2月

『SWEET SIXTEEN』
 最近のイギリス映画で必ずといっていいほど描かれるのが「貧乏」。ヒット作『ブラス!』、『フル・モンティ』、『トレインスポッティング』にしろ、少年ものである『リトル・ダンサー』、『シーズンチケット』にしろ、主人公は中流より下の生活をしており、イギリスって明らかに階級制が残っているのね、サッチャーの負の遺産ってやつね、と問題の根の深さに妙に納得。この映画の監督であるケン・ローチは社会派であることで有名。彼の映画の主人公は、大概貧乏だったり失職していたりしている。いわば社会の底辺の人々だ。
 この映画の主人公・リアム(マーティン・コムストン)も明らかに貧乏だ。16歳の誕生日を控えたリアムは刑務所から出所してくる母親との暮らしを夢見て、ドラッグを売り資金稼ぎに励む。頭がよく仕事も上手くこなすが、天体観測が好きだったり、母親へメッセージを吹き込んだテープを送ったりという子供っぽさも残っており、どこかアンバランスだ。
 リアムの母親はドラッグ中毒で、おそらく恋人(リアムは母子家庭)の商売であるドラッグ売買を手伝って逮捕された。彼女は恋人に暴力を振るわれても別れることが出来ず(いわゆる共依存か)、ドラッグとも縁が切れない。客観的にみるとどうしようもない母親なのだが、母親を慕うリアムには彼女のどうしようもない面が見えていない。見えない振りをしているのかもしれない。姉のように母親に見切りをつけることができないのだ。「家を買って母と姉と幸せに暮らす」というリアムの夢はどうも実現不可能に見える(家は買えても母親は男のもとへ戻るだろう、彼女にとってリアムは一番大切なものではないだろうという気配が見える)。が、リアムはそれを認めようとしない。リアムの夢は、いっそ子供っぽいくらいだが、その分切実で痛々しい。
 またリアムは、トラブルメーカーである友人・ピンボールを見切ることができない。リアムの友情を失ったと勘違いして暴走するピンボールは、結局リアムを窮地に追い込むことになる。いっそ母親も友人も見切ってしまえば、もっと楽に上手に生きていけるはずなのにと、見ていて歯がゆくなってしまった。

 
ケン・ローチはリアムを弁護したり哀れんだりすることなく、淡々と、しかし容赦なく描く。リアムのビジネスが新たに彼の母親のようなドラッグ中毒者を生み出すことを指摘する。しかしリアムは生き生きとしている。生き生きとしたままラストの悲劇へと突き進む。タイトルは皮肉に他ならない、苦い映画。

『アカルイミライ』
 黒沢清の映画が「アカルイミライ」って何かの冗談でしょ、と、この映画について初めて知った時に思った。黒沢清のシリアス路線映画といえば、夢や希望や「アカルイミライ」とは東京とスカンジナビアくらいにかけ離れていると思っていたから。今作では今までの黒沢作品では「ありえねぇ!」というようなセリフが見られて、どういう心境の変化かと興味深かった。
 おしぼり工場でアルバイトをする雄二(オダギリジョー)と守(浅野忠信)は、弟と兄のような関係だ。雄二は感情のコントロールが下手で、時々暴走する。守はそんな雄二のストッパー役として、「待て」と「行け」の合図を決める。腕を「行け」の合図の形に固めたまま自殺する。残された雄二は、なりゆきで守の父親・真一郎(藤竜也)の仕事を手伝うようになる。
 守は猛毒のクラゲを飼っており、雄二にそれを託す。雄二は守に取り付かれたかのようにクラゲを飼育する。このクラゲが川に逃げて増殖し、川中クラゲで埋まるシーンがあるのだが、これどうやって撮ったんだろう。
 雄二、守とバイト先の上司や真一郎の間には明らかにジェネレーションギャップがある。守も雄二も上司の妙にフレンドリーな言動にイライラするが、「こんなオジサンいるよなぁ」と思わず苦笑(もっともこのオジサン、守に殺されてしまうのだが)。一方、もうひとりの大人である真一郎は、息子である守のことを結局理解できなかった。真一郎はその空白を埋めるように、雄二と擬似親子のような関係になる。真一郎はどこか不安定な雄二を捨て置けず、仕事を手伝わせ、世話を焼き、時に説教する。真一郎と雄二がトラックに乗るシーンは、二人の間に黒い空間が入るという妙な構図で撮られており、2人の間のギャップを象徴しているかのようだ。彼が雄二を「許す」と抱きしめるシーンは、雄二の抱える暴力性や困難、そのギャップさえもひっくるめて抱きしめるという、確かにこの映画のクライマックスではある。しかし、雄二は間も無く真一郎のもとを去るだろうことも予感される。真一郎は自分が既に過去の人間であることを自覚し、雄二を送り出していくかのようだ。
 雄二は未来の夢を見るという。砂嵐の中をひとりきりで歩き、前は見えない。それは従来の意味での「明るい未来」ではないだろう。しかしその先が不幸であるとは限らないし、進むほかない。ラスト、クラゲのように浮遊していた少年たちが表参道を歩いていく(何故か全員チェ・ゲバラのTシャツを着て)。それこそ「アカルイミライ」を目指して。
 雄二役のオダギリが非常に良い。正直、こんなに良い演技のできる役者だとは思わなかった。この映画を撮っている間にどんどん上手くなっていったのではないだろうか。見ている方が息苦しくなるような不安定な若者を演じている。浅野はさすがの存在感。穏やかさの間に狂気が垣間見られる。藤も色気と情けなさの入りまじった好演だった。テーマソングに抜擢されたTHE BACK HORNの『未来』も良い。

