4月

『歓楽通り』
元々ルコントの映画はある種のファンタジーとでもいうべき作風だが、今作では更にその寓話性が強められている。冒頭、街娼達が「お話」として主人公プチ・ルイ(パトリック・ティムシット)の話を始める。そして語り手は街娼達からプチ・ルイ本人への移る。ここではストーリー全体が過去の、懐かしまれる美しい「お話」なのだ。「お話」だから娼館は美しく、娼婦達は優しい姉や母であり、女同士の嫉妬や確執はない。現実的なディティール、生々しいセックスは意図的に削ぎ落としてある。
 プチ・ルイは娼館「オリエンタル・パレス」で生まれ育ち、娼婦たちの世話役をしている。大勢の「ママ」に囲まれ、子供の心のまま大人になった様な彼は、「運命の女性に出会い、一生かけてお世話をする」という夢を描いていた。そして一目ぼれした娼婦マリオン(レティシア・カスタ)の夢をかなえようと、彼女の運命の男性を見つける為奔走する。そしてとうとうマリオンは「運命の人」を見出す。
 マリオンはプチ・ルイに対してどう思っているのか。多分どうも思っていないのだろう。彼女にとってプチ・ルイは、娼婦たちの世話をやいてくれる、やさしい人物に過ぎない。恋愛の対象ではないのだ。だからこそプチ・ルイの目の前で恋人といちゃついたり、セックスしたりする。プチ・ルイがマリオンを見つめ続けるのに対し、マリオンの視線はプチ・ルイを通り過ぎ、「そこにいるのにいない」人として扱う。やはり一方通行なのだ。
  ルコント映画は男性の女性にたいするまなざしによって成立する世界だとも言える。男性達は、監督の代表作である『髪結いの亭主』にしても『仕立て屋の恋』にしても、その恋愛感情は一方的(『髪結い〜』の場合は結婚はしているものの)で女性とのセックスよりも女性を「見る」ことに重点が置かれる。彼らは女性を愛し、無償の愛を捧げているように見えるものの、実際は彼女に対する奉仕こそが彼の欲望の充足になっており、相手との相互的な関係、相手を理解しようとする姿勢はそこにはない。プチ・ルイだって、マリオンと対等な恋愛ができるチャンスがあったとしても、できないししないだろう。彼の悦びはあくまで奉仕する所にあるのだから。
  早い話がおっさんの妄想グルグルワールドなわけだが、かといって、私がルコント映画が嫌いかというとそうではない。オヤジの妄想をかくも美しく、魅惑的に描く所がルコントのすごい、そして質の悪い所だ。

『デアデビル』
 子供の頃、産業廃棄液を浴びたために盲目となったマットは、視力と引き換えに超人的な聴力を手に入れる。彼は身体を鍛え、「レーダーセンス」を駆使し、デアデビルとして街を牛耳る悪と対決する。
 マット役のベン・アフレックは、デアデビルを演じる為にかなりトレーニングを積んだらしく、かなりがっしりとした体つきになっている。「レーダーセンス」の表現が、音(空気)の流れによって画像が浮かび上がるかのように見せる工夫がされており面白い。子供の頃のマットが初めて驚異的な聴覚に目覚めるシーンは、結構説得力がある。点滴のしずくの落下音が頭に響くという芸の細かさだ。ちょっとしたことだが、盲目であるマットが一人で生活する為にしている工夫(札の折り方を金額ごとに変えて保管用ケースも別々、服は全て点字表記の説明タグ付き)が興味深かった。実際に視覚障害がある方も、ああいうことをしているのかな?
 アクションのタイプは、同じく映画化されたマーヴェルコミックのヒーロー、スパイダーマンと正直似ており、ロープを使った空中移動やジャンプのシーンが多い。しかし、スパイダーマンが日中堂々正義の味方をしていたのに大して、デアデビルが活動するのは夜のみ(マットは何と昼間は弁護士なのだ)。デアデビルの視点になって暗闇を飛び回るシーンは何とも爽快だ。このシーンだけで、この映画を好きになってしまった。
 他にもスパイダーマンとの共通点がある。彼が戦う理由が、父親(スパイダーマンの場合は父親的存在の叔父さん)の死によるものだという点だ。ただし、スパイダーマンの場合、「力を正しいことに使え」という叔父さんの遺志をついだのに対し、デアデビルは街を牛耳る組織に殺された父の復讐の為、法では裁けない悪を裁く為に闘う。しかし、彼が正義であるという保障、正しいことを成せるという保障はどこにもないのだ。「僕は悪者じゃない」と自分に言い聞かせるシーンや、戦いが終わる毎に教会で懺悔をする(笑)シーンもある。スパイダーマンのように肉体的な超人ではないので、闘うたびにケガをするし、鎮痛剤が欠かせない。中々に人間的なヒーローではないだろうか。

