5月

『Xメン2』
 前作はキャラ紹介で終わった感があったが、今回はドラマも盛り上げてくれる。アメリカ発戦隊ヒーローアクション映画。やや大雑把ではあるものの、エンターテイメントとしては上々だと思う。
 ヒーローものでありながら、いわゆる正義の為に戦うのではなくて、あくまで自分たちが生きる為、より生き易い社会を作る為に戦うというのがこのシリーズの特色だろう。ミュータントである彼らは、普通の人間からは疎まれ、恐れられる。家族からさえ受け入れられない者もいる。マイノリティーの悲しみを抱えるヒーローが出てくるあたりはアメリカのお国柄か。
 しかし、人間との共存を目指すXメンの中も一枚岩ではなく、人間に対する哀れみはとうに捨てた、怒りを生きる力にしているのだと言うストーム(ハル・ベリー)がいる一方で、外見は長い尻尾を持った悪魔の様なのだが敬虔なクリスチャンで、恐れられても憎しみは感じない、彼らは自分の目に映るものしか見ていないから哀れみを感じる、信仰もまた生きる力なのだというナイトクロウラー(アラン・カミング)もいる。そして力を認められたいがために、人間を駆逐しようとするマグニート(イアン・マッケラン)側につく者も。彼らもまた、人間としてのダークサイドを持っているのだ。人間との共存を望むもの、人間を凌駕しようとする者、それぞれに言い分があり、完全な善者、悪者はいないのだ。
 今回はある人物によってミュータント抹殺が企まれる為、前作では敵同士だったXメン達とマグニート達が協力して敵に挑む。キャストも前回のメンバー総出演という豪華さ。シリーズものとして続きそうな感じだ。ウルヴァリン(ヒュー・ジャックマン)は相変わらずモテモテ(笑)。個人的には異形の美女(?)ミスティーク(レベッカ・ローミン=ステイモス)が大活躍しているのが嬉しかった。

『メイド・イン・マンハッタン』
 ホテルのメイドのマリサは、客のブランドコートを羽織っているところを下院議員のクリスに見られ、一目ぼれされてしまう。クリスはマリサのことをホテルの客だと思い込んで猛アタック。どうするマリサ?
 典型的なシンデレラストーリーだが、それが陳腐になっていないのは、マリサが離婚したワーキングマザーだったり、マネージャーになる夢を持っていたりと、現代に生きる女性として描かれているからだろう。演じるジェニファー・ロペスが気丈でキュートな女性を好演している。正直、今まであまり興味がなかったのだが、この作品での彼女はとてもかわいい。演技はそんなに上手くないが・・・。
 クリス役はレイフ・ファインズ。プレイボーイ役?とちょっと意外だったが、二枚目なだけでなく、参謀役の忠告そっちのけで犬と遊んだり、マリサを追いかけたりと、お茶目な所も。公園でマリサを引き留めるセリフが「ヘビを見に行こう」なのにはちょっと笑った。政治家にしては暢気すぎる気がするが。
 そしてマリサの息子のタイが何とも良い。70年代マニアで何とニクソンのファン。愛聴CDはサイモン&ガーファンクル。マリサとクリスを引き合わせたのも彼だ。クリスはマリサに一目ぼれする前に、タイのウィットとのある会話にやられてしまっている気がするのだが(笑)。
 シンデレラは魔法使いの力で変身するが、マリサを助けてくれるのはホテルの仲間達。マリサがパーティーに行くため、ブディックの服をとっかえひっかえしたり、靴がずらっと並んでいるシーンは、もっと見たい!と思ってしまった。マリサの私服も質素だが可愛くて、女心をくすぐる。
 オフィス街や公園、下町等、ニューヨークの風景がたくさん出てくる。監督のウェイン・ワンはこれまでもニューヨークを舞台にした映画を撮っているが、この人は生活空間としての都市を撮るのが上手い。また、街並みだけでなく屋内も、どういう人がどんな生活をしているのかという雰囲気が伝わる。マリサ親子のアパートも、狭いのだがセンスがよく、温かみがあって、居心地が良さそうだ。
 正直新鮮味はないしオチは予想通りなのだが、見た後の気分がいい。ベタなネタをいかに上手に、客を退屈させない様に料理するかの好例だと思う。