『レッド・ドラゴン』(完全にネタバレなのでご注意を!)
 ハンニバル・レクターシリーズの第三作目にして、『羊たちの沈黙』前日談。今回はレクター博士(アンソニー・ホプキンス)はさほど活躍しない。主に動くのは、レクター博士を逮捕したFBI捜査官ウィル・グレアム(エドワード・ノートン)だ。
 私は原作は未読なのだが、この映画では最初から、犯人も犯人へとたどり着く手がかりも、被害者が何故選ばれたのかも、観客には示されている。よってミステリ映画としての要素は殆どない。個人的には、これはモンスター映画の一種ではないかと思う。ウィルは犯人の心理を想像しトレースできるという才能があるが、同調しすぎて犯人と同じ側へ行ってしまいそうな危うさを感じており、家族にしがみつくことにより、かろうじて踏みとどまっている。レクター博士はそれを見抜き、「君は私と同じ種類の人間だ」と告げる。D(レイフ・ファインズ)は犯行を重ねることでモンスターを越える、神と同等の力を得ようとする。しかし、盲目の女性(エミリー・ワトソン)とほのかな思いを通わせることがきっかけで、自分の中のモンスターとの対決を試みるようになる。そしてレクター博士は自分がモンスター(最高レベルの知識と美学を備えた!)であることを認めているが、自分のレベルまで登ってきてくれる人を待っている。3人とも一般的な社会からは外れてしまった(グレアムは家族と共に生きることで踏みとどまっているものの、一旦はFBIを退職している)アウトサイダーだ。フランケンシュタイン的な、モンスターの哀しみとでもいうべきものが、全編に漂っている。
 今作の見所は、猟奇殺人のエグさでも犯人探しでもなく、グレアムとDの、自身の中のモンスターとの戦いではないだろうか。Dが愛する女性さえ殺してしまいそうになる自分に対して、「お願いだ、少しでも彼女を俺のものに・・・」と呟くシーンは、彼が殺人鬼だとわかっていてもなお切ない。
 今作の監督は、何とアクションコメディー『ファッシュ・アワー』シリーズのブレット・ラトナー。人気シリーズ3作目という重圧があっただろうが、十分に健闘している。役者陣は芸達者揃い。エドワード・ノートン(この人、まゆげ犬に似ている気がしてしょうがない・・・)は知性とナイーブさを備えた好演を見せている。そしていつもは美形インテリ系の役が多いレイフ・ファインズが、今回は巨大なコンプレックスを抱えた男を熱演。アンソニー・ホプキンスは相変わらず人間離れしている。この人はもういるだけで十分な気が。
 グレアムは自分がレクターと近い人間であることを自覚しつつも、家族を守ることで一線を踏み越えなかった。もしクラリスに家族がいたら、『ハンニンバル』はあのような終わり方になっただろうかと考えてしまった。

