2月

『ケリー・ギャングの真実の歴史』
  ピーター・ケアリー著、宮木陽子訳
 実在したギャング、ネッド・ケアリーの一生を、彼が自分の娘に宛てた書簡という形で描く。子供の頃の文章はつたなく、(日本語訳なので)ひらがなが多い。徐々に文章がこなれ語彙が増えていくという芸の細かさ。章ごとに書簡が書かれていた紙の種類まで記載されている。ネッドは、オーストラリアでは大変有名なヒーローだそうだ。ギャングなのだが好き好んでギャングになったのではなく、貧しい環境や警察からの執拗な嫌がらせによって、結果的にギャングになってしまったという側面が強いみたいだ。実際は家族や友人を愛し、真っ当に生きようとしていたのに、全部裏目に出てしまうのが皮肉でもあり悲しくもある。特に母親への思慕によって人生を狂わせてしまった側面があると思う。こういうヒーロー像が庶民から支持されていたということは、いかに権力者(といっても地元の警官とか牧場主レベルだけど)から庶民が押さえつけられ苦しんでいたかということなのだろう。ちなみにギャングなんだけど妙に長閑でもあってそこが可笑しい。

『移民たち 四つの長い物語』
  W.G.ゼーバルト著、鈴木仁子訳
 4人の移民たちの物語。ドイツである時代を振り返る際には、やはりあの戦争、そしてナチスを避けては通れないのだろうか。晩年になってから唐突に自殺してしまった老人や、あるいは緩慢に死へ向っていった男のように、その記憶は人を苛むが、また記憶のないことによっても人は蝕まれる。悲劇ははっきりとは語られない(四つの物語は全て伝聞によるものだから)が、そこに何かがあるということだけは分かる。巻末の堀江敏幸による解説でも言及されているのだが、その何かがあるという気配は、挿入されている写真によってより補強されている。それが何を指す写真なのか説明は殆どついていないのだが、何かがあるという臭いがするのだ。(著者の他の作品でも同様らしいのだが)写真込みで一つの文学となっていると思う。それにしてもこのペシミズム!

『鳥だけが見ていた』
  J.ウォリス・マーティン著、布施由紀子訳

 イギリスの田舎町で、少年の失踪事件が相次いだ。パーカー警視はある男に目をつけたが、捜査線上に大量の鳥と廃屋に暮らしている、ローリーという男が浮かんでくる。結構上手いし面白いはずなのに、読んでいてどうにも興が乗ってこないのは、児童誘拐殺人という題材のせいか。下手に雰囲気作りが上手くてこなれているもので、余計に胸が悪くなっていくるのよ・・・。鳥とローリーに惹かれる、というよりも他によりどころがないという少年の孤独が痛ましい。

『旅先でビール』
  川本三郎著

 旅にまつわるエッセー集。口当たりは軽めで、どうということもないと言えばそれまでなのだが、ある土地の話からその土地に関連のある映画や小説の話に、ぽんと飛ぶところが楽しい。博学な著者ならではか。それにしてもよくそんなことまで知ってるなーということがいっぱいあった。旅といっても有名な観光地に行くのではなくて、ご近所やひなびた田舎の駅に行くのだ。著者は電車好きで、電車での旅ばかり。そしててくてくとよく歩く。歩き疲れた頃にそのへんの食堂でご飯とビール。こういうふらっと出かける旅行もいいなー。

『蝿』
  ジョルジュ・ランジュラン著、稲葉明雄訳
 映画『ザ・フライ』の原作である表題作を含む、ちょっと不気味な短編集。もっとも化学っぽい(といってもなんちゃって化学だけど)ネタを使った作品は、今となっては古さが否めない。題名で内容の予想がついてしまうような所もある。それでも結構ハラハラしつつ読めてしまうのは、展開が上手いからなのだろう。最後のオチが鮮やか。特に「奇跡」はシニカルでありつつ溜飲が下がるというか。「彼方のどこにもいない女」は痛ましくも不気味で、「他人の手」は恐い!そんな中「安楽椅子探偵」で和み「最終飛行」にじんわりした。

『死ぬほどいい女』
  ジム・トンプスン著、三川基好訳

 訪問販売員のドリーは、訪問先で強欲な老婆につかまる。辟易するドリーだが、老婆の家の中には死ぬほどいい女・モナがいた。ファム・ファタールに巡り合ってしまった男がどんどん転落していく。ドリーの一人称による小説なのだが、段々彼が周りが見えなくなっていく、自分に都合のいいことしか見なくなっていくさまには、何とも嫌な気持ちになる。が、面白い。文章に一種のドライブ感があるというか、ドリーの意識が混濁していく過程がそのまま小説になっているような感じで、特に最終章はちょっと凄まじい。いわゆる良く出来た小説とは違うが(後半展開が破綻してるし)、得体の知れないものがドロっと出てくる瞬間を捕らえてしまったような感覚があった。

『隣りのマフィア』
  トニーノ・ブナキスタ著、松永りえ訳

 マフィアが町にやってきた!ヤアヤアヤア!とでもいうべきユーモラスかつシニカルかつバイオレンスなマフィア小説(なのか?)。フランスの田舎に越してきたアメリカ人一家。実はFBIの証人保護プログラムによって身を隠しているマフィア一家だった。しかしフランス人とウマが合わない家長・フレッドを筆頭にむしろ目立っちゃってますから!案の定マフィアの皆さんが暗殺に駆けつけてきますから!フランス人がデフォルメして(何事にも一薀蓄垂れ、クレームはのらりくらりとかわすなど)描かれているが、作者はフランス人。脚本家でもあり、最近では『真夜中のピアニスト』に参加している。一応サスペンス小説っぽいのだが、終盤に向えば向うほどギャグとしか思えない展開に。個人的には余分とも思える第5章が好き。

