんなに騒がしいものなのか。よく喋りよく食べ子沢山。トゥーラは大人しいタイプみたいなので、こんな家族の中では黙り込んでいるしかないだろう。私だったらこんな家族にはうんざり。特に父親。何かというとギリシャ民族の誇りをふりかざし、どんな単語も語源はギリシア語だと言ってはばからない。そういう話をされて他の民族がどんな気になるかという想像力に欠けており、視野が狭いことこのうえない。娘が大学に行きたいと言うと、父さんを捨てるのかと泣く始末。もううんざりだ。トゥーラに婆さんみたいだぞ、と嘆くが、彼女がそうなったのは自分たちのせいでもあるとは微塵も思わない。現に。大学の社会人コースで学びはじめてから、トゥーラは自分に自信が付き、段々綺麗になっていくのだ。まあ、そんな父親でも嫌えないからやっかいなのだが。
違う文化圏の人と結婚するのはかくも大変。しかし結婚というのは、多かれ少なかれ違う価値観生活習慣の人と人生を共にし、更にその人の背後にある家族親戚を受け入れていくという側面がある。どんな国のどんな人にも普遍的な、共感できる話なのでは。結婚式の客がどんどん増えていく、趣味の悪いドレスを勝手に決められる、相手の両親とのぎこちない会話等、あるある!と笑ってしまった。
それにしても、トゥーラの結婚相手・イアン(ジョン・コーベット)は懐が深い。普通、ここまで譲歩してくれないと思うが。ギリシャ系女性と結婚しようと思ったら、ここまでしないとダメってことか。そういえば、トゥーラは勉強する努力、きれいになるための努力はしたが、家族とイアンとのギャップを埋める努力は特にしていないし、父親の説得も母や叔母に任せっきり。旅行代理店での仕事も叔母が任せてくれたもので、結局家族の力に頼らざるをえない。これが彼女が育った文化の中での限界なのか。そう思うとちょっと気が重い。
映画の宣伝用コピーは「一生結婚したくない、という人は、観ると危険です」 だが、なんだか余計結婚したくなくなったんですけど・・・。とりあえず、ギリシア系に生まれなくて良かった、かもしれない・・・。『蒸発旅日記』
つげ義春のマンガを、寡作な映像作家・山田勇男がついに映画化。山田監督にとっては、『アンモナイトの囁きを聞いた』以来、実に10年ぶりの商業映画である。
私が高校生の時、雑誌『ぴあ』の映画紹介欄の片隅に、『アンモナイトの囁きを聞いた』が掲載されていた。妙にひっかかるタイトルと「宮沢賢治と妹・トシをモチーフにした〜」という内容紹介、そして主演がサエキけんぞう(パール兄弟)という所に惹かれ、初めてミニシアター・ユーロスペースを訪れた。当時のユーロスペースは今よりも小さく、暗く、あまりにも目立たなかった為、道に迷ってしまった。本当にビルの片隅に「お邪魔させてもらっていまーす」という感じだった。
で、映画がどうだったかというと・・・眠かった。イメージの断片を繋げたような映画で、ストーリー性に乏しく、セリフも少なかった覚えがある。ラスト、幼い少年が母親と手を繋ぎ、化石となった生物の名前を唱えながら歩いていくシーンはよく覚えているのだが。何分高校生には渋すぎるセレクトであった。
そして10年後。私は未だユーロスペースに通っている。山田監督の名前など忘れていた。が、『蒸発旅日記』の広告を目にしたら、監督の代表作として『アンモナイト〜』の名前があるではないか!予告編を見た限りでは随分とレトロな雰囲気なので、正直どうなのかなぁと思ったのだが。
実際に映画を見ても、「レトロだなあ」という印象は変わらない。もちろん原作の時代背景という要因もあるのだろうが、何故今更これを、という感は否めない。ちょっと独特の美意識のある作風なので、駄目な人は駄目な世界だろうなぁとも思う。文字盤が反転した時計や、着物姿の美少女、妖艶なストリッパー等、モチーフ自体は使い古されたものだ。が、その組み合わせによって妙な懐かしさが生じている。
色使いがやたらと鮮やかだと思ったら、美術監督が『ツィゴイネルワイゼン』『ピストルオペラ』などの美術を手がけた木村威夫だった。更に助監督は、全ての寺山修司監督映画で助監督を務めた森崎編陸。その手のものがお好きな方は、一度見てみては。