『青の稲妻』
 中国の若手監督ジャ・ジャンクーの長篇3作目。何とも殺伐とした映画だ。19歳のシャオジイ(ウー・チョン)とビンビン(チャオ・ウェイウェイ)は中国の地方都市・大同に住んでいる。定職に就かずフラフラとする毎日だ。やりたいこともないし、この日常から脱出できる見込みもなし、やる気も無い。ニュースでは中国のWTO加盟や、北京オリンピックの開催決定、高速道路の開通で盛り上がっているけれど、それが自分たちの生活を好転させるわけではない。この出口なしの感覚、「世界」と自分との関係性がつかめない感覚が、日本の現代の若者とも似通っているのでは。
 シャオジャイとビンビンはよくバイクに乗っている。二人乗りしているシーンが微笑ましいが、バイクを乗り回しても行くあてはない。シャオジャイがバイクをぬかるみにはめてしまって悪戦苦闘するシーンが、彼らの現状を表している様で象徴的。原題は「Unkown Pleasure」。まだ見知らぬ享楽を求めて走りつつも、どこへも行かれない閉塞感が漂う。ラストにビンビンが歌う歌は、中国の流行歌だそうだが、何とも皮肉なシュチュエーションで歌われる。

『ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔』
 世界待望の三部作第二弾。もちろん私も待望の第二弾。その迫力に、冒頭からラストまで口が半開きのままだった。もっとも、映画の良し悪しとは全く関係ない所で喜んでしまった気がなきにしもあらず。
 この物語はRPGの原典とも言える話なわけで、話の意外性は皆無といっても良い。その意外性のなさを、物語世界構築の細かさと質量の膨大さで(実際有り余るくらいに)カバーしている。この映画最大の見所は、ピーター・ジャクソン監督の「俺が作りたかったこの世界を見やがれ!」という桁外れの情熱にある。もう指輪が好きで好きでしょうがないのね!というのが分かりすぎるくらい良く分かる。スタッフも俳優たちも、果ては製作会社までがこのクレイジーな情熱にあてられちゃったんだろう。映画の出来の良し悪しとはまた別に、監督の情熱というか妄執が垣間見られる映画は、変な味が出て面白くなる場合が多々あると思う。いくら端正に出来ている映画でも、この妄執じみたものが無い映画は物足りない(あくまで個人的にだが)。ピーター・ジャクソンを胴上げしたい気持ちでいっぱい(あのボディには潰されそうだが)。
 今回のクライマックスは、前評通りに映画史に残りそうな大戦闘シーン。このシーンの為だけにでも見る価値あり。ファンタジーというより、戦争映画に近い。とにかく敵も見方も容赦なく死ぬ。戦いに赴く人達の家族の悲嘆、怯える人々、積み重なる死体にはファンタジーと聞いて連想されるようなきらびやかさや軽やかさは見られない。国民を負け戦に巻き込まざるを得なかったローハンの王の悲嘆が印象的だった。
 と、まあ無難な感じで感想をまとめてみたものの、今回の私は極めてミーハー的に盛り上がってしまった気がする。ぶっちゃけ、アラゴルン(ヴィゴ・モーテンセン)とレゴラス(オーランド・ブルーム)ばっかり見ていた気がしますよハッハッハ!(やや壊れ気味)。レゴラスは今回セリフも見せ場も増えていて嬉しい限り。戦闘シーンでは美味しいところをかっさらっていた。個人的には、原作にあったギムリ(ジョン・リス=デイヴィス)との「倒した敵の数カウント合戦」が実現していて嬉しかった。役者陣については語り始めると切りが無いので語らないが、語りてぇ!という方、メールをお待ちしています(笑)。今ならいくらでも語れます(大笑)。とにかく見た後語りたくてしょうがなくなるみたい。私が見に行ったときも、上映終了後、客が皆語っていて可笑しかった。
 誤解を恐れずに言うなら、非常にオタク的な映画だと思う。全世界のオタクが喜びそうだと思う。日本版パンフの解説が押井守と荒俣宏なあたり、製作サイドもそれを分かっていると思う。もちろん、オタク的感性とは全く縁遠い方でも楽しめると思うが。