『ボーリング・フォー・コロンバイン』
 日本では公開当初から劇場オープン以来の動員数を塗り替え、ついにアカデミー賞長篇ドキュメンタリー賞受賞。授賞式のスピーチでブッシュ大統領を批判していたことで話題になった。作品の内容についても、もう説明不要だろう。コロンバイン高校で起きた、高校生の銃乱射事件についてのドキュメンタリーだ。
 カナダでの取材が面白い。実はカナダはアメリカよりも銃の所持率が高い。しかし銃による死亡事件は(人口の違いを考慮しても)圧倒的に少ないのだ。この違いは何故なのか(そして何とカナダでは、自宅に鍵をかけない人が少なくないのだ!ムーア監督が実地調査しているのでご覧あれ)。
 アメリカはなぜこんなふうになってしまったのか?9.11から現在に至るまでの状況の根底にもこの問題が流れていると考えると、あまりにもタイムリーな作品だと言えるだろう。しかし全く説教臭くはなく、大笑いした後にじっくり考えさせられる。シリアスな問題に取り組む上でユーモアがいかに大切か。そしてジャーナリズムに、映画に何が出来るのかということを見事に体現していた。
 インタビュー相手も豪華。アニメ「サウス・パーク」の作家マット・ストーンの話には、「うんうんわかるよそれ!」と思わず握手をしたくなった。また、コロンバイン事件の犯人たちが彼の曲を聴いていた為に大ブーイングを受けた、マリリン・マンソンが大変まともな(笑)ことを言っている。この人は自分の役割を本当によくわかっているなぁ。さすがだ。
 実は、久々に定価(1800円)で映画を見たのだが、これなら文句ありません。値段以上の価値あり。監督の次回作は、ブッシュ大統領が題材だそうだ。どうなることやら、これまた楽しみ。

『過去のない男』
 アキ・カウリスマキ監督の映画に出てくる人たちは皆貧しい。社会的な勝ち組負け組で言ったら、負け組だろう。しかし、映画を見ていると、全然負けている感じはしないのだ。
 主人公の男(マルック・ペルトラ)は、暴漢に殴られ記憶喪失になるが、悲壮感はない。彼を支える人々もお金はなさそうだが、日々の暮らしをきちんと大切にしている感じだ。人は結構簡単に幸せになれるのかもしれないなぁと思った。
 話自体には別に意外性はないが、妙な味わいがある。役者の動きが全部ぎこちないのだ。「人と人が別れる」というシーンでは、2人が握手をしてくるりと向きを変え、本当に「別れる」だけだ。また、「抱きあう」シーンでも単に「抱き合う」だけ。余韻は全くなく、動詞のお手本のような動きでおかしくなってしまう。このぎこちなさが監督の計算なのか天然なのか、とにかく不思議な持ち味。監督は小津安二郎の大ファンだそうで、作風にも影響があるのかもしれない。セリフの少なさ(今回は多い方だそうだが)や固定されたカメラにそれが窺われる。
 そして役者は殆ど無表情。加えて主演男優は全く二枚目ではないし、ヒロインにしても正直不美人。しかしその非二枚目が男前に、不美人が何とも可愛らしく見えてくるのだ。他の人たちも皆味のある顔をしている。
 サウンドトラックに、日本からクレイジーケンバンドが参加している。男が電車の中で寿司(何故?)を食べるシーンで使われている。予告編でもお馴染みだが、突然日本語の歌が流れるので思わず吹き出してしまう。でもよくあっているのだ。他の曲はフィンランドの歌謡曲らしい。郷愁が漂っている。
 ちなみにこの映画関連で、いくつかのショップや旅行会社と提携したフィンランドフェアなども開催しているらしいが、この映画を見てフィンランドに行きたいと思う人は少ないのでは?と思うくらい景色は寂れた感じ。もちろん意図的にそういう風景を選んでいるのだろうが。