『8mile』
 週刊少年ジャ●プや●ガジンで見かけそうな話。隠された才能を持つ主人公が、敗北→努力→再挑戦→勝利と進んでいく、モロにスポ根系または戦闘系少年マンガのフォーマットにのっとっている。だからストーリー事態には大して新鮮味はない。しかし、主役であるエミネムの存在が、凡庸な青春映画になることを救っている。
 青春映画ではあるが、普通「青春映画」と聞いて思い浮かぶような爽やかさや熱さはない。エミネムは常に不機嫌そうで、自分が育った環境から抜け出そうとしている。夢のようなことを言っているばかりの仲間達や、男に頼りきってばかりの母親へのいらだちも見せ、どなったりもする。しかし、彼の視点はあくまで冷めたものだ。ライムバトルでチャンピオンになっても、仕事に戻ると言って仲間の誘いは断ってしまう。確かに彼はヒーローになった。が、それはあくまで彼が育った世界の中でだけ、お山の大将にすぎない。この環境から抜け出す為には、故郷も仲間も捨てていかなければならないことを彼は知っている。ラストで、彼が仲間達と別の道を進むだろうことが暗示される。
 アメリカの社会状況をある程度わかっていないと、ちょっとわかりにくい内容だと思う。エミネム演じるラビットは、デトロイトに住むいわゆるプア・ホワイトなのだが、このどん底的貧しさは、日本ではあまり実感が伝わらないだろう。この町では白人の彼がニガーと呼ばれる。友人も黒人。このあたりのニュアンスも伝わりにくいか。何より、ライムを字幕でよむというのは魅力半減。英語が分かればもっと面白いんだろうなぁ。実際は、字幕よりも相当えげつない文句なのだと思うが。
 個人的に映画の中で一番心を打たれたのは、実はエンドロールで流れるエミネムの曲。映画見なくてもこれ聴けばいいじゃん!と思ってしまった。映画がエミネムに負けているのか?

『BULLY』
 鬼才ラリー・クラークの新作。原作は「いじめっ子はなぜ殺されたのか」(ジム・ショッツ著)というノンフィクション本。’93年に南フロリダで実際に起きた、高校生による殺人事件をもとにしている。
 いじめっ子ボビー(ニック・スタール)といじめられっ子マーティン(ブラッド・レンフロ)は幼馴染。この2人の関係は、一方的に加害者・被害者と言えない所があり、共依存のような、一種精神的にホモセクシャルな雰囲気さえある。実はマーティンの方がスポーツが得意で逞しく、どう見ても腕力ではボビーに勝てそうなのだが、ボビーの言うことはどうしても拒否できない。一方ボビーは、自宅では高圧的な父親に逆らえない。しかしマーティンをダメな奴だと言う父親に対して、彼のことを庇ったりする。また、マーティンに近づく女の子を追い払ったりと、彼が自分から離れることを恐れている。これに、マーティンの恋人リサ(レイチェル・マイナー)が絡む。リサはマーティンを守り、独占しようと、何とかしてボビーを排除しようとする。彼女の暴走が仲間を巻き込んで、ボビーの殺害というとんでもない方向へ。
 少年少女たちの大半は中流以上の家庭で育ち、それなりに大切にされている。住んでいる所だって一見すると、ごく普通の郊外の住宅地だ。しかしここは「終わっている」感に溢れている。彼らはやるべきこともなく、どうしようもなく退屈そうだ。車を乗り回しドラッグに溺れセックスに興じ、道徳も良識もへったくれもないが、そうでもしないと彼らはこの終わらない日常をやりすごせないのかもしれない。こんなに退屈でなければ、ボビー殺害など起こらなかったのかもしれない。実際、殺人計画はずさんそのもので、あまりにも子供っぽい。殺人後も全員パニックになってしまい、周囲に話したり匿名で通報するという自殺行為に走る。彼らは人を殺すと言うことがどういうことか、全く分かっていなかったのだろう。
 舞台はフロリダで光に溢れているのに、この映画の寒々しさは何だろう。この郊外住宅地の「終わっている」感と、少年少女達の頭の悪さがきわめてリアルで、何とも薄ら寒い気持ちになる。