『猟奇的な彼女』
 韓国で「猟奇的」というと、若い世代の間で「ちょっとか変わっていてイケてる」という意味で使う言葉だそうだ。「彼女」(チョン・ジヒュン)は正義感が強くて口癖は「ぶっ殺すよ!」。ルックスもかわいい。でも、この「彼女」ってそんなにイケてるのか?
 彼女に一目ぼれしているキョヌ(チャ・テヒョン)に対しては常に強気で命令口調。カフェで頼んでいいのはコーヒーだけというのは、「いやコーラくらい飲ませてやれよ!」てな感じでひいてしまった。キョヌに「(キョヌの穿いているスニーカーと)取り替えて」と言ってハイヒールを穿かせ、おいかけっこをする場面にいたってはもう極寒。イタい勘違い女にしか見えないのだ。身の程を知れって感じだ。キョヌが譲歩してくれているから成り立っている関係なのに、その自覚が薄いような。彼女の見合い相手にキョヌが「彼女と付き合う際の禁止事項」を教えた(禁止事項が分かるくらい彼女のことをちゃんと見ていた)と知って、やっとキョヌが自分に必要だと気付くあたり、「遅いわ!」と突っ込みたくなってしまった。
 構成といい演出といい、どうも稚拙な所が目立ち、ストーリーに乗れなかった。彼女が抱える「切ない秘密」とやらも、唐突でとって付けた様な感じがある。ラストのオチに関しても?という感じ。その前の地下鉄のシーンで終わらせた方がスマートだったと思うが。

『裸足の1500マイル』
 実話を元にしているというから驚きだ。舞台は1931年のオーストラリア。当時、先住民族アボリジニの混血児を家族から離し、白人社会に適応させようとする隔離・同化政策がとられていた。その混血児収容所から脱出し、大陸を横断する兎よけフェンスを目印に、2400キロを故郷目指して徒歩で旅した、3人の少女の物語だ。
 現代から見れば、隔離同化政策など人種差別に他ならないのだが、アボリジニ保護局の局長ネビル(ケネス・ブラナー)を始め、少女達を収容施設へと連れて行った白人達は、むしろ良いことをしていると考えている。「無知な原住民を教育しなければならない、キリスト教により救わなければならない」と考えているわけだが、アボリジニには彼ら独自の生活と信仰があるわけで、大きなお世話に他ならない。こういう時代がたかだか70年前だと思うとショックだ。そして人種問題に限らず、客観性に欠けた、無知な善意は悪意よりも始末におえないことは多々ある。
 監督のフィリップ・ノイスは、『今そこにある危機』や『ボーンコレクター』を手がけた中堅監督。ハリウッドのエンターテイメント作品とはがらりと作風を変えて、派手な演出を押さえた作品となっている。撮影はウォン・カーウェイとの仕事で有名なクリストファー・ドイル。期待通りの美しい映像で、オーストラリアの雄大かつ過酷な自然を描いている。主演の少女達の表情が力強く、特に主人公モリー(エヴァーリン・サンピ)の目が生き生きとしていた美しい。
 原作はモリーの娘が書いたノンフィクション小説。実はモリーは、この映画で描かれた旅の後も、結婚後に、子供と共に居留地に入れられた。モリーは長女を居留地に残し、赤ん坊だった次女を連れて徒歩で脱走したそうだ。しかし次女は連れ戻され、二度と会うことは無かった。長女とモリーは30年後に再会し、このノンフィクション小説が書かれたと言う。

『刑務所の中』
 刑務所を舞台とした映画は、古今東西たくさんある。たいていの場合、刑務所内では暴力だったりレイプだったり虐待だったり派閥争いだったりはたまた脱走だったりと、バイオレンスかつスリリングだ。しかしこの映画には暴力はもちろん、スリルもサスペンスもない。あるのは淡々と過ぎていく、単調な日常だ。何なのこの長閑さは。何だか修学旅行のようなノリなのだ。もちろん実際の刑務所はもっと殺伐としているのだろうが、管理されているが故の平穏さがある。
 とにかく毎日毎日同じことの繰り返しなので、ささいなことが受刑者たちの楽しみとなる。まず毎日の食事。スープに入っていたナルトの数や、正月につくお節料理やお菓子、映画鑑賞会で出る「アルフォート」。甘いものは希少価値があるらしい。そしてお風呂の時には受刑者仲間の乳首がいかに黒いかを観察したりする。ちょっとのことが大事件なのだ。
 刑務所の中なのに何だか楽しそう、と思ってしまうのは、主人公ハナワ(山崎努)の、何でも面白がってしまう性格によるところが大きいだろう。ハナワはとにかく観察する人だ。何でも「よし、みてやろう」と一生懸命見る(時々見るのを忘れてしまう)。こういう人にとっては、「お仕置き」の為の独房さえ、居心地のよい充実した空間になる。実際ハナワは「すっごく充実している・・・」と呟く。こういうタイプの人にとって果たして刑務所は罰になるのだろうか(笑)。
 コメディではないのに、見ている間、笑の絶えない不思議な映画だった。出演している役者が皆クレバーで、よくまぁこんなに説得力のある顔をそろえたなぁといった感じ。こっそりと豪華な出演者もあり。

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