『ボイス』(ややネタバレです。ご注意ください!)
 韓国発ホラー映画。・・・貞子?と思わず呼びかけてしまうシーンを始め、日本のホラー映画からの影響が結構あるような気がする。エレベーターのシーンなどでは『呪怨』を連想した。また、ストーリーの本筋以外でも、女子高生が皆学校でメールをしていたり、携帯電話のアンテナにアクセサリーがいっぱい付いていたり、女の子の部屋にある香水がアナ・スイのものだったりと、日本との共通点が多い所も面白い。
 『リング』ではビデオテープが恐怖を呼び起こすが、今回恐怖を繋ぐのは携帯電話。ある特定の電話番号の使用者が、次々死んでいく。解約された番号が新しい契約者に引き継がれるというシステムを上手く活かしている。伏線の張り方も結構うまく、なぜ死んでいくのか、何が原因なのかが見えてくるまでが恐い。
 しかし見ていて一番恐かったのは、怪奇現象でも連続怪死事件でもなくて、女の執念。ある女性登場人物には、「貴女、明らかに遊ばれてますよ」と注意してあげたくなる。不倫相手が本気でないのがバレバレなのに、「彼が本当に愛しているのは私!」と何故そこまで?というような入れ込みようなのだ。思い込みが激しい&諦めが悪く、マイワールドをがんがん展開してくるので、見ていてイライラすることこの上なし。もうちょっと頭良くなってください・・・と見ているこっちがいたたまれない。そしてラストは怒涛の女同士の戦いに。恐っ!女って恐っ!!
 早い話が「浮気相手はよく選びましょう」という映画。・・・あれ?

『ヤマムラアニメーション図鑑』
 今年のアカデミー賞で、短編アニメーション部門に『頭山』がノミネートされた(残念ながら受賞は逃したが)、山村浩二の短編アニメーション特集。『頭山』を含む12本の上映だった。短編ながらもボリュームはしっかりとある。
 この作家のアニメーションの特色として、様々な手法がコラージュされているという点がある。特に『遠近法の箱』では、写真等も使っている。アニメーション部分も色々な画風を混ぜていて面白い。NHKで放送されていた『カロとピヨブプト』は2羽の鳥(?)が主人公のクレイアニメなのだが、クレイアニメにイラストアニメーションを付け加えたりしている。キャラクターが可愛い、和やかな作品だ。質感を表すのが上手く、特に水と魚の表現にはこだわりがあるらしい。度々このモチーフが出てくる。ボルヘスの「幻獣辞典」にインスパイアされたという『バベルの本』でも、海の波や大魚が出てくる。絵本を思わせる画風のアニメだが、ちょっと発想がありきたりな感が。
 そして落語をアニメ化した『頭山』。落語でアニメ?と思われるかもしれないが、絵本を思わせる和風かつソフトな渋い色合いの絵柄だ。この作品で、山村浩二はその凄みを見せ付けてくれる。頭山とは、頭に桜の木が生えて一躍観光名所となってしまった男の話。「男の頭の上で宴会が〜」「頭の上に出来た池で釣りを〜」なんて、言葉で言うのは簡単。でもそれを動画で表現しなければならないとなると、とんでもないことに。頭の上に来る人のサイズはそのまま、どうやってこれを表現するか。これをちゃんとやっちゃってるんですね。そしてラスト。男は自分の頭に出来た池に身投げする。凄いぞ。これは身投げしちゃうぞ。