『恋愛寫眞』
 カメラマン志望の誠人(松田龍平)の元に、かつての恋人・静流(広末涼子)から突然エアメールが届く。静流の方が誠人よりも先に才能を見出された為、2人の仲はぎくしゃくしていたのだ。しかし静流には、ニューヨークで死んだという噂もあった。誠人は静流を探しにニューヨークへ向かう。
 堤幸彦監督の映画は情報量が多い。映像の中に、細かいギャグを挟んだり、話の本筋とは全く関係ない部分(背景のセットとかエキストラ)で妙な遊びをするというのが、「ケイゾク」にしろ「トリック」にしろ、堤作品の特徴になっていると言ってもいい。ファンはにやりとさせられるだろうが、この演出によって映像が面白くなっているかと言うと、必ずしもそうとは限らない。色々な要素を盛り込みすぎているせいで、映画全体のバランスが悪くなっているのだ。特に日本を舞台とした前半部分では、映画全体の一種叙情的な雰囲気と、キッチュなギャグや小ネタがかみ合っておらず、テンポが悪い。正直、やりすぎな感じがする。誠人のモノローグも、少々くどい。特にラストは、そこまで説明しなくても、客は理解していると思うが。良くも悪くも過剰さがある作風なので、ネタと作風がかみ合うかどうかがポイントになっているのだろう。
 松田龍平は、最近役者としてめきめき良くなっており、存在感がある。次回出演作が楽しみだ。広末涼子は、女優としてはともかく、被写体としての才能がずば抜けている。あまり好きな女優ではないのだが、ここぞという所で「あっ、かわいい」と思わせる才能がある。

『ロスト・イン・ラマンチャ』
 ドン・キホーテの映画は、必ず製作中止になるというジンクスがあるそうだ。テリー・ギリアム監督は長年アイデアを暖めていた「The Man Who Killed Don Quixote」の撮影を開始するが、いきなり問題続出。天災に役者のトラブル、そして制作費不足。こうして撮影予定はがらがらと崩壊していく。
 ギリアムは我の強い、クレイジーな監督というイメージがあるが、このドキュメントを見てみると、いたって普通の人だ。純粋に映画が好きで、子供のような一生懸命さを持っているのだと思う。そんな彼が、撮影が進まず落込んでいる姿を見ると、本当に可愛そうになってしまう。出資者達が撮影見学に来ているのに撮影がうまくいかず、やけくそ気味になる監督には、思わず笑ってしまったが。
 しかし、不運というよりも準備不足としか思えない要素も多々ある。ロケ地がNATO軍の演習場の近くで、軍用機の騒音がひどいことなど、事前にちゃんと調べておけば分かりそうなものだし、エキストラのリハーサル不足も、スタッフの手際が悪いとしか思えない。なぜこんな状態で撮影開始に踏み切ってしまったのか、ちょっと不思議なくらいだ。映画関係者は身につまされそうな内容。
 この映画は、「The Man Who Killed Don Quixote」のメイキングドキュメンタリーとして撮影されていたものなのだが、予期せず映画制作が崩壊する過程のドキュメンタリーになってしまった。撮影していたキース・フルトンとルイス・ペペもこれにはびっくりしたのでは。そして一番可哀想だったのは、金の始末をしなくてはならないプロデューサーだろう。監督は懲りずに再チャレンジをもくろんでいるそうだが。

『ぼくんち』
 西原理恵子の傑作マンガの映画化。原作が原作だけに、どういうことになるかと不安だったが、原作とはまた違った切り口の作品となり、健闘している。阪本順二監督は、前作が『KT』というかなりの問題作だったので、今回は軽めのものが撮りたかったのかもしれない。
 一太、ニ太の兄弟をとりまく島の人々は、生活は貧しそうだが、その貧乏さにリアリティはなく、オブラートで包まれたような、「貧乏ユートピア」とでも言うべき叙情性がある。貧乏ではあるが、生々しい生活苦は感じさせない。突如現れた一太・ニ太兄弟の姉・かのこ役の観月ありさのルックスも、このファンタジー性を高めている。到底ピンサロ嬢には見えないが、これは確信的にそうしているのだろう。原作からは考えられない、幻想的なシーンもあった。パワーでは太刀打ちできないので、アプローチの仕方を全く変えてきたな、という印象があった。
 子役の一太・ニ太兄弟をはじめ、キャスティングはなかなか面白い。特に男やもめ・末吉役の岸辺一徳は、そのひょうひょうとした雰囲気が絶妙。本業は役者ではないが、ムショ帰りの安藤君役の今田耕司と、ピンサロの呼び込み・ツレちゃん役の濱口優(よゐこ)もいい味を出している。
 彼らが暮らす島は、一種のユートピアではある。しかし、少年達が成長するには、ここから出て行かなくてはならない。特に一太は、「子供」から脱出しようとジタバタしている感じがかわいかった。「姉ちゃんの世話になりたくない。一人でやっていきたい」と泣く姿には、ホロリとさせられる。そういう意味では、テーマ曲にガガガSPの「卒業」が起用されたのは、納得がいく。歌詞が映画のテーマと直結しているのだ。
 

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