『処刑前夜』
  メアリー.W.ウォーカー著、矢沢聖子訳
 記者モリーが取材対象にしていた連続殺人犯ルイの死刑が決定した。しかしモリーの元に奇妙な手紙が届き、かつての被害者の夫の後妻が殺害される。しかもルイは処刑を目前にして無罪を主張し始めた。果たして真相は?著者の前作『凍りつく骨』よりもスタンダードなサスペンスになっていて(構成が上手くなったんだと思う)、こちらのほうが明らかに面白い。日数が限られた中で真相を追うという設定なので、読むなら一気読みをお勧めしたい。ちょっとづつ楽しむ類の小説ではないと思う。二転三転して面白いのだが、最後は犯人の自白に頼ってしまう所がちょっと残念。ここで犯人がアクションを起こす必要がないんだよなー。まあ気になるほどの粗ではないのだけど。

『神の名のもとに』
  メアリー.W.ウォーカー著、矢沢聖子訳
 小学生を乗せたバスが、カルト集団にバスジャックされた。運転手と子供たちは人質に取られ、FBIが交渉を始めるものの全く進展がない。以前カルトのリーダーにインタビューをしたことがあった記者モリーも事件に関わることになるが。モリー・ケイツシリーズ第2作だが、モリー自身は今回はそれほど活躍しない(例によって色々危ない目にはあっているが)。今回の真の主人公は、バス運転手だろう。子供好きでもないし特別強い人間でもない彼が、極限状態の中で人間としての真っ当さを保ち、過去を克服していく様が心を打つ。・・・でも読んでてぐったりする・・・。

『容疑者Xの献身』
  東野圭吾著

 これ、切ないのかなー。切ない話として売っているみたいだけど微妙だなー。ミステリのトリックとしては、ああその手があったかーという感じなのだが、話自体(というか容疑者X)は馬鹿と天才は紙一重というか・・・。こういう「献身」は献身を受ける側も相当な覚悟が必要で、誰もが彼のように強いわけではないというのが、彼の計画の最大の瑕だったのだろうか。しかしきちんと捜査すればあっさりバレそうなトリックな気がする。外堀はがちがちに固めてあるけど内側は意外にやっつけ仕事というか。

『スクラップ・ギャラリー 切り抜き美術館』
  金井美恵子著
 普段あまり目にすることはないが、密かに愛好している美術品を、自分の好きな作家がひょいと紹介してくれると妙に嬉しい。いかにも著者が好きそうなものから、こんなのも好きなんだ、という意外なものまで。ルノワールなんて著者の作風からはほど遠いような気がしていたが。しかしルノワールにしても父ではなく息子から入るというところは著者らしい。カラー図版が多いところもうれしい1冊だった。ところで高橋源一郎に関して触れている部分が妙に辛辣なのだが、気に食わないのかしら(笑)。

『現代小説のレッスン』
  石川忠司著
 私の頭が悪いのだろうか。著者の言う「文学のエンタテイメント化」の定義が最期までよくわからなかった。文章の「かったるさ」というのは感じ方に個人差があるので、どのくらいだとかったるいことになるのか迷う。照れがあるのか何なのか、文章が時々、インターネット的な文というかブログにUPされている文学批評のような、内輪的なノリになるのはちょっと頂けなかった。ある程度「わかってる」人に向けて書いているというのなら、それもありなのかもしれないが。ちなみに著者言う所の、金原ひろみの「健全さ」というのは、全くその通りだと思う。

『最後の注文』
  グレアム・スウィフト著、真野泰訳

 訳文が抜群に素晴らしい。「〜ちゃん」の使い方がこんなにはまっている翻訳小説は珍しいと思う。4人の男が死んだ友人(父親)の遺骨を撒くため、海へドライブする。章ごとにそれぞれのキャラクターの一人称で書かれており、彼らの歴史、そして秘めていることが段々わかっていくというパズルのようなところがあった。友人同士であってもお互いに秘密があるし、後ろ暗い所もあるのだが、それによって友情が損なわれるということではなく、それをひっくるめての友情であるというのが、人と人の距離の取り方としてとても良い。ジョン・カサヴェデスの映画『ハズバンズ』を思い起こした。

『男たちの絆、アジア映画 ホモソーシャルな欲望』
  四方田犬彦、斎藤綾子編

 約10年前にセジウィックが提唱したホモソーシャリティー(本書内の解説によれば、男女を問わず、同性同士の排除的な絆をもっぱらとし、異性をその絆の強化確認の為利用するシステム。ただし同性間の関係の安定性を脅かすホモセクシュアリティは激しく忌避される)の視点から読み解いたアジア映画論。日活アクションから『覇王別姫 さらば我が愛』、そして香港ノワールや韓国映画まで、日本、中国、韓国の論者による批評集だ。特にアン・ニによる『さらば〜』論は、この映画の構造をより明確にしている力作だと思う。以前見ていた時(情緒寄りに見ていたので)にひっかかっていたことが、すっきりとした感じが。

乱雑読書TOP  HOME