『スパイダー 少年は蜘蛛にキスをする』
 人間の記憶は信用できない。過去の記憶は都合よく、いとも簡単に改竄され切り貼りされる。人間は都合の悪いことは忘れるのだ。ではあの時本当は何が起きたのか?
 かつてスパイダーと呼ばれる少年だった男(レイフ・ファインズ)は、自分の母親の死にまつわる記憶を手帖に記録している。彼は父親が愛人と共謀して母親を殺したと考えている。しかしその手帖に記した文字は、男にしか読めない特殊な文字なのだ。この映画の原作小説は、男の一人称で語られる。つまり、客観的な視点がなく、あくまで「私」にとっての世界なのだ。叙述トリックと言える様な形態なのだが、これを映像化するのは殆ど不可能だ。カメラが介入すること自体、第三者の視点が入ることになる。
 映画の脚本は原作者であるパトリック・マグラア。原作者が脚本を担当することで、原作のニュアンスを損なわない映画化が出来たのだと思う。一人称語りを過去の少年であった主人公と、現在の主人公の共演という形に置き換え、記憶の改竄、自己の分裂というテーマは強まったのでは。主人公は、少年の自分をそのまま保存し、現在にいたるまでの過程はすっぽり抜け落ちてしまっているようにも見える。しかしミステリ的な要素は薄くなり、母親の死の真相は、原作小説よりも早い時点で推察される。これは叙述トリックが使えない以上、仕方ないのだろうが。
 クローネンバーグ監督の新作映画となる作品だが、監督の持ち味であるグロテスクさは今回は控えめで、息を潜めるような雰囲気が全編に漂う。クローネンバーグ作品としては、かなり地味かつ話のつじつまが合っている方になるのではないだろうか。監督のグロテスク趣味は天然に吹き出てしまうのではなく、かなり計算して出力を調整していることが分かる。
 ラストは原作とは大きく異なる。映画版では少年時代の主人公と現在の主人公が統合されたかにも見えるが、それすらも主人公の幻想だとすると・・・どっちにしろ救いのない話だ。
 それにしても、このサブタイトルのダサさは何とかならんのか。

『シカゴ』
 ミュージカルはそのノリに乗れる人と乗れない人がはっきりと別れる。まあ登場人物がいきなり心情を歌い出したらひくわなぁとは思う。でも、この映画はミュージカル嫌いな人にもちょっと見て欲しい。アカデミー賞を取っただけのことはある。音楽、ダンス、美術どれも素晴らしい。
 物語の中で、実際のショーとして描かれるミュージカルシーンは、冒頭のヴェルマ(キャサリン・ゼタ・ジョーンス)のステージくらいで、あとは登場人物のセリフや心情としてのミュージカルシーンだ。最初のあたり、主人公ロキシー(レニー・セルヴィガー)が彼女の頭の中で心情を歌う所ではちょっと違和感を感じるが、すぐ慣れた。その後はとにかく楽しい!音楽ってステキ!ともう大満足。記者会見や裁判までミュージカル仕立なのは、「この世は全てショー」という弁護士ビリー(リチャード・ギア)のセリフとあいまって皮肉っぽく、おかしい。とにかく目立ったもの勝ち!な世界なのだ。殺人犯だろうが何だろうが、名前が売れたものが生き残る。刑務所にいながらセレブになりあがるロキシーや、更なる売名に励むヴェルマ、そしてそれを加熱させるが、あっという間に新しいスターに飛びつくマスコミ。更に金儲け大好き目立つの大好きなフリン、女囚を仕切る看守ママ・モートン(クイーン・ラティファ)等。皆、転んでもただでは起きないのだ。男も女も逞しいわー(笑)。ラストのオチにはもう大笑い。もうどこまでも行ってください。
 主演のセルヴィガー、ゼタ・ジョーンズ、ギアは歌も踊りも吹替え一切無しで頑張っている。特にゼタ・ジョーンズはこんなに歌って踊れる人だったのか!ともうびっくり。迫力のボディとの相乗効果でかっこいい!セルヴィガーはボディーでは見劣りしてしまうものの、演技力で浅はかだがしたたかな女を好演している。舌足らずな歌声も、役柄によく合っている。そして歌って踊るギアが見られるとは思いませんでした(笑)。これが意外と上手い。登場と同時に「僕は愛がほしいだけ」なんて空々しい歌を歌うのにはもう笑ってしまった。

『WATARIDORI』
 世界中の渡り鳥達を追いかけたドキュメンタリー映画。撮ろうと思った人もすごいが、撮っちゃったスタッフもすごい。何と撮影期間3年制作費20億円。とにかくスタッフの忍耐と努力の賜物なのだ。
 予告編を見たときから、どうやって撮影しているのだろうと思っていた。飛んでいる鳥を、本当に間近、至近距離で撮っているのだから。実は撮影対象の鳥たちは、卵の頃から飛行機の音や人間の声を聞かせ、近くに人間や撮影機械がある環境に慣らしてあるのだそうだ。だから間近で撮影しても逃げないのだ。そして鳥達についていくための、超軽量航空機。映画の中には出てこないが、パンフレットを見たら、自転車に羽がついたような形だった。これで鳥と一緒に飛ぶわけだ。何だか楽しそう(すごく寒そうだけど・・・)。
 ナレーションや、鳥の種類や渡りの性質に関する解説は殆どない。鳥の名前と、どこからどこまで渡るのかが字幕で説明される程度だ。観客は鳥が飛ぶ姿を延々と見ることになるのだが、全く退屈しなかった。編集の上手さもあるのだろうが、やはり鳥自体の魅力があると思う。よくここまで、という位、撮影スタッフが鳥という生き物の魅力を捕らえている。突然人間の銃に撃たれて落ちてしまう鳥や、大形の鳥に食べられてしまう雛鳥もいて、軽くショックをうける所も。
 でも見ていると鳥になりたい!と思ってしまう(笑)。生きることにただただひたむで、無駄がない。そして鳥だけではなく、その旅の舞台となる大自然の迫力!ドラマはないのにドラマティックな、不思議な映画。

『blue』
 10代の頃は、友達との関係がとても密になる時期がある。でもどんなに相手のことを好きでも、親友だと思っていても、全てを分け合うことは出来ない。でもそのことが納得できない。
 女子高生の桐島(市川実日子)は、ちょっと大人っぽい同級生の遠藤(小西真奈美)に憧れている。ふとしたきっかけで2人は仲良くなるのだが、遠藤は桐島が知らない世界を知っており、桐島はちょっと心もとない気持ちになることも。夏休み中、遠藤は突然いなくなる。桐島は遠藤の元クラスメイト・中野から、遠藤が昔の恋人に会いに行ったのだと聞かされる。帰ってきた遠藤は、友達と旅行に行ってきたと話し、お土産だといって桐島にブドウを渡す。桐島は「何で嘘つくの」と問いただすが、遠藤は「嘘じゃないよ」とはぐらかすだけ。ブドウは結局冷蔵庫の中で腐り、ゴミ箱へ。
 親友といえる友人にでも、言いたくないこと、知られたくないことはある。親友なんだから何でも話してよというのは、傲慢とも言える態度だ。でも桐島にはまだそれが分かっていなかったのだろう。しかし、桐島も徐々に絵画という自分の世界を作り始める。そうすると、今度は遠藤が置いてきぼりのようになるのだ。2人で並んで歩いてかれるのは、ほんの一時なのかもしれない。
 この映画には、高校時代の友人に対するそんな微妙な感情が詰まっている。空や海の空間が広い場面が多く、タイトルの通り全体が青い色調だ。少女達のセリフの少なさを、その空間が補っているような映画だった。一晩中2人で歩き回るシーンや浜辺に座っているシーンが印象的。景色と人物が一体になっている感じがした。
 主演の2人がいい。特に市川実日子の存在感は際立っている。原作のイメージとも合っていた。個人的には、中野役の今宿麻美がクールな雰囲気で印象に残っている。

『ベッカムに恋して』
 タイトルがあんまり・・・というかミーハーな感じなので、実はあまり見る気がなかった1本。でも見てみたら、全然ミーハーではない。元気が出るガールズムービー。多少のご都合主義は大目に見てしまおう。
 ジェス(バーミンダ・ナーグラ)は系イギリス人家庭の二女。サッカーが大好きだが、「女の子が半裸で走り回るなんて!」と両親はいい顔をしない。ある日ジェスは公園で、女子サッカーチームのメンバー・キーラ(ジュールズ・バクストン)に、チームへの加入を誘われる。両親は絶対反対なので、こっそりと加入するのだが・・・
 ベースは少女漫画系スポコンで、恋あり友情あり、の王道なのだが、ジェスがインド系イギリス人だということが意外性になっている。両親はインドの風習を大切にしているので、娘がサッカーをやるなど論外。ジェスがキーラの家に遊びに行った時も、キーラの母親はジェスを見てついうろたえてしまい、「インド人の女性らしさをキーラにも教えてやって」と的外れなことを言う始末。また、ジェスの家庭内の風習や姉の結婚を巡るごたごた等、イギリスにおけるインド系家庭の様子が窺えて、興味深い。やっぱり女性に対する抑圧は強い文化なのかなー、と。また、ジェスが試合中に相手から「パキ(パキスタン人)」といわれて激怒する所等、日本では分かり難いニュアンスもあった。
 ジェスの家族も興味深いのだが、キーラの両親も面白い。こちらの方は、そういう親っているよね!と笑ってしまった。キーラの母親は、娘がオシャレをしないし、かわいい服を着ないことが不満。更に、ボーイフレンドが他の女の子と仲良くしていても無関心なのにも不満。キーラ自身はサッカー第一なので、ボーイフレンドのことはどうでもいいのだが・・・。挙げ句の果てには、ひょんなことからキーラはレズビアンでジェスと付き合っているのでは?!と思いこんでしまう。誤解は解けたものの、「じゃあ私がレズビアンだったら何だってのよ!」とマジギレするキーラに、「そんな、全然気にしないわよ」。ってめちゃめちゃ気にしてただろうが!
 サッカーシーンよりも、こういう家庭内のわたわたぶりが楽しめた。我が路を進む女の子達は応援したくなる。ストーリー自体はベタだが、主人公のバックグラウンドをきちんと描くことで好感度が上がり、女の子達を応援したくなる。それにしても、サッカー発祥の地イギリスで、まだ女子リーグがなかったとは意外。やっぱりアメリカと比べると保守的なのだろうか。
 ちなみに、女子チームのコーチ役がジョナサン・リーズ・マイヤーズなのだが、普通の人役の彼を初めて見た(笑)

『パンチドランク・ラブ』
 『マグノリア』が絶賛されたポール・トーマス・アンダーソン監督、通称PTAの新作。
バリー・イーガン(アダム・サンドラー)はトイレの詰まりを取る吸盤棒を売るセールスマン。いきなり癇癪を起こす癖があり、女性は苦手。彼には7人のお姉さんがいて、散々からかわれて育ってきたのだ。そんな彼が、姉の同僚レナ・リナード(エミリー・ワトソン)と恋に落ちる。彼女を追いかけてハワイに行く為に、キャンペーン中で「買うとマイルが溜まる」プリンを大量に買い込む。
 バリーはいきなり走り出すし叫ぶしと、挙動不な所がある。妙に要領が悪かったり、生真面目だったりと、見ているとイライラする。しかし、レナへの不器用な対応を見ているうちに、段々かわいく見えてくるのだから不思議だ。正にPTAマジック?更にレナの方も、バリーの写真を見て一目ぼれし、こっそりと彼のオフィスに来てしまったというのだから、こちらも結構クレイジー。というか、アダム・サンドラーの顔に一目ぼれってのがクレイジーな気も(笑)。
 不思議といえば、この映画の作風も不思議。冒頭、走ってきた車がいきなり横転・クラッシュする。道端に突如ピアノが捨てられる。そんな唐突なシーンが多い。『マグノリア』では群像劇ということで、巧みな、流れる様な編集が見られたが、今回はわざとラフに編集したかのようだ。上映時間も1時間半くらいと短い。一見そっけない感じだが、奇妙な魅力があって、じわじわ浸透していく。主演の二人も美男美女ではなく、ちょっと微妙な顔(笑)。でもそれがキュートに見えてくるのだ。音楽もちょっとキッチュな感じで良い。
 好みがはっきりと別れそうな映画だが、私はラストシーンを見てとてもハッピーな気持ちになった。どこがどういい、と説明するのが難しい映画なのだが、これはスイートですよ、スイート(笑